2024-10-31


東南アジア児童買春に関するポストがバズってた椎木透子って人、

何処かで名前を見たような気がして検索してみたけれど、震災後の福島に関するドキュメンタリー映画を作ってた人なんだね。

『この空を越えて』

椎木透子 監督インタビュー

次世代につなぐ未来手紙

https://www.yidff.jp/interviews/2019/19i120-2.html

震災が起きたことは、ネットを通して知りました。私は普段アメリカ在住で、震災当時もアメリカ暮らしていたんです。

この人、東日本大震災当時はアメリカにいて、福島どころか日本での震災での当時の経験すらないみたいなんだけど。

そんな人が作る福島ドキュメンタリーって、上記買春クソキモポストの件と合わせると、被害矮小化して援助の手を断ち切る目的しか感じなくなってきたな。

あと、これ。

その活動が2年目に入った時に、福島の子どもたちを対象にしたプロジェクトを行うことになりました。結果的にその活動ちゃんと届けることが出来なかったのですが、諦めきれずに、福島の9~15歳の子どもたちにアンケートをお願いして、彼らの思いを知ることができました。そのなかで、私をハッとさせた答えがありました。それは、「私たち震災で大変な思いをしたけど、可哀想ではない。そう受け取らないでほしい」というものでした。

福島の子供達から私たち震災で大変な思いをしたけど、可哀想ではない。そう受け取らないでほしい」と言われたらしいけれど。

それって言葉通りに受け取っていいものなのか?って思う。

実際に震災被害を受けたし、風評被害もあるし、そもそも震災以前から過疎化が進む地方で大変なのに。

この人は多分、きっと東南アジア売春させられている少女に対しても同じように思ってるんでしょ、「可哀想なんかじゃない」って。

福島出身でかつて子供だった大人の一人として、当事者の言う「可哀想なんかじゃない」を安易に美旗に使ってはいけないと思うんだよね。

可哀想なんかじゃない」って、そりゃ当事者は言うよ。子供なら尚更。同情されるのは惨めな気持ちになるし、辛い事だから

自分も昔はそう思ってた。自分可哀想なんかじゃない、可哀想なんて思われたくないって。

でもいざ大人になってみるとやっぱり客観的に見たら自分は十分「可哀想だった」し、

可哀想なんかじゃないと言って何もしてくれない大人よりも

可哀想だと言ってても確実に支援してくれる大人の方が有難いんだと分かる。

子供相手に限らず、最近はとかく理論武装して他人を直接助けない事を正当化する言説が盛んだよね

魚を与えるよりも魚の捕り方を教えろみたいな言説もそう。

可哀想なんかじゃない」という言葉当事者が使うならともかく、外野安易にその言葉に乗ってはいけないと思う。

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