はてなキーワード: 等価とは
そしたら
「等価可処分所得(が全人口の中央値の半分未満の世帯員世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割って算出)が全人口の中央値の半分未満の世帯員」
って事になってた。
つまり、一人当たりの可処分所得が日本全体の可処分所得の中央値より低い家庭って事だ。
ってことは、仮に俺の月収入が手取りで20万あって、一人暮らしならギリギリ相対的貧困ではないけれど
なんか、これですっきりした。
相対的貧困かどうかは、あくまでも可処分所得で判断するものだ。
にもかかわらず「おそらく相対的貧困」と言えるのは、年収の中央値が350万くらいなのに対し、
子供一人いる場合の相対的貧困「ではない」と判断されるラインが224×2=448万円。
つまり、日本の労働者の半数以上が、子供を1人抱えたら相対的貧困になる。
女性の収入は平均よりも低いから、あの家も「おそらく相対的貧困である」と考えるのが妥当だ。
(なお世帯年収にすると中央値は415万円になるが、家族3人暮らしだとやっぱり相対的貧困)
で、もやもやする原因は何かっていうと
「計画的にお金を使えないから貧困なのだ」という擁護?の意見。
これのせいでややこしくなってる。
どうしても貯金ができなくて、それで社会的に困っているのだとしたら、それはもうメンタル的な問題ではないだろうか。
貯金しなければならない分まで消費してしまう事と、可処分所得が少ないことは別なのだ。
月収100万円の人が給料日に100万円遊んで使っても貧困ということになる。
そして可処分所得が厳しいならば支援したいという人は多いだろう。
ただ、支出しすぎて困ってる人はそんなの知ったこっちゃないってだけで。
淘汰というものがあらゆる状況に存在する「時空」において、個々の知性の存続においても淘汰というものが機能していることを前提とするのが自然だろう。つまり、前項にて示した「相互補完」への帰結も永続的な存在を視野とした知性間における淘汰の結果とも言える。つまり、「相互補完」による均衡状態の維持こそが、「時空」に存在しうるあらゆる脅威から、知性が自らを護るために不可欠ということだ。そしてこれは限定知性にも当てはまる。ただし、「相互補完」による均衡状態は、「大いなる良」という恒久的な時空間軸の観点から初めて示され得るものであるため、限定知性にとって、自らの境遇がそれに到達するうえで如何なる状態にあるかを見極めるのは困難だ。むしろ限定的時空間の視点において「良」とされる状態が、該当する限定知性にとって最終的に「大いなる良」へと移行出来得る可能性を高める境遇であるとも限らない。つまり、限定的空間における「良」は必ずしも知性における「良」であると定めらるわけではないのだ。そこが、限定知性が自らの行動規範を明確にすることを困難とする。一方、時空間的制限から解放された存在である知性にとっても、限定知性が持つ、特定の時空間に対する「主観的な視点」ならびにそこから得られた知見は、自らの知性を補完するうえで重要なものになる。状況を単に理解すること(即ち「知」の蓄積)と、主体的な立場でそれを体験すること(「経験」の知性への統合)には大いなる差があるからだ。つまり、知性は限定知性がいずれ、その物理的空間から解放され「大いなる良」を達成するためにその他の知性と均衡関係を築き上げることを望んでいると仮定することが妥当だろう。
(結局、この世は競争社会で、だれもが直面しなくちゃいけないものだよね。たぶんそれは、意識をもっているあらゆる存在がそうなんだろうな。とういことで、皆でハッピーになるために、互いに愛し合うっていうのはある意味、生存本能がもたらしたもんなんじゃないかな。ただこれはあくまでも、この世の時間とか制約を超えたセカイを前提とした意味だよね。でも人の世では、それは分かりにくいよね。この世の金持ちや名誉を得た人が天国(極楽浄土?)にいくとも限らないし。ただ、もし人よりも高等な存在がいて、それが時間とかを超えた文明をつくっているのなら、結局、この世界に介入するだろうね。どんな些細な人生でもその体験は、重要ということさ。)
知性は限定知性の限界である時空間からの解放に意義があるという前提で介入する。それは「大いなる良」に向けた相互依存のために不可欠であり、巨大な淘汰という環境において知性自体の存続を維持、反映させるうえでも不可欠であるからだ。一方、限定知性は、自身の物理的個が崩壊すると同時に自らの知性も損失してしまうことが限定された環境下における最大の障害となる。従って、限定知性もこの時空間的制限という限定条件を突破し更に存続できるかはその存在自体にとって文字通り「死活問題」ということが出来る。だが、知性自体が、その存続の最大の条件を「大いなる良」に向けて相互補完であるということしているのであれば、限定知性もその思想及び行動の範疇をそれに準じなければならない。
実際にそこは矛盾に満ちた境界でもある。つまり、限定知性は時空間を極めて限定された中で自己を認識しなければならないのも関わらず、時空間から解放されている条件下の相互補完を
持続的に実現しなければらないからだ。
(時間や空間を飛び越えた神やら仏やらがこの世に介入するときっていうのは結局、みんながハッピーになるため。神やら仏やらがいる天国やら涅槃、霊界やら地獄やらっていうのも
結局は超巨大な競争社会。自然界の弱肉強食なんだろうね。結局、神やら仏やらもすべての生きる人を必要としてるんだよ。人とかも結局、死からは免れない。でもそれをするには
みんなが永遠にハッピーになるために頑張らなきゃ。でもこの頑張るっていうのが、この世だけの見え方ではなくて、神やら仏やらの視点で頑張るっていうのが大変なんだよ。)
知性にとって、あらゆる限定知性の価値は、「大いなる良」に向けて相互補完を実現する名のもとに等価である。ということは、限定知性の思想や行動規範もそれに準じなければならない。知性にとってあらゆる「知」を「経験」として再構成するにはすべての限定知性が不可欠である。一方、限定知性にとっても時空間的制限や制約並びに障害に囚われる事なく
全ての限定知性を等価にとらえ相互の関係性においてその思想と行動規範を維持することが求められる。
(神や仏にとって、どんな人も大好きなんだろうね。そんなことを考えているからハッピーになれる。 幸せに生きるためには、人の経験がどんなものであれ、それらを一つに
して団結することで強くなるわけだから。ということは、どんな人でも人種がちがったり、ちょっと考えていることが違ったり、美人もデブも不細工も、イケメンも、学校の
昔、淀川長治が、マルクス兄弟について、「映画のコメディではなく、舞台のコメディ」っていったけど、「シンゴジラ」も映画である前に、シミュレーションの映像化。この監督が撮ろうとしているのは、「ゴジラ」という生物が出現したとき、対抗措置として作動するメカニズム。人間ドラマとか、入る余地はないよ。
戦車やミサイルだけではなく、大型未確認生物の日本上陸という非常事態に対処する官邸を中心とした官僚組織もメカ(機構)として扱われる。テロップではいる「内閣官房副長官秘書官」という肩書と「こんごう型護衛艦「きりしま」」という艦名は、その機能を現すうえで等価であるということ。劇中、ヒロイックな面もあるけど「内閣官房副長官」がたまたま「矢口」という人物だったのであって、「矢口」という人物の固有性は、ここでは意味を持たない。そこで俳優が演じるのは、固有の人物ではなくて、出世欲も含めて、その役職についている人物の類型を出ないが、それがシミュレーションを超えて「映画」であるうえで問題とも思えない。
ストーリーを進めるにあたり、言葉で説明し過ぎるのがこの映画の欠点だけど、前述した理由からストーリーの展開上、あまり大事ではない演者の振る舞いやセリフこそ、見るべき。市川実日子のあまり感情を見せないが、ないわけではない理系女子のもっさり感。高橋一生の一流大学院-研究機関と等質な環境で馬齢を重ねた人間特有のいい歳をしたおとこの学生気分の抜けなさ加減。ピエール瀧の、市川とはまた違った感情を表に出さない鈍重な顔をはじめ、自衛官役おしなべての顔の良さ。アメリカからの通告を聞くシーンで、撚れて「かっこ悪い」竹之内豊のかっこよさ、等。
映画として、大傑作かと言われると疑問だけど、自衛隊や官邸の組織について詳しく調べて、特撮映画としての「ゴジラ」に喰らいついてくるオタク、マニアが何を好むか、よく考えている。
あらゆる映画は、ジャンル映画であり、個々のジャンル映画は、固有の観客層を持つ。結局、大ヒット作もコアとなる観客層にターゲットを絞って、それを土台に観客を増やしていくほかないと思うのだが、テレビ・ドラマをそのまま映画館のスクリーンに映しただけで、そのドラマのファンが映画館に来た一時期のバブルのせいでそれが忘れられていたのではないか、と思った。ただ、そんななかても、固有の観客層に向きあう映画もあり成功事例もいくつかあった。今回はそのなかでも評判がひときわよかったものではないか。実際、小説やマンガの映画化の際、原作を念頭において見にくる客を当てこんでいるはずなのに、原作も読まずに撮っている監督もいるからね。それなら、はじめからオリジナルの脚本で創ればいいのにね。いったい誰が見るのかさえ考えずに、作っているとしか思えない映画が多いなかで、いい映画だと思うが、この規模での成功を納める後続する作品が出てくるのかな、とも思う。
***
無料で見られるテレビですら視聴率を稼げないのに、身内でウケたちゃちなアイディアをもとにして金のとれる映画をつくろうとする無謀なテレビ屋。制作委員会に名をつらね、誰でも思いつきそうな注文を並べるだけで、金を抜こうとする広告代理店。うすい内容をさらに前後編に分けて薄めてしまおうとする映画会社。本編とはまるで関係のない歌詞のサビを大音量で歌いあげる予告編。練りこみが足りず、登場人物が性格破たん者にしかみえないばかりでなく、物語自体も前半と終わりで話のつじつまがあわない脚本。そこそこ良質な映画でも、評判の立ち方が気に食わないとワースト映画に挙げたがるポーズだけの評論家。
矢口蘭堂の目のまえに、がれきの山が拡がっていた。遠い昔であるが、ハリウッドに次ぐ映画大国であったこの国が、いまでは見る影もなかった。
祈りって座って目つぶってればよくて体力などいらんように思えたけど、
調べたところ宮中祭祀というの本当に体力がいるみたいだし、
決められた務めのほかにも私的なものとして毎日か分からないけど頻繁に行うみたいだし。
自分のことというか象徴天皇のこと、神と思ってないのはもちろんだけどおそらく人間とも思ってない。
きっと神と民をつなぐものみたいに思ってる。
びっくりするほどスピリチュアル。
そして公的に決められた務めと私的なのと等価みたいに思ってる。これらを総称して祈りって言うとして、
天皇は祈りをせねばならないしそれ果たせずして天皇たりえない、不可分だ、って思ってるのでは。
だから果たせなくなったら退きたいし、代行じゃだめ、って思ってるのでは。
1-1 序
情報空間でこれだけ匿名で思想が交換されているのに、その淘汰の中で哲学が生み出されるのは不自然ではないだろう。物理的空間に拘束されていた先人が、その環境に必要だと感じられた概念を生み出してきたように、物理的空間と情報空間に境界はない今の「日常」に、最適な概念の創出を理想に掲げた思想が生まれてしかるべきだからだ。逆に言えば、物理的空間に拘束されていた人々が生み出し且つ淘汰されてきた思想は、そのような外的環境における状況に最適なのであれば、現在の「日常」に当てはめるのには限界があるのだ。従って、物理世界と情報空間が統合化されつつある環境で存続する知性にとって最適な思想を、過去にとらわれることなく自ら模索するというのは現存の知性にとって急務であるとも言える。
1-1-1 情報空間と物理空間が融合化された社会における知性を対象とした思想の深耕、展開における前提条件
物理空間と情報空間の融合が前提の社会における思想を深耕、展開させるうえで増田をその場とする主要な理由は、その匿名性にある。つまり情報空間と物理空間が融合しつつある社会においては、ある思想を発した、または提起した特定の人間を神格化するというのは適切でないとの思想からだ。思想は往々にして人間に額面以上の価値を付加してしまう。そしてそれが多くの対立を生み出すのが常だ。だが、物理空間と情報空間が融合するという、従来では考えられることのなかった社会体系を人が享受しつつある今、この新たな社会体系においては人が思想を所有し、過去と同じような対立状況を生み出してしまうことは望ましいことではない。そしてこの発想自身、増田哲学における根本である。つまり、それぞれが匿名で考え方を晒し、取捨選択の中で淘汰されて生まれる思想を特定のひとが「所有」するという状態は生まれるべきではない。つまり 増田哲学において、その思想は物理空間、情報空間に関わらず「無所属」であるべきである。
更に言えば、生成される思想は、「静的」なものでなく「動的」なものである必要がある。たしかに思想の交換の中からは「不変のモノ」も生まれ得る。しかし、「更新」を前提にすることこそが、情報空間における相互依存が前提である知性社会においての哲学のしかるべき姿なのだ。
「更新」も前提にするべきものである。時代とともに、新たな情報が交換される中で新たな知がそこに統合される必要があるからだ。それこそが情報空間で生まれた「哲学」の所以である。
「拡散」、「改変」、「複製」、「転載」も自由だ。様々な、改変、解釈が行われていっても最終的に優れたものだけが淘汰されて残り、それが改めて集約されることで思想自体の「更新」へと繋がるからだ。
でありその均衡状態を念頭に、いずれそれを達成するために準拠しうる行動指標を示しうる思想を目指す。その本質的な部分は
恒久的視野からみた「大いなる良」を達成するうえでの「相互補完」
ということになる。「相互補完」とは各知性の「個」を尊重しつつも同時に「他」の存在なしには持続的存続はあり得ないということを理解し、「他」を「自」と実質的な「等価」として常時意識する状態を指す。そして、「大いなる良」とは、「相互補完」の意識が浸透した「個」が相互に、そして「全体」と連結することで、存在しうるあらゆる知性がそれぞれにとって最適な存続環境を作り出すうえでの均衡状態を持続的に維持することを実現する思想であり行動様式を指す。
増田哲学における「あらゆる知性」とは、物理的制約に縛られている存在、すなわち「限定知性」(以下、前述の制約に存在する知性について言及する場合のみ限定知性と呼ぶ)に加え、物理的制約から解放された知性の存在をも内包する。現段階においては、物理的制約から開放された知性が存在するという確固たる立証は存在していない。ただし、そのような存在が悠久の過去における一時期、もしくは未来永劫存在し得ず、且つ時間軸、空間軸並びに次元を超えて介入し得ないと断言することも否定する。また、これらの知性は「大いなる良」というあらゆる知性の理念達成の名の下に、間接または直接的に物理的制約に縛られ知性と交わる可能性も否定しない。これらを踏まえ、増田哲学において、思想を深耕、展開させる際は、これら全ての知性の良を意識したうえで展開していく。むろん「全て」などという概念は無謀であるということを認識しつつも、それを理想とするということをここに付記する。
http://anond.hatelabo.jp/20160805213252
ネット社会が普通になったし、そろそろそれにあった思想とかがうまれても普通じゃね?ネットが無い時代にうまれた哲学っていうのは、ネットと現実がひとつになるなんてことを考えていたわけじゃないから、いまの時代とフィットするわけがないよ。だからネットと現実がひとつになった時代に生まれた俺たちがゼロから考えるべきなんだよ。これまでのことはとりあえず意識しないで。
増田なんだから、これは俺たちみんなのモノっていうことで。あと、みんなで考えるから、過去、現在、未来と常に変わらない考え方も出るとは思うけど、基本、バージョンアップされるのが前提だよね。ちなみに、基本的ポリシーは、「ここで生まれる思想はそれに関わる皆に所属するということ」、「常に更新されるべきということ」、「コピペ、改変、新解釈、拡散、すべて自由」。あとは、増田の住民がそれが正しいかどうかを判断するよ。
増田哲学をとりいれることで、人間も、宇宙人も、A.I.も、クジラ、シャチ、イルカなど独自の言語体系を持つ高等生命も全てがハッピーになればいいよね。お互い愛し合って。出来れば永遠に。
あと、ふつう、みんながハッピーにっていうといま生きているものが重要だけど、138億年以上もある宇宙の一時期、またはこれから未来永劫、時間とか空間から解放された存在が絶対に存在しなかった、または、存在することは絶対ムリとは言い切れないよね。あと、時間や空間から開放されるっていうことは、何らかの形で現存する世界に介入をすることも。分かってる。これはかなりぶっ飛んでるよ。でも、これまで生きてきた数十億という先人たちが伝承してきた存在、つまり神とか菩薩、精霊とか、グレートスピリットなどなどとかいう概念も単なる「迷信」とかで片づけずに、いろいろ考えていくよ。
強者「俺できるしお前もできんだろーが」
逆転させると
何も言ってること変わらなくなくね?
できる/できないのボーダーを決めるのに努力値の問題だって多かれ少なかれあるわけだろ?
取り組む姿勢やネガ・ポジでその境界が前後するならどちらの意見も等価だろ?
産まれつき可能性皆無の能力ってどれだけ客観的に測定可能なの?
結局はできるまでやるっていう精神論でしか解決できないんじゃないの?
なら両者共に精神論をぶつけ合ってるだけだろ?
なんで持って生まれし者扱いで圧力かけられてるってイメージでしかとらえられないの?
PS:
ってダダこねてるだけなんだよ
世界や惑星・地球を救うレベルの努力値だと認識してるのが弱者の感覚
ああ。住井@東北大かな?
>(分析哲学ではなく関数型言語の意味で)参照不透明なので、関数型プログラミングのメリットは享受できない、命令型の破壊的代入と等価ですね。
君の役にもたたない机上の空論は皆そろそろ聞き飽きていると思うので、適当なハッタリではなく、timeengine(FRP)がいったいどのような局面で、参照不透明と名実ともになり「破壊的代入」のデメリットが顕在化し、関数型プログラミングのメリットが享受できなくなるのか、具体的に示せよ?100%無理だろうけどね。机上の空論じゃないなら、やれるもんならやってみな?w
ああ。住井@東北大かな?
>(分析哲学ではなく関数型言語の意味で)参照不透明なので、関数型プログラミングのメリットは享受できない、命令型の破壊的代入と等価ですね。
君の役にもたたない机上の空論は皆そろそろ聞き飽きていると思うので、適当なハッタリではなく、timeengine(FRP)がいったいどのような局面で、参照不透明と名実ともになり「破壊的代入」のデメリットが顕在化し、関数型プログラミングのメリットが享受できなくなるのか、具体的に示せよ?100%無理だろうけどね。机上の空論じゃないなら、やれるもんならやってみな?w
ああ。住井@東北大かな?
>(分析哲学ではなく関数型言語の意味で)参照不透明なので、関数型プログラミングのメリットは享受できない、命令型の破壊的代入と等価ですね。
君の役にもたたない机上の空論は皆そろそろ聞き飽きていると思うので、適当なハッタリではなく、timeengine(FRP)がいったいどのような局面で、参照不透明と名実ともになり「破壊的代入」のデメリットが顕在化し、関数型プログラミングのメリットが享受できなくなるのか、具体的に示せよ?100%無理だろうけどね。机上の空論じゃないなら、やれるもんならやってみな?w
インターネットはその性質上、全宇宙のデータ化を目的とする。人体やその内面も例外ではない。
いずれインターネットは脳の中に入り、就寝中の夢をストリーミングしたり、思考のいちいちに他人がクソリプを投げてきたり、幼少期に身に覚えのないヴェルタースを貰った思い出が書き加えられるようになる。そのときに、固有の脳の生理活動を「自分の領域」として保護するための権利意識の醸成が必要不可欠である。もしこれに失敗したら、未だ解明されていない自我そのものの存在が多数の典型的クソリプによって疑義を呈され、なし崩し的に政府による思考情報の自由な読み取りを可能にする法案が衆院を通過してしまうだろう。
また他の心配事として、ネットに魂を移住させて肉体運用のコストを無くすという名目での自殺が横行しする可能性があり、それを止める方便としても自分権が不可欠である。この権利の領域を魂と定義すれば、脳から意識を切り離してアップロードさせるなどという愚考はただの殺人だと説明が付くだろう。問題は、すでにこのようなことを考え、実行するのに何ら疑問を持たない輩がいるということだ。すなわち「現実と故郷の区別が付かない人」の事である。彼らは、ネットに魂を捧げてオトカドールになることは、コントローラを操作する側の世界で生きることと何ら変わりは無いと断言する。彼らが区別が付いていないのは現実とPCの中の世界ではなく、死体と生きた肉体が等価だとする錯誤である。しかし、彼らとの対話においてもはや「肉体」「生物」「社会」という単語自体が彼ら独自の「区別の無い価値」によって書き換えられているので、会話を交わす事自体が相互不信を深める以外の成果をもたらさないという事になってしまっている。近いうちに素粒子サーバー内に作られた広大な公営住宅内に貧困者を移住させる政府の計画が始まりかけている。それは真に大きな過ちであり、失われた生命(この言葉さえも、もう)の取り返しの付かなさとともに、新天地に立った彼らを待ち構えているのは文字通りの「レトロウイルス」、つまり古参の電子の民との闘争の口火に立ち会うことになる。
>途中で死ぬかもって発想は貧困層や紛争地帯に居る人間の発想だな。恐らく日本人だろうから前者か。
お前は自分が80歳までガンにもならずに痴呆にもならずに事故にも合わずに障害者にもならずに自分の足で歩けなくならずに寝たきりにならずに
そんな誰もが理想とするような黄金のような道を歩いて来られると思って、いや確信してるの?
お前のその未来への貯蓄も貧困層の今日を生きるしかない宗教に対しての何の保証もないのに40年後のために備える脳死教なんだよ
俺が若いうちに金使えっていうのは今という時間こそが一番新しく確実な未来だってことだよ
自分の能力向上や資産になるのは金だけじゃなく体力や(ビジネスに活用できる)交友関係や自分の人生を豊かにするような趣味を見つける
そういうことに金を使って最大限に効果を発揮するのは若いうちだけなんだよ
65歳だろうが55歳だろうが加齢臭がしたころにそんなことモタモタ始めても遅いっつーの
それに死ぬときは途中で死ぬんじゃなくて死ぬその瞬間に死ぬんだよ
誰もお前のために運命に抗議なんてしねーよしても生き返らない
というか極端な話、年取って金しか切れるカードがないって何のために生まれてきたの?
60で1億円持って何をするの?万札風呂でも作るか?
お前が到着しようとしているゴールがそもそもお前の幻想の中にしかないんだよ
あと本当の紛争地域に行ったこともないのにそれも妄想たくましいな
妄想力だけは培ってきたと納得させてくれるわ
その例のように等価では困る場合はあるけれど、問題によって最適な重み配分は異なるんじゃない? そしたら現状「たまたまそうなっている」格差がよりよいという根拠もないよね。
イシューごとに重み配分を考えるのも非現実的なので、票の重みはなるべく均一にしておいて、地域性の高い問題はなるべくその地域の自治に権限移譲する、くらいしか思いつかないな。
世の中には「コミュ勢」とでも言うべき層がいる。
「コミュニケーションが一般人がもてる最大の価値である」、「コミュニケーションを通じて自分の認識の正しさを再確認したい」、「コミュニケーションを通じて自己表現や自分の価値を発信したい」、「コミュニケーションを通じたコミュ内のカーストゲームが人生そのものである」といったような思想、信条を持つ人。
そして、その数や割合はびっくりするほど多い。
かといってこの「コミュ勢」のコミュニケーション能力が高いということはなく、どうも、その能力とは無関係らしい。思想、心情なので当たり前といえば当たり前だけど。
問題は、この「コミュ勢」というのが、社会的にも自己認識的にも、言語化されてなく認識されていないところだ。
例えば、適当な最近流行りのアニメのファンコミュを覗いてみると、半数以上が「コミュ勢」だということも少なくないように思う。
「作品Aが好きなので見ているだけで利益だ」という人間と、「作品Aについて語るというコミュニケーションで何か利益を得る」という人間は、全く別の人種なのだ。
後者はコミュニケーションの中で、自分の有能さを確認したり、ブームとの一体感を得ようとしたり、孤独を埋めようとしているのであって、作品Aそのものは、後者の中で重要ではない(重要だと本人が思い込んでいることは、往々にしてありうる)。
前者の価値観で言うと、作品を生み出したクリエイターは、自分が夢中になれる宝物を生み出してくれたので、リスペクトの対象だ。
しかし、後者の価値観で言うと、雑談のネタを作り出してるだけなので、消費対象であって、リスペクトの対象ではない。極端な話、名作映画も、ベッキーの離婚話も等価だ。その話題に注目する集団(コミュ)が発生して、そこで(擬似的にでも)会話ができればそれで良いのだから。
ぶっちゃけ、今の時代「ヲタク」だと自己認識してたり世間から言われている層の、過半数が、後者の「コミュ勢」なのじゃないか?
思うに「リア充」と呼ばれる人たちあるいは「マイルドヤンキー」と呼ばれる人たちは、「コミュ勢」である自覚があるし、自認もしている。彼らは生活の中でいろんなイベントがあるけれど、たとえばカラオケに行ってもバーベキューにいっても、それそのものが、一番大事なことだとは思っていない。「そこへ誰と言ってどういう関わりを持つかが大事」だと認識しているし、公言している。
そういった彼らの態度は、たとえば「本物のバーベキューファン」からすれば、「バーベキュー蔑視」「にわか」みたいに否定されるかもしれないけれど、でもそれは、彼らリア充マイルドヤンキーの思想信条や普段の言動とは矛盾してない。彼らは最初から「ダチが大事だし、良いダチがいれば何しても楽しい」と言ってるわけだからだ。なので、その点に関して、彼らは誠実であると思う。
一方、オタクコミュで後者が忌避されるのは、彼らが彼ら自身を「コミュ勢」だと認めない点にある。彼らはコミュ参加の手法として「作品ファン」「サブカルファン」を装う。
自己批判も含んで告解するけれど、リア充もしくはマイルドヤンキー的な生き方というのは、増田では馬鹿にされるけれど、それはそれで大変だと思う。彼らは「語るテーマやいっしょにする遊びそのものではなく、誰(=友達)といっしょにするかが重要だ」というスタイルを持っている。それは逆にすれば、語る内容や一緒に過ごす遊びそのものの魅力と切り離して、自分の友人や人間関係を維持する宣言だからだ。つまり俺(の人間的魅力と気遣い)とお前(の人間的魅力と気遣い)で、俺とお前の関係を構築維持する、ということであって――それってかなり偉業じゃないだろうか? 少なくとも自分は趣味というコアを除去して友人関係を維持するというのは負担が大きいと感じる。
非常に露悪的に表現するならば、Webのオタク界隈で暴れている「コミュ勢」などというものは、「コミュで他人と関わることが至上だと考えているくせに、リア充グループに入れなかった落ちこぼれ」「ヲタク界隈でだったらマウントできると勘違いした自意識が肥大した無能」であるとすら言えると思う。
そういった考えを元に展開すると、「にわか」という罵倒語の存在は、ある作品のコミュにおいて、コミュ勢とコミュ勢の勢力争いとして生まれるように思われる。「このコミュは俺が先に目をつけて縄張りにした場所(作品愛とは無関係)なのだから、あとから参入してきたお前らはおとなしく俺の下につけ」的な話なのだろう。
一方、ただ作品を愛してるだけの人にとっては「作品を愛し鑑賞するという価値観以外を持って、コミュから利益を得ようとするなよ」としか、その手の騒ぎにたいして思いをモテない。
・すぐに「全身脱毛すればいいじゃん」っていわれる。クッソ痛いらしいしお金ないし生えてくる人は生えてくる(実際姉がいろいろためしてるがいまだボーボー
・肌が弱くてカミソリも脱毛剤も脱色剤もブツブツになる
・シートで剥がすヤツの手間と値段が半端無い。あと足の後ろとかできなくて人にやってもらうと涙が出てくる
・夏場剃ってないとやっぱり見てくる人は多い
・毛深い女子が好きっていう人、なかなか信じがたい
・でも自分から言うのもなんだけどいままであった毛深い女子っていいやつばっかりだったぜ!
・冬場は処理しない(顔とか手の甲はやるけど)
・夏は泣きながら処理する
・こどものときから毛深かったのでカミソリで剃り落とそうとして壮大に肌を剃ったことがあるので毛深いこどもをもつ親はカミソリの使い方を伝授するか電気シェーバー買ってあげたほうがいい
・電気シェーバーに数年前に出会った。俺たち出会うのが遅すぎた…
・陰毛は処理しても処理後残るからブルマ下げ気味に履いてたら他の女子から「もっとちゃんとはいたら足長くみえるよ!」っていわれたけど理由も説明できなかった
愚痴りながらがんばって処理する
今のところ電気シェーバーで刈り取るのが一番楽(ブツブツもでない)お風呂場かベランダでやるがたまにむしゃくしゃして部屋でやったあと(一応敷物は敷くけど)コロペタで掃除するの悲しい
増田たちに残された食料は水四リットル、キットカット七袋、カロリーメイト三箱。
周囲は無人の荒野が広がっている。最寄りの街までの距離は百キロ。
ある増田は言った。「増田はみな等価値だ。食料をみんなで平等に分配しよう」
別の増田は言った。「強いものが生き残るべきだ。暴力で勝ったやつが総取りにすべきだ」
また別の増田が言った。「あのさー、俺最高三百ブクマ稼いだことあるんやけど? 他にこのクラスの記事書いたやついる? いないでしょ?」
最初の増田が言った。「いやいやいや、ないっしょ。三百ぽっちとか。何? 増田で記事書いたら普通それくらい行くって。っていうか俺だったら今からそのへんでブログたちあげても500は楽勝でいくし」
親の脛をかじってる増田が言った。「は?だったら今すぐやってみせてくださいー五百ブクマ記事見せてくださいー」
それとはまた別の増田が言った。「やめてよ! おれたちは増田同士……みんな実名ないし固有のハンドルネームでやっていけない弱者ばかりじゃないか! なんで、そんなつまらないことで争うんだ! こんな食料、こうだ!」
七番目の増田が叫んだ。「ああっ! 水をキットカットにぶっかけて燃やし始めたぞこいつ!」
増田を殺すしか無いと考えている増田は言った。「こいつもう殺すしかない」
名探偵増田は推理した。「ん? いくらなんでも火の勢い強くない? 待てよこの水……ペロ ! これは水じゃない""ガソリン""だっ!!」
最後から二番目の増田が言った。「なんだって!? おれたちは騙されていたのか……」
あの増田は言った。「増田だと思ってバカにしやがってサバカリ―め……」
常に無限からマイナス一番目の増田は言った。「しかしこの増田のおかげで結果的におれたちは助かったわけだ」
そしてまた別の増田が言った。「やったな! ようし、みんなであの英雄増田を胴上げだ!
増田たちは英雄増田を胴上げした。「「「わっしょい!! わっしょい!! わっしょい!!」」」
その瞬間、核融合によって放たれた高速中性子がウラン合金製のタンパーに到達し、核分裂を開始させた。
このプロセスを最後にケーシングは完全に消滅し、核爆発となる――そう、そこは北朝鮮の水爆実験場だったのだ。
お母さん「――そうして、はてな村民たちはいつまでもけまらしく暮らしましたとさ。おしまい」
子ども「おかあさん、おかあさん、それから増田たちはどうなったの?」
お母さん「ふふ、身体も名前も焼尽された増田たちだったけれど、その意地汚い思念だけは残った。それらがよりあつまって、今の匿名ダイアリーが成立したそうよ」
子ども「ふーん、そうなんだー。お母さん、決めたよ、ぼくも大きくなったら増田になる!」
お母さん「あらあら」
おしまい。
先に男根のメタファーなるものが話題になったが、それでは男根の直喩とはなんだろうか、という疑問が呈された。
考えてみると、画像や映像で「メタファー(隠喩)」という表現は使われるのに直喩はみない。それはどうしてだろうか? また男根の直喩はありうるのか? その場合はどういうものがそれに相当するのか?
比喩とは、異なる2つのものを性質の共通性によって連想(類推)させ、結びつけるものである。
それゆえ比喩は比喩対象(=比喩されるもの。「被比喩物」)、比喩しているもの(比喩対象以外のものであることを要する。「比喩物」)、両者の性質の共通の3点を満たす必要がある(以上を「比喩要件」と呼ぶことにする)。
してみると、隠喩は比喩要件を最小限に満たしたもの、直喩はそれに加えて比喩性を明示したことをいう、と考えられる。
ところで比喩であることを明らかにするには「ようだ」など、比喩性を直接に明示する文言を使うことが一般的である。
辞書の定義には「ようだ」「ごとし」「似たり」などの比喩を表す文言を用いたもの、とまで書くものもある(広辞苑など)。
しかしそれ以外の方法で比喩性を明らかにすることが妨げられないのではないか。比喩であることが明らかなもの、という定義も存在する。大体にして「などの比喩を表す文言」という定義自体、曖昧であり却って議論を混乱させる。本質としては比喩であることが明示されているか否かが重要だろう。
そこで、凡そ一般に比喩性を明らかにすれば、直喩が成立すると考える。
比喩性は比喩要件を満たせば認められるが、同時に我々は比喩要件を満たした表現を見ると、それを比喩であると認識する。
この観点に立つと「ようだ」「ごとし」「似たり」などの文言を使う方法は、比喩要件充足を包括的に示す方法と言える。
それでは「明示」とは何を意味するのか。
これは、受け手に高い蓋然性を以って<上記の比喩性=比喩要件充足を伝えようとしていること>が理解されるものと考える。
まず比喩要件を各個に検討し摘示するような表現が考えられる。比喩要件を各個に検討し摘示する表現はかなり不自然な表現であるから、<上記の比喩性=比喩要件充足を伝えようとしていること>が理解される。すなわち、比喩要件充足が明示された、と言える。拙い例で申し訳ないが「あの子は虎だね。強くて大きくて五月蠅いが、それでいて可愛げがある」などの言い方を例にしたい。最初の文単独で見れば隠喩のように見えるが、しかしこの文章全体からしてこの言い回しは直喩である、ということになる。本来受け手の側で「発見」される(後述)性質の共通性をわざわざ述べる不自然さが比喩性を明示するのである。
しかし方法はそれだけか。私はほかに「比喩するものの存在の明示すること、及び比喩対象(被比喩物)の存在が特定できるほどに明確に共通の性質を示す」という方法でも可能ではないかと考える。何故ならそれにより結局比喩物、被比喩物、共通の性質が明示され、比喩要件充足及び比喩要件充足を示そうとしていることが高度の蓋然性を以って理解される、と思うからである。
(またこのほかに、そもそも被比喩物を模したことが公知の事実となっている比喩物というものもある。男根と張型の関係はこれに当たろう)
さて後者の「その他の方法」をわざわざ提示するにはそれなりの理由がある。これは、言語表現以外で比喩性という一種の関係を伝えることには困難が伴うと考えるからである。
詳述するとこういうことである。画像や映像における「メタファー(隠喩)」は言語表現とは異なる。言語表現においてメタファーは比喩物と被比喩物を示し、共通性は読者が発見するという形を採る。なぜ読者がわざわざ発見するのかと言うと、それは比喩物と被比喩物がズレているのにも拘らず、同一性を示す言い回し(AはBだ、が典型)が使われるからである。
映像では被比喩物が示されず、ただ比喩物のみが存在するという場合がある。その代わり、比喩物と被比喩物の関係は共通性が見出しやすいものとなっている。それは同一性に気付く手がかりがないからそのように設定して用いざるを得ないところもあるが、画像や映像は情報量が多いため、共通の性質を見出すことが容易であることも大きな理由であろう。
こういう性質を持つがゆえに、画像や映像において「~のメタファー」なるものは見いだせるのに、直喩は見いだせないのである。しかし、先に示した直喩の考え方によるならば、画像や映像においても辛うじて直喩は認め得るのではないか。映像や画像であれば、似たものを並べれば、それは比喩物、被比喩物、共通の性質を同時に示したことになり、これは「各個の明示」に近い。
またそうでなくとも「その他の方法」によることも可能である。例えば動作を含めれば、共通の性質がより鮮明に打ち出され、それにより被比喩物が特定されるだろう。画像・映像表現ではこちらが使いやすいのではないかとも思われる。
以上より、画像や映像における直喩は成立しうる。そして如上の直喩概念によるならば、男根の直喩とは、例えば次のようなものが考えられる。
張型(物自体)