はてなキーワード: 女と男とは
事実関係や科学的根拠を度外視していい人のおすすめを購入したりする。それがゴミでも。
コミュニケーションツールとなりえる機能を重視して道具を好む。意味もなく過度な装飾を施した物を積極的に選択する。
コミュニケーションとは情報発信の積極性だけではない。独自性をもつことで自己のアイコンを確立させることでレスポンスを高めるのもその一つだ。
それを踏まえて不細工の話。
社会機能として救済措置による権利と機会の平等性を図るものがある。福祉などがそれ。
足がないのに就職して家庭が持て保険にも入り娯楽を楽しめる人がいるのはその機能のため。
五体満足なのに路上で寝泊まりし風呂は月に一回食事はカップラーメンな人もいる。
いわゆる健常と比較して健常に足らぬとされている人が平等である一例。
一人ひとりが税金を納め、それを調節管理しそれぞれの権利を保護することで機会の再分配の結果平等となる。
もちろんその逆で機会を奪ったり権利を侵害すると社会的に除外対象となる。
不細工の話にもどすと、美人の獲得したいものを権利を侵害したり機会をうばったりしないかぎり不細工でも美人とおなじように生きていくことはできる。
美人が獲得したい異性を不細工が横領したり強奪したりしようとした場合「この不細工の分際で!」と実際に不細工かどうかは別として排除しようとされる。
売れ行きのよい外見的または社会的に評価の高い異性は早く売れてまた競り落とされる価格も高い。
それが小さい人間にもいずれは異性を獲得できるという権利は平等にあり、機会は平等にある。
もしかこれが一夫多妻制または一妻多夫制ならば機会を奪われるということになるだろう。
貧乏でも苦労せず楽しみがある生活を選択できるように、毎日化粧前には人目から逃げて隠れて完全フルメイクでドレス姿でなくてはならない日常を過ごす必要のない生活も選択できる。
またいくら美人であっても人の権利と機会を侵害してくるような人間は「不細工」と罵られ、社会的な関係とはコミュニケーションそのものなので女の間での「かわいい」は必ずしも外見の評価のみではない可能性もある。
以上のことから、女の「かわいい」は社会的実質的価値の見いだせるものが多いと思われるが、女の言う不細工は社会的な機能構造を無視、というかその社会性の価値を推し量らないものという「利己的な女の思考方法」があるのだろう。
「かわいい」は牽制と恩恵の充足を認めさせるための発言となって、「不細工」が不足と喪失を示す利用方法という、社会機能性と逆の表現方法になっている。
女の無意味なかわいい装飾などが一体社会の何に貢献しているのかといわれそうだが、同じ商品でもかわいい装飾をつけるだけで競争力がつけられる市場というのは社会的に高機能だ。
また物質消費の多いのもかわいい、きれいのための商品が圧倒的に力を持つ。それがわからないという人にはそういう話は基本的にむいてないし説明の余地もない。
つまりは、男目線からみて不細工だわかなしいと言ってひがんでいる人間をみると、不細工でも生きていられるこの世界がどれほど寛容か思い知れよこのブス、と思うわけなのである。
そのブスというのは、いかに自分がブスであるかという自己評価から権利を捨て機会を放棄していることを垂れ流す姿はもうすでに有害であり、その害を駆除するために社会がどれほど寛容にあるかを知れと言いたくなるのだ。
ブスが攻撃されていると思っているのはそういうことだろうし、ブスといわれるのはそういうことだろう。
ちなみに、ここでの女と男は身体的な構造での性別ではなく主に性格的、対象となる一対の相反する状態に性別という表現を使用したもので身体的または精神的に男性または女性である方を総じてその総数を断定するものではありません。
「親」と「社会」とか「罪」と「迷惑」とかやたらでてくるけど、
あなた個人の、自分の親への「生かしてくれてありがとう」という感謝と「障害を持って生まれて申し訳ない」という罪悪感と「なぜ自分を生かしたのか」というある種の憎しみや恨みを、「障害者」が「社会に迷惑」という大きな主語でごまかして、ごちゃ混ぜにしてるだけなんじゃないの?
そうでなければ、
「生まれてくるべきかどうか」をもし決めれるならば、死んだ後にしか評価はできなくない?
健常者だけど、テロとかを起こしてめちゃくちゃ社会に損害を与えた人も、
障害者だけど、めちゃくちゃ社会に益を与えてる例えば乙武みたいな人とかもいるわけじゃん。
何もできなかったと思ったけど、死ぬ直前にすごい発明をして社会がよくなる可能性とかゼロではないわけじゃん。
障害者だからこそ生まれる発想とかってゼロなのかな?それがあるかどうか分からないけど、ないことは証明できないよね?
もうほんとになにもできないまま死んだけど、脳死だったから他の重い病気の人に健康な臓器を分けることができたなら、それけっこうよくない?
というか生物学的には先天性の障害者は多様性において、つまり人類という社会の存続においてとても重要な存在と聞いたことがあるけどね。
今日本で食べられてる稲とかは、美味しさとかを追求してそのかわり、一つの病気が流行るとほぼ全滅するらしいね。
そもそももし罪があるとすればあなたを生んだ親に罪がいくはずじゃない?
べつにあなたが卵子と精子のときに「神様お願いします障害者に生まれて社会に迷惑をかけたいんです」と願ったわけじゃないよね?
例えば、科学者が殺人ロボットをつくって何百人か殺したとして、罪を受けるのは科学者のほうであってロボットはむしろ被害者じゃね?
まあこれは冗談で、罪になるには「そうしない選択肢があってそれを選択可能だったにもかかわらず罪であるほうを選んだ」ときに罪になるんで、ほら例えば正当防衛とか無罪になったりするじゃん?
なら最初から選択肢のなかったあなたの親も、あなたも、罪ではないだろ?
障害者がゼロで、社会通念上受け入れがたい意識を持った人間がゼロの社会って、いわゆるディストピアだと思うんだけど。
コストパフォーマンスや「よりよいもの」をあまりに希求すると、
「優生学」という人類史の汚点の二の舞を踏むことになるから、あまりおすすめできないね。
障害者がコストがかかるから生まれるべきでないなら、食事のコストがよりかかる肥満体質の遺伝子を持った人間もまた生まれるべきでない?
白人と黒人と黄色人とどれが一番コスパがいいんだ?女と男なら?身長は高い方がいい?低い方がいい?血液型は?目の色は?
「道徳の話」だというなら「○○だから生まれるべきでない」という主張こそ、まさに非道徳的でないかい?
そうすると視力の悪い人間は視力障害者という扱いになるわけよ。
でも今の社会は違うよね?メガネがあるから障害者とは扱われてない。
今パワードスーツとか開発されてるけど、あれがもっと進化すれば、腕や足が一本なくなったくらいでは障害者と呼ばれなくなるかもね。
いや、そもそも健常者でさえも、生まれてくるべきかどうかと言われると答えることはできないのでない?
どうせ誰がめちゃくちゃすごい発明しようが、テロで何百人か殺そうが、人類滅亡したら全部ゼロなわけよ。
何億年後かにはあなたの持ってる障害も、アインシュタインの相対性理論も全部等しく無価値なわけよ。
例えば日本の平安時代は女の人はおかめ顏が美人だったらしいよね。
現代でも、場所が違えば南米だと太ってれば太ってるほどモテるんだっけ?
殺人が好きな人も、戦時中に兵士として生まれれば英雄扱いかもね?
場所といえば、アフリカとかの一部民族では、障害者は神の使いとして崇拝の対象になるらしいね。
もしあなたがそこで生まれてきてたなら、むしろ健常者が生まれてきてなくてよかったねになったかもね。
なので「必要かどうか」という価値の問題はその社会の時代や場所にめちゃくちゃ影響を受けるし、つまり「障害者は生れてくるべきでない」と結論づけることなんてそもそも不可能なんじゃね?
メガネの下りでも書いたように、「障害者」というくくりがまず決まってないんだから。
「マーサズ・ヴィンヤード島」という島があって、その隔離された島では昔、他の社会より耳の聞こえないろう者が多かったんだって。
そのころのその島では、ろう者は障害者という扱いではなかったらしい。
耳の聞こえる人も聞こえない人も全員手話を使って話してた。聞こえる人同士だともちろん英語は使うけどね。
つまりそのころのこの島では生まれつき耳が聞こえないというのは、個性程度のものだったらしい。
それによって特に不利益を被ることはなかったし、障害者というレッテルを貼られることも、自分を障害者だと思うこともなかった。
つまりだよ。障害者を障害者にしているのは、あなたのその障害ではなく、その障害を障害だと決める社会のほうなんだよ。
だから、あなたが障害者になっているのは、不完全な社会のせいなんだ。
ああ、女と男って本当に考え方違うんだなぁ。と思った話。
ちょっと嘘も交えて話すけど、暇だったら聞いてくれ。
なるべく客観的に書いたつもりだが、私は男なので話に偏りがあるかもしれん。
AくんがBちゃんに恋をした。
全然疎遠だった二人がAくんの努力によってどんどん親密になっていく様は見ていて周りはニヤニヤが止まらなかった。
私からみれば、Aくんは良くやっていたし、Bちゃんも満更では成さそうだった。
そうして二人は何回かデートをするまでになった。
が、
結果Aくんは振られてしまった。
まぁ、よくある「仲良くしてたけどそんなつもりじゃなかった」的なことを言われたらしい。
Aくんに何か致命的な欠点があったのかもしれないし、Bちゃんが遊んでただけなのかもしれない。
そこは二人の考えがあっての事だから、付き合えないというなら仕方のない事だ。
ほんと、よくある話だ。周りとしてもお似合いカップルだったので残念だった。
ただ、AくんはBちゃんに恋愛感情を持っていた事を知り、影ながら想っていたらしい。
当たり前だが、Aくんは振られた後ずいぶん凹んだ。
そのときにCちゃんはその隙を狙った訳だ。
Aくんは「まだ未練が残ってるし、気持ちも切り替えれない」と断りをいれたみたいだが、
Cちゃんは「辛かったらいつでも別れてくれればいい。試しでいいよ。それでも好きだから」
という事で、Aくんは振られて一ヶ月もしないうちに新しい女性と付き合う事になった。
激怒したのはBちゃんである。LINEやskypeを使ってずいぶんと連絡を入れたらしい。
「どういうこと?こんな仕打ちってないよね?」というようなことを言っていたようだ。
結果、AくんとBちゃんが喧嘩別れのように、連絡も取り合わないようになってしまった。
男の人に聞けば
『いや、振っておいてキレるとかどういうことよ?
Bちゃんが振っておいて、仕打ちも糞もねえだろよ。
Aくんは本当に付き合わなくてよかった。Cとお幸せに。』
女の人に聞けば
『Aはひどい。そうやって簡単に気持ちコロコロ変えるなんて…。
そんな気持ちが変わるなら、Bに言った「好き」とかいうの嘘にちがいない。
Bは裏切られて本当にかわいそう。でもBは付き合わなくてよかった。頑張ってね」
という風に意見がはっきり分かれる。
本当にそれ以上でも以下でもない、それだけの話。
ただ、この話を聞いてどう思ったのかを聞きたいだけなんだ。
P.S.
Aくんは未だに振られたクセに傷つけてしまったことを後悔しているみたいだった。
それでも、今はAとCはそれなりにうまくやってる。
むしろ、Cちゃんはなんとか好きになってもらおうと頑張りすぎている気がするのでそちらの方が心配。
Bちゃんは私も疎遠になってしまったのだが、元気にやっているみたいだ。
長々と読んでいたいてありがとう。
爆笑問題のニッポンの教養 動画 「女と男“仁義なき戦い” 上野千鶴子(女性学)」
http://veohdownload.blog37.fc2.com/blog-entry-10689.html
番組開始して10分すぎても、上野さんがおもしろいことを言わない。
爆笑問題の2人は番組のホスト役だから聞き役となって、ゲストの上野に好きにしゃべらせている。テレビ番組としてだんだん困ってきたという感じになってきた。主役の上野は自分のテーマの提示として冒頭は好きに話していて、爆笑問題の太田も田中も相づちを打つような感じであるにも関わらず、とくにおもしろいことを言わない。男はもろいよねえ、とか、男どうしの張り合いはムダだよねえ、とか、その程度の話に終始していた。
これが日本のフェミニストの大家なのか、という脱力感だった。というのは、自分は今まで本らしい本を読んだことがなく、ここ3~4年で社会評論の本を読むようになって、誰がスター選手なのかをだんだん把握しはじめているところだった。上野の本も何冊か読み、重要ポジションにあることを知るようになった。上野は、紅白に出る北島三郎や和田アキ子みたいなランクにある。それを知ってから、上野に絡むネット情報で、この番組の存在を知った。実際に放送されてから数年経って見たことになる。
10分過ぎたところで上野は、秋葉原事件の例をあげ、ネットのコミュニケーションを否定してみせた。秋葉原事件の犯人は、自分には恋人がいない、恋人がほしいということをネットの掲示板で訴えてた。それはダメであると上野は言った。
ここに太田はやっとというか、反論する場面を得たような感じで、ネットの会話が何が悪いのかと言う。
ネットの書き込みがダメだと言うのは、明らかに時代錯誤である。ここが上野のつまづきだった。単に古い人間だったことが露呈してしまったのだ。ブログもいいし掲示板もいいけど、LINEはダメだというような、新しいものを怖がる素朴な大人のひとりに大幅にランクダウンしてしまった感じになった。
自分は、『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』という本を読んだことがある。http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%99%BA%E5%A4%A7%E3%81%AE%E8%BB%8C%E8%B7%A1-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%B2%B3%E5%BF%97/dp/4022617667
加藤智大は、実生活での友人もおり、女友達もいた。また、男女関係ではないが、女友達の家に泊まったこともある。風俗にも行っていた。ゲームやネットもやる。非モテではあるが、引きこもりではないし、それほど不利な立場にいたわけではない。異常な母子関係が問題の核で、ネットの問題は二次的なものだと映った。
爆笑問題のふたりは、どちらもかなりの元非モテで、それが上野のとって相性が悪かったようにも思える。
上野は、男のここがダメだ、あそこがダメだ、ネットはダメだ、男は変わるべきだ、男は生身の女と会話しろ(直接の声掛けとか電話とかになるのか)というばかりだった。論理を言わない。論理を聞きたいのに。
ここに、田中がついに反論してしまった。太田が吠える役なのに。男に変われと要求しているが、ジャニーズ事務所にキャーキャー言う女の子を見ても、女の子のほうだって何十年も何も変わっていない。フォーリーブスからたのきんトリオから光GENJIのように。田中は、自分の背が低いことをコンプレックスに思って育ってきて、モテる男性に女性が寄っていくという場面をみただけで傷つくという主張をした。これに対して、上野は説得力のある話を展開できなかった。
上野は、自分は弱いとカミングアウトしている男性には、歯がたたないということだったのか。強がっている男を叩くことには長けていても。
爆笑問題のテレビ番組に出るということは、視聴者層がだいぶ違う。文化人にとって、実質的なテレビデビューに近いと思う。文化人しか出ないの討論のテレビ番組は視聴率が低く、何十年もテレビに出ていても認知度が大したことがないと思う。ここでコケたのは、ダメージは大きかったのではないか。
番組のロケ場所は、秋葉原のメイド喫茶だった。そこに上野は、AKBみたいなミニスカートの衣装を来て登場した。メイド喫茶で喜ぶ男はダメだということも言った。自分が嫌いなものをただ並べているだけで、これではマズイ。秋葉原のメイド喫茶で、秋葉原事件の話を持ちだしたのだから、ロケ場所の指定に上野も関わっていたと思われる。自分の読者以外の視聴者を意識して、媚びてしまったのではないか。
『ためらいの倫理学』(2001年)http://www.amazon.co.jp/%E3%81%9F%E3%82%81%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%AE%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6%E2%80%95%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%83%BB%E6%80%A7%E3%83%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%86%85%E7%94%B0-%E6%A8%B9/dp/4043707010 という本で、上野は10年以上前から強烈に批判されていることを知った。
上野は、『マルクス主義フェミニズム』という流派であるらしい。他にも流派はあるらしく、アメリカの前衛派は、黒人差別と男女差別を同列に扱い、その派生として、トイレも男女いっしょになるのかという極論もあったらしい。黒人は、レストランもバスもトイレも、席が別だったという理由で。日本にも、脱・上野路線みたいなものがあるらしく、フェミニストどうしでも批判しあっているそうだ。
と言っても別に「夫の地位=アテクシの地位ザマス、結婚しただけでアテクシの地位大幅上昇したザマス」とか考えてる訳じゃない。
夫がいかに高収入だろうが社会的地位が高かろうが、私はただの低学歴の無職でしかないってのは百も承知だ。
じゃあ何が楽かと言うと、夫に嫉妬しなくて良いんだ。
夫の都合で人生左右され、あちこち引っ越しし回ったり仕事も辞めさせられたり孤立育児したり等々あろうと、
「だって性別とは全く関係なく、私の方が無能なんだから仕方ないじゃん」と心の底から思える。
何せ夫の大学の偏差値は私より10は軽く超えている。収入は私の独身時代の3倍以上だ。
これで夫が同じ大学の同級生だとか、同じ仕事をしていた同僚だとかだったら
人生で女ゆえの不利益を得る度に、絶対に「何故本来の能力は同じor自分の方が高いのに、男ってだけで常に夫が優先なんだ、良い目をみれるんだ」と思ってしまうと思う。
実際「夫に猛烈に嫉妬してしまう」と言う人をネットのどこかで見たけど、その気持ちはよく分かる。
私も昔は同級生や同僚の男に対してそう思っていた。
男であるというだけで楽々良い所に就職し、仕事でも自分より評価されチャンスも与えられ、給料も無条件に上がる男に対して理不尽な思いを抱えていた。
当時は割り切ったつもりで気にしていなかったけど、今考えれば全然割り切れていなかった。
(と言うと「てめえの能力を買いかぶり過ぎ、実際は男の方が能力高かったんだよwww」とか言われるんだろうけど、
自分だけではなく周りの他の女と男を客観的に比べても、明らかに男の方が能力が低かろうと評価されていた)
これで自分と同レベルの男と結婚してたら、職場では同僚男に嫉妬して、家に帰ったら夫に嫉妬する人生になる訳で。
しかも歳を取るほど男と女の差は広がるわけで。子供でも産んだら絶望的な差になる訳で。定年まで嫉妬し続ける職業人生。
或いは途中で仕事辞めさせられて、死ぬまで納得出来ず「こんな男の為に私は犠牲になったのだ」と恨み言を言う人生。嫌すぎる。
かと言って結婚しなければしないで同僚男に嫉妬し続ける人生な訳で、やっぱり不毛だ。
でも夫に対してはそんなの関係ない。私が男だろうと、比較対象ですらない事に変わりはない。
どちらかが仕事を辞めなければならないのなら、私が辞めるのが当たり前だ。給料3倍だもの。
女だから出来ないんじゃなくて、夫の同僚にも女性は何人もいる。私は彼女達の足元にも及ばないもの。無理無理。
それは単に私が夫より遥かに無能だからであって、女だからじゃない。
と言うとまた「三食昼寝付き」とか言うんだろうけど、そんなんじゃない。と言うか昼寝してる暇ねえよ。三食は自分で作らなきゃ食えねえよ。
女である事がデフォな世界、女だらけの世界、女だからと言って差別されるという事が無い世界、むしろ男の方がマイノリティな世界だから、楽なんだ。
(そもそも専業主婦そのものがある意味それ以外から差別されてる世界だろう、ってのは見ない事にして)
こんな事は他の女はもっと若いうちから考えてる事なんだろうなあ。
よく独身女が挙げる理想の結婚相手として「尊敬出来る男」ってのがあるよね。
「専業主婦になりたい」ってのも増えてるとか。
あれはこういう事なんだろうなあと、若くもなくなってからようやく気付けた。
フェミをかじった時期もあるので、政治的に正しくないのでは的な罪悪感を感じた事もあったけども、
もういい。私は開き直って実利を取る。
もう疲れた。
近づくにつれ、俺の方に寄ってきた。
そして、すれ違う瞬間、女は、やおら左腕を水平に上げた。
手の先は、俺の胸に当たった。
女も、手が俺に当たって、初めて俺の存在に気がついたのか、「すいません」と言って、俺の左側を抜けていった。
振り返ると、女の歩いていった先には連れと思われる男がいた。
状況から察するに、
女と男は、どこかの店かなんかを探して歩いていた。
男先行、女は少し後ろを歩いていた。
女は周りを見ながら歩いていた。前方不注意。
目的の店かなんかを見つけたので指さして、男に教えようとした。
その腕が、俺の胸に当たった。
こんなとこらしい。
手は軽く当たった程度なので、怪我もしていない。
でも、もし、立場が逆だったら、、、、。
歩行者天国のど真ん中で、水平に上げた俺の手が、女の胸に当たったら、、、。
厄介なトラブルに発展するだろう。
「○○な女」っていうニュアンスの言葉を使う場合は、普通に「○○な女」って言う罠。
その場合は女はただの話題にしている個人の属性に過ぎず、○○も個人を指しているわけだよ。
ところが「女特有の性質!!」と言いだしちゃった時点で、そもそも「女全体が何らかの一塊の存在として特性を持ちうる存在である」と言い切っちゃっている。
この時点で個人の話じゃなくて、全体の話しちゃってるんだって。
本当に個人の話をしていたなら、それこそ「○○な女」って言うはずなんだよ。
でも元増田はそう言わなかったんだ。元増田的な世界ですでに女と男が主語になっていて、一塊の何かとして敵視する対象になっていたんだって。
2020年の東京オリンピックの時も、女性専用車両っていう日本最大の恥ともいえる女性軽視、男女差別を、そのままやるのだろうか。
国際的に見て日本を訪れる外国人に「女性専用車両の目的は?」と聞かれたら何て答えるのだろう。
【理由候補1】女性が痴漢にあわないため?それは、日本は痴漢という性犯罪に対して厳格に対処しない国だということに等しい。世界は、日本では性犯罪はあたりまえという印象を受けるだろう。
だってもし、何処かの国で女性専用車両があって、理由が「女と男を離さないとレイプされるから」だったら、ヤバイ国だと思うだろう。
【理由候補2】男性が痴漢冤罪を受けないため?それは、日本が司法が未熟な国だと思われるだろう。
「やってなくても痴漢で訴えられたら勝てないんですよ(笑)例え冤罪を証明できても、その時には社会的に死刑状態ですよ」なんて外国人に説明するのだろうか。
【理由候補3】女性が男性と一緒なのを嫌うため?公共の場でのそれは、明かな男性差別だろう。
【理由候補4】女性を守るため?それは、何から守るのか。日本は守られないと女性が電車にも乗れない国なのだろうか。
で、もし外国人男性が誤って女性専用車両に乗ってしまったら?それスルーして、でも日本人男性は嫌ならば、日本人差別だろう。レイシスト+男女差別で役満か。
http://anond.hatelabo.jp/20140604224538ある漫画家志望の半生
http://anond.hatelabo.jp/20140605083137兼業作家からのアドバイスです
この辺が賑わってるみたいなので便乗して。
友人の友人(Aとする)が漫画家志望。
自分は一応底辺ながらプロなんだが、何の下心があるのかAは同人誌を作る度に送り付けてくる。
これがまた長い手紙が付いている。しかも何故かレポート用紙で5枚前後。
「このシーンは~で、●と○が~な所がポイントで、ここは俯瞰で表現して~」
肝心の中身はどうか、というと、これがクソつまんない。
わかりやすく恋愛に例えると(少々ニッチなのでそのまま書くと特定されるのでぼかす)
どうでしたか!!!と目をキラキラさせて聞かれても正直困るのだ。
などとこちらも浅い返事しかできないのだが、彼は持ち込みなどしいない。
延々即売会でお声がかかるのを待ち続けている。
「どうして僕の漫画は評価してもらえないんだろう…」
評価されないにはされないなりの理由がある。
ましてや担当にこんな人がいるんですがなんて紹介なんかしねえよ。
これだけでは何なので、自分が漫画家になるまでに必要だった約束みたいなものを書いていく。
1.面白くない漫画を描き続けていても先はない。君が面白いと思う漫画やアニメをどこが面白いのか研究しろ。
2.毎回趣向を変える。そのテーマ、その展開が描きやすいのかもしれないがそれは手垢にまみれた「手癖」であって君の個性にはなりはしない。
以上
きっかけはWHITE ALBUM2のアニメ版のテレビ放送だった。
悪いのは、WHITE ALBUM2のアニメがあまりにグレートだったからなのだ。
起こったのはごく単純なことで、僕はネットでたまたまWHITE ALBUM2 の第1話を見て、久方ぶりにアニメの視聴を開始し、第9話をみて、PS Vita本体と、WHITE ALBUM2のダウンロード版を購入した。それだけのことだ。
そして、アニメ最終話までゲームを開始するのを我慢して、いまこうして正月休みにゲームをクリアしたというだけだ。遣る瀬ない気持ちでキモいサイトを久しぶりに巡って、こうしてどうしようもなく、テキストエディタを立ち上げて、今これを書いている。
冬馬を愛しすぎていたために、"浮気end"(冬馬ノーマルend)の近くまで全く気がつかなかったが、WHITE ALBUM2の物語構造は、裏返しの聖杯探求譚としての"指輪物語"と同じである。それは、冬馬=トラウマを捨て去る地獄巡りの物語なのだ。また、ここから、WHITE ALBUM2の本筋は"浮気end"(冬馬normal end)にあることがわかる。"冬馬end"の"雪菜end"の両者とも、トラウマを想像的に解決するに留まっている。例えば、何でもいい、エヴァでもまどまぎでも、ハッピーエンドの二次創作が描かれるのも、それは原作のバッドエンドという現実があるからこそであり、それに根ざした幻想であるのと同じことだ。
ところで、ギャルゲーにおいて、トラウマをめぐる物語はありふれている。ギャルゲーの歴史に刻まれるべき致命的な傑作である"ONE", "AIR", "Sense off"の3作品を唐突に思い返してみよう。ONEにおいては、トラウマは積極的に表象されない("みさお"という引っかかりのない固有名詞とわずかなテキスト)空虚として、"Air"においては観鈴の劇症発作の原因として釣り合うはずのないあからさまな幻想として、"Sense off"においては宇宙人や超人類といった誇大妄想として存在している。素朴な作品が、トラウマをささやかな心理学や物語に還元するのに対し、先の3作品は、トラウマを表象することの失敗を通じて異様なリアリティを放っていた。
さて、対してWHITE ALBUM2では、凡百の作品と同様に素朴に真正面からトラウマを描きだそうとするかにみえる。しかし、それはいったいなんという力技であったろう! トラウマの原テクストとしての、"opening chapter"を思い返してみよう。高校3年生の文化祭をきっかけとした主人公とヒロイン二人の三角関係の恋は、悲劇的な結末が予告されている謎めいた空間の中で進展する。自分が恋しているかも知れない女のまなざし、謎めいた行動、ほのめかし、光、音楽ー歌とピアノー、いつ痛みに転嫁してもおかしくない、危うい、享楽にも通じる喜び。無意識がすべて通じ合う、情動的な空間。そこにおいては、超絶ギターソロを一週間でマスターすることなど問題ではなく、高めの女に恋されるという奇跡がおきてもおかしくはないだろう。そして予感は、悲劇は成就する。喜びが、光が、その強度そのままにそのまま痛みに転換する。男は女を2人とも失う。女はもう1人の女と男を失う。それは、あまりにも強く3人が結ばれていたことの罪なのだろうーー。
大げさに過ぎただろうか。しかしここまででは、単に良くできたメロドラマにすぎないとも言い得る(その意味では、アニメ版の方が、ほとんどあらゆる意味で原作に勝っていると思う)。しかしほんとうに凄いのが、ここからの周到さである。"closing chapter"の入りがいい。校内ラジオからあっけらかんと流れ出す、"届かない恋"と、春希と千晶との会話のシークエンス。そう、ここでは、トラウマの種は、世界にあからさまに薄く広く偏在している。"opening chapter"では2人以外の女がほとんど存在しなかったのに対し、攻略対象の女がギャルゲーならばそれが当然とでもいう装いで追加導入され、唐突に、我々が慣れ親しんだ、おなじみのギャルゲー形式のギャルゲーが始まる。決定的なことはすべて過去に起こってしまった薄闇の世界と、主人公を慰めるための都合の良い女性キャラクターたち。ここではじめて、WHITE ALBUM2は、"ONE"や"AIR"の出発点にたどり着く。しかし、ここには冬馬が、われわれが本当に愛した女はいない。その女は選択肢に現れない。だからここで進行するのは、ひたすら耐え忍ぶ、息の長い治療の過程である。注意しなければならない。偏在するトラウマは、たえず現在の些細な出来事をきっかけに、"opening chapter"の各シーンをを縦横に引用しつつ実体化する。"opening chapter"における決定的なシーンのみならず、読んだことを忘れるようなささやかな日常シーンさえも、絶えず痛みと後悔をともなう新しい解釈が施される。"opening chapter"のあらゆるシーン、あらゆるエピソード、あらゆるささやかな喜びは、それが不在になってしまった現在に徹底的に対比され、恐るべき呪いに転換される。WHITE ALBUM2がそれを成し遂げるその執念、持続力にには驚嘆せざるを得ない。また、トラウマの作動をここまでつぶさに可視化しえた作品は他に思いつかない。つらく長い治療の過程においては、悪霊を追い払うために、3人のキャラクターが生け贄に捧げられ、物語の都合に奉仕させられ、使い捨てられる。そしてついに訪れた結末。そこでは、聖なる原典、聖なる楽曲が、新たな解釈を施され再演されるだろう。アコースティックバージョンで歌われる"届かない恋"。そこにやっとたどり着いた男と1人の女。まさに寛解という言葉がふさわしい、穏やかな時間。
冬馬かずさが回帰する。それはまさに運命的な、恐怖とも歓喜ともつなないつかない瞬間であり、われわれはただ滂沱の涙を流すほかになす術がない。これは感動などというものではない、あまりに強烈なドラッグを強制的に注入された生体の防御反応としかいいようのない、デトックスの涙である。われわれが唖然とするのは、冬馬のあまりの弱さ、あまりのいじらしさ、あまりの変わらなさである。なにしろ5年もの間ピアノを毎日10時間引き続けながら、その実、ピアノを通じて毎日はるきと会話を続けていたというのだ。なんたる痛切な、ほとんど自傷的な喜び。何も変わらない。何も終わってはいない。そして再会を果たした二人は、おたがい避け難い力でからみあいながら蟻地獄のような愛の日々に巻き込まれていく。もとより、"opening chapter"の神話的な磁場により張り巡らされたリアリティが、"closing chapter"において、はるきが冬馬曜子の雑誌記事を書くあたりでほつれてはいたものの、"coda"のマンションの隣の部屋での生活に至って、ほとんどギャルゲーのように(ギャルゲーだが、、)ほどけさってしまう。われわれは一方で熱が冷めるのを感じながら、しかし、他方では、そこで演じられる距離0の愛の関係、おたがいまるで馬鹿のように傷つけ合い、愛し合うほかはないその様子から目を離すことができない。冬馬がもともと備えていたはずの、凛とした、というキャラクター造形は、ほとんど"浮気end"の最後まで見る影もなくなっている。しかしそれは、最後の最後に鮮烈なかたちで炸裂する。ふたたび悲しみをもたらすために。ふたたび作品に残酷なリアリティをもたらすために。
"浮気end"において決定的なことが起きてしまったあと、いわば、エピローグの序曲ともなる、短い小春日和の瞬間において、ふと、この、ダンテの"神曲"のように長い螺旋を描いて進んできたこの物語の総体、ただ一人のキャラクタのためにすべての女が動員される大伽藍の起源が問われることになる。冬馬は問いかける。なぜ私のことが好きになったのかと。決定的な問いである。そして春希は惑いもせずに答えるだろう。終局において、作者に課せられたあまりの重荷、あまりの苦難のあまり、ほとんどシンジ君のように幼児退行してしまった春希が、もともと持っていた率直さ、本当に貴重な少年らしい生真面目さ、控えめな正義感、雪菜も冬馬も本当にそれが好きだったはずの少年のファルスの片鱗を、かすかに遠くこだまさせながら。
顔が好みだったからだよ!
一目惚れだよ!
これが、この巨大な地獄の起源だったのである。何とシンプルで、何と美しい言葉だろう。ふと、地獄のなかにぽっかりと真空地帯が発生し、なにごともなかったような日常の現実が発生したかのような、はっとさせる言葉だ。大団円といってもよい。我々は涙を飲み込みながら思う。これは、この巨大な物語の終局にふさわしい。しかし、何も終わらない。決して、終わることはできない。だとしても、冬馬は成仏することはない、、、
* * * * *
ギャルゲーにおいて、われわれは徹底的に受け身な、マゾヒスティックな主体たらざるを得ない。ギャルゲーにおいては、本来テキストスキップの機能など必要なく、われわれは、永遠とも思える退屈のなか、ひたすら単調にマウスのクリックを続け、何度でも、水増しされたテキストをめくり続けるだろう。なにがしかの男らしさを発揮するために、全てのヒロインを"攻略"(ギャルゲーにおいてこの言葉ほど空疎なものがあろうか)し、CGをコンプするという仮の目標を設定することはあまりにいじましい偽の能動性としかいいようがなく、雪菜を選んで胸を撫で下ろしたり、"不倶戴天の君へ"に救いを感じてしまうのはヌルオタとしかいいようがなく、よく訓練されたギャルゲーマーは、すすんで空虚のなかに留まり自らの空虚に向き合うことで快感を汲み上げ続けるだろう。そして、画面を閉じてもゲームは終わることがなく、ギャルゲーマーがとるのは、ただひたすらの"待ち"の体勢である。"coda"において、"浮気end"において物語はまた振り出しに、"closing chapter"に戻ってしまった。"opening chapter"の一撃によって生まれた世界は、"coda"によりいっそう強く永遠に閉じられてしまったのだ。われわれは、それらの各シーンをときにふれ思い出しながら、ひたすら待ち続ける。冬馬を。もう一度彼女に会いたい。いや、彼女はいる。われわれは知っている。われわれは、いや、わたしだけが、彼女が全宇宙に偏在していることを疑うことはないだろう。
ここにいたって僕に残されたささやかな唯一の希望は、アニメ版2期, 3期においてよりいっそう美しくバーョンアップした冬馬が再臨してくれることである。もう一度お別れをするために。僕は、つまりは、よく訓練されたギャルゲー的主体は、さよならをいうために、すべてが終わってしまった後の世界で、はてしなく続く終章のなか、冬馬かずさを待ち続ける、、、
このカメラマンが男のヌードを撮っていたのも知っていたし、その裏事情もちょっと知っていたので正直ザマーって気分だ。
この逮捕に対してモデルや関わりのある人たちがこの国は芸術が無くて残念だとか何とか書いているが、俺が不思議に思ったのは
そいつらが芸術とポルノの線引きをどこでしているかって所だ。掲示板に転載されていた猥褻図画として認識された画像を見たけど、
あれが芸術だっていうならアダルトビデオだって芸術だろ。あの写真が「猥褻じゃなくて芸術です、だからチンコ見せてもいいんです」っていうなら
女のマンコも今すぐ解禁だ!だってアートだもん。女のマンコは人間を生み出す神秘のエリア!そういう神聖な場所を猥褻などと言ったら神様に罰が当たるね。
男のちんぽから出る白い液体だって人間を生み出しているんだし、そのチンコとマンコが繋げて男と女と女と男がそのプリミティブな欲望をたぎらせて
動物のように無我夢中で腰を振る行為を猥褻だなんて言ってモザイクかけたりしたら地獄行きは確実。
だからポルノはもはやアートではなく神聖な物で家族で正座して二礼二拍手一礼をしたのち厳かな気持ちで拝見させていただいき、見終わった後に
「アーメン」の代わりに「ザーメン」と言って十字をきって神に祈りを捧げるべきだよな。Dickが芸術ならFuckなんてもう神の粋だろ!
今回の事件で「これは芸術なんです。」とかいう奴には、そんな事偉そうに言うならお前がカメラマンを逮捕した警察に素っ裸で突入して
「DickとCuntは猥褻ではない。SuckしてFuckして芸術は爆発だ!俺はこの国を開放する為に放尿する!お前らはみんな大島渚の元に行け!」って叫んで
飛びかかってやれ!って言ってやりたいよ。テメーの偉そうな上から目線のオナニー文章をブログやツイッターに書き込んだって世界は変わらないよ。
くそったれが。