はてなキーワード: 電撃文庫とは
前提として、杉井光はプロデビュー前からコテハンとして活動していた重度の2ちゃんねらーだった。デビュー後も変わらず2chに出入りしており、匿名で杉井光スレに書き込んでいることはファンには周知の事実だった。「このスレの書き込みはすべて杉井が書いている」というネタで杉井光スレ住人の呼称が「杉井」になるほどだった。
あるとき、Twitterで橋本紡が「30代前半の作家」を引き合いにして世代論を展開した。
杉井光がそれに反応して「(30代前半の作家というのは)これ僕じゃん」「ところどころ僕が喋ってないことも書いてある」と指摘。
さらに橋本紡が「先日の世代論のあと何人かのプロ作家が『2chでスレを立てて自作自演で橋本紡を叩こう』と工作していたようだ」と主張した。杉井光は支倉凍砂らと共に「いけぬこ研究会」という作家グループを作っていたので、彼らのことではないかと騒ぎになった。
その後、橋本紡が「杉井君が相手になってるみたいだがそれは明確に誤解」として杉井光・支倉凍砂に謝罪。さまざまな疑問を残しながら、いったん落着となった。
https://togetter.com/li/109765
しばらくのち、杉井光が「橋本紡は基地外」「虚言癖で統合失調症」などといった暴言を2chに書き込んでいたことが、2chのログ流出により判明した。
ただ、流出したログを見てみれば、杉井光が本当に「ただ単に口の悪い2ちゃんねらー」であることがわかる。つまりそれまでの出来事を踏まえて、「被害妄想で工作だの攻撃だの言っているような奴は頭がおかしい」という本音を、2ちゃんねる的な暴言ベースの語り口で書き込んでいたということである。
もちろん、だからと言って暴言が許されるというわけではなく、杉井光は暴言を書き込んだことを謝罪した。
https://web.archive.org/web/20130830050959/http://www.d3.dion.ne.jp:80/~hikaru_s/nvs
しかしそれが、他の2ちゃんねらーやまとめサイトによって面白おかしく歪曲されて、「杉井光たちが本当に集団で橋本紡を攻撃していた」「橋本紡への工作を認めて謝罪した」ということにされてしまった。そのため、巻き込み事故で「支倉凍砂が一緒に工作をしていたのも事実だった」ということになってしまう。
やむなく支倉凍砂は「徒党を組んで橋本紡氏を匿名で誹謗中傷していたというのは事実無根」「ネット上で匿名で誹謗中傷などをおこなったりしたことはない」と表明した。
https://ameblo.jp/hasekura2/entry-11601641936.html
それに対して橋本紡はTwitterで「支倉君は当初から関係していました」と反論した。
以上が経緯である。
「集団で特定の作家を攻撃していた」のが事実なのであれば、杉井光はもちろんその周辺の「仲間」たちも業界から追放されて然るべきであるが、杉井光たちはその後も電撃文庫で、また他の出版社でも仕事を続けているので、それも「工作はなかった」という状況証拠になっているのではないか。
少なくとも、杉井光が暴言を書き込んでいたことは客観的な事実なのでそれが許せないというのはわかるが、支倉凍砂がそれに関わっていたという根拠はないので『狼と香辛料』の再アニメ化を素直に喜んであげればいいのではないかと思う。
ruin20 支倉凍砂の釈明に対し、橋本紡が「関わっていたのに関わってないという文章には...頭が痛くなりました」と反論したことを無視するのはどういう意図? https://www.j-cast.com/2013/09/12183738.html?p=2
>ライトノベルの読者年齢を考える - WINDBIRD::ライトノベルブログ https://kazenotori.hatenablog.com/entry/2021/09/19/215258
この辺の内容を見ると10代のピークは「キノの旅」とか「イリアの空」とかが出ていた20年程前くらいで、そこから徐々に高年齢化が進み10年前にはとっくに20代以降がピークになっていたようです
ちなみに20年前辺りは「電撃文庫は中高生の男女が中心読者層です!」等と宣言しており中高生を購買層に引き込もうとする流れがあった(逆を言えばそれ以前は、そうわざわざ宣言して客を引き込む必要があったほど中高生には思ったより読まれていなかった)と言えます
元エッセイの「児童書を読んでいる中高生をターゲットしてラノベの活性化を」というのは考え方として正しいと思いますが、「中高生をおざなりにしたからラノベの売れ行きが落ちた」とするのは本末転倒のような気がします
まずラノベの最大の強み=メディアミックスでありコスパとかではない。
ライトノベルを形容するのはとても難しく、ジュブナイル小説、SF、TRPG、同人文化など複数の文化が構成要素となったキメラみたいなもんである。
はてなではスレイヤーズが好きな老人ラノベ読みがたくさんいるが、スレイヤーズを初期と定義してもメディアミックスを目指す姿勢は変わっていない。
無料だから読むという考えはそもそも前提として間違っており、ライトノベルは漫画とは異なり小中学校の図書館に作品が置かれている。
昔の漫画だと多くの学校図書館に置かれているし、もしかしたら鬼滅の刃が置かれた小学校もあるかもしれないが、朝の読書におけるグレーゾーンとしてライトノベルは活躍の場が与えられている。
それには概ね同意できる。
ライトノベルのゴールが「アニメ化」に定義されてしまっているのは公然の事実である。電撃文庫を発刊する角川は2009年にメディアワークス文庫というものを創刊させており、これは文芸とラノベの中間的な立ち位置の文庫。メディアワークス文庫は電撃文庫の作家も小説チックな作品を数多く出版しており、ラノベは中身がないといった批判は間違っていると思えるが、これは作家が書き分けをしているだけの話で、こと電撃文庫でライトノベルを出版すると中身がない作品の方が売れ線であり、最近は物語を摂取するというよりはキャラクターの摂取に重きが置かれていると増田は思う。
元増田は『メディアミックスの流れの中で生き延びている』とラノベを形容したがメディアミックスを生み出したのは角川であり、メディアミックスの流れの源流にいることは意識しておいてほしい。ただその流れが枯れそうになっていて、ライトノベルが枯れても流れが止まることがないのは事実であると思う。
メディアミックスの大きな流れに「電子媒体」が加わってからライトノベルはその流れに乗れていない。
「乗るしかないこのビッグウェーブに」が生まれた2008年ではどの媒体も「電子媒体」と仲良くできていなかったが、今では漫画・アニメ・小説・ゲーム、そのどれもが電子媒体と手を取り合ってコンテンツを大きくしている。さまざまなコンテンツが電子媒体に適応していく中でライトノベルはいまいち適応できていない感はある。正直スマホを触っている子供が漫画以外の電子書籍に興味を持っている姿を見たことがない。
角川歴彦は『次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を発刊する』と述べていたが、今この言葉が活きる場面は小中学校の読書の時間だけである。
ライトノベルは短い歴史の中で変革を繰り返し、その存在を確固たるものにした。ロートス島戦記・スレイヤーズなどから歴史が始まって、ブギーポップでジャンルに囚われない屋台骨を作り、ハルヒで若者を取り込み、SAO・劣等生でネット小説をレーベルに取り込んでライトノベルはより大きくなっていった。
2017年にSAOの1巻が100万部を突破したときに相当なニュースになった。漫画と比べたらすごく小さいことだけど、ライトノベルにとっては初めてのことだった。
なんとなくここまでが最盛期でここから凋落が始まったとも懐古してしまう。電撃文庫では作家のエッセイが掲載されていたこともある「電撃の缶詰」が2018年を境にひっそりとなくなっている。増田もこの頃からなんとなくでラノベを買うことがなくなっていた。
ライトノベルの成長において「小説家になろう」はAmazonみたいなものだった。
質の良い小説もあれば、質の悪い小説もある。しかし数が多すぎてレビューがつかなければ多くの人の目に触れることは難しい。
レーベルは地元の商店街みたいなものだ。馴染みの店が揃うなかで、たまに新しいお店ができるから寄ってみる。年に一度か二度あった電撃文庫大賞が増田の大きな楽しみであった。そんな日々もいまはもう存在しない。最初は反論してやるぞって気持ちで増田に書こうと思ったけど、やっぱりオワコンなのかなって寂しくなった。
1秒に何万枚も絵が産まれて、大量の動画が飛び交っていて、漫画だってプロの作品無料で読める分が読み切れねえよ。
そりゃまあオーディオブックとかなら作業の合間に聞けなくもないけど、読む余裕はもうないだろ。
何かを読むのに使う時間とエネルギーはあっても、情報収集や雑談レベルが限界だろ。
創作の小話なんて見てる暇はないよ。
せめて漫画だろ。
こんな時代にただの文章を「誰かが読んでくれるだろ」で世に放流する奴は狂ってるとしか思えない。
文章がどれぐらい情報量が低いかっていうとさ、AIイラストソフトに絵を頼む時に狙ったの出すのに必要な情報量がおおよそ500文字ぐらいでさ、AIの描いた絵を見るのに人が使う時間がおよそ2秒なんだよ。
500文字2秒で読めるか?
無理だろ?
なんでか分かるか?
目ってのは記号を認識するためには出来てなくて、やっぱ本質的には形を認識するために出来てるからだよ。
それを他に表現方法がマトモにないから使ってた時代があるだけで、ソレ以外の方法に依る情報伝達が発展したら当然失われるものだった。
そして今その価値が失墜しきってる。
この状況でまだ「俺、電撃文庫に持ち込んでるんだよね。新人賞今回こそ取れるかな。もう35だから後が無いよ」みたいな事やってる奴がいたら狂人だから。
目を覚ませって。
ファミコンソフト「メタルスレイダーグローリー」を原作にしたライトノベル「E.Gコンバット」って言う作品がある。
20年前に最新刊の3巻が発売されて、最終巻になる予定の4巻がいまだに発売されない、それなりに有名な未完のライトノベルである。
ライトノベルの作者のオフレコ的な発言を信じるなら、出版する可能性は限りなく低そうなんだけど「メタルスレイダーグローリー」の原作者である「よしみる」氏が定期的に「E.Gコンバットの4巻が出ます」とTwitterで発言してる。
よしみる氏のツイートを検索すると10年ほど前から同じように「出るかどうかまだわかりません!!」「これで出なかったらもう無理です!」「小説家さん頑張って!」とか「出ます!」という発言を繰り返してそのたびに何も起こらず話題が立ち消えになってる。
みんな慣れてきて「またそんな季節ね」とか受け流してたんだけど、先日「1月と2月にE.Gコンバット電子版が出ます!」と言い出して、ちょっと界隈がざわついてる。
E.Gコンバットはカドカワの電撃文庫から出ているんだが絶版でラノベにはプレ値が付いて取引されている。
それに対する措置として電子版が出る!というのはありそうな話で、さらに「E.Gコンバットの4が出るからその布石なのか?」とか盛り上がりもあったりした。
「あの未完の大作E.Gコンバットの最終巻が!既刊を未読のかたは電子版を読んでください!」みたいな商売的な戦略で。
しかし、いまだにカドカワの新刊予定にもkindleの予定にもタイトルは見つけられず「またいつものヤツじゃない?」と周囲は冷静になりつつある。
よしみる氏のTwitterを見ると、自分でメタルスレイダーグローリーのコミカライズを描いて、それをパトロンサイトに載せている以外、作家業の活動は見受けられない。そして、そのコミカライズの反応もほぼ見かけない。
Twitterを検索して、話題になるのは過去に作ったゲームソフトと、小説家の描いたノベライズばかりだった。
才能のなくなった作家はこうやって目立つためには何でもするようになるのだろうか?悲しい話だ。
電撃文庫創刊に際して
文庫は、我が国にとどまらず、世界の書籍の流れのなかで“小さな巨人”としての地位を築いてきた。古今東西の名著を、廉価で手に入りやすい形で提供してきたからこそ、人は文庫を自分の師として、また青春の想い出として、語りついできたのである。
その源を、文化的にはドイツのレクラム文庫に求めるにせよ、規模の上でイギリスのペンギンブックスに求めるにせよ、いま文庫は知識人の層の多様化に従って、ますますその意義を大きくしていると言ってよい。
文庫出版の意味するものは、激動の現代のみならず将来にわたって、大きくなることはあっても、小さくなることはないだろう。
「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。
その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読書人に与えるかもしれない。しかし、〈Changing Times, Changing Publishing〉 時代は変わって、出版も変わる。時を重ねるなかで、精神の糧として、心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。
最近ドクターストーンというアニメの録画を見て年甲斐も無く「滅茶苦茶面白いなこれ!」って思って感動した。
人生って嫌な事も多くて、正直先も真っ暗で最終的に悲惨な結末を迎えるかもしれないな…って暗い想像をする事もよくあるんだけど
そういう時ベタだけど「うわめっちゃおもしれえなこれ!」ってコンテンツに出会えたらそれが一瞬でも生き甲斐になれる事がある気がする
なのでここ10年という最近に「これに触れる事が俺の生き甲斐なんだ!」ってくらいハマった物を少しずつ思い出して一度書き出してみたくなった
思い出せない物も沢山あるだろうけど、それでもその時その一瞬でも楽しめたのならきっと幸せな事だったんだと思う。ハマった年も覚えているなら書く事にする。
生まれて初めて最後まで追った深夜アニメ。このアニメを録画するためにブルーレイレコーダーを購入した。
機動戦士ガンダムSEEDの監督福田己津央氏が製作に携わっているという事で怖い物見たさで見始めたのだけど、見ている内に見事にハマってしまった。
OPに出てくるキラっぽいキャラが出るまではとにかく見ようかな…と思ってたんだけど、まさにそのキラっぽいキャラが出てくる4~5話で完璧にハマってしまった。本当に大好きだった。
次回が公開される一週間後を待ちきれず、放送日が来るまで何回も何回も録画した回を見返して待っていた覚えがある。今の自分からは考えられないくらいハマっていた。放送後に発売されたゲーム版もスパロボも買っていない。
イニストラード~ラヴニカへの回帰がスタンダートだった頃のMTG。当時友人達と一緒に遠くのカードショップまでカードを買いに行くほどハマっていた。
少年時代コロコロコミックで連載していたMTG時代のデュエルマスターズが好きだったんだけど、地元にMTGを取り扱っているショップが無かったので実際遊べるようになるのにその漫画を読んでいた頃から10年以上かかった。
基本的に安いカードしか買わないようにしていたんだけど、それでも結構な額を使ったような覚えがある。今ではその友人達との縁は切れたけれど、MTGだけは今でもMTGアリーナで遊んでいる。
当時ニコニコ動画でMTGの架空デュエル動画が大いに盛り上がっていて、そのシリーズが好きだった。所謂「例のアレ」ジャンルなので今となっては不謹慎かな、と思う。
当時菊地秀行氏や夢枕獏氏の作品の影響で所謂伝奇バイオレンス小説にハマっていて、何でも良いから面白い伝奇小説は無いか!?と思っていた時期に古本屋で出会ったのが講談社ノベルスの空の境界だった。
一冊100円という事でとりあえず上下巻買って読んだんだけど、とにかく読みづらくて「Fateとか月姫好きな人間はこんな読みづらい文章の作品にハマったのか…?」と読み始めた頃は思っていた。
読みづらい、とにかく読みづらい…と思いながら読んでいたけど上巻の終盤に始まる第五章・矛盾螺旋あたりから「あれ?この本読みづらいけど結構面白いのでは…?」と思い始め、下巻を読破する頃には完全にハマっていた。
正直今でもこの本の内容を理解しきれているとは言えないけど、主人公両儀式とその親友黒桐幹也の恋愛物語にもうのめり込んでしまった。しばらく後にこの作品がアニメ化している事を知りすぐにレンタルで全巻借りて見た。
アニメの出来もとても素晴らしくもう空の境界熱は止まる所を知らなかった。生まれて初めてアニメのDVD、それも初回限定盤を買ってしまったし書店でアンソロジーコミックスも買った。寝ても覚めても両儀式の事ばかり考えていた。
この自分の「好きだ!」「こういうのが見たい!」という熱量が、自分にSSを書かせる行動力も与えてくれた。とあるコミュニティで空の境界のSSを投下していたのもこの時期だったと思う。出来はあれだったけど、熱量はあった。
空の境界と同じ世界の話という事でメルティブラッドにも手を出してプレイしたし、メルティブラッドと同じ世界という事でついにCS版Fateにも手を出してしまった。クリアするのに60時間以上かかったけど、あれも凄いノベルゲームだった。
ここまで来るともう空の境界が面白い、というだけでは収まらなかった。Fateの前日譚という事でFate/Zeroの小説を通販で全巻買って読んだ。滅茶苦茶面白かった。その後はネットの各所でFateのSSを読み耽りまくっていた。
空の境界のアニメを見たんだから他の型月作品のアニメも見るか!という事で、真月譚月姫、DEEN版Fate/stay nightのTV版と劇場版、Fate/Zeroのアニメをセールの時に全巻借りて三日で全話見てしまった。
正直今の自分には信じられないくらいの熱量がこの頃の自分にはあったと思う。倍速でアニメを見るのもしんどい今の自分が、TVアニメを計5クール分と劇場版アニメ一本を立て続けに見るとか、完全にハマっていた。
その後空の境界の続編小説が発売されている事を知りそれも読み、未来福音の劇場版も楽しみだったけれど劇場には見に行けなかったのでレンタルで旧作扱いになる一年後に100円で借りて見た。これも中々面白かった。
この型月熱はずっと続くかと思っていたけど、ハマってから数年経つとやっぱり少しずつ冷めてしまった。色んな要因が重なった物だと思う。
型月ファン同士の嫌になるような叩き合いを見たとか、とある型月ファンサイトで作品叩きやらキャラ叩きやら嫌な思いをしたとか、自分の中で神聖視していた式のエッチな絵を見て衝撃を受けたとか、色々重なった。
結局2014年頃に放送されたUBWのアニメ版は「劇場版の中で出来た自分のイメージと違うと嫌だから」という理由で見なかった。2017年にやっていたアポクリファのアニメは見たけど、こっちは先入観無く最後まで楽しめた。
多分今でも作品に触れたらそれなりに楽しめるんだろうなって思う。3/16事件とかDDDとか型月熱が冷めた後に触れてもそれなりに楽しかったから。それにしても、空の境界に熱狂してた頃は本当に楽しかった。
ある時月刊少年マガジンを立ち読みした時に「陸奥VS呂布」という謎の煽りを見て何だこの漫画は…?と思ったのがこの漫画に対する第一印象だったのは覚えている。実際に読んだのはそれから大分経ってからだった気がする。
刃牙の烈海王ボクシング編が「烈の門」と言われたり、夢枕獏の餓狼伝をパクった作品だと夢枕獏本人に名指しで批判された事で、タイトルだけは読む前から知っていた。知っていたけど、中々手に取る気が起きなかった
それでもまあ有名だからきっと面白いんだろうな…と思って読み始めた所、最初の方は絵がお世辞にも上手いとは言えなかったり背景も正直手抜きだと思っていたけれど、いつしか…いつの間にか読む内にこの漫画にハマっていた。
第二部の決勝戦の頃には完全にハマっていたから、恐らくその前の片山右京戦・飛田高明戦あたりでハマっていたのかもしれない。第一部初期はあー夢枕獏作品のパクリと言われたのも分かる…と思いながら読んでいたから。
気付いた時にはグラップラー刃牙や夢枕獏の作品より修羅の門には好きになっていた自分に驚いた。特に第四部バーリ・トゥード編は未だに全格闘漫画で一番面白いパートなのでは?と思っているほどお気に入りだったりする。
修羅の門を読み終えた後には「とにかく修羅関係の作品が読みたい!」と最初は歴史物だからという理由で全く興味が無かったスピンオフ修羅の刻も読んでいてそちらにもハマっていた。幕末編と西部編、とにかく面白いんですよ。
その修羅の刻も読み終えると「もう修羅でなくても良い…川原先生の作品なら何でも良い!」と、あの大長編海皇紀にも手を出していた。とにかく長くて表紙で何巻か見分けが付かない漫画、といえば知る人も居るかもしれない。
これもとにかく長かったんだけど…読み終える頃には「これもしかして修羅の門より面白くね!?」というくらいハマっていた。修羅の門を描いたご褒美なのか、とにかく川原先生の当時描きたい物を描いた漫画、だったのかもしれない。
この長い海皇紀もコツコツ集めて読み終えた頃には、他に読める川原先生の作品といえばパラダイス学園やあした青空、エンジェル、HEROなどの短期連載作品か…それとも当時月マガで連載していた修羅の門の続編か、だった。
修羅の門とは全然雰囲気が違うなあと思いながらも川原先生の初期の作品も読んだし、修羅の門第弐門も九十九VS姜子牙戦あたりから毎月リアルタイムで月マガを立ち読みして追っていた。とにかく夢中になっていた。
九十九VS子牙戦の間に挟まれた九十九VSケンシン・マエダ戦は「もしかしてこれ本当に九十九は負けたのでは…」と読んでいてハラハラしたし、その後のラスボス・海堂さんと九十九の戦いは最後までどちらが勝つか読めなかった。
この修羅の門第弐門のエピローグ、或いはプロローグにあたる修羅の刻・昭和編がその後月マガで連載されたのだけど、こちらも最後まで面白かった。あまりの面白さに単行本も珍しく新刊で買いました。これまた面白かった。
その修羅の刻・昭和編を読んで自分の中で一旦何かが満足したのか…川原先生の新作・龍帥の翼は自然と読まなくなった。これも海皇紀と同じで長くなりそうだ、と思ったのかもしれない。実際読んでみたら面白いんだろうけど。
これもいつ頃ハマったのかは覚えてないけど、少なくともアニメの四期が始まる以前だったような覚えがある。揺れるイントゥ・ザ・ブルー、が面白かった事がこの作品にハマった切っ掛けだったような気がするけどあまり覚えていない。
フルメタは最初の一巻か二巻かを読んだ後にその後長年放置していた覚えがあるんだけど、何かがきっかけで積読を崩してからはもう夢中になってフルメタを読み耽っていた。恐らく当時ロボアニメにハマっていたんだと思う。
短編はあまり好みじゃなかったけど、長編と中編が面白いのなんの。途中で積読が何巻か抜けていた時は自転車で即書店に走ってその抜けを埋めて読むくらい、それほどこの小説にハマっていた。夢中になって読んでいた。
途中で作者の後書きに反感を持ったり、正直最後の方の駆け足展開ご都合展開は好みじゃないと思ったけど、それでも面白くて時間を忘れて読んだ小説だった。スピンオフにあたるアナザーは未だ読んでいない。
2015年に荒川弘氏のコミカライズ版がTVアニメ化した作品。アニメの一話を見て面白いな!と思い、二話までにそれまで積んでいた角川文庫のアルスラーン戦記を全て読み終えた。滅茶苦茶面白かった。
アニメ版アルスラーン戦記も主題歌が良く荒川弘先生のキャラデザが魅力的という事で中々楽しく見ていた。割と初期に原作漫画を追い越してしまった影響か最後の方はアニオリ展開になってしまったのは残念だった。
とにかくこのアルスラーン戦記を読破した事で「やっぱり田中芳樹作品は面白い!」と思い、マヴァール年代記やタイタニア、夏の魔術や灼熱の竜騎兵等々それまで買っただけで積んでいた田中芳樹作品を貪るように読んでいた。
その中でも銀河英雄伝説は「数年かけてOVAを外伝まで完全に制覇したのに、何で大まかな話を知ってる話をもう一度活字で読まなければいけないんだ?」と思っていた。実際読んだら、凄い面白かった。
当たり前だけどアニメと小説は媒体が違うという一番の特徴があって、どれだけ声優さんやナレーターの人の語りを入れてもアニメでは原作小説で描かれていた部分をそのまま全て作品に出来る訳ではないのだな、と思った。
OVA版が長いのもあって丁度内容を忘れ始めていた事もあってか、それとも純粋にこの小説が名作だからか、この場面や台詞は先にアニメで見て知っているなと思いながらもワクワクしながら読んでいた。
本編10巻外伝4巻の計14巻を読破した後は満足感と寂寥感の両方があったかもしれない。長い小説だけど、2018年と2020年にリメイク版が地上波で放送された時はまた熱が蘇り読み返した。本当に良い作家さんだと思う。
自分の中で小説・ライトノベルを読むのが何より楽しみだった時期に読み耽っていた作品。これも一巻だけ読んだ後は長い事積んでいたけど、ふと他人のとらドラ!読後の感想を見かけてこれは面白そうだと思い積読を崩し始めた。
どんな作品にも言えるけど、ある時期話題になった作品というのはやっぱり話題になるだけの面白さはある物だと思う。一度読み始めると「この先は一体どうなるんだ!?」と気になって気になって仕方なくなった。
この作品を読んでいて特徴的だと思ったのは、ヒロイン達が男にとって都合の良い一種のアイドルではなく醜い所・駄目な所・嫌な所もある人間臭い存在として描かれている所だった。逆に男子達には理想が入っていた気がする。
積読を読み終えると続き読みたさに書店へ走り、それも読み終えると今度は「竹宮ゆゆこ先生の作品なら何でも良い!」とわたしたちの田村くんとゴールデンタイムも買って読み始めた。こちらも同じく最後まで楽しませてもらった。
特にゴールデンタイムは途中まではもしかしてこれはとらドラ!に匹敵する名作なのではないだろうか?と思っていた。とらドラより巻数が少なかったためか終盤は駆け足気味に話が終わらせたのが残念だった。
ゴールデンタイム以降竹宮ゆゆこ先生の作品には触れていないけれど、彼女が電撃文庫で発表した二十数巻の小説はある時期の自分を本当に楽しませてくれた素晴らしい作品だった。本当にありがたい事だと思う。
いつだったか自分の中で野球漫画ブームが起きていた時期があった覚えがある。現実の野球が大好きという訳ではないけど、漫画というフィクションの中で描かれる野球という競技には本当にワクワクさせられた。
ドカベンなどの水島新司作品は書店で片っ端から買い漁ったし、他にもあだち充作品、ラストイニング、おおきく振りかぶって、名門!第三野球部、ペナントレースやまだたいちの奇蹟などとにかく野球漫画を読みまくった。面白かった。
登場する女の子の可愛さは最強!都立あおい坂高校野球部が抜群だった気がする。中でも一番読んでいて夢中になれた作品はラストイニングだけど、結局何とか甲子園に出場した所以降はまだ読んでいない。いつか読みたい。
野球漫画を片っ端から読んでいく内に、それまでタイトルと絵だけは知っていたけど読んだ事が無かったあだち充作品にも触れる事になった。最初に読んだ作品はH2だったと思うけどこれがもう面白いのなんの。
野球と恋愛をセットの物として描くからこっちは今野球が読みたいだけなのに!と思っている時はその恋愛要素が鬱陶しく感じる事もあったけど、それ込みで野球というスポーツを描く作品として本当に面白かった。
H2の後はタッチやクロスゲームなどの野球物は勿論の事、ラフ・虹色とうがらし・いつも美空、みゆきなど野球要素が無いあだち充作品も明後日は読み耽っていた。読んでいて一番自分に合ってるな、と思ったのはクロスゲームだった。
古本屋で全巻セットがお得なお値段で売られていた事から出会った作品。タイトルだけは知っていたけどあまりに長すぎて自分が読む事は無いだろうな、と思っていたから意外な出会いだった。
82年連載開始の漫画という事で、最初は絵も内容も古いな…と思いながら読んでいたけど、絵が読みやすくなったりキャラクターに愛着を感じ始める頃には流石長期連載される漫画だけあって面白い!と思いハマっていた。
主人公コータローがとにかく作中で色んな事に手を出すのでこういう漫画である、と一言では言えないんだけれど…格闘・バトル・学園物の漫画というのが近い気がする。もっと言うなら何でも有り漫画なのかもしれない。
全59巻という長さにも拘らず最初から最後まで面白いストーリー漫画というのは本当に衝撃的だった。これは続編も面白いに違いない!と早速柔道編も買って読んだけど期待は裏切られる事無くやはりそちらも名作だった。
この名作少年漫画が原作者の蛭田達也先生の病気療養が理由で2004年から連載が休止している事は知っているけど、実際に単行本最終巻を読むともうここから先は読めないんだな…と寂しく思ってしまった。
コータローまかりとおる!の連載が休止して再来年で20年、この名作の続きが世に出る事があればこんなにめでたい事も無いのに…と思う。昔の漫画だけど本当に面白くて90巻以上退屈せずに読めるって凄い事だと思う。
1巻だけでいいかなとオモタ
アニメの脚本かと思うくらいスカスカな中盤まで、と一気に設定垂れ流してくる後半のバランス悪い
まあ後半の帳尻合わせがなければ、中盤あたりまでの出来なら賞とるのはむずかしかっただろうなと思う感じ
90-00年代の電撃文庫の文字の小ささと説明過多をラノベだと思ってると、まじでライトもライトでびっくりする
ランスっぽさを感じた
とりあえず読んでみる経験はできたのでよかったと思うけど、
読んで良かったとおもえるほど面白くはなかった すまん
最近、なろう系のTL小説買ってるけどやたら値段高いなって思う
悪役令嬢転生物とか貴族令嬢が王子とか公爵とイチャイチャするような奴を主に読んでる
それなのに値段は1200円オーバーとかクソ高い
1500円近くなのも割とある
電子書籍でこの値段
紙なら更に+100円とかとられる
作者を応援する意味でも買ってるけど、何であんなに高いんだろうねー
せめて、電撃文庫とか一般的なラノベの価格ならもう少し買いやすいのに
鈍器ぐらいのページ数なら1500円でも納得するけど、あのページ数と内容じゃなぁ……
レーベルにもよるんだろうけど、たまに安い1000円以下のやつもあるし
もしかして、無料で公開してるのを書籍化した奴は元を取るために高いとか?
試しに持ってるやつ確認したけど
・1500円で290ページ
・1300円で165ページ
・1400円で300ページ
・730円で182ページ
ちなみにソードアート・オンラインは、730円で249ページ
因みに鈍器は1000円で500ページだったのに、続編になったら1500円で370ページ程になってた
アニメ化してるようなやつと比べるのは間違ってるけど、こうもページ数の割に値段が高いとビックリするわ
やっぱり採算取るためなんだろうなー
自分は、普通にDLsiteとかで同人誌をバカスカ買ってるので、同人誌の価格設定は理解してる
ただ、これはもう同人誌じゃなくて商業誌なんだから、もう少し価格設定考えて欲しいと思っている
本の装丁がしっかりした物だしサイズが大きいから高いんろうとは思ってるけど
電子書籍で買ってるのは、そもそも一般的な本屋に置いてないから
商業施設の比較的大きい本屋に行ってもそもそもこのジャンルはほぼ置いてない
アニメ・ゲーム調のイラストが市民権を得て、公的機関がアニメ調のキャラクターをVtuberとして採用するなんて、20年前はちょっと想像できなかったな。
20年前に、アニメ・ゲーム系のイラストやキャラクターを見つけようとすれば、
ぐらいしかなかった気がする。
一般向け小説の表紙がアニメ調になるなんて思わなかったし、鉄道会社や市役所、一般企業の広報にアニメ調のキャラクターが登場するなんて思ってもみなかった。
2000年前後の事例としては、アイスちゃん(1999年くらい)、大和町のまほろちゃん(2001年くらい)、程度じゃなかっただろうか。
鉄道むすめ(2005年発売)、下妻市のシモンちゃん(2006年くらいに登場)、涼宮ハルヒの憂鬱(2006年放映)、らき☆すた(2007年放映)、あたりから一般社会にアニメ調のキャラクターが浸透し始めた。
初音ミク(2007年発売)、けいおん!(2009年放映)、あたりから世間のアニメやゲームに対する見る目が変わり始めて、ガルパン(2012年放映)、艦これ(2013年サービス開始)、あたりで肯定的な立場に切り替わった感じ。
ラノベとは一体何か、の定義論が2021年ですらいつまで経っても定まらないが
原因はレーベル論以外の定義が全て無限の例外判定処理が必要なクソ理論ばかりなせいで
集英社が人間失格に小畑 健氏が挿絵を描いたりと、一般的な文庫にもイラストが普通に使われたりする現代ではとても実用に耐えない。
会話が多いだの、描写が多いだの主観的すぎてあいまいな話もそうだが、
当然、一般小説でも純文学でも作風として使用してくる人間はいくらでも出てくるし、
内容派
もっともらしいことを言っているが、実のところ俺が考えたラノベに合うのはこれだ!と次々認定してるだけである。
もっともらしいことを言っているが、実のところ俺が考えたラノベ合うのはこれだ!と次々認定してるだけである。
作者に依存する論
桜庭一樹(直木賞)や有川浩(一般向けでヒット)がぶっ壊してくれたので使う人はいなくなった。
出版社が出すブランド名(電撃文庫、角川スニーカー文庫、富士見ファンタジア文庫)で出版社側がラノベとしてマーケティングするものがラノベ。
そもそもの語源からして、レーベルをラノベとして認定しているのであり、原点回帰ともいえる。
出版社側も当たり前に認識するようになった、ライトノベルという言葉を出版側が認定しているかと絶対的に定まる基準。
ライトノベルという言葉は、あくまでマーケティングに使う用語であり、定義する側を販売者側に委ねるのが正しい。
じゃあ、「涼宮ハルヒの憂鬱」が子供向けのレーベルの”角川つばさ文庫”や”角川文庫”から出ているのはどうかという話になってくるが
当然それらは子供向けの文芸や一般小説であってライトノベルではない。
ラノベを読む人に向けて売っておらず、子供や一般といったターゲットに向けて売っているから。
仮にだが、「涼宮ハルヒの憂鬱」の内容が一番最初に芥川賞を受賞して出版されてたとしたら、純文学になっているだろう。
「推し、燃ゆ」も挿絵つけてラノベレーベルから出版すればそのままラノベとしてとして売ることができるんじゃないだろうか。
そもそもとして小説のカテゴライズ自体がそんなもんだ。純文学だと売り出して大枠で一致していれば純文学だし、
ミステリ小説だと出して作中から回答を導出するのが不可能なズルをしていようがミステリだ。
あくまでターゲット層に向けて似たカテゴリの本が集まってますよーと宣伝するための区分けでしかないので
非ラノベレーベルにラノベと特徴が一致するモノがあってもいいし。
ラノベって言葉から連想されるジャンルのイメージがあると思うが、それこそがブランディングであり、ラノベレーベルとして売り出す理由そのものである。
こんな記事開いている時点で多少はブギーポップという作品に興味がある人間だろうが、様式美のために簡単に説明しよう。
「ブギーポップは笑わない」とは、著者 上遠野浩平。電撃文庫から1998年に刊行されたライトノベルで、その後のラノベ界に大きな影響を与えたと言われている作品だ。
2000年にも一度アニメ化されており、2019年に再アニメ化された。
こんな感じでいいだろうか?
さて、私はブギーポップを書いている著者、上遠野浩平先生のファンである増田だ。
この記事はファンから見たブギーポップの再アニメを記したものである。
さて、まず結論を書こう。
これは残念ながら事実だろう。
ネットで調べれば円盤の売り上げが散々だったと言われているし、グッズもアニメイトなんかの店頭でもほとんど置かれなかったし、出ると宣伝されたfigmaは出ないし(受注生産でいいので売ってくださいお願いします)。
アニメがつまらなかった。話が理解できなかった。監督と絵師がもめた。再アニメ化にあたってのキャラデザが良くない。そもそも原作が20年前で現代に合ってない。
さて、こういった評価について、またアニメそのものについてブギーポップ、そして上遠野浩平という作家の本気のファンである私がどう思っているか。
1.アニメについて
つまらない。という意見もわかるが、正確にはストーリーごとにわかりやすさが変わってしまっているという印象を受けた。
2019年のアニメは原作に沿ったストーリーで展開しており、原作では巻で分けられていた以下の内容でがらっとわかりやすさが違う。
正直一番理解が難しいと思う。ここで脱落した人もかなりいると勝手に思っているし、原作の魅力が伝わっているのか不安になった。
笑わないは時系列がかなりシャッフルする作品なのだが、アニメでは「登場キャラの削減」されて登場時系列が整理されており、これが一番問題なのだが「心の声の描写がない」。
私は原作ファンなので、場面を見るだけでその場面の背景や心理描写を思い浮かべて普通に楽しめてしまうのだが、初めてブギーポップを見た人が理解できるか不安になった。
(ただ、一話がまるまる浪漫の騎士として竹田くんとブギーポップの会話にあてられているのはファンとしてはマジでうれしかった。これで口笛吹いてくれたらさらに完璧だったが、そこまでは望むまい)
②vsイマジネーター(4話~9話)
笑わないに比べればかなりわかりやすい。が、初めて見た人がどこまで理解できるかは原作既読組から見ると少し不安になる。
めちゃくちゃよかったし、なんならブギーポップ初めての人にはこれから見せても許されるんじゃないかと思うぐらい。
少女な霧間凪はかわいいし、黒田さんの描写も、モ・マーダーもピジョンも最高なので、笑わないとvsイマジネーターの後にあるのがもはやもったいないと感じる。
④歪曲王(14話~18話)
普通に良かった。
音楽的な描写が多い作品なので、アニメのBGMがいい仕事をしていたし、ゾーラギとの戦闘シーンの動きはアニメでしか味わえないブギーポップだった。
なによりスタートである笑わない編がわかりにくい、というのが何よりも大きい。ファンとしても万人に勧められる作品ではないと思っている。
なので、小説を読めばいいと思うよ。
正直、監督と原作でキャラデザ・イラストレーターを務めている人がもめた話は語りたくないので、詳細はネットで調べてもらうとして、これがアニメ好きと呼ばれるアニメライト層(ここでは原作を知らないがアニメなら何でも見る層を指す)に悪影響を与えた可能性は否定できない。
ただ、再アニメ化にあたっての原作からのキャラデザの変更がよくなかったという話はファンとして否定したい。
そういうことはだな、原作や原作に忠実にキャラが描かれている「ブギーポップファントム」(2000年アニメ)でキャラ同士の判別が完璧にできるようになってから言え!!!
失礼。
ファンにも様々な意見があるのは踏まえたうえで、私はキャラデザに関してはブギーポップが原作通りのマントと帽子をかぶってワイヤー使っているなら、割と後はなんでもいいとか思っている。
なので、再アニメ化のキャラデザは末間博士とか、委員長とか原作に似た見た目で、いいキャラデザもあれば、スプーキーEとかゾーラギとか原作とは違うけどいいデザインもあるのでファンとしては全然ありでした。
(欲を言えばフォルテッシモや、十助をアニメ化するならどんなキャラデザになるのか気になるのでこっそりください)
3.原作について
原作が古いから現代の人には受け入れられないという意見について。
「ブギーポップは笑わない」は1998年に初版が出版された作品だ。
その人気が高かった2000年に一度アニメ化し、2018年の末ごろアニメ化の発表が会った時我々ブギーポップが好きな増田は、驚きを持ってそのニュースを迎えたのだ。作者が10周年記念の時何も無かった電撃文庫がどうした!?再アニメ化だと!?
そこに「今さら!?」という感情が無かったと言えば噓になるだろう。
だが、それは我々が何年、何十年も前に書店や学校で「ブギーポップは笑わない」の小説を手に取り、そこに歴史を感じるから古く感じるんじゃないかと思うのだ。
古い作品の再アニメ化で成功した事例として「おそ松さん」や「ジョジョの奇妙な冒険」があるだろう。原作が古いから受け入れられないという意見には反対だ。
それは1998年代とかそういう話ではなくて、あなたが学生時代に読んだブギーポップを知っているから古く感じるんじゃないかという話だ。
ブギーポップの描く独特の閉塞感があの時代特有のものだと言うのは、あなたの学生時代がその時代だったからじゃないのか。
「現代に通用しない」のは現代のあなたに通用しないだけではないか?
しかし、2021年になった今も通用する作品だと一ファンとして確信している。
そしてもしも、この作品の価値というものが本当に問われることがあるならば、それは例えば、今から20年後の2040年。1998年のブギーポップを知るものがほとんどいなくなった時に問われるのだと思う。
4.まとめ
というか、アニメが失敗したところで原作の良さは損なわれないのに、原作に言及するヤツはマンティコアの食糧として献上してもいいと思うんですがね。
ブギーポップの再アニメ化の成功失敗については再アニメ化した時点で割と成功だと思っている(刊行20周年に二度目のアニメ化がされる作品の一つにブギーポップがあるという時点でファンとしてはとても嬉しい)のですが、アニメの完成度については話毎に差があると思っているし、誰にでも勧められる良アニメとは言えないでしょう。
しかし、2000年のブギーポップファントムが2000年のブギーポップだとするなら、2019年の再アニメ化は2019年のブギーポップだった。
画面は明るくなり、BGMもキャラデザも変わって、スマホを使う。
(これで2040年に奇跡的に再々アニメ化なんてされて、また今までと違う2040年のブギーポップが出たら奇跡的過ぎて、失敗だと言われていた話も成功になりそうですね。歴史というものが後から修正されるように)
ところで、ここまで読んだ人はかなりブギーポップが好きか、頭がおかしいのだと思うのだが、ブギーポップと同じ著者の書いた他の作品もとても面白いので是非勧めたい。
「ぼくらは虚空に夜を視る」
「殺竜事件」「ソウルドロップの幽体研究」
さて、この駄文もそろそろ終わりである。もちろん締めの言葉はファンとしてこうするべきであろう。
(結局、再アニメ化って失敗だったのかよ?)
(まあ、いいじゃん)