はてなキーワード: エントリーとは
amazonのレビューで、多崎つくるのレビューを、ほとんど疑いもなく星5つで記載し、圧倒的な「参考にならない」の評価をくらっているしがないレビュアーです。
ちなみに、今日2013/5/8現在、335人中101人が星5つの評価を加え、星4つの高い評価をつけた人を加えると、335人中182人の半数以上の人が星4つ以上をつけているにも関わらず、現在「最も参考になったカスタマレビュー」は、ドリーなる人物の書いた「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」という星1つのレビューで、9825人中、9502人が「参考になった」というボタンを押しています。
ちなみに星1つの評価のレビューは、323人中、51人しかないにもかかわらず、この評価は圧倒的です。
感覚的にいえば、全体における星の数の比率に、各評価の中で「最も参考になった」というというレビューが、最終的に漸近していきそうなものですが、このドリーなる人物のレビューは、ある種ゴシップ的な面白さが加わり、NAVERとかはてブあたりから迂回してやってきた方々の支援もあったのだろうと邪推しつつ、圧倒的な支持を得、10000近くの人たちに「参考になった」とフォローされているわけですが、その内容は、読めば読むほど気持ちの悪いレビューで、村上春樹をとりまくマーケティングの悲惨さを痛感するとともに、あらためて日本人の文盲具合と、教養のなさと、その教養のなさをひけらかす露悪主義をみせつけられるようでした。
とはいえ。
これも、ドリーなる人物の文章が悪いのかというとそういうのではありません。こういう気持ちの悪い文章は、本来放っておかれれば、そのまま情報の闇に葬りさられるだけであり、問題なのは、こういう情報を引っ張ってきて、「うーん、これはすごい」「面白い」と言っている人々の側に、前述した無教養さの礼賛であるとか、露悪主義のようなものがあるように思うのです。
それで、私は、この駄文が、そもそも情報の闇に葬りされること請け合いなのにもかかわらず、下記の数点の視点に絞って、村上評価およびその周辺のマーケティングの問題について論じたいと考えています。
1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど)
この3点についてです。
■1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
まず、結論から断じて言いますが「多崎つくる」のamazonのレビューを、現在の日本文学における主要作品(村上龍、山田詠美、阿部和重、平野啓一郎、川上・・・などなど)と比較して星をつけるとするならば、星は5つ以外は考えられません。これらの作家の代表作と比較しても、時代的な価値、作品の主題、文体などにおいて「劣っている」という評価をしようがないからです。
もちろん、小説や物語には個人的な共感を読み手の原動力にするという性質上、どうしても「共感できない」という人がいるのは確かなことです。しかしながら、そういう個人的な側面を度外視し、「文学」というジャンルにおいて、日本という国の文化を歴史的に補足、説明する資料として、たとえば、文学作品をピックアップするのだとすれば、本作は1Q84までとはいかないにしても、近年の日本代表クラスとしかいいようがないからです。
2013年、日本という国で出版された歴史的に淘汰を免れる文学作品をあげなさいといわれて、今年、これ以上に素晴らしい「文学作品」が登場するかどうか、私は甚だ疑問です。平野啓一郎の新刊がでればその可能性があるでしょうが、少なくとも、それ以外の作家には期待できません。
abさんご?無理です。
そういう意味において、本作は星5つ以外の評価はありえないと私は思うのです。
しいて別の視点で評価するならば、村上春樹作品全体を相対的に評価するということもできるかもしれません。これについて言えば、私の評価は、星5つに限りなくちかいものの、もしかしたら星4つをつけるかも、くらいのところです。人によっては3つという人もいるかもしれません。それはあくまでも村上春樹作品における相対評価です。
本作は、次につながる長編小説のための助走のような小説です。伏線の回収(村上春樹本人ならば、伏線の回収ではなく、全体を微細に描き切っていないと言いそうですが)、それが十分でないことがその理由です。
しかしながら、これが作品の評価を不当に低くするかというと別問題です。短編小説というのは、その行間に物語の前後や背景を滲ませ、読者に共感の余地を残すものです。これは本作が、短編小説的な位置づけにあるということを示唆しているのであって、村上春樹が手を抜いているわけではないのです。星を1つ減らす理由があるとすれば、「もう少しだけ短くてもよかった」という点でしょうか。短編小説というには、少し長すぎました。
本作は、あくまでも「短編」であり(この人の場合は、もはや「短編小説」がこの長さになってしまうだけ)、あえていくつかのプロットを読者に委ねたのです。これは、文学を読む側のリテラシーの問題です。趣味(つまり好み)の問題ではなく、読む側の技術(読解力)の問題です。
というわけで、個人的な村上春樹の読者として星をつけるならば4つもあり得るかもしれませんが、文学に全方位的に公正な評価をつけるのならば、星5つ以外にはないということをご理解いただけるでしょうか。
もし、理解できないのならば、村上春樹を読む前に、夏目漱石と森鴎外と谷崎と太宰と三島と大江健三郎と諸々読み直すべきでしょう。
それが嫌なら、伊坂幸太郎でも読んでればいいと思います。稚拙な、読解力を十分に満足させるだけの文章にはなっています。
■2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
私は、長年村上春樹の作品を読み続けてきて、周囲にもそのことを公言しているわけですが、最近困ったことに「ハルキストの○○さんは、新作もちろん読まれたんですよね?」とか「ハルキストとして今作はどうでしたか?」などと聴かれることが多くなりました。
この「ハルキスト」なる呼称、最近よく聴くんですが、これって、わりと最近たぶんノーベル文学賞に毎年エントリーされるくらいになってテレビのリポーターとかがテキトーつけたんじゃないかという気がしています。一体いつくらいなんでしょうか?
私思うんですが、村上春樹の読者を「ハルキスト」と呼称してしまう人は、はっきりと断言しますが、村上春樹を読んでいないか、全く読解できていないかのどちらかです。
村上春樹の小説はどの作品でも読めばすぐにわかりますが、組織や共同体に所属することにとにかくうんざりしています。辟易しているし、場合によっては嫌悪感に近いものを感じていることもある。とにかくそういう人たちとうまくやっていくことができないし、やっていく自信もない。主人公の「僕」やら「ハジメくん」やら、「ワタナベくん」は、もう、所在なし、所属なし。
村上春樹の作品が世界的に受け入れられているひとつの理由は、その「孤独」性です。その周囲にうんざりしたり、なじめなかったりするその主人公のおかれた状況に、読者が少なくない共感を感じてしまうことが、世界的に受け入れられたひとつの理由なのです。
つまり、「ハルキスト」などという「ひとくくり」の呼称を付与されることに、気持ち悪さしか感じない・・・というような人たちが、どちらかといえば村上春樹の本質的な読者なのです。私も同様「ハルキスト」と呼ばれるたびに、冷笑を覚えたりするので、みんなそんなもんだろうなと思っていると、ときどき本当に「ハルキスト」を自称する読者にあったりします。こういう場合は、辟易するというかなんというか、ときどき困惑と嫌悪感が入り混じった感情を抱いたりするこもあります。
なんなんだこの違和感。
と。この感覚は、村上春樹に星1つをつけて、「いやぁ、村上春樹とか読んでるやつ信じられねーな」とかいう人の感覚に案外似たところがあるかもしれません。(まぁ、とはいえどうでもいいことなので、あえてバッシングしたいとも思わないのですが。)この際、そのほんとに読んで言ってんのかよ!という方々を「ハルキスト」と呼称しましょうか、そのハルキストなる方々と、村上春樹の作品とはまた別の問題だと考えるべきです。
こう言うと、村上春樹の小説はそういう勘違いした読者、その「ハルキスト」なる存在を生み出しており、村上春樹にはその責任があると捉えることもできます。
アンチ村上春樹の人間は、この影響力に村上春樹への脆弱性をみつけて、論考をぶつのですが、はてさて、この点はもういちど考え直してみたいところです。読み手の読解力の欠如がもたらした読者の勘違いを、書き手である村上春樹にその責任を求めることができるのか?ということです。
小説作品は、たとえば自動車のエアバッグとか、緊急時備え付けの消化器とか、避難用のはしごだとか、なんでもいいけど、使い方を誤まったら命に別状があるというようなものではありません。
芸術作品です。
作り手の意思とは別に、受け手が勘違いしてしまうことに、作り手はどれだけの責任が持つ必要があるというのでしょうか。
■3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど!)
村上春樹を批判する多くのレビューを読む限りにおいて、圧倒的な支持をえる論調は、
「こんなヤツはいない」
「恵比寿でナッツを食べるたべにバーに入ったりしない」
「孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」
確かに、多数派ではないかもしれませんが、いないわけではありません。ホテルのバーでお酒を飲んだりすることは、普通にあることです。言葉でどう表現するかの問題はありますが、物事を深く考えすぎて、些細な問題で心を痛めてしまうということも、現代人ならよくあるはずです。セックスなんて論じる必要もなく、敷居が下がっています。
主人公の行動や言動を自分と比較して、「こんなヤツいないよ」とかいうのは、主人公を類型化して自分との共通点を見つけ出す作業なのでしょうが、確かに、村上春樹の作品の主人公を無理やり類型化して、多数派か少数派かで割り振ったとしたら、間違いなく少数派でしょう。(安易にこういう構図に分類するのは正しい方法ではないのですが)
鉄道会社勤務。年収は、700万程度。都内にマンションを所有し、ローンもない。30代後半で独身。女性関係は特に困ったことはない。
なんというか、条件面だけ描きだせば、裕福で恵まれていて、どこかしらいけすかないととることもできそうです。そして、実際、この点を、アンチレビュワーの方々は、突いているのですが。
前述したとおり、村上春樹の小説が世界的に受け入れられたひとつの要素はその「孤独性」だと言いました。
みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独に音楽を聴きながら読書をしていたい。
などという人間を描いて、そこに世界中の多くの人間が共感しているのです。きわめて個人的に。
そして小説というのは、個人的な共感によってはじめて読み進めることができる形式の芸術です。
たとえば、ソフィア・コッポラの映画は、同じように「孤独」を描いています。マリーアントワネットなどはその最たる例で、多崎つくるくんなどとは比較しようもないくらい恵まれている。にも関わらず、彼女は圧倒的な孤独に苛まれている。そして映画を観る者は、そのマリーの孤独に共感して、胸を痛める。いや、映画が小説と違うのは、マリーの孤独に共感しようとしまいと、映画自体は2時間後に終わるということ。
しかしながら、小説というのは「なんだよこいつ、むかつく奴だな」というのがあったら、読み進められない。別の言い方をすれば読み進めなくてもいい。村上春樹は、この社会において孤独を感じながら生きざるを得ない、もしかしたら比率的には少ない側の面々の生き方肯定しながら、その顛末を見守るというようなプロットなのだから、読んで「むかつく」人が多いのが、当たり前といえば当たり前なのです。
もともと多くの多数の人間に共感されることを、書いてる本人も視野にいれてはいない。(それを望んでいないわけではないにしても)
にもかかわらず、売る側は必死です。
それはそうです。売る側は、本の内容は関係ないからです。出版不況の時代です。本が売れません。黙っていても売れる時代なら、売る商品を選ぶこともできます。「こんな根暗な作家が書いた本は、ひっそりと奥に並べておこう」とか。でも今は、売れる商品が限られています。小さな本屋から、大きな本屋まで、こんなにまとまって本を売ることができる機会は、年にそう何度もあるわけではないのです。
だもんで、売る側は、まったなし。「村上春樹の新刊!?長編?平積みだよ、平積み!」
と、なって当然です。で、買い手は買い手で、村上春樹なんて共感できない人が数多いて、そのことを半ば自覚しているにも関わらず、「またぞろ、村上さん新刊ですか?」などとうがった態度で、1700円も払って買って帰ったりする。
本来、孤独に静かな時間を過ごしたい人(それから社会と自分との繋がりを確認したい人)のために書かれた本であるにも関わらず。
帯にこんな風に書いておけばいいかもしれません。
「この作品は、日常に違和感を感じることもなく、日々を謳歌している人間には読む必要のない小説です。それと孤独を描いてはいますが、自分自身の孤独が解消されれば、他人のことも社会のことも、どうでもいいという人にも不向きです。自身の孤独が社会との関係において改善されることを仄かに信じている人のための作品です」
もちろん、そんなことは絶対書かれることはないのでしょうけれど。
本来静かに出版されて、求める人がそこに救済を得るという仕組みであるべき作家と読者の関係が、資本主義の論理によって蹂躙されている。それだけのことにも関わらず、本来、村上春樹に対して苛立つ必要もなかった人たちまでが、駆り出されて、勝手に苛立っているのです。
嫌なら読まないということが可能なのにも関わらず。
この「作り手」と「市場」との悲劇的な関係というのが、アンチ村上春樹を作り出し続ける最大の要因という気がしてなりません。
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随分長くなってしまいましたが、最後に結論というかなんというか。
こういうことも言えるかもしれません。
昔、三島由紀夫は、太宰治が大嫌いで、直接会いにいって「私はあなたの作品が嫌いです」と言ったそうです。
すると太宰治は返す刀でこう答えました。
「でもこうやってわざわざ来たんだから本当は好きなんでしょう?」
三島由紀夫は、なにも言い返せなかったそうです。
つまり、みんな本当は、村上春樹が好き(もちろん、断固として認めたくない)なんだけど、作品の主人公同様、素直になれず、好きさゆえに星1つつけちゃって、あんなヤツ嫌だよ、いないよ。むかつくよ。とか言ってるだけっていう可能性もあります。
ん?あっ、それって、実は一番村上春樹の主人公的?な気がしなくもないですね。
この長文を書いている間に、少なくとも「私は、ハルキストです」とか言ってる人より、星1つつけて、村上春樹なんか嫌いだよとか言いながら、毎回出版されるたびに買っちゃってる人たちの方が、なんだかよっぽど共感できる気がしてきました。
「自分の抱えるある問題が本質的には『自分がナードかつウィンプであること』に由来する、というのをある程度理解しつつも
それを抜け出すような選択が出来ない層(→要は、勇気がないんでしょ?)」
の心情を(かなり極端な形で)代表しているので、この層から常に支持がある。
精神分析好きのフェミニスト。しかし自身が「社会派フェミニスト」と呼ぶものとは距離を置いているようだ。
主張はうまく飲み込めないけど、
動物行動学的な意味合いでの「性」からは人間も社会も逃げられないよ、という感じ……なのかなあ?
たまにフェミニストと共闘できそうなエントリを書くとヤフコメ臭の漂う男にディスられる忙しい人である。不幸だ。
また、「左派のインテリ男性」にあまり厳しくないフェミニストは珍しいので、
必然的に取り巻きが増え、まとめて大野組などと呼ばれてディスられる。不幸だ。
はてなで最も戦闘的な左翼の一人。政治的な論争では常に攻撃的だ。
「はてサ」が嫌いな人には、筆頭のような扱いで疎まれている。
Twitterアイコンが暴力的ポルノだったりするような(ある意味で)自傷的な姿勢からすると、
自分語りを増やせば「ありむー萌え」みたいなそれがこの人に起こってもおかしくないかなあ……
と一瞬思ったけど、やっぱりそれは無いような気もする。
何が違うんだろう?
攻撃的でも愛されるタイプの人って、どことなくヤケっぱちな姿勢があるよね。y_arimにはそれがある。
ずっと、本名が本田さんだからfont-daなんだろうなあと思い込んでいました。fort-daか!
自称極左……なんだけど、政治的な論争にあまり積極的に絡まないため、
「はてサ」について言及される時でも大体無視されていてちょっと哀れ。
「妻にDVで逃げられたワープア」というアイデンティファイを何度も繰り返しているが、
これにはどういう意味合いがあるのだろう。
流石にこの属性を愛してくれる人なんかいないんだから、無視されるのもしょうがないよ……
常に懐疑的な立場からライフハック(に絡めたジョーク)を書いている人、という印象がある。
ジョックの論理を(後天的に)身につけてそれなりに対応できる、という点でナードを拗らせたクネクネ民とは大きく違うという気がする。
政治・社会問題にはほとんど首を突っ込まないが、明らかにニヒリズムが伺える。
「はてなの戦闘的な思想家を疎んじている人々(=「ノンポリは体制」という言葉でディスられる人々)」は潜在的にはかなりいるはずで、
マッチョ/ウィンプの構図を意識しつつ、明確にマッチョ寄りのライフハックを書いている。
もちろんウィンプからの反感はかなりあって、ことあるごとに叩かれている。
実はid:kokoroshaと姿勢が似ているんじゃないかと思っている。
id:kokoroshaがあまり叩かれないのは、自分をさらけ出す(正確には、さらけ出しているように演出する)ことで、
あと、ビジネスエリートであるという自己演出をする/しないの違いもあるか。
要するに「僕は君たちサイドの人ですよ~」っていう布石を打つか打たないかっていうのは
読者の反応を決定的に変えるのかな。
ところで、当初はなんでも相対化する人という印象だったので、id:ululunの人とはしごたん絡みの騒動で怒っていたのは少し驚いた。
同じメタと相対化を繰り返すタイプの人でも、ビジネス寄りの人とアカデミズム寄りの人は全然違うんだなあとか考えたり。
フェミニズムに対してやや懐疑的なエントリをしばしば書いて、微かな反発を受けていたのが記憶に残る。
最近は書いてないようだけれど、もう少しあなたの文章を読んでみたいです。ねえ、id:ohnosakikoさん?
薄く保守的な感覚を持っていて、ややマッチョ寄りの思考をする人。つまり、一般人。
不幸なことにはてなでは異物であるため、結婚観についてのディスり合いに巻き込まれたことがある。
はてなで起こった政治的な論争を「あさま山荘的な何か」と位置づけ、
自分はそこから外れた存在であると自己演出することで、一定の地位を得ている。
「今世紀はライフスタイルに基づく人種間対立の時代」という言葉が私の頭のなかをぐるぐる回っています。
id:takisawaみたいな人とは完璧に相性悪いのに(どちらも潔癖なタイプで、かつ方向性が決定的にズレている)
なんで仲良くできるんだろう、不思議だなと思いつつもほっこりしていたら喧嘩別れした。
ち、違うねん!
最初に30人くらい思い浮かべて、昔のことを先に書こうかなとか思ってただけなんです!
それと、paris713さんとohnosakikoさんが同じ人だって言ってるんじゃなくて、
いつも大野さんがエントリに真っ先に理解を示してたなあとか思い出したのです。
改めて読み返すと確かに今更感がすごい……
何だって作れてしまうモノづくりの世界、second life
現実世界だってそう変わらないのに、なぜこんなにも好きでいられるんだろう。
実はしばらく、もう3年ほどやってない。
でもあの感覚を忘れることはなかった。
麻薬にでもハマるかのようにがっつりと捕らわれてしまっている。
当時どんなにバッシングを受けても、以降冷めた目で見られても、まるで痛覚を遮断されたかのように熱が冷めたことはない。
とても魅力的な世界。
たとえ廃れ行くとも、消えて行く世界すら儚くて素敵。
最近ひょんなことからまた熱が膨れ上がってきてて、とてもやばい。
新しいPCを買う算段や、またイチから始めてぶらりと世界を巡る妄想をしてしまっている。
先日書いた増田エントリー、拾ってくださりありがとうございました。
ご本人様の耳にも入ってしまったようで、嬉しいやら恥ずかしいやらです。
誹謗中傷というのはどのように行われるのかという事に興味があり調べながら、ついでに特定の個人を示して誹謗中傷しているコメントを抽出してそのアドレスをはてなの問合せ窓口に投げた。そんな作業の中で一つ気付いたことがあるので匿名ダイアリーを借りて記しておく。
はてなのコミュニティに属している人は、人気ブロガーであったコンビニ店長こと、MK2氏と、彼を執拗に批判する匿名ダイアリーのあるユーザが存在している事をご存じだと想う。それを追っていくと、MK2氏のエントリーを擁護する、あるいはMK2氏を中傷する匿名ダイアリーのエントリーについて批判的なブックマークコメントを残した人物に対して個別にIDを示して「ゴミクズ」という非常に特徴的な語を用いて中傷している人物がいることが観測できる。文体も非常に似ていて、文体を統一するマニュアルでもなければ同一人物である可能性が高いと思われる。さらに文体以外にも特徴があり
ここではっきりと書いておくが、イケダハヤト氏がこれをやっていると言う陰謀論を唱えるわけではない。何故ならばイケダハヤト氏は文筆業であり、有料でその考え方を文章にして販売している人物である。そう言う人物がこのような行動をとることはまず無いと考えている。漫画家がタダでマンガを書かないのと同じだ。プロはそれが商品である事を承知しており、商品の価値を下げるような真似はしないのだから。(私は彼が人格者であるから行うわけがないと言うほど彼の事を存じ上げないし、著作も読んだ事が無いのでこう言う言い方になる。彼の人柄をよく知る人が人格面からそんな事をするわけが無いと主張する事を否定するものではない)
では何かと言うと、これらの批判を繰り広げているのは
なのではないかと推測したと言うことである。さらに言えば、イケダハヤト氏に憧れて彼のようにネットで話題になりたいと文章をしたためているが、おそらくはてなブックマークでも、Twitterでもほとんど話題になることが無く、少なくともMK2氏の執筆したエントリーほどは注目を集めないことに不満を持っているのでは無いだろうか。
そして、そこでコンビニ店長たるMK2氏である。これらの事から、以下の様な妄想をここで披露する。
3行でまとめると
ノマドの立場というのは自由であるが、しかし無保証である。私はノマドワーカーを選ぶ人々は不安定な経済状態になって無保証になることそのものを目的にしている人はいないように思っている。自由をまずは目的にしているはずだ。だから最終的には、ある程度の自由を得ながら・・・自分の好きなことをしながら、経済的・生活的には安定することを目的としているのでは無いかと考える。
まず一つ目が職人としての成功である。腕一本で多数の所から仕事のオファーを連続して受けるケースだ。職人における安定とは、仕事が連続してくることであろう。しかしそのままでは仕事に縛られる事になるので、多数の仕事の中から自分がやりたい仕事を選ぶことができなければノマドという働き方を選んだ意味が無い。さらに価格交渉をしてより高い報酬を得る、そしてその報酬の分以上の利益を相手にもたらすことでさらに次の仕事に繋げる。こういったポジティブなサイクルを繰り返えして安定して収入を得るのが一つのゴールであろう。
もう一つの成功としては、自らの仕事を資本にして、自らの自由になる組織を作るという事だと考えられる。
職人のケースでは、多く受けた仕事のうち、やりたくない仕事はただ断っただけであった。しかしこれを自らが抱える別の人物に出せば、その分の仕事を受ける事ができるようになる。このようにして仕事をできるだけ断らずに、しかし自分でこなすのでは無く他者の手をかりて実行していくという形である。これは最終的には会社組織という事になるのだろう。こちらの特徴は組織化することでいくら組織の長であるとしても組織のしがらみを持つ事にはなる。しかし個人で行うよりは圧倒的に大きな事ができるようになる。大きな力を手に入れるというのは即ち出来る事が増え、出来る事が増えると言う事は自由になるという事である。
コンビニというのはフランチャイズ展開している自営業の集まりである。古い人間であるならば近所の酒屋が次々とコンビニに変わって行った時代を知っているだろうし、もう少し下ってくれば、独立系スーパーが店じまいをした後、アパートが建設され、その1階にできあがっていくコンビニという風景を見たことがあるだろう。今では大手コンビニチェーンがドミナント出店を行う際に、大々的にオーナーを募集するTVCMも流れている事も目にするはずだ。
このように、CVSは基本的にはオーナー制のフランチャイズ経営をとっている。このフランチャイズ制というのが何か、あるいはコンビニにおける商売の仕方は何かと言う事はネット上に無料で見ることのできる優良な文章がいくつもあるのでそれらを参照していただきたいと思うが、要するにコンビニのオーナー店長というのは、ブランドを借りて自主独立した店主であり、古い言い方をすれば一国一城の主なのである。
コンビニ経営は言うほど簡単では無い。全国的に統一されたマニュアルが有り、商品供給などのバックエンドはしっかりしている。しかし、それだけである。経営者はコンビニ本部への上納金を稼がなければならないという話はもちろんのこと、バイトの管理は重要で生半可なコミュ力ではできない。さらに地域との溶け込みも実は大切で、悪い評判が出るとまず固定客からいなくなると言う性質がある。
そんな中で、MK2氏のエントリーを見る限り(つまり実態はともかくMK2氏のエントリーから読み取れる店の雰囲気としては)非常によく成功しているように見えるのである。有り体に言えば勝ち組だ。優秀な奥さんがいて、信頼できる部下もおり、業務の工夫が功を奏して経営も安定しているように見える。これを勝ち組と言わずなんと言おうか。にも関わらず彼は会社員では無い。自ら決定権があるある程度自由にできる組織を持つ人である。
本来であれば、MK2氏のような人物は、ネットでは可視化されない。ましてや「はてな村」と揶揄されるような黎明期から続く雰囲気を色濃く残す部分に現れてくることはまず無い。彼らは現実世界で成功しており、地元の付き合いなどもそつなくこなし、それらについて忙しいのだから、このような趣味を持つ必要も無いはずだ。IT技術者のように、ネットの技術が自らの業務に密接に繋がっているわけでも無い。だからこのような成功者は、目に見えないはずだった。
しかし、MK2氏は、いわゆるオタク趣味を持ち、その方面からネットに進出してきたのである。さらに当初はサブカルチャーを中心にしていたが、だんだんとコンビニの経営者であると言うバッググラウンドから、それらに留まらず独自の視点を持った考察を行ってきた。また一般に長文が嫌われる傾向のあるインターネットにおいて、長文であっても読ませる文章であると言う評価を得るに至った。
自らの成功したいという欲望と、認められたい自己顕示欲。この二つが強すぎながらもどちらも持たざる人物にとっては、その両方を持ちながらさらに注目を集めるMK2氏の存在は非常に苛立たしいものだったのではないだろうか。
コンビニを潰すことはできない。であるならば、執拗に個人攻撃を繰り返すことで自分が唯一存在できる場所からMK2氏を排除したいと言う動機があったのでは無いか。あるいは個人攻撃をしていると言う自覚も無いのかも知れない。自らを高められないものが陥りやすい心理として、相手を批判する事で、相対的に自分の地位を上げようとする行動がある。
自らは特にすごくも無いのに、よりすごい能力を持った人物を批判する事で「偉い人を批判できる俺は彼より偉い」と言う錯覚を得たいがための行動である。あるいは格上の人物であっても批判する事によって注目を集める事ができるのでそれに酔ってしまった行動では無いか。
ネットで見られる多くの誹謗中傷と言った類いではこのように「妬み」としか言いようが無い感情に基づいているものが多く見受けられる。今回もこのケースなのでは無いだろうか。
対処法としては無視するのが一番なのだが、なかなか対処が難しいのは事実である。またこのような妬みを原動力とするものについては、単なる愉快犯と異なり、反応するしないに関わらずどんどん一方的にこじらせていく事も多い。もちろんその過程で反応したりすれば、一気に吹き出すことになるだろう。
このようなケースについて、何か良い対処法はないだろうか。一番に考えつくのは、頭を冷やす時間をとることなのだろう。妬み批判したところで自分は何も変わらない、むしろどんどん墜ちているということを自覚させるだけの時間を与えることだ。しかしそれを与える方法が難しい。どのようにしたらよいのだろうか。
日々ライフハック系記事をせっせとブクマしてるみなさまごきげんいかが?
そのせっせとブクマした記事読んでそれ実践した?してないよね?わかる、わかるよー。
ブクマした瞬間やり遂げた感を感じちゃったんだよね?それで満足しちゃったんだよね。わかるー。
日々“ためになる”話、“いい話”をせっせとブクマしてるみなさまごきげんいかが?
そのせっせとブクマした“ためになる”話、“いい話”読んだ後あなたの生活何か変わった?変わってないよね?わかる、わかるよー。
それ読んで感動して「自分でもできる」「こうすれば変われる」と思った瞬間に満足しちゃったんだよね。わかるー。
誰かのライフハックも誰かの金言もあんたの人生を変えてくれはしない。
そりゃあ中には「あの人の言葉で人生変わった!」って人もいるかもしれないけどさ、
それって誰かの言葉が変えたんじゃなくて、その人自身が“行動して”変えただけなんだよね。
それを勘違いして、ライフハックやらいい話読んでるだけで変われるとか思っちゃってる or 思ってないまでも気づいてない人が
自分の人生を変えるのは他の誰でもない自分だってことに気づいたほうがいいと思うぜ。
他人事じゃないよ?
おめえのことだよ!そこの!そこの!おめえだよ!おめえだよ!
そういう人を選ぶのは逆に言えば、採用した会社側の見る目がまるでなかった。
ということになるよね。
スペックが高い人がその会社に「第一志望です」と言っても会社側がそれで満足するのは間抜け。
そんなこと、社交辞令に決まってる。エントリーシートの志望動機や自己紹介が完璧だとそこで気付けるはずだ。
案外いい人を選んだつもりでいる、その採用システムに囚われてるだけなんじゃないか?
エントリーを機械的に事務的に処理し、いざ面接では上辺だけの志望動機に満足するのは人間の手が面接だけに留められているからだ。
それこそ会社側の怠慢だ。
穴だらけの採用システムを分かってて通過してきた内定者が内定を辞退するのは尤もだ。
説明会もすぐにキャンセルする、エントリーシートが通過しても面接をブッチしてしまう、
馬鹿だねえ、勿体ないよと皆に言われる。
当たり前ができない。
当たり前ができないなら、新しい事をやってやろう!という気概もなく、常識に嫌悪感を持ちながらもレールに乗っかるしか発想がない。
最終までたどり着けたのが本当に奇跡のようなもので、そこはエントリーだけで1万人くらいのいわゆる大手企業。
12月から今まで就活をしてきて面接が通過したのはベンチャー企業1社のみ(しかも二次選考ブッチした)だった。(そもそもそんなに数受けてないんだけど)
ESには自信があったのだが、破滅的に頭が悪いのにテストセンターを通過できたのが第一の奇跡。
グループディスカッションでは、就活始めて以来初のメガンテ君に遭遇しイライラしつつも通過。これは第二の奇跡。
一次面接は、面接後に好きな人に会う約束があったので初めてウキウキしながら会場に向かった。嬉しそうなオーラが伝わったのか通過。第三の奇跡。
二次面接は、自分なりに頑張って業界やら企業やら研究したり、色んな人に話を聞いた。その結果面接の手応えばっちりで、案の定通過。
記念受験のつもりでエントリーしていた企業なのに気がつけば最終まで来ていた。
最終は全く手応えがなかった。
面接官3人のうち、いちばん偉いのかなーと思われるおっさんは一言も言葉を発する事はなかった。
私と同日に受けた人には内定の連絡はとっくに来ているらしいし(byみんしゅう)
けど、こんなクズな私でもここまで選考に残る事ってできるんだというのは発見だったので
最後の最後にチャンスをものにできない自分にとっても嫌になるけどね。
私ってどこまでも馬鹿で、勿体ない。
※男女のこと、人生のこと、サイトを作った話など。突っ込みどころが多いほど良いです。すぐに200ブクマつきます。
・2~3日置く
※はてなブックマークやtwitterから「自然なリンク」がたくさんつきます。
・情報商材などへ誘導するエントリーに書き換える。※タイトル&はてブタイトルも
以上、よろしくお願いします。
ありうるのでは。増田でとあるエントリーを書いたらメールにこれこれこういう理由で削除するとの通知が来た(そのエントリーは実際に削除されてた)。
イケダハヤト氏について。
もし彼が奥さんに見捨てられて、子供も失い、その事について自己正当化をしたようなエントリーを書いて酷い炎上の仕方をして、更に追い詰められて自暴自棄になって絶叫する様な文章をもし書いたのだとしたら、それはきっと文学的な良い文章になるのではないか、という予感がしています。彼が何者であるかについては「シビアな利害対立の現場に晒されたことがない、ただのガキ」と言えるわけですが、そうした自分を防御するために様々な殻のようなものをそのたびごとに手製で拵える技術には実に長けており、その殻そのものはそう簡単には壊れないでしょう。その殻を壊すものがあるとしたならば、それは現実的な生活というものであり、その時の悲鳴を純粋に文学的興味から聞いてみたい。普通、この様な事例では「そのままの状態」で炎上しつづけることはあまりないため、そこまでは到達できない場合が多いと思うのですが、イケダハヤト氏に関してはそれが可能です。ヲチ的な興味からではなく、一つの類型が破滅する時の絶叫を聞いてみたい。その時、人は、本来の文学的資質と無関係に、ある種類の輝きを放つと思うのです。現在の状況が持続すればするほど、破滅の時の光芒はより眩くなります。それを見てみたい。
※男女のこと、人生のこと、サイトを作った話など。突っ込みどころが多いほど良いです。すぐに200ブクマつきます。
・2~3日置く
※はてなブックマークやtwitterから「自然なリンク」がたくさんつきます。
・情報商材などへ誘導するエントリーに書き換える。※タイトル&はてブタイトルも
昔は何を情報源にしていたっけなあ?リードミーだった気がする。それ以降もアンテナ的なものを情報源にしていたけど、仲間内の偏りみたいなのがあって、あまり広がりが無かった。はてブが出来上がってから何年もはてブをメインの情報源、巡回のスタート地点として見ているけれど、どうもマンネリ感がある。信憑性とか、偏りとか、注目度合いとか、だんだん薄れてきたような気もする。それは運用方針とかネットの多様性とかいろいろあるのかもしれないけれど。
というわけで、ウェブ上における情報のスタート地点って、他にどこか知ってる?
条件としては
・偏りが無いこと
(2chまとめだけを巡回しているようなものではないこと。ジャンルにもある程度幅がある方が望ましい。無くてもこのジャンルならここ、を各ジャンルごとに見れたらそれでいい気もしてきた)
・信憑性があること
(情報ソースの記載があって、たとえ嘘でも辿っていけばわかるような、そういうのが理想。嘘か本当なんかは判別しにくいけどね)
・注目度の高い内容であること
(面白いもので、たくさんの人に読まれるものが集まっていないと意味ないよね。トレンドとかもあるけど、ネット上のトレンドは発信者が作るものでもあるから、必然的に内容が面白くて人が集まるものが求められております。駄エントリー混ざっていればアンテナで十分。選び出すのがめんどくさいんだから)
日本ではアップルが生まれない、アマゾンが云々てエントリーを見るたびに
の中身は大方同じようなことが書かれている
*アップルやアマゾンから感じるアメリカ的合理主義の良い部分がものづくりや経営の隅々まで行き渡ってる
*日本でもかつてウォークマンを生み出したソニーがそうであり、任天堂&ソニーが世界中のゲーム業界を席巻した
そこまでネガティブな事ばっかりならべてまぁ読んでるとこっちが痛い
そんな中で日本の楽器メーカーってのは実は世界中で大きなシェアを持っているって事はwebではあまり見かけない
先日のグラミーでRoland社が賞をとって少しは知れ渡ったかなぁ?と思ったが違った
そもそもグラミー何冠ってなAdeleですらソフトバンクの孫さんのTwitterで知った人も多かったようだ
日本にはローランドの他には、KorgやYAMAHAなどもある
過去にはRolandのTR-808/909、TB-3030、YAMAHAではDX7、KorgのM1など世界中で定番となるような銘機を各社リリースしており
その後も進化しつづけているように思う
ピアノやバイオリンはヨーロッパなどに多く有名なものが有るのかな?と思っていたが、アメリカだが先日のスーパーボールではアリシア・キーズはYAMAHAだった
他には(踊る)クラブのDJ関連機器でも世界中の定番となってるメーカーが日本にはある
一社はダイレクト・ドライブ式のターンテーブルSL-1200シリーズのTechnics(いまのパナソニック)
こちらの制作秘話をドキュメントやってたのを見かけたことがあるが興味深いものだったが、デジタル化の波に押されてSLシリーズ生産停止したようだ
もう一社はそのデジタル化の並にのって躍進したCDJシリーズのパイオニア、こちらも圧倒的なシェアを誇ってるようだ
今のDJスタイルってのはデジタル化がいっそう進みパソコンでほとんどのことが行われるそうで、そちらのソフトウェアは海外のメーカーが定番となりつつあるようだ
文章力を鍛える方法を模索していた折、表題の問いがふと脳裏をかすめた。そしてその可能性を考えてみた。
まず、増田のエントリーは駆け出しの個人ブログに比べたら、人の目に触れる可能性は遥かに高い。
文章力を高めるうえで「誰かに読まれる」ことは俺は重要だと考えるので、この点では増田への投稿は有益だ。
しかしながら、増田と紐付くはてブという魔窟にはブックマーカー(はてな村民)と呼ばれる数々の手練れが書き手の自尊心を挫こうと手ぐすね引いて待っている。
ヘタなことを書こうものなら、どこからともなく集まってくる村民から総攻撃、袋叩きに遭うこと必至だ。
だが俺はこのこともあえてプラスとして受け止めたい。
百戦錬磨の村民を“いなし”てこそ書き手としての成長を手にすることができるのだ。そう、これは「試練」だ。
この試練を乗り越えることで書き手としてのハーツは鍛えられ、並大抵のことでは折れない気力を手に入れることができるはずだ。
いくら増田がはてブという魔窟と紐付いているからとはいえ、生半可なエントリーは村民の歯牙にもかからない。
松方弘樹のカジキ釣りよろしく村民を一本釣りするには、極上のエサ(ネタ)を選り分ける選球眼が必要だ。
あまりお気に入りとかお気に入られとかには興味がないので、スパムっぽいのを除いてだいたいお気に入られしてくれる人を適当にお気に入りに入れている。
で、もうずいぶん経つがはてブにマイホットエントリーという機能がついてお気に入りの人達がブクマした記事とそのコメントが自然と目に入りやすくなった。
それ自体はいいのだけど、それを見ててなんともやるせないなぁと思ったのはそのコメントが明らかにウケ狙いな方向に過激になっていくこと。
最初は割と素直におもしろページに芝生やした的なコメントが主体だったのが、だんだん社会問題系を取り扱うようになり、だんだん偏った煽りを込めたコメントをつけるようになっていく。
その変遷を見てしまうとなんだか勿体ないような切ないような、そんな感覚になる。
あぁこんなにも人は変わってしまうのだなって。
そしてたかだかスターでこうなるなら、お金がぶら下がったら言わずもがなよね、と飛躍めいた思考を走らせつつ、まあ結局どうでも良い人だものなと思い直し寝る。
今日も http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130325 みたいなエントリー投下してたけど、
やっぱりあれだよね。かなりいらだってるよね。
「混乱ラバーは安定すると死んじゃうんだよっ!」
維新の会の凋落やらアベノミクスやらで世の中の空気がすっかり変わっちゃった。
まだまだ、この先どうなるかよくわからないけど、このまま景気が上向いて
いろいろ明るい感じになってきたら超新星爆発しちゃうんじゃないか、みたいなこと思ってる。
まあ、どうなるか、分からないけど。
池田信夫氏あたりも以下同文。
あと、大量にブクマついてるコメント非表示のブクマページって、
耳鳴りみたいな感じがするよね!
「プロテクトかけたアルゴリズムを実装したバージョンに差し替え」たなんて言われると本当に「プロテクト」がかかっているのか確かめてみたくなるのが人情というもの。というわけで、プロテクト強化後のもふったー(v0.9.6b)からconsumer secretが抜けるか試してみた。結論から言うと、あっけなく取り出せた。以下に手順を記す。
動作がよくわかっていないアプリケーションを解析して仕様を明らかにすることをリバースエンジニアリングと呼ぶ。ソフトウェアのリバースエンジニアリングは基本的に対象を逆アセンブルしてひたすら読むことによって行う(その補助に1命令ずつ実行してレジスターやメモリーの様子を観察することもある)。しかし、よっぽど小規模なものでなければオブジェクトコード全体を逆アセンブルして最初から最後まで読むなんてのは不可能だ。人間の読速度には限界があるし、時間も有限だからだ。そして、詳しい動作を知りたい部分というのは全体のごく一部であることが多いので全逆アセンブリを読むのには非常に無駄が多い。
だから、リバースエンジニアリングではいかに詳らかにすべき動作を行っているコードを絞り込むか(=読むべき逆アセンブリを少なくするか)が重要になる。
この場合も同様だ。TwitterのGUIクライアントを頭から読むのは到底無理なので、どうやって解析すべきコードの範囲を狭めるかを考えた。それにはOAuth認証においてconsumer secretがどのような役割を果たすのかを知る必要がある。
OAuth認証で、consumer secretはそのままサーバーに送信されたりはしない。signatureの生成にHMAC-SHA1が使われ、その鍵にconsumer secretが使われる。HMACは次のように算出される。
HMAC (K,m) = H ((K ⊕ opad) ∥ H ((K ⊕ ipad) ∥ m))
ここで
である。
まずはこのあたりから攻めようと思った。SHA-1の計算にはいくつか特徴的な定数が使われるので、そこからSHA-1の計算に使われているであろう関数444190を特定する。この関数のエントリーポイントに中断点(ブレークポイント)を設定してOAuth認証をさせるべくもふったーの「ブラウザで認証」ボタンを押す。狙い通り中断するので関数を抜けるまで実行する。関数401100の4012DAに出た。少し下を見るとこのようになっている。
CPU Disasm Address Hex dump Command Comments 00401311 |. 33F6 xor esi, esi 00401313 | 8D8C24 A40000 /lea ecx, [local.54] 0040131A |. 394C24 14 |cmp dword ptr ss:[local.90], ecx 0040131E |. 75 0E |jne short 0040132E 00401320 |. 3BF5 |cmp esi, ebp 00401322 |. 73 29 |jae short 0040134D 00401324 |. 0FB68434 A400 |movzx eax, byte ptr ss:[esi+esp+0A4] 0040132C |. EB 21 |jmp short 0040134F 0040132E | 3BF5 |cmp esi, ebp 00401330 |. 73 1B |jae short 0040134D 00401332 |. 8B5424 18 |mov edx, dword ptr ss:[local.89] 00401336 |. 52 |push edx ; /Arg1 = [LOCAL.89] 00401337 |. 8D8C24 FC0000 |lea ecx, [local.33] ; | 0040133E |. 8BD6 |mov edx, esi ; | 00401340 |. E8 CB4D0000 |call 00406110 ; \mofooter.00406110 00401345 |. 83C4 04 |add esp, 4 00401348 |. 0FB6C0 |movzx eax, al 0040134B |. EB 02 |jmp short 0040134F 0040134D | 33C0 |xor eax, eax 0040134F | 34 5C |xor al, 5C 00401351 |. 888434 B80000 |mov byte ptr ss:[esi+esp+0B8], al 00401358 |. 83C6 01 |add esi, 1 0040135B |. 83FE 40 |cmp esi, 40 0040135E |.^ 72 B3 \jb short 00401313 00401360 |. 895C24 3C mov dword ptr ss:[local.80], ebx
0040134F | 34 5C |xor al, 5C
が注意を引く。もしかしてこれはopadとのxorではないか?
00401351 |. 888434 B80000 |mov byte ptr ss:[esi+esp+0B8], al
はxorした結果を格納している。
先ほどの中断点は無効化しこのループを抜けた地点である401360まで飛ばす。この時点でesp+0B8を見ると次のようになっている。
Hex dump 64 2E 16 64|37 04 32 6D|0F 0D 26 29|3A 37 1F 2F| 18 69 6E 6E|0D 25 29 33|11 34 29 69|12 36 24 1E| 05 16 33 6A|04 3B 0E 68|7A 5C 5C 5C|5C 5C 5C 5C| 5C 5C 5C 5C|5C 5C 5C 5C|5C 5C 5C 5C|5C 5C 5C 5C|
あとはこれと5Cとをxorすればconsumer secretが手に入る。終わり。
はてなは増田のスーパーpre記法で半角の<>が含まれていると投稿が出来ないのを早く直してください。
もふったーの作者から反応があった。「本気だったつもりのもふったーのデバッグ処理が残ってた」らしい(http://blog.livedoor.jp/blackwingcat/archives/1763951.html)。修正したとのことなので最新版(v0.9.6e)を見てみた。確かに若干変更されているが何の問題もない。SHA-1の呼び出しに中断点を設置して渡されているバイト列を見るだけ。
CPU Disasm Address Hex dump Command Comments 00401324 |. 8D4424 20 |lea eax, [local.102] 00401328 |. 50 |push eax ; /Arg1 = 00401329 |. E8 623A0400 |call 00444D90 ; \mofooter.00444D90
ここでeaxが指すメモリーを見ると以下のようになっている。
01 23 45 67|89 AB CD EF|FE DC BA 98|76 54 32 10| F0 E1 D2 C3|00 02 00 00|00 00 00 00|40 00 00 00| 40 4F 73 53|62 54 5C 7E|59 57 53 42|55 45 7A 57| 61 47 7A 5B|42 4F 7B 61|5D 66 5E 7A|42 7F 40 63| 79 66 05 55|79 4C 60 42|02 10 36 36|36 36 36 36| 36 36 36 36|36 36 36 36|36 36 36 36|36 36 36 36|
至極無駄な気がしてならない。
なんか、マークシートの正解の欄のところだけマークがされてて、それ以外は不正解っていうアレね。
学歴欄に東大とエントリーに書かれてあったらそれをマークシートの自動認識で読み取って“通過”とするといったシステム。
実際、エントリーシートっていうのはそういう仕組みなので、よく“人物評価”“人で採用する”といったような採用システムを導入している会社に限って
こういった正解付きのエントリーシート方式を取る。
だから、低学歴の皆さんはエントリーしても時間と考えるだけ無駄ですよと公言してればいいのだけれど、法律でそういった差別は良くないって定められてるからさ
いっそ岩波書店のようにコネでしか採らないよって公言してくれた方が潔いし、受験者に親切だと思う。
なんかね、望みを持たせるようなことをして実際そんなことはなかったということはザラで、
件の採用方式を取ってる会社の採用実績を見ると、殆どが難関大学ないし東大京大で底辺四大を採りましたといった実績が大体書かれてない。
要するにマークシート方式だから、東大京大じゃないと不正解な学歴欄のようなもんで、初めから採る人材が決まってるわけ。
エントリーシートって別に応募システムってわけだけじゃなくて、その時点から篩にかけてて、学歴採用であったりコネ採用であったりと分かれてる。
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar155473
などという主張の記事を読んで思ったことを少し書いてみようと思う。
一応言っておくと、上のブログの内容を否定したわいわけでも肯定したいわけでもないです。
まずはじめに
その怒りについての考察が上記の記事では特にないので少しだけ考察してみたい。
怒りの原因はなんなのか?
例えば、はてなではよく見るミソジニーの原因母親コンプレックス説(ロリコンの原因も母親のコンプレックスだしエロゲが好きなのもそうらしい)はどうか?
母親が家庭を牛耳りその非論理的思想のもと成人までの間(もしくはもう少しながい間)被害を受けるため、恨みつらみを持つようで
確かにそういったことも関係している可能性もあるが、パラノイア気味な一部のネトウヨ諸氏がキムチを怒鳴りつけるように、母性由来の
ミソジニー持ちの男性が女性有利な要素全てを攻撃するかと問われるとあまり関係がないように思える。
もちろんそれは主観による勝手な想像だが、このケースでは損得感についての問題のように思うのだ。
たとえば、上の記事の中では
一方、現代日本では女性の平均賃金は男性の七割程度に留まっている。ぼくが思うに、こちらはあきらかに大きな問題で、女性たちが怒っても当然だ。
とあるが、今の若い世代では女性の仕事が増えているので男性と女性で平均賃金は逆転したりしている
(風俗などがあるので若者限定で起こる現象とも言えるが、相対的に賃金格差が年々減少しているのは間違いない)
賃金ベースで見た時に、ある程度の若い層ではもはや男性と女性はそれほど差がなく、その事自体が男性にとって「男らしさ」を示す機会を奪い、ストレスを与えているとも言える。
つまり、今回のケースについては男性の弱体化のストレスあたりが怒りの原因に近いのではないかと思う。
(男性が弱くなった=女性が強くなった に近いので女性が生意気になりむかつくという構図とも取れる)
よって、女性への怒りを持つ男性を「情けない奴」と一喝して解決する問題というより「情けなくなった男」をどうするか、という問題のようにも思うのだ。
もちろん、男の情けなさをなじり攻撃することによって自身の胆力を示せる者であれば、反撃の可能性が低い「情けない男」を攻撃して利益にすることもできるだろう。
ただ、一夫多妻制なら情けない男は切って捨てておしまいでもいいものの、男女の数が数%しか差がない上に
建前上は一夫一婦制(再婚を何度もする男がいるので時間差のある一夫多妻制みたいなものとかいう意見もあるらしい)なのだから、そういう男を情けないと切り捨てて弱者のまま放置すれば未婚化&少子化が加速するだけではないだろうか?
まぁ、そこらへんのどうしようも無さそうな男を諦めて堕胎禁止&手厚い母子加算とか移民入れたり一夫多妻制へ移行したり、なんか他の方法を探すとか方法があるかもしれない。
とりあえず怒りの原因についての考察としてはこんなものだろうか
長くて申し訳ない。
次に女性優遇がもし仮に白人優遇だったらどうかという仮説を考えてみたい。
白人だけ安く昼食が食べれて映画が安く見れて電車に固定車両を作って貰える。
なんとなく駄目な気がする。
けれど、本当に駄目なのだろうか、商売は原則として好きな相手に好きなように(商法、税法などに則り)ものを売って良いのだから個別にそういう方向へ進むことは構わないように思う。
男性のほうが給料を多くもらっているのだから女性を優遇するというのも全体として差別がなくなっているようにも思う(だが差別をなくすために差別しているものを差別すればいいのだろうか?)
ぶっちゃけ差別論とかどっかの誰かが散々議論してるのだろうけれどあんまり詳しくないのでよーわからん。
少なくとも、差別も区別もその母集団の重要性と受ける被害によって全体として反対運動を行う価値があるかどうかが決まるのだろうし、かなり相対的な問題のはずだ、そこに絶対の答えはない。
と、怒りの原因と差別について考えてみるとそれぞれが別個の問題を孕んでいるのは間違いないだろう。
差別の問題は、差別される側を救済するべきなのはその集団を救済することで社会的利益があるかどうか、であろう
ただ、それぞれが独立していて完全に相関がないかと問われればそうではない、
差別される側(この場合は男性?)の集団の社会的重要度(地位、利用価値、影響力などなど)がその差別を否定するための重要な査定要素になるのだから
男性がどの程度弱っているかが怒りが妥当なものかの判断材料になるし、レディースデーなどの女性優遇による女性への資金移動がどの程度問題なのかが差別撤廃の考察対象になる。
長々書いたものの結論なしです。
どんなとーけーあつめればいいのかわからんけどね。
とりあえず、記事の人が言ってたみたいに被害に対して怒りが大きいのか、それとも適正なのか、もしくは過少なのか、はきっと
この先日本がこのままの体制で上手く行くのであれば怒りが過剰だったということは間違いないのだと思う。