はてなキーワード: cGとは
わかってないな。
翻案やリメイクではなくて、そのまんまでやれ、と言っているんだよ。
また、翻案やリメイクでヒットする保証もないだろうが。これまで、翻案やリメイクで、どれほど失敗した例を見たことか。
そっくりそのまんまで、配役と CG だけを変えろ、と言っているの。
さらに言えば、「そうするべきだ」という意味じゃない。「そうするべきだ」というのは、言葉の上だけ。
そうする方が儲かることも気づかないぐらい、国内市場優先でノミの心臓だということがわからないのか、と皮肉っている。「金儲けの仕方も知らないのか、この間抜け」と皮肉っている。
なのに、儲け方を知らない自分が皮肉られていることも気づかないのか。おめでたいやつだな。鈍感すぎる。そんなことだから、いつまでたっても、金儲けの機会を見失ってばかりなんだよ。
だいたい、上に書いてある通りにしたら、「10億円を儲けて、200億円を儲ける機会をなくす」ということだぞ。そんなことを本気で薦めていると思っているのか? 呆れる。
「10億円を儲けて、200億円を儲ける機会をなくす」という例を示すことで、「そういう馬鹿げたことをやめろ」と示唆している。「かわりに、石原さとみのかわりに外国人女優を使うことで、東宝自身が海外で 200億円をめざすことができる」と示唆している。
こんなふうにいちいち解説しなくちゃならないのか。はてなーは日本語もまともに読めない人が多すぎる。
http://anond.hatelabo.jp/20160829171356
のブクマページ http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20160829171356 を見たら、
「いくら不自然でも、石原さとみがかわいければいい。米国人受けなんか気にしなくていい」
という声が圧倒的に多かった。
しかし、市場規模で言えば、日本市場は世界のなかで圧倒的に小さい。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sakaiosamu/20160829-00061607/
数字で言うと、世界全体で 383億ドルで、そのうち日本は 18億ドルだ。比率で言うと5%弱だ。
http://www.animeanime.biz/archives/22585
こんな小さな市場で、こんな小さな売上げだけを得ていれば満足だというのは、あまりにも肝っ玉が小さい。怪獣は史上最高のでかさだが、東宝とファンの肝っ玉はミジンコのごとく小さい。ノミのキンタマというべきか。
こんなふうに日本国内における自己満足で、「泉ちゃんはかわいい」「さとみかわいいよさとみ」なんて言っているようでは、先が思いやられる。まともな CG の開発費用も出ない。
まあ、彼らは自己満足しているだけでおしまいなのだろう。世界的規模で 20倍の市場をめざすという発想には馴染めないのだろう。それならそれで仕方ない。
シン・ゴジラは、国内版とは別に、海外版を作るべきだ。そうすれば、外国人俳優を多用することで、多額の興収が海外市場で望めるだろう。
いや、いっそのこと、製作権を丸ごと海外の会社に売り出すべきだ。そうすれば、製作権を 10億円ぐらいで売れて、東宝は濡れ手で粟で大儲けできる。
その一方で、海外の映画会社は、10億円の代金を支払うことで、200億円ぐらいの興収を得ることができる。日本専用の庵野版シン・ゴジラは、海外ではたいして興収を得られないだろうが、内容はそのままにして、外国人俳優と外国版 CG を使った海外版のシン・ゴジラなら、200億円ぐらいの興収を得ることができる。いや、ひょっとしたら、300億円になるかも。
シン・ゴジラの脚本には、それだけの魅力がある。なのに、東宝には、それを生かすだけの資力もないし、配役能力もない。だったら、海外の会社に製作を任せるべきだ。自分で製作ができなければ、海外の会社に製作を任せるべきだ。そして、海外の会社に百億円規模の大儲けをさせた上で、東宝も1割ぐらいのおこぼれをもらえれば、それで満足できるはずだ。(コバンザメ商法)
無能な会社は、無能なりに、製作権を他社に渡すことで、少しは儲けることができる。おこぼれを。
石原さとみ役は、google:image:ナタリー・ポートマン で。興収 200億円なら、高額ギャラも払えるだろ。
【 ブコメ 】
Borom ナタリー・ポートマンにしたら「日系人のカヨコが祖母を不幸にした原爆投下を二度と行わせないために立ち上がる」ってシナリオ破綻するんじゃない?
ナタリー・ポートマンは、菜食主義で、ハーバード卒で、ユダヤ人。「虐殺されてきたユダヤ人の痛みがわかるから、原爆で虐殺されないように努力する」でOK。完璧だよ。
ニューヨーク版作ればいいのでは
何を以って海外版『シン・ゴジラ』なのかよく分かりませんぬ。単にゴジラを海外(ハリウッド?)で作れっていうことならそれはもうレジェンダリーピクチャーズ版がある、けどそういう単純な話?
ハリウッド演出ではないリアルなアメリカ版シン・ゴジラも見てみたい気がするが、日本版とはまったくちがうシナリオになるだろうね / リスク評価によっては、核利用は十分にオプションとしてあり得るかも
海外版は、シン・ゴジラの翻案やリメイクではなくて、現状のまんまです。翻案やリメイクなら、いくらでも勝手にやればいいが、別物となります。また、ヒットする保証もない。庵野版をそのままで、俳優の一部を欧米人にするだけだからこそ、成功が保証される。
なお、米国版だからといって、場所の設定を米国にすることはありない。場所の設定は日本に限られる。なぜなら「核爆弾を落とす」という可能性は、日本だからこそありえた選択肢だからだ。
庵野版では、核の使用について、「そこがニューヨークでも同じことをする、と彼らは言っていた」というセリフがあるが、実際にはありえない。同じことをするわけがない。仮にゴジラがニューヨークに出現したら、ゴジラがニューヨークを出たあとで核を使用するに決まっている。ニューヨークを出て、東京(など)に到着したら、その段階で核の使用を決断するはずだ。それが最も合理的だからだ。(自分たちが死ぬかわりに、他人が死ぬのだから、その方が合理的だ。)
というわけで、ゴジラが米国に出現したら、「核の使用」というオプションがなくなるので、映画全体の緊迫感はなくなる。だから、ゴジラが出現する場所は、「核の使用が可能な地域」つまり「白い人間の住んでいない地域」つまり「黄色い猿の住んでいる地域」に限られる。結局、ゴジラが出現する地域は、日本しかありえないんだよ。ゴジラが米国に出現したら、ゴジラ映画そのものが成立しなくなる。「ゴジラがニューヨークに登場する形でリメイク」なんてことは、絶対にありえないんだ。(少なくとも、シン・ゴジラに関しては。)
※ ついでに言うと、東京に核爆弾を落とすというのも、現実にはありえない。東京を出て、群馬か福島あたりに行ったあとで、核爆弾を落とすに決まっている。東京に核爆弾を落とすなんて、ありえないだろ。
わかっている。だから日本向けの会議場面は大幅にカットして、ゴジラのアクションシーンを増やせばいい。脚本にさらに加筆はしないが、一部は大幅にカットしていい。
いやいや。全部作り直したら、金がかかりすぎる。石原さとみのところと、CG のところだけを変えるだけでいい。あとはそのまま使う。(ただし大幅に短縮する。)
これだったら、撮影のコストはギャラ代プラスアルファぐらいで済むし、CG のコストは必要経費だけとなる。全部作り替えるほどのコストはかからない。
※ CG は現状のままでもいい。しょぼいけど。
なお、「細かすぎて伝わらない」というのは、問題ない。細かいところは伝わらなくてもいい。映画として失敗していなければいい。ちなみに、千と千尋や、もののけ姫は、日本丸出しだったが、世界中で受けた。日本的だとしても、普遍性があるものは、受けるんだよ。
(「国民性ジョーク」というのがあって、「米国人はこうした、日本人はこうした」という話をすると、世界中のどこの国でも爆笑を得る。日本人の愚かな国民性は日本人にしか理解できないということはない。世界的に有名だよ。)
【 参考 】
評判は? とても好評だ。詳しくは下記のトラバ。
何曲そのまま流すんだよ、やっぱり委員会方式よくない、レコード会社がねじ込んでくるからこういうことに……って思ったけど
途中からミュージックビデオとしてみればいいんじゃないかと思い始めた。
あとはカップルが多かった。
全体的に年齢層低めだったな。
自分の中で一番盛り上がった。
四国行ったんじゃなかったのかよ!
なぜ飛騨にいるんだろうか。
謎は深まるばかり。
雨の描写とかは言の葉の庭のほうが美しいかもしれないが、天体ショー的な派手な描写では勝る。
人間のアニメーションの動きが抜群にいいが、CGモデルをトレースしているっぽい。めちゃくちゃ注意すると一部CGっぽさが気になる。
こういうバランスで星を追う子供的なの見たかったかもしれない。
山はいい。美しい。
自己言及的。「新海の映画」の中でどこかで見たようなシーンとセリフが多すぎる。
具体的には「秒速五センチメートル」と、「空の向こう、約束の場所」「星を追う子供」
進化を感じない。前二作のほうがあがいてる感があったが。
予算かけて売れ筋の映画を撮るっていうのは挑戦なのかもしれないけど。
女子中高生向けなのにサービスシーンやたら多い。けどエロさを全く感じないので女子的にはOKなのかもしれない
秒速は心に突き刺さったのにこれには乗れなかったのは、年をとって大切なものを失ったからなんでしょうか?
と。ちょっと思った。
http://www.sendai-nct.ac.jp/news/2016/07/13/newly-004002.php
この変更点は大雑把に言って次の3点でしょうか。
(1)入学の時点では専門を選ばないようになる(ただし、建築以外)
(2)学科名が変わる
それぞれについて見てみましょう。(筆者は広瀬キャンパスOBなので名取キャンパスについては基本的にスルーします)
(1)入学の時点では専門を選ばないようになる(ただし、建築以外)
今までは入学時点で「知能エレクトロニクス工学科に行きたい!」などと専攻を選ばねばいけませんでした。
しかし、高専志望の中学生が普通の中学生よりも工学に興味を持っているとはいえ、自分に合ってそうな専攻を選ぶのは難しいことです。
たいていの中学生は学科の名前やウェブページの雰囲気で決めると思います。
ゲームを製作したくて情報システム工学科に入学した人が、回路系の授業で苦戦したり、CGの授業が実はほとんどないことを知ったりして、「どうしてこうなった……」となることだって珍しくありません。
(もちろん、卒業後にゲーム関係の企業に就職することは可能です。)
他にも、情報システム工学科と情報ネットワーク工学科の違いが中学生にはほとんど分からない、という問題もあります。
そこで導入予定なのが科類制ですね。
建築系を除くと、とりあえず入学時点では広瀬に行くか名取に行くかだけ決めればOKで、1年間高専で過ごしてから専攻を選ぶわけです。
この1年の間に、先輩からの話を聞くなり、シラバスを読むなりして、どのコースに行くのがベストかを考えられます。
1年生の頃は専門の勉強がほとんどないし、その専門の勉強も内容は(広瀬では)学科共通だったので、特に問題はないかと思われます。
(2)学科名が変わる
広瀬の方では情報ネットワーク工学科が情報通信コースに変わります。
この学科名の変更は大したことがないように見えますが、実はそうでもありません。
仙台電波の頃には「情報通信工学科」という学科がありましたが、そちらに戻そうというわけです。
先ほど中学生は学科名や雰囲気で志望学科を選ぶと書きましたが、なんとなくパソコンやネットが好きな中学生にとって「情報システム工学科」と「情報ネットワーク工学科」はどちらの方が魅力的に映るでしょうか?
今までの入試倍率を見ればその差は歴然です。
平成23年度を除くと情報システム工学科の倍率の方がずっと高いです。
(H22が仙台高専としては初の入試で、このとき情報ネットワーク工学科の倍率がとても低かったため、H23では確実な合格を狙った層が情報ネットワーク工学科を志望した、と筆者は予想しています。)
情報システムの方がなんとなく楽しいことをやってそうに見えるのでしょう。たぶん。オープンキャンパスでCG作品の展示をしていた影響もあるかもしれないけど。
「ネットワーク」という言葉を使うと、どうしてもシステムとの違いが分かりにくいのでしょう。おそらく。(受験生にアンケート調査してみたいですね)
そこで、仙台電波の頃の学科名である「情報通信」コースにしようというわけです。
「通信」という言葉を入れることにより、このコースにはある種のブランドのようなものが生じると考えられます。
今や仙台高専という学校名になりましたが、もともとは東北無線電信講習所→官立無線電信講習所仙台支社→官立仙台無線電信講習所→国立仙台電波高等学校→仙台電波工業高等専門学校という経緯があるわけです。
各電波高専は各地方に存在していた無線電信講習所が元になっています。(電通大ももとは無線電信講習所!)
仙台高専広瀬キャンパスにとって、通信というのは花形分野なのです。
実際、キャンパスを見るとまず目につくのが大きなアンテナだったり、アマチュア無線部が強かったりします。(今も強いですか?2期性がたくさん入っていた覚えがあります)
また、かつての仙台電波高専(仙台電波高校)時代の卒業生が今やお偉いさんになっていたりするわけです。
電波という名前こそなくなったものの、愛子の学び舎で通信を学んできたというのは必ず評価してくれる人がいるでしょう。
そういった点で、この学科の名前の変更は大きな点です。(情報通信コースに優秀な学生が入ることを祈っています!)
ちなみに、情報システム工学科と情報ネットワーク工学科の違いは、電磁波工学などの通信関係をやるかどうかの違い、先生の違い、就職の強さの違い(?)などが挙げられます。
ネットワーク関係に関しては両学科ともCISCOのe-learning教材を使って学びますが、情報ネットワーク工学科の方がより力を入れている印象です。
また、通信には法規の知識が必須ですが、情報ネットワーク工学科ではそれも学べます。
目指せ一陸技!(通信を大プッシュしたわりに、筆者は一陸特しかとってなかったりします……)
「数学や理科を深く追求して,サイエンスをテクノロジーに結びつけるために必要なことを幅広く学びます。」とだけ書いてあります。
これの詳細についてここで書くのはまずそうな気がしますし、これから変更があることも十分考えられるので、具体的なことは書きません。
そこで、高専にもこういったコースの需要がある、ということだけ説明しておきたいと思います。
高専は大学と違い、本来のモチベーションは研究ではなく、技術者の養成です。
その意味で、応用科学コースのようなどことなく理学の匂いを漂わせるものは不適なのではないか、と思う人がいるかもしれません。
しかし、応用科学コースはおそらく大学工学部で学ぶような基礎的な数学や物理学程度の内容を教えるようなものになるかと思われます。
高専は若いうちから専門の教育をするのが最大のウリなわけですが、専門の内容を正確に理解するのに必要な数学や物理の授業はそれに追いついていません。
電子回路を例に挙げてみましょう。
半導体の物性を理解するためには量子力学や統計力学の知識が不可欠です。
しかし、量子力学や統計力学は知能エレクトロニクス工学科以外では学びません。(一方で、電子回路は全学科で学びます)
知能エレクトロニクス工学科でも、正確に半導体物性を理解するのに必要なところまで物理を学ぶかは怪しいです。
それ以外にも、高専ではフーリエ解析やラプラス解析を学ぶ前に交流回路網の計算を叩き込まれたりします。
数学や物理が追い付いてない以上、「それはそういうものだから原理は気にせず覚えてね」という指導にならざるを得ないわけです。
その結果、「もっと原理を深く知りたい!」という人や、「これだから工学は嫌!」という人が出始めてきます。(これで工学が嫌になって理学部に行く人もいますが、大学の工学部はその意味では高専よりずっとまともなので、工学部に行くという選択肢を簡単に捨てたりしないといいなと思います)
大学編入志望の学生が集まりそうな感じはしますが、そもそも大学編入したい人は専門をより深く勉強したい勉強好きの人が大多数だと思うので、まあ問題ないんじゃないでしょうか。
以下、そう思った点箇条書き。
・大の大人が会議中に巨大生物である発言と散々否定してたやつが映像だけでアッサリ受け入れるところ。
・総理が流されてるように見えて決断が早すぎる、まるで保身を考えてないフィクション政治家。
・第1形態のときからずっとそうだが、ゴジラの動きにスケール感がない、ちゃかちゃか玩具を動かしてるかのような挙動。これに巨大な印象を受けるのはこども。
・自衛隊を動かすための憲法、法律の足かせによるジレンマをどう解消するのかワクワクしてたら「超法規的措置」の一言。は?しばらく固まる(増ラ冷却成功!)。
・第1形態から冷却のため逃げるゴジラに海上から攻撃しなかったこと。避難が完了していない地帯を途中で通ったとしても海上で攻撃可能なタイミングはあったがお話の都合上逃げる道中はカット。
・古代生物が放射能を食って進化だの科学者が予見していた、とかこの辺りがノルマのためのパートでまるでワクワクしない。説明してるだけ。謎とか無い、折り紙?あ、そうくらいの興味。対策室の活躍も各方面が協力してくれました、だけ。各所に頭下げまくり作戦。機知も無い。あったか折り紙w
・海中に離脱していったゴジラが再び戻ってくることに対して海上で足止めする作戦が何もなかったこと。陸地での戦闘は被害が出るのは確実なので早期発見と海上での迎撃が作戦されないのはおかしい。
・第4形態を見て同種のゴジラだと即決。これにはゴジラ博士もびっくり。
・あんだけの熱量を長く地面に吐いて地盤沈下も起きない。表面だけを焼くステーキの鉄人。
・背びれビームがカッコいいというがちゃちなだけだった。そもそも背びれで打てるんなら口から撃つ意味ないし全身とさかでいいだろ、排熱はケツ穴からしろ。どんな判断だよ→究極の進化。尻尾からも出してまあ。
・続く
褒めるところ
・無人在来線爆弾は素直に良い。大きなものと大きなものを戦わせるのは男の子の娯楽だ。この点ここはパーフェクト。
・日本マンセーなノリに冷ややかな日本人というナショナリズムに乗り切れない負を背負う当事者視点
各所で絶賛されてるけど、個人的にはナシでした。
場面が切り替わってはテロップ、画面が切り替わってはテロップ、正直に言えば、わかりやすいし面白いんだけど、なにか違う気がしました。
ニコ動ではなく、映画なのだから、映画は映像で魅せるべきなのに、文字情報に頼りすぎてるように思った、
ほぼほぼ、人間パートは会議のシーンと会議室までの移動シーンでしたが、テレビドラマというか、お笑い番組のなかのミニドラマのような感じを受けました。
そう強く思わせる映画でした。
もう1つ、気になったのは、ゴジラへの愛が薄いことです。
特撮が撮りたかっただけで、ゴジラが撮りたかったわけではなかったように思いました。
1番、熱を感じたのは、序盤の水棲生物型のゴジラがビルに抱きついてはなぎ倒すのを繰り返す街破壊シーンと、在来線型爆弾のところです。
ゴジラの熱線なんかは、とってつけたようなCGで、特撮シーンに比べると、「とっておき」感が薄かった。
ゴジラにとっての熱線は、派手さじゃなくて、もっと、もっと、特別なものだったので、派手だけど気に入らなかった。
新シリーズは、旧シリーズの否定なのだから、それは仕方ないことなのかなと思ったのですが、ゴジラ映画の思い出は、幼年期の思い出で、幼年期を否定されたような、寂しい気分になりました。
天災、破壊の化身であると同時に、裁きを与えるもの、神でした。
神に仇なすムートーは裁きを受け、核に頼ろうとする人間、銃に頼る人間もゴジラが裁く。
強く、雄大で、公正な、神の姿でした。
他方、シン・ゴジラでのゴジラは、自然災害ではあるものの、乗り越えるべき存在です。
とってつけたように、博士は核を憎んでたとか、ゴジラの世界を作ろうとしたけど、やっぱり別にゴジラでなくてもいい存在だった。
別にゴジラでなくとも、ゼットンでもよかったし、巨神兵でよエヴァでもよかった。
シン・ゴジラが面白いと思ってる人は、騙されてるだけだと思います。
お笑いにテロップをいれたら、その瞬間は視聴者を笑わせることが出来たとしても、笑いのポイントを解説しなかった時点で敗北でしょう?
テンポがいいし政治劇もおもしろい、大人も楽しめるいい映画だなって思った
だからいろいろな出資者に配慮することなく面白いものができたんだろうね
みょうな日本人がひどい英語でアメリカ人を演じているというまるでコメディのようなものだろう
外国人が邦画にしてはCG頑張ってるよねとかそういう親目線な評価しないだろうし
石原さとみってECCで英会話頑張っててさ~日本人にしては頑張ってるよとか、ファン目線な擁護はしないだろう
何が言いたいかって、この映画、まるで海外市場を意識していないということだ
せっかく委員会方式を採用していないのに、なぜカヨコ役をアメリカ人に任せなかったのだろうか
制作委員会方式であったら事務所がごり押ししてきたんじゃないかとか理由をあげられるが
そうでないなら、あの石原さとみは誰の希望でキャスティングされたのか。庵野か?
ネットでは題材が内向きでよくないなんて意見もあるが、そこは悪くないとおもう
日本で起こった311での題材をゴジラを通して見せるというのは本当に見事だったと思う
しかしキャスティングでの内向きさは邦画のよくない日本芸能村という閉鎖的な面をさらけ出しているなと感じた
これはもう癖のようなものじゃないだろうか
そして海外へマーケティングなどがなされていないのが本当に残念だ
これ幸いとばかりにアメリカとの関係が描けるのにそれを生かそうとせずに
石原さとみに下手な英語を話させることのどこに作家性の意義があるのかよくわからないが
結局かわいい子がでてれば良いという、邦画界のしょうもないスケベ根性でしかなかったりするからあきれる
オタクという生き物は、ほんとうにめんどくさい
めんどくさい例はあげればきりがないが
今回の場合で言えば、その気がなくても好かれたいってやつだ
これはつまり、海外のことを意識なんかしなくても外国に褒められたい、消費されたい
海外のマーケットに合わせた映画作りなんかしなくても、俺らは支持されるんだよねという願望のようなものだ
「シンゴジラは恋愛ないし家族愛描いてないけど面白かっただろ?邦画ってすぐ恋愛入れたがるじゃん?」
恋愛があろうが、家族愛があろうが面白い映画はあるし、逆に、それらがなかろうが面白くない映画はある
結局映画の出来と関係ないものを比較して勝利宣言をしているのがオタクの癖だ
もしかしたらカヨコを石原さとみにまかせたのもアメリカ市場に媚びたくないというなにかしらのオタの癖なのかもしれない
結果ツイッターやはてなではあれだけ盛り上がっているが、結局興行成績は目標50億というところだという
なんともいえない数字だ
しかし庵野秀明、ゴジラというブランド、そして名作だという評価をもってしてもこの程度が限界なのだという事実だ
噂のシン・ゴジラを観てきた。
別に、批判しようと思って観たわけじゃなく、ネットでの評判もとてもいいようだし、ちゃんと、楽しみにしていた。
ところが見終わったあとは、「これが絶賛されるって、大丈夫か?」と疑問符でいっぱいになった。
怪獣映画として出来がいい、というのはまず認めよう。CGやその他の技術を駆使した戦闘シーンやゴジラの描写、街が破壊される様子や自衛隊の武器が炸裂する様子は、それだけで見ていて楽しい。
とはいえ、あまりにストーリーが幼稚すぎる。あんな強引な作りでは感動のかの字も浮かばない。
これが「リアリティを追求した話だ」とか「日本人はまだまだやれる、と思わせてくれた」とか言われてるのを見ると、ちょっとあまりに恥ずかしい。
ストーリーを一言でまとめると、「居酒屋で泥酔して、社長や会社を罵倒した挙句『オレを社長にすりゃ全部解決してやるのによぉ』とか息巻いてる、自意識過剰なだけの情けないサラリーマンの妄想を実現させた話」というところだ。
あらゆる事態が主人公にとって、「都合よく」展開し、「都合よく」終わる、予定調和な物語。
子供向け漫画とかでよくある、「寝て起きたら世界が危機に瀕していて、自分だけがそれを救えるヒーローになってたらいいのになぁ、むにゃむにゃ」みたいな妄想物語を地で行く話。
普通はそういう場合、夢オチにして「現実はそんなにかんたんに行かないよ」って教訓にするものだけど、シン・ゴジラは、大人がその妄想に乗っかって優越感に浸っちゃうんだもんなぁ、情けない。
主人公の青年政治家矢口は、優秀だけど上司に媚びることがないから、組織の中では評価されないタイプ、ということになっている。(ああ、オレもそうなんだよねー、と思い込みたい人たちが山ほどいるタイプだ)
矢口を引き立てるためにことさらに無能に描かれた政治家たちの中で、矢口の予想だけがなぜかはじめから当たり(でも馬鹿な上司のせいで受け入れられない)、彼が組織したチームは全員が「肩書はないけど超有能」で、矢口を評価しない無能な上司たちは「都合よく」全員死ぬ。死ぬのは矢口と関わりが深くないモブだけで、チームの重要なメンバーは「都合よく」全員生き残る。
「ムカつく上司が全部死んで、有能でオレのことを信頼する部下だけが残って、オレがリーダーになれたらいいのに」
物語の中心となる矢口のチーム(巨災対)の仕事ぶりは、いわゆる熱血サラリーマンたちが大好きな、「連日の徹夜と手弁当」だ。
何かを研究解析するなら、世界各国の関係機関の協力を仰ぎ、その指揮を取るのが妥当だと思うのだけど(日本以外は無事なのだから)、そんなことしたら自分たちでやった満足感が得られないからダメ。
何を頑張ってるのかよく知らないが、とにかく寝ないで頑張る。で、優秀なはずのリーダーから出て来る言葉はお決まりの「できるかどうかじゃない、やるんだ!」的なアレ。失笑。
でもこの世界は妄想の世界だから、もちろんそれが正しいことになっている。徹夜で頑張れば光明が見えるし、やると言ったらやる、という強い意志があればあらゆることはなんとかなる。妄想だもんね。ついでに言えば美人のアメリカ特使もなんでだか知らないが最初から気に入ってくれて、アメリカの考えなんて全部無視して全面的に信頼してくれたりする。妄想だもんね。
さらに言えば、「日本人はすごいんだぞ!」ってことにしたいがゆえのご都合主義もあからさまで、苦笑するばかり。
ゴジラに対してアメリカをはじめとする国連は「東京に熱核兵器を落とす」ってことで一致して、なぜか日本の意見は聞き入れずにそれを強行しようとする。
そうはさせるか、俺たちの考えた作戦なら東京を破壊せずになんとかできる(かもしれない)から、アメリカを出し抜いて成功させてやる!という話にいつの間にかなっている。
勝つべき相手はゴジラじゃなくてアメリカ。タイムリミットをつくったのもアメリカ。
ナショナリズムを高めるためだけにこういう脚本にするの、良識を疑うなぁ。まぁ、トランプ政権になったらやりかねないかもしれないけどさ。
そもそも客観的な立場で考えたときに、ヤシオリ作戦って賭けるに値しない内容じゃない?
この妄想物語の中ではもちろん成功して当たり前なわけだけど、ヤシオリ作戦の元になる矢口プランを構想したのは、ゴジラの生態もなんにもわからなかった段階での当てずっぽうに近い。こんなの、全然失敗したっておかしくないわけだ。
「ヤシオリ作戦が失敗して、沈静化するはずのゴジラが逆に活性化して、核兵器も効かなくなり、さらに羽根まで生えて、世界中を攻撃しに行く」
そういう展開にしたら、矢口はゴジラを倒せる唯一の機会を無駄にして世界に破壊を撒き散らした、信じられないほど愚かな指揮官、ってことになる。まぁ、妄想の世界ではそんなことは起こらないけど。
というわけで、シン・ゴジラのストーリーは、とにかく都合の良い妄想だけで構成された、ご都合主義の権化とも言うべき幼稚なもので、この作品を見て「日本人もまだまだやれるって思いました」っていうのは、ハーレムものエロゲをやったあとのオタクが「モテない僕もまだまだやれるって思いました」って言ってるのにそっくりだな、と思うわけ。
マッドマックスはバイクに乗ってたけど、こいつは四六時中、素足で木の上を走りまわるぜ!
ぎゃおおおおおう!雄叫びだぜ!ほら真似てみな!
何故草食動物を食わないかって!?ここが貴重な水の場所だからだよ!だが人間は別だガオオオオ!
この映画が伝えたいことって?そんなもん狂気に決まってんだろ見たら分かる!
可愛らしく言えばおとぎ話みたいな世界(旧アニメ)から設定とち狂ってるジャングルブックだけど
それがリアルになったらどうなるか想像してみろ!大迫力にとち狂ってるぞ!
大体動物が喋ってることがおかしいって誰か気付かないのか?気付かないな!それぐらいリアルなCGだ感服!
ただアニメのあのカオスな終わり方は、さすがのファブローも「ウォルトディズニーいかれすぎ!却下!」にしたみたいだ!
ナイスファブロー!大作映画の制作現場に疲れたのによく帰ってきてくれた!
シンゴジラがなんだって!?そんなもんオラウータン1匹で余裕で倒せるだろ!お前アニメ版めっちゃ可愛かっただろ!どうしてそうなった!
大蛇の吹き替え版はエドワード・エルリックだって?男には興味はねぇ!字幕版は誰なんだ?スカーレット・ヨハンソン!?色気むんむんお姉さまじゃねぇかヒャッハー(V8!V8!V8!)
「ぼくハチミツが大好きなんだぁ」ってお前プーさんか!ディズニージョークかましてるんじゃねぇよバルー!この詐欺師め!
おいそこの黒ヒョウ!お前…ストレス社会で大丈夫か…。胃薬飲むか?一回休んだほうが良いぞ…
あとシアカーン、あんたはディズニー1のカリスマヴィランだ。助演男優賞をやる
そんな考え方も種別も何もかも違うクレージーなやつらを、納得させるが我らがモーグリ!インド人だ!超可愛いぞ!ブルーバックで一人演技してると思ったら末恐ろしぜまったく。
スピード感凄くて疾走感あって猿にふっとばされてる間に映画全部終わってるからな!
爆発とか第二形態とか合成くささはまだあるけど思ったり全然レベル高かったけどな
ギャレゴジとかいうのも見たけど、あれもスムーズさは日本より上だと思ったけど全然CGだと思ったので
こ、これは凄い。そして面白い。
「少年以外CG」というふれこみを見たときに(その宣伝文句はいかがなもんか)と思ったんだけど……
見終わったあと、その宣伝に納得した。
何故ならそう言ってもらわないと、とてもそうは見えないからだ。
自然も毛並みもなにもかもリアル…動きも本物としか思わない。ジャングルで撮影したのではないのか?嘘だろ?あの川は本物なんだろ!?
むしろリアリティが無いのは主演のモーグリ役の男の子の目のキラキラ感だろう。人間はいつからあの目をしなくなるのか。
今回3Dで見たのだが、それが正解だった。細部までこだわられて作られていて、バルーのモッフモフの毛に奥行が生まれている。
モーグリが走って走って走りまくって、飛んで吹っ飛ばされて、落ち着いている時間はゼロ。
と思えば、愉快に熊と猿が歌いだすのだ。本家ジャングル・ブックをしっかり継承している。流石っすねディズニー。
ド迫力すぎて、蛇と猿には実際に襲われる感覚を感じることができる。ぜひ4Dで見るべきだ。
大蛇にペロペロされる感覚を初めて味わった。思わず3D眼鏡を隠した。
ストーリーもしっかり、安心安定。小動物たちがコミカルで可愛すぎる。
メッセージ性も秘められており、大人から子供まで楽しめる。ここまで全世代で楽しめる作品もなかなか無い。(子供びっくりしちゃうかも。じいちゃん心臓に悪いかも)
一本のアトラクションを楽しんでいる気分になれるぞ。
そしてなによりエンドロール!もうこれだけに1800円払うわ!
「人間になり街を歩いてみたい。もう猿の暮らしには飽き飽きしたのさ」このフレーズにピンとくるひとは、全員映画館へ直行!
もう一度言うがモーグリ可愛すぎるしバルー可愛すぎるし、モッフモフで癒された。
追記
シン・ゴジラいまいちだった派としてシン・ゴジラ批判を批判しておきたい
http://anond.hatelabo.jp/20160803123725
に
「CG がしょぼい」というのがどうにも実感できてないのです。
CGと実写が違和感なく混ざっていて、上手く出来ている(=誤魔化している)なとは思いました。
ただ、逃げ惑う人が崩れた建物に押しつぶされるようなシーンは、
ハリウッド映画ならお金掛けてフルCGで負傷するエキストラまでもデジタルで作りこんでしまうのに対して、
シンゴジラでは、逃げ惑う人はエキストラの実写(手前側)、崩れる建物はCG(奥側)の2レイヤーに
別れて見えてしまう部分は安っぽく感じましたね。
シン・ゴジラいまいちだった派の全員がこのような意見だと思われるのは心外なので批判しておきたい。
絶賛されている『シンゴジラ』が個人的に58点の映画だったので海に身を投げたい | 二十日・de・おぼーん | note
政治描写に絞り込むために背景はあえてオミットされていると見るべきだ。
かと思えば「大統領になりたい」だの「総理になりたい」「幹事長になりたい」だの政治的野心をのぞかせる台詞はポンポン出てくる
これはナイチンゲールなどが言う「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」と同様のことではないかと思う。
政治家は、名誉欲や出世欲、あるいは「国を守りたい欲」といった個人的欲望によって仕事をしている。
それは「人のために働く」ことと相反しない。
あえて「無私無欲な英雄的人物」を描かないことがリアリティを生んでいるのである。
廃墟となった町を前に、ことさらに嘆いてみせるのはニュースリポーターの仕事であって、政治家のやることではない。
終わったことは終わったこととして、いかに立ち直るかを考える。
という割り切り、切り替えの早さを描いているのではないか。
前段の「感情移入」もそうだが、「主人公には感情移入させねばならない」「物語はカタルシスを描かねばならない」という観念に囚われすぎている。
こういう物語だったらこう描くべきだよね、という気持ちが先行しすぎているタイプの批評家であるように感じる。
シン・ゴジラは「リアルの政治ドラマ」と「フィクションの特撮映画」を描いた物語なのだ。
だからこれだけ綿密に取材して政治家や官僚のキャラ作りをしてきたくせに、
フィクション側の画面へ行った途端に「無人在来線爆弾」なんてものが出てくる。
その構造を批判こそすれ、ヤシオリ作戦そのものの荒唐無稽さに突っ込むのは野暮である。
主人公の作戦チームってあれだけ人数いるのにマキ・ゴロー博士の暗号解読して凝固剤の生産を手配しただけで実は大したことしてないよね
その二つだけでも十分なうえに、ヤシオリ作戦を立案したのはあのチームでしょう。
あれはゴジラの放射性物質の半減期が短かったという話で、ゴジラの遺伝子データから除染できるという話ではなかったと思うが…
全然ハーフに見えない高圧系女子の石原さとみが「40代で大統領になるのがドリーム」とか言ってるけど、アジア丸出しの顔でなれるわけないだろとか
女性でアジア系で若年、というハンディを乗り越えたいからこそのドリームなんじゃないですか。
この人、10年前にも「黒人がなれるわけないだろ」とか言ってそう。
まったくだ。
ゴジラの造形は最高
腕が小さすぎない?
曲もいいし
冷静になるとああまで過去作をオマージュする必要もなかったんじゃないかという気が。
放射火炎以外のCGがしょぼかった…
4/5
CGが糞すぎるとか
会話がターンベースRPGみたいに、だれかが言い終わってから誰かが言い始める感じとか
音楽がモノラルだったり3.1chだったりゴジラの造形が着ぐるみもしてて懐古すぎとか
たしかに
老害ともいえるいろいろな要素に我慢ならない人も言るだろうし
僕も石原さとみの役の意味不明さとかCGが糞しょっぼいのとかは我慢ならないけど
でも面白かった
でも面白かったんだよな!
普通の映画だったら先に指摘した点で1/5とかにしてしまいそうだけど
なんだろうねシンゴジラって、出っ歯だけどかわいいみたいな僕の好きなあのアイドルみたいなかんじ
でもかわいいんだよ!みたいな
なにがいいんだろうね
考えてみると
とくにハリウッド映画とか、それに影響受けた2000年以降の日本映画、特に局制作のスイーツ映画みたいなこともない
家族愛だの恋愛だのにうつつ抜かして話がひっかきまわされることがない
みんな頑張る!
みんな持ち場を頑張るんだよね
できることをするんだよね
とくに何がいいって自衛隊のカッコよさというか
とにかくかっこいい!
おすすめ!