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2023-12-26

anond:20231224205347

ドストエフスキー作品で繰り返しテーマになってる題材だけど、ドストエフスキー作品場合無神論者は最終的にみんな自○してしまうんだよな。

ちなみに無学なのでよく知らんのだけど、哲学倫理って科学なのだろうか。

2023-12-16

救いの前に彼らを迷わせなければならない

バイオ大学での福音学での恩師、カーティスミッチェル博士はよく言っていた。「救いの前に彼らを迷わせなければならない」と。もし人々が自分たち生活に何か深刻に満たされていないものを感じていなければ、新たな信仰を受け入れるとは考えにくいし、まして神や救いを求めようとするはずもない。

ダニエル・L・エヴェレット(著), 屋代通子(翻訳)(2012年)『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化世界観』(みすず書房pp.369

 キリスト教宣教師によって世界各地に伝播していく仕組みはこれだったのか。ローマエルサレムとははるか遠くに離れたアジア南米にまでキリスト教が広まっているのが不思議だったけれども。キリスト教には原罪というすべての人類に押しつけがましく罪悪感を植え付ける思想があって、個人的には気に食わなかったけど、宣教にはうってつけの手法だったのか。

 著者のエヴェレット博士は、SILという米国キリスト教宣教師組織の一員として聖書ピダハン語に翻訳して宣教するために、ブラジルアマゾン少数民族ピダハン集落へと妻子と共に赴いた。著書によると、聖書翻訳してピダハン理解させることはできたが、キリスト教信仰を受け入れさせることはできなかった。

 ピダハン特別宗教信仰しておらず、実際に見聞きした物事しか信用しない。あえて何らかの信仰があるとすればアニミズム信仰であり、あらゆる物に精霊が宿っていると考えている。さらには自らが精霊になったりもする。故人に変装して土葬されたとき気持ちトランス状態で語ったり、精霊の名のもとに自らの雄弁さや教訓を語ったりといった具合にだ。日本で言うところのイタコ芸かと私は思った。ピダハンにとって精霊は、実際に見聞きできるものなのだ

 ピダハンにとってイエス・キリストは実際に見聞きをすることのできない存在なので信仰対象たり得なかったのだ。翻訳された聖書の音声レコードを聞いて文化の違いに笑ったりもするが、聖書エンタメしか理解されなかったようだ。洗礼者ヨハネが首をはねられる場面を楽しみながら何度も聞いたという具合にだ。エヴェレット博士宣教師だが、同時に言語学者として大学での研究も並行していた。実証されたこしか信じないピダハンの態度を目の当たりにして、エヴェレット博士科学者としての自らの論理的思考の結果から信仰に疑問を持って無神論者になったという。

 聖書アニミズム信仰者に理解させることができなかったことは、キリスト教宣教師が自らの信仰喪失させるほどのことだったのだろうか。だとしたら、過去世界中にキリスト教宣教できたのはなぜだろうか。やはり、金や暴力といった強制力を働かせなければ宣教は難しいのだろうか。日本に対するキリスト教宣教師がそうだったように。冒頭で引用したように、強制力をもってして迷わせることが、キリスト教宣教による救いを与えるのに必要な前提なのだろう。ジャングルという恵まれ自然に満足して常に笑顔を絶やさなピダハンには、迷う必要そもそもなかったから、キリスト不要だったのだ。

 科学技術の発展にともなう人々の論理力の向上と、金や暴力による強制力忌避する社会的な風潮によって、宗教の力は今後ますます縮小していくことだろう。日本において神道仏教などの宗教の力が人々から薄れていくのと同様の運命を、キリスト教など他の世界的な宗教でも同様にたどっていくことだろう。

2023-12-09

エクソシストの新作観た。

取り憑かれての異常行動も割と控え目だったし、ホラーって感じはあんまりしなかった。前のもそうだけど、悪魔に蝕まれていく辛さみたいなのが大きい。

タイトル通り、悪魔の誘惑に耐えて信じ続ける話だなと思った。

キリスト教に限らず、人生に対する希望と言い換えても良いような「信仰」がテーマになってた。

悪魔祓いは色んな文化圏であると繰り返し言われてたり、非キリスト教聖職者が参加してたり、主人公無神論者だったりと。悪魔の囁きも抽象的な信仰というよりは具体的な人生の後悔を掻き立てるものばかりだった。

前作主人公が出てくる所でアツいやつじゃんと思ったらあっさりやられたし、神父も満を持して参加したかと思えばあっさり殺された。その辺でもやっぱりキリスト教抽象的な話というよりは普遍的ヒューマニズムに寄せてる気がした。

最後は信じ続けた主人公勝利な気もしたし、悪魔の勝ちと言えたような気もした。

サブリミナル?というかモンタージュ?は初代のアレより自然な感じがした。

2023-11-24

anond:20231124104606

畑を耕すためには人間必要であり、人間存在するためには神が必要であろう

これだから無神論者は困る

2023-11-21

徹底した宗教拒否思想がない限り日本無神論者になれない

短期滞在上級国民であらゆる法則無視出来る人じゃないと、非常に宗教を持つ人にとっては暮らしにくい国だぞ日本

 

いただきます」「おかげさまで」「生かされている」は宗教から来るものだし、

パッと思いつくものでも、建物を建てる時のあれこれ、事業所やお店の神棚七五三例大祭厄年お盆年末年始葬式のあれこれがある

ワイが子どもの頃、当たり前のように子ども会のイベント神社でやってたし、神社クリスマス会やったなぁ

修学旅行神社やお寺へなどの宗教施設訪問も当たり前のようにやったなぁ

 

あと西洋宗教などの神が人間評価する国の人は熱心に宗教信仰していなくても、

だいたい自己責任思想能力主義が強いし、自由意志否定すると発狂する米🌾

なぜなら人間自己責任に基づいて行動をしそれを神は見ておられて評価するから

 

でも日本神様はそういうのないからな。そもそも人を支配しないし万物に神性や魂が宿るって考えだから

動物現象神様だけでなく海外神様神社に祀るから。その神様アイコンにするから

 

とりあえず、教典がある宗教がいいです!なら、日本にいる出稼ぎ庶民外国人に聞いたら良さそう

日本だしでぇじょぶだ、神様も赦してくれる!』ってだいぶ緩く信仰してるぞ

anond:20231121031454

2023-10-14

無神論ではなく無神論者がヤバい

中身関係なく、少数派で少数派であることにアイデンティティらしきものを持っちゃう奴は、もうそれだけで単純にヤバい

2023-09-23

anond:20230923105326

しろ筋金入りの無神論者だのガチ哲学者たちが言いそうなせりふだと思うぞ。ニーチェだのラッセルだの。

2023-09-05

日本人、神や仏に感謝しない

NHKBSATP賞を見てた。

ATP賞全日本テレビ番組製作社連盟(略称ATP、Association of All Japan TV Program Production Companies)が「製作会社社会的機能を高め、制作スタッフ一人ひとりの情熱気概に応える」ことを目的に、優れたテレビ番組顕彰する賞。


気になったのが受賞者のスピーチ

日本人、神や仏に感謝しない。

何人ものスピーチ見てても誰も神仏に感謝しない。

こういったアウォードでの受賞者スピーチ内容は米英だと、

先ずは神に感謝→次いで家族感謝→更に制作に関わったスタッフ感謝最後視聴者ファン感謝、がパターン

これでは日本人無神論者だと思われても仕方ない。

この先、ブラジルベトナムフィリピンなど外国籍外国ルーツを持つ制作スタッフが増えてくれば国内イベントATP賞におけるスピーチ内容にも変化が現れるのだろうか?

2023-07-23

[] 言論カラクリ世界自己防衛

私は、自分を賢いなどとは言わないようにしている庶民です。

病により、たくさんの失敗をしました。

大切な人に不幸が起きないために、そして私が失敗を繰り返さないために記します。

ある時、私は他人よりも賢くなりたいと望みました。

知力を測ると言われていた試験を自ら受け、その結果が良いと悪い笑みを浮かべていました。

あるいは性格を分類するとされる試験でもまた、自画自賛していたのです。

いつからか、私は自分を優れていると勘違いし、他人を嘲けるようになりました。

自分自身が優れていると勘違いすると、他人が間違って愚かに見えるものです。

愚かであるという自覚を持たないほど愚かであるものですが、自身が優れていると勘違いしているときは、他人のほうが正常なことが多いようです。

私はある知恵者の言葉を読み、自身が愚かであると認めるようになりました。

するとどういうわけか、私と似たような罪を犯す人が誰なのか、わかるときがあるのです。

社会のものが、試験競争で優劣の烙印を押しています

その烙印にはお墨付きさえ与えられており、まかり通っているのです。

誰かが「賢いと自身をみなすな、謙虚でいろ」というと、嘲る人はその烙印を誇らしげに見せて、

「見ろ、これは私が賢い証拠世間が私を認めている」といいます

私はがっかりして、これが嘲る人に満ちた世界であるということを見ることになります

嘲る人に、理を述べても逆なでするだけです。

彼は自身の賢さを見せびらかしたり、証明したいので、相手がまいってしまうようになるまで屁理屈を並べます

私が「一緒に真実を追求するのはどうですか」と前向きに協力しようとしても聞く耳を持たず、ただ張り合い続けたいらしいのです。

そうやってやり合ううちに、ついには私自身が彼を嘲るようになってしまうのですが、果たしてこんなことが何かを良くすることがあったでしょうか。

あるとき、私は武器となり得る危険からくりを手にしていました。

その上、私はこれがどういうものなのか、まったく無知であるのに、その使い道についてあれやこれやとデタラメに試して、いじくり回し始めました。

そうすると、信じられないことが起こり、「それは使うべきではない」と言われるかのように、様々な地獄へ飛ばされました。

それが私の病によるものか、からくりによるものか、区別がつかないほど現実味を帯びていたので、とても恐ろしいと感じました。

まりにも恐ろしかったので、私の罪に対する罰であると考えました。

しかし疑り深さがあったのか、「いったいどのからくりが悪かったのか」などと考えました。

世の中は様々なからくりが惑わしていたので、他人や私が使えるからくりはたくさんありました。

私は愚かにも、それが私自身に対する罰であることを疑い、悪魔悪人による攻撃ではないかと言いました。

次に私は、言葉が飛び交うところで、あらゆる悪に鞭を打っていました。

しかし、なぜ私は自身を正しいなどと言うことができたのでしょうか。

それは私自身が嘲る人となったことがあり、からくりについて半端に仕組みを知っていたためです。

あるからくりの長は、「公平に、自由に」とその仕組みを公開しましたが、

彼は自身を優先的に人々に崇拝させるように操っていました。

しかも、その悪事が知られてなお、崇拝者がたくさんいました。

誰が誰を崇拝するのか、などと無神論者が集まっており、彼らは自らを「崇拝されるに値する」などとみなして、

崇拝者の数という烙印によって、嘲る人となっていました。

私も別の烙印を誇った失敗があったため、なぜ彼らが悪であるかについて、話したいことがたまっていたのです。

しかしそれを話す人は決まって、負け犬弱者、などと決めつけられます

偶像崇拝邪悪ではないか、と正しさを追求しようとする人は、様々な罠の前に置かれているようです。

ある人は、からくりの世界が恥を広げるだけだと悟り現実に近い所で戦いを始めました。

からくりは悪いものを広げているとその人はいうのですが、邪悪な者が力を広げているので、正しい人の言葉は聞こえにくいところへ追いやられてしまうことがあるようです。

ついに私は理解しました。私はこの悪しき情報社会から、本当に自分にとって大切な人と自分自身を守るべきであり、

よく考えずに悪人に対して投げるのは賢い行いではないと。

私自身が罪を認めるべきであり、誰かを嘲るのを堪え、からくりから離れ、正しい言葉の書かれた本を選び取るべきだと。

大切な人を守るには、嘲る人の悪しき罠や報復を避けるために、社会に向かって何かを投げようと考えないほうが良いです。

嘲る社会、悪しき人を崇拝する社会を変えることは難しいですが、自らの行いを正すことであればできます

私はからくりや言葉の罠を避けるための試練を受けているのかもしれません。

これは知恵によって避ける試練であるかもしれませんが、武器で戦おうとしてはならないと思います

2023-06-09

「みんなやってる」は免罪にならない

犯罪行為ならやってる奴が多かろうと少なかろうと友達だろうと犯罪。全員訴えるので、他にやってる「みんな」とやらの具体的情報、全部出してね。特に名前

そもそも「俺無神論者だし」とか言って格好付けてる癖に「みんなやってる」から「やっていい」とか、マジほんと「みんな」っていう謎の神様信じてるだけの宗教信者なんだよな〜。

無宗教ぶってイキっちゃって、無自覚恥ずかしい〜!!

2023-05-04

横浜市による憲法違反では?

ムスリムへのハラール給食を提供している/いた学校があることが認識できない人っていうまとめ見てビビった。見事に議論が噛み合ってない。

A「ハラール給食ムスリム優遇になるので憲法違反

B「やってた学校もあるし、問題になってませんよ」

……それはまだ違憲判決が出てないだけなのでは?

裁判になるまでは普通にやってて問題になってなかったこと」なんて、いくらでもあるからね。それこそ、親を殺した人を重い刑に処すのなんて、違憲判決が出るまでは当たり前だったわけで。

個人的に、ここで挙げられている横浜市飯田いちょう小学校ハラール給食は、憲法違反だと思う。……もしそれが本当にハラールなら。

ハラールは、単に豚肉を避ければよいというものではない。たとえば「特定の生徒の野菜炒めから豚肉を取り除く」だけではダメだ。豚肉と一緒に調理された野菜や、さっきまで豚を調理してたフライパンで炒められた野菜ハラールではないからだ。別々に調理する必要があるし、当然、新規食器を購入する必要も出てくるだろう(要するに、「ムスリムにとって豚肉とはウンコのようなもの」だと思えばよい。誰も、特殊趣味の人を除けば、ウンコと一緒に炒められた肉や、さっきまでウンコが乗ってた皿に盛り付けられた料理を食いたくないだろ?)。

あるいは仮に牛や鶏であっても、屠殺ムスリム啓典の民ユダヤ教徒キリスト教徒)によって行わなければならないので、仮に「行政が認めたハラール」なるものがあるとすれば、それはすなわち「行政が、特定宗教信者のみを屠殺人として指定している」(あるいは、特定宗教を持つ屠殺業者のみを選んで契約している)という意味になる。要するに、本当に公立学校ハラール給食を出すなら、仏教徒無神論者屠殺業者は入札に参加できないことになる。これは特定宗教優遇を禁じた憲法違反する行政給食契約をするに際して事業者宗教で選別することは許されない。横浜市民のはてなーはぜひ横浜市飯田いちょう小学校給食に関する行政訴訟を起こしてほしい。

ただし、小学校給食なので、厳密なハラールではない可能性もある。つまり普通野菜炒めから豚肉を取り去って「ハラールですが何か」と言い張っている可能性はある。牛肉鶏肉も、日本人屠殺したやつを使ってるのかもしれない。それなら日本国憲法には違反しないので訴訟必要はないが、それは断じてハラールではないので、ハラールであると嘘をついてムスリム住民を騙すのはやめるべきだ。

まり横浜市飯田いちょう小学校は、

ことになる。いずれにせよ是正必要になるだろう。

個人的には、ムスリム住民ハラール給食出すくらいは別にいいじゃん、と思うが、市が神社無料土地を貸すのが憲法違反とされたり(砂川政教分離訴訟)、琉球王国時代から続く孔子廟那覇市無料土地を貸すのが憲法違反とされたり(孔子廟訴訟)、大規模災害被災地寺社仏閣への支援がなかなか行われてこなかったりしてきたわけで、ムスリムだけ公費による優遇OKにするのは不公平感が強くて納得がいかない。土地無償貸与ダメで、業者宗教で選別するのはOKなんて通らないでしょ。憲法改正して「伝統宗教公序良俗範囲でカネを出すのはOK」ってことにする以外に解決策がないので、ムスリムの人たちが公教育でのハラール給食を望むなら、ぜひ憲法改正運動に手を貸してほしい。

2023-03-31

ワイ無神論者自分の死後の死体の処理にこだわってる人みたいになりたくない

気分としては絶対宗教になんて負けたりしない!!って感じでもうツッコミ待ちみたいな状態なんだ。

なんかもう死んだ後のアレコレにこだわった時点で宗教感でちゃうからこだわったら負けの世界

検体に出すのは確定してるけどその後どうやるかなんだよ。

焼いて骨にするとこまではまあ法的にもそうだし腐って衛生上問題になるのもアレだからそこはまあそうなるでしょうねという感じ(当然にそうなる。こだわってない。こだわってないぞ?)

無宗教の人はその後海に撒くみたいのをよく聞くけど海に撒くって……ねえw。アンタもうそアニミズムから宗教宗教!!

やっぱ可燃ごみとかで捨ててもらうのが一番しっくりくる(だってケンタッキー・フライド・チキンもそうだろ?)んだけどそれをわざわざ頼むのもなんか宗教……って感じするし。

あと人骨をゴミで捨てたらなんかの法律にひっかかりそうな気もするし面倒だよなあ。いやもう死後のことについての心配をしてる時点で若干負けてる気がするんだよなあ。

あとよう考えたら検体で医療に役立ててもらうってのもなんか宗教献身的臭いちょっとしてきたし……

2023-03-17

anond:20230317070415

無神論者が多い日本人も困ったときは神頼み

受験宝くじ、何らかの抽選など見に覚えはありませんか

2023-02-27

anond:20230227162644

『うーん、ごめんって言ってるの可哀想から新しいビジネス展開しちゃう!』ぐらいは許されても

教徒様がお困りになってんだろうが無神論者共が!!ヴィーガンせえや!!ね?教徒様もお困りですよね?困ってると言え!!日本人を殴らせろ!!!』はアウトってことですね

2023-01-18

anond:20230117235753

AK47持ってる奴がおったら、そいつ仏教徒でもキリスト教徒でもユダヤ教徒でも創価学会員でも無神論者でも逃げるやんけ。宗教関係ないやんけ。

2023-01-16

宗教面白いけどな〜、宗教勉強することで自分無意識に染み付いてた宗教的な教えが分かるし

宗教比較面白いキリスト教世界が滅びたあとに理想郷が生まれるという教えがあるのでカルト化すると集団自殺を選びがちとか、仏教原理的に男尊女卑なので頭おかしいこと言ってたりするとか

神道太陽神天照大神という女神にしてるけど、女性太陽神世界的にも珍しいとか。でも天照大神はそんなに出番がなくて、実際は男神冒険譚が多いか女神が戦うって珍しいんかなとか。ギリシャ神話だと女神もよく戦ってるなぁとか。ギリシャ神話宗教ってほどではないか

まあとにかく、宗教知識があると相手価値観が薄っすら分かるようになる。世界的なニュースを見てても背景が分かったり

宗教知識として知ってるからこそ勧誘に引っかかりにくくなったりもする。科学勉強たか水素水に引っからないのと同じことだね

まあ鬱陶しいのは分かるけど、なんせこの国はもう千年以上仏教をやってるから文化の根っこに仏教は染み付いてて、自分たちも知らない間に影響を受けてるのは確か

新興宗教勧誘の悪質さは有名だけど、古くからある宗教勧誘の手順は磨いてきてるし、宗教はクソって態度でいると逆にコロッと騙されたりもするんだよな

から無神論者こそ、有神論者を論破できるくらい宗教のことを学んでおいた方がいいんじゃないかと実は思う

2023-01-13

死んでも結局わからない

死後の世界があったとして、死んだらその全てがなんとなくわかりそうじゃん。

からないと思うんだよね俺。何もわからないまま、ただ浮遊してるだけだと思うんだよ。

仏教だったりキリスト教だったり、何かの信者は居場所を探せるんだけど、俺みたいな無神論者は、仮に死後の世界があったら路頭に迷うわけよ。

若い女セックスを観戦してても一週間で飽きそうだし、家族を見守っていても哀しくなりそうでよ。だから俺、宗教に入ろうと思ってんだ。

おすすめ宗教、教えてくれよな!

2023-01-04

カズオ・イシグロ大体読んだけど好きかわからなくなった

わたしを離さないで」(2005)

臓器移植のために育てられた人間の子どもから大人になるまでの記憶を綴る。

かに美しい小説だ。子供から大人になるにつれて、見える世界は広がっていく。たとえそれがどれほど酷なものであろうとも、子供たちはそれを受け入れねばならない。語り手は振り返り、ひとつ出来事を大切に手の中で壊れやすい卵を計るように並べている。

読者も少しずつ、まるで語り手と一緒に育っていったかのように、事の真相を知らされていく。細やかな、性格を端的に示すエピソードミルフィーユのように繊細に重ね、誰もが持つ幼いころの記憶登場人物シンクロさせる手際は見事と言っていい。主役三人の性格の違いとそれによっておこる対立の見事さは、この小説SFというよりも性格劇に分類したくなるほどだ。夢中になってはまる本とは違うけれど、読む価値はとてもある。

しかしながら、感情描写文章リズムがうますぎるあまり、根幹のSF的設定が、ふと荒っぽい夾雑物にまで見えてきてしまう瞬間がないでもない。細密な建造物を支える、太すぎる柱にたとえればいいのだろうか。

そもそも臓器移植のためだったら、人間を育てるんじゃなくて臓器だけ培養すればいい。

どうも舞台となっている世界技術水準や、テクノロジー社会に与えるインパクトの細部の詰め方が幾分甘い。

日の名残り」(1989)

かつて仕えた主人が第二次世界大戦中に対独協力者で、それを理由戦後に没落したため、その屋敷を買った米国人に仕えることになった執事の話だ。カズオ・イシグロ本領である、決定的な本音事実意図的にあるいは無意識に隠したまま語り続ける居心地の悪さ、気持ちの悪さがいかんなく発揮されている。

熟読すると面白いが、何があったかは作中では基本的には明確に語られているのもいい。

かつてはほのかな思いを寄せていた同僚であった女中からも、今となっては過去の人とみなされており、最後自分人生って何だったんだという悔恨にさいなまれるシーンは最高だ。

かつての美しいイギリス風土と、失われた執事美徳悪徳について。感情に蓋をしがちで、行動原理自分の「したいこと」ではなく「なさなければならないこと」になっているひとにおすすめしたい。面白かったので英国メイド執事の本を何冊か読んだ。

遠い山なみの光」(1982)

長崎出身現在イギリスの片田舎に住む悦子(語り手)の所へ娘のニキがロンドンから訪ねてくるところから始まる。ニキが言及する悦子の生涯を、ニキからのまた聞きや、写真の印象だけから詩にしようとする詩人が出てくるのだけれども、なんだか作者自身創作する自分のことを批判的に見ている姿が透けてみえる。全体として、シングルマザーとしての苦しみが複数語られている。

これは褒め言葉としていうのだけれど、読んでいてずっと不穏な感覚をぬぐうことができず、いいようのない気持ちの悪さがある。たぶんその正体は登場人物の会話が互いの自己主張に終わっていて、基本的相手の話を全然聞いていないところにあるのだろう。会話の形をしているのに、対話になっていない。むしろ並行する独白だ。映画脚本のお手本的でもある。

最初のうちは、この違和感終戦直後日本人ならこんなあからさまな会話なんてしないだろうからにも思われた。しかし、明治文豪の名作だって、会話が人工的であることも少なくはない。ただ、この作品ほどのひどい噛み合わなさはまれな気がする。少なくともあちらでは噛み合わせようという努力はしている。

台詞説明したり議論したりする手法は、大抵は粗削りというか不器用な印象を与えるので好まないのだが、この場合コミュニケーション不全というか、相互理解の失敗の雰囲気をよく伝えていて、効果的だった。

浮世の画家」(1986)

情けないかつての画家の話。老い第一線を退いた後も、自分はまだ影響力があると思いこんではいたが、世間自分存在などすっかり忘れている。自分のしてきたことなど、大したことではなかったのではないか、それどころか完全な誤りだったのでは。歴史によってそう裁かれることに怯えている。老人にとって、今までのお前の人生は何だったのか、と問うことほど残酷なことはあるまい。

そのくせ、隠しようのない自己満足防衛がどこまでも続いており、かつては地位のあった老人はどこまでのその虚飾から自由になれない。計算したうえでのことかどうかわからないが、この翻訳日本経済新聞の「私の履歴書」の文体そっくりだと思ってしまうのは、私のやっかみであろうか。

やはりカズオ・イシグロ真骨頂は情けのない自己弁護にある。

充たされざる者」(1995)

よく、入り組んだ官僚機構カフカ的というけれども、どっちかといえばこの作品みたいなのがカフカ的な気がする。過去というか記憶曖昧で、自分そもそも何をしたいのかわからず、その場の判断だけで物語全体が動いており、映画なんかでは必須の究極の目的・ゴールも曖昧だ。「夜想曲集」所収の旅する芸術家あるある話がベースになった作品と同じにおいがする(この短篇集は切り口の優れた良き英国短編集といった趣だ)。

すべての事件が宙ぶらりんのままにされて進み、星新一ショートショートでその場限りの対応しかしない軽薄な男を主役としたこんな作品があった覚えがあったことを思い出したが、読んだときにはどうしてもタイトルが思い出せなかった。それは結局「未来そっぷ」に収録された「熱中」であるとわかるんだが、一番満たされていないのはきっと読者だ。

カズオ・イシグロテーマひとつコミュニケーション不全が前面に出ているだけでなく、筒井康隆虚人たち」を思わせるような、自分が何者であるかわかっていないのにさほど気にしていない空疎さがあり、何かを風刺しただけではないのだろうが、それはまだ読み取れず。

奇妙だ。自分他人記憶の壁が溶けて無くなってしまったみたいな語りであり、語り手は身内だと感じるとちょっとしたことですぐに激昂したりすすり泣いたりして、いったいどういう人物なのかとらえどころがない。すべてが宙づりで半端なまま物語が終わる。語り手はどの街を訪れても、延々と同じことを繰り返すのだろうか。

わたしたちが孤児だったころ」(2000)

両親に置いていかれたのはなぜか、そして母はどこに行ったのか。著者の中では一番残酷な話かもしれない。物理的な暴力よりもその結末が。地獄の寝取らせ小説であり、真理に近づこうとして全員が不幸になる。それでも、なお、愛そうと試みたし、愛されてはいたのだ。

息子が親父と同じ道ならぬ愛という過ちを犯しかけるのは残酷ユーモアがあふれているようでいて、ある種の試練であったのだろう。試練に打ち勝ったからと言って直接幸福になるわけではないのが皮肉でいい。

追記】目の前に日本軍軍艦が停泊してるのにのんきにパーティーしている租界の人々って嫌なリアリティがあった。

忘れられた巨人」(2015)

忘却テーマだが、P・K・ディックのようにアイデンティティ曖昧になっていく離人感よりも倫理的な面を問うているようだ。つまり戦争責任とか政治的意図的隠蔽とか。

国家組織的に目を背ける行為と、個人がつらい過去を忘れることによって救われることの両方が描かれている。ファンタジーもある程度は書けるのがすごい一方で、見たくないものを見ようとしない描写や、自分のことばかりで会話が成り立たない場面は健在。

ファンタジーにしては「危険度」とか「スタミナ」の訳文がちょっといかなとも思ったけれども(別に嫌だと感じるレベルではない)、これは現代日本語としては普通に受け入れられてるのかな。

あと、サクソン人の穴を掘った(ホビットみたいな)家の描写があるんだけれど、これって実際にそうだったのかな? サクソン人の家とググっても出てこなかった。

ちなみにル・グインはこの作品を好まないらしく、ウィキペディアには両者の対話引用されている。

のしようとしたことには敬意を払いますが、私には効き目がありませんでした。うまくいくはずがありません。どの作家文学ジャンルの表層だけをうまく使えません。その深みはなおさらです。そのジャンルと同一化することを恐れるほど軽蔑している限りは。読んでいて痛ましく感じられました。まるで、高いロープから落下しながら聴衆にこんな風に叫んでいるみたいでした。「私は綱渡り芸人と呼んでもらえるのかな?」と。

ル・グインには私の本が好きか嫌いかを決める資格がありますが、私に関する限りは誤ったほうの肩を持っているようです。私は(註:作中では不可解で不気味な存在として現れた)妖精や竜の側に立っています

シグロ氏のご意見をうかがえてうれしく思います。同氏の「私の作品ファンタジーだと人々は思うでしょうか?」という質問に対する、私の明らかな早急な返答に傷つけるような内容があったことをお詫びします。

クララとお日さま」(2021)

人工知能太陽光病気回復させる効果があると思い込むことで起きる珍妙な話だ。

どう考えても不合理で奇妙な信念に従い、偶然によって祈りが叶えられる話で、しか最後はただゴミ捨て場で朽ちていく。これは無神論者による宗教パロディではないか? と勘ぐってしまう。無神論者からすれば、いかなるかたちであれ神を信じる人々は、誤った信念にすがり、存在しない相手効果のない祈りをささげる哀れな人々だ。

カズオ・イシグロSFは、SF主食人間からすると、不合理か古い知識に基づくように感じられる設定が多く感動すべきシーンもそこが気になってしまう。

たとえば、明らかに危険能力向上処置子どもにするような社会は、現代から相当な価値観の変遷があったはずだし、かなりの時間を経ていないと起こりえないだろうが、長い時間経過に伴うテクノロジーの発達については述べられていない。スマホさえ出てこない。

カズオ・イシグロSF設定がときどきザルなのはリアリティレベル小説よりSF風の映画テレビドラマくらいにまで下げていて(下手をすれば寓話絵本レベルまで)、それは脚本家でもあったからなんじゃないかって考えたんだけど、そこまでたくさん脚本を書いていたかまではわからなかった。

かに技術的細部に立ち入らないので古くなりにくい一方で、そこが物足りなく感じられる。新しい技術だけをポンと現代に放り込んだ感じで、今と地続きな感じがして生活感があるのはいいけれど、技術によって完全に変容してしまった人類の心性がもっと欲しいと感じる。未来を描く意味はそこにあるんじゃないだろうか。

だいたい、フレーム問題解決というか一般常識インストールされてないスタンドアローン親友ロボットなんて危険すぎるだろう。誰もアップデートされないスマホなんて使っていない。SFはどこまでリアリティのある技術を出すべきかという問題もないではないが、短編ならともかく長編でこのネタをこれをやるのは、平均的理系知識を持つ読者にとってはかなりしんどい

結論

以上。読んだ順。

私が好きなのはカズオ・イシグロではなく「日の名残り」だった。

追記

わたしを離さないで」だけ既読、似た感想。この小説SFというより寓話に近いと思う(増田も書いてた)。ドナー人権周りの描写も臓器を貰う側の葛藤も削ぎ落とし、搾取される者の命の輝きのみに焦点を絞ってる感じ

こちらのブコメがとても素敵だったので引用させていただきました。不都合がありましたらお知らせください。

2022-12-27

anond:20221227152936

いない。

居たとしたらそもそも最初から概念定義?に当てはまる人ではない。種類が違う。

 

スピリチュアルってのはさ、宗教なんだよね。

迷信である」の言い換えとして宗教とか呼んでるんじゃなくて、

信仰に基づく、という点で宗教

脳と社会人格個人史の結び方が、宗教なんだ。 

 

そういう前提で、例えばなんだけど、

「昔から経験キリスト教徒だったけど、今は無神論者の人いる?」とかさ。

居るとしたら、最初からなんか疑念は持ってた人とかだよね。

「親がキリスト教徒なんだけど、イスラム教改宗させたい。でも話が通じない」とかさ。

当たり前だよね。ヒトは言葉信仰を捨てることはありません。なんなら拷問受けても死ぬまでそのままです。

 

お前はただただ、家族他人詐欺商法しかけたり、逆に自分が高額すぎる無駄遣いしたりしないように、それだけを注意するしかない。

信仰をなんとかしようとはするな。無駄から

2022-12-11

神とかキリストの復活を信じずにキリスト教徒でいることはできるんだろうか?

神の存在とかイエスの復活とかは「んなわけねーだろ」になってしまうんだけど、でもキリスト教の「教え」については共感することが多くて、人生を生きるために心の中に常に置いておきたいんだよね。

まり無神論者だけど右頬を打たれたら左頬も差し出しちゃおっかな〜みたいな感じなんだけど、そういう信仰ってアリなのかね

2022-11-30

anond:20221130195521

親の宗教を受け継ぐことに疑問は感じなかった?おれの家は浄土真宗仏壇があったけど、子どものころに仏壇の前に座らされて反省を促されたりしてたから、アホらしいと思って仏壇を継ぐ気すらない無神論者になった。

わりと幸せ日常生活を送っている創価学会2世だけど、質問ある?

最近、某襲撃事件の影響か、宗教話題ホットエントリー入りすることが多く、概してネガティブな内容を目にする。

そうした記事ひとつについたブックマークコメントに、「宗教ネガティブでない側面を知りたい」というものがあった。

日本人の多くは実質的無宗教であるし、宗教のことで話題になるのはネガティブかつショッキング事件ばかりだ。

宗教をしながら普通に生活している人とはどのようなものだろうか、気になる人がいるのも当然だと思う。

そこで、タイトルの通り、創価学会学会員2世である私が、みなさんからブックマークコメント質問を頂いて、追記する形でいろいろお答えしたいと思う。

何か書いてみようかと思ったけれど、あまり普通に生活していて事件らしい事件もないので、質問募集する形にしたい。何か聞きたいことがあればお気軽にコメントしてください。できるだけお答えします。

なお、2世とは書いたが、厳密にいえば3世4世くらいにはなる。ここでは、生まれときから学会に属しているという意味2世と称します。


以下追記

特に疑問を感じたことは無いな。生まれときからそういう環境から「受け継ぐ」っていう感覚そもそも無かった。気づいたら学会員という属性を持っていたって感じ。それに対して、別に良い気持ちも嫌な気持ちもなかったから疑問はなかった。そういう家に生まれたんだなってだけ。後々ネットで叩かれていることを知ってちょっとショックを受けたりはして、そのせいで思春期創価学会に対してマイナスイメージを持っていたりしたけど、今は特にプラスマイナスも感じてない。俺の家も同じように仏壇があって、子供の頃から座って勤行するように教育されてきたけど、そんなに嫌な気持ちはなかった。ちょっと面倒くさいな~って程度。歯磨きするのめんどうだなーってのと同じ感覚かな。反省を促されたりしてたら嫌になってたかもしれない。自分自身は両親ほど熱心な学会員ではなくて、死後の世界を信じていないから、境遇は近いかもね。


あんまり歴史得意じゃないか一向一揆時代に何があったのかわからないんだけど、「他者攻撃することが是とされる暴力装置として生まれ」たっていうのは私のことを指してる?創価学会暴力装置ってこと?あんまり賢くないのでもうちょっと嚙み砕いて教えてほしいかも。他者攻撃しているつもりはないのだけれども、仮に自分暴力装置なのだとしたら、そのことには自覚的でいたいね


→それマジ?でも、誰かの知りたいって気持ちにこうして応えられる人生で良かったと思ってるよ。そんなに嫌な目に合ってるわけでもないしね。


選挙前に公明党投票よろしくってお願いするやつは実際にやってるね、親がお近所さんを回ってたわ。やめてくれって言われたら素直に引いてるみたいだけど。法的に大丈夫なんか見てて不安になりますわ。ちなみに俺はやったことないし、実を言うと公明党以外の党に投票したりしている。

勧誘っていうのは、創価学会入りなよってやつだよね。やってる人はやってるみたい。でも、そんなにたくさんの人がやってるわけではない気がする。よく聞くのは、人生に悪いことがあって落ち込んでいる人を折伏学会員に誘うことを折伏と言いますしましたーみたいな話。うまくいったら学会員の集まる大会とかで、感動エピソードとしてスピーチしてたりする。「悪いことがあった→折伏→うまくいくようになりました→宗教最高」みたいなパターンよく聞く。で、折伏は、学会活動の中でも大事な行いだとされているから、熱心な人はがっつり取り組むと思うけど、別にノルマがあるわけではない。俺はひとりも誘ったことない。そういう人が多数派だと思う。けれども熱心な人は熱烈勧誘してるかも。それも、単純な善意でやってると思う。よく効くサプリを人に勧めるみたいな感じかな。悩める他人を救うことが世界平和につながるって考えがあるから、本当に悪意なく救おうとして熱烈勧誘しちゃってると思う。それで、何十人折伏しましたーってスピーチしたりすると褒められるのよ。だから熱烈勧誘ちゃう人ができる。でも、勧誘される側からしたら、かなり嫌な気分になることもあるだろうなと想像つくね。熱烈具合は人によるけど、ダメ勧誘する人もいるんだろうなと思うよ。


マジでそんなとこあんの?ヤバない?違う看板ってアレか、例えばサッカーサークルみたいに銘打ってるのに、実際は部員たちが部室で勤行してるみたいな感じってこと?そうだとしたらちょっとびっくりですわ。そこが創価大学だったら入学者の殆ど学会員だろうからまだわかるけど、普通大学でそれやってるんだったらドン引きです。いままで全然そんな話を聞いたことがなかったので、内部的な評価はわからない。けれども、一学会員としては、それは良くないと思う。そういうことすると、ただでさえネガティブ感情を持たれているのに、余計にマイナスイメージ付くし、おっしゃる通り自分たちで首を絞めている感じする。別の看板掲げてるんだったら、それに沿った活動をしなさいよって思うね。


  • 自覚しながらのらりくらりで草」

→?どういう意味


葬式形式と居心地が若干違うかな。学会員友人葬では、坊さん的な人を呼ぶんじゃなくて、集まった皆で題目を唱えて供養をするんだよね。友人が代表になって唱えて、それに皆で唱和する感じ。題目自体普段から唱えているから馴染みのある文言だし、坊さん的な立ち位置の人が部外者じゃない友人だから終始アットホームな感じがある。もちろん葬儀から厳かさもあるけどね。坊さん的な人を呼ぶ場合って結構当たり外れがあるじゃない。なんか説教下手だなーとか素人ながら感じる時もあるし、お金もかかる。そういう問題は無いか個人的には友人葬の方が好きかな。ただ、学会員じゃない人が友人葬に出席する場合、周りの出席者が急にお経みたいなのを唱えだすからちょっと驚くことになるかもね。でも、出席者みんなが葬式に参加している実感が得られて不謹慎かもしれないけど面白いと思うよ。

あと、これは非科学的でかなり主観的な話になってしまうから話半分で聞いてほしいんだけれども、信心している人は死に顔が違うってよく言われるんだよね。生前学会員だった人は死に顔が穏やかだって言われるの。そんなもん眉唾だろうって思ってたんだけど、実際に今まで出席してきた葬儀を振り返ると、学会員の故人の顔色が穏やかなのは本当に思える。というか、学会員じゃない人の葬式に出るたびに、棺桶から覗く顔色の悪さに驚くんだよね。単純に経験してきた葬式の数が少ないからそう思うのかもしれないし、化粧の問題も大きいのかもしれないけど、死に顔を穏やかにしたい人は入会するのもありかもねって思う。


  • 「結局、悪い部分は他人事なんだな」

→良い部分もたいがい他人事だよ。自分あんまり積極的活動してないからね。同じ属性を有しているからといって、他人の行動の責任を負うことはできないでしょ。


自分あんまり熱心な学会員じゃないから、毎日は唱えてないのよね。悩み事があったり、神頼みしたくなったりしたときに、思い出したように勤行してるわ。なんとなく頭をすっきりさせたいときかに唱えると、気持ちが落ち着く感じがある。自分は、最近流行マインドフルネス一種みたいな感じで題目を捉えてて、そんなに無駄時間とは思わないよ。どうせ気持ちが落ち込んでるときなんて、意味もなくYouTubeでだらだら動画見たりしているだけだし、それに代わる行動としてはやる分には無駄の程度は変わらないんじゃないかな。両親はほぼ毎日題目を唱えているけど、瞑想毎日やる習慣にしてる人もいるだろうし、それと同じ感じだろうと思えて疑問を感じることもないかな。しかも、唱えたら(ざっくり言うと)幸せになれると言われているからお得感あるよね。


自分年収は300万程度。まだまだ新米社会人から薄給ですわ。寄付額は0円。全く寄付していない。学会から家族から寄付のお願いはされてないね。されたとしても多分断るかな。薄給なので自分ひとり生きるのに必死なんだよね。将来大金持ちになったら少額寄付したりする可能性あるかもしれんけど、いまのところは余剰金が無いし、あったとしても投資信託とか買うかなー。親の年収推定だけど1000万無いくらいだと思う。寄付は毎年しているみたいだけど、どのくらいの額かは知らないんだよね。でも、世間問題になるようなウン千万円の寄付とかでは絶対にない。多分多くても10万円以内じゃないかと思う、少額と言ってるのは聞いたし。寄付によって家庭が壊れたりとかは無いです。自分大卒なんだけど、奨学金を借りずに親のお金卒業させてもらえたし、金がないか必要ものを買えなかったとかも無い。自分の住んでいる地域では、高額な寄付によって苦しんでいる人は見たことないかな。ニュースでそういう人たちがいるみたいなこと聞いて、マジでいるんだーって初めて知る感じだ。親が身の丈を超える高額な寄付して苦しんでいる子どもとかって大変やな、可哀想だなと思う。何とか救済されるといいっすね。

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