はてなキーワード: 他山の石とは
この説教増田の尻馬に乗って、元増田徹をボコボコに揶揄してるブコメを見るとすげー嫌な気持ちになる。
侵略されているウクライナは決死の覚悟で抵抗する大義がある。侵略者の旧日本軍とは違う。国土を明け渡す辛さのわからないサイコパスの書き込み。
みたいな内容で、それは説教増田に説教されてる、ロシア対ウクライナで捉えてる人間が言うことじゃん。
ロシアが悪でウクライナが善というのがほぼ明らかだから、何を言ってもウクライナに同情してれば正義側に立てるってことに酔っ払って雑に正義感ぶつけてないっすかね。
本国が攻められてるのに引く場所などあるはずもない、とかのブコメもそうだよな。
兵を引くって物理的に後ろに下がるだけじゃなくてその場に立ち止まって降伏することも指すし、酔っぱらわずに考えれば、その程度のレトリックは理解できるはずだ。
長めに抵抗すれば経済措置でロシアの首が締まっていくとか、ロシア側が占領後に人権を守ってくれるならまだしもそれは期待できないとか、そういう理屈でウクライナの決死の抗戦を肯定すべきだろーよ。
それか、「戦後日本で多かった、人命第一なんだから細かい議論は必要なく勝ち目のない戦場での日本軍は即降伏すべき、という意見は確かに乱暴すぎた。ケースバイケースで、死亡前提でも戦争継続が好ましい場合もある」と言う話をすべきだ。
ちゃんと理屈のあるコメしてる人や説教増田には勉強させてもらいました、ありがとう。
こーゆーのって増田でよく見る流れなんだよな。
↓
反論するブコメが一斉につくが、その多くは内容が間違ってたり、感情的だったり、道徳を疑おうとしないズレた叩きであり、しかもその自覚がなさそう
↓
心ある別の増田が、元増田の疑問にちゃんと向き合ったロジックでの反論をする
↓
ブコメ大絶賛。それはいいが、ズレた叩きコメをしてた奴やそれに星をつけた奴らまで、最初からロジックで元増田に反論できてたかのような雰囲気を出す
これほんと嫌い。
自分が論戦で結果的に正解側に混じれてたからって、途中で書き込んだガバガバコメントも正しかったぞ俺は正しく考えることができるぞみたいな態度になるのはやめるべ。
第9回BL小説大賞に出品したせいで先月は自分の創作(出品作の直し作業)が忙し過ぎて、本を読むとかいう気分ではなく、読みかけて積んでしまったものが多かった……。
馳星周先生の作品って、少年漫画や青年漫画の二次創作でBLを覚えた人間にはヒャッホー! な、ヒリヒリとした男同士の関係性を描いたものがちらほらある。私は『生誕祭』が好きだなぁー。けどここしばらく馳作品を読んでなかったなと思い、バディものだというし面白そうだなと思って本書を手に取ったのだが……。
冒頭がすごくダルい。今まで読んだ馳作品の中でここまでダルいと思ったものはなかった。うぅ……なんだこれ。でも作者あとがきには楽しんで書いたって書いてあるんだなぁ。作者が楽しんで書いた作品駄作の法則発動か、それとも中盤から急に面白くなるのか。わからないけど、十分の一くらい読んで脱落した。
BL字書き仲間から、「柴田よしき作品はBLだよ!」と教えられて、どの作品がBLなのかわからないまま、とりあえず目に留まった本作を読み始めた。しかし、最近の私にはBL貧乏神でも憑いているのか、これもいきなりダルくてくじけそう。某BLレビューサイトのマンスリーくじも外したし、散々な気分だ。
中華BLにかぶれて中国に興味を持った私、感染症がどうかというよりかは、中国の市井の人々の暮らしぶりを知りたくて、本書を読み出した。これは興味深い。封鎖下の武漢の人々の暮らしぶりもよくわかるが、中国の一般市民の暮らしや考え方も見えてくる。ステイホームするしかないので、著者のだしてくる話題がネットの話多めなんだけれど、中国流ブラックジョークとか、漢詩のパロディーとかが興味深い。
中国といえば言論の自由のない国というイメージだけれども、それでも人々は完全に右へ倣え(いや左へ倣えかな。)している訳でもなく、動画で血気盛んに行政批判(地方自治体disくらいなら意外と大丈夫だったりするの?)や罵倒をしていたり、ユーモアを交えて上手く規制を交わしつつ本音を吐露しているようだ。
ちょっと意外だなと思ったのは、中国の人達、プライバシーを大事にしている。自由と感染症対策を天秤にかけてどっちを取るかっていう議論が出てきたりとか。また、感染症対策も大事だけれども経済を回すのも大事でしょう、とかいう意見も出たりして、完全に共産主義なのではなく、資本主義的な考えも取りれているようだった。いや、資本主義というよりは現実主義なのかな。
著者の方方先生は基本的に当局を支持し信頼していると繰り返し述べつつ、極端な思想(極左)は人々の暮らしに悪影響をおよぼすとも主張している。そしてよくネトサヨから攻撃されたりブログサイトからアカウントをブロックされている。
思い切った都市封鎖で徹底的に感染症対策をしたにも関わらず、なかなか感染者数が減らなかった武漢。本書は日記なので、リアルタイムにその状況を体験して書いている方方先生や、一般の武漢市民にはどうしてこんなに長く閉じ込められなければならないのか、分からなかったようだけれども、この翌年に俯瞰で見れる読者の私には、さもありなんと思える記述が所々にある。一般市民の多くはステイホームをしていたものの、当時の武漢にはホームレスもいれば貧民街も一部にあったらしく、それらの困窮生活者は生きる為にいつも通りの暮らしをしていたようだ。また、物資の配給に従事していた人々……多くは市の職員とボランティアだ……の感染症対策も情報不足や物資不足から万全とはいかなかったようで、それが感染拡大に影響していたのではないかと私には思える。
日本でも他山の石とすべき所は、役所というのは日常の仕事様式から、どうしてもフレキシブル対応が苦手となってしまう、という点かなと思った。こればかりは国の主義とか関係ない感じがする。全体主義・強権主義的なところのある国は感染症のような問題には強いと、外の我々には見えたけれども、現実にはそれでもかなりの苦労があったことが本書にはありありと書かれている。
……とまあ長々と書いたけれども、まだ半分ちょっとしか読んでないので、頑張って続きを読む。
BL関係ないけど。読んでみれば、一般社会から顧みられることのない、普通から脱落した女性たちの暮らしやものの考え方、世界の捉え方が書かれていて、興味深い。のばらあいこ先生の『秋山くん』『寄越す犬、めくる夜』の登場人物(こっちは主に男性だけれども、所属階層はほぼ同じだろうな)の日常とかを思い浮かべつつ読んだりとか。
性的逸脱行為を繰り返す少女が、自らの価値を「需要」のある無しで語るくだりとか、衝撃を受けた。しかし、そこまで荒れた生活を敷いられているわけでなくても、自他を使える使えないで見ている人というのは世の中にはとても多いというか、ただそこに存在することさえ許されない、役に立つのは義務であるかのような圧が社会全体にのしかかっている気はするよなあ。そういう圧が、社会の中の一番弱い人々を押し潰してしまうんだろうね。
非行や犯罪で少年院に入れられた少女達が、更生教育を受ける中でやっと自分の存在を肯定することを覚えるということ。世間的には少年院に入るなんて罰だとしか思われていないけれど、そこが人生の根幹の部分を学ぶ唯一の場所であるという人も世の中にはいて、必要な場所なんだなあ。しかし、女子少年院を出てから数年後に悲惨な姿でまた戻ってきた女性の話しは重く辛かった。せっかく自分を大切にすることを覚えても、彼女をゴミのようにしか扱わない人しかいない世界に戻っていくんだね。ネンショー出だということで……。
唐突に、紙の同人誌なんか家に一人で居られる昼間しか読む暇ないじゃん! と思って宝箱から発掘してきた。幽遊白書の同人誌、なんだけど、表紙からして誰おま。これが野火ノビタクオリティ。だが読めばなるほど蔵飛……そしてエモい。
実を言うと蔵✕飛は特に好きではないが嫌いでもなく、しかし野火ノビタ先生の作品に限っては超好きなので本を買ったという。私自身は幽白の最推しカプは男女カプなので、表向きには蔵飛読むなんて言えない。腐に媚びてんじゃねぇと陰口を言われるので。BLのカプでは仙水✕樹が好きだな。推しても誰とも喧嘩にならないし。
どうも私は、最低系夏油って受け付けにくいらしい。
人の解釈は様々だと思うし、それは尊重されるべきだが、私にとっては読む価値がない。買う価値がない。存在する価値がない。いや、存在する価値がないは言いすぎかな。でも、自分の推しに対して最低の属性捏造って何が楽しくてやりたいんだ?
自分の推しは美化してなんぼでしょ。原作そのままが再現できるスキルがあるならそりゃそれが最高だけども
最低系って、正直、自分のオリキャラでやるのすら微妙に感じる。そういう悪役がなきゃ話の構成もできないの?って感じ。とは言えオリキャラでやるのは、そこに意義を見出すためのキャラだからまだ分かるんだが、原作で描写されてない最低系のキャラに推しを貶めることの、何が楽しいわけ?
聞くんだけど、えせ中国人の振りして、悠仁君を騙してホテルに連れ込んでレイプ(最終的には気持ちよくなってるとは言え)するような真似を、夏油さんがすると思う?
するんだったら、なぜ、どうして、その理由まできっちり描写しろよ。やるだけやるのが目的ならそれ、夏油じゃなくてよくない?そこにレイプする意味あったか?
意味もなく夏油がやるから面白いって?それも分かるけど、じゃあ、夏油がやるから面白いって理由のどこに夏油に対する尊重があるわけ。そういうのって、夏油が最も嫌った無神経猿の所業じゃないかな。
そもそも、あれだけ意味を重視した人に、意味もなくレイプするような役を付加する発想だけでマジで無理。もちろん何か背景や設定があるのかもしれないけど、読み取れるような描写力が欠片もないって時点で文才ゼロだろ。もしくはやる気がない。どっちも致命的だから消えて欲しい。
最終的に気持ちよくなってるから、とは思ったけど、大体が騙して連れ込んでレイプして気持ちよくなるって発想が気持ち悪い。二次創作腐女子にありがちな発想ではあるんだけど、それにも何段階かあって、許せるやつと許せんやつ(個人の価値観)があるんだけど、キャラ捏造は許せんやつ。
意味不明の見知らぬエセ中国人にレイプされて気持ちよくなるようなキャラクターか?虎杖って。
もっとプライドも男としての尊厳もあるでしょうよ。マジでそれを何一つ書いてなくて、ただの頭おかしい女キャラを虎杖のガワにしてるだけってのがマジで気持ち悪い。あれを夏虎と呼ばないで欲しい。あれ読むぐらいなら、もっとマシな夏虎はいくらでもあるわい。端的に言えばただのクソ。私にとってはね。
でも、自分にも返ってくるかもしれない言葉だ。他山の石となすべしよ。こういう最低系は死ね。自分でもだ。
腐って存在するだけで気持ち悪いんだから、せめて二次創作くらい、原作のキャラの造形を追えるよう努力しろよ。崩すな。どうして、そのキャラじゃなきゃ駄目だったのかくらい保て。まあ、男性向けも同じこと思うがね。無意味に性的シンボルを巨大化するな。原作通りのところにエロスを見いだせないなら、テメェの修行が足りてないんだわ。
まぁ、夏と虎の組み合わせが意味分からんとはあえて言わない。出会ってない同士が駄目だとは思わないから。だが、出会ってない同士だからこそ、出会わせる意味はちゃんとあるべきだし、ちゃんと描写しろよ。まぁ、そもそもキャラが偽物なんで、呪でやる意味もないけどな。
明治維新がタリバンと似ているというのがホッテントリに上がっていて思ったのだけど、
確かにもうその時点で古すぎるはずの尊王思想を掲げて、外国の支援を得て支配を維持しようとする現政権を、別の海外援助を得つつ打破したという構図は似ていなくもない。
(でも、違うところも多いので総体としては似ているというべきものではない気がする)
明治維新の要人の偉かったところは、尊王攘夷を掲げたはずなのに攘夷の方はサラッと投げ捨てて、積極的に欧州に学びに走ったところだろうが、
所詮付け焼刃でイマイチ国民もレベルがついてきていない中でなかなか富国強兵とはいかないところ
「だったら徹底的にだましてしまえ」とばかりにカルト洗脳をしてまで軍備を増強し、アジア界隈で欧米から植民地を切り取りにかかったのは無謀でしかなかった。
当時の列強諸国は兵器レベルの圧倒的な差を恃みに遠隔地で植民地拡大を進める一方、列強同士はケンカしすぎないようにしていたわけで、
言ってみれば欧州内でのこれまでの関係性の積み上げがあって遠隔地支配がやれていた面があるはずである。決して急に地球上に表れて好き放題していた勢力というわけではない。
その辺が対外的なプレゼンスがそれまで皆無だった日本軍とは違うところだと思う。
全然別な意味合いのパワーだけど、ユダヤ人脈が国際的に大きな力を持っているというのがよく言われるのも、結局は世界各地に地道にコネクションを張り続けたことの成果だと思うので
ある領域で持続的に勢力を維持するためには、その領域で地道に積み上げられてきたものを如何に活用できるか、というのが重要なんだと思う(本当に新しいドメインでの競争を除く)。
その意味では日本軍は全然使えるものがなく、一発屋的に消える以外の展開はなかったと言うべきだろう(一撃して講和に持ち込むとか戦国時代の発想だと思うし、そもそも本拠地にアタックかけられない相手に通用する筈がない)。
だから、「欧米列強の支配に抗してアジア独自の勢力を築く」というお題目は立派だったけど、それを成し遂げるための材料が圧倒的に不足していたために結局なすすべなく打破された、という日本軍の失敗事例(マジでこれは失敗事例でしかないのに本邦では何故か称揚する言説が後をたたないが…)を他山の石として、中国共産党は実にしたたかにやってきていた。今にして思えば欧米が中共に妙に甘かったのも華僑ネットワークを介して誘導してきた結果なんじゃないかと思ってしまうほどだ(本当にそういう事実があったかどうかはともかく)。
なので、本邦のインテリジェンスのアレさを反省することなく中共を蔑視して明治維新を持ち上げる人は何も分かっていないんだなぁと、つれづれ思う。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210602/amp/k10013064721000.html
日本政府が主催した国際会議、ワクチンサミットで菅義偉と茂木敏充が発言という話だ。
内容は、途上国にワクチンを供給する資金を提供し国際枠組みでやる、アメリカはじめ西側諸国と協調して、でもアメリカ以上の拠出金にならないように調整しつつ、中国のワクチン外交に対抗していきますよ、と言う話である。
まぁこれはよい。がんばってほしい。
良くないのは、菅義偉や茂木敏充の会議絵面である。どうしてこうなった。だれかきちんと見る奴はいないのか。
エグゼクティブが国際会議に出るなら、多少は知識のある奴がちゃんとやれよ。もうオンラインの会議になって1年以上たってるが何故こうなのか。
日本の行政系のITオンチが煮詰まったような画面になっているので、批判する。
列挙すると
詳しく説明する。
何故か会議室のマイクをもぎ取ってきたようなグースネックマイクを使っている。しかも端に置いてぐーっと伸ばして口元に持ってきている。
なんだこれは。
カメラが正面にあり、しかも話者は椅子から動かない想定なら、カメラに高指向性ガンマイクをつけて音をとるのが第一選択だろう。メリットは
それが無理なら、次はラベリアマイク、いわゆるピンマイクにするべきだ。ラベリアマイクはかなり調整が難しいのだが、上手く取り付けられれば、安定的に音が拾えるので便利だ。
そしてそれすら無理なら、普通の会見のようにマイクスタンドに普通のマイクをつけてやるべきだ。アメリカはこのスタイル。そのマイクはテーブルの前下から狙っても十分に音が拾える。
どうしても会議室用グースネックマイクしかないとしよう。それにしてもマイクの使い方が間違っている。
会議室用グースネックマイクは通常単一指向性で比較的感度が高い。具体的に言うと、マイクの真正面が最も感度よく音を拾い、雑音が入らないようにそれ以外の音をできるだけ拾わない設計になっている。
故に、基本的にはできるだけマイクが口の方を向くように設置するのが正しい。また、口の方を向くように設置したら、口とマイクの距離がかなり離れていても音はきちんと拾ってくれる。
一方でこれはなんだ。画面の端に寄せて横からマイクをあてている。それで菅義偉の者の声が音が小さかったのか、不自然に伸ばして近づけている。一方で茂木敏充は声が出かかったのか、マイクは下に伏せられている。
使い方を間違えている。グースネックマイクはできるだけ正面に置け。正面に置きさえすれば、少し下側にあっても音はちゃんと拾ってくれるはずだ。そして、声の大小はミキシング側で整えるべきで、マイクの位置での調節は最小限にすべきだ。
政府記者会見場のマイクをみよ。あのマイクはグースネックではあるがワイド指向性のマイクだと思われる。あのようにきちんとそうなっているのに、どうして今回はこうなったのか。
何故か画面の端に水が置いてある。これも非常に中途半端な位置に。しかも謎の瓶。
ペットボトルでないのは評価しよう。SDG’sの観点からプラをやめたんだね。これはわかる。わかるが、何故もう一歩進んで、水差しにしなかったのか。国会ですら、あるいは通常の会見ですらちゃんと水差しを使っているのに、何故こんななのか。
いやちがう、瓶そのものが問題なのでは無い。このように無計画に中途半端に画面に入れてしまうのか。
置いておくことで何らかの演出効果を狙うのならば、きちんと水差しを使うなり、瓶である事が大事ならば近くにおけ。戦略も無くだらだらっと置くんじゃ無い。そこはテーブルじゃ無い、舞台、あるいは戦場なんだぞ。
今回の名札は、物理三密会議での名札をそのまま置いてしまっている。その名札が入るようにカメラの位置を決めたことで、画面が中途半端になっている。それでもカメラマンは正面に菅義偉が映るように工夫したのだろう。文字が画面のギリギリにして、上によせている。努力と苦悩は分かるが、これがさらに中途半端な雰囲気を醸し出してなんとも垢抜けない。
しかも、映像からはこの名札、完全な黒ではなくて、微妙に濃いグレーのような文字色になってる。おそらく柔らかい印象を与えたいという意図なのだと思うが、映像の場合そんなニュアンスは飛んでいるし、相手の環境によっては読みづらい印象を与える。
そもそも映像だけなら物理名札は不要だ。合成が読みやすい。他の中継先からの映像は字幕があるようなのに、なぜ菅義偉と茂木敏充だけは物理名札か。
合成方式であれば、カメラの画角は自由に設定できる。NHKのニュース映像では、実際の映像をクロップし、顔がバランス良く映るように調整している。物理名札さえなければあのようにセットして映像を流すことができたはずだ。
政治家の無茶なオーダーに対して、会場を作った人の苦労がにじみ出ているのはわかる。わかるがクソだろう。
まず、日本の国旗は白に赤なのに、何故背景が白なのか。なぜ花が白なのか。アメリカをみよ。自国の国旗の特性をよくわかっていて背景を作り上げている。
さらに、背景に中途半端に入った謎の模様は何を意図している? ビバホームで売れ残っている壁紙でも買ってきたのか?何がしたいのかわからない。
背景とは演出である。雰囲気、空気感を作るものだ。なんとなくでやってはいけない。
比較的安上がりで雰囲気を出すには、カーテンが有効である。例えば内閣官邸の記者会見場などがそうだ。少し落ち着いた色を用意して、そこに国旗を掲げる。
花は不要だ。花は目立つ。今回は菅義偉を完全に喰ってしまっている。メインは菅義偉なら、後はそれを引き立てるようにせよ。これではだれに注目させたいのかぼやけてしまう。どうしても花を入れたいのなら、ワンポイントにするべきだ。
そもそも、首相官邸ならばきちんと整えられた相応しい背景のある会議室がいくつもあるはずだ。木材の集積材を使った壁、焼き物を使った壁、竹を取り入れた和紙の壁紙を使った壁、いろいろな背景があるのに、どうしてこうなったのか。あるいは、既に1年たった。執務室風のようなスタジオを作っても良かったのでは無いのか。
これを他山の石とすれば、エグゼクティブによるオンライン会議のセットアップをどうすればよいのかわかってくる。
カメラは自然なボケとピントがきれいに合う、デジタル一眼系のカメラを用意すること。ピントと自然なぼけみが得られれば、周りがほどよくぼけて、ピントが合ったところ、話者が自ずと浮かび上がってくる。
マイクは適切なものを適切に使うこと。一人に一台固定カメラなら、カメラ側から指向性の高いマイクで狙えば良い。最低限ホール用のマイクを使う。会議室からもぎ取ってきたようなマイクを適当に使わない。会議室マイクは会議室でよいようにできているのだから。
机の上に置くものや背景などは、それらが全て印象を決めると心得て選ぶこと。目的は何で、誰を引き立たせるのかを考える。難しければできるだけものを置かずにシンプルがよい。
昨日2021/05/16付のはてな匿名ダイアリーに、リベラルについて思うところを投稿をした結果、予想外にブックマークコメントを頂戴した。その幾つかに対して考えたところを述べる。
(1) 「保守の方こそ云々」「ウヨの方こそ云々」という類いの反応をした人に対して
リベラルではないと自認する人ならば、たかが私という無名の一個人の投稿ぐらい、笑って受け流せば済む話である。
仮にリベラルを自認する人であっても、私が書いたような問題のある言動を自分はしていないという自信が有るならば、他山の石として受け流せば済む話である。
もしもリベラルを自認し、且つ、私が指摘したような問題のある言動を取っているという自覚が有るならば、反省して改めるなり何なりすれば済む話である。
私の投稿を受け流せず、かと言って、行動も改められず、どうしても何かを言い返さずにいられなかった人が「保守/ウヨが云々」と書いたのだろうと推測する。おそらく、彼らは「コイツはリベラルを批判する人間だから、きっと自民党の支持者・回し者/保守/ネトウヨに違いない」と判断したのだろう。しかし、昨日の投稿で私は「自民党支持者である」とか「保守である」とか、何らかの政治的・思想的な立場を表明しただろうか?
「リベラルを批判する人間だから、コイツは自民党の回し者だ」或いは「ネトウヨだ」と決めつけた人は、戦前・戦中の日本の過ちを指摘する人間を見て「特亜の回し者だ」とか「日本人に成りすますザイニチだ」とか言い出す人間と同じレベルの短絡的な振る舞いであったと自覚して欲しい。
(2) 「お前の立ち位置は?」という反応をした人に対して
そもそも、そのような問いはダルトン・トランボ等ハリウッド・テンに対して「お前は共産党員か?それとも、過去にそうだったのか?」と問い詰めた人たちと似たり寄ったりの言動だと私は思う。だから私は、その質問に答えない……で済ませても構わないと思うのだが、それでは気が済まない人もいるだろう。
私はリベラルではないし、自分で自分の思想的な立ち位置は分からないと昨日の投稿で書いた。おそらく、最後まで判らないまま一生を終えるような気もする。
また、リベラルの人たちから学ぶところは多々有るとも私は書いたが、同様に、リベラルと思想的に対立する保守の人たちからだって、学ぶことは多々有ると思う。
自分よりも知性や教養が高い、学ぶべき点を多く持つ人たちのような「本物」を前にすれば、私ごとき人間が「自分はリベラルである」とか「自分は保守である」と簡単に明言するのは、身の程知らずで烏滸がましいというものだ。
生きている限りは自分よりも優れている人たちから学ぶことに終わりは来ないだろうし、私ごとき浅学非才の人間は、グラデーションを成している左右の間を死ぬまで迷い続けることだろう。それに最近の世の中は、左右の座標軸だけでは不十分になりつつもある。
私が、自分の思想的な立ち位置が自分でも判らないと書く理由は、だいたいそんな感じである。
(3) 「自民党政治に対してお前はどうするのだ?」という類いの反応をした人に対して
どうすると言われても、私は既にずいぶん前から自民党及び所属政治家には投票していない。
民主党にも、自民党から民主党への政権交代が起きる前から「第二自民党」にすぎないと考えていたので、投票したことが無い。
選挙の度に共●党に投票しているが、これは別に積極的に支持しているからではない。
私の投票行動の理由は、新自由主義、グローバリズムの猖獗に歯止めを掛けるため、意思表示の手段として、他の選択肢が無いからという消極的な理由にすぎない。他の選択肢を与えられたならば、すぐにでも投票先を変えるのに吝かではない。
まあ、いくら私が投票先やその選択理由を此処に書いたところで、それが本当であるとは証明しようが無いのだから、これを信じるも信じないも好きにしてもらって構わない。
(4) 上の(1)〜(3)を読んでも腹の虫がおさまらない人に対して
気が向いたら、保守を攻撃する内容も投稿するかもしれないので、それで勘弁して下さい。
(5) 終わりに
落ち着いた反応をしてくれた人たちへ。ありがとうございます。
【1】
まず、私の投稿に対して「こういう規則の押し付けが創作の芽を摘む」というような声が有ったので、以下ではその声に答えたい。
日本では割りと「創作においては『論理』に頼らない『直感』こそが正義である」という信仰が強い。しかし、現実は逆である。きちんとした創作を生み出すためにこそ、創作家には規則や論理が必要なのである。
例を挙げよう。映画業界の話である。欧米をはじめとする諸外国とは異なり、日本には映画に関する専門的な教育・訓練を行うまともな機関が無い。そのため、映画の仕事を志望する人間は、専門的な教育や訓練を受けたくても受けられない。業界全体が、昭和の時代と何も変わらない『徒弟制度』に頼りきりである。業界志望者は、論理的・合理的なノウハウも身に着けられないまま、無駄に年月を重ねる。結果として、まともな監督も脚本家もスタッフも育たない。つまり「まともな作品」を撮れなくなり、現在の日本の実写映画は「まともなビジネス」として成立しなくなった。
映画に役者を供給する演劇業界も、実写映画業界と似たり寄ったりである。大半の劇団は良い演劇をすることよりも、地方自治体を唆して税金に寄生することや、稽古や親睦を名目にして性的関係を結ぶことの方に熱心で、肝心の本業である演技や演出は学芸会レベルのままである。
日本の実写映画業界や演劇業界は、指導の名目でスタッフや役者に灰皿を投げつけたり暴力を振るう類いの人間たちが「名監督」や「名演出家」扱いされている始末である。片や出演する演技者の方も、演技の専門的な訓練を受けていないミュージシャンとかが大役をゲットする。こういう紛い物たちが日本の映画業界や演劇業界に蔓延っているのは「論理的・合理的なノウハウの訓練を行うシステム」が無いからである。論理的な指導ができない人間は、監督や演出家を辞めるべきだし、演技の訓練をしていない人間は、演技の仕事を去るべきである。
それはともかく、漫画や小説の作家を目指す人間は、実写映画業界や演劇業界が手遅れに近い状態になってしまっているのを「他山の石」として、まずは「論理的・合理的なノウハウ」を身に着けるように努めてもらいたい。
そうすれば、日本の実写映画やドラマで頻繁に見かける「よく考えもせずに『何となくそれっぽいから』という理由だけで、悪人たちが悪企みの会議をしている場面で部屋を暗くしてみた」とか「とりあえず竹中直人や佐藤二朗やムロツヨシに滑稽な表情と動きをさせておけば、それでコメディっぽくなるだろう」といった馬鹿な描写を貴方の物語作品の中でしなくて済むだろう。
【2】
次に「セオリーから外れているけどヒットした作品も有る」というような声も寄せられた。これに対しても以下で答えたい。
野村克也がインタビューで言ったことで有名になった「勝ちに『不思議の勝ち』有り。負けに『不思議の負け』無し」という喩えが有る。論理に依らない成功の例は確かに有り得るが、それは謂わば「宝クジが当たる」ようなものである。もしも「宝クジに当たる人間も世の中にはいるのだから、自分はあくせく働くのは止める」と言い出す人間がいたとしたら、その正気を疑うだろう。
物語を書くこと、創作活動をすることは、宝クジを買うように運任せの行為なのか?それは違う。人間の頭脳を使う営みなのである。ならば、創作活動において頭脳を使って論理や規則を活用することの、いったい何が悪いというのか?そんなに頭を使って書くのに抵抗を覚えるならば、いっそコックリさんに頼って自動書記でもしてはどうか?それは冗談だが、仮に偶然に頼るにしても頼り方が有る。
蜘蛛という生き物がいる。その中でもコガネグモやジョロウグモなど、網を張って獲物を捕らえる種類がいる。網に獲物が掛かるか否かは偶然である。しかし、網を張らねば偶然を捕らえることはできない。創作活動において論理や規則を活用することは、謂わばクモが網を貼るようなものなのだと理解してもらいたい。
【3】
「とりあえず最後まで書くのが重要」という声には強く同意する。物語作家の志望者は、まずは作品を一本書き上げてもらいたい。しかし、そのためにこそ、論理や規則は有効なのである。登場人物に生命の息吹を与えて、物語を完走させる上で、論理や規則を活用することは、手助けにこそなれど決して枷にはならない。むしろ始めにきちんと考えないままで何となく執筆に着手してしまい、結果として執筆の途中でガス欠になって未完成で投げ出す人の方が、物語作家の志望者には圧倒的に多いのである。それを避けて最後まで書き切るためにこそ、論理や規則を活用して欲しい。
【4】
「文章力や画力があれば、何も起きない平凡な日常生活の描写でも読者を惹きつけられる」というのは、嘘ではないが、しかし本当でもない。それだけの力を持つような文章力や画力というのは「何を書く・描くべきか」を把握していなければ、物語作家志望者も身につけようが無い。そして、何を書く・描くべきかを把握するには、やはり論理と規則に則った思考が必要なのである。また、何も起きない平凡な日常生活は、無手勝流で簡単に書ける・描けるものではない。観察力もまた出発点は論理と規則である。
小説でも漫画でも、物語の作家とそれを目指す人に対して「文章力とか画力以前に、これらについて気をつけておいて欲しい」と読者の立場で願っていることが有る。以下にいくつかを記す。
基本的に読者とは「物語の中で、何かが起きて、それに対して登場人物が反応(行動)し、物語の中で時間が経過して、登場人物が『上昇』または『下降』いずれかの変化を遂げる」姿を見届けるために物語を読む。何も起きない、何もしない物語を読みたがる読者は、滅多にいない。
したがって、物語を作る者は最低限、以下のような『構造』を物語が持つように努めるべきである。
= = =
(1)昔の主人公:充足した状態にある。もしくは、主人公自身は「満ち足りている」と思っている。
(2)少し昔の主人公:何か事件が起きて「欠落」が生じる。例えば、宝物や恋人を奪われるなど。或いは、主人公自身が「何かが足りない」と考えるようになる。
(3)現在の主人公:修行して能力を得たり、協力してくれる仲間を募ったり、旅をしたり、戦ったりして、欠落した何か、奪われた何かを取り戻そうと行動する。
(4)未来の主人公:欠落したものを取り戻す。あるいは、欠落していなかったことに気づく。あるいは、欠落をしたものを取り戻せない代わりに、他の何かを手に入れるなどして、欠落を受け入れる。
= = =
もちろん、これは構造の要件としては最低限のものにすぎない。連載途中で完結していない作品の場合には「目的を遂げようとする中で、登場人物が変化をするのであろう」と読者に『予感』させねばならない。その『予感』を持たせられず「本当に目的を遂げるのか?」とか「その目的を主人公が遂げたからといって、それが何なの?」と読者が感じたら、もう物語を読む動機を失ってしまう。
とはいえ、上のような「物語の世界で起きた出来事(1)〜(4)」を、時間経過の順番どおりに並べただけでは、読者の興味を惹いてページをめくらせることはできない。「何故、どうして事件は起こったのか?」という物語の中の『過去』と、「この後、登場人物はどうする、どうなるのか?」という物語の中の『未来』に対して、読者が興味を持つように仕向けければならない。
そのために、事件の発生原因や経緯、それに対する登場人物の反応・行動を「どのように読者に見せるか」という見せ方、見せる順序の構成、視点を考える。それが『構成』である。
最もわかり易い例は、密室殺人などのミステリ作品。単に時間経過どおりに出来事を並べただけでは、読者の興味を惹き続けることはできない。分かってみれば謎でも何でもないことも、見せ方によって「謎」に変化する。それが『構成』の力である。
もっとも、ミステリで言えば刑事コロンボのように犯人の視点で「動機となる出来事」や「アリバイ工作の様子」などを、最初から出来事を見せるという手法もあるにはある。しかし、これとて「効果的な見せ方」として選択した結果なのであって、単に出来事を順番どおりに見せているわけではない。
作家志望者ならば、一日にストーリー(上の1で述べた出来事の羅列)一つと構成一つを作るぐらい訓練をして欲しい。
【3:読者が物語(の登場人物)に『感情移入』できるような『動機』を】
読者を登場人物に『感情移入』させられれば、物語を読む『動機』が生まれる。以下でいくつか例を示すが、感情移入とは親近感や変身願望のことであると考えれば理解し易いと思う。
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ケース1:スポーツやゲームなど、現実の愛好家が存在する物事をモチーフにして、主人公たちが戦う物語を作ると、その愛好家たちを読者として感情移入させ易いといえる。例えば、高校野球で甲子園を目指す物語、サッカーでワールドカップを目指す物語、囲碁の名人を目指す物語、ポーカーの世界大会での優勝を目指す物語など。ただし、そのネタに関心が無い人間を、門前払いしてしまうというリスクは有る。
ケース2:現実世界の読者の立場では様々な制約(物理的なもの、法律など)から実行できないことを、作品の登場人物たちがやっている姿を見て、読者がカタルシスを得る。例:ヤンキーやヤクザが、学校や地域で覇権を争う物語。厳重な警戒を掻い潜る、大ドロボウの物語。報酬を受け取って殺しの依頼を引き受ける物語。詐欺師がコンゲームをする物語。犯罪プランナーの物語など。
ケース3:主人公が闘って勝利することで、脇役も利益を得るような物語。読者は、脇役に感情移入して主人公を応援したくなる。核戦争で荒廃した世界で、無法者によって弱い人たちの生存が脅かされているが、無法者たちを倒すために主人公は闘う。人間を食い殺したり操ったりする怪物が跋扈して、人間社会を脅かしているので、その怪物を倒すために主人公は闘う。大半の読者は一般庶民なので、このように「弱者を救うために闘う登場人物」には感情移入し易い。
呪いのビデオを観てしまった!何とかして呪いを解かなければ主人公は死んでしまう!そのタイムリミットが(a)1週間以内、(b)五十年以内のどちらかだとしたら、物語を読む意欲をそそるのはどちらか?
子供が生命の危機!手術をしないと死ぬ!そのために主人公は(a)有り余る財力と人脈を駆使して世界一の名医に手術を依頼する、(b)金も地位も人脈も持たない主人公が何とかして子供を助けるために苦闘するのどちらかならば、物語を読む意欲をそそるのはどちらか?
何も制限を課されていない登場人物は、読者にとって応援する甲斐が無い。貴方に腕前が有るのでない限りは「パンが無いならケーキを食べれば済む」といった恵まれた境遇の人間を主人公に据えて物語を書くことは避けた方が良い。
特にファンタジー系作品を書く場合、この種の落とし穴に嵌まり易いので作家志望者は注意した方が良い。一度「結局は、作者の匙加減一つじゃねえか」と思われたら最後、読者は興醒めして離れると思え。
【5:補足】
昔、海外のチェス初心者用指南書に『How not to play Chess』という本があった。「『やってはいけない駒の動き』をしないように心掛けるだけで、まともな対局が可能になる」という内容であった。今でも「悪い指し方」「他山の石」の例を見せて教えるのは、チェス・将棋・囲碁などの訓練では常套手段である。
したがって、物語についても「悪い例」を示すのが効果的である。例えば「『海賊王』に俺はなる!」という某漫画は、多くの人が知る有名な大衆的な商品なので、その駄目な所を指摘するのは、物語作家やそれを目指す人にとっては格好の「他山の石」と言える。そこで、この商品の駄目なところをいくつか指摘して終わる。
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定義が不明瞭なのに「海賊王になる」と言われても読者にとっては「パンピレホニョンに俺はなる!」と言われるのに等しい。意味不明。
主人公が海賊王になるのを、脇役や読者が応援するべき理由や動機が有るの?
もしも主人公が海賊王になったら、脇役にとっては何か恩恵が有るの?
いつ迄に主人公は海賊王になるつもり?一週間後?一ヶ月後?半年後?一年後?十年後?
海賊漫画なのに海賊行為(襲撃、略奪、誘拐、密輸)をしていないよね?
どうせ戦っても「ハァ…ハァ…」と言うだけでダメージを負ったり死んだりしないから、単なるプロレスごっこになってるよね?
現在リアルに少年・少女のジャンプ読者は、連載中の海賊王漫画のことを「今、誰が、何のために、何をしているのかがサッパリ分からない」と思ってるよ。その読者の率直な現状を、編集者は把握してる?
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冗談抜きで今現在、漫画なり小説なりの作家を目指している人は、某海賊王漫画を反面教師にして欲しい。
健闘を祈る。