はてなキーワード: 等価とは
ブコメを書くとき、記事を読み込んで、考察して、ネットで調べてから、満を持して投稿する時と、
ろくに記事も読まず、かなり一方的で偏った意見だと自分でも思いながら、いい加減な気持ちで投稿する時があるけど、
最初のころは、ブコメと言えどネット世界に意見を投稿するのだから、ちゃんと公明正大なコメントにしないと、と思っていたが、
最近は、スターがもらえるようにあえて馬鹿にでもわかりやすいような偏ったいい加減なコメントを書くようにしてる。
おかげで沢山スターをもらえるようになったが、これで良いのだろうか?とも思う。
この問題を解決するには、頭の悪そうなブクマカー10個のスターと頭の良い人のスター1個を等価にするような仕組みが必要なんじゃないかと思う。
上記のエントリに、「嫌いじゃなくて好きを語ろうぜ」的なコメントが付いてて、なんか違和感があったので言語化を試みる。
この手のコメントはたまに見るけど、同じ人なのかいろんな人なのかは調べてないのでわからない。
「語る」という行為の(本人的な)価値は、好き/嫌いのベクトルに左右されない。
つまり、「10好き」と「10嫌い」はそれぞれ価値(ニュートラルからの距離)が 10 なので、"語るという行為の動機"という価値は等価。
心情的には"好きしか語れないなんてディストピアじゃん。"とか、"そもそも「嫌いを語る」のが好きならそれは好きじゃん。"とか、そういった言い方もできる。もっと基本的に、"好きに語らせたれよ"とかね。
あるいは、「嫌いじゃなくて好きを語ろうぜ」は「俺が好きなもんをクサすな」の遠回しな言い方なのであれば、このエントリの内容こそ「好きにさせとけや」って話ではある。。
あ、おれはトラバ元の増田とは別人です。そして、件のコメントにムカついたから書いたわけではないです。モヤっとしたので言語化してみたかっただけです。
前提条件:「小用を足しているとき隣に人が来ると落ち着かない。ただし万人がそうであるとは限らない」「位置取りの最適については、自分だけを考察の対象としない」
状 況:誰も居ない便所で、右が入り口、上が壁、左が窓として奥から「○○○□」と便器が並んでいる。□は障害者用の手すりが設けてあり少し用を足しにくい。
考 察:一定の割合で人が来るとして、この場合最適の位置取りとはどこか?……これを、我が職場における実践と観察を素材に考察してみた。
A「1○○□」:(1が一人目として自分が入った場所である。)この位置取りの優れた点は、次の自分と同じような入場者にも「1○2□」or「1○○2」と二通りの選択を用意している点である。つまり「優しいポジション」といえる。しかしながら、逆に言えば選択の余地がある時点で弱い。次に入った人間がベストのポジションを取るとは限らないからである。この点は後で考察する。
B「〇1〇□」又は「○○1□」:これは一見等価なポジションだが、相手に残す選択肢が「○」か「□」かの点で大きく異なる。相手に「□」しか残さないのは、感心しない。従って、左は考察対象としない。右は、左右が広く空いて非常にフリーな感じであり、また、相手にAのポジションを与える点でとてもよく見える。「バランス型ポジション」として多くの利用者に用いられているポジションであり(便器の汚れからからそれは想像がつく)、私も愛用者であった。しかしながら、後述するようにこのポジションには大きな欠点があり、それが、そもそも私がこのような考察を始めた理由にもなっている。
C「○○○1」:自分に不利を強いるという意味では「自己犠牲のポジション」と言える。もし、第二段階以降で他者が素晴らしいポジション取りができるならオススメできるが、一方で自分が出るまで誰も来ず、結局無駄な自己犠牲に終わる危険性もある。やはり、初手を与えられた利点は生かすべきだという考え方は十分ありである。
A-1「1○2□」:これは、Aからの理想的な展開である。一見、自分が奥においやられて2が偉そうに中央を陣取ってるかのように見えるが、「3」が来た時点でその印象は覆る。多くの場合、この状態で入った「3」は、奥で二人に挟まれるポジションよりは、多少使いにくくても、入って直ぐのポジションを選択し、「1○23」という状況が発生しやすいからである。つまり、混雑した時間帯にも強いのが最大の利点である。
A-2「1○○2」:これは、Aを採用した場合のリスクである。2がシャイな場合、あるいは最大限気を遣った場合、この状況になりがちなのだが、この状況は、次に来た利用者を大変迷わせる。結果として、「13○2」となる可能性は半々よりやや大きい(理由として、手前の2をスルーして奥にきた段階で3にとって2の存在感が大きいためということが挙げられる)。だが、この状況は、単に「隣り合わせた」以上のBADシチュエーションである。なぜなら、3が来た段階で1である自分はほぼ用を足し終わっており、3が隣に位置しておもむろにファスナーをおろす頃に席を離れるため、「一方的にチンコ見られ状態」に陥りやすいからである。いわば不戦敗であり大変不公平な感じである。Aがよいポジションであるにも関わらず、軽々にこれを取れないのは、このA-2リスクがあるためである。状況によりこのリスクをどの程度に見積もるかが、ポジション取りにおいては大変重要な点だ。
A-3「12○□」:こんな状況あるのか?と思われるかもしれないが、実際にあったからとしか言いようがない。世の中には、デリカシーとは無縁な、あるいは単に「奥から詰めるのがルールなのか」とか、無駄に空気を読んでくだらない行動をする輩が一定数いるものなのである。確かに、依然として片側は空いているのだから、心理的圧迫は最悪状況(「312□」)に比べればいくらかマシではあるものの、窓際に追い詰められた後がない圧迫感はなかなかクルものがある。これに比べれば、まだしも「○○21」の方が、出口側がフリーなだけ心理的負担は少ない。
以上を踏まえると、Aは危険もあるが、いきなり一番奥とかねーわ!というイメージの割には、バランスも良く展開もよい、悪くない初手である。
B-1「2○1□」:Bを取った時の基本状況であり、理想型である。体験的に6割はこの状況にもちこめる。だが、言い換えれば「6割しかもちこめない」でもある。また、6割でこの理想型状態に持ち込んでも、次の一手で確実に隣が埋まる、というところが、このバランス型の欠点である。次の3人目は、自分の隣のどちらか以外に入る場所が無く、A-1型に大きく劣るのである。
B-2「○21□」:B-1に次いで起こりやすいのがこの状況である。体感では3割はこの形になる。理由としては、奥に押し込められる危険、また、「どうせ片側に人が来るんなら、平等に分かち合おうぜ」という変な平等感などが挙げられる。オレも我慢するからお前も我慢しろよ、というヤツである。また、この形になると、自分が去った後の形が最初に考察から外した「最低の初手」の状況になるのも感心しない。立つ鳥後を濁す形で、後々尾を引く敗戦と等しい引き分けと言えるだろう。
B-3「○○12」:またまたこんな状況あるのか?だが、2のポジションが入り口に近いということを考えると、余裕なく飛び込んできた2がいる場合には十分考慮しなくてはいけない陣形なのである。ただ、これは見た目ほど悪い状況ではない。余裕無く飛び込んできた2に対しては、隣とは言え心理的に優位な状況に立ち得るし、また3がやってきても隣にくる可能性が低い(人間というのは奇妙なもので、さすがにこの状況で「○312」と並ぼうとする人は余りいないのである。「あ、奥空いてるやん」と気付いた時点で、一番奥=一番空いてる=気付いたオレ賢い!となって、距離の不利を気にせず奥へ突っ走ることが多いのである。)
以上を踏まえると、Bはバランス型を標榜する割には危険も多く素人向けでない初手であると言える。相当に状況を読んだ上でないと使うべきではない。
C-1「2○○1」:Cを取った場合に一番多いのがこの形である。この形になると、1と2は、お互いに「使いにくさ」「距離の遠さ」という不利を分け合った形になり、妙な紳士的連帯感が発生する。しかも、物理的距離があるので、その連帯感が妙な感情へと結びつく可能性も低いのである。また、A-2の丁度逆で、3が来たとき「23○1」という状況になるケースが、半々よりやや大きいのもメリットである。そんなメリットだらけなら、もうC一択でいいんじゃね?と思われるかもしれないが、そこはそれ、障害者用手すりがついているとガードが甘くなり、やはりなかなか使いにくいものなのである。
C-2「○2○1」:これもA-1と同じく、理想的な状況と言える。弱点が見当たらない。ただ、自分が最高であるこのポジションは、同時に、「最悪の初手」を残す形でもある。折角Cという自己犠牲的ポジションを選びながら、残すのは最悪の初手…というのは、自己矛盾であり、なんのために犠牲をはらったのか分からない。
C-3「○○21」:「ハッキリ言うけどお前狙ってるだろ」と言いたくなるのがこの状況である。デリカシーなどという言葉では説明できない。A-3ではこのポジションを「いくらかマシ」と書いたが、それは逃げ場があるからという消極的な理由であって、障害者用手すりによるガード値低下は、間近に迫られた時にときとして致命的なダメージに結びつく。頼むからこの形にならないで欲しいと祈る状況である。ただし、この後の展開を考えればおそらく「3○21」であり、自分が去った後、2が去った後に残る形は悪くない。
以上を考察すると、Cは自己犠牲を払いすぎるか払ったのに意味がないという展開に陥りがちで、自己満足の初手だと言える。
以上の考察から、現在のところ私は我が職場ではもっぱら人の多い時にA、人の少ない時にCを採用しているのだが、さらに4手目、5手目への変化を考えると、まだまだ多様な展開が考えられるのであり、これはあくまで現時点の仮説に過ぎず、実践と検証は引き続き行われていることをお断りしておく。
感電と、電流・電圧について説明不足があるようなので、記しておく。
と思っている人がいるようだが、それは違う。
重要なのは、心臓を止めるだけの電気であって、それは、電流と時間によって決まる。
ここで、心臓を一つの抵抗体としてみれば、電流と電圧は比例するから、
危険な電気の量は、電流で定義しても、電圧で定義しても、どちらでも同じことだ。
たとえば 10の長さの抵抗体を 10分割したら、部分ごとに電圧も 10等分される。
これでは測定方法として信頼できない。
一方、電流ならば、どの位置で測定しても同じだ。
ただしこれは、測定技術の問題だ。生理学的に電圧よりも電流の方が
影響するというわけではない。勘違いしないように。
では、電流だけを見れば良くて、電圧は無視していいか? いや、そんなことはない。
なぜなら、人体の抵抗は 500Ω ぐらいと見なしていいからだ。
特に心臓だけに電極を当てるのではなく、人体全体に流れる電気を考えるなら、
500Ω の人体で 20mA の電流を流すのは 100ボルトだ、とわかる。
だから、このモデルでは、20mA の電流と100ボルトの電圧は、おおむね等価だ。
そういうふうに判断することもできる。
「水のせいで皮膚表面の電気抵抗が減るので、全体の電気抵抗も減る」
というような別のモデルも成立する。それはそれで大切だ。
ただ、いずれにしても、電流と電圧のどちらか一方だけが大切だということはない。
youtubeなんかに上がっているメイク動画でのオナニーが楽しい。
メイク動画は顔をどアップにしているから、フルHD+大画面でそれを見ると等価的に極めて近い距離からの画になっている。日常生活野の中で、こんなに近づいてオンナの顔をみることはまず無いから、画面の前で大興奮(性的に)である。
テカテカの肌や、若さでは表現できない肌の荒さは、あまりに卑猥と表現する他ない。特にお気に入りはアイシャドウを引くときにアップになる目尻の小皺や、口紅を付けるときに艶かしく動く唇の縦皺の質感だ。唇の艶やかなことは、正しく「上のお口」という表現がふさわしいと言える。(そう、もちろんこの言葉には「下のお口」の存在が示唆される)
興奮要素は画面の中だけに有るのではない。ドヤ顔で自分の姿をFULL HDで小皺まで晒しているオンナは、まさか画面の向こうで小汚いおっさんがハァハァ興奮しながらナニを必死にシゴいてるとは想像していないだろう。そこがもう一つの興奮要素となって、メイク動画でのオナニーを一層魅力的なものにしている。
おすすめは口紅のレビュー動画。ふつうのメイク動画だと、スッピン状態から始まるのでグロ過ぎて見るに耐えない。また、メイクをする時は、邪魔にならないよう前髪をあげているのだが、いかんせんこれも興奮要素とは縁の遠い光景である。(そこがたまらん、とおっしゃる諸兄もいらっしゃいましょうが...)しかし、口紅のレビュー動画はメイクがほとんど完成した状態から始まり、あの最も魅力的で興奮する唇が紅く染まっていく瞬間を中心的に映し出しているので非常に実用的だと言える。
こんなことをしているのは自分だけなんだろう、と思うと少し寂しくなるけど、オナニーは元来一人でするもの。これでいいんだと自分に言い聞かせているアラサー童貞であった。
ガリ子「この部屋寒い」
夏であれば「おまえ省エネのことを少しは考えろよ、追加コストはお前が払うのか、ああん?」と言われ少しは納得もするのだが、
冬になると「ちょっと、ガリ子ちゃんが寒がってるじゃないこの人でなし!」となぜか高止まり。意味が分からない。
お前らなあ、寒さは服装である程度調整がきくが暑さは調整できねえんだよ!
なんで寒がりの意見が常に優先されるんだよ!おかしいだろ俺が可哀想だろ!全裸になれってのか!
真(夏|冬)の暑い部屋で身も心も焼き尽くされかけているデブを観ろ。その目を見開いてよく見ろ。
批判を一身に受け、カースト最下層にいながらも健気に不満を飲み込む彼らの姿たるや、その自己犠牲たるや。
ああ、今年も夏がくる。
先日からテレビ東京で『LOVE理論』というドラマが始まった。水野敬也さんという『スパルタ婚活塾』や、このドラマの題名でもある『LOVE理論』という、婚活や恋愛のハウツー本を出されている方の本が原作で、このドラマはその本に登場するメソッドを、面白おかしく、ドラマ仕立てにして、パロディにして紹介している。テレビ東京だからこそ可能な際どいラインを攻めたドラマだ。まだ1話しか放送されていないが、「非モテがLOVE理論を学び、実践し、意中の女性を手に入れる(語弊があるかもしれない)サクセスストーリー」であることは間違いないだろう。
さて、このドラマやこの話題に、いち早く反応しそうなクラスタが、昨今はてなやTwitter界隈で話題になったことが記憶に新しいのではないだろうか。「恋愛工学」、「藤沢数希」、「ナンパ師」。
藤沢数希さんを長に作られている「恋愛工学コミュニティ」では、メルマガ上で、日々履修者たちが実践や経験を共有し合い、スクリプトやメソッドを共有し合い、開発し合い、切磋琢磨してる。ナンパ師クラスタでは、カリスマナンパ師を筆頭に、ナンパ講習が行われ、ルサンチマンを抱えた男性の自己啓発の一面も担った実践が、都内各所で行われ、ナンパ師同士で切磋琢磨している。似て非なるこの2つのクラスタが、時には交わり共にフロントラインに立ち、切磋琢磨している。
Twitter界隈では、ナンパ師や恋愛工学履修者たちの行動について、様々な意見が飛び合っている。クラスタ外の人でも目につくほど、最近話題に上がっている。最近というか、ここ半年というリアルタイム感。ここ一週間で言うと「街なかでの声掛け」についてだ。とてもHOTで活発な議論が日々いたるところで行われているこのタイミングで、良いネタきた。このドラマというわけだ。タイミングが絶妙すぎて、個人的には、何もかも藤沢数希所長の計算だったのだろうなと思うほどである。
前置きが長くなってしまった。僕は前者、つまり恋愛工学受講者である。数ヶ月前まではTwitterでも盛んに議論に加わっていたり、成果をブログに報告したりし、一定以上のつながりもクラスタ内外で形成し、日々仲間達と切磋琢磨していた。しかしながら、そこで利用していたアカウントを、自分の所属している別のコミュニティでも利用していたため、その別のコミュニティから恋愛工学等への批判が多く、トラブルになる可能性が高まったため、そのアカウントは削除して、僕は現在ネット上での活動を自粛し、ひたすら淡々と個人で実践を繰り返していた。そこから、数ヶ月が経過し、ほとぼりが冷める頃を見計らって、新たにアカウントを開設し、活動の報告やコミュニケーションを再開しようと考えていて、その最初の一歩が、この匿名ダイアリーへの投稿である。本来であれば、ブログを新たに開始し、そこに投稿すべきなのだけれど、もともと僕が成果や記事の投稿を頻繁に匿名ダイアリーに投稿していたので、その名残で、今回の一発目はこちらに投稿した。
自己紹介も長くなってしまった。本題の「LOVE理論、あるいは恋愛工学(戦略・戦術)」について、僕の思うところを、自己満足的に、ひたすらに淡々と、書き綴っていきたいと思う。これは、僕の主観に満ち溢れた、独断と偏見に満ち溢れた、ただの戯れ言である。
僕は昨年の10月~今年の3月にかけ、多くの女性を抱いた。すべての女性は、別々であり、Sexの回数であれば、その倍以上になるだろう。彼女たちとの出会いは、基本的に、語弊を恐れずに書くと「ナンパ」である。渋谷のスクランブル交差点付近で目的もなさそうにしていた女性、恵比寿駅の西口改札前で浮足たっている感じのルブタンのヒールを履いた女性、新宿バルト9で席が隣になったサブカル系女子、Twitterで相談によくのってあげたキャバ嬢、そのジャンルの幅はとても広く、一人ひとりについて書くことは不可能に近い。そんな活動を、モクモクと、ある種、ロボット的に、日々こなしている人たち、それが「恋愛工学受講生」や「ナンパ師」であり、僕も、例によって、それなのだ。僕達には、これがとても日常的で、それは一方で、とても感覚が麻痺していることも気がついてはいる。心が磨り減るだけのこともあれば、深い愛情と安心で満たされることもある。
社会学者の宮台真司は、昨今の近代化や合理化について以下のように述べている。
〈システム〉と〈生活世界〉の関係を確認します。〈システム〉ではデニーズ的アメニティが提供されるのに対し、〈生活世界〉では地元商店的アニメティが提供されます。前者は「役割&マニュアル」優位な関係性で、後者は「善意&自発性」優位の関係です。だから前者は匿名的・入替可能で、後者は記名的・入替不能です。
近代化とは、〈生活世界〉で賄われて来た便益を〈システム〉に置き換える「合理化過程」。置き換え途上の段階ゆえに〈システム〉化され切らない〈生活世界〉が残っていると信じられるのが「近代過渡期」(モダン)で、置き換えが完遂して汎〈システム〉化=脱〈生活世界〉化した段階が「近代成熟期」(ポストモダン)。
近代化がある程度進んで、「まだ〈生活世界〉が残っている」というより「敢えて〈生活世界〉を保全している」と言えるようになるのが「再帰的近代」です。これにも2段階あって、いったん汎〈システム〉化した後に、かつての〈生活世界〉の機能的等価物を再構成したのが「ポストモダン的な再帰的近代」ということになる。
昨今の国内の人々の恋愛関係の事柄の矛盾や苦悩は、まさに宮台が上で指摘していることだ。近代化の影響ですべてが合理化されていくことは自明の事実である。それは恋愛(〈生活世界〉)というカテゴリーに対しても同じだ。恋愛〈生活世界〉の合理化<システム>化、突き詰めると、人間の生殖、子孫繁栄、それに対してこれまでは、「恋愛」「愛情」というとても曖昧なもの〈生活世界〉がそれを肯定していた。しかし近代化が進むにつれて、それすら合理化する波が押し寄せてきている、しかしその合理化に適応しきれない部分も存在し、それが苦悩や悩みと表象されている。<システム>化され、合理化が進んだ現代であれば、本来であれば、そこに恋愛という後押しが、「人間の生殖、子孫繁栄」には必要でなくなるのだ。ただ、現状はその過渡期であるから、そこで私達は苦悩する。「敢えて<生活世界>を保全することによって発生する負荷/代償」というとわかりやすいかもしれない。今回のネタでもあるLOVE理論や、恋愛工学のメソッド、スクリプトは極めて現代的であるのだ。理詰めされた戦略、整然としたロジック、曖昧性を排除した合理的で、もっともシステマティックな、生殖へのアプローチ方法なのだ。それを「心のないロボット」と揶揄する人も多くいるだろうが、それは<システム化>された社会の行き着く先であることは否定できない。
僕達が信じている(あるいは信じていた)恋愛観など、欧米から輸入した価値観でしかない。その押し付けられた恋愛観、一種の洗脳、から開放されることは、非常に難しい。生まれた時から、その価値観を埋めつけられているからだ。人は環境に規定されてしまう、一度規定されると、なかなかにその規定から外れることはできないし、規定され続ける限り、自身を客観視することは非常に難しくなる。
だからこそ、恋愛工学クラスタ、ナンパ師クラスタ、が発生することは、合理化された社会では当たり前なのだ。合理化が進んだ、<システム>化が進む恋愛市場への、一番合理的なアプローチであり、社会への適応なのだから。もちろん、そのアプローチが時には、女性への迷惑行為になり得ることも十分に承知している。一種の危険性を孕んでいる事実は隠せない。しかし、それを頭ごなしに否定することは、それも全く違うのだ。「ナンパ・声掛け」とてもマイクロ的な事象を、もう2,3歩さがって改めて考えてみると、全体が見えてくる。<システム>化という波にのみこまれそうな恋愛<生活世界>という具合だ。
僕はこんなことを考えながらナンパをしているのか、と改めてこのように文字に起こしてみると、新しい発見がある。現代病とくくれば、そうなのだろうけれど。
(追記あり)
角A,B,C,D が整数(degree,度)かつ
1°≦A≦B≦C≦D<90°で、
を満たす組合せとして、
tan(27°)tan(33°)tan(39°)tan(75°)=1
これも条件を満たす。
他のパターンは全部確認できたのだが、これだけ(派生含む)がわからない・・・
追記:
その後、少し調べてみて、この問題はラングレーの整四角形問題の特殊例と等価であることがわかりました。
そりゃあ、初等的に求めるのが難しいパターンがいっぱいあるわけだ・・
このうち、整角四角形問題で対角線が直行しているという問題がこの問題と等価なものです。
http://anond.hatelabo.jp/20150108231313
ありがとうございます。なるほど、cos36°の値を使うところまで変形すればいいのですね。あと、分子分母の差が0であることを確認するという方針は参考になりました。
http://anond.hatelabo.jp/20150109001103
はい、自明な組み合わせ(A+D=B+C=90°で45×46÷2=1035通り)以外はその38通りです。
これは大きく3通りに分類できて、
パターン1:28通り (30-p, 30+p, 3p, 90-p) 1≦p≦29° ただしp=15°は自明なパターンに含まれているので残り28通り
(ちょっとトリッキーですが、このパターンから導出できるでしょう)
パターン2:(12,24,48,84)と(6,42,66,78)の2通り。パターン1の三角関数変換を2重に適用できる特殊ケースです。
この2つの組み合わせはtanA=1/tan(90-A)の関係に相当します。
パターン3:8通りで、計算ができなかったパターンです。どれかひとつが示せれば、パターン1の変換と90-Aの変換で全て導出できます。
「選択できない、何も信じられない」って、
自分が好きなことっていっても数時間後には変わるし、自分も、周りも、何も信じられない。根拠なんて永遠にないだろうし。
そんななかで選択するのがつらい。選択はだからいつも悩む。選べない。永遠にわからない。
むしろ悩むこと自体が無駄なのかも。だって永遠にわからないし。
将来、もっと明確にはっきりした答えが出ると思って、だから今は選択を留保しようなんて考えるんだけど、一向にその気配はない。
ってことだよね。(前提がまず間違ってるかもしれないけど
じゃあ、どうやって選べばいいのか考えてみた。
最初に思ったのは、ハンターハンターの試験(ジョネスがでるところ)のように左右を選択するように、根拠なしに突っ走るとよいのではないかということだ。
しかし、「そんなこといったって選ぶことはできない。そのまま進まなくてもいいならそうしたい。」と思ってしまう日が来そう。
もう1つ、これより条件は厳しめだが、考えてみた。
あるバンドのボーカルがなぜ何年も音楽を続けてこれたかという質問に
「ここまでやってきたから・・」と答えてた。
とにかく時間をベットしてしまうやり方だ。そのやった時間が長ければ長いほど、人はやめることが困難になるときく。
それを利用しつくせばいい。得る事より、失うことのほうに人は執着する。
・・・うーん。なんか穴がある気がする。
上2つを合わせてみる。最初、若いうちは根拠なく左右を選ぶ。その中で少しだけでも周囲より特化したパラメータができる。
それを延ばしていく選択をしていく。それだと選択がより容易になるというのはどうだろう。
そもそも、なぜこういうことを書いているかというと、最近まで「好きなものスパイラル」に落込んでいて、鼻息荒く好きなものを探していたんだが、その行為に挫折したからに他なりません。そこで思ったのは、大切なものは、時間をかけた中でしか、過去にしかない。だから、好きなものをみつけることなんて出来ないということだった。
好きなものってそもそも、やってるだけでホワーっとなるもののことなの?
クリエーター系の人はみんな好きなことやってると思われてるの?好きだからこそ特化できると思われているの?
宮崎駿はその頂点の人だけれど、彼は楽しそうかな。好きなことやってるのかな?
ドキュメンタリーとか観る限り、すごい苦しそうだ。
何かを続ける、信じ続けるっていうのは、絶対に疑いが入ってくるのではないか。それが無駄なことだとわかっていたとしても、
信じられない、信じるを毎日繰り返している。だから、好きなこととかいうのがあって、それだと自分が何の疑いもなく邁進できるっていうことはない。甘えられる好きなことはない。
はっきり言ってしまえば、対象物なんてどうでもいい。何だって同じ。市場価値を除くと。
掘り下げられる能力。それがあるかないか。何かを極めた人は挫折しても、なぜかまた他の事を極められたりする人が多い。
それは掘り下げられる能力。探究心があるから。これは自分の経験からみて、悲しいかな持って生まれたものな気がする。明らかに人は生まれたときから不平等であるし、それは生物である限り当たり前のこと。
そういう人には一生かかってもある物差しで比べれば一生勝てない。でも悲しむ必要はない。
自分がやらなくても、やっても周りからすればどうだっていい。誰も期待してない。
でも、負け試合でも本気でやれば、擬似的でも目的は生まれる。目的がないことには日常が退屈すぎて耐えられない。
だから、負け試合でもどれだけ距離を縮めたかを密かな楽しみにして生きてればいいのではないか。
・・・あれ、話が変な方向に。
あ、最近こんなことを思いました。それだけです。
今、世間でパチンコ関係のニュースといえば換金税についてだろうけど、業界にいる自分の周りではそれについて触れる人は一切いない。
それも猶予期間は1ヶ月もないのだ。
パチンコ・パチスロ機の開発というのは平均すると1年程度、2年3年かけるタイトルもある。
そんな長いスパンで企画・開発を進めている業界に対して下命されたこの猶予期間は、現場のことなど一切考えもしない警察の暴挙である。
それでも逆らうわけにはいかない。
何をするにもお上のお伺いを立てなくてはならない。
メーカーは製品を作ったら販売許可を得るために保通協なる警察の天下り組織に審査を申請しなくてはならないし、製品を購入したホールはそれを店に設置するために警察の立ち会いを経なくてはならない。
換金税についてユーザーが取り立てて騒いでいないのは、その税率が1%だというのが大きいと思う。
というのもパチンコというのは店側が交換率(≒換金率)を設定できる。
遊技者に1玉4円で貸したパチンコ玉が、交換する時も1玉4円相当とは限らない。1玉3円や3.5円で交換する店も少なくない。
最近は4円で交換する等価店が多数を占めるが、大阪など一部の地域ではそもそも等価交換自体が禁止されていたりもする。
これまで4円で交換していた店が、ある日突然3.5円交換に変わっていることさえ、ある。
手取りが1%目減りするということは、換金が3.96円と同義だ。
3円や3.5円といった換金率に慣れているユーザーにとっては取るに足らない数字だ。
個人的には5%でも文句は言わないと思う。
現に大阪では約3.5円でも成り立っていることを考えると、10%(3.9円相当)でも大丈夫そうだ。
にも関わらず換金税の成立が難しいのはなぜか。
換金税は店寄りの問題で、内規はメーカー寄りの問題であるから、立場によって温度差があるのは当然なのだが、いずれの場合においても鍵を握っているのは警察だ。
人を増やせば良い、ってんならそれこそ移民を受け入れればいいんだよね。それで全く問題ない。
ただ、まともな日本人を増やしたいならそんな偏った事をしていったら一気に馬鹿ばっかになるのは生物的にも自明なわけで。
さらにそういう政策をしたらそれこそどんどん格差が広がって一部の人間の王朝みたいになってくし。
金を流すかどうかは政策次第でいくらでも出来る。
もちろんそれでもいい。出来るのであれば。
上流の持つカネの力でどんどん作ってもらうか、
上流の持つカネを下流にどんどん回してもらうか、
結果としてはどちらもたぶん似た効果になると思う。つまり少子化対策としては等価と言ってよいものと思う。
問題は、「カネもしくはモテを持つ男性達」が、カネやモテを他の男性にやすやすと渡すだろうか、という事。
自分の持つカネやモテで、複数の女性と子作りして、自分の子供をたくさん育てる、という道と、