はてなキーワード: パターナリズムとは
リバタリアニズムってそういう心理的な束縛を嫌うワガママな自由至上主義者というより
市場や社会制度の合理性をつきつめるとよりスマートな金融政策や福祉政策を打ち立てるために既存制度や既存概念を壊して
負の所得税や免許制度の廃止みたいに抜本からシステム変えてそれに人類が適応していくことを見通していく考え方だよ
政策のロジックは現実社会の実装から乖離してるからラディカルに見えるけど、別にリバタリアンは急進的というわけではなく
既存の腐敗を生む諸制度を段階的につぶしていって最終的に理想形になればいいという漸進的かつ現実的な考え方と共存もできるものだよ
公的年金の廃止とか最低賃金の撤廃とかそれ単体でみるとギョっとしてそれはヤバいんじゃと思える政策でも
それがなくなって制度の助けがなくても人間それぞれがちゃんと賢い動き方ができるように社会全体としてはデザイン済みな状態で初めて可能になる
もちろん強制力のあるパターナリズム的な押し付けはないけど、全く教唆がないわけではなく「ここに入ると××なので危険ですよ」の立て看板くらいはある状態と思ったらいい
「××なので」部分の理解が足りず無視して負傷するような愚行を犯した人でも救済され再挑戦できるシステムもあってこそ
炎症が出るものだったら放射性関係なく鼻血要因になるのよね…… とはいえあの事故、「非放射性の炎症要因物質」も大量に撒いてたとおぼしきわけで……(一方でGyベースでバケツウランの方が桁外れにひどいはずのところの話だと「非放射性の炎症要因物質」を追っかけ回すべき事案ではあるわけで。実際追っかけ回されて 「 ほぼ炎症で炎症はほぼ花粉、その他も大体非放射性 」 だったわけで。そもそも医療ならビタミンD欠乏まで疑わなきゃいけない状況ですよ?)
「運動家」やりたいんなら「敵を知る」の文脈で自ら克服せにゃならんことだけど、かの医療ネグレクト(こだわらんでもええ「放射性」にこだわるの、要因はそれでしょ?)、要因は逆サイドの医療パターナリズムなんじゃねえの?
施療院の垣根のスズメバチ、医療ネグレクトを嘆く、の図になってねえか?
“ 「親」とか「生育歴」をいじり出したら完全アウトでしょう。 明らかな“差別しぐさ”。 今の世の中、まともな社会教育を受けてきた人なら全力で忌避する行為だ。 そもそも、まともな社会教育を受けてきた人なら、見ず知らずの若者を寄ってたかって叩いたりしないのだけど。”
“ 結局のところ実際にやったのは 「大喜利のネタとして消費する」 というかなり下品で失礼な行為であり、盗人猛々しいだけ、と感じました。”
“彼が学生の個人情報晒しをしていたことまでは知っていますが、その後に何かしたんですか?”
“その結果生まれたのが戦争と同じ遅発性PTSD。子どもの自死率が全国一になった。その責任の一端は、国の意向に沿って暴れたデマ撲滅隊にある。”
海外のフェミニズムは女性の解放(liberation・社会的慣習からの)を目指してる自由主義(liberalism)的な平等・自立方向を向いてるのに対し、
日本のネトフェミは女性性を女性以外が扱うことへの嫌悪から表現抑圧の方向へ向いてる。
それは女性が自身を性的に表現する自由すらも抑圧し忌避させかねない、自由主義とは真逆の、社会主義的監視社会を理想としているように見える。
保守的なイスラム圏みたいにヒジャブで体を隠す方向の思考法と本質的に同じで、イスラムですら自由化しているのに、もともと自由を手にしていた日本女性自らが偏狭な倫理感をこじらせて自縄自縛しにいってる狂気も感じる。
現在主なやり玉にあがるのは創作上の表現物ではあるが、これが進めば現実の「性的にゆるい女性」にも矛先が向かい、名誉男性だのなんだのと言ってリンチされるようになるだろう。
そういう権威主義的な極右に向かいかねない過激なノリでやってるわけよ。ネトフェミは表現者や消費者の理性を信じられないから、その思想を通すためには独裁者のように強大なパターナリズムを振るう権威に成り代わるしかない。
まあ日本人は思想を学ぶ機会があまりないから、ネットとかで悪意を煮詰めてしまうとこのような大衆を愚者と断ずる独裁者思考へと寄って行きがちではある。
「一緒にいて恥ずかしいからやめてくれ」って難しい感情だなって思う。
基本的におれはそういうパターナリズムというか、最小単位のコミュニタリアニズム的発想というか、とにかく自己の領域を他人にまで拡大するようなマネは徹底して嫌悪してる。
おれがおれの領域内で何をしようが勝手だし、それが気に入らないならどうぞ離れていってくれと思う。逆も然りだ。
そもそもそういうタイプの人間とは付き合わないようにしてるけど、とはいえ自分でもたまに素朴な感覚としてそういう感情を抱くことだってある。
実家に行けば、母は公共空間でもデカい声でベラベラ喋る。勘弁して欲しい。
恥ずかしいからやめろ、ではなくその場を共有する一個人としてうるせえと言えばいい。
レストランなりに行けば、説明が書いてあるだろうがって感じの事でもすぐ店員に聞きたがる。もっと言えば常識的に分かるだろって感じだけど、そこはまあおれの常識を強いるのも気が引ける。
店員のバイトが要領を得ずまごつく事もあって、その得も言われぬ空気の中でなんだか自分まで気恥ずかしさを覚えてくる。
そんなんわざわざ聞かねえでも分かるだろっておれが説明しつつ制する事もできるけど、後でグチグチ言われるのは明白だしおれがそれを引き受ける道理もない。ので静観。
まあ説明を要求するのは別に妥当な権利だとは思うし、それを受け入れるか突っぱねるかは店側の都合であって、外野のおれがとやかく言うことではない。
そんな事を思いつつ、おれにも「迷惑教」だったり自分の見栄に他人を巻き込もうとする感覚がしっかりインストールされてんだなあ、って嫌な気分になる。
それは「本当に"終わらせる"気もないパターナリズムのパフォーマンスでしかなく、全く異なる状況を並列化することで子供の抱える問題を矮小化し頭のアップデートもできず、苦しみを吐露しても対話するつもりもない、理解もできない頭の悪い親だ、コイツに話しても無駄だ」と思いっ切り下に見られて信頼を失った証だな
言わなくなった=思わなくなった ではないからな
ここに、「ニンゲンが風邪をひいたら、休め」という規範を示す。
本稿は、右規範に対して懐疑的なニンゲンを説得するために執筆されたものである。具体的には、下記のニンゲンが本稿のターゲット層である。心当たりのある者は、ぜひ熟読せよ。
風邪をひいたら休めという規範は、①パターナリズムと②蔓延防止という二つの論拠から成る。風邪の治癒に専念することで、①疫病が悪化する可能性が低くなり、結果として本人のためになる。そして、②伝染病の蔓延を防止することができる。
ところが、しばしば右規範は破られる。風邪をひいても会社や学校へ行くニンゲンと、これを良しとする第三者が後を絶たない。なんとも嘆かわしい。かかる者は如何にして規範を逸脱するのだろうか。
私は、その理由につき、当該ニンゲンが①パターナリズムのみを重視してしまった結果であると考える。彼らは、「風邪をひいたら休まなくてはならない」という規範の趣旨を、もっぱら「私が大変な思いをするからだ」と捉えてしまう。よって、「私は病状悪化という結果を許容しているから、右規範の趣旨(本人のために休むべき)が及ばない。ゆえに休まなくてもよい」と結論づけてしまうのである。
しかし、かかる見解は妥当ではない。パターナリズムはむろん重要であるが、②蔓延防止の意義を殊更に強調しなくてはならない。
以下、敷衍する。
★「人を傷つけてはならない」という規範
なぜ、風邪をひいた場合に、②蔓延防止のために休む必要があるのか。
まず、「人を傷つけてはならない」という規範は、ハンムラビ法典でも傷害行為が禁止されているように、紀元前時代からの常識である。これは、現代社会においても、傷害罪(刑法204条)が国民に構成要件として配布していることからも明らかである。
そして、風邪をひいた状態で外出をして、特に会社や学校等の多数人が集まる室内で過ごせば、自らの病を伝染させることにより、他者の生理的機能に障害(傷害)を与えることで、人を傷つける蓋然性が具体的明らかに予見される。
したがって、風邪にもかかわらず、休まなかったことで、「人を傷つけてはならない」という規範を乗り越えてしまうことになる。
よって、他者を傷つけないために、風邪をひいた人間は休養することで蔓延防止に努めるべきなのである。
そうであるとしても、いかなる場合にも「風邪をひいたら、休め」という規範を適用するのは妥当ではない。風邪の自覚症状が無い場合や、どうしても外せない急用がある場合もあるだろう。いかに判断するべきか。
まず、自らの病状につき善意(無知)である場合について、いかに解するべきか。
故意責任の本質は、反規範的人格態度に対する道義的非難である。
すなわち、自分が風邪であり、もしかしたら他人に伝染させてしまうかもしれないという点につき、認識・認容していれば、「他人を傷つけてはならない」という規範に対しての反対動機を形成しているものといえる。しかるに、敢えてこれを逸脱したのだから、かかる行為は道義的非難に値する。
よって、自分が風邪であると認知していたのであれば、休養に努めるべきであるのが原則である。
逆に、自分が風邪であると知らなかったのであれば、そもそも「休むべきである」という規範に直面しておらず、反対動機を形成できないため、道義的非難に値しない。実際に、潜伏期間が存在するウイルスは多いことからも、このような結論が妥当である。
以上より、自らの病状につき善意(無知)である場合には、休まなくてもやむを得ないものといえる。
なお、ここでいう「体調不良」とは、月経・片頭痛・食中毒などの伝染病以外で身体異常をきたしている場合を指す。
この点、蔓延防止以前に、そもそもパターナリズムの観点からは、風邪か体調不良か判断できない場合にも休養した方が良いといえる。ゆえに、原則として外出するべきではない。
しかし、単なる体調不良であれば、他者の生命・身体を侵害することはない。よって、自身が体調悪化につき許容しているのであれば、単なる自由意思の範疇にあるといえるから、これを非難される筋合いは薄い。
したがって、伝染病であるという相当の蓋然性がある場合には、「風邪をひいたら休むべきである」という規範に服するべきである。右判断にあたっては、当人の体温、病状、体質、病歴、自覚症状、過去の行動等を総合勘案して判断する。
・平熱と比して体温が高い
・前日に気怠さがあった
・雨にうたれた
・知人が熱を出した
・病状が軽微である
たとえば、体温が37.5℃以上であり、前日から続く気怠さ・咳があるものの、月経による体調不良かもしれないといった場合を想定してみよう。この場合、たしかに月経という事情は伝染病のおそれを低めるものであるが、咳と月経は無関係であり、37.5℃以上という体温は、一般に風邪と判断されるべきものである。
なお、より強度な「明らかに伝染病ではない場合にのみ、休まなくても良い」という判断枠組みも考えられる。筆者は、単なる体調不良の場合は自由意思を尊重するべきであるから、緩い判断枠組みが妥当すると考えたため、かかる見解は採用しなかった。
では、自らの風邪に自覚症状があり、明らかに伝染病であるものの、どう しても外せない急用等がある場合には、いかに解するべきか。
この場合、どうしても外せない急用等に参加したいという時点で、パターナリズムは克服されているため、第三者への傷害の有無で判断するべきである(病状悪化をしてでも〇〇がしたいという者に対して、貴方の身体のために辞めなさいというのは余計なお世話である)。
そして、第三者に病を伝染させてでも、自分がやりたいことを行うというのは、結局のところはエゴイズムである。冠婚葬祭や親族の危篤、会社や学校への出席などは、「自分が行きたいから行く」のであり、エゴイズムが第三者の身体・生命の侵害を正当化する場面は限定的であるべきである。
これに対して、出席せねば評価が悪くなるため、「行きたいから行く」のではない;やむを得ず風邪をひいてでも外出しなくてはならないのである等の反論が想定されるが、妥当ではない。結局、評価の悪化を避けるというのも利己的な目的であり、原則として、そのために伝染病をばら撒いて第三者侵害を行うべきではないいう形式は変動しないためである。
第三者の身体・生命は、きわめて重要な法益であるから、「どうしても外せない用事」との比較衡量で決するべきである。具体的には、用事の重要性・症状を鑑みて、第三者の身体・生命に対する侵害のおそれを惹起してでも、当該「用事」を優先するべきであると判断できる場合にのみ、風邪をひいても休まなくても良いものと解する。
たとえば、冠婚葬祭や親族の危篤などは、この機会を逃してしまえば二度と立ち会えないイベントであり、用事の重要性は高いものといえる。
もっとも、当人が伝染させればきわめて身体・生命への侵害性が高いといえる伝染病を患っている場合は、この限りではない。具体的には、インフルエンザ、新型コロナウイルス、ノロウイルス等の強い感染力・症状を有するものは、真にやむにやまれぬ事情が存在しない限りは、外出するべきではない。
そして、会社や学校への出席は、上記の用事と比して、重要度が低いと言わざるを得ない。成績に重大な影響を及ぼす発表や試験等が存在しないかぎりは、外出を行うべきではない。
そもそも、出席が必要不可欠でない限りは、リモート等の手段を講ずるべきであり、あくまでも「風邪をひいたら休むべきである」という規範を乗り越え、外出を行うという選択肢は、最終手段として留保されるべきである。よって、リモート等の手段を採ることができたのにもかかわらず、他者への傷害を惹起する外出を選択するということは、あってはならないのである。
★まとめ
以上より、風邪をひいたら、本人のために休むべきであるのはもちろん、「他者を傷つけてはならない」のであるから、「ニンゲンが風邪をひいたら、休め」という合理的な規範が成立し、ニンゲンは原則として右規範を遵守しなくてはならないということが示せたはずである。
その他、想定される反論について、下記にまとめる。異論や質疑等があれば、気軽にコメントしてほしい。
・明らかに体調不良ではなく伝染病であるものの、風邪が軽微である場合は?
症状が軽微であっても、他者に伝染させる可能性がある。そして、乳幼児や後期高齢者を想定すれば明らかであるように、自分が軽微な症状であるからといって、第三者もそうであるとは限らない。したがって、伝染によって他社の身体・生命に侵害を及ぼすという点では、原則として「風邪をひいたら、休め」という規範に従うべきである。
もっとも、上記パターン3の判断時に、症状の軽重は重要な考慮要素となりうる。
・風邪をひいた状態で出席することに対して、全員の合意がある場合は?
友人の集まりや会社等で、自己が風邪を患った状態で出席することにつき、コンセンサスを得ている場合には、伝染による傷害結果の発生につき同意がある以上は、「風邪をひいたら休むべきである」という規範が妥当しないのではないか?という反論が考えられる。
しかし、風邪につき合意した者(合意者)のみと交流することは実際上は困難である。例えば、公共交通機関を用いるのであれば、不特定多数人に感染リスクがあり、伝染による傷害を惹起する可能性があるだろう。
そして、合意者がさらに第三者に伝染を及ぼす可能性がある以上は、②蔓延防止の観点からこれを許容するのは妥当ではない。
・病弱なニンゲンにとって、毎回「風邪をひいたら休む」という規範に従うのは難しいのでは?
たしかに、病弱なニンゲンは休む機会が増えてしまうため、会社や学校での評価に悪影響を及ぼすこともありうるだろう。
しかし、病弱な者は他人を傷つけても良いと考える者はいない。そして、伝染病の頒布は他人を傷害する行為であるから、伝染によって他人を傷害してしまうことにつき認識・認容があれば、道義的非難に値することには変わりない。
また、結局のところ、評価の変動といった事情は先述したように利己的・個人的な理由であるから、エゴイズムが第三者の生命・身体を侵害するという場面は限定されるべきであるという当為規範が変動することもない。
以上
とはいえ中級ミクロ経済学くらいの知識はいるので、馬鹿といっちゃうのは言い過ぎかも。
需要と供給のメカニズムが正常に働くためには、メーカーや通常の流通チャンネルが得る利益が上昇しなければならない。転売ヤーは、転売行為を行っている人が儲かるだけでメーカーは儲からないから価格メカニズムによる調整が働かない。転売ヤーがいないほうが商品のアクセスが簡単になる可能性が高いので、流通ともみなせない。生産者からファンへの商流に介入し付加価値を与えずに上前を撥ねるという意味では消費税のほうが原理としては近い。
で、消費税がそうであるように転売ヤーの存在によって消費者が支払う費用が上昇し、均衡供給が減少するので、総余剰が減少する。ゲームのエコシステムは広がらず、アイドルのファンのすそ野は狭くなる。消費税は公共の福祉のために使われることで総余剰の減少を相殺する、ということになっているが、転売ヤーにはそういうメカニズムがない。
そもそも企業が正しい値段付けをしていれば転売ヤーの入る余地はないので転売ヤーは悪くないというのも間違っている。企業には短期的な利益最大化の価格より低い値付けをするインセンティブがあるから。一番わかりやすいのはゲーム機本体のケース。ゲーム機が売れれば売れるほどゲーム機のエコシステムに正の外部性が働くから、売り出し時点の均衡価格より低い値段で本体を販売することで需要を刺激できる。ゲーム機のエコシステムから得られる総利益を考慮すると、ゲーム機本体の会社は均衡価格より低く売り出すインセンティブは強くある。これは、ゲーム機の販売による正の外部性をメーカーが内部化しているということなので、おそらく定価のほうが「短期均衡価格」よりも経済学的な意味で効率的(総余剰が高い)可能性が高い。逆に、転売ヤーみたいに販売後最初の一週間は定価の五倍から始めて一年かけて落としていく、みたいなことをされるとエコシステムの成長が阻害される。
おそらく、アイドルのチケットなどもそう。市場均衡まで価格を上げるより、あまり値段を上げすぎないで、現在収入が低いが熱心なファンにもチケットがいきわたるようにすることで、ファンのすそ野を広げ長期的な利益の最大化が図れる。
転売は悪だが、別に個人の利益の追求の結果としてエコシステムの成長が阻害されたって犯罪ではないし、犯罪とすべきでもないとは思う。マスクとか、全国民に外部性があるようなケースを別にすれば、法律で違法行為とするのは正直疑問感ある。不正競争防止法の文脈なら考えられなくもないけど、あれって具体的な対象の特定が必要だし、そこの建付けを転売ヤーのために変えるのか、というのはパターナリズムが過ぎるかなという感じ。反社会勢力に資金が流れてるとかなら別だけど。
もちろん、自分の利益のためにエコシステムに害を与えているので、ファンから非難されるのも、メーカーが工夫を凝らすのも当然だと思う。善か悪かだったら悪だよね。
この回で、寅子の父親(直言)が告白した色々に娘の寅子が「は?」って顔して、最後にはいい話で終わった。
直言がやったことの何がダメかわからない人もいそうだけど、パターナリズムだからです。
パターナリズムとは、
”権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる”
日本語では家父長制と訳されることが多いが、日本旧来の家制度を軸にした家父長制とは意味が異なる。
「最年長の男性が家族の長である社会。または、彼ら自身の利益のために能力や権力を行使する男性によってコントロールされた社会(ケンブリッジ辞書)」
なのでまた違う。
家父長制だから父親の行いというわけではなく、構造なので当然のように女性もその構造内で権力をふるいます。
姑や中高年女性が、若い女性や息子の妻に「男性優位家父長制のわからせ」するのが家父長制構造です。
話を戻して、寅子の父親が「娘のために」いい結婚相手を勝手に決めたり、配偶者の死を隠すのは、
娘の自己決定権を侵害し、人権を軽視し、所有物として扱う、してはならない行為。
それが、「娘を可愛がってくれるいいお父さん、いつも優しい、味方の、弱いところもあるお父さんが良かれとおもってやってしまった、本人も反省している」であっても
「お父さんだけが私の味方だった。ありがとう。しかしそれはそれ、これはこれ。私に対する侮辱であり許せない。よくしてくれたことのバーターにはならない。これからの私にも娘の代にも誰にも絶対させない」というジャッジと批判が必要だ。
日本ではお気持ち人情で構造的邪悪もグロスで許して安いいい話にしてしまいがちで、NHKもそういう価値観に迎合しているのだろうけど、
ダメなものはダメとやりすぎなくらいしっかり指摘していかねばならない。
NHKにそういうレベルとバカにされているから、ああいう報道をされているわけだし。
男性の弱さ愚かさゆえに女性や子どもの人権が踏まれるのを許していてはダメで、
社会構造的に男性は権力勾配の上にいるので、愚かで弱いことはそれだけで悪なんですよ。
優三さんという「都合のいい男」の使い方にも問題がある。
必要なのは「何でも許して受け入れて応援してくれる都合のいい階級の低い優しい男(女)」ではなく、
都合が悪くても思考して個として敬意をもって互いに対話と交渉ができる人間同士の関係だから。
弱さ愚かさを謝罪するのなら、責任を取ってさっさと妻や娘の無料衣食住マネジメントでもするべきで
「お父さん」の座でヨイショされながら謝っていい話にするのは全くもって違う。
→これはその通り。ただ当時は今よりも階級社会だったとは言え、寅子も日本社会の中で生きている限り、その「常識」「普通」とされるものに従わなければ生きていけない。「普通ではない」と切り捨てるのも違う。
「当時の人間は全員教科書的な「昭和初期の『普通』の価値観」を持っていたはず。
→ドラマだと、そもそも寅子たちが「当時の普通の価値観」(とされるもの)が何かを全く理解できない宇宙人のように見える。帰国子女エリートは言え、さすがにそれはないと思う。
「増田が考えているほどに女性差別が当たり前の常識ではなかった」
→これは何を女性差別と考えているかにもよるけど、そういう理解も正しい。しかし、例として挙げているものは、女性差別の実例として取り上げることも十分に可能なもの。「女性は弱いのだから同情・保護してあげなければ」というパターナリズムかもしれないから。
→こういう議論をする人が多いのだけど、映画や創作物における表現も厳然たる「現実」の一部であることを忘れないように。とくに昔の映画は今とは逆に、リアリティのある表現をひたすら追求するものが一般的だった。昭和時代も女性蔑視的なことをはっきり口にするのがよしとされていなかったことは明らかで、その上で、そこに様々なジェンダー差別が存在していたことを読み取ることが重要になる。
https://twitter.com/inamoto_yksp_tw/status/1771796973361754125
イナモトリュウシ ∃@🇵🇸Solidarity with Palestine@inamoto_yksp_tw
グラビアやAVや水商売の搾取の構造的問題を批判すると「職業差別だ!」と吹き上がる男ども、自分の配偶者や恋人がそちらの道進もうとしたら絶対全力で止めるだろう。そういう欺瞞がムカつくのよ。
https://twitter.com/washburn1975/status/1772101955676238214
ワッシュ(鷲羽大介)@washburn1975
それ以上いけない
https://twitter.com/Beriya/status/1772410480872603722
5億円 2017@Beriya
自分の配偶者などの職業選択に口を出すのが前提とされるパターナリズムを丸出しにしている元ツイートに、配偶者や恋人の有無を「からかい」のネタにするという「有害な男らしさ」を正面から発揮しているツイートが乗っかっているこの光景、この辺りのクズどもを象徴しているような美しさがあるな。
https://twitter.com/wideangle/status/1772434768212234407
な@wideangle
はてなユーザなので当該人物を長く見ているが、元々ここまで狂ってるアカウントじゃなかったんだよなあ……。
な@wideangle
関係ないですけどid:washburn1975さんはリベラル気取ってるくせにブログのタイトルはいつまでたっても「男の魂に火をつけろ!」なんて性差別的な表現のままなんですねえ。
言ってる事とやってる事に一貫性がありませんねえ。
杉作J太郎先生は「男の墓場プロダクション」って社名を改めたっていうのに、washburn1975さんは頑なに「男の~」ってつけるんですねえ。