はてなキーワード: リアリズムとは
1. 2014年ダボス会議での質疑応答で記者に日中が戦争に至る事はあるかと問われた安倍総理は「無いとはいえない」と答え、これによって海外メディアにバカで危険なポピュリスト扱いされた。
ここで「ならない」と答えなかったのは戦争を語るのはリアリズム、戦争反対は反リアリズム的リベラリズムだとの思い込みからではないのか?
2. 2013年の末には米国が遠まわしに釘をさしていた靖国参拝をし、東アジアのみならず日米関係が戦後最悪な状態に陥った。「中韓が閣僚の靖国参拝を批判するのは戦没者慰霊をさせない為」というのはA級戦犯合祀で一気に国際問題化した責任逃れの為に80年代に靖国神社とその周囲が流布させた言説だが、これを鵜呑みにしていて、更にA級戦犯の顕彰は米国による戦後体制への挑戦だという事を忘れていたのではないか?
3. 冷戦後に国際的な軍事協力で国際秩序を維持する合意がある程度なされ、憲法改正はそこへ適合する形での軍備を目指すものとなっていて、その地均しと国際秩序への貢献として自衛隊が海外派遣されるようになった。
だが近年の自民党はこの憲法改正問題を人権の制限や国家権力の統制である事を否定するなど児戯でかき回して国際秩序と再軍備という論点は完全に蒸発してしまった。これはリアリズムに基づくのだろうか?
4. 更に南スーダンPKO日報は政局に影響を与える為に消去が暗に命じられた。PKOで問題が発生したらそれが憲法の制約によるものならばそれを指摘して憲法改正論議に繋げるのが王道だろう。これは元増田が言うところのローポリティクスの都合でハイポリティクスを毀損したことになる。
5.米朝関係が悪化して北がミサイルを撃ちまくっていた頃、韓国と歴史修正主義を巡って応酬を繰返し、その背後で防衛協力は固めるという行動をしなかった。背後で防衛協力がなされていたら「突然の米朝デタント」に裏をかかれなかったはずである。
元増田のいうハイポリティクスの常識というのが、例えば政治系Youtuberの動画とか大きい本屋のレジ付近のプレジデント社の本とか日本海地図をひっくり返すと地政学とかではないのか?と疑問に思わざるを得ない。
具体的にその根拠となるシーンがどこかにあるだろうか? いやない。カナメが策略をもって神崎を落とそうとしているのなら、「言い方考えよ?」というミノリ(音楽担当)との会話で「あれは作戦ですよ」ぐらいの話があってしかるべきである
ミノリが「ちゃんと作曲の勉強しようかな」というシーンをよく読んでみろよ
「ミノリさんにはいい刺激になったが、神崎さん本人はどうなるかな」って書いてあるだろ
「神崎が出してくる”絵”はどうかな」じゃなくて「”本人は”どうなるかな」と言ってるんだよ
カナメは神崎のことを「絵は抜群に上手いがプロの絵描きとしては未熟」と考えていて、一皮剥けることを期待しているんだよ
(その先の「プライドを擽りつつ報酬をチラつかせて仲間に引き入れる」という展開への期待でもある)
上記の「どうなるかな」というセリフは、その為の「刺激」をこれから与えるぞ、ということを暗示したセリフじゃないのか
このセリフに対し、ミノリは「え?」と反応していることから、ミノリはカナメの意図を読み切れていないということが窺える
作中の人間であるミノリはカナメの意図を掴めなくてもよいが、読者である我々はカナメの方が他のキャラより一段高い
視点でモノを見ていることに気付かなければいけない
ただ単に「裏表のないキャラ」という程度の解釈ではこの意味深なコマの説明がつかない
カナメはミノリは褒めて伸びるタイプ、神崎は叩かれて伸びるタイプだということを察した上で振る舞っているように見えないか?
「”ふつう”なんて言葉言われ慣れてなさそう」と言うセリフも、その言葉がプライドを刺激するのに効果的だと自覚していることを表している
ラストの「自信作が出来たから約束の時間より早く来た」という行動も、性格と行動パターンを熟知しているから瞬時に理解できている
カナメは神崎は連れてくる時点でミノリに対する触発効果も予期しているように思う
ミノリが神崎の作品を見てやる気を出している時も、「予定通り」と言った表情である
実際すべてが思惑通りに事が進んでいるからケロッとしていられる(ただミノリに諫められたとき「慎重ですよ」と言ったのも恐らく本心である)
カナメは作曲能力においてはミノリの方が、作画については神崎が上だと端から認めている
個人に出来ることは限界があるというリアリズムに立脚した上で各々の才能をより引き出すよう、ひいては優れたゲームが製作できるようことを進めている
「肉奢ってくれよ肉」というセリフ
自分の懐具合に関わらず羽振りの良さそうな奴に奢れ奢れ言ってくる安っぽい奴はいる
この男はそういう「安っぽさ」の象徴である(背景の通りすがりのキャラもこの男に眉を顰めているだろう)
神崎が提出したものを「さすが美大生ですねー」と一発OKを出したら、この男のように才能にかまけて小手先でナメた作品を作るような人間になってしまうかもしれない
改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下は護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。
ここにその輝かしい業績を記したい。
WWII以後も熱戦の時代は続き、世界は民族自決、植民地独立、冷戦下での大国介入に伴う戦争を経験してきたが、敗戦で武装解除された日本は関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。
その冷戦下で9条の改正を目指すのが自民党、護憲が革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党は改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線が固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者の戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新で護憲派だった。
ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり現憲法は良いものだから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである。
その為護憲=お花畑、空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦の終結により日本の立場は流動的となった。
そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本は戦争への協力を求められる事になり、世論は右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界観である。多国籍軍は国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。
湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動に自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジアの民主選挙の監視である。
また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である。
先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。
憲法も法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学に接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権の自由主義的な思想的意味が延々とこね回されたりする。
国民主権の主権は元は絶対王政の国家の正統性の為のフィクションであって、統治権、外交権、交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権が思想的に称揚されるばかりだったりする。
例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権は国家に対する対外的権力だ。
統治の問題は主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATOの軍事介入の理由に人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。
コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。
改憲問題でエポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである。
西部は改憲派のテーブルに座り「憲法9条や前文の精神が日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神が浄化され理想的市民や国民が出来ると言う考えだ。
それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。
これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。
それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃんと改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。
当初から戦争の理由は疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISISが勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。
これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線を留保すべきという流れになるのは当然だ。しかも国連の影響を抑える為の政策を米国はしまくった。この為に国連路線を旨としていた日本の国際貢献もイマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である。
改憲の旗艦となった彼は新右翼の学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。
彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。
すると2007年にコバセツは自民党の憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである。
ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いでリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。
例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。
日本会議の中枢に居るような新右翼の学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。
吉田茂は後に吉田ドクトリンは撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本の海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本が重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。
徴兵は海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識が希薄な若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為だから戦争に従事させろというだけだ。
またいつのまにやら立憲主義は否定されて憲法は国民が守るべき事柄になっていった。
コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである。
何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである。機械ばらして直せなくなるガキかよ。
それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである。
つまり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。
これは左翼神学的で実学に接続しないので憲法学者が微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。
そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通の立法プロセスが付いていないのである。
こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺は朝日新聞の捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似のコンテンツとなってしまった、
南スーダンの情勢が悪化し自衛隊がPKO活動をしている地域が危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。
今回は撤収するにしろしないにしろ「国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りでPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法とPKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である。
なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである。現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったから自衛隊と憲法の問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田口閣下が前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。
更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。
だが隠蔽の責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。
つまり自衛隊に後ろから刺されたのである。制服軍人をスーツの政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家は破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。
だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。
しかも自衛隊の活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。
だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民の意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。
ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族は大事とか良い事が書いてある憲法を朗読しましょう」という流れは保護された。
アイドルのような還暦女性にポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子でロリポップを舐め続けることができた。
だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議を国民に投げかける事はしなかった。
2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末に靖国神社を参拝したところ、日米関係は戦後最大の冷え込みとなった。
太平洋地域の戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである。靖国参拝は英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんである。バカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。
因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義の右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタ・ポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。
こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である。
米議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本の憲法を改正させて米国の戦争をサポートさせるというのは共和民主問わず共同認識になっていたのだ。
集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法で合法としてしまったのだから改憲のカードは無くなった事になる。
PKOの歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本が軍事的な国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。
尚、日本は民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権を承認していた。あの虐殺で国民の半分近くを殺しまくったポルポトを国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。
こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。
護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派の憲法学者も全て護憲派に寝返った。
一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。
そんな情況の空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味が判らんかった聖帝閣下は友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達の稲田防衛大臣は制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。
10代の頃に椎名誠にハマったSF好きだけど、横浜駅SFは面白くなかった。短編集も読んだけどあんまり面白くなかった。
何がつまらなく感じたのかはわからない。わからないなりに考えてみる。
どれを読んでも「なんかサラッと読めるな」ってのが第一印象だった。自分の中でSFはディテール盛り盛りで文章の圧力が凄くて「アビャビャビャ」とか言いながら読むもの、という読み物で、サラッと読めるこんなのはSFじゃない、と思ったのかもしれない。
ただ横浜駅SFの人の話がディテールスカスカ空気か霞か的小説かというと、多分違うような気もする。わからない。
命の危機がなんか薄いな、という気もした。椎名誠の冒険SFでは登場人物は恐ろしくまた気持ち悪く描写される命の危機に遭遇する。そういう展開は読む方も胆力を消費するので俺も思わず脳内でアビャビャと叫んだりする。横浜駅SF等は危険な展開の没入感があんまり無かった、ように思う。だからつまらんのかもしれない。でもこれもディテールの問題か。ディテールがリアリズムを生む。
何にせよこの人の本はもう買わないだろうなと思った。終わり。
あなたの言うことは、まずもって集団性・党派性を前提として目的の実現のためにはどこに与するか?そしてそれがリベラル・左派的な範囲であった場合に、彼らがどう動くか?という点を具体的に想定しているということなんだね。個人的にはどのような政治集団であれ属したことがないから、右派・左派の政治集団的な目的や、その実現のためのプロセスというのは想定することができない。あなたはおそらく、世の中の動向を思想性・党派性による集団として分類、モデリングできているということなんだけど、その精度と正確性は判断することができない。知見がないので。
でもある種のリアリズムは感じているよ。党派性を攻撃しようとするわけでなく、正しい意味で批判しようとする姿勢があるように思えて、その点は共感することができる。元の介護士・技能実習生問題のように、ある課題を社会的に解決するためには集団化が必要で、それを達成するにはどの団体がどのように動くだろうか?(動くべきだろうか?)というモデリングはあったほうがいいのかもしれない。今後そういう視点で世の中の動向をウォッチしたいと思う。l
プラグマティズムは一言で言えば行動を伴わない思想に意味はないというリアリズムの一種だけれど、フェミニストになって現実的に得をすることがない。
事務的なコミュニケーションを取る時にフェミニズム的にふるまい、男女差別をしないで対応することにより良い印象なるものを与えることができるかもしれないがフェミニズムなど意識しなくても単にロールプレイとして仕事すればフェミニズムのような思想を持つ必要はそもそもない。
フェミニズムを信奉する女性にとってはフェミ的な対応をとる男性は有用な印象を与えるかもしれないがそれで終わりである。それ以上の関係になることはない。
現実問題として男性が女性を口説いて恋愛が始まるモデルが支配的な以上、完全にフェミニズム的なふるまいを取る男性は無意味な人間になるしかない。無害な印象を与えてそれで終わりである。フェミニストは個人主義を叫んで男性は女性に侵入してくるなと言っているがそういうふるまいを取る男性の終着点を想像していない。あの人は良い人だった、それで終わりである。
フェミニズムが理想とする無害な男性は極端に恋愛の機会から遠ざかる。女性から口説かれる男性はほとんどいない。それが現実である以上、フェミニズムを男性が生き方として採用する社会構造がない。男性にとってフェミニズムは理想論として語ることはあっても永遠に現実論にはならない。男性が能動的、女性が受動的な世界において男性が無害な存在として振る舞うことは関係性の終わりを意味する。女性が男性的に男性を欲望し、男性が受動的になれれば僕もフェミニストになっていい。しかしそんな世界は永遠に訪れない。実存を伴わない思想に意味はない。男性がフェミニストになる意味がない。
フェミニズムは正しい。それは論理であり理想であっても決して現実にはならない。だから僕はフェミニストを支持し、同時に採用しない。現実的に考えて利益がないからだ。僕は女性に口説かれる男性ではないし、女性と関係を持ちたい普通の欲望を持ちたい男性だから僕は女性の意図を無視して口説くこともあるだろう。その結果、ハラスメントと言われるかもしれない。その結果後悔するかもしれない。
お互いの気持ちを曇らせるために。
いろいろなものを捨てた。電話番号も写真ももらった手縫いのマフラーも。
ただ彼女のためにつくったSNSのアカウントだけは最後に残った。
開くまいと思いながら、数か月に一度、開いてしまう。
溢れるばかりのメッセージが目に飛び込む。
やがて彼女のメッセージの頻度は減っていった。そして返信もやめた。
あれから7年になる。
元気?
たったそれだけだ。恐らく彼女は、ときおりオンラインになっている俺をみつけては、
ひたすら返信を待ち、オフラインになって三日、一週間と経つのを眺めているんだろう。
俺が彼女にとって最後の男になってしまっているのだとすれば本当に切ないことだ。
しかし、俺にとってもまた、セックスが特別なものになってしまっていることにうすうす気が付いていた。
見つめ合い、肩を抱き合うだけで浮遊する感覚になった。
彼女と長い時間かけて重ねた唇、時には激しく駅弁スタイルでしたときの滑る汗、あの日々を上回るセックスはもう人生で経験することはできないだろう。
その通りだった。
村西が愛した黒木香は今、一体どこで何をしているんだろう。
NETFLIXの「全裸監督」で描かれた黒木香は、虚実交えているだろうが、
ものすごいリアリティがあった。黒木の母親役を演じた小雪の存在感も鳥肌ものだ。
・・せっかくしんみりとしたことを書こうと思っていたのに、だんだんズレてきた。
駅弁といえば。。
「全裸監督」は、今少しずつさまざなまレビューが出てきているが、
近年まれにみる傑作だ。
あの同世代を一歩遅れて歩んできた俺は、社会に出たときにはすでにバブルは崩壊していた。
学生の頃に、友人が苦労して入手した流出裏ビデオがどういう経緯で世に出ていたのか、ドラマでは虚実交えて克明に描いていた。
また、ビデ倫の仕掛け、ヤクザの関わり方を生々しく描いており、80年代のアダルトビデオの黎明期をここまでねちっこく映像化した作品は今まで存在しなかっただろう。
当時、やたらとモザイクが濃いものと薄消しのものがあって、なぜなのか、疑問にすら思わなかったが、「全裸監督」には、その答えが暗示されていた。
また、この作品で再現された、当時の歌舞伎町の舞台セットが素晴らしい。
とりわけ、村西率いる「サファイア映像」のスタッフ軍団が集うスタジオが興味深い。
スタジオの前に目に入ってくる、カレーの店タバサの看板。大量に麺類をつくっては、中華の回転円卓を囲んでスタッフ全員で豪快に食らうシーン。てんこ盛りのポテトサラダ。実にセンスがある。
昭和と平成のはざまの昭和63年暮れから昭和64年1月の冬の雰囲気。
当時、警視庁がわいせつ物の取り締まりを強化する流れに大きく動いていた。
日々の天皇の病状の深刻化が取り締まり強化の動機付けとして、象徴的に語られているのが技巧的だ。
彼は業界の大物を通じて、すでにヤクザとズブズブになっていたが、警察幹部からは、ガサ入れの方針が打ち出される。
一方、黒木香は、こうして業界の闇が描かれながらも、後方馬群でひっそりと控えている差し馬のような存在感で、ドラマ前半で静かに描かれていた。
横浜国大に在学していた彼女は、イタリア留学を夢見ながら、母親から抑圧された存在として、じわりじわりとエネルギーをためてゆく。
この見せ方も圧巻だ。村西とおるへの思いがあって、あのパフォーマンスが生まれた、というのは、このドラマの村西と黒木に対する解釈であって、本当のところはわからない。
しかし、村西と黒木の関係を物語るものとして、ものすごい説得力を感じた。セックスは一期一会といった村上の原点がここにあるんだろう。
ガチンコのセックスに対するこだわりは、売れるからという動機を覆い隠してしまうほどに、リアリズムへの情熱であふれている。
れいわ新選組から重度の障害を持つ二人の候補者が当選したことは、先日あらためてクローズアップされたやまゆり園の事件に対する冷淡な反応などへの最大のカウンターとなった。
一部で熱狂的な支持を集めた山本の演説における主張の多くは、現状追認主義者に鼻で笑われるような理想論に聞こえるかもしれない。
しかし今回選挙で採用した戦術(特定枠という制度と自らの知名度を最大限利用することで組織力不足を補いつつ、知名度の低い舩後氏と木村氏を国会に送り込む)は、他のどの陣営よりも括弧付きの「政治」として徹底的にリアリズムに根ざした実効性のあるもの、即現実を変えられるものであり、そしてそのために利用された特定枠は合区で議席を失う自民党議員の救済のために作られた、近年稀に見るキングオブクソな制度であったということも特筆すべきだと思う。