はてなキーワード: 卒業式とは
で、学生時代を思い出した。
私が人生で一番楽しかった時期が大学1・2年であり、逆に3・4年がとてもつらかった。
1・2年までは部活動が楽しくて充実していたが、3年から研究室に入るようになったのだが先生が合わなかった。というか研究が合わなかった。
学ぶこと自体は好きな分野なのだが、じゃあ何がしたいのか?問い詰められて何もでなかった。
4年になりみんながテーマを決めて研究を進める中、一歩も進まない自分。
就職も決まらず、付き合っていた恋人とは別れ、大学にも通えず風呂にも入れず一日中布団の中で過ごす毎日。
当然留年した。卒業式には出なかったが、遠くへ行ってしまう友達には会いたかったので大学には来た。
それでも同級生の華やかな姿は見たくなかったのでトイレの個室で待っていた(電気消された)
とりあえず親からは「二留はやめろ」と言われたので途中から研究室には顔を出した。でも何も決められなかったので見かねた別の先生がテーマをくれたのでそれで卒論を出した。
自分はこの留年という烙印が屈辱的で情けなく、それ以来この出身校を避けていた。
学生時代前半はあんなに楽しく絶頂期だったはずなのに、楽しい学生生活で終わらせられなかったことが悔しかった。
特に部活動は熱心にやっていたのに、大学不登校になってから自分が情けなく関わりあいを避けた。自分から避けた癖に、仲間の輪に入れなかったことが寂しい。
それでも繋がりを持ってくれている数少ない友人は数名いる。だが同時に、「私の苦しみを友人でも共有できないのだ」と絶望していた。
出身校に対するネガティブな感情、しかも誰かから被害を受けた等ではなく自分の失敗によるものによる苦しみ。
友人たちはそういったものを持っていないようだった。
卒業をして、ニートを挟みながら職場を転々をして渡り歩いてきたが、「退学や留年した人ってどこにいるんだろう?」と思う。
まあ職場で学歴の話なんてしないので、本当はしている人はごまんといるのかもしれないけど。
一度「中途退学したよー」とあっけらかんと話す人がいた。だがよく話題に出すので、本当に気にしているのかいないのかは判断がつかなかった。
あと対面で「実はこういう苦しみを持っているんですよ」って言わないよね。他人からしたら「留年?退学?ばかだな~w」という反応かもしれないけど自分は口に出すのもつらい過去だし。
ネットでも自分は人見知りだから知り合いいない。だから観測できない。でもいるだろ、同じような気持ちの奴。
情けない話だけど10年離れてやっとちょっと薄らいできたんだよな。いつもそのまま捨てるニュースレターを包装を解いて目を通したのも進歩なんだよ。
で、学生時代を思い出した。
私が人生で一番楽しかった時期が大学1・2年であり、逆に3・4年がとてもつらかった。
1・2年までは部活動が楽しくて充実していたが、3年から研究室に入るようになったのだが先生が合わなかった。というか研究が合わなかった。
学ぶこと自体は好きな分野なのだが、じゃあ何がしたいのか?問い詰められて何もでなかった。
4年になりみんながテーマを決めて研究を進める中、一歩も進まない自分。
就職も決まらず、付き合っていた恋人とは別れ、大学にも通えず風呂にも入れず一日中布団の中で過ごす毎日。
当然留年した。卒業式には出なかったが、遠くへ行ってしまう友達には会いたかったので大学には来た。
それでも同級生の華やかな姿は見たくなかったのでトイレの個室で待っていた(電気消された)
とりあえず親からは「二留はやめろ」と言われたので途中から研究室には顔を出した。でも何も決められなかったので見かねた別の先生がテーマをくれたのでそれで卒論を出した。
自分はこの留年という烙印が屈辱的で情けなく、それ以来この出身校を避けていた。
学生時代前半はあんなに楽しく絶頂期だったはずなのに、楽しい学生生活で終わらせられなかったことが悔しかった。
特に部活動は熱心にやっていたのに、大学不登校になってから自分が情けなく関わりあいを避けた。自分から避けた癖に、仲間の輪に入れなかったことが寂しい。
それでも繋がりを持ってくれている数少ない友人は数名いる。だが同時に、「私の苦しみを友人でも共有できないのだ」と絶望していた。
出身校に対するネガティブな感情、しかも誰かから被害を受けた等ではなく自分の失敗によるものによる苦しみ。
友人たちはそういったものを持っていないようだった。
卒業をして、ニートを挟みながら職場を転々をして渡り歩いてきたが、「退学や留年した人ってどこにいるんだろう?」と思う。
まあ職場で学歴の話なんてしないので、本当はしている人はごまんといるのかもしれないけど。
一度「中途退学したよー」とあっけらかんと話す人がいた。だがよく話題に出すので、本当に気にしているのかいないのかは判断がつかなかった。
あと対面で「実はこういう苦しみを持っているんですよ」って言わないよね。他人からしたら「留年?退学?ばかだな~w」という反応かもしれないけど自分は口に出すのもつらい過去だし。
ネットでも自分は人見知りだから知り合いいない。だから観測できない。でもいるだろ、同じような気持ちの奴。
情けない話だけど10年離れてやっとちょっと薄らいできたんだよな。いつもそのまま捨てるニュースレターを包装を解いて目を通したのも進歩なんだよ。
まず前提として、ここではあえて政策論については触れない。
野党共闘の是非についても触れない。
選挙事務所とその周辺における、今さら当たり前の事実を再確認したり、
巷にあふれる選挙分析を眺めていると、無党派層をどう動かすかに終始している意見が多く見られる。
しかし無党派に頼る運動をしていては、いつになっても自民党には勝てない。
選挙の本当の闘いは、公示日(告示日)の直前までに終わっているのだ。
徹底して目に見える票を積み上げていく作業を、選挙のプロは行っている。
では、組織票とは何か。
本当の意味で選挙対策本部のコアとなるのは、そう、地方議員の存在である。
日ごろから地域活動をさせ、できる限り多くの有権者と日常的な関わりを持つこと。
それこそが、選挙運動の長期的戦略の本質であり、自民党が勝ち続けている実態である。
地元小中学校の入学・卒業式、運動会での挨拶はもちろんのこと、
地方議員はあらゆる地域活動に足を運び汗を流し、御用聞きに精を出している。
それこそが結果として、最も身近にして最大の選挙運動効果をもたらしているのはご承知の通りである。
自民党型の地方議員には、選対のコアメンバーということのほかに、もう一つ有用な意味がある。
それは、将来の国政進出へ向けたキャリアパスという位置づけである。
地方議員を増やせば増やすほど、有用な人材が発掘され定着してゆく比率は高くなり、
その中で優秀だと認められた人材が国政進出を果たすというわけだ。
それは当の地方議員たちが国政に関わる際の強いモチベーションにもなっていて、
普段はなかなか会えない広範囲の有権者と直接触れ合う良い機会となっている。
議員のキャリアパスというものが、自民党の組織拡大における大きな相乗効果を果たしているのは無視できない。
与野党問わず、複数の選挙事務所と直に触れあってきたからこそ確実に言えることがある。
総選挙が終わった今、1年足らずのうちに次の国政選挙が控えているとはいえ、
だからこそ次に野党支持者が考えるべきはこのことではなかろうか。
ビジネスの世界には、「人・モノ・金」というスローガンがある。
選挙で言えばそれは「人・金」となるだろう。
選挙のために惜しみなく金を使う。
これが、地方議員の育成に続く第二の手立てだ。
自民党が選挙のために使う金の99.99%は合法的で、その多くは費用対効果をしっかりと考えられてのものだ。
合法的に人を雇い、印刷物を刷り、ビラを撒き、ポスターを張り、広告を打ちまくる。
いくら地方議員が多く、組織が盤石でも金をうまく使えなければ選挙には勝てないのだ。
実は、地方議員の数だけを見ると、自民党と共産党では全国の議員数の合計はさほど変わらない。
(むしろ数年前までは、共産党所属議員が最も多かったし、今では公明党議員が最も多い)
https://www.soumu.go.jp/main_content/000741465.pdf
それでも共産党が国政で議席を伸ばせない要因の一つは、公約もさることながら、金によるところも大きいと私は見ている。
政党交付金の制度自体に異を唱える共産党は、党の理念として、税金から各政党に分配される「政党交付金」を一銭たりとも受け取っていない。
一方の自民党は、政党交付金だけで年間170億円近くの大金を得ている。
https://www.soumu.go.jp/main_content/000678653.pdf
仮に自民党が、衆参合わせて400人弱いる国会議員にこの大金を平等に配ったとすれば、
1人あたり年間4,000万円近い金額を選挙対策として使えるのだ。
そして、意外と知られていないのがこの政党交付金の算定方法についてで、
獲得した議席数はもちろんのこと、選挙の得票数も、交付金の額に影響するのだ。
つまり実際の選挙結果においては、いわゆる「死票」になってしまった票も含めて、
1票あたり、およそ300円ほどの価値を持っていると考えることができる。
(政党交付金の年間予算は、人口1人につき250円×約1.2億人=300億円。
有権者数は約1億人、投票率は約50%なので、投票者数は約5000万人である。
議席数に応じた算定と、得票数に応じた算定とが全体予算の1/2ずつなので、
300億÷5000万÷2=300円というざっくりとした計算。
小選挙区と比例の別、衆参の別もあるので厳密にやるともうちょい複雑。)
https://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seitoujoseihou/seitoujoseihou04.html
まるで、某放送局をぶっ壊す政党のようなビジネスライクな話になって恐縮だが、
(というかN党が、議席を取れなくても票さえ得られれば喜んでいるのというは、まさにこういった事情による)
そしてその原資は言うまでもなく私たちの税金であることは、もっと広く知られるべき事実である。
むしろ合法的にバンバン金を使って、バンバン票を集めてもらうよう働きかける必要がある。
金がなければ票は奪えないし、票は文字通り金を生む。
候補者も政党も支持者も、もっと選挙と金の関係をポジティブに捉えなおしてほしいところだ。
そしてできるならば共産党はこの事実を重く受け止め、本当に野党共闘で政権奪取をしたいのであれば、
理念として受け取らないのは理解はできるが、それでは選挙には勝てない。
交付金制度を廃止するのは、政権を取ってからでも遅くはない。というか政権取らないとそもそもできない。
これは統計的なデータがないのであくまで印象論となってしまうが、
投票に行こうと言われて、初めて投票に行く気が起こる人などめったにいない。
それよりも、自分の身近にいる他人を投票所へ向けるために効果的な魔法の言葉がある。
である。
これは是非とも、某CMに参加していた著名人に言いたいことだが、
あのクラスの著名人たちが、芸能活動のリスク覚悟で投票先を公言していたとすれば、
これは決して、「だからあなたも○○に投票してほしい」という投票先の同調を呼び掛けてほしいわけではない。
むしろ、「私は〇〇に投票する。あなたも自分でよく考えて投票に行ってほしい」というところでとどめておいた方が良い。
自分の知り合いに直接、特定政党への支持を訴えかけるという経験はないだろうと思う。
そうでなくとも、SNSで支持政党を公言している人を見かけたならば、
けれどやはり、これでは選挙に勝てないのだ。
先述した通り、全国の地方議員の合計で、公明党の所属議員が最も多いという事実を、今一度よく考えてみてほしい。
「なんとなく、近所のあの人が頑張っているから入れといてやるか」という人はかなり多いのだと思う。
とはいえ、電話帳のア行から順に投票を呼び掛けるなんてことはしなくてもいい。
「Go Vote !」という可愛げな動くスタンプを張り付けたインスタグラムのストーリー画面の端っこに、
「ちなみに〇〇に投票しました」と、ごくごく小さなフォントでテキストを載せてあげるだけでも十分だと思う。
次回の選挙では、支持政党や投票先を公言するブームが訪れていてほしいものだ。(まぁ無理だろうけれど)
と、雑文を書いている間に枝野辞任のニュースが飛び込んできた。
本多平直離党問題とか、公約発表の仕方(順序)とか、東京8区騒動の対応とか、
枝野のやり方が良くなかったところがたくさんあるのは認めるし、代表交代の議論が湧くこと自体は否定しないが、
今このタイミングで代表を挿げ替えたところで果たして良い結果となるとはとても思えない。
小川淳也待望論とかが出てきたら、ある種の風が起こったりするものなのだろうか・・・(冗談)
一体どうなることやら・・・
背が高くて、涼しげな顔立ちの、一つ上の高二の先輩。
みんなが同じような傷んだ茶髪に切り刻んだミニスカートを履いてる中で、黒髪ボブと膝上5cmを貫いていたのが印象的だった
時々きらめく青いピアスをよく覚えている
誰も通らない踊り場に大きな紙を広げて、裸足になって絵を描いた
本当は他の看板係も何人かいたけど、初回の顔合わせ以来ほとんど姿を見せなくて、放課後はいつも2人きりになった。
ぺたぺた絵の具を塗りながら、先輩の話を聞いた。
なんで美術科のある高校じゃなくてわざわざ進学校のうちに来たんですか?って聞いたら、さらりと
「家が近いから」
と言われた。
必死に勉強して受かった自分なんかとは大違いで、凄い人なんだなと素直に尊敬した。
休憩と言って2人でファミチキを食べに行ったり、どうせ塗りつぶすからって足元に落書きしたりしてるうちに、私は先輩のことが好きになっていた。
スカートについたおそろいの絵の具の汚れが嬉しくてたまらなかった。
こう思い返すと漫画みたいな恋だったけど、オチは本当にくだらない
体育祭はあっさり終わった。
先輩から「一緒に写真撮ろう」と言ってもらえてドキドキしながら肩を組んで、やっぱり私はこの人のこと好きなんだって思って、でも自覚すると気持ち悪いと思われるのが怖くなって、自分から連絡できなくなった。
卒業式の日にお祝いのラインをして、「ありがとう!美大生になれたよ✨」と返してもらったのが最後の会話。
同性愛者というわけではない。
クラスでは、ガリ勉でどんくさい僕を、いつも叱ってくれましたね。
委員会の仕事でミスをしたときは、他のメンバー全員を訪ねて謝罪するまで、先生は口をきいてくれませんでした。
部活では、いつまで経っても基礎練習から卒業できない僕を、厳しく指導してくれました。
ただ、ボールを触ったことが数えるくらいしかなかったのは、残念でした。
そんな僕をみて、クラスや部活のみんなは楽しそうに笑っていました。
僕も、笑っていました。
印象を悪くすると、進学に響く。
だけどあの頃は何にも言えなかった。だから、今、ここで吐き出してしまおうと思います。
恩なんて一切感じていません。
あなたから教わったことに、有意義なことは一つもありませんでした。
叱られた理由は今でもわかりません。
直接伝えようと思ったこともありましたが、僕も大人になりました。
思ったよりも世の中はクソではないし、いい人もたくさんいることに気が付きました。
だから、この辺で、この思い出は成仏させてしまおうと思います。
その為に、ここに書き込むことにしました。
横浜市立小教諭が複数児童にいじめ 配布物配らず、テスト受けさせず 市が第三者委設置し調査
https://news.yahoo.co.jp/articles/f58c9ad8d8f5eb4296eb55941c18b09cbcb3536e
横浜市の小学校出身なのだが、20年経ってもあの時のひどさは忘れることができない。
小学校1年生の時の担任が特にクソババアで、一生覚えてるだろうと思う。
はじめて係の仕事をするとき、使う道具の場所がわからないから聞くと「そのくらい自分で見つけなさい」と言われた。どこを探してもなかったので泣きながら改めて聞くと「その程度も見つけられないのはバカだ」と罵倒された。結局、学校自体が閉まるギリギリまで残って探させられた。
給食で食べるのが遅い子がいても、平気でそのまま食べさせて、掃除中も、そして先生が帰る時間まで食べさせられていたこともある。もちろん他の先生も助けてはくれない。自分も遅い方だったけど、家からビニール袋を持ってきて、全部そこに残したものは入れて持って帰っていた。虐められていても、「あんたが悪い」と逆に全員の前で立たされたこともある。
自分は特に何もされていないけど、学年一のヤンキーバカには徹底的に優しく接して、殴って怪我させても「力強いね」とかいって、殴られた方を怒る。
クラスに一人、体が弱い子がいた。なかなか動くのが遅くて、集団から遅れたりするんだけど、「なんでいっつもあんたはそうなの!!」と激怒する。その子は泣いてしまう。ほとんど毎日のようにこの光景が繰り返されていた。
小学校6年生ながら、このままこの場にいたら、何かおかしくなってしまうと両親に相談をした。
そんなところには行かなくていいと言ってくれて、2学期から卒業式まで1日も行っていない。その間塾に行って猛勉強して、行きたい中学に行けた。もちろん大人になった今はとても良い選択だったと感じている。
というわけで、横浜市で子育てを考えている人は要注意だと思う。俺は絶対にここでは生まないし、もし事情で市民のままだったら私立の小学校に入れる。
叔父が死んだ
認知症で行方不明になっていたが1ヶ月後に白骨化した状態で山中に転落した車から発見された
父は飄々としていた
取り繕っているとかそういうのではなく、慣れているようだった
死んだのは3番目
それより上はみんな亡くなっている
まぁ、ということは次は、っていうことだ
もちろん確定しているわけではないしもしかしたらここから20年以上長生きするのかもしれないが
その時が近付いているんだろうな、という気はしている
そして自分もいつかそうなるということだ
翌年は5年生として参加して
あんな感覚でいつかは自分もあの棺桶に入ることになるんだろう、と想像してしまう
それは悲しむためではなく、いつか卒業する在校生として必要なんだ
この思いは文字で伝達できない
昔の人との繋がりが強く、宗教観が強かった時代は葬式という儀式を通じて
皆が死と向き合い、あるいは極楽浄土という幻想を夢見て最後まで今を生きたのではないか
死ぬのが怖い
凄く久しぶりに映画に行った。はいふり劇場版を観て以来だと思う。
前々からきらら系のアニメを劇場で見たいと思っていたので、楽しみにしていた。
やはり映画は平日の昼間に限る。部屋には私と、あと夏休みの大学生風なお客さんが一人。
私は前列に、学生さんは最後列に着席。これ以上にないソーシャルディスタンスを取って鑑賞。
上映が始まると、ああ懐かしいという気分になると同時に、TV放送を見ていたときのことを思い出した。
レポート書きながらだったり、仕事帰りにごろごろしてたりしてたな。
入試、卒業式と終わりが近付くにつれて、終わっちゃうんだなと感慨にふけってた。
カレンの正規直交基底のポーズが見れると思っていたけど、なかったのは残念。
それ本気で仰ってるんですか?
最初にはっきりと申し上げておくが、私はアスリートの方々に「非」があるとは思っていない。彼ら彼女らだって当然、身体的にも精神的にも安心した状態でオリンピックに挑みたかっただろう。別にアスリートの方々が「死人が出ようが知らん、オリンピックの方が大事だ」と言ったわけでも、「絶対に2021年に開催しろ」と言ったわけでもない。アスリートの方々に「死人を踏み台にしている」だとか「アスリート様」だとか、誹謗中傷を送るのは間違いだ。「このコロナ禍で」オリンピックを開催したのは彼ら彼女らではない。非があるのは、この状況を生み出した政治家だ。昨年の時点で「来年の時点でコロナが収束しているとは考えにくい」と発信して下さっていた有識者の方々はいらっしゃったのに、それを無視したのだから。最初から2年延期すると決断さえしていればこんなことにはならなかったはずだ。
でも、私はどうしてもアスリートの方々に訊きたいことがある。あなた方に非は決してないことは重々承知の上で、でも問いたい。「本当にこれで良いと思っていらっしゃるのですか」と。この状況に、あなたがたは「関係ない」のですか。
私は2000年生まれの21歳だ。昨年成人を迎えたが、成人式は行われなかった。振り袖を着て、写真を撮って、神社に参拝して、それだけ。同窓会もなかった。「友達少ないしそもそも行くか迷ってたし、なくても変わらないよ」と直前まで思っていたが、いざなくなってみると凄まじい喪失感に襲われた。自分で「行かない」と選択することと「初めからない」ことには天と地ほどの差があると、私はそのとき痛感した。それまでに消えていった旅行や行事や学生生活のことも思い返され、当日は少しだけ泣いた。
それでも次の日には、また気持ちを切り替えて自粛生活に励むことが出来た。バイト先の学童で接している小学生達のことを思えば。私が我慢すれば、彼ら彼女らの我慢が減るかもしれない。それが自粛のモチベーションだった。実際、4月5月頃は少しずつ元の世活を取り戻していたように思う。未だ感染対策は必要不可欠だったが、「入学式に出られた」「運動会ができた」という報告を子ども達の親御さんから多く伺った。運動会で勝ったことを嬉しそうに報告する子ども達を見ると、もうしばらく自粛を頑張る勇気が湧いてきたものだった。だがここ数日、大きく風向きが変わってきた。「修学旅行が中止になった」「運動会がなくなった」「遠足がなくなった」連日そういう報告を聞く。理由は皆一緒だ。感染者が爆発的に増えたから。
あなた方は「スポーツを通して子ども達に夢を与える」と仰った。それは素晴らしいことだ。あなた方にしかできない。だから私も私に出来ることをする。あなた方が夢を与えたいと仰った子ども達の現状を伝えることだ。修学旅行の中止。林間学校の中止。遠足の中止。運動会の中止。帰省や旅行の取りやめ。話し声のない給食。与えた夢と失われた楽しみ、トントンじゃないのか? これでいいのか? 本当に? 感染者数の増加とオリンピックは関係ないという政府の言葉を信じて、オリンピックがスポーツウォッシングに利用されていることからも顔を背けて、知らない顔をし続けるのか? 夢を与えた子ども達の、行き着く先がここですか?
ここまでぐだぐだと八つ当たりじみたことを書き連ねたが、私はアスリートの方々に「声を上げろ」と要求する気はない。なぜなら、そういう声を上げるにはアスリートの方々があまりにも多くの物を背負っているからだ。私はスポーツ界に明るくはないが、きっと上の人間から圧力を加えられたり、干されたり、スポンサーにいい顔をされなかったりするのだろう。私だって社会の変革のために人生と夢を投げ出せと言われたって、きっとできない。私は、自分が出来もしないことを他人に要求してはならないと思っている。そもそもこうして匿名で文章を書いている私がそんなことを要求するのはお門違いだ。
だから、何かアクションを起こして欲しい、とは言わない。ただせめて知って欲しい。そして考えて欲しい。多くの人が「一生に一度」の機会をなくした。それはあなた方の「せい」では決して、決してないけれど、でも無関係ではないはずだ。そして感染が拡大した今、更に多くの「一生に一度」が失われようとしている。踏み付けにしたとまでは言わないけれど、オリンピックはその上で成り立っていると、どうか知ってほしい。
子ども達やその親御さん方に「感染者が増えたから予定されていた学校行事が中止になった」と伝えられる度、胸が痛くなる。七夕の短冊に「修学旅行に行けますように」と書いて、それが叶わなかった子の寂しそうな顔が、破って捨てられた短冊が目に焼き付いて離れない。一つ下の後輩が「未だにキャンパス内の地図を覚えてないんです」と苦笑した顔が忘れられない。お子さんの卒業式がなくなって涙ぐむ親御さんの顔なんて見たくなかった。
あの人達がどんな思いをしているのか、政治家と、申し訳ないがアスリートの方々にも想像して欲しい。それでも尚、「関係ない」と思えるか。もしも「関係なくない」と思って下さるなら、ぜひ一緒に考えて欲しい。私はどうするべきだったのか。貴方はどうするべきだったのか。どうしたら子ども達にとってよりよい社会が作れるのか。難しいことだし、私も結論は出ないけれど、でも考えないより考える方がずっとましだ。
もしかしたら、私がこんな文章を書く前から皆さん色々と考えて下さっている方もいるかもしれない。だとしたら釈迦に説法で申し訳ない。だが、パラリンピック選手団の方々の「子ども達の観戦を」という提案をみて不安になったのだ。「オリンピック・パラリンピックが開催されて、出られたらそれでOK」と考えていらっしゃるんじゃ、と。だからこの文章を書いた。あなた方の「一生に一度」は叶い、その裏で多くの「一生に一度」が失われている。それもあなた方が夢を与えたいと仰った存在の「一生に一度」が。お願いだから、その意味をよく考えて欲しい。私も私に出来ることをするから、あなた方もあなた方にできることをして欲しい。
まあ冒頭で自己顕示欲を抑えきれずに自分の成人式のこととか書いてる時点でお察しだが、私自身「子ども」という存在を利用して自分の主張を書いている面は否めない。その手の批判は甘んじて受け入れます。そもそもはてなに投げてる上このクソ長い文章に批判が来るほど読み手がつくかは甚だ疑問だけど、一応。
私は2020年入社、今年社会人2年目の世代ですが、社会に対して思うところがあるのでここで叫ばせていただきます。
社会は若者を過大評価しすぎ、そして幻想を抱きすぎではないですか?
私の世代は割とコロナに多大な影響を受けた世代だと思います。大学の卒業式も入社式もなかったし、卒業旅行も行けなかったし。
そんな世代の一人として社会を見ていると、社会はいつも若者の変化を疎ましく思っているくせにコロナの話題になると急に熱い手のひら返しをしていることに気がつきました。
『今年の新人はコロナ世代ですから、同期同士でオンライン親睦会なんかやっていて、、、もう仲良くなってるんですよ、一度も会ったことないのに。若者の適応力ってすごいですねっ!』
『今年の新入生はSNSで交流を深めているようで、、、新世代という感じですよね』
こういう発言、人からも直接聞いたし、テレビなどのメディアでもたくさん聞きました。
まず言いたいのが、
一度も会わずに親睦なんか深められるわけねーーーーーだろバカが!!!!!!
一部の人は深められるかもしれないので、私は深められました!とかの感想はいりません。これの問題点が、このコロナの世の中で比較的若いと、お偉い方は何故か自動的に若者全てを、『コロナに適応することができた世代!』だと変換してしまうことです。
何故か、一部に話を鵜呑みにして、ウィズコロナに適応した生活を送っており、それに満足していると思い込んでいます。
はっきりいますけど、会ったことない人とのオンライン飲みとか苦痛なだけです。オンラインで親睦会とかしても90%は誰も楽しむことも親睦を深めることもできず、なんだったんだあれ?という感じで失敗して終わります。
今の若者はオンラインで交流を深めていてそれで満足している、ってどっから出てきたんですかそれ?なんかそういうソースでもあるんですか?
皆さんが思っている以上に、入社や入学時にコロナがあった世代は関係が希薄になってますよ、誰もお互いのことを知らず名前とインターネット環境を知っているだけ。
あと、これもムカつきます。
『在宅勤務での入社だったけど、きちんとそれに適応して成長してくれたね!』
適応してねーよ。
残念ながら、社会が抱いている若者の神話のようにこの状況に適応している若者はほとんどいないでしょう、そしてオンライン修学旅行、親睦会を楽しんでいる人は10%にも満たないでしょう。
教務部の皆さん、人事部の皆さん、若者はインターネットを使ってこの状況にうまく適応している、勝手に良きようにやってくれていてびっくり(おんぷ)というか夢から醒めてください。
新入生や新人がこの状況に全く適応しておらず、大変不本意な状態になっている現実に向き合ってください。
彼らがやっているのは、若者賛美に見せつけようとした、ただの責任逃れです。
若者神話を作り上げることで、自分が対処しなくて済むようになるのはよーくわかりますが、当事者からすると、たまったもんじゃありませんよ。嘘をつくのをやめて、せめてこの状況を認識することから始めてください。
割とその頃はメンタルいっぱいいっぱいで、半年前くらいからリスカが癖になってた。学校で嫌なことがあったとか、家で何かあったとか、単純に自分が嫌いだとか、そういう理由で切ってた感じ。
その日は元々学校で嫌なことがある予定で、まあ精神状態も最悪で、普段は持ち歩かないリスカ用のカッターをタオルに包んでスクバに入れた。たぶん保険とか、お守りみたいなつもりだったんだと思う。「何かあってもこれで切れば気分は落ち着くぞ」みたいな。いや学校でリスカすんなやって話だけど。
で、授業中。やっぱり嫌なことは起こってしまったので、「気分悪いので保健室に…」とか言ってカッター入りタオル片手に教室を出て、そのまま近くのトイレに入っていった。授業中だから他に人はいない。それで「もう後には引けない!」とか思ったのかな。
手洗い場の側で、いつもより深めに2本。確か2本目のほうが深くて、ばっくり割れた肉(真皮?)が白いのに驚いた記憶がある。いつもより血が滲んでくるのが遅くて、でも出始めたらなかなか止まらない。暫くトイレットペーパーで押さえてたけど、普段も止血に一晩くらいかかるからまあ止まるわけがないので、ちょっと冷静になったのもあって保健室に行くことにした。けどこれが間違いだった。
一時期保健室の掃除当番をやってたり、友達の付き添いでよく来てたから、養護教諭とは割と顔を合わせていたほうだった。タオルとカッターを持ったまま、血の止まらない腕を素手で押さえて、「腕切っちゃって、血が止まんなくて」的なことを言って保健室に入ったと思う。当然養護教諭は驚いてた。
まず傷口を洗った。それからたぶん消毒をした。そのときに他の傷も見られたからリスカだってバレた。ガーゼを当ててもらった後、何か色々聞かれたし、泣きながら色々喋ったんだと思うけど、唯一ハッキリ覚えてるのは「家には連絡しないで」って言ったこと。この頃は、少なくとも家ではちゃんと隠してたから、家族はリスカしてるって知らなかった。
その後保体の女の先生、それから担任と面談があって、カッターは担任に預けた。没収されたのかもしれないけど覚えてない。時間にしてみればそんな長いもんじゃなくて、授業が終わると同時くらいには解放された。保健室を出ると中座した授業の担当教諭が立っていて、物凄く申し訳なさそうに「ごめんね、嫌だったね」と言うのでこっちまで申し訳なくなった。この先生は一つも悪くなかったから。
教室に戻ったら案の定クラスメイトからの視線は痛かった。担任が事情を話す時間はなかったから何も知らないだろうけど、直前の様子とかを見れば明らかに変だったし、腕にガーゼ貼ってるし。友達は恐る恐る「大丈夫?」って聞いてくれたけど、それでまた泣きそうになったから、適当に流しながら帰り支度をした。担任から早退の許可はもらってた。
バス通学だったけど、停留所から家まで離れているからいつも祖父が迎えに来てくれていた。早退するとメールしたのは自分だけど、罪悪感と気まずさでめちゃくちゃ後悔した。
腕の傷は、家族には「ガラスで切った」ということにした。ガーゼで他の傷跡も上手いこと隠れてたし。祖父母も父もそれで信じた。
でも、どうやら母だけは養護教諭から連絡を受けていたらしく、泣きながら、時には自死をほのめかしながら自分を問い詰めた。正直死ぬほど怖かったし、死ぬほど面倒くさかった。自分より冷静じゃない人を宥める余裕なんてないのに。「あんたが死ぬなら私も死ぬ」とか、「嫌なこと言う子がいるなら殺してやる」とか、いやほんとやめてって感じ。本気で死にたいわけじゃないからね。誰かにいなくなってほしいわけじゃないしね。
だから口止めしたのなぁ。なんで守ってくれないかなぁ。うちの母は自分以上に脆い人ですって、ちゃんと言ったのに。
卒業式まで担任に預かられていたカッターは捨ててもらった。でも、その後もリスカ癖は抜けなくて、かなり頻度は減ったけどあれから4、5本は増えた。
夏でも長袖着たりとか、もうそこまで必死に隠す気はなくなったけど、まだ母以外の家族はリスカのことを知らない。よりにもよって一番知られたくない人に知られたけど。
このくたびれた老人は何だろうと思った。
在校生のみんなが見ているんだから、背筋伸ばして座れって、背中に定規をつっこまれたりしたな。そういえばあの怖い学年主任は体育教師だった。まぁそれは、いまは話が逸れるけど。
世界中に配信されてるって、みんなが見ているって、わかっていてこの姿勢になれるのか。
人前で、深く深くくつろいで腰掛けるのは、失礼なんだと思っていたな。
目上だと設定された人間は敬えって、
仮に心の中で敬っていなくても敬ってるように見せろって、
世の中はめんどくさい。
めんどくさいと思いながら面倒を分け合って成り立たせているのが社会なんじゃないのか。それぞれ個人の中にある大小のルールや、ズルや、そういうものをなんとか綯い交ぜにして、成り立たせている社会じゃないのか。
自分だって性格が良いとは言い難いし、ときどきはズルをするし、仕事では根回しだってするし、そりゃあ、清廉潔白ではないけれど。
それでも、自分だって、嫌だなと思っていたって、顔だけは笑って仕事をしている。社会をやっていくことを自分で選んだ人間の、最低限の態度として。
あーぁ。
書ききれないほどある政治的暗部のことは、とうに諦めている。いまさら書き立てる気力もない。
ただ、その席は、この国の象徴とかいう面倒な概念を生まれついての血縁関係で義務付けられ、避けようもなく重い責務をつつがなくこなしてくれている方の、その隣の席は、お前が座りたくて座った席なんじゃないのか。
お前は、お前が選んで、その席にいるんじゃないのか。
嘘でも、背筋を伸ばして座ってくれ。
でも、どうでもいい。
どうでもいい。
よくないけど。
とにかく、あの15秒にも満たない開会の映像は、自分の中にあった規範意識だとか、もしかしたらなけなしの郷土愛だとか、そういう類の何かを折った。
だからといって、別に、何か自分の行動を激しい方向に変えるわけではないし、自分はそれなりに働き盛りで、それこそこの1年弱は本当に、目の前のことで精一杯だ。これからも法律やルールを破る気はないし、払うべき税金は払うだろうし、道で困っている老人がいれば手を貸すだろうと思う。
これは愚痴なので、別に意見とか答えとかを自分の中で出すつもりもない。
嫌な絵面だったな。
これからも、自分たちの世代は、老人共の昭和の後片付けや死に際の夢に付き合わされる。
諦めている。ただ、こんなにも背筋そのものが抜き取られるような虚しさは、二度と味わいたくはない。
たぶん、これを虚無感と言うんだと思う。
忘れない。
同級生といっても、私はひきこもりで、ずっと部屋で漫画を書いていました。
彼女は学級新聞で4コマ漫画を連載していて、私は彼女の大ファンでした。
人気者で陽キャの彼女と、ひきこもり陰キャの私は、小学校の卒業式の日に初めて出会い、そして、ふたりで漫画を書くことになりました。
ひきこもりから救い出してくれたのは彼女でしたが、彼女は私を離しませんでした。
彼女が学校に行っている間も、私は彼女の部屋で漫画を書いていました。
親は心配していましたが、私は絵を描くのは苦痛ではなかったので平気でした。
彼女が、私の絵を褒めてくれる事はなかったし、いつも命令口調だったけれど、ふたりの名前から「藤野キョウ」のペンネームを作ってくれただけで満足していました。
一年かかった読み切り作品が入賞した時、ふたりで大喜びしました。
彼女が言いました。
「連載ができたら、すっごい超作画でやりたい」
彼女は話を作るのは得意でしたが、絵を描くのは面倒で、好きではないと言っていました。
客観的に見ても、作画に関しては、私の方が上手に描けていました。
そんな彼女が「藤野キョウの超作画」を目標に掲げてくれたのが本当にうれしかったです。
作画表現を試行錯誤したり、ふたりの共同作業は、楽しい時間でした。
作品の質もどんどん上がっていきました。
でも、連載が決まったとき、私はうれしくありませんでした。
だって、「藤野キョウの超作画」は、まだ完成していなかったから。
「藤野キョウ」はふたりの名前だと思っていたのに、彼女から見たら私はアシスタントにすぎませんでした。
ようやく満足のできる絵が完成間近です。
私の抜けた藤野キョウの連載作品は大人気で単行本は11巻も出ています。
でも、その連載作品はあの頃にふたりが目指した「藤野キョウの超作画」ではありません。
俺たぶん「高校の頃、クラスにいじめられてるってわけじゃないがかなり浮いてる奴」だった。
不潔だったりアヘ顔アイコンだったりしたわけではないが、病気がちで登校に問題があって、くわえてクラスメイトとは円滑な人間関係のための要素のいずれかが決定的に合わない。
かろうじて険悪な人間関係にも至らなかったけれど、それは俺とクラスメイトがどちらも攻撃的にならなかったからで、もちろん「オレ係」のおかげでもあろう。
オレ係、ボク係、ワタシ係。
2年のときに出会い、交流し、翌年に同じクラスで卒業式を迎えた。
3人以上の班を作れば、俺とオレ係が話し、オレ係が他のやつらと話し、またオレ係が俺と話した。
だから修学旅行の行き先が国内外で分かれたとき、他のやつらが、オレ係のいない班に無理して俺を混ぜてくれて、当日の班別行動が始まってからスマホを出せと言ってきた。
「置いてきたけど」
ホテルに置いていけという規則だったからと俺は言ったが、班員は皆規則を破って持ち出していて、俺も当然そうするものだと考えていたらしい。
もちろん勝手に班員を分けることも禁止だったが、班員は俺との別行動を前提に班内で組を作っていたので、俺は急遽そのひとつにまた無理して混ぜてもらったのだった。
さすがにわかってくる。
オレ係、やっぱり任じられていた。
修学旅行の班だけが、互いのかねてよりの行き先希望により、オレ係と一緒にならなかった。
そう言って過言ではないほど俺とオレ係は一緒の組で、そうなれなかった修学旅行の班では扱いに困られることになった。
オレ係不在では組織の円滑な運営に支障をきたすような存在だったのだ。
俺らの学科は2クラスしかなかったから、3年目をオレ係と別のクラスで迎えても、新しい「オレ係」を見つけることは困難だったろう。
卒業したら付き合いがなくなった。
卒業まで一度も衝突しなかったけれど、単に異なる地域に進学した。
一度も連絡を取り合わなかった。
今は時おり思い出して、ごめんなと思う。
振り返れば振り返るほど、彼は俺というクラスメイトの係だった。
本人に明言されたわけでもないけれど。
やっぱり大学では新しい「オレ係」に出会えなくて、やっぱり同期のノイズになった。
振り返れば振り返るほど迷惑をかけていた。
ごめんな。