はてなキーワード: 大学受験とは
大学受験時点での話じゃね。
偏差値とかで学科選ぶのは大学受験あるあるだと思う。高校生で明確な進路とかまだ悩む時期だろうし、とりあえず行ける範囲で偏差値で1番高いとこ行っとこ!ってなる。
自分はそんな感じで情報系に進んで、今はデータサイエンスの仕事してて、とりあえずなんとかなってる。
プログラミングが大好きで、色んなものを作ってた人は有利かもしれないけど、差があるのは入学して序盤の話。理解していくとそれぞれアプリとかゲーム作ったりしてお金稼いでたよ。好きなのはそれぞれだけど、使いこなせるかは別の問題だし、入学段階で興味なくても問題ないと思う。
プログラミングなんて所詮ツールなだけで、コード書けても数学的なこと理解してないと結局先に進めない。
だいたいどの分野(ネットワーク、セキュリティ、ソフトウェア工学とか)でも数学の知識は必須だよ。
色々書いたけど意欲があって学ぶことや進路を決めることは素晴らしいし、うらやましいな。その分野に興味があることは才能みたいなもんだ。
お金も一番かかる。
高校受験で偏差値70は才能がなくても努力だけで絶対到達できる。
それも中学受験みたいに馬鹿みたいなお金かけたブランド塾代も不要。
先取り学習で中学校ではトップクラスを維持し、高校受験で公立ナンバースクールか早慶MARCH関関同立付属私立を狙うべき。
特に地方で将来も地元に残る事を考えるなら公立ナンバースクールを卒業することは人脈の点で超有利。
今は先取り学習やってくれる塾もあるけど、なければ英検の塾と公文でOK。
とりあえず小6までに英検3級と公文Iまで目指そう(Hでも十分無双出来る)。
小5からゆっくりゆっくり始めても十分すぎるくらいに間に合う。
大丈夫、一定以上に頭が切れる子はみんな中学受験に行ってるから全然トップクラス取れる。
公立中学って親世代と違って絶対評価だから、体育(ラジオ体操だけ頑張ればいい)・家庭科&美術(提出物の締め切り守ればいい)も先生に歯向かわず休まないで手抜きせず頑張ってればどんなにスポーツテスト雑魚や下手くそな絵でも絶対3以上になる。
東大理科Iなら研究者として生存競争の参加資格を得るくらいはできるだろうけど、まともなポジションを得て成果を出し続けるような、食っていける研究者になれるのはその中でも一握り。上位大学の数学科博士でもたいていは自分はその一握りにはなれないと痛感して研究者の道を諦める。
これはそう。ただし数学的思考やひらめきのスキルと暗記スキルがあって受験数学は両方が必要。2次方程式は得意だけど数学全般は苦手という人は前者だけがアンバランスに高いことが多い。
2次方程式までどうしても辿り着くのが難しい人
IQテストで測れるような知能が平均より劣る人はどうしてもいる。あとは、なんの役に立つのか分かりづらい抽象的概念を扱うのを面白いと思うかどうか、というのがすごく重要で、これはひとつの才能だと思う。
大学受験お金掛かりすぎじゃない?国公立の前期で合格を決めたとしても滑り止め私大の入学金約30万は絶対に払わなきゃいけないわけだし(人によるとは思うけど)最短ルートの推薦なんて限られた枠なわけだしほぼほぼ無理ゲーでしょ。自分自身が欲を出して親に我儘を言ってしまった身なので申し訳ない気持ちが余計ある。公立高校に入学して親を安心出来たかな?と幼心には思ってたけど私立高校→私立大学ルートより公立高校→国公立挫折→私大ルートの方がなんだかんだお金かかってる気がするし。自分が親になってこれだけのお金と労力を子供に注げる自信も無い。
今のとことりあえず滑り止めは確保出来てて1番行きたい私立は追加合格候補でまだ国公立は残ってるから出来るだけのことはします。てか追加合格候補ってなんだよ。中途半端に賢く生まれなければ良かったなぁ。
https://anond.hatelabo.jp/20210220173238
言われてみると、他の人が書いてる通りで優等生の人間の自尊心をくすぐられたから、なのかな?
関西トップクラスの進学校の中で中間くらいの順位というポジションでした。
私には有馬君やら雪乃のような青春は全くなくて灰色の学生生活を送ってました。
学校内ではパッとしないけれど、それでも進学校の生徒であるというプライドだけは中途半端に持っていて、
羽目を外して遊んだりみたいなことができなくて悶々としてたのね。
リアルは充実どころかプアだった。
色々と自分を押し殺しながら、未来の目標に対して頑張らないとって鬱屈した学生生活を送ってたの。
だから、雪乃が優等生であることのコンプレックスを他人と共有して、
そこからは自分を解放していく展開は、灰色の学生生活を送っていたものとしてはすごくキラキラしたものに見えたのよね。
ちなみに、たぶん作者さんは進学校に通った経験がないんだと思う。
本当に進学校の中でもトップの優等生だった人にとってはばかばかしいって思うような作品なんじゃないかな。
私みたいに進学校には通ってるけど中途半端なポジションにいたり、
自称進学校ではそこそこ頑張ってた優等生とかに刺さってたんじゃないかな。
うちの高校でトップの生徒はむしろ高校生活エンジョイしまくってたから。
自分を押し殺して高校生活勉強と文化部を行き来してただけの高校生活を完全に後悔してるわけじゃないのだけれど
あの時自分がその気になればこんな生活も送れたのかなって可能性を夢想するきっかけにはなったよね。
きっと私みたいな感覚の人多かったと思うよ。
もちろんだけれど、後半の方が好き。
まさか有馬君側が単なる雪乃にとって都合のいいだけの男じゃなくてむしろこっちがメインだなんて最初は想像してなかったなぁ。
ちなみに、エヴァみたいだって言ってる人が多いみたいだけれど、私はその意見は全くピンとこないです。
今増田で5分程度日記を書けるくらいには暇というか、ホワイト。
別に超高給というわけではないが、実家暮らしで月3万入れる程度だと可処分所得が結構ある。
月15万くらいは貯金してるが、それでも欲しいものはだいたい買える。ハーゲンダッツ買うのに悩まない。良さそうなホテルにもバンバン泊まる。
嫌味とかではなくこれで大丈夫かな、と思うことが多い。1度上げた生活水準を下げるのは難しいと思う。やっぱり一人暮らししといた方がいいのかもしれない。
就活もめっちゃ頑張ったわけではない。頑張ったのは大学受験だけだ。
人間の人生は高三の時の偏差値と就活時の景気で決まると聞くが、タワマンに住むような理想を持っていない自分からしたら大体そのような気もしている。
タイトルの通り。筆者は高校の教員で、いま業務が少しだけ落ち着いていて分析する暇が出来たので、次年度以降の入試対策のために解き直してみたのだが、新テストの方針をすごい形で問題として体現していたので、なるべくわかりやすく解説していきたい。
わかりやすくとはいえ、大学入試の古典問題について突っ込んで書くので、もし興味(と古典の知識)があったら実際に解いてから読んでみてほしい。
問題や解説・予備校の分析などは以下から参照。解けなくても解説や、現代語訳と設問を見るだけでもいい。
https://www.toshin.com/kyotsutest/
https://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/kyotsutest/21/
https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00038406.pdf&n=R3年度大学入学共通テスト問題作成方針(令和2年6月30日一部変更).pdf
以下は教員仲間とのディスカッション用メモを元にしているから内容はかなり専門的かもしれない。それと、自分の専門は古典ではないので専門家から見れば細かい部分で雑だと思うが許してほしい。
まず、第三問の古文。
センター試験から変わると事前に予想された、複数の文章や会話形式の選択問題はなかった。
本文(「栄華物語」)は妻を亡くした夫の哀しみについてのしみるストーリーだが、新傾向の問五が回答することによって本文の感動・深みをよりしみじみかみしめられるようになっている。これが非常に素晴らしく、「文学的文章の入試問題かくあれ!」と感じた。いとあはれなり。
・具体的には、問五では本文中の和歌X(妻の死の悲しみを無常観を引き合いにして慰める歌)とそれに対する返歌Y(無常の教えなど今は悲しみが深くてとても考えられなかったよ、という返歌)に加え、本文とは異なるXへの返歌Z(無常の教えは肯定するが、それでもなお悲しい、という趣旨の返歌)を問題は示している。
・問いとしては、本文とは異なる返歌Zの存在を指摘し、Y/Zの内容を比較したうえで正しい説明を選ばせるというもの。
これは表面的には和歌を中心とした複数の出典の内容を読解するという新傾向問題であるが、作問者の意図はむしろ「文学的な文章の鑑賞」つまり「作品の情趣や感動の理解」に重点があるのではと感じられた。
・本文のストーリー的なキモは、妻を亡くした夫が、この返歌Yを書き終えながら「こんな悲しみにあってなお私はこんな冷静に返歌を書けているわけだが、それならこれから数ヶ月、数年と徐々に時間が経っていけば、私はこの悲しみをいつか忘れてしまうのではないだろうか」と考えるところにある。そして、亡き妻との思い出をまた振り返るところで、出題の本文は終わっている。
・問五の正解の選択肢⑥「和歌Yは、世の無常のことなど今は考えられないと詠んだ歌だが、そう詠んだことでかえってこの世の無常を強く意識してしまった長家が、いつかは妻への思いも薄れてゆくのではないかと恐れ、妻を深く追慕してゆく契機となっている」。この説明は、本文の感動を得るための入り口を示すものとして非常にすぐれた一文であると感じられる。さらには、本文の内容が古文学習における重要概念「無常観」と繋がっていることに自然と気づくことができる。現代人にはなじみの薄い「無常観」という価値観が、悲しみと共に実感を持って感じられてくるだろう。これを正解として選べた受験生は、本文の「あはれ」を回答前よりも深く感じられたのではないか。(少なくとも自分は深まった)
・「こんな問題作れたらキモチイーだろうなぁ!!!!」と同業者的(?)的におもった。
・また、過去の試行調査でも、本文と同一内容の文章だが異なる出典で差異のある文章を出題する、本文異同研究や異本系統研究といった国文学研究のよくある題材を意識させるものがあった。今回の出題も「栄華物語」とは異なる返歌が「千載和歌集」にあるということを指摘した問題である。新傾向で問う能力を古文の中で定義した結果が、人文学研究的な意味での「思考力」ということかもしれない。(これは友人で一生敵わないんじゃないかってくらい優秀な国語教員が、試行テストを見て上記のようなことを半年前に言っていたのを思い出したから言ってる。持つべき者は優秀な友人である)
これだけでも十分すごいが、続いて漢文。
こちらは長い五言詩と短いエピソードを記した漢文で、いずれも馬車を操縦する「御術」に関するものという点で共通のテーマの文章ふたつの出題である。
・新傾向の問題は問三の押韻と内容理解を組み合わせた空所補充問題と、問六の2つ文章の内容正誤問題。
・とはいえ、問六は二つの文章の内容合致問題であり、多くの予備校などが予想していたものと大差ない印象。
・対して、問三は感心するくらい出来の良い問題で、複座的な視野を持ち、落ち着いて整理しながら考えるという多角的思考力が要求される。
・漢詩の押韻の知識で、5択の選択肢をなるべく削るところまではセンターと同じセオリー通りの知識問題。しかしそれで絞っても選択肢は残り三つ。
・そこから正答を選ぶためには文章Ⅱの読解と漢詩の読解ふたつを重ね合わせる必要がある。この二つの重ね合わせが難しく、よく考えられている。
・文章Ⅰの空所補充については、該当部分を訳せば「四本の脚は馬についているとはいっても、その脚の速さが遅くなるのは御者である私の【X】のせいである」という感じになる。ここの【X】に入る候補は「心」「進」「臣(臣下・わたくし、の意)」。
・該当部分の漢詩の訳ができていてテクニカルに解くなら、この時点で文脈判断して「心」が正解は出せる。(予備校でもそのように解説を打ち切っている)。
・しかし、そもそも選択肢に上がっているのは文章Ⅱに入っている字なのである。しかも、いずれも馬の御し方の神髄について述べるところに選択肢の漢字は入っている。
受験生を惑わすのは、文章Ⅱの内容が「馬を早く走らせる条件」となっていて、その中に「心」「進」「臣」という字が傍線と記号付きで強調されていること。つまり、受験生の心理としては、文章Ⅱの内容が正確に理解できていないと「進」「臣」が誤りなのか判断しづらく、疑心暗鬼になるように作られている。あるいは、先ほどのテクニカルに導いた回答と矛盾するような内容がここに書いてあったら……という心理を誘発する。
・よって受験生は文章Ⅱを慎重に読解せざるを得ず、その中で文章Ⅱを精読してゆく。同時に文章Ⅰとの共通点を探りながら、最終的に文章Ⅰの内容を考えて空所補充の内容を決定する。このような思考過程を要求される(というよりも問題側から誘導されてゆく)という問題の構造が、出題者の作問力が並大抵の出来ではないことの証左である。
このように、古文・漢文ともに「受験生に思考力を求める」という建前のもとで「受験生を深い読解へと誘導してゆく」「受験生の思考を多角的なものに仕立て上げる」問題に仕上がっているのは驚くべきことであり、事前の予想を超えた完成度の高さだった。
また、問題によって誘導した思考迷路の中で、その読解の深度や多角的視野に立って考えようとする態度の有無を測ろうとしている。能力の低い受験生ならこれだけの思考を繰り広げることはできず、中途半端な読解や類推に頼ってしまうので確率的に正答率が下がるが、問題の誘導する深い思考に対応できる受験生は自ずと正答へたどり着けるよう適切に迷路が設計されている。学力を測る目的の大学入試問題としても適切である。
センター試験からの積み上げがあるとはいえ、「言語を手掛かりとしながら,文章から得られた情報を多面的・多角的な視点から解釈」するという方針を、古典という題材を用いながら、新テスト実施初年度で見事に実現させたのは、高校教育の成果というよりも大学入試センターおよび作問者の作問能力の高さや学術的知識の豊かさが結実した結果であると思う。高校教育の現場から、惜しみない賛辞を送りたい。
・思ってた以上に反応があったので、書いてよかったと思いました。ありがとう。自分にとっても、いろいろ考える機会になった。
・別記事で「古典を義務教育で扱う意義について」の返事を自分なりに書いてみました。
https://anond.hatelabo.jp/20210222160532
この記事みたいな筆の乗り方はないし、教育制度についても専門とは言えないが……
古典の魅力はもちろん語れるんだけど、他の科目と同様にそれは万人に共通でない、というのが義務教育のむずかしさであり、教員にとっては腕の見せ所でもあるとは思っています。
古典が嫌いな生徒に古典を学んでみたいと思わせることが、自分の授業の到達目標でもあります。
・あと、改行のやりかたを学んだのでついでに上に付して見やすくしました。
こちらの書き方が悪かったなら申し訳ないけど、「感じ方」は出題されていません。あくまで論理的に、勉強した成果を発揮できたら「あはれ」を感じられるような構成になっている、というつもりで書きました。
よくある誤解だけど、国語の入試はとことんまで「論理的に」答えが出るように作られていて、必ず本文中に根拠があるし、その根拠と解答をつなげるものは「感情・センス」ではなく「論理」になっています。
もしかしたら昔はそうじゃなかったのかもしれないけど……。
石原千秋の本は納得感高くていいですよね!どちらも自分の現代文指導の根本にある本です。
解答して読んだ。長年古文から離れていたが丁寧な注釈と設問に助けられて理解できた。テクニック丸暗記ではとても太刀打ちできないが、当時の情緒を解する読解力があれば知識は最低限でも解ける良問だと思った。
解答までしてくれてありがとう!まったくその通りで、重箱の隅をつつくような部分もなく、古典の学習におけるエッセンシャルな部分が試されていると思います。
これは数学の同僚の先生に聞いたことですが、数学ⅡBでは指数の問題でも非常に数学のエッセンシャルな(そのぶんやや抽象的な)問題が出たのだとか。
新共通テストについて、これまでの学力測定に加えて、より学問のエッセンスを感じられるような方向を現時点では感じています。実施されるまでの経緯がひどかったので、これについては非常にありがたい。
今回の共通テストはセンター試験の名前が変わったにすぎない。その程度の変革だったのだけど、もともとセンター試験がかなりよくできてるんだよ!国語でも随分前からちゃんと多角的な思考力を問う内容になってる!
そうなんです。ただ、今回の新傾向がそれをさらに進化させたような代物で、ただただ凄いと思って、まずは同僚の先生に伝えようと思って書いたのがこの文章のもともとです。しかも、これまでと比べて劇的な変更と呼べるほどではなく、受験生にとっても取り組みやすいものになっています。
それもあるし、これを見た高校の先生は「知識だけでなく、学問的な思考の方法を教えていく必要があるかも?」と授業を見直すきっかけになります。
大学入試改革は、高校入試改革の嚆矢としての役割を持っているので、この方向性は国語の授業を探求性を高める方へドライブしてくれると思います。
古文漢文って、歴史を学ぶだけで拾えない、当時生きていた人たちの生き様や心情を拾える学問なんだなあと思った。そう思うと大事やなー。未来の人達に私達の心情とか踏まえて歴史を理解して欲しいって思うもん。
こういう言葉を生徒から聞くために古典を教えているんだと思います。
今回の内容はいずれ、授業にアレンジして生徒へ伝えるつもりです。その意味で、非常にいい「教材」になるのもセンターや共通テストが良問であるとされる所以ですね。
勉強に関して才能だの環境だののお話が多いけど、自分もそれが重要なのは否定しない、本当に否定しないが、
じゃあ何処まで到達出来る事に才能や環境が重要になってくるのか話してる人はあまり見かけない気がする。
(借金が無い・親に邪魔されない等の金銭的・家庭環境の重要さは何処までも必要だけど
別にそれって金持ちが有利って話とは違って、はてなにいる奴の殆どは努力の方が重要になる話だよね)
たとえば数学とか何処までも才能が重要かって言われたら将棋と違ってそんな事ないし、
数学の研究者になるような人はみんなフィールズ賞とか取れるチャンスはある。
ぶっちゃけ研究内容の選び方や運によるもんがデカくて才能とか環境等は微妙である。
個人的には遡って東大の理科I類に入れるような奴は皆がんばれば数学の研究者になれるし
いや更に遡って数学の2次方程式を解ける程度の実力あるなら、そこから大学受験の数学までは努力と参考書次第と思う。
ただ2次方程式までどうしても辿り着くのが難しい人がいるのは確かだろうし
「男らしさ」とは具体的にどういう物なのか?未だに理解出来ていませんが、僕は自分がそれを持ち合わせていない事は理解しています。
男なら、強くなれ。男なら、我慢しろ。男たるもの、立派であれ。男なら、涙を見せるな。
こういう男なら、男だから、強くなれ、強くあれ。という生き方と、僕は正反対の存在でした。
僕は小学生の頃、同級生や上級生から揶揄われいじめられるような弱い子供でした。
運動神経が悪い上足も遅く、急に殴られたり目の前で自分の物を盗まれたりしても、その犯人を走って追いかける事も出来ないようなやられっぱなしの存在でした。
何故僕がそういうからかいのターゲットに選ばれたのか、今でもよく分かりませんが、やられてもやり返す事も出来ないような弱い存在は格好の玩具だったのでしょう。
休み時間になる度に消しゴムや鉛筆を盗まれ、上履きは女子トイレに投げられ、階段では足を引っかけられ、とにかくその事が嫌で嫌でしょうがなかった事は覚えています。
それでも学校その物は嫌いではありませんでした。どうしても行きたくない日が多く定期的にズル休みをしたり、登校日もグループ登校ではなく遅刻寸前になって親に学校まで送ってもらう事が大半でしたが。やっぱり学校は嫌いでした。
ともかく1年生の頃に、僕は同じクラスの女子生徒の事を好きになりました。その子がどういう性格でどういう人柄なのかは全く知りませんでしたが、容姿が自分好みでとにかく一目惚れだったのだと思います。
ある日、体育館で全校集会をしている時に一緒に並んでいた女子と何故か「お互いの好きな人を言い合おう」という話になり、僕は馬鹿正直に「○○さんの事が好き」とその女子に打ち明けました。
その話を僕に振ってきた女子は、僕の好きな相手を聞き出した後に自分の好きな相手を打ち明けなかったので、ズルい、騙された、何て卑怯な奴だ、と非常に腹が立った事は今でも覚えています。
うっかり自分の好きな相手の事をその女子に話してしまったその日の内か、それとも次の日だったか、それは今となっては覚えていませんが、僕は学校の廊下で○○さんとすれ違った時にある事にすぐに気が付きました。
小学校1年生の、まだ6歳の子供でも、自分が強烈に嫌われている事を理解出来るのは不思議な事だとこの歳になっても思います。生まれて初めて好きになった異性に、僕は同じ学校に通う9年間ずっと嫌われ続けました。
○○さんに何か非があった訳ではなく、僕の性格も容姿が決して女性に好かれる物では無かった事が一番の原因だと、今ではよく理解しています。嫌いな相手に好意を寄せられる事が女性にとって非常に不快である事も知りました。
自分は女子に嫌われる男子である事を僕はその時理解出来ました。中学校を出れば流石に何かが変わるだろうと期待していましたが、結局高校での3年間もずっと女子からは嫌われていました。12年間、ずっと嫌われていました。
同じ登校班に家が近くで僕にも優しくしてくれる子が一人だけ居ましたが、僕がズル休み常習犯でグループ登校もしない自分勝手な子供だった事もあって、すぐ疎遠になりました。
学生時代女子からずっと嫌われていた事、自分が女子に好かれるような人間で無い事を学校で学べたお陰で、僕は今でも女性恐怖症です。親からは本当に分かりやすいなぁとその事について笑われます。
道を歩いていて向かいから女性が来ると、その人の年齢に関係なく大きく迂回して逃げるような動きをしてしまいます。自分の方が体格が良くても、背が高くても、情けない事に女性の事が怖くて怖くて仕方がありません。
通りすがり様に、「臭っ…」「キモッ…」と言われるんじゃないか、言われなかったとしてもそんな顔をされるんじゃないか、内心そう思われるんじゃないか、そう思うだけで怖くて血の気が引いて、とにかく女性から逃げてしまいます。
去年散歩帰りに、下校中のまだ低学年であろう女子小学生と狭い歩道ですれ違った時、「自分が向かいから歩くだけで不審者だと思われてこの子に防犯ブザーを鳴らされるんじゃないか!?」と本気で思い、垣根を飛び越えて車道に逃げたところ、着地の際にバランスを崩してずっこけて、右の肘あたりをアスファルトで擦り剥いてしまい、そのまま痛い、痛いと思いながら帰宅する事になりました。本当に何て自分は情けなくて馬鹿なんだろう、と悲しくなりました。
幾らキモくて女性に嫌われていようが男には男性同士の繋がり、「女性を共通の敵として見下し」「男性の友情を尊いと崇める」事で男の同士の絆を深めるホモソーシャルがあるじゃないかと思う人も居るでしょう。
誰が言ったかは知りませんが、同性にさえ好かれない人間が異性に好かれる訳が無い、という言葉を聞いた事があります。キモイ奴として女子に嫌われていた僕は、同じように男子からもキモい奴として嫌われていました。
子供の頃、皆に人気のある男子はどういう人だったか。友達になりたくなるような明るくて面白い子や、運動がよく出来て体育の時間に大活躍するような子は間違いなくクラスや学年の中で人気があったと思います。
前述したとおり僕は運動音痴で足も遅かったので、体育の時間は活躍どころか同じグループに迷惑をかける完全な足手まといでした。性格も、自分が嫌われてる事に自覚が無いタイプの空気が読めないおかしい奴でした。
ボールを遠くに投げられない、捕る事が出来ない、速く走る事が出来ない、長く動く事が出来ない。僕は体育の時間の間完全に単なる数合わせで、もっと言えば僕の入った側が不利になるババ抜きのババのような存在でした。
当然、体育の時間に活躍するような運動がよく出来る男子や、クラスの中心的存在で先生からの評判も良いいじめの主導者からも嫌われていました。同じ男子からも嫌われホモソーシャルから疎外された子供が僕です。
それでも僕には休み時間に落書きを見せ合える友達が居ました。年齢の割に体が小さくいじめのターゲットになっていた子と、母子家庭で鍵っ子である事を理由にやっぱり男子の中から浮いていた子が友達になってくれました。
ある日、いじめのターゲットになっていた友達が転校しました。ひょっとしたら親御さんの転勤などが理由だったのかもしれませんが、クラスメイトからのいじめも大きな原因だったのではないか、と僕は思っています。
その子は何も悪い事をしていないのに、体がクラスで一番小さいというだけで、物をぶつけたり、馬鹿にしたり、○○菌が付いた!と貶して良い存在のように扱われていました。昔の事ですが、僕もされたという事は覚えています。
僕はキモくて役立たずだったので、ホモソーシャルに入る事はありませんでした。僕のようなキモくて役立たずの男子を皆でいじめるあのノリがホモソーシャルなら、僕は昔からそれが嫌いだったし仲間とも認めて貰えてなかったと思います。
男性は男性というだけで女性を見下して上から目線で接する「マンスプレイニング」という差別意識があると聞きました。男性というだけで女性より優れているという思い込みから来る「有害な男らしさ」の一つであるらしいです。
女子に嫌な思い出があるなら、女子なんて、と割り切って見下せたら楽だったのかもしれませんが、僕は自分の能力が他人に勝った記憶が小学校1年生の小テスト以降全くありません。
体育の遠投ではわざとらしくやる気なく投げた女子以外に飛距離で勝てた覚えがありませんし、シャトルランで性別関係なく僕より早く脱落した同学年の生徒は一人も居ませんでした。その事が、今でも忘れられません。
なら勉強はどうかというと、女子は安定して成績が良く、僕は5教科の合計点が150点台という事がありました。自分は本当に馬鹿なんだ、この学年で自分以上に頭が悪い奴は居ないんだとその時強く頭に刻み込まれました。
両親は自宅から近い学校に通って欲しかったらしいですが、結局そんな成績では自分の名前さえ書けば無条件で入学出来る遠くの私立くらいしか行ける高校がありませんでした。僕が馬鹿なせいで、余計なお金がかかりました。
頭が悪いのは僕が一切努力を行わず遊んでばかりの馬鹿だった事が大きいと思います。ドリルは後ろの答えを写すだけ、夏休みの宿題は家族に泣きついて答えを全部教えてもらうという他力本願だけでそれまで生きていました。
結局その私立高校でも男子の仲間に入る事も出来ず、小中学校の時のように女子から嫌われ、勉強もろくにしないでズル休みを繰り返しました。高校を卒業しても、自分がそこで努力して得た物なんて何にもなかったと感じました。
高校受験さえしなかった者が大学受験なんて出来る筈もなく、大学受験さえ出来ない者が就職活動なんてする筈もなく、僕は高校を卒業してから今現在までずーーっと親の脛を齧って何の努力もせずに家に引き籠っています。
僕は自分の能力が他人より優れていると思った事が小学校1年生以来ありません。ずっと引き籠っているので、家族以外の女性と接した事も学生時代以来何かのお店で店員さんとして働いてる女性以外とは殆どありません。
中学校時代からの友達とは話が合わないという理由でずっと疎遠です。彼らともゲームやアニメなど娯楽の話題で盛り上がっていたくらいで、ミソジニーで絆を深めた事なんて一度も無いと思います。何せ女性の話題が出ません。
僕は良い歳して未だに童貞で、所謂専門店の女性とも関係を持った事がありません。中学校時代の友達達はそんな僕に気を遣ってか、僕でも話題に混じれるゲームなどの話題しか僕の前ではしないようにしていてくれました。
僕の男性器は極めて小さく、友達や家族など親しい間側の人とも決して一緒にトイレに行ったりお風呂に入りたいとは思えません。女性が言う所の「ポークビッツ」サイズで、その事に子供の頃から非常に強い劣等感を持っています。
昔から自分の意見や嗜好が人と合わない事が多く、現実より自由な場所であるインターネットでも他人と上手く付き合えた事がありません。自分の好きな物が多数派の意見に叩かれる、という経験は嫌というほどしてきました。
僕はこれまでの人生で親や兄弟に守られるだけで、自分が誰かを庇護したという事はこれまで一度も無かったと思います。我が家という共同体で一番の弱者は僕であったため、家族は弱者であった僕を外から守ってくれました。
「男らしさ」という言葉が全く当てはまらない男だと自分で思いますし、男性同士の繋がりからも完全に省かれています。現状のままで男らしくなりたいとは思っていませんし、男性同士の付き合いに入って嫌な思いをしたくもありません。
貧弱で、競争から逃げ、庇護される側で、何一つ優れている所が無い僕は全く「男らしく」ないと思います。男らしさから降りるまでもなく、初めから男らしかった事なんて一度も無かった、生物学上は男だっただけの存在だと思います。
小学生の頃からずーっと現実がつまらなかったので、漫画やゲームなどの空想に逃げていました。今でもその頃から変わらず逃げ続けています。
結論から言えば全くそんな事は無いと思います。ここまで長々と自分は違う、加害者ではない、ノットオールメンと言い訳をしているだけなのですから。
「男らしさを降りる」というのは現在の「男らしさ」を否定して新たな「男性としての生き方」を広めるために努力し戦う事で、ただ自分が現在の「男らしさ」から逃げる事では無いだろうと思うからです。
結局僕は男らしくなれず、男同士の繋がりの中に入れず、かといって現在の「男らしさ」を変えるための「ジェンダー強者」としての努力も一切しなかった、ただの負け犬でした。
魅力的な男性が男らしさから降りれば「男らしさから降りた魅力的な男性」になるでしょうが、男らしさから降りているだけの男が魅力的ではない、が答えじゃないかな…と僕は思います。ここまでお疲れ様でした。
同じ大学で同じ学年の彼氏と付き合いはじめてからそろそろ半年になる。しんどいときは励ましてくれるし、誰からも好かれるような愛嬌のある彼氏だ。拗らせたアンチフェミみたいなことを言わないし、なんならアンチフェミのことすら知らないんじゃないかと思う。私には過ぎた彼氏だ。
ただかなり一般教養が怪しい。一般教養と言ってもそこまで高度なものではなくて、義務教育で触れるようなものもあったりする。
ごく簡単な漢字が読めない。挙げればキリがないくらい。この前は納戸が読めなかった。
「こんにちわ」や「〜せざるおえない」みたいな、は?って間違いもよく見る。
イギリスが島国だと知らなかった。なんならどこにあるかすら知らなかった。高校のとき日本史を取ってたからわからないと言ってたけど、イギリスが島国かどうか、ましてやヨーロッパにあるなんてことは取ってる科目に関係なく知ってるものだと思ってた。
だいぶ前に私が最近気になっているアイドルを紹介した。フィロソフィー(グループの名前)って哲学って意味なんだね、と言われた。
大学受験、それもセンターで8〜9割を取らないと射程に入らないような大学の入試を突破してそれはちょっと……と思った。
話もあまり合わないし、最近は動物とご飯の話ばかりしてる。イヌかわいいね〜とかサイゼだね〜みたいな。イヌとサイゼには申し訳ないけど正直会話はまああまり楽しくない。
これは別れた方がいいのではと思うけど、こんなに長く続いた彼氏ははじめてだし、「大学出たら結婚しようね」とまで言われた。
今後彼氏ができるのかわからないし、なんならできるわけがないと思っているので、とりあえずこのままでいるのが最適解なんだろうとは思う。何せ今同じコミュニティにいるので別れた後のことを考えるとめちゃめちゃ気まずい。
アァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜もうどうしたらいいんだろ キングオブクソザコ意気地無しなので大学卒業後のフェードアウトに期待するしかない 自分ただのレイシストじゃんか 自分最悪最低クソアマだな
家にお金がなくて大学受験の勉強するのも大学に行くのもしんどかったんでしんどい。
うちは親との仲も悪かったんで、学費くれ>出せるかアホ>じゃあバイトして払うよバーカ、みたいなのがずっとループしてた。
まぁお金があったらバイトの時間分も全部勉強に費やせていたかというとそんな自信はないし(そもそも予備校とかのお世話にならずに勉強できる自信がなかったからバイトしてまで通っていた訳で)、最終的には学費の安い国立夜間に受かって自分でなんとかできたしいい大学だったから結果論として良かったと思ってるけど、お金がないという理由で勉強できない状況はしんどい。
今は子どもがいて、子どもには絶対こんな思いさせねーぞとの気持ちでいる。しかしそういう気持ちでいる分、家の懐が子どもの頭に追いつかなかった時どうしよう、また勉強とお金でしんどい思いをするしさせるのかと思うと、今からどんよりする。
小学生のときに家庭のお財布事情をなんとなく察してから、どこかずっと遠慮してしまってたかもなという話。
忘れられそうでずっと忘れられないし、かといって人に言える話でもないので書いて吐き出そう。
最初は共働きの親が夏休みの間の預け先の候補として通い始めた。
楽しくてその後も続けてたらいつの間にか中学受験のレールにのってた。中学受験しました。
放課後や土日に遊ぶのを犠牲にして通っていたけど、自分としては楽しんでいたと思う。講師の授業も勉強も楽しかった。
これは個人的な考えだが、中学受験の勉強は人生の基本的な部分でめちゃくちゃ役立つので楽しく学べるようなら、ぜひおすすめする。
前置き長くなった。
その通ってた塾の夏期講習でどれを受講するか決めるときの話が本題。
プリントが配られ、ご両親と決めてねと言われる。
なるほどたくさんコースがある! お値段も……3万とか4万とか。
基本の4科目コース。これは必修でとっておきたい。たしか全部で20万くらいだったかな。
それとは別に理科の実験中心のコースがあった。そのコースだけで5万くらい。
受験に必須なコースではないが、実験をするから少し高めだったんだろう。
理科(特に実験! )が一番好きだった私はそのコースを受講したかったから、親に必修+実験コースが受けたいと言った。
まあ、進学塾に通わせてくれるような親だから学ぶことに対しては基本なんでもOK。応援してくれるスタンスだった。
……だったはずなのだが、その時だけは違った。
私は必死に食い下がった。理科が好きで、実験も好きで、担当の講師も面白くてとても好きだった。
「でも5万……うーん……受けなくていいんじゃない? 」
「ちょっとね……」
20万の価値も、もちろん5万の価値もきちんと分かっていなかった私はそのあとも食い下がったが、結局実験コースは申し込まなかった。
子供心に悲しく、ショックだったのを覚えている。
学ぶ希望が金銭面の理由で叶えられなかったような感覚が残った。
あと、月謝の高い塾に通う罪悪感もそのときからどこか感じるようになった。
社会人になったいま考えれば両親の気持ちも分かる。5万は高い。
通ってた塾なんて毎月の月謝は5万以上だったと思う。
頭では理解している。きっと小学生のときも頭では理解していた。
でも受講したかったのだ。
中学受験は、運が良いことに受験した学校はすべて受かった。なかなか偏差値の良い私立も含めて。
ずっと頭にお金のことがあった。
学費でも、高いのは避けたいな。塾ももう行きたくない。お金かかるから。
親にはお金のことは言わなかった。なんか言いづらかった。
親を責めたいわけでもなくて、でもお金のことで遠慮してるのはおそらく事実だから。後ろめたさがあった。
親がそれを感じてたのかは分からない。
私は「制服が好きだからここにするだけ」とか言ってた。実際に制服が好きだったから嘘じゃないけど、ホントはお金のことも考えてた。
そんなこんなで大学受験。塾に通う友達を尻目にこれまた頑固に塾に行かない私。
なんて軽口を親には叩いてた。
頭のなかには国公立しか選択肢がなかった。お金かからないし。私立はやばいもんなお金。
塾にも行かず独学でうまく行くほどのストイックさも、頭脳もなく、努力家でもない。
結果、大学受験は失敗するんですが。
いま考えればもっと必死に私立でもなんでも入ってれば良かったなぁと思う。
奨学金もあるのにな。
中学受験のときたくさんお金使ってくれたのに、お弁当とかもずっと作ってくれたのに、大学はいれなくてごめんなさい。
今は働いてお金ためて、いいタイミングあったら大学行きたいなと思ってる。
何が言いたかったかというと、子供時代に大人のぽろっと溢した言葉って、意外と刺さって頭の片隅にずっとあったりするよね。
親を責めたいわけではないから、この話はここに置いたらそのあとは墓まで持っていくつもり。
高い月謝払って塾に行かせてくれたことに本当に感謝してるのに。
責めたいわけでは全くないのに。
それでも今も忘れられないから、たぶん…なにか思うところはあるんだろう。言語化するのは怖い気がして今はちょっとできない。結局は努力できない自分がダメなのだ。
いまお子さんのいる親御さんは、お子さんの学びたいと言ったことに対しては、できるだけ叶えてあげてほしいです。
それと中学受験、楽しかったタイプの子供もいるよ。受けてよかったと心の底から思ってます。(いま話題らしいサp……スの回し者とかではないです。ライバル塾だったからサ……kスはあんまり好きじゃなかった)
お金の事情は、仕方ないことももちろんあるけど、できるだけうま~く隠してあげてほしいです。おたがい無理のしない範囲で。
隠せなくても、なにかフォローをいれてあげてほしいな。
うまくまとまらなかったけど、これで。
読んでくれたひとありがとう。
●追記
ボロクソに言われて、「ほんとそうですよね……頭悪いんですよ……すみません……」と凹むと同時に「あ?うるせえ見てろや」の気持ちもわいたのではやめに大学受けようと思う。
(頭悪いのと国公立狂いのため現役時代からずっと東大以外浮かばないんだけど、社会人で受験するとなると海外とかのがいいんだろうか…)
たとえば北条時行なんかまあWikipedia観漁るのが趣味な人と歴史が好きな人あたりが好きって程度で、一般常識からほぼ外れている。更に言えば、名前を知ってても北条時行がどういうことした人なのかをそらんじれる人は更に少ないはず。高校日本史でやってたとしてもまあ忘れてる人がほとんどでしょう。ただまあ、「足利高氏」って名前を見た時に「あ、足利尊氏と音が一緒だな」というところから推測して検索かけて「やっぱ鎌倉幕府滅亡するタイミングの話しをやるんだな」って推測を立てることができるくらいは多分一般教養の範囲。
文学作品、特に羅生門みたいなのに関しちゃ、単に読んだことがあるだけでしょう。羅生門とか山月記とかってレベルなら、これは高校(もしかしたら中学)の国語で読むだけだからまあ一般教養の範囲とは言えそう。これがたとえば夏目漱石「こころ」あたりになると教養から外れてくるのかなという気はする。「こころ」を高校現代文で学ぶとき、履修範囲は「先生」の学生時代の話がメインになる(Kに「向上心がないものは馬鹿だ」と言うシーンね)。でも、じゃあ「こころ」が実は三部構成で、その三部構成がどのように組み立てられて……という話しになると多分あんまり答えられる人はいないと思う。なぜなら授業で習ってないから。
何が言いたいかっていうと、「はてなの人がみんな知っている知識」と元増田が思っているものはおそらく「人生のどこかで聞いたことはあるけど、蓋を開けてみればほとんどの人がそんなに詳しくない」ってタイプの知識になるのは間違いない。これがみんな知ってて当たり前みたいな感じになるのはただの観測バイアスだから知らなくていい。
それでもなお知識がほしいというなら、マジな話としちゃ、歴史なら「もう一度読む日本史」「もう一度読む世界史」、国語ならhttps://www.shinchosha.co.jp/edu/download/high-school_2018.pdf に掲載されてる作品をざっと読むのがいい。別に覚えなくていいから。大学受験じゃねえんだからとりあえず「見たことがある」=「詳細は覚えてなくていいけど話は思い出せる」くらいの感じにしておくのが良い。読むのもめんどいってんなら諦めろ。