はてなキーワード: 中産階級とは
http://anond.hatelabo.jp/20131203122311
海は陸地よりも大きいのでは?という心配だが、本当の海と陸地ならそのとおりだが、富と貧困に関して言えば、富が過去数千年の間に増え続けているのに対し、貧困は減り続けており、現在もこの傾向はますます顕著になっているので、ほぼ心配はないといっていいと思う。
あなたは富める者の自己犠牲によってい貧しい者を救うというイメージを持っているよね。自己犠牲の結果富が薄まって薄まりすぎてみんなが不幸になるじゃん?みたいな。
もちろん自己犠牲行為も寄付、ボランティア、ODA、各種NGOやNPOという形で存在するんだけど、それは貧困撲滅のごく一部の手段に過ぎず、大部分は「投資」という手段でもって世界の貧困は減少しつづけている。
貧困フロンティアは農業、医療、産業、社会の発展により有史以来一貫して後退を続けているが、特に産業革命以降の欧米で貨幣経済が発達したことによりそのスピードが飛躍的にアップした。多額の投資マネーは瞬く間に欧米から貧困を駆逐し、中産階級が形成された。
途中、投資活動の副作用として帝国主義による二度の大戦という悲劇を経験したがそれでも勢いは衰えず、欧米と同じことが続けて日本で起こり、さらには日本以外の東アジア、インド、ロシア、南米、東南アジア・・・・と、かなり乱暴かつ駆け足でまとめではあるが、おおむねこんな感じの順番で、貧困フロンティアが後退した。
貧困フロンティアが後退するところというのは例外なく猛烈な勢いで多額の投資マネーが流れ込んでいるところだね。
あなたもそうかもしれないが、自己犠牲による弱者救済こそ是とする風潮というのは少なからず世の中には存在していて、そのような人からみるとこのような話は面白くないかもしれない。
投資を媒介とした貧困の減少というのは「富める者が自分の富をもっと増やしたい」といういわば我欲がモチベーションになってるからね。
ともすれば汚いとか真の貧困層は救われないとか批判を受けがちだ。
でもそんなことはない。
もちろん、途上国の人間がすべて同時に貧困を脱出できるわけじゃなく、特権階級だったり、有能だったり、ずるかったりする奴らが先に豊かになることは避けられない。プロセスは決して平等でもないし人道的でもないんだが、それでもその先には必ず貧困層が中産階級へとランクアップするという現象が待っている。
なぜなら中産階級が分厚くなったほうが金持ちにとっても都合がいいからだ。中産階級が増えることは、自分の会社の商品を買える人間が増える(市場が拡大する)ということだし、金を持てばそれを失いたくないので犯罪は減り治安がよくなる。差別もマイノリティの問題も富めるものにとってはリスク要因でしかないので、差別に反対しマイノリティの人権を保護する社会を志向するようになる。我欲といってしまえばそれまでだが、豊かになった結果心に余裕がうまれ「みんなで仲良くやろーぜ」という気持ちがうまれた思えば悪いことではない。
親にとっても子どもは稼ぎ手ではなくなるので少子化が進むが、子の幸せな将来のために教育に金をかけるのでそこにも市場が生まれるし、そうやって教育を施された子どもたちがその国をさらに豊かにしていき、やがては次の貧困フロンティアに投資するようになる(念の為に言っておくと給料を銀行に預金するだけでも間接的に投資していることになるからね)。
今、目下の貧困フロンティアはアジアからアフリカへ移っている最中で、中国がアフリカに積極的に投資しているのも、上の話があるとすんなり腑に落ちるんじゃないかと思う。ただし中東は宗教とオイルマネーの問題、アフリカはそもそも投資を受け入れるだけの社会制度が整っておらず部族や宗教の対立も激しくて苦戦している。日本で売買できる投資信託でも中東、アフリカに関するものは限られている。まだまだ一般には投資不適格というわけだね。アフリカが貨幣経済ベースに乗るまでは、ボランティアベースの支援活動が大きな役割を果たさざるを得ないだろう(余談だが俺はそのような考えから国境なき医師団に毎月自動寄付をしている)。
それに先進国だって、少子化とか労働需要の海外移転による失業問題とか格差とか高齢化による社会保障費の増大とか問題がないわけではない。
このような問題はあれど、長期的かつ全般的にみれば世界は「みんなが幸せ」の方向に向かって進んでいるよ。今の日本に住んでいるととてもそうは思えないが(笑)これは間違いのないことだ。
大事なのは世界の富の総量は一定でもゼロサムでもなく増え続けてるってこと。貨幣経済が破綻してしまうとこの限りではないかもしれないが、少なくともあなたが心配するように「豊かなものが貧しい物へ分配することでみんなが不幸になる」なんてことはないから安心していい。
朝鮮期の春画にもたびたび散見される、おっぱい丸出しチマチョゴリ。
春画の内容は、両班らしき役人が賎民らしき下女の乳を揉んでいたり、洗濯する女性を覗き見たり、所構わずレイプしたりというのが多い。
チマチョゴリは男性の性欲を満たすべく、胸の部分が開いており、乳房が露出している格好となっている。
その殆どが男性社会の顕れなもので、今のように胸を露出させない格好を見ると逆に安心する。
日帝時代に朝鮮に入植して文化を与えた事を知れる数少ない証拠なのかもしれない。
それ以前の朝鮮時代は、女性蔑視の世の中だったわけで、欧米文化とかキリスト教のおかげだという意見も確かにあるが、
戦前の朝鮮向けに出てる朝日新聞に当時の文化背景について描写されている。
いずれにせよ、日本帝国がやってきたのは何も侵略だけじゃなかったという事だ。
事実、台湾や東南アジアにも侵略した歴史はあれど、それを咎めるメディアをあまり見ないし、むしろ好意的な意見が多い。
だからって日本がアジアおよび朝鮮を侵略した歴史は事実として残るし、それを非難するのも分からんではない。
日本だってGHQが来たときには大分恨んだもので、当時としてはGHQ以上に日帝を恨んだというのが大きいか。
そのため、現政権が改正案を出すまで、ずっと日本国憲法は遵守されてきたのだから、多分そう言う事なのだろう。
話は戻るが、韓国には日本の伝統文化がある程度根付いたおかげで、朝鮮時代まで続いて来た女性蔑視社会は少なくとも女性の社会進出が達成されるまでに
回復したといえる。
但し、日本という国は仏教伝来以降は非常なミソジニストであるから、現在のように女性の社会進出がなされていても一方で雇用であれば賃金の少ない閑職であったり結婚あるいは出産後は寿退社という形で退職に追いやられるのが必定となっている。
にも拘らず韓国では女性蔑視社会でありながら、現在は女性大統領が統治している。
ただ、韓国という国は、朝鮮時代から続く特殊な社会であることに注意したい。
韓国でもある程度女性の社会進出がなされていても、それはある一定の中産階級以上の女性であって、中人未満の女性たちには、殆どが望まれない婚姻を強制的に結ばされている等と現代社会においても女性蔑視社会である事に変わりはないだろう。
ただ、韓国では一足早く国家の首長に女性がなる等、一応女性の社会進出を世界中に完璧に示した事だろうが、日本では戦後、未だに女性の首長は立っていない。
それどころか、皇族に関しても女性天皇が立つ事に否定的な意見が集中していることからも、日本社会には未だ根底には女性蔑視の風潮が漂っている。
こういった部分を直す事の方が日本人としてのみならず、一介の男性女性としてよほど重要なのではと感じている。
日本が他の先進国に劣って見えてしまうのは結局、韓国のような目に見える形を持たない、それ以上に陰湿な女性蔑視社会が根底にあるためではないだろうか。
無論、日本に限らずアジアでは女性がとにかく蔑視される風潮が未だにある。
インドやイスラム圏を見ても強姦事件が発生すると男性は放免で女性は冤罪であろうと死刑に処される所を見るにその風潮は根深いというしかない。
その中で、アジアでもとりわけ特異な女性蔑視社会を享受する日韓両国を見ると悲しくなってくるのは何故か。
韓国の伝統衣装を見てもこうなのだから、現在の韓国を生んだ日本では今もってたくさんの女性が社会進出を妨げられているに違いない。
http://anond.hatelabo.jp/20130811121749
どの国にも少数の金持ちと多数のそうでない(中産階級以下)がいる。後者の方が圧倒的多数だ。
多数者が民主主義の原則に則り、数の暴力で少数者の財産を没収するというのが、累進課税というシステムであり、それは民主主義上正しい。
それはそれでいいんだよ。そういうシステムが民主主義上選択されたんだから。
自分の利益を最大化するための選択であって、一貫性も道徳も関係ないんだよ。
でもその「民主主義上選択されたという正しさ」を、「思想的に正しいから」とか「道徳的に正しいから」とか「神授的に正しいから」などといった別のカタチでこねくり回そうとするのはクソだ。
ただ単に正当化された搾取なんだからある種の暴力だって自覚して暴力すればいいのに、多数派が自分らが正義であると思い込みたいがために「成金=悪」みたいなレッテルを貼って正当化にいそしむ様が醜い。
金持ってる側もそこに善悪とか見てると疲れるだけだよ。それはただ単に多数決的な暴力の構造なんだから、システムを適当に使って節税するなり、海外に資産を回避させるなりすればいいだけなんだ。
五大天才漫画家「手塚治虫」「尾田栄一郎」「鳥山明」あと二人は?
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4323316.html
1.質が高い作品を複数、残している。
を条件とした場合、
手塚が入るのは当然として、赤塚は作品自体のクオリティはともかくとして革新性が弱い。
尾田は商業的にはひょっとしたら鳥山よりも成功した漫画家かも知れないが、やはり革新性に劣る。尾田はたとえるなら少年漫画界のマーガレット・ミッチェルみたいなもの。作品の訴求力と当人のクリエイターとしての革新性とは別。
鳥山は天才に当てはまると思う。ギミックを詰め込んだデフォルメされながらもリアリティを持つ画風自体が衝撃的であったのと、アメコミの影響を受けて租借したうえで、日本の漫画の原稿に和風化して落とし込むという表現技法上の革新もあった。「Dr.スランプ」は大友克洋の「AKIRA」よりも早い。言うまでもなくメガヒットを複数出している。大友をして大友的な革新性の代表として天才扱いするならば、大友的な革新性は鳥山の中に抱合することが出来、時系列的にもそれが妥当だと思う。
水木しげるは天才と言うよりはアルチザン。緻密に粘着的に徹底するという程度が他者を凌駕しているのであって、漫画史全体で見れば、それほど重きを置かれるわけではない。これは水木を軽視しているのではない。作品への評価で言えば、私はむしろ水木を手塚を凌駕して評価している。ただ、漫画史的な視点での評価はおのずと作品評価とは異なると言うことだ。田山花袋や横光利一が作品単体では大した作品は残していないにも関わらず、文学史的な革新性において評価されるように、ここで言う天才とは、作品自体の質はもとより、その数、社会的影響力、そして革新性を備えている必要があるということだ。
そういう意味では石ノ森章太郎は、天才何人か分の重要、かつ致命的な影響を漫画史に残している。フォーマットの創始者という点においても、集団ヒーローの群像劇、そのキャラクターの性格づけはもとより、マーチャンダイジングの手法においてもパイオニアと呼ぶべきである。更に重要なのは、いわゆる「オタク的」な要素の萌芽がすべて石ノ森作品の中に顕著にみられることであって、少年サンデー的な、中産階級的な趣味的なマンガすべてが石ノ森マンガに端を発しているという点である。意外と重要なのは、「日本経済入門」のような、それまで非マンガ的な要素とされていたものについてもマンガに取り込んだことで、手塚や水木の中に見られるマンガというイデオロギーを脱して、徹底的に表現手段として分解してみせるという、作家性とは別の次元の理数系的な分析をマンガに持ち込んだのも石ノ森である。
漫画表現の飛躍的な革新を成したという点では24年組(竹宮恵子、萩尾望都、大島弓子、山岸涼子)を挙げなければならないが、その集大成的な立場としては萩尾を挙げるべきだろう。手塚が基本フォーマットを作ったと言われる戦後マンガの基本は、映画表現をいかにして紙の上に再現するかと言う視点から成り立っていた。萩尾らによってマンガは初めて独立した表現手段になったと言ってよい。マンガは文字と絵が同じ一つのコマの中にあり、吹き出しのセリフ、吹き出し抜きの内面のセリフ、そして絵とそれぞれ矛盾した内容を同時に表現できる唯一の表現手段である。たとえばぶっきらぼうな少年が少女に向かって毒づきながら、なおかつ画面上では頬を染めるなどをして、明らかに少女への好意を示しているような表現は文学では難しい。描写ではなく説明になってしまう。更に実はそれも演技だとして、内面は実はこうすれば少女は自分に対してぶっきらぼうな少年に対する好意を増すであろうとの計算があるとすれば、その内心を同時に表現するのはこれは映画等でも不可能なのである。こうしたマンガ独自の表現方法の確立は萩尾望都を代表とするのであり、その表現手段の派生が致命的過ぎてもはやエピゴーネンとも意識されないほどの重大な影響を及ぼしていることを踏まえれば、彼女の存在は、二十年、三十年のスパンではなく、百年、二百年のスパンで見るならば、手塚をもはるかに凌駕する重大かつ致命的な転換点となったのであった。
と5人のうち4人までが選ばれたが、ここは議論の余地がないところである。つまり個々のこのみや評価の違いはあっても、漫画史の視点から言えば、偏見なく選べばこの4人は欠かせないということである。残りの一人は評価と好みの違いになるだろう。私は、
藤子・F・不二雄を挙げる。
[補足]
まあ、みなさんいろいろご意見はおありでしょうが、そもそも5人に絞るのが無理っちゃあ無理とちゃぶ台をひっくり返してみる。
「てめー、あれ読んでねえだろ」「俺はビートルズの武道館ライヴ見に行ったんだぜ」「江夏の21球も実際に見てない奴が投球論を語るな」的な反応はプロレス論の醍醐味で正しいレスポンス。
レスが挙げているような御大たち、高橋留美子、大友克洋、白土三平、水木しげる、赤塚不二夫、永井豪、いしいひさいち、つげ義春、大島弓子、大和和紀、三原順、梶原一騎、吉田秋生あたりは誰が入ってもおかしくない。個人的にはいくえみ綾とかも入れたい気もするが、個人的過ぎるので止めた。
あと、尾田先生が入っているのはつりですか、みたいなことを言う人には、何といっていいものやら。
[補足の補足]
ekken さんがブコメで尾田は外せよみたいなこと言ってたんですが、私もそれはリンクを張っている元記事について言っているんだろうなって思いました。そうじゃなくてもっと直接に私に向かって「尾田先生が入っているのはつりですか」と言っている人がいたんで(消されたみたいですわ。こわっ)、書いたことで批判されるならともかくさすがに言ってもないことで揶揄されるのはやだなあと思って補足しました。ekkenさん、ご迷惑おかけしてごめんなさいね。この点をブコメで指摘してくださった方も、言ってもいないことで私が批判されるみたいな流れになるのをくぎをさしてくださったんだと思います。ありがとうね。
「奴隷制が廃止された理由です。奴隷制は奴隷の面倒を見なければならない。 強制的に働かすには暴力で脅す必要があるので、軍隊のコストがバカにならない。 それに無理やり働かせてるのではモチベーションがあがらないから生産性が悪い。 それより解放して、一生懸命働けば豊かになれると思わせた方が、 進んで働くから生産性が高いわけです。でも、実際は賃金を管理されているから、 いくら一生懸命働いても豊かになれないのですが・・(植民地が独立できたのも 同じ理由による)」金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った
「「消費者」は、産業革命とともに生まれた。産業革命によって、工業製品の生産量が 飛躍的に増え、多くの人々が工業製品を買えるだけの経済的、時間的な余裕を 持つことが必要になった。生産効率が上がって増え続ける商品を、売れ残りのないよう 人々に消費をさせるには、人々の所得を賃上げで増やさねばならないし、 金を使う余暇を適当に与えねばならない。酷使される貧しい工場労働者を、 消費する中産階級に変えていくことが、実は資本家の好むところでもある。大量生産がなかった産業革命前には、資本家の事業が一般の人々を巻き込む必要はなかったが、 産業革命後、資本家は一般の人々を、労働者と消費者の両面で巻き込まねばならなくなった。」田中宇の国際ニュース解説
8月は終戦の季節なので。
1941に真珠湾で開戦し、当初は連戦連勝だったが、1943辺りから敗色が濃くなった。
選択肢としては、そのまま「本土決戦」まで突っ走らずに、ミッドウェーとか
ガナルカナル、フィリピン争奪戦辺りで、アメリカと講和する、という選択肢もあったかもしれない。
(欧州でヒトラーが交戦状態だったので、日本単独の講和が可能かどうか微妙だが)
「1943頃に、中途半端に講和休戦する」より、
「1945まで玉砕で突っ走って、無条件降伏に追い込まれた」ことが、
数値は腰溜めの数値だが、
「A=開戦前の4分の3の国力の状態で1943頃に休戦し、その後5%の経済成長の日本」と、
「B=開戦前の2分の1の国力まで落ち込んで1945に無条件降伏し、その後10%の経済成長の日本」。
確かに一時的に辛いのはBで、それこそ飢餓線上スレスレだったのだが、
数十年のスパンで考えるとどうか?
75.00 1943
78.75 1944
82.69 1945 50.00
86.82 1946 55.00
91.16 1947 60.50
95.72 1948 66.55
100.51 1949 73.21
105.53 1950 80.53
110.81 1951 88.58
116.35 1952 97.44
122.17 1953 107.18
128.28 1954 117.90
134.69 1955 129.69
141.42 1956 142.66
148.49 1957 156.92
155.92 1958 172.61
163.72 1959 189.87
171.90 1960 208.86
180.50 1961 229.75
189.52 1962 252.72
199.00 1963 278.00
ということで、当初は苦境だが、1956頃にはBの体制の方が経済規模で優位になり、
以降その差は拡大していく。
Aの体制だと、軍部はそのまま温存され、治安維持法も大政翼賛会も温存。
GDPに対して軍事費の圧迫は著しく、又外交も困難を極め、自由に資源調達できず、自由貿易も望めない。
ひと握りの中産階級と多数の貧農、という体制下なので内需も拡大しない。
言論の自由は制限され、それによる萎縮効果で、科学技術の進展も緩やか。
結局、一時的には辛くても、「膿を出し切って、高度成長できる自由体制」に舵を切った方が、
長期的には国力は増す、ということになる。
結果的に旧国体が解体に追い込まれたことによって、高度成長体質になった、その意味では
日本が「徹底的に太平洋戦争を戦った」ことが、その後の日本のためになった、と感じている。
逆説的だが、頑迷に本土決戦に固執して自爆した、旧日本の支配層には
ロンドンその他都市のあの「愚者の祭り」から1週間が過ぎて、あの月曜日の事情が少しずつ分かってきた。5年以上ロンドンに住んでいる者としてあれこれ考えることも多かったし、諸事情で「暴徒」のおかれた環境について少し知る機会もあったので、少し書いておきたい。
これについては、無軌道な若者の暴走と言うことで概ねコンセンサスは取れているように思う。以下のtogetterは現状ロンドンで理解されていることに近い。
警察が、最初の暴動の抑制に失敗したことで、「今なら何をやっても大丈夫」という無礼講的なお祭り騒ぎが一挙に拡大したと言うことなのだろう。周囲の興奮と燃えさかる炎に当てられて、「乗るしかない、このビックウェーブに!」とばかりに舞い上がってしまった子供が相当数いたであろう事は間違いない。(ロンドンで逮捕された暴徒の5割以上は18歳未満であるというニュースが出ている。)
もちろん、子供の暴走がここまで大事になってしまったのは異常事態であり、その裏側に社会的問題があると考えるのは当然だ。ただし、今回のように、当事者すら争乱の理由が分からないという状況は、「ぼくの考える社会の欠陥」的な牽強付会の自説を宣伝する絶好の機会だ。実際、イギリス社会の事情も知らず、勉強した形跡も全く読み取れないのに、適当なことを言って悦に入る類の人をTogetterで何人か見かけた(以下に一例)。このエントリーを書こうと思ったのは、その手の単純で非現実的な観念論ではなく、地に足のついた議論の土台を提供したいとおもったからだ。
http://www.guardian.co.uk/uk/2011/aug/09/london-riots-who-took-part
報道から明らかになっているのは、暴徒の大半が未成年であること、特定のエスニックグループが暴徒になったわけではないこと、そして多くがロンドンでも貧しいとされる地域の住人であること。加えてもう一つ言えるのは、彼らの多くがカウンシルフラットと呼ばれる、低所得者向けの公営住宅に住んでいると言うことだ。このカウンシルフラットというのは、イギリスの貧困を語る上では非常に重要な点なので、少し説明をしておきたい。
イギリスにはホームレスが少ない。ロンドンを歩いていると分かるが、駅の構内で段ボールを敷いて寝ている人が殆どいない。公園に段ボールハウスの村が出来ているということもない。どうやらロンドン全体で野宿人の数は500人に届かないようだ。イギリス全体でも1000人未満のようで、2万5000人のドイツと比べると圧倒的に少ない。
何故かというと、イギリスにはあちこちにカウンシルフラットと呼ばれる公営住宅があり、イギリス国籍さえあれば、家賃を払えない低所得者は優先的に居住が認められるからだ。このカウンシルフラットがどのくらいあるのかは自分には分からないが、イギリス中そこかしこにあると思ってもらって間違いない。下の地図は今回暴動の起きたHackneyのものだが、住宅の実に5割がカウンシルフラットとなっている。
カウンシルフラットの家賃は圧倒的に低く、ばらつきはあるものの相場の5分の1程度。それすら払えない人には更に住宅手当が下りる。光熱費やTV受信料も実質タダだ。そして、当然家があるだけでは餓死してしまうので、これとは別にpersonal allowanceと呼ばれる生活手当が出る(最近制度改革があったので名前などが若干違うかもしれないが、大枠は同じ)。25歳未満の単身で週に50ポンド。25歳以上なら60ポンド。外食さえしなければ十分食費と携帯代をまかなえる金額だ(円高の今だと8000円弱に相当)。イギリス国民には、食べるに困るレベルでの貧困は(概ね)存在しない。
ただし、これだけ「おいしい」カウンシルフラットは、当然人気も高い。ウェイティングリストの人数は500万人に達しており、それなりに困窮していないとフラットは手に入らない。下の掲示板では親とカウンシルフラットに同居している30歳女性が、一人で住めるカウンシルフラットを探しているのだが、「今現在無宿とかでないと難しい」と返答されている。
http://boards.gumtree.com/viewtopic.php?t=215432&p=2686792
ここで、イギリス人なら誰でも知っているトリックがある。子供がいて、しかも親がシングルマザーだと、フラットが優先的に廻ってくるのだ。こうなると、親から独立したい、しかし職がない子供にとって、手っ取り早い手段は妊娠と言うことになる。かくして、イギリスは先進国でも突出して10代の母親が多い国になった。しかも、子供が生まれると一人当たり週に12~20ポンドのChild benefitが支給される。また、シングルマザーだと上の生活手当も週に40ポンド前後は増額される。このため、パートナーがいても敢えて結婚せず、シングルマザーになる母親が多い(当然の結果として、その後別れて本当のシングルマザーになる確率は高まる)。母親ひとりに子供一人で月500ポンド(約7万円)あれば、正直生活には困らない。
とはいえ、貯金は難しい。それに、貯金額が6000ポンドを超えてしまうと支給額が減額されてしまうので、そもそも貯金する理由がないのだが。ちょっと大きなTVを買おうとすれば、夜遊びを楽しみたければ、その分働くしかない。問題なのは子供だ。託児所に預けたいところだが、ロンドンの託児所は1ヶ月フルタイムで1000ポンド。平均所得層ですら厳しいこの金額を彼らが払えるわけはない。その結果、子供は無人の家に置き去りでTVを見るかゲームをするかと言うことになる。言葉を学ぶには最低の環境だ。
その結果起こったのが、子供の識字率の低下。移民だけでなく、ネイティブの識字率が低下している。2007年に政府が行った大規模な調査によると、小学1年生の6分の1が自分の名前やmom, catといった3文字の簡単な単語を書くことが出来ない。当然、こういう子供は小学校のカリキュラムに着いていくことは難しい。その結果、無視できない数の中学生(数字は忘れた)が、「数学の試験問題の英語が理解できない」ために零点をとる、という現象が起きてしまった。こんな状況では学校に行くのは苦痛でしかない。カウンシルフラットの周りでは、昼間から特に何をするでもなくぼーっと座っている子供達をよく見かける。
この様な子供が成人して職に就くのは、非常に難しい。肉体労働系なら大丈夫だろうが、ポーランドからの出稼ぎ労働者の方が高いスキルと低い給料で働いている。それよりも低い賃金では、生活保障の支給額を下回ってしまうので、働く意味がない。こうして、カウンシルフラットで生まれた子供は、またカウンシルフラットで自分の子供を産むことになる。ちなみに、失業手当の受給者数は約150万人。人口が倍の日本では80万人だ(失業率は8%弱)。別制度のincapacity benefit(病気などで働けない人のためのもの)の受給者は250万人(人口の5%弱)を超えている。
結果、親子3代、殆ど働きもせずカウンシルフラットに住み続けている、という話は、もはやイギリスでは珍しいものではなくなっている。このような状況で子供が未来に希望を見いだせないのは当然のことだ。少なくとも彼らには、サッカーの才能に恵まれてプレミアリーグに行くくらいしか、この生活を抜け出る手段がないように見えるのではないか。これでは、リオデジャネイロの山肌に広がるスラムの子供にサッカー以外の未来がないのと大して変わらない(実際には、カウンシルフラット生まれでも頑張って勉強して、奨学金で博士号まで取る人もいる。そのための制度や組織もある。ブラジルのスラムに比べれば、カウンシルフラットの子供達は圧倒的に恵まれているという点は強調しておきたい)。このような状況で鬱屈しないでいられるのは、よほど心の強い人間だけだろう。
今回暴動でワイン1本を盗んで歓声をあげ、昨日裁判所で有罪を宣告された子供達は、多くがこういう鬱屈と共に生きているのだと思う。
カウンシルフラットの子供達が鬱屈しているならば、イギリスの納税者達は絶望している。イギリスの税金は高い。年収550万円以下なら所得税は20%、それ以上なら40%(しかも、社会保障関連の支出は所得税収総額を上回っている。なにしろ、上に書いたincapacity benefitだけで1兆5千億円かかっていたのだから)。消費税は20%。それ以外に地方税も取られるし、国民保険料も安くはない。通勤の交通費は自腹が原則だし、会社が住宅補助を出してくれると言うこともあまりない。そういう辛い家計をやりくりしながら、やたら高い家賃を払って暮らしている家のすぐ隣で、無職の人が昼間からぷらぷらしていたりするわけだ(カウンシルフラットは本当にあちこちにあるので)。
それでも、ブレアが政権を取った1997年以降、イギリス人は低所得層との格差を縮めるために税金を投入する政策を支持してきた。小学校低学年は30人学級となり、小学校入学前に児童の学力を底上げするためのプログラム(SSLP)にも1000億円の予算が付き、補習授業は大きく拡充され、挙句には、高校をドロップアウトする生徒を減らすために、出席率が高い貧困家庭の生徒に補助金まで出した。職歴のないシングルマザーにはコンサルティングから面接の訓練まで提供している(一人当たりのコストは10万円)。
にも関わらず、今回の暴動だ。これを「先進国とは思えない、途上国の光景のようだ」と思った人はイギリスにも少なくない。ブレア政権の教育改革がスタートしたのは99年前後だから、今回の暴徒の大半は改革された教育制度の下で育ってきた子供達である。これだけの負担をしていながら、なぜ途上国のスラムのような光景を見なければならないのか。これに絶望せずにいられるのは、やはりよほど心の強い人間だけだろう。
(1) 警察力の強化。これは言うまでもない。秩序を失えば人間は(誰であれ)動物になりうると言うことを、今回の暴動は証明した。ならば、秩序の維持は至上命題だ。先週キャメロンがアドバイサーに招聘したビル・ブラットンはニューヨークで例の「割れ窓理論」の実行部隊を指揮した人であり、警察官の最適配置システムの第一人者でもある。締め付けは厳しくならざるを得ない。
もしこの手の暴動を放置すれば、被害者は自警団を組織する。彼らは武装し、いがみ合い、それが新たな暴動の引き金になる。そうなる前にキャメロンには何とか手を売ってもらいたいと思う。もしかしたらもう手遅れなのかも知れないが。
(2) 社会保障制度の見直し。これは実のところ暴動前から進行している。上で書いたincapacity benefitだが、悪用して海外旅行まで楽しむ輩が多く出た上、一度受給者になると死ぬまでもらえるので、就労意欲がゼロになる。以前から批判が絶えず、キャメロン政権は廃止を決めた(別制度で代替)。ただし、これらの社会保障の削減が暴動の理由ではないというのはマスコミでも一致した見解だ(まだ削減は殆ど始まっていない上、暴徒の大半は親元で暮らしているのでそもそも受給していない)。
上でも書いてきたように、手厚い社会保障制度それ自体が受給者と、その子供や孫の未来までをも奪ってきたという側面がある。そして、この制度は格差の縮小どころか、治安維持という最低限の目的すら達成できなかった。何より、イギリス経済はこれ以上の負担にはもはや耐えられない。ならば、社会保障は削減しつつ、彼らに可能な限り働いてもらうしかない。Benefit Busters (興味のある人はyoutubeで検索すると良い)などを見ているとなかなかに大変そうではあるが、もう選択肢がないのである。
(3) 納税者の復讐。今日キャメロン首相まで”social fightback”と言う言葉を使っていて驚いた。具体的には、暴動に参加した子供がいる家庭に対する社会保障給付の停止。カウンシルフラットからも追い出す。少なくとも感情的には、そして理屈の上でも、そうすべき理由はたくさんある。それが更なる悪循環を招くとしても、あそこまでやられてしまっては納税者の側も収まらない(ちなみに、オックスフォードケンブリッジ卒のエリートはこの手の復讐にはあまり賛同しない。彼らはびっくりするほど穏健だ。怒っているのはむしろ小商店の店主のようないわゆる中産階級に多いような気がする)。鬱屈した子供の暴発を「社会の歪み」を理由に肯定する人は、絶望した納税者の復讐も肯定せねば片手落ちであろうと思う。
最後に、下のtogetterで見つけた以下のコメントについて。
火がつけば爆発するしかないほどの不満を溜め、失うものが何もない奴らがこれだけの数居るんだよ。社会がそれを生んだ。(中略)問題は目の前にそのままの姿である。こいつらのYouTubeを見ろ。音楽を聴け。睨みつけてくる視線に自分をさらせ。
この人の書いたラップの話は、今まで全く知らなかった分野な事もあって新鮮で、興味深く読んだが、このコメントには一言申し上げたい。無茶言うな。暴動明けの火曜日の朝にCamden Townの駅で暴徒の一人とばったり顔を合わせたが、彼の睨み付ける視線にどう応えろと言うのか。プラットフォームのあちこちにどかどか蹴りを入れながら、肩で風を切って周囲にガンをたれながら練り歩いていったが、一個人として彼を見れば、まだ自分を抑制できないただの子供であり、仮にポケットの中に盗品が入っていれば犯罪者に過ぎない。彼らをひとりの人間として直視するなら、そういう扱いにならざるを得ない。復讐の対象にならざるを得ない。むしろ、彼らを一個人ではなく社会現象の一部として扱った方が、まだ冷静な判断は下しやすくなるのではないかと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20110606225523
すごくよくわかる、気がする。勘違いかもしれないけど。そして周りの人がこれを理解出来ないこともわかる。
僕ははじめて女の子と付き合うのは遅かったけど、それまで何度か告白されたことはあって、そのどれも振ったけど、「僕とは釣り合わないよね」と言うのが最大の理由だった。釣り合わないってバカにしてるように見えるかもしれないけどそんなかっこいいもんじゃない。その人とお付き合いして二人で歩いてる時に、周りの人から見て釣り合ってるカップルだなあと思われるかどうか、が重要。バカにしてたっていうよりむしろビクビクしてた感じ。ほんとに、好きか嫌いかじゃなく釣り合っているかどうかが第一で絶対重要なことだった。それで、この人の言うことはすごくよくわかる。そしてそのような女の子たちに僕が思った感情は、「ごめんなさい」だった。本当に。嘲笑とかまったくない。バカにしてもいない。キモイとも思わなかったのはこの人とは違うのかもしんない。でも、周りの人はこれを読むと、それは本質的には嘲笑しているんだとか言うんじゃないかと思う。それは理解できる。でも本当にそういう気持ちじゃなかったと言うしかない。
他の人が釣り合わない恋愛をしようというとき、この人はすごい憎しみを感じるのに対して、ぼくはそういうふうに動くことができるのはうらやましいと思うので、そこはちょっと違うけど、本質的な違いじゃないと思う。本質的に違う人は、そもそも釣り合わないとかなに?って人。これが気になる人はみんなそれなりに似たところあるでしょ。
今僕は結果的にすごい美人さん(と我思う)と付き合っているけど、いまだに釣り合いの悪い自分が横にいることが時に耐えられなくなる。多分この人みたいな人は「釣り合わねー」と思うんじゃないかな。・・・というふうに思う。そんなふうにして自分が自信を失っているとき、彼女は不機嫌になっていることもわかる。女性はやっぱ自分に自信を持った男性が好きだと思うので。という僕も、彼氏彼女関係ではなく仕事をしているときには自信満々であるっぽく、そういうところを好きになってくれたのだろうと理解しようと努力する。そうするともやもやは少し解消する。釣り合いが取れてない?いや、そんなに釣り合いが取れてないと向こうが思ってるなら向こうも付きあおうとしないだろうし。もしかすると僕のことをものすごく勘違いしているのかもしれない。そして、本当に釣り合いが取れてないことが向こうに判明したなら、向こうから別れを切りだしてくるはず。気楽にいこう。というのが今の気持ち。と言ってもこの段の冒頭にいつも逆戻りしてる。そのたびに彼女は不機嫌になる。
これまでの彼女は自分的には自分と釣り合い取れた彼女で、精神的ストレスもほとんどなかった。今の彼女に釣り合いストレスを感じるけど、同時に、釣り合い思考からだんだん脱して行ってるようにも思う。それをさせたのは努力。それしかないや。
こんなような僕の感情の動きの中に、彼女を愛してるって気持ちはどれだけあるんだろう。自分でもときに自問する。いや愛してると思うんだけど。結局、相変わらず釣り合ってるかどうかが一番優先されているのかも?そうなのかも。みんな簡単にブコメつけてるけどね、釣り合い重視の人が人を愛して周囲を一切気にしないで誰かを愛せるようになるって言うのは、高校時代ひきこもりのキモオタが大学デビューして合コン三昧のリア充になっちゃうくらいの確率でしかないのじゃないかと思う。適当だけど、つまりすごく難しいってこと。
結局こういう気持ちがどうして起こるかというのは、日本社会の同調圧力のもとで、自分で自分にプレッシャーをかける日本人の体質的なものだろうし、それはいくつかある冷静なブコメが指摘してること。過剰な労働も、自殺も、無能なトップも、みーんなこれが原因だ(そして現代の日本社会を生み出した、世界一優秀な中産階級も)。日本社会同調圧力のもとで、いろんな環境が作用して、それぞれの方向に行くんだと思う。それは日本社会の根本的な問題なので、それに対する解決策があるんなら苦労しない。日本は今みたいに停滞してないと思う。
それでも彼女は救いを求めてるようなので、自分がもしあなたと似たような人間だとして、経験上いちばん有効なのは海外に行くことだ!マジこれしかない。だって原因は日本社会なんだもん。特に西欧文化圏は本当にオープンで、ていうか、オープンであろうと努力してる人間社会なんだ。だいたい白人とアジア人のカップルなんて釣り合うと思うかね。誰も思わねーよ。でもね、そもそも、「釣り合い」なんていう概念がない、なくそうとしてる社会だったら・・・もちろんゼロではない。でも超金持ちさんザッカーバーグの彼女が中国人だったりとかそういうこともある。語学はまずつけてから行ってね。あと人種差別にはめげないように。しょうがねっす。強く生きてる華僑とか見ると少し勇気づけられる。日本みたいに、そもそも生活レベルが欧米より上(これはマジです)っていうことすらないのにね。
そしてまた、海外に行くと、日本社会のそれはそれは素晴らしい特質もすごくよくみえてくると思う。それで、海外で釣り合い意識から脱したら日本に帰ってもいいんじゃね。それか、超気に入ったんならそのまま海外に住んでもいいんじゃね。自由に行こうよ。もちろん苦労も多いだろうけど、こんなふうに自由にできる時代なんて、人間の長い歴史の中でそんなにないんだぜ。太平洋戦争前にアメリカに移住してた僕らのご先祖さまは、強制収容所にぶちこまれたんだぜ。それに比べたらどんだけ楽なことか。
あと病院行けって言ってる人はなーんもわかってね。社会や人生をあまり知らない人っぽいや。こんな人山ほどいるべよ。統失と躁鬱と小児精神病以外は、精神科なんて本人が行きたきゃ行けばいいし行きたくなきゃ行かなきゃいいさ、病院なんて(ボケはまず神経内科行け)。行きたくてたまらない人はもちろん効果ある。でも行きたくてたまらない様になっている時点で精神的にはかなり参ってる。この増田はそんなんじゃないよ、多分。
さらっとしか読んでないけど
今後の先進国では
創造的なデスクワークが出来る人(企画(笑)ではなくて本当に企画が出来る人)
―――――――――――――――勝ち組の壁―――――――――――――――
―――――――――――――――中産階級の壁―――――――――――――――
―――――――――――――――人間の壁―――――――――――――――
の序列になると思う。
事務作業なんてIT化とアウトソーシングで何とかなってしまう。
だから法務とか知財とか以外の事務系社員って無職予備軍なんだよね。
実際問題、旧帝大一橋、東工大、国公立の医歯薬理工学部と早慶以外の大学出ても何も意味がなくなる。
子供のころから特に機転がきく方でもなくて、文系大卒で外食産業とかで働くのが嫌だって言ってる人達は一生よい生活は出来ない。
自由 リバタリアニズム 政治 多様性 社会主義 日本 考え パターナリズム
bradexさんが、ナチスの「25か条綱領」というのを紹介している。
ウィキペディア - 25か条綱領
http://ja.wikipedia.org/wiki/25%E3%82..
<25か条綱領(独: 25-Punkte-Programm)はナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党綱領。1920年2月24日、ミュンヘンのビアホールホフブロイハウスで採択された>。
その25か条綱領には、次のようなものが含まれている。
・我々は、老齢保障制度の大幅な強化を要求する。
・我々は、健全な中産階級の育成とその維持、および大規模小売店の即時公有化、小規模経営者に対するその安価な賃貸、全小規模経営者に対して最大限考慮した国家・州または市町村に対する納品を要求する。
・我々は、我が国民の要求に適した土地改革、公益目的のための土地の無償収用を定める法の制定、地代徴収の禁止と土地投機の制限を要求する。
・我々は、公共の利益を害する活動に対する容赦ない闘争を要求する。高利貸し、闇商人等の民族に対する犯罪者は、宗派や人種にかかわらず全て容赦なく処罰される。
・我々の要求をすべて実行するために:国家の強力な中央権力の確立。中央議会の国家全体および組織一般に対する絶対的な権威。公布された国家の大綱的法規を連邦各州において実施するための階級・職業別の団体の形成。
これを大雑把に言い直せば、「大企業は儲けすぎだからもっと税金を取れ」「老人への保障をもっと手厚くしろ」「大きな店は潰して、小さな店だけにしろ」「不動産を貸したり転売して儲けることは許さない」「高金利の金貸しは許さない」といった話だから、いまの日本でもよく言われているような話である。
これがナチスの綱領であることを隠して、「このような政党があったら支持するか?」というアンケートをもし日本でやったら、支持する人はかなりいるのではないか。「立派な考えだ」「なかなかいいことを言っている」といった反応がおそらく続出すると思う。
ナチスについて少し調べればわかることだが、ヒトラーは「ただの極悪人」ではない。ユダヤ人への弾圧や虐殺などがひどいのは言うまでもないが、上記のように、政策の方向性としては「左翼的な正義」が基調である。いわゆる「悪人」というよりもむしろ、「使命感に燃えた善人」に近いといってもいい部分がある。
実際、ヒトラーは自分が「善」だと強く確信していたからこそ、権力を握ることで「悪」を撲滅しようとしたのだろう。そして、それに一定の説得力があったからこそ、支持を集めて、権力を得ることができたわけだ。
もちろん、ナチスの政策だから全部間違っているということにはならないし、ナチスの政策にも正しいものはあるかもしれない。重要なのは、ナチスの政策が正しいか間違っているかというよりも、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ、ということなのだ。
正誤・善悪によらず、何かを他人に「強制」するという考え方にこそ、全体主義やファシズムへの萌芽がある。何かを他人に「強制」してもいいと考えている人は、自らの無謬性(誤りがないこと)をまったく疑っていない。自らの正しさを確信すること自体は問題ないのだが、それを「他者に強制する」ことから問題が生じる。
自由主義やリバタリアニズムがこの「強制」を嫌うのは、何が正しいのか、何が善なのかということに関して、唯一の絶対的な基準があるということを疑っているからだ。自由主義者やリバタリアンは、つねに異なる意見、異なる価値観を共存させ、多様性を認めることで、社会は発展するし、また社会は安定する、と考える。
自由主義者が政府より市場を好むのも、政府は「強制」するものであり、市場は「自由」な取引で成り立つものだからだ。
私の見たところ、日本というのは「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方がわりと強い国だと思う。そういう考え方の人は、たいてい「悪人」ではなく、むしろ「善人」だったりする。「いい人」なわけだ。しかし、他人に「強制」すべきでないということや、異なる考え方をあえて共存させる「多様性」の重要性については、あまり理解されていないように感じる。
菅首相なども、「善人」なんだけど、「強制」することが問題だとわかっていない人の典型である。左翼的な考えの持ち主はわりとこのパターンが多くて、弱者を思いやる「善人」なんだけど、「強制」することでどういう問題が生じるかがわかっていない、と感じられる場合が多い。こういう人は、弱者を思いやるのはいいのだが、その一方で、金持ちや経営者を「悪」だと決めつけてしまいがちだ。
「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方は、まさに「パターナリズム」である。それは、親が子供に対しておこなう場合であれば許されるだろうが、社会のなかで他者に対して「強制」をおこなうことは許されない。しかし、この「強制」が唯一、合法的に許されているのが政府である。
よって、政府は「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方の危険性や副作用をよく理解して、どうしても「強制」を行使しなければならない場合にのみ、きわめて慎重に行使すべきなのだが、日本政府はそれをあまり理解しているようには見えない。最近また大店法の話が出てきたりしているのを見ても、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」ということを、むしろ無邪気に信じているかのようだ(特に民主党は、以前からこの傾向が目につく)。その規制が経済をブチ壊すことを理解できないのだろう。それも経済産業相が、である。
民間人は「ゲームプレイヤー」であり、政府は「ゲームデザイナー」である。企業や民間人は、政府のような「強制」力を一切持っていないのだから、社会問題になるような「構造」問題に対しては、企業や民間人には責任が生じようがない。これは「システム」の問題なのであり、よって責任があるのはもっぱら、「強制」力によって制度設計をおこなった政府である。それなのに、民間の企業を「ワルモノ」扱いして、その行動をさらに規制すれば問題が解決すると考えているのだから、まるで逆だ。セーフティネットは必要だが、市場を規制してもセーフティネットにはならない。
http://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-program
関連エントリ:
http://mojix.org/2010/01/23/libertarianism_kimo
どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する
http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei
地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)
海外のblogで初音ミクについて熱い(長い)文章を書き込んでいるのを見かけたので試しに翻訳してみた。無断翻訳なので匿名で。urlは以下の通り。
http://deliciouscakeproject.wordpress.com/2010/09/20/hatsune-miku-and-the-magic-of-make-believe/
=====以下翻訳=====
そこにはバルトロメオ・クリストフォリって名前のすげえヤツがいた。こいつの得意技は楽器を作ることだった。何でも作ったわけじゃない。当時はひどく弱々しいちっこいもので、しょぼい羽柄が並んだ弦を引っかいて金属的なチャリチャリした音を出すもの、つまり鍵盤楽器を作っていた。いわゆる「バロック・ミュージック」ってヤツだ。クリストフォリが音楽技師として、また機械技師としてやったのは、弦を異なる強さで叩くハンマーを使った仕組みづくりで、それによって演奏家は小さい音(ピアノ)や大きな音(フォルテ)で演奏できるようになった。だもんで皆それをイタリア語でピアノフォルテと呼んだ。もちろん、今ではお前も俺もそして誰もがクリストフォリの発明品をピアノと呼んでいる。
イタリアはピアノを発明することによって、日本が初音ミクを発明するための扉を開いた。
***
俺は今、ここサン・フランシスコの150席しかない小さな映画館で、秋のアイドル公演を待っている。チケットが完売した「39[ミク][[Sankyu!]] Giving Day」コンサートの上演を見るために、愚かな時間の無駄遣いをする連中が集まっている。コンサートじゃ電子的に創造されたポップアイドルつまり緑の髪をした女神が、ゼップ東京のコンサート会場で生演奏するバンドにあわせて踊り歌っている様子がスクリーンに映し出されている。それはまるで、一部はライブなんだが、本当はそうではなく、「本物」のボーカロイド・コンサートでお目にかかれるのに近いものだった。言ってみればゴリラズを見に行くのとそれほど違いはない。伴奏は本物のミュージシャンが作り出しているが、客が見ているのはいわば巧妙なごまかしの表層であり、音楽に命を持たせるために使われる動くペルソナだ。これがミクの魔法である。それは見せかけの魔法だ。
***
クリストフォリがピアノを発明した頃、J・S・バッハは平均律クラヴィーア曲集を書いた。そこでは要するに鍵盤楽器の各音程間で一通り数学的な調整をすれば、突然どのような調号でも十分演奏できるようになるということが言われている。言い換えれば、何か妙なことをしようとした際にいつも調子はずれの音を出すのではなく、初心者から中級までのピアノの生徒がやらかす糞を抑えるような5フラットとか7シャープとかそういったことが完全にできるようになる。これによって18世紀の鍵盤楽器は初めて、いちいちくそったれな調律をしなおすことなく新しい楽想を試すことができる原始的なワークステーションとなった。
数十年後、ようやくピアノの価格が下がり十分なほど生産できるようになったことで、それは非常識なほどの大金持ちだけの特別な楽器ではなくなった。代わりにそれは有名な王族たちのような常識的な程度の金持ちが購入できるものとなり、彼らは好んで地元の作曲家を雇い自分たち(とその客)を楽しませるために音楽を書かせた。こうした作曲家の一人があのヴォルフガング・A・モーツァルトであり、彼の特別な才能は主に下ネタと女性の音楽生徒に対する性欲の面で発揮された。もちろん鍵盤楽器からふざけた音を引き出す才能もあり、その短い人生の間にモーツァルトは最も好きな楽器をピアノに決定した。彼が書いた27のピアノ協奏曲(本当に素晴らしいのは最後の10曲ほど。アニメのシリーズのようにモーツァルトのレパートリーは後半になるほど良くなった)は、単に協奏曲の形態にとって画期的な礎石となっただけでなく、ピアノ音楽の基礎を築いた。モーツァルトの協奏曲はこう言っているようなものだ。「これこそピアノにできることだ! ピアノだけでなく、オーケストラと一緒でもいい! まさか今更ハープシコードに戻ろうってんじゃなかろうな?!」
モーツァルトより後の時代の人間は皆彼に同意した。ひとたび音量の大小を調整できる鍵盤楽器を手に入れてしまえば、弱々しいチャリチャリした機械になぞ戻れっこない。これが230年ほど前の出来事だ。ミクへの道は一日にして成らず。
***
ミクの公演にやって来たファンの男女はいろんな連中の寄せ集めだ。彼らの5分の1ほどは当然ながらボーカロイドのコスプレをしている。何人かはケミカルライトまで持ち込んでいる。コンサートは全長1080ピクセルの巨大なスクリーンで始まり、全劇場用サウンド・システムが炸裂し、観衆は最初はためらいがちに見ていたが、最初のいくつかの歌の後は雰囲気が盛り上がってきた。彼らはスクリーンの中の群衆と一緒にリズムに合わせてケミカルライトを振り、曲が変わると歓声を上げ、各ナンバーが終わると拍手をした。単なる録音と録画じゃねえか、などというたわ言は知ったこっちゃない。理論的にはゼップ東京の群衆だって同じように録画を見ていたんだ。本当に「ライブ」で演奏される音楽など、現代においてはクラシックのオーケストラと民族音楽の演奏くらいしかないし、それにシンフォニー・ホールですら今日ではマイクが使われている。誰もが電子的な助けを借りて音楽を聴いている。ひとたび電子機器を楽器として受け入れることを覚えてしまえば、ミクを愛するのは簡単だ。彼女がモーツァルトの魔笛のアリアを歌っている動画を聞いてみよう。
http://www.youtube.com/watch?v=gr9fbQzNpqA
***
19世紀欧州で、もしお前がピアノの演奏ができない作曲家だったとしたら、お前は存在していなかっただろう。それはもはや単に大小の音量で演奏できる楽器にとどまらず、巨大な和音構造物であり、多音パッセージワークであり、一人の演奏家の手で「あらゆる音符を見ることができる」ものとなっていた。もしピアノがなければきっと「2人のバイオリニストとビオラ及びチェロ奏者各1人をかき集めて旋律が上手く行くかどうか調べにゃならん」てなことが起きていただろう。そしてもちろんチェリストは、ある音符について「どぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅん」と演奏するようお前が何度も何度も何度もお願いするのにうんざりして1時間後にはそこを立ち去ったことだろう。
少なくともピアノがあれば、お前の小さな指以外に迷惑をかけることなく「どぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅん」とやることができる。
かくして1800年代においてピアノは中心的な作曲道具となった。そして同時に社会の中産階級が暇と屑な時間を持つところまで進化し、そしてもし彼らがスポーツやゲームを発明しなければ、彼らは音楽その他を演奏したいと望み、そんでもって家に持ち込むためピアノを注文できるようになった。欧州だけでなく日本でも、少なくともウィリアム・ペリーが彼らを開国して西洋化が始まった後には、同じことが生じた。基本的にピアノは文明化の証と見なされ、そして有名な山葉寅楠ってヤツがイケてる連中のため日本製ピアノを作り始めた。
19世紀末と20世紀は音楽制作にとって黄金時代だった。楽譜を買って他人の歌を演奏する方法で「音楽を作る」こともできたし、あるいは作曲と理論について十分に学び自分の曲を創造するというやり方で「音楽を作る」こともできた。そうした取り組みの多くはピアノの周辺で起きた。ピアニストが力を得た。鍵盤があれば、お前はスターになることができた。
そして、とんでもないことが起きた。
***
ミクだけじゃない。巡音ルカとリンとレンも公演に出てきたぜ! 全ボーカロイドのパーティだ。彼らの異なる声質と、ミクと組む様々なやり方は、見事な音の見本集になっている。他のキャラクターが登場するのを見た観客たちは熱狂している。異なるシンセサイザー・プログラムのマスコットに過ぎないにもかかわらず、彼らはまるで我々の友であり家族であるかのようだ。ようつべとニコ動を使って彼らを我が家へ招待しよう。彼らの声を我らの生活のサントラにしよう。電子的に作られたアニメキャラが本当のミュージシャンになれるのかって? おk、ならお前に聞いてみよう。魂のない箱がお前の周囲の空気を震わせているけど、それは本当の音楽なのかい?
***
それこそが実際に起きたとんでもないことだ。録音された音楽。録音された音楽こそ、音楽史の中で起きた最悪の出来事だ。
ひとたび蓄音機を、ラジオを、レコードプレイヤーを、カセットプレイヤーを、CDプレイヤーを持ってしまえば、音楽を楽しむのに「音楽を作る」必要はない。コンサートホールのチケットを手に入れる必要もない。単に座って、電気を使った箱にお前を楽しませればいい。ピアノは専門家のための道具に成り下がった。それは淑女が結婚に必要な才能を覚えるためのものに、あるいは子供が(1)それを憎んでいることに気づく(2)両親が子供に才能があることに気づいてプレッシャーを積み上げ始める――まで稽古を受けるものとなった。もし(2)の現象が起きたなら、最後にはピアノを本当の演奏楽器あるいは作曲用の道具として使うようになるだろう。しかしそれはもはや「音楽制作」の中心にはない。
さらに悪いことにロックがギターをポピュラーにしてしまった。ギターが人気になり、ピアノは役立たずとなった。お前が鍵盤楽器を学ぶのは、ビートルズにしてくれるものを持てずバッハやベートーベンにしがみつくしかないある種の意気地なしだからだ。誰が決めたルールか知らねえが最低だ。10代のころ、俺はピアノを使ってランキング上位40の曲を弾けたおかげで女の子たちに「いくらか」いい印象を与えられた。けど、結局はクラスの野郎どものうちその曲をギターで弾けるヤツがいつも勝ちやがった。くそったれ。
だがここで思い出してくれ。俺は、イタリアがピアノを発明したことが日本の初音ミク発明への扉を開いたと言ってきただろ? ピアノは21世紀に飛び込むときに今一度変革に見舞われたんだ。
http://www.youtube.com/watch?v=-7EAQJStWso
***
もし音楽を生み出す小さな電気の箱が「本物」であるなら、録音済みのコンサートに向かって「アンコール! アンコール! アンコール!」と叫ぶのは極めて正常だ。その音楽はお前を感動させたんじゃないのか? もっと聞きたいと思わないのか? というわけで映画館の観衆はもっともっとと叫び、そして彼らはアンコールを聞けることが分かっていた。なぜならそういう風に録音されていたから。ミクが公演を終わらせるため最後の舞台に出てきた時、もう一度鑑賞力のある人々から歓声が上がった。それは人工的なものだが、とことん楽しむため我々はそれを本物だと見なした。まるでドン・コッブが[ネタバレ注意!!]インセプションのラストで回転するコマから歩み去るかのように。ミクは夢のような存在だ。サウンド・エンジニアとCGアーティストと音楽家が作り上げた美しい夢であり、決して卒業することも年を取ることもスキャンダルを起こすことも業界から追放されることも惑星上から姿を消すこともない完璧なアイドルだ。彼女は実際、いくつもの「映像」を持っている。我々は皆、この音楽的見せかけの共犯者だ。過去の聴衆がモーツァルトのオペラを、ガーシュウィンのミュージカルを、あるいはかのすさまじいレ・ミゼラブルを本物であると信じたように。我々は十分深く信じられるようになるまで偽りの世界を本物だと信じるふりをする。その世界を感じるまで、見せかけの魔法を感じられるようになるまで。
***
真空管からトランジスタを経て迷宮のような電子回路まで。もしピアノの鍵盤が「あらゆる音符を見る」ことのできるインターフェイスだとしたら、それは作曲家に最も未来を感じさせるインターフェイスだ。そして我々にはシンセサイザー・キーボードとMIDIコントローラーとワークステーションの世界が与えられており、そこでは遂にピアノが単なる「楽想を試す場所」から超越した。ちょっとした波形の調整によって、ハンマーと弦の機構に制限されることなくこれらの楽想を正確に響かせることができる。新しい音を作り上げることもできる。楽想の断片を記録し、他の楽想をその上に並べて電子キーボードを個人的な架空のオーケストラに仕立てることもできる。ピアノはピアノを超えた。それは作曲家の手の延長どころか、作曲家の心の延長となったのだ。
一つだけ欠けているものがあった。声だ。
そして、ご存知の通り、日本は日本であり、彼らはやってのけた。彼らは人工物を誰よりも巧みに操った。彼らは本物の料理だと見栄えが悪くなるからという理由でプラスチック製の小さな食品サンプルを作った。本物の労働者は間違いを犯しがちだから製造ライン用のロボットを作った。本物の音楽家を家に入れるのは大変だから編曲家のために電子キーボードを作った。そして、人間の声を合成する技術が十分に発達した時、そしてそれが人工音声のためのペルソナを創造するというアイデアと衝突した時、ミクが見せかけの音楽における21世紀のスーパースターになるのは当然のことだった。
中にはボーカロイドというアイデアが音楽家の全てを破壊するという人もいるだろう。全ての仕事をソフトウエアがやってくれるのに、誰が人間を必要とするんだ? 俺が思うに、ボーカロイドってのは偉大なる民主化の旗手であり、音楽家のために沢山の扉を開いてくれるカギなんだ。過去において、もしお前が作曲家、編曲家あるいはプロデューサーになりたければ、まず自分の曲を書いてそれから演奏家を探し見つけ出すしかなかった。何しろお前の傑作に生命を吹き込みたければ、5人編成のバンド、20人編成のオーケストラ、そして3オクターブ半の音域を持つ歌い手がいないとどうしようもなかったのだから。マジ悲惨。だがミクがいれば誰もが作曲家になれる。誰もが自宅のスタジオで曲を作り、正しい機材があれば、電子機器を使った完全なポピュラーソングを生み出せる。ボーカロイドは音楽家の仕事を奪うわけじゃない。それまでミュージシャンには決してなれないと思っていた人々の中からミュージシャンを作り出すんだ。動画投稿サイトで毎日そうしたことが起こっているし、こうしたコンサートではそれまで決して聞いたことのないような人々が突然電子王国の宮廷音楽家になれる。非常識なほどの大金持ちだった王家の人々の手にあった手製の楽器から、平民たちの手に握られた緑の髪の女神へ。それがこの大きな3世紀の違いだ。
何であれ多くの人々が音楽を作ることは、単に大人しく聞いているだけよりもいいことだと俺は信じる。俺は魔法を、ボーカロイドを、ミクを信じている。
=====以上翻訳終了=====
誤訳は当然あると思う。でも面倒なので修正はしない。
主人公はスポーツ用品店経営、2店舗オープンで少し忙しいが、逆にいえばそこそこに経済的には成功してる黒人。
Tシャツとジーンズとかじゃなくて、ちゃんとスーツネクタイ、調度品も品よく、息子にもワイシャツとスラックス着せたりする、典型的な中産階級として登場。
チームはバラバラ、ルーキーズ状態。
報酬的にはボランティアというほど安くないけど、経営者の時間を割いてまでしたいほどの高給ではない。
でも、ちょっと悩んだが結局引き受けることに。
契約内容は次の通り。
・Sirをつけて話す。
・高校の授業は最前列で受講すること。
「アホか」
と言って数人は退部。
で、ここからは鬼コーチ。イメージは星一徹か宗方コーチかって感じだ。
「はーい、今からおまえ腕立て。え、いや?口応えしたから腕立て追加とダッシュ追加。はやくやれよ。え?もっと追加して欲しいの?じゃさっさと。」
「はい。」
「はい、じゃねーよ、わかりました(Yes,Sir)だろ」
みたいな感じでしばしスポ根。
で、チーム絶好調。派手な試合シーンが続く。スラムダンクの実写みたいな感じ。地区大会優勝。
そこで、コーチが選手の学業成績の開示要求。学校は拒否するけどゴリ押し。
コーチ「成績がC以上ならスポーツ特待で奨学金が出る。だから休部!」
コーチ「それは違う。今が一番じゃなくて、これからもずっと輝き続けないといけない!流されて生きて貧困にあえいで犯罪者になってクスリに手を出して撃たれて死ぬ、そんな人生じゃダメだ!」
選手たちは自主休部。
作中でコーチが「おまえたちはなにに怯えている?」と何度も聞くんだ。
「俺たちは、自分が輝くことを恐れていた。うんぬん」
ワルぶっていた人間が突然路線変更して大学目指すというのは、アメリカ人だって勇気がいるらしい。でも、いつか変らないと貧困から抜け出せず、ゴールは1つ(そして日本よりもずっと悲惨だ)だってことを普通に考えればわかる。
アメリカの大学の学費は安いというのはサヨクの流したデマで、州立だってかなり高くて奨学金制度を利用しないことにはって背景があるらしい。学生ローンで破産がうじゃうじゃでも、進学率は高い。
高校卒業したら働くっていう選択のほうがずっと易しい。
結局、半数以上が大学に行った。
http://www.asahi.com/politics/update/0702/TKY201007020468.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/politics/update/0702/TKY201007020468.html
菅首相がいいたかったことと、一般人の理解にギャップがあるように思う。
お金持ちの人は海外に移住ができるといいたかったのではないだろうか。
資産が多ければ多いほど行ける国の選択肢は増えるという厳然たる事実がある。
例えば中国人だって、お金があれば日本にだって自由にこれる。年収が低いひとは旅行ビザだってとれない。
中国そのものが裕福になってきているので最近は緩和されそうだ。
永住ビザとなると条件がさらにあがる。どこの国も貧乏人なんて来てほしくないだろ。
日本人が海外ビザを取ろうとしたときだってそうだ。有能で特殊技能がある人か、資産を持ったひとしか受け入れない。
技能があって税金をおおくおさめてくれる人か、資産があって仕事をつくれる人かしかおよびではない。
現地の庶民の仕事を奪うような人は要らない。
例えば、リタイアメントビザというものがあるが、オーストラリアでさえ7000万以上の資産を持っていないとダメ。
シンガポールは財産が13億円以上あり3億3千万円以上シンガポール内の銀行に預金しているとかそういう感じ。
ここらへんの条件は年々どこの国も敷居をあげつつある。10年前の倍ぐらいになってきているよね。
永住権じゃなくても、年収1500万以上、資産で1億以上がないとそもそも検討の俎上にも上らん。
財政が破たんしたら貧乏人が貧乏くじを押し付けられるのは間違いない。
一定以上のお金持ち(たとえば政治家なんて)もし、財政破綻があったとしても、一時的に資産を海外に逃がして、焼け野原にした後、また悠々と戻ってくれば済む話しだ。
庶民は逃げるすべもない。
ここらへんは北朝鮮がデノミしたときに中産階級以下の資産がどうなったかを調べればいいと思う。
というか、ここらへんのやり口は昔しから変わってないよね。
徳政令ぶっぱなされて大変な思いをするのは、借金を踏み倒された方なんだよね。
庶民はサラ金での借金と、資産がある人が借りる借金の違いもわからない。
ゴーンさんぐらい資産があって、しかもスキルがある人なら、文字通りどこの国にでも行ける…。
G20でも日本は財政健全化を除外された。日本が大丈夫だから除外されたととるか、日本はもうダメそうだけど他国への影響がすくないからととるかは人それぞれ。
誰が困るかご存じですか?と街頭演説とか、知っている人はそんなことは知っているし、知らない人に教えても、反感を買うだけだ。だって解決策ないんだもん。あんの?
貧困大国(アメリカ)の真実。今月のクーリエ・ジャポンの記事を読む
ttp://fukuma.way-nifty.com/fukumas_daily_record/2010/02/post-d62b.html
増え続けるフードスタンプ受給者(その割合で色分けされたアメリカの地図は受給者が増えすぎて真っ赤だ!)、医療崩壊の現実(高額な民間保険が中心で、中産階級でも病気をすれば破産一直線と言う実情)、学生が借金漬けになる教育システム(既にリーズナブルな教育サービスはほとんど無い)、刑務所ビジネスが引き起こすもの(民営化刑務所により利益が追求された結果、囚人を安い労働力として酷使しているシステムになっている)
http://blog.goo.ne.jp/harunakamura/e/0d5a3464c5354fc1f416451b9b9e940d
クルーグマンは、アメリカの戦後の中産階級社会は、自由主義経済によって自動的に出来上がったものではなく、ルーズベルト政権の政策によって作り上げられた。
労働組合の強化、ソーシャル・セキュリティやメディケアのような再分配原資を確保する為に金持ちに高額課税をしたりすることによって、所得格差を縮小し、労働者階級を貧困から救い出し、ブームを引き起こした。
しかし、保守派ムーブメントによって保守党が政権を奪還して、金持ちを利するために、欺瞞と狂気の政策で逆転させてしまった。
金持ちへの減税、ソーシャル・プログラムの廃止、組合潰し、と言った保守的イニシャティブによって、富める者を益々豊かにし、弱者を貧困に追い詰め、深刻な格差社会を生み出した。として、
レーガン大統領の保守反動政治を皮切りに、アメリカ社会が大きく右傾化し、ブッシュ政権を経て極に達するに至った経緯を、ヨーロッパの福祉国家的な動きと対比させながら、アメリカ独自の「保守派ムーブメント」を浮き彫りにして論じている。
鶏議論になりそうだけど、
本当に超がつくほどの一部だよ。
大抵の場合、金持ちから金を奪って貧乏人に配れという構図や議論の金持ちにロスチャイドやロックフェラーなんかは入ってこない。
お金をする側の立場の人たちは入ってこない。
ちょっとした中産階級を意図され、実際に税金をかけるのもそこだ。
ロスチャイド、ロックフェラー、モルガン。彼らはお金をいくらでも刷れるFRB側にいる。
彼らはお金を文字通り根拠なくつくれる。
そんな文字どおりのお金持ちからどうやって奪う?
オバマは少数の強欲なという言葉でどうやら本気で挑むかもしれないが、暗殺されないことを祈るばかりだよ。
日本?