はてなキーワード: 寺山修司とは
なぜってそもそも数が少なすぎる、置いてあるとしてもせいぜい20程度、しかも現代の歌人はほとんどないなんてこともしばしば
石川啄木みたいに一冊しかないならまだしも、塚本邦雄や俵万智の様に複数冊出している歌人は何冊か読むと傾向や時代の変化が感じ取られるから
面白いのに…
それで図書館に行ったら、あるかどうかわかんないけど短歌雑誌を読め。とりあえず色んな人の短歌が乗ってるし、読んでりゃひとりふたり気になった歌人が出るだろう。
さっぱり分かんなくてもいい、いいが
メモをしておくといいぞ。後で調べたり分かったりして「あっ!」ってなるから
花の本もあれば技術的な本も
若者にハマる短歌が多いし、技術的な解説も分かりやすい。逆に分かりにくいのは寺山修司の歌論
あれは私でもわからんとこはある。
後はあればだけど斉藤斎藤とか永井祐とかもいいぞ。口語だし、世界観が共感しやすい。
それで読んで行くと疼いて疼いて堪らくなる時がある、短歌を作りたくて堪らなくなるんだ
こうなったら読んでる場合じゃない、本を戻して図書館から脱出して短歌をメモしろ
もうめちゃくちゃでいい、31文字に合わせるなんて後からでいい、短歌にしろ
私から言えるのはそれだけだ
おわり。
「じゅうろくとよんといちと
じゅういちとじゅうに=(にあまり)」
改めて先人の残した歌に触れてみると自分の実力の無さに嫌気がさすが同時にもっと短歌を作りたい!と思ってしまうのはなぜなんだろう
金があれば一万冊でも歌集を買いたいものだが、世間のいう貧困そのものの生活をしており、それは願いにしからない。ここに取り上げた短歌は家にあった歌集をかき集め、抜粋したものである
本当は塚本邦雄の歌も入れたかったのだが、変換に出てこない一文字があって断念した
多分こんな歌だったらしい
桃色の踵の
この○だけが思い出せなくて断念した
もしこれを読んであなたもいい短歌が思い出したらそれを大切にしてあげてください
【追記】
メモしてあった
「しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしずかなる釘音きけり」らしい(合ってる?)
隣に書いてあったのは「男やもめにうじがわく」だった。謎
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
https://anond.hatelabo.jp/20240506061423
のブコメを読みながら「心情が〜」「我を表現するものが〜」みたいなコメントが気になって
「そんなに心情入れたがるものか?」と思って
心情が無い(?)短歌を探していた
/俵万智
まず心情で思い浮かんだ一首がこれだった
歌集「風のてのひら」の中に収めらたタイトルにもなっている歌。確かにブコメにあった通り、我を表現してはいるが、心情はどこにあるのだろう
この歌に「私はこう思いました」とか「こうだなぁ」とかは一切無いわけで作者にとって四万十を見た光景を切り取ったそれだけの歌である
だがらずっと私はこの歌には心情は無い!
と信じていたのだが俵万智本人は後書きでこう
語る
「川面をなでてゆく風の手のひらは、目には見えないものですが、心には見えるものです。そして心に見えたものが、その時はじめて、歌になってゆくのではないでしょうか」
なんてこった「川面をなでる風の手のひら」自体が心情そのものだったのである
これでまずは一敗
/永井祐
これは流石に心情は無いでしょう。多分
知らない人からしたら「こんなの短歌じゃない!」となるかもしれないからレギュレーション違反?
/穂村弘
もはや「??」としかならない一首
シンジゲートより抜粋したが、穂村弘ワールドに置いては日常的によくあること。
私はあんまり頭が良くないので心情がどこにあるかとかこの歌は分からないけれど、頭がいい人なら分かるのかな
/笹井宏之
もう心情とか探してる内にどうでも良くなって
ただ好きだなと思った一首。
この人の歌は本当に変わった歌が多くて
例えば
「みんなさかな、みんな責任感、みんな再結成されたバンドのドラム」
この歌には「みんな」がいて「私」がいない
穂村弘も
だが、《私》のエネルギーで照らし出せる世界がある一方で、逆に隠されてしまう世界があるのではないか。笹井作品の優しさと透明感に触れて、そんなことをふと思う。とある
違うの?となってくるわけで
そんな時、歌人「井辻朱美」がパン屋のパンセにてこんな事を語っていたのを思い出した
「詩歌とはこんなふうにひとつの窓、フレームを作るところから始まる。雑多な混沌を片寄せて、まず何もない空間をこしらえる。きれいになった場所にモノを置く。そうして初めて、そのモノはちゃんとモノとして見え、意味をクリアに発信する。」と
つまり私がひとつ俳句と短歌の違いとして言いたいのはフレームの大きさの違いである
短歌は31音のフレームに自分が反射してる事もあるし季節が見える事もある。そのフレームの中をどうにか素敵にしたいと奮闘する
必死にフレームに収めようとすればするほど、フレームは歪んでしまうし、収めなければフレームがある意味が無くなる。だからむずかしい
でも楽しいのだ、よく分かってないけれど
/寺山修司
おわり
単純な話、この世の富は有限であり、奪い合いこそが人類の基本姿勢だ。
その為、『必死に奪おうとする弱者』が、いちばん哀れで穢らわしいゴミ――いちばん性格が悪い存在に思われるのは必然である。
たとえば格闘技一つとっても、拳のサラブレッドとして、優秀な両親によるサポート――食事管理、幼少期からジムに所属させ、愛を与えて自信を付与させる……など、与えに与えられた裕福なガキほど、よく仕上がった大人になり、さらなる賞賛を得やすい。
対称的に、ブレイキングダウンに参加するような荒くれ者は、貧乏で団地育ちで、まともな教育も受けられず、治安が乱れた街には悪が渦巻いていて、いつだって心は混沌としているからこそ、「俺は今ココに生きているぞ!」とアウトサイドな生き方の中で、危なっかしく命を燃やしている。
でもって、そんな歪みきった世界にも関わらず、那須川天心や、武井壮のようなエリートが、下の下の下の世界にも出しゃばってきて、とことん雑に悪を見下してゆく。
持つ者はいいよな~?
それっぽい言葉と、神が与えた才能と、お手軽な優しさをぶちまけりゃ、なんぼでも光り輝ける人生なんだから。
畢竟、くそ喰らえな構造の中で、ガンガンと綺麗事が響き渡るとき、虚しさが悪へと切り替わってゆく。
金も地位も名声も、愛と平和も、優しさも善行も、その他ありとあらゆる可能性を、強者が根こそぎ奪ってしまうからな。
じゃあどうする?
そうやって我々は、敵意を育て、破滅主義になり、世界を憎むようになる――
とても悲しい事だが、持たざる者が努力をすると、自律神経が乱れ、情緒が不安定になり、ノルアドレナリン(闘争か逃走のホルモン)が分泌し、すごくリスキーな毎日に突入しやすい。
怒り、焦り、悲しみが噴き上がり、「何もかもが悲劇だ!」「誰も彼もが敵だ!」などと、心が荒ぶりやすくなってしまう。
そらそうで、発達障害/双極性障害/社会不安障害/不眠症/過眠症/低収入/孤独など、弱者属性を持っている人々は、社会的に弱い立場であり、そうした現状を客観視し過ぎると、惨めな気持ちにもなるってモンだ。
しかしながら、試行錯誤――破壊と再生を繰り返して、1%のチャンスでも掴み取る為には、心の痛みと戦いながら、冷たい現実を直視し、真の自分に辿り着き、最適解を模索するしかない。
そして、「変わりたい」「強くなりたい」という願望は、『今この瞬間を否定する』思考でもある為、似たような弱者たちの反感を買いやすく、ちょっとした揉め事に繋がりやすい。
一例を出すと、弱者界隈の者たちに言わせれば、『自己責任論』『努力論』は、耳にするのもおぞましいツートップのワードだろう。
ただし、歯を食いしばって勝負に打って出なければ、一生変われない……可能性の芽を摘んでしまいかねない……ってのもまた確かな話であり、『他者への配慮』『過度な優しさ』ばかりまき散らしていると、人生がでろでろに腐ってゆく。
だからこそ、ファイトクラブの名言――【ワークアウトは自慰行為だ。男なら自己破壊を】よろしく、フルスイングで開き直って、「人生は自己責任だ!」「負け犬のままで終わりたくない!」と力強く叫び、ハイリスクな一歩を踏み出すしかない。
というのも、代表的な弱者属性――鬱で貧乏などに苛まれると、余裕がなくて選択肢を増やせない中で、鬱々しさと甘えが混ぜこぜになり、ちょっとやそっとでは抜け出せない、転落の日々に陥りがちだ。
そんな絶望の境遇から、むりやり這い出る為には、「こんなところで終わらねぇからよ!」「これは俺様の復讐戦だ!」などと、躁的な攻撃性のエネルギーが必要になってくる。
寺山修司も『書を捨てよ、町へ出よう』の中で、【勝負の世界で、何よりも大きな武器は「不幸」ということである。これは「何が何でも勝たねばならぬ」というエネルギーを生み出す力になる】と書いているように、どん底の寒さを思い知ったうえで、這い上がる熱量を高める事が、下の下の下の住人には求められる。
そもそも論、ただでさえ深刻な格差社会――ガチモンの弱者のみならず、中流層以上の人々にしても、「途中で足を止めたら終わる……」という、止まらない不安に追われ、みんなぎりぎりで生きている。
であるから、ハンディキャップだらけの弱者が、「もっと稼ぎたい」だとか、「もっと可愛い子を獲得したい」だとか、そういった夢を叶える為には、それなりの自己犠牲が必要になる。
いつまでも、おんおんと泣きじゃくって、お金や愛を得られるのは、それなりの性的魅力を持った女子だけだろう。
その他の者たち――大多数の男や、ノンセクシーな女は、あくまでも自分の力でもって、人生を切り開いてゆく他ない。
その過程で、脳内分泌物のバランスが崩れ、とんでもない気分屋になり、周囲に当たり散らしてしまったり……、かと思いきや、頭を抱えて自虐し始めたりと、ぐっちゃぐちゃな時間もやって来るだろう。
そして、精神的コストを使い果たして、脳も心もすっかすかになって、飢えた獣のようにピリピリとしてしまい、「なんだこの性根が腐った野郎は?」などと、周囲に呆れられ、見捨てられ、嫌われキャラになってしまったりする。
やはり、世界中のみんなが、要領が良くて、人に愛されやすくて、スムーズに人生を渡り歩ける訳じゃない。
人類社会に立ち向かって、一所懸命に努力した結果……、ひたすら空回りしてしまって、全てを失うなんて実例も、この世の中には腐るほどに存在する。
とくにこの日本社会は、ひとたび転落して、ブランクが空いてしまえば、誰でも入社可能で民度の低い、精神的に疲れる企業ばかりで、働く羽目になりがちだ。
すると、文化レベルの低い同僚に、悪口や陰口を付き合わされたり、ある日、盗難被害が発生したり、急に大量離職が起きたりと、安心とは程遠い……劣悪な環境で生きる事になる。
そんなときには大抵、ムカツキのオーラを解き放ちつつ、下剋上精神が強化されて、「こんな腐った場所から抜け出してぇ!」と、浮き足立ってしまい、半ばパニック状態である。
時期があった
ババ抜きのルールは変で、1抜けした奴が最後のペアを捨てた時好きな短歌を宣言するみ
当時、吾はババ抜きが弱くて弱くて全然宣言出来なかった。時代が時代だっからねぇ、宣言する短歌も「シンジゲート」(穂村弘)からばっかりだったよ。参加してたみんな、シンジゲートが好きだったんだねぇ。たまに寺山修司とかも宣言する
作るのは下手くそな癖に奴ら、知識だけはやたらとあったけれどそれだってシンジゲート好きすぎだよぉ。んで、吾も負けずに参加を繰り返していたら、一度だけ「あ、これ一抜けする」とチャンスが巡ってきたことがあったんだよ。残り4枚ぐらいになったとこで「どうしようどうしよう…何を宣言すれば」と焦った。そして、ついにその時がきた。吾の手から二枚の同じ数字を刻まれたカードが旅立ちてゆく…宣言
「
高きより
飛びおりるごとき心もて
この一生を終るべなきか」
みんなポカーンとしてた。何でだろう、別に変な短歌は言ったつもりは無かったんだけど
言ってくれた。それを合図にか知らないが他のメンバーも口々に「おめでとう」と言った
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 ダーウィン
・04 レスリング
・05 ひこにゃん
・06 [人物]ひき肉 ひきにく
・07 [すべて]アイオワ州 アイダホ州 イリノイ州 インディアナ州
・08 『怪獣8号』
・09 坂本龍一 さかもとりゅういち
・13 10億
・15 ハッブル
・16 [どれ]ホーチミン
・18 ピーター・ドラッカー
・27 [3択]1 7年
・28 しぎ(焼き
・29 ヤバイTシャツ屋さん
・30 ラトビア
・31 [角度]180(度
・34e [どちら]筋肉
飲み屋横丁の外れに店を構え、レンガ調の外壁は色が擦れている。
錆びた看板。溜息のような、湿気交じりの風が吹き込み、鈴の音を二度鳴らす。
彼女の姿は既にあり、温かみのあるランタンの光が顔をうっすら照らしていた。
いつも通り隣に腰かけるとハニーウッドの香りがわずかに鼻をくすぐった。
このバーで知り合った女性で、酔った俺がいっぱい奢ったのが、こうして話すようになったきっかけだ。
増田は既にほろ酔いで、俺のことを一瞥するとすぐにグラスへ目を戻す。
端整な顔立ちの増田は言う。
「そういえば、この前に面白い話の聞いたんだけど」
へぇ、どんな?
同じものを、と俺。
「トランスジェンダーって知ってる?」
増田は置かれた酒をいっぱい、軽く傾け喉に流すとそう言った。
もちろん。まあ、なんとなくだけど。
「わたし、誤解してたんだ」
何が?
「ほら、トランスジェンダーって、要はホモとかレズとか、そういうのでしょ?だから」
だから?
聞き返すと増田はクスりと笑って眼を細くする。
増田は言う。
「ホモって男が好きってことでしょ?ってことは、そのホモっていうのは、自分のことを女だと思ってる~って思ってた」
それに気づかないふりをして俺は酒をあおり、それで?と促した。
「でもほんとは違うみたい。聞いたのよ。本人に。そしたら、”男のことを好きな自分のことも男だと思ってる”だって」
くく、ふふっ、と増田は体を折って笑う。
やれやれ、と俺は思う。
軽々しくも、”ハルキスト的”だなんて称されるのが気に食わないからだ。
そもそも「やれやれ」といった表現を流行させたのは村上春樹ではなく、それは寺山修司の舞台『青森県のせむし男』に出てくる萩村の口癖が元だ。
閑話休題。
増田は「レズはレズでも自分は女だって思ってるってことだよね?」と俺に問い、俺は何となく頷いた。
ただそれだけの話。
俺は再び、酒をあおった。
浪人してた時期の自分はだいぶ大学行くの悩んでたらしいな‼️行っても意味ないと‼️けど行っちゃったんだよな‼️そして、結果結構楽しいんだよな〜
今となっては、大学を選ばなかった今頃の自分がどうしてるかなんて想像できないがもしかしたら平行世界の私はなんとか職を得て頑張っているかもね。
浪人生時代の私は就職に有利とか言ってるけど、今となっては就職したくないが口癖じゃないか。
まあ4年になった時はどうなってるか分からないよね。情弱だし社会性もないから本当に就職活動は出来ていないかも……。
でもそうなった時も何とか生きていくんだよね。
バイトしながら大学通うなんて余裕でしょって去年まで思ってたけど今年入ってから全然バイトできるような気がしなくなったね。それに引き換え過去の私は金銭面で厳しくなるから現実的じゃないって、自分にバイトしまくりながら生活するのは難しいって冷静じゃん。その冷静さはこの1年くらいは忘れてて今の私が苦しんでいるよ笑
2年前の私は耐えられないくらい死にたくなったりしていたんだ。コメントで厳しいことも書かれていて、こんなこと言われて当時の自分は大丈夫だったのかな!?とも思うけど今見たら自分でもその考えは甘いよってなるかも。
去年の暮れだかによんだ寺山修司の自殺の美学?のようなの読んでから死にたいとは全く思わなくなったからそれは心配すんなよ!
ほんとに自殺を実行に移そうとしてたときの心の中ってきっとびっくりするくらい真っ黒だったんだろうな
あと2年前は親についても悩んでたみたい。
親に言われた言葉とか、今となってはまっっっつたく
覚えてない言葉なんだけど、そんなこと言われてたの
⁉️というようなもの……。
今は離れて暮らしているからか、本当にそんな軋轢も内的な葛藤もないね。
こうやって考えると人間って本当にいい加減だな〜
色んなことを忘れて生きていくんだな。
むかし、というかごく最近まで本当に年老いて生きていくのが怖かったけど、生きるにつれ色々忘れていくなら歳を重ねるのも悪くないかもしれない。
忘れたくないことも、忘れたいことも同じくらい忘れていくんだなっ そんな私に思い出として残るのは特定の時期を共にすごした任意の音楽だけだな
些末な記憶は忘れても、音楽だけは再び再生するとその時の生きていた時間が焼き付いてるかのように蘇ってきて、その時間を生きるような気持ちになるんだよなあ
・アニメ→好き
・普通の舞台→好き、演出が面白いといい、寺山修司とかのアングラ系が好き
・2.5次元舞台(非ミュージカル)→ダンガンロンパ1と2のやつだけ行ったことある、割と面白かった、ゲームの曲が流れててテンション上がった、芸人が演じてるキャラは解釈違った
・劇団四季→数回行ったけど面白いと言えば面白いけどすごく高いお金出してまで見るほどか?とは思う、後に何も残らない感じだった
・ブロードウェイ系ミュージカル→シアターオーブとかの日本人が演じるやつ数回行ったけど本当に肌に合わなかった、絶賛されてるものも面白さがよくわからなかった
こんな感じ
チケットすごく高い
歌うのが合わないのか、脚本の傾向が苦手だっただけなのか?
2.5次元自体は面白そうと思うけど、内輪ノリひどい・俳優ファン向けみたいなノリだとしんどそう
まぁわからんけど
行くか迷う
面白いと思えるんだろうか
長い人生せっかく関東いるんだからそういうエンタメにいっぱい触れないのは損してる気もするよなぁ
うーん
あと兄も原作ファンなので連れて行くか迷う(誕生日近いからチケ代は出してあげてもいい)
ダンガンロンパの時は男性もちらほら見かけたけど(乃木坂かなんか出てた)、2.5次元ミュージカルって男が見ても面白いと思えるのかな?
せっかく連れてってドン引きされるのだけは嫌だなあ
ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く 奥村晃作
履歴書の写真がどう見ても菩薩いちど手を合わせて封筒へ 山川藍
廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て 東直子
もういやだ死にたいそしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい 岡野大嗣
われの一生(ひとよ)に殺(せつ)なく盗なくありしこと憤怒のごとしこの悔恨は 坪野哲久
家々に釘の芽しずみ神御衣(かむみそ)のごとくひろがる桜花かな 大滝和子
たそがれの空は希望のいれものぞ外套とビスケットを投げあげて 寺山修司
君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ(北原白秋)
年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり(岡本かの子)
早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ(葛原妙子)
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ(塚本邦雄)
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(寺山修司)
男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる(平井弘)
あの夏の數かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ(小野茂樹)
Twitterに名歌botがたくさんあるので適当にフォローするといい
本だとちょっと古めなら『日本文学全集29 近現代詩歌』(河出書房新社)(上で引いたのはこの本から)