はてなキーワード: 学童保育とは
こないだの文化資本のホットエントリーじゃねーけど、今の都心の子は、狭いし忙しいしかわいそうだと思う。
俺はどちらかと言うと友達とワイワイなほうじゃなかったけど、それでも子供の頃は、小学校は、帰ったら玄関でランドセルぶん投げて友達と遊びに出かけた。父親は19時には帰ってきていた。一家団欒があった。
中学校に入ると、15インチのテレビ、VHS、ミニコンポがある狭い部屋に同級生4人が肩寄せ合って遊んだ。ゲームやCD持ち寄ってさ、兄貴姉貴がいるやつは重宝されたな。
都心の小学生は原っぱはおろか、遊べる路地も川もない。みんな監視が行き届いた学童保育。
父親や母親が早く帰ってきて迎えにくる家庭は、一家団欒のためじゃなくて塾や習い事の送迎。
都心の中学生には個室がない。みんな一人っ子で、3人兄弟なんかほとんどいない。いたらいたで、個室あてがってもらえないしな。
給付金やら減税でどうにかなるレベルじゃないきがする。江戸時代なんかもっと過密な長屋暮らしでも子供は育ったんだから、別に大丈夫なんかもしれんけど。子供はしたたかだから、勉強してるふりしてスマホで友達とつながってよろしくやってるんだろうけど。
都会人が都会の生活を手放せないのもわかる。
洋の東西を問わず、死罪の次に重いのが島流しだったわけで、文明人に取って文化を取り上げられるのは死の次に辛い。
電車通勤はその間寝れるとか勉強できるとか、かなり言ってることおかしいよ。
刑務所だって足くらい伸ばして寝れるし、17時には作業終了でしっかり8時間寝れると言うのに。
週末に美術館に行けたってさ、割に合わない気がする。
大人は命削って働いて発狂しながら子育て、子供は子供の時しかできないことを我慢させられて、その対価が美術館だとか博物館とかいわれてもさ。
製糸場の女工が就業時間が12時間とかいうけど、休憩含めた拘束時間。通勤時間含めたら現代人はすでにそれに近いと思うんだけど。
結核で死なないのは、栄養状態がいいからで、昔ならとっくに死んでる。
夏、冷房で部屋を冷やすと外はもっと暑い。美術館に行けて幸せか?暑すぎて命を守る行動をとテレビが叫ぶ土地なのにさ。
冬、人が多い屋内施設らいつも空気は淀んでて二酸化炭素濃度が高い。レストランもそうだ。他人の吐いた息を吸うんだから、当然臭いし病気はうつる。
うちの嫁はポンコツなんだけど。
責任感はそこそこあるし、俺なんかより真面目に働く。
前の職場は、請負会社が切られて、泣く泣く生活の為に小規模保育園で働き出した。
面接に行った明日からこれますか?みたいな感じで大丈夫かと思ったら、正社員は、3ヶ月後に嫁さん意外みんな辞めて入れ替わると、、、。
この時まではまだ前向きだったんだけど、その後に、入れ替わった主任さんがパワハラ気味で病んじゃってる。
シフト変わるな言い方あるでしょ!!と切れたらしい。
今日、仕事辞めるって伝えると言ってた。本人は、保育士の仕事がやりたくないからって言ってるけど、人間関係だなって思ってる。
まぁ、向いてないんだろうなというのはわかってる。
子供のタメだからって、サービス残業やら細かく日記書くの当たり前と思うなよ。
カーテンに隠れてコソコソ話ししたり、本人と2人で叱責するのは、ただのいじめやパワハラだからな。
あと、保育園経営者、ちゃんと人が定着するように仕事しろよ。仕事辞めてんのうちの嫁だけじゃないからな。人がコロコロ変わることが当たり前だと思うなよ。今の状況がどれだけ不安全か理解しろよ。
長くやってたった、子供を忘れちまうだろ。
じゃけん学童保育で働きましょうね〜
キレイな体裁でかいてるから読みやすいけど外国人かChatGPTみたいな事しかかいてなくて草。
教員だけ特別扱いできないので←特別会計って知ってるかな?普通に公務員全体のサビ残なくすだけでもよくね?あるいは都会みたいに全校私立化でもよかんべ。公務員のサビ残対策いつやるの、今でしょ。
コマ数が減った分教育レベルの差が大きくなります。←スマホリテラシーと性教育だけでももっと「まともに」やろうや。情報Iをやるまでまってるうちにお子様ケイタイで出会い系いっちゃう子がでてるわけでさ。社会をおしえてない社会科って本当に必要?あるいは生物でいつまで亜熱帯に向かない朝顔そだててんの?
暇を持て余した帰宅部が増えます。猿山を作りたい人たちが暇になるので暴走族などが結成されやすくなります。←いつの話してるんよ。塾だよ塾。
待遇が悪くて人が集まらない正規教員より更に待遇が悪い外部委託に人が集まるのでしょうか?そこをまず検討したほうがいい意見です。←学童保育って知ってるかな、すでにあるんだけど。
5 式典や集会を減らす
式典に参加する経験が積みにくくなります。災害発生時の点呼などで綺麗に並ぶのに時間がかかるようになるかも知れません。←これ本気でいってる? セルフレジでフォーク並びできる世代やぞ。
非日常下での集団行動経験が積む機会が大きく減ります。← これだけはちょっともったいない。コミケいこうぜコミケ。クールジャパン教育。
虐待や貧困の発見が難しくなります。家庭環境の違いによって起きるコミュニケーションのズレなどを予測しづらくなります。←教員がやらずに民生委員がやればいいのでは。
私は「素手で便所掃除をさせる」「農作業を手伝わせる」といった各校ごとのオリジナリティあふれる教育方針とやらを完全に廃止するべきだと思っています。 ←どんだけ遅れてるんだろうね。
これが私の出した答えです。←極論いっとけばワンイシューで政権とれるとおもってるアホ野党ってよくあるよね、元NHK党とか女子党とかなんとか
追記:伸ばすつもりはなかったので念のため半分以上削除しました。
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評判悪いのは分かってたけど、言うて令和やぞと思ってた
でも話聞くと、評判より更に悪かった
一時保護が刑務所よりキツイらしい(3人くらいに聞いたけど皆同じ意見だった、別の地区で)
あざとか傷とか見えないように隠してる
地獄だよね
児相も悪気があるわけではないんだろうけど、週に数回ヒアリングされて
上で書いたとおりなので、気分は仮釈放中の犯罪者よりしんどいだろうと思う
親が色んなことしてくれないので自分でやるしかなくて(例えば学校の手続きとか、学費の援助申請とか)
どうやって抜け出すんだこの状況
・兄弟がばらばらになる
・私物も何も持っていけない
だから嫌だとのこと
確かにこれは生きるか死ぬかの状況にでもならなきゃ選択しないね
年齢・性別で振り分けられてるのだとか
片親虐待っ子はまだ何とかなってる
(なお片方が消えたら自動的に施設行きらしい、かなりギリギリのところに居る、拒否権はない)
食べてるとしても炭水化物だけとかそういう感じ
その子は兄弟全員よりにもよって痩せの大食いらしく、ご飯と塩だけとか、パスタに塩と油だけで食べてるらしい
近所のおばさん(他人)がちょいちょい助けてくれるらしい
逆に助けたり手伝ったりということもあるとか、日本でもそういうのまだあったんだな
昔は学童保育も助けてくれたとか
それでもギリギリ、正直周囲の助けって何人か居ないと無理なんだと思う、まるっきり面倒見るわけにも行かないし
18歳で成人にしたのにね
特に高校生が意外としんどい、中学生は義務教育だからね、高校生は義務教育でもないのに人権がないっていう意味分からん存在になってる
家出もできない、知ってると思うけど家出して誰か大人の家に無断で泊まったらその人は誘拐罪になる(虐待親は気まぐれで過干渉になるらしい)
世の中がキラキラするほど憂鬱になるのは非モテだけじゃないらしい
この国は相変わらずだなと思う
まあ人のこと言えないけどね
日本の子ども支援やシングルマザー支援が薄いのは、その対象になる割合が少ないかららしい
基本無視してると言うか
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そもそも不良の子と虐待の子を一緒に入れておくのが違和感あった
「問題児たちを集めておく施設」と捉えるとしんどさはわかるでしょう、昭和初期の学校みたいな状態
私語厳禁でトイレも自由に行けず学校にすら行かせない、ずっと自習
https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20230414a.html
https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20230414b.html
人手不足なのもわかるし、子供を何人も預かるならそうなるしかないというのはわかる
わかるけど経験者は「刑務所みたい」「もう行きたくない」という場所になっている
けっして避難所ではないから、虐待の気がある人に安易に「児相に相談しろ」って言えなくなった
例えば両親がいなくなったとか、一人っ子とか、いじめられてるとか、友達がいないとかならともかく
VIRONとメゾンカイザーがわりと好き
あとさ、貧乏片親家庭出身者の私としてはオヤツって「学童保育で食べるもの」なのよ
だから片親パンって名称を作った人ってどういうシチュエーションでそのパンを与えられてたのか純粋に気になった
朝食かな?
うちはケロッグのシリアルか、8枚切りトーストにマーガリンとジャムをタップリつけたものが多かったよ
食パンの銘柄も特に決まってなかったし、超熟も本仕込もダブルソフトもロイヤルブレッドも何でも食べてたわ
菓子パンだと、薄皮シリーズはあまり買ってくれなくて、5〜6個入りのあんぱんやクリームパン、スティックパンは親が気まぐれに買ってくる程度
ほかに親が気まぐれで買ってきて食べてたのはヤマザキの「高級つぶあん」「北海道チーズ蒸しケーキ」「ホワイトデニッシュショコラ」「ナイススティック」「ケーキドーナツ」「カレーパン」
小田急線沿線に住んでたから、たまーにHOKUOのチョコ系菓子パンを買ってくれることがあって、これは超贅沢なことだった
親が買ってこなかったので大人になるまで食べたことがなかったのはヤマザキの「スイートブール」
親がたまに買ってきたけど、好みじゃなくて親以外だれも食べなかったパンといえばヤマザキの「スペシャルサンド」「ミニスナックゴールド」「アップルパイ」だね
というわけでさ、片親パンとか言ってる人は片親家庭の代表ヅラすんなって話
たとえ貧乏片親家庭だろうと好みに合わねーもんは誰も食べないの(知ってんだろそのくらい)
数年前に引っ越して来たペット可のマンションに柴犬飼ってる人が住んどって廊下やエントランスであのムッチムチモフモフの食パンみたいな色合いの体を左右にユッサユッサ揺らして日の丸弁当みたいなお尻をフリフリしながらくりんくりんの尻尾を左右にピョコピョコさせて一生懸命歩いてるその柴犬のことをすれ違いざまにいつも姿見失うまで凝視してて毎回ギュッとしておでこにちゅっちゅして顎の下撫で回しながらモフモフして布団に連れ込んで抱っこしながら一緒に寝落ちしたい衝動に駆られるけどそこは気持ちを抑えて幼少期に数年通ってた学童保育で飼ってた柴犬を日が暮れて親が迎えに来るまでの時間ひたすらモフり倒して毎日散歩してうんちの処理してたまに一緒に昼寝してた最強の記憶を思い出しながらうちの8kgあるプヨプヨ長毛猫を抱っこして額にちゅっちゅちゅっちゅして夜はお布団に連れ込んで頭と顎の下撫で回してゴロゴロゴロゴロ言わして寝落ちしてるから猫は猫でたまらんしその度にうちの子は世界一可愛いからまあ柴犬ちゃんは見逃したろと思うけど後日あの柴犬ちゃんとすれ違うとまたプリプリの日の丸弁当みたいなお尻にガツンとやられて両手でお尻もみもみしてモフモフしたい欲がムラムラ湧いてきて飼い主さんに挨拶しつつ柴犬ちゃんにもついつい赤ちゃん言葉で声をかけるけど飼い主さんは会釈するだけで柴犬ちゃんも相当訓練されとるようでこちらには一瞥もせずカッチカッチカッチカッチ爪がコンクリートに当たる音を響かせながらそそくさ通り過ぎてくから未だ何の進展もないけどかと言って別の柴犬を飼って愛でるのは違う気がするしそういうときはまた我が家の8kgあるモフモフプヨプヨの長毛猫のフサフサケツをもみもみして額にちゅっちゅちゅっちゅしてギュッと抱っこして夜はお布団に連れ込んで頭と顎の下撫で回してゴロゴロゴロゴロ言わして最後はウザがられて見事な高速猫キックを喰らいつつ脱出されて寝落ちするけど通勤途中にちょっと寄り道すると庭でミックス犬放し飼いしとる家があるから時間があるときはいつも寄り道してこちらを補足したら一目散に駆けつけてピョンピョン飛び跳ねながら一生懸命吠えて番犬バウバウするその姿にほっこりしながらいつもおうちまもっててえらいでちゅねえきょうもおっきいこえだせてげんきでちゅねえけさもおいちいごはんたべまちたかいっぱいなでなでちてもらいまちたかぁって話しかけてるけど未だ飼い主さんには見られてないから別になんも恥ずかしいことはないしまだまだいけそうやからそのうち絶対柵越しに頭とマズルと顎の下撫で回せる仲に発展させてキュンキュンキュンキュン言わして優勝したるで
毎日、「お前は無能だ」「お前のせいで家が貧乏になった」「成績が悪いから、俺たちの老後がなりたたない」と説教される
(略)
家は埼玉県。
最後に「両親は死んでいる」と明かされるわけなんだが、毎日説教してる奴って誰なん? 親戚? 恋人? それともイマジナリー両親?
その「家」って何なの? 元々の持ち家に住んでんの? 親戚の家?
自立ができない。お金がない。塾の講師ができない。一度、首になったから。暗い、何を言ってるか分からない、自信がなさそう、それで生徒からの評判が悪すぎた。
私の両親は、両方とも国家公務員だった。
母はまじめだが家事はしない。残業で帰宅が20時になる。父も定時で帰れることはない。
そうですか。大変でしたね。
なぜだろう。
楽しかったような、楽しくなかったような。
なんでここでいきなり具体性がぶっ飛ぶの?
そら「大した思い出が無い」ことはあるだろうけど「記憶が無い」って何なん?
保育園時代の延長であるなら学童保育かなんかに行ってたんだろうし家で親を待っていることもあっただろうが、それを全部ひっくるめて「勉強ばかりしていた」はちょっと雑すぎじゃね?
設定作りこむのがめんどくさくなった?
彼氏がいたせいもある。
でも、彼氏は転校していなくなった。
この唐突な「セックスしてません」告白はなんなの? 本筋にまったく関係なくね?
いつも私に罵声を浴びせかけていた。
しね、ころされろ、お前がいるから私が不幸なんだ、お前がいるから、お前がいるから。
そのレベルだと恐らく「措置入院」してんだけど、何で退院できたの?
死に方が凄惨だったな。
血しぶきが飛び散るレベルは首をそうとうスッパリやらないといけないんですが、本当に飛び散っていたんでしょうか。
父は、それ以降、気が狂った。
川で溺れたらしい。は?
勝手に死にやがって。
知らんし。
誰か助けてよ。
私は、どうしたらいいんだよ。
何も分からないんだよ。
喪服に腰回りが入るか心配をする季節。祖父の三回忌がもうじき行われよう、という頃であった。
祖父を追うようにして、と言うには少し年月が経っていた。そして、三回忌になる祖父の死を、祖母が認識できていたかは、はたしてわからない。
要介護4。祖母が認知症を患ってから、もう20年は経っただろうか。
合掌。
**
戦前を知る祖母。海外旅行が好きで、アルバムが何冊もある。そのほとんどをめくったことはないし、思い出を尋ねたこともないが…。実に惜しいことをした。
裁縫が得意で、幼少期に好きだったゲームキャラクターのぬいぐるみを、ねだって作ってもらったことがある。手作りのプレゼント、と思い返すと、今でも気持ちがあたたまる。
祖母は長年、自営業だった祖父の会社の経理を務める傍ら、学童保育なんかの地域活動に勤しんでいた。60歳を過ぎたあたりで、そうした仕事縁が切れてしまったようで、毎日、特にすることもなく、会う人もなく、自室に籠りがちになった。
特に具合が悪いとは聞いていないが、時おり部屋を覗きに行くと、散らかり放題。まず、足の踏み場がないくらい服が散乱している。万年床で力なく横たわる祖母の頭上には、布マスクが何枚も干してあり、床には消費期限切れのあんぱんやバナナが、袋に入ったまま潰れている。
当時はげっそりするばかりで、祖母を慮ることができなかったが、おそらく、鬱だったのだと思う。社会に、自分の居場所がなくなってしまったのだ。家族でさえも、居場所を作れなかったのだと思う。
おばあちゃん、なんかヘンだね、と家族で話題にあがることもあるが、「しっかりしてよ!」と本人に言うくらいで、解決のしようがわからない。これからしばらく経つと、祖母の口から物や人の名前が出てこなくなり、めっきり口数が減った。
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次いで、認知症らしい症状が出てくる。
自分の食事が済んで部屋に戻ったあとで、入れ歯で咀嚼に時間がかかり、食事の遅い祖父に対して「まだ食べているのか」「洗い物ができない」と小言を言いにくるようになった。…3分おきに。
あまりに頻度が過ぎるので、逆に祖母が咎められる始末。でもまたすぐに、小言を言いに戻ってくる。まるでコントのようだが、本人の言い方は鬼気迫っている。見方によっては、祖父にだけは強く出られる、…それは愛情だったのかもしれない。
わかった、わかった、と折れるが食事の終わらない祖父。 その後、また小言を言いにくる祖母。祖母が老人ホームに入るまで、夕飯時はこのシーンが毎日、繰り返されることになる。
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振り返って、認知症の決め手に思えたのが、「死んじゃいたい」という祖母の発言だった。小言を言うようになって1年ほど経った頃に、祖母がふいに口にしたのだった。
なんてことを言うんだ…! …と驚いた。家庭に、希死念慮のある人がいるとは。
「情けないよ、死んじゃいたいよ」
これを何遍も繰り返す。認知症の人は、直近の出来事の記憶はなくなっても、腹が立った、哀しかった、恥ずかしかった、という感情は残るのだという。おそらく祖母は、このときには自身の認知症をはっきり自覚していて、それに伴う負の感情が、いよいよ堰き止められなくなったのだろう。
これはもう家族の手に負えない、と思って診断を受けてもらうと、当時は軽度ではあったが、やはり認知症の認定をもらったのだった。遅かった、と悔やむが、早ければどうにかできたのだろうか。接し方くらいは、変わったかもしれない。
買い物は危ない。出先で声をかけられたのか、家族で登録済みの生協に個人でまた登録してしまったり、フルーツの訪問販売に食べきれないほど買わされそうになったり、人の良さや判断能力の鈍さに"付け込まれる"ことは多々あったが、それでも祖母は、自宅で自分の身の回りのことをやれるだけの元気はあった。
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我が家ではねこを飼っている。認知症の祖母にとっても、ともに同居する家族にとっても、ねこの存在は救いだったと思う。
相変わらず祖父への小言は絶えなかったが、ねこを愛でるときは、祖母本来の、やさしい気質を感じさせた。
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祖母と過ごした時間は、祖母が認知症を患ってからの期間の方が、ずっと長くなった。
もう祖母の思い出というと、例の夕食のシーンがほとんどだったが、あるとき反物をもらったので、これを浴衣にしてほしい、と無茶を頼んだことがある。
「ずいぶん久しぶりだから、どうかしら…」
ちょっと困った顔をしていたが、やるだけやってみる、と十数年ぶりかに、針と糸とを手に取ってくれた。
数日後、ちょっと丈の短い浴衣が完成していた。物が出来上がったこともうれしかったが、大変だったのよ、とこぼす祖母の"小言"にも、うれしさを感じた。
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それから私は家を出て、LINEで家族から近況を伺うか、たまに帰ると名前を忘れられている人になるか、そういう距離感で祖母と接していた。
認知症が進み、施設介護が必要になってきた。ショートステイから始めて、遂にホームに入居するようになった。相変わらず、祖父は食事が遅いが、それを咎められることもなくなり、家は静かになったそうだ。
一方で、祖母はホームではよく食べるようで、自宅にいた頃よりもがっちりとした姿を写真で見せてもらっていた。
**
一昨年、祖父が持病で亡くなった。
"長生き"が目標。90歳を超えて、呼吸や聴力、咀嚼に難はあったが、認知能力に問題はなく、足腰は丈夫で、最後まで自分の身の回りのことはこなしていた。友人には先立たれ、お金もあまりなかったようだが、酒と煙草はやめられない。…適量でね。カメラと高校野球が好きな、元気な人だった。大往生だろう。
年齢からすると、祖母も大往生と言える。ただ、人生の後半20年は、認知症との並走だった。家族も辛かったが、本人も辛かっただろう。どんな心境だったか、皆目検討がつかない。
本人が「情けなくない」と自分に安息できた瞬間は、この老後にあっただろうか? ひとつ、ねこを撫でているときは、そうだったかもしれない。
孫の私は30歳を超えて、訃報を聞いたきょうも、だらしなく生きている。もう倍生きると、祖母の認知症が始まった歳になる。
「情けないよ、死んじゃいたい」と、私もいずれ、誰かに言うことになるかもしれない。誰に言えるだろうか? そう口にしてから、どう仕切り直していけるのだろうか?
反対派(特に女)が多くて驚いてる。
子ども一人で留守番させれないと言うが、対象は小学校3年生以下。子ども一人を車や家に放置して外出は良くないのは当然
子どもを置いて買い物行けなくなる
→連れていけばいい
子どもが熱を出したら買い物に行けない
朝のゴミ捨て
→保育園に送るついでに捨てるとか、小学生なら子どもが家を出てから捨てれば良い
懲役や罰金はないんだし、もし本当にやむを得ない事情で一時的に子どもを一人にした場合、児童相談所に通報されたとしても子どもを取り上げられることはないだろう。
民間保育が高くて使いたくないから、公的な学童保育を充実させろって話だと思ってたよ。
パワーカップルが民間保育で満足してるなら、公的な保育は多少質が低くても問題ないのかな。
色々と問題は頻発しそうな気もするけど、ないよりはマシだろうし。
俺の家は両親共働きで、祖父母が同居してはいたんだが二人共病気がちで俺や妹の面倒を見れる状態じゃなかった。
そんな家庭だったので、小1くらいから祖父母が調子悪い時に家の事を色々やるようになった。
簡単な料理作ったり、洗濯機を回したり(取り出して干すのは手が届かなかった)とか程度だけどね。
その程度の家事でも今考えると危なっかしい事やってたなぁって記憶が結構ある。
目玉焼き焼いてるフライパンをうっかりひっくり返してあわや大火傷ってなりかけたり、洗濯機の中に落ちそうになったりとかね。
ちゃんとした料理じゃなくてもお湯を沸かして使うだけでも、小さな子どもにとっては結構な危険な行為だ。
でもお湯も湧かせないんじゃカップラーメンすら食べられない。
だから一人は大人が子供の側にいた方がいいのは確かなんだよなぁ。
かといって核家族化が進んだ現代で家族の誰かが面倒みるのは難しい。
ベビーシッターや家政婦さんを派遣するのも、マンパワーが不足していくこれからの日本ではどう考えても現実的じゃない。
学童保育もやる気がある人のボランティアで成り立ってるようなところがあるからなぁ。
予算と人員をつっこめばいいって人もいるだろうけど、仮にそれをやると絶対に保育の質は下がるんだよなぁ。
首都圏で子育てしてるって一人親を除けば世帯収入の多いパワーカップルが主流な訳で、そういう人達が満足する様な質の保育を規模を拡大しながら提供するのはまず無理だと思う。
子作りは個人の「子を持ちたい」という願望への依存だけでは、必要十分ではない。→人間が生まれる源である、共同体の維持、持続性には個々人で子作りの負担を分担しようとしないと維持できない。今より格段に貧しかった先祖の苦労で生存できているのに、自分の代になれば、辛ければ後世を残すという責務はなくて良いのか?子作り育児の困難をいかに取り除こうとするのではなく、絶対に負担がある子作りの困難をいかに受け入れられるようにするかが肝心。子作りの「位置付け」を、苦労で諦めてしまう「個人の意思や願望でもうけるもの」から、個人、および共同体の持続性に必要不可欠なものと位置付け、税のように広く必ず「共同体で負担すべきもので個々人が協力すべきもの」へ。現代人の自由と人権を守って、貧しければ子供を作らずに少子化でどんどん日本人が減少し、移民主体の国に置き換わっていくか、個人が貧しくても子育ての負担を受け入れて生き残るか、突きつけられる究極の2択ーー。いや、子を持ちたい人を支援すれば、子供を欲しがる人の意思だけで、増えていくハズ←増えませんでした(確定事実・少しでも出生率が改善しているわけでもないので、量が不足していると考えるより、方向性が間違っていると考えるべき)。
【出生率低下の原因】
・現代は昔と比べて出生の要素が減少した(子作りを個人の意思でコントロールできるようになった)。
→出生率が高かった時代の子が生まれてくる要素は①「子を持ちたい願望」に加え②「農業の労働力や後継男子が生まれるまで子を作ろうとした(インセンティブがあった)」③「道楽としての性欲」④「避妊、堕胎がなかった」←そもそも出生率が高かった昔も親の子供を持ちたい希望だけで、人口が維持、拡大できたわけではない。つまり、本意でないのに作っていた群もいて、その結果、人口が維持拡大できた。いわば、不本意でない出生が人口維持や増加を支えていた。もちろん苦労もあり、苦労と出生数はトレードオフの関係だった。
→しかし現在の日本(他の先進国も)は①子を持ちたい願望だけの「一本足打法」になった
→子供が生まれる要素が減り、これだけでは出生率2以上には足りない。もともと、子供を持ちたい願望のある世帯だけでは、出生率2に足りない。
・個々人にとって結婚や子作りに消極的な主な理由は経済や環境があげられるが、人間社会にとっては少子化になったのは願望や愛情をそそぐ満足感を得るためのものになった(子供の位置付けが生産材→消費財へ)
・原因は子作りや結婚の経済や環境的な障壁ではなく、障壁に感じるかどうか。
→それは、結婚や子作りが個人主義の台頭でほぼほぼやるべきものから、個人の裁量の対象になり、個人の志向
に依存することになり、(例・ペットは狩りができなくなったのは、ペットに聞けば狩りは難しい事を原因に上げるが、本当の原因は人間に飼いならされてしまったから)
・理想の子供の数の平均は2.5人程度だが、これは貧しければ簡単に諦める人も含まれる「熱量」が全く考慮されていない数値。資本主義という制度上、必然的に存在する貧しい層の存在に対し、「賃金を上げられれば」など、無責任で実現できないタラレバを唱えても時間の浪費と共に少子化が進行するだけ。
・したがって、いくら育児支援をしても、子を欲しがる人の数が足りないので効果が出ない。アンケートでも、金銭面や環境面だけではなく、自分の時間が潰れるのが嫌だからという回答多数。
・先進国ほど少子化、豊かになるほど少子化 ←エンゲル係数は下がり、全自動洗濯機など家電は便利になり、家事負担も減り、保育所の整備は進み、待機児童も減り、育児休暇率も上がり、男性の育児参加も進んでいるのに、出生率は低下。結局、子作りや育児の負担がある限り、また別の何かに不満や負担を感じてしまう←不満や負担の問題解決ではなく、どのみち解消できない不満や負担を受け入れることが重要。
・個人が自分にとって最適な行動(コストや負担を避けるために子供を作らない)をするほど、出生率は低迷する
・過去と比べた場合の出生率低下の原因=1970年代前半まで既婚率97%、貧乏人でもほぼ結婚して子供を作っていた。「個人主義の台頭による子づくりの優先順位の低下」(経済や環境で諦める対象になった。子作りにおける世代間扶助より自己実現を優先)経済や環境は原因ではなく結果。
・昔「みんな必ず、大変でも子供は作りましょうね」→現在「子作りは各々の自由ですよ〜」→当然、経済的、環境的に大変な人は子作りを避けるようになる
・逆にいうと、子作り圧力などにより、先代が結果として自己の利益を犠牲(昔の方がエンゲル係数が高かった→昔は今より無理して子供を育てていた)にした結果、現代人が存在できる。
・社会のレールは「子作りと仕事の両立」ではなく、実際には「完全に仕事を優先」(新卒一括採用の掟)してしまっている
・教育費が高い問題→子供の数が少ないから、教育費に金をかけられる→金をかけるから金がかかるになる。
・負担を回避しようとする(無理=その間に少子化がどんどん進行してしまう)のではなく、いかに負担を受け入れてもらうか。出生を子育て世代の願望による産物ではなく、生物学的な道理、摂理に根ざしたものにすべき(人口維持に必要な数を目標にすべき)。→手順や方法ではなく、結果(出生率)に拘る。ターゲット戦略型にする
・子作りは楽ではなく、元々大変なもの→問題なく少子化が解決できる「魔法の聖杯」を探し続ける時間が長いほど少子化は進行してしまう。
・移民政策では、出生率低下により減り続ける日本人の少子化問題は解決しない。→単純に減り続ける日本人の代わりに移民と置き換わるだけで、共存が続くわけではない。X字のように、時間の経過とともに、人種構成が移民と置き換わるだけ。日本人がいなくなっても日本列島に移民がいれば解決ではない。
・少子化対策は質より量を目指す。数字ありきが正解。←質を保ちつつ、量を目指してきたが、結局失敗した(量が競争により質を向上させる面も)。
・出生の機序と誤解
→子供が欲しいから作る人が大半だが、全てではない。←ここがポイント。完結出生児数が2ならば、100%の人が結婚しないと少子化確定(そんなの無理)。
・そもそも、全ての人が最初から結婚し、子供を望んでいるわけではない。←生物学的にも子供は本能や希望だけではなく、元から全ての要素ではない。←あくまで授かって生まれた子供に愛情が芽生えるのであって、愛情が最初からあって作ろうとするのではない(本来は順序が逆)。
・労働ややりがいではなく、出生率を優先すべき。持続性が生命の大前提。それが担保された延長線上に個人のやりたいことや夢がある←人間は目先の報酬を優先してしまう
・子作りは生物学的原理なのに、個人の価値観の対象としてとらえらてしまっている。→生物は自己の価値観に合致しているから子供を作るわけではなく、あくまで本能。人間は生物額的本能が退化してしまった可能性がある。
・共同体の持続性は、個々人の負担で達成される。(個人の利益と相反)共同体というプールがあるから、人間が存在できる。一代(今の自分自身)の人間の利益を最大化すると共同体の持続性が毀損され、やがて人間は少子化によりどんどん存在できなくなる。
・選択肢が多いほど不幸になる「選択のパラドックス」江戸時代の農村は結婚相手が限られていた
・「出生率向上の目標」は子育て環境の満足度や子作りの納得感を上げることではなく、出生率の数値を上げること。子育て世代の満足感の向上への努力は出生率向上に繋がっていない。納得感、満足感ではなく、出生率の数字向上を重要視する(少子化は感情やモラルや倫理観ではなく、「数」で決まる現実を受け入れる)
・子供を増やすことによる副作用より、まずは頭数が重要。無理に増やすと、問題も増えるといって対策を打たなければ、プラマイゼロではなく、出生率低迷の長期化による出生数減はどんどん進行する。
・無理やり増やそうとするデメリットより、少子化のデメリットの方がはるかに大きい(子供を無理に増やすことの問題が増えても社会は持続できるが、少子化は時間の経過で物理的に絶滅する・例=癌と一緒。痛みがなく治る方法を探しているうちに、どんどんガンが進行して取り返しがつかなくなる。
→痛みがない方法はあるかもしれないが、見つからない段階ならさっさと痛みを堪えて切除するしかない)。現状は、「賃金を上げよう。環境を改善しよう」と雀の涙の給付と無責任な念仏を唱えるだけ
・子作りは自由だから逆に責任が生まれ、責任回避の動機から減ってしまう。
子供を作る方法自体は、性交渉であり、実は簡単。動物の繁殖もやることは分かっているため、簡単。ただ、現代社会で性交渉の機会を増やすことは非常に難しい。また、人間で難しいのは人権があるという点。逆に言えば、出生率が改善しにくい原因は子育て世代の人権保護を「優先」する為と言える。さらに逆に言えば、かつての子育て世代は周囲のプレッシャーなど窮屈な思いをして、自己実現や生活水準を我慢した結果とも言える。10割、自分の為に生きるのではなく、3割は次世代の為に負担を受け入れるという考え方の共有が重要。
・子作り(親世代が子世代を作って育てる=「世代間扶助」)の重要性を教え、その価値観を社会と共有する
→親や先祖による世代間扶助(子作り負担)の結果、現代人が存在できるという仕組みを、しっかり社会で共有する(自由や人権を主張できるのも、親や先祖の子作り負担の結果、出生できたから)←この因果関係をしっかり理解する。
→子を持つことを、子育て世代の「幸福の実現手段の一つ」から、社会的に共同体にとって「絶対に必要不可欠な原理」に変える。←子育て世代の子どもを作ることへの責任感の向上があり、社会からの協力も得られやすくなる。
→子作りを義務的に考えれば、必然的に教育競争は弱まる。現在は自由意志だから結婚も子育ても競争になる。(生物学的に必要不可欠な要素は競争ではなく、分配の方が結果的にうまくいく)義務的になれば、無茶な競争意識から解放され、育ってくれればとりあえずOKとなる。実は義務である方が責任がなく子ができた後は精神的にはかるかに楽。自由意志だから責任が伴う。
↓↓
・社会的に解決困難な課題、個人にとって避けたい行動を導くにはルールを作り、負担を社会全体で分担するのがセオリー。つまりルールを作ることが解決策。出生率が高かった時代も事実上、ルールとして意識されていた。
①ルール化と政府による積極的な子作り推奨・子作りの「社会的な位置付け」の変更←子育て世代の希望者だけ子供を作るのではなく、皆で分担して作る→結婚し子供を作る人が増えれば、相手も見つけやすくなる。
(個人として避けたい負担でも全体にとって必要不可欠な行動はルール化するのが古今からのセオリー、例えば税金は貧困者も負担する。国によっては徴兵制もある(こちらは国を守るために命を投げ出せと言ってる)
子作り子育て世代になれば、子供を作りましょう(もちろん健康に問題がある人は除く)
・子作りのタスク化(個人の願望の産物だと、モチベーションや環境に左右されてて必要な出生率を確保できない)
(政府は期待、支援するだけではなく、能動的に子作りを「要請し、積極的に推奨」する。あらゆる生物に共通する、共同体が持続するための『世代間扶助の原則(負担があるから持続する)』を説明すれば多くの人は理解できるはず)
・個人の「幸福の手段」の一つとして子作りを位置付けるから、幸福でないなら子供を作らないという行動になってしまう(幸福の手段という位置付けだから、基本「勝手に自助努力でやれ」になる)。大前提として子作りを「幸せの実現手段」ではなく、「個人の存在の源でもある共同体の持続性に不可欠な存在」と定義する。そうすれば子育て世代は子作りに対する責任感が生まれ、政府も会社も社会も負担を受け入れて協力的になるはず。
②有利不利で動機付ける
・実質的な「子なし税」の導入
人間は得をするための行動より、損を避ける行動を重要視する(「損失回避」=プロスペクト理論)例えば45歳以上で子供がいなければ、所得の10%を課税される→早めに結婚でもして子供を作ろうとなる。また、子なし税は応分負担の原則からいっても、共同体の構成や成立、持続性において必要不可欠である子供を作らないのに、福祉だけ享受するのは不公平という理屈もある
・多額の給付金(財源は一般会計とは別枠の「子供国債方式」で持続性を担保→時の政権の介入を防ぐ。不正受給を防ぐために日本国籍限定)
一生の納税額は少なくとも3000万円。1000万円配っても十分、ペイできる。
財源節約には、最初の動機を高める第1子と子供を増やすための第3子以降を手厚くする。親のパチンコ代のために無責任に生まれても、生まれてこないよりもはるかにマシ。
良いこだけ産まれてくればいい、という都合のいい解決策は存在しないことを良い加減、学習しましょう。現代人が存在できているのも、元々は祖先の労働力欲しさや性欲など打算の結果でもありす。もともと「子を持ちたい親の気持ち」だけで子孫たる現代人が存在しているわけではない。
・誰でも使える認可保育園や学童保育の24時間営業(バカ親に育児放棄されるより100倍マシ、育児負担感は大幅軽減、効果的な幼児教育もやればいい)
繰り返すが、人権や個人の自由などを一部、我慢して、仮に自身の環境が悪くても、後世を残すことに対する負担をしないと、共同体の持続性が損なわれ、やがて個人も少子化により、存在できなくなる。いわゆる移民政策を導入しても、減っていく日本人の傾向は変わらず、日本人が滅んで移民に取って代わられるだけで、日本人の持続性を担保できる政策ではない。
子作りは個人の「子を持ちたい」という願望への依存だけでは、必要十分ではない。→人間が生まれる源である、共同体の維持、持続性には個々人で子作りの負担を分担しようとしないと維持できない。結果的に、今より格段に貧しかった先祖の苦労で生存できているのに、自分の代になれば、辛ければ後世を残すという責務はなくて良いのか?子作り育児の困難をいかに取り除こうとするのではなく、絶対に負担がある子作りの困難をいかに受け入れられるようにするかが肝心。子作りの「位置付け」を、苦労で諦めてしまう「個人の意思や願望でもうけるもの」から、個人、および共同体の持続性に必要不可欠なものと位置付け、税のように広く必ず「共同体で負担すべきもので個々人が協力すべきもの」へ。現代人の自由と人権を守って、貧しければ子供を作らずに少子化でどんどん日本人が減少し、移民主体の国に置き換わっていくか、個人が貧しくても子育ての負担を受け入れて生き残るか、突きつけられる究極の2択ーー。いや、子を持ちたい人を支援すれば、子供を欲しがる人の意思だけで、増えていくハズ←増えませんでした(確定事実・少しでも出生率が改善しているわけでもないので、量が不足していると考えるより、方向性が間違っていると考えるべき)。
【出生率低下の原因】
・現代は昔と比べて出生の要素が減少した(子作りを個人の意思でコントロールできるようになった)。
→出生率が高かった時代の子が生まれてくる要素は①「子を持ちたい願望」に加え②「農業の労働力や後継男子が生まれるまで子を作ろうとした(インセンティブがあった)」③「道楽としての性欲」④「避妊、堕胎がなかった」←そもそも出生率が高かった昔も親の子供を持ちたい希望だけで、人口が維持、拡大できたわけではない。つまり、本意でないのに作っていた群もいて、その結果、人口が維持拡大できた。いわば、不本意でない出生が人口維持や増加を支えていた。もちろん苦労もあり、苦労と出生数はトレードオフの関係だった。
→しかし現在の日本(他の先進国も)は①子を持ちたい願望だけの「一本足打法」になった
→子供が生まれる要素が減り、これだけでは出生率2以上には足りない。もともと、子供を持ちたい願望のある世帯だけでは、出生率2に足りない。
・個々人にとって結婚や子作りに消極的な主な理由は経済や環境があげられるが、人間社会にとっては少子化になったのは願望や愛情をそそぐ満足感を得るためのものになった(子供の位置付けが生産材→消費財へ)
・原因は子作りや結婚の経済や環境的な障壁ではなく、障壁に感じるかどうか。
→それは、結婚や子作りが個人主義の台頭でほぼほぼやるべきものから、個人の裁量の対象になり、個人の志向
に依存することになり、(例・ペットは狩りができなくなったのは、ペットに聞けば狩りは難しい事を原因に上げるが、本当の原因は人間に飼いならされてしまったから)
・理想の子供の数の平均は2.5人程度だが、これは貧しければ簡単に諦める人も含まれる「熱量」が全く考慮されていない数値。資本主義という制度上、必然的に存在する貧しい層の存在に対し、「賃金を上げられれば」など、無責任で実現できないタラレバを唱えても時間の浪費と共に少子化が進行するだけ。
・したがって、いくら育児支援をしても、子を欲しがる人の数が足りないので効果が出ない。アンケートでも、金銭面や環境面だけではなく、自分の時間が潰れるのが嫌だからという回答多数。
・先進国ほど少子化、豊かになるほど少子化 ←エンゲル係数は下がり、全自動洗濯機など家電は便利になり、家事負担も減り、保育所の整備は進み、待機児童も減り、育児休暇率も上がり、男性の育児参加も進んでいるのに、出生率は低下。結局、子作りや育児の負担がある限り、また別の何かに不満や負担を感じてしまう←不満や負担の問題解決ではなく、どのみち解消できない不満や負担を受け入れることが重要。
・個人が自分にとって最適な行動(コストや負担を避けるために子供を作らない)をするほど、出生率は低迷する
・過去と比べた場合の出生率低下の原因=1970年代前半まで既婚率97%、貧乏人でもほぼ結婚して子供を作っていた。「個人主義の台頭による子づくりの優先順位の低下」(経済や環境で諦める対象になった。子作りにおける世代間扶助より自己実現を優先)経済や環境は原因ではなく結果。
・昔「みんな必ず、大変でも子供は作りましょうね」→現在「子作りは各々の自由ですよ〜」→当然、経済的、環境的に大変な人は子作りを避けるようになる
・逆にいうと、子作り圧力などにより、先代が結果として自己の利益を犠牲(昔の方がエンゲル係数が高かった→昔は今より無理して子供を育てていた)にした結果、現代人が存在できる。
・社会のレールは「子作りと仕事の両立」ではなく、実際には「完全に仕事を優先」(新卒一括採用の掟)してしまっている
・教育費が高い問題→子供の数が少ないから、教育費に金をかけられる→金をかけるから金がかかるになる。
・負担を回避しようとする(無理=その間に少子化がどんどん進行してしまう)のではなく、いかに負担を受け入れてもらうか。出生を子育て世代の願望による産物ではなく、生物学的な道理、摂理に根ざしたものにすべき(人口維持に必要な数を目標にすべき)。→手順や方法ではなく、結果(出生率)に拘る。ターゲット戦略型にする
・子作りは楽ではなく、元々大変なもの→問題なく少子化が解決できる「魔法の聖杯」を探し続ける時間が長いほど少子化は進行してしまう。
・移民政策では、出生率低下により減り続ける日本人の少子化問題は解決しない。→単純に減り続ける日本人の代わりに移民と置き換わるだけで、共存が続くわけではない。X字のように、時間の経過とともに、人種構成が移民と置き換わるだけ。日本人がいなくなっても日本列島に移民がいれば解決ではない。
・少子化対策は質より量を目指す。数字ありきが正解。←質を保ちつつ、量を目指してきたが、結局失敗した(量が競争により質を向上させる面も)。
・出生の機序と誤解
→子供が欲しいから作る人が大半だが、全てではない。←ここがポイント。完結出生児数が2ならば、100%の人が結婚しないと少子化確定(そんなの無理)。
・そもそも、全ての人が最初から結婚し、子供を望んでいるわけではない。←生物学的にも子供は本能や希望だけではなく、元から全ての要素ではない。←あくまで授かって生まれた子供に愛情が芽生えるのであって、愛情が最初からあって作ろうとするのではない(本来は順序が逆)。
・労働ややりがいではなく、出生率を優先すべき。持続性が生命の大前提。それが担保された延長線上に個人のやりたいことや夢がある←人間は目先の報酬を優先してしまう
・子作りは生物学的原理なのに、個人の価値観の対象としてとらえらてしまっている。→生物は自己の価値観に合致しているから子供を作るわけではなく、あくまで本能。人間は生物額的本能が退化してしまった可能性がある。
・共同体の持続性は、個々人の負担で達成される。(個人の利益と相反)共同体というプールがあるから、人間が存在できる。一代(今の自分自身)の人間の利益を最大化すると共同体の持続性が毀損され、やがて人間は少子化によりどんどん存在できなくなる。
・選択肢が多いほど不幸になる「選択のパラドックス」江戸時代の農村は結婚相手が限られていた
・「出生率向上の目標」は子育て環境の満足度や子作りの納得感を上げることではなく、出生率の数値を上げること。子育て世代の満足感の向上への努力は出生率向上に繋がっていない。納得感、満足感ではなく、出生率の数字向上を重要視する(少子化は感情やモラルや倫理観ではなく、「数」で決まる現実を受け入れる)
・子供を増やすことによる副作用より、まずは頭数が重要。無理に増やすと、問題も増えるといって対策を打たなければ、プラマイゼロではなく、出生率低迷の長期化による出生数減はどんどん進行する。
・無理やり増やそうとするデメリットより、少子化のデメリットの方がはるかに大きい(子供を無理に増やすことの問題が増えても社会は持続できるが、少子化は時間の経過で物理的に絶滅する・例=癌と一緒。痛みがなく治る方法を探しているうちに、どんどんガンが進行して取り返しがつかなくなる。
→痛みがない方法はあるかもしれないが、見つからない段階ならさっさと痛みを堪えて切除するしかない)。現状は、「賃金を上げよう。環境を改善しよう」と雀の涙の給付と無責任な念仏を唱えるだけ
・子作りは自由だから逆に責任が生まれ、責任回避の動機から減ってしまう。
子供を作る方法自体は、性交渉であり、実は簡単。動物の繁殖もやることは分かっているため、簡単。ただ、現代社会で性交渉の機会を増やすことは非常に難しい。また、人間で難しいのは人権があるという点。逆に言えば、出生率が改善しにくい原因は子育て世代の人権保護を「優先」する為と言える。さらに逆に言えば、かつての子育て世代は周囲のプレッシャーなど窮屈な思いをして、自己実現や生活水準を我慢した結果とも言える。10割、自分の為に生きるのではなく、3割は次世代の為に負担を受け入れるという考え方の共有が重要。
・子作り(親世代が子世代を作って育てる=「世代間扶助」)の重要性を教え、その価値観を社会と共有する
→親や先祖による世代間扶助(子作り負担)の結果、現代人が存在できるという仕組みを、しっかり社会で共有する(自由や人権を主張できるのも、親や先祖の子作り負担の結果、出生できたから)←この因果関係をしっかり理解する。
→子を持つことを、子育て世代の「幸福の実現手段の一つ」から、社会的に共同体にとって「絶対に必要不可欠な原理」に変える。←子育て世代の子どもを作ることへの責任感の向上があり、社会からの協力も得られやすくなる。
→子作りを義務的に考えれば、必然的に教育競争は弱まる。現在は自由意志だから結婚も子育ても競争になる。(生物学的に必要不可欠な要素は競争ではなく、分配の方が結果的にうまくいく)義務的になれば、無茶な競争意識から解放され、育ってくれればとりあえずOKとなる。実は義務である方が責任がなく子ができた後は精神的にはかるかに楽。自由意志だから責任が伴う。
↓↓
・社会的に解決困難な課題、個人にとって避けたい行動を導くにはルールを作り、負担を社会全体で分担するのがセオリー。つまりルールを作ることが解決策。出生率が高かった時代も事実上、ルールとして意識されていた。
①ルール化と政府による積極的な子作り推奨・子作りの「社会的な位置付け」の変更←子育て世代の希望者だけ子供を作るのではなく、皆で分担して作る→結婚し子供を作る人が増えれば、相手も見つけやすくなる。
(個人として避けたい負担でも全体にとって必要不可欠な行動はルール化するのが古今からのセオリー、例えば税金は貧困者も負担する。国によっては徴兵制もある(こちらは国を守るために命を投げ出せと言ってる)
子作り子育て世代になれば、子供を作りましょう(もちろん健康に問題がある人は除く)
・子作りのタスク化(個人の願望の産物だと、モチベーションや環境に左右されてて必要な出生率を確保できない)
(政府は期待、支援するだけではなく、能動的に子作りを「要請し、積極的に推奨」する。あらゆる生物に共通する、共同体が持続するための『世代間扶助の原則(負担があるから持続する)』を説明すれば多くの人は理解できるはず)
・個人の「幸福の手段」の一つとして子作りを位置付けるから、幸福でないなら子供を作らないという行動になってしまう(幸福の手段という位置付けだから、基本「勝手に自助努力でやれ」になる)。大前提として子作りを「幸せの実現手段」ではなく、「個人の存在の源でもある共同体の持続性に不可欠な存在」と定義する。そうすれば子育て世代は子作りに対する責任感が生まれ、政府も会社も社会も負担を受け入れて協力的になるはず。
②有利不利で動機付ける
・実質的な「子なし税」の導入
人間は得をするための行動より、損を避ける行動を重要視する(「損失回避」=プロスペクト理論)例えば45歳以上で子供がいなければ、所得の10%を課税される→早めに結婚でもして子供を作ろうとなる。また、子なし税は応分負担の原則からいっても、共同体の構成や成立、持続性において必要不可欠である子供を作らないのに、福祉だけ享受するのは不公平という理屈もある
・多額の給付金(財源は一般会計とは別枠の「子供国債方式」で持続性を担保→時の政権の介入を防ぐ。不正受給を防ぐために日本国籍限定)
一生の納税額は少なくとも3000万円。1000万円配っても十分、ペイできる。
財源節約には、最初の動機を高める第1子と子供を増やすための第3子以降を手厚くする。親のパチンコ代のために無責任に生まれても、生まれてこないよりもはるかにマシ。
良いこだけ産まれてくればいい、という都合のいい解決策は存在しないことを良い加減、学習しましょう。現代人が存在できているのも、元々は祖先の労働力欲しさや性欲など打算の結果でもありす。もともと「子を持ちたい親の気持ち」だけで子孫たる現代人が存在しているわけではない。
・誰でも使える認可保育園や学童保育の24時間営業(バカ親に育児放棄されるより100倍マシ、育児負担感は大幅軽減、効果的な幼児教育もやればいい)
繰り返すが、人権や個人の自由などを一部、我慢して、仮に自身の環境が悪くても、後世を残すことに対する負担をしないと、共同体の持続性が損なわれ、やがて個人も少子化により、存在できなくなる。いわゆる移民政策を導入しても、減っていく日本人の傾向は変わらず、日本人が滅んで移民に取って代わられるだけで、日本人の持続性を担保できる政策ではない。
ぐぐりゃすぐ出てくるやん
https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/pdf/93869701_01.pdf
該当例
● 幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、高等専門学校、各種学校、専修学校、大学など(学校教育法)
● 防衛大学校、税務大学校、自治体の農業大学校等の大学に類する教育機関(各省の設置法や組織令など関係法令等)
● 保育所、認定こども園、学童保育(児童福祉法、就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律)
● 公民館、博物館、美術館、図書館、青少年センター、生涯学習センター、その他これに類する社会教育施設(社会教育法、博物館法、図書館法など)
・いざとなればカーシェアを使えばいいよ
・車の維持費で別のことをした方が幸せだよ
と考えてるかは知らないが、東京都区内で4人の子持ちのママがお友達にいらっしゃるよ
車の有無は、たぶん旦那さんだけ営業用?自家用車じゃないものをもってるんじゃないかな
まあワンボックスの3列シートで5歳以下が常に2人しかいないのならなんとか家族全員乗れるかどうかだな
常識的に考えるとじいさんばあさんと同居してもう一台出してもらうところだ
逆に超車社会の名古屋で車もたないで暮らすのはバカ扱いされるよ
安いうまい回転寿司が300mくらいの行列左車線につくったりもしてるけど
それだけのバリューがあるんだ
なので新居選びとおなじというか本当に居住地次第、あと家族の運転者の人数次第なんだよ
タクシーだって深夜はバカ高いし、妊婦や病児を乗せないポリシーのタクシーもあるけどどうかな
比較検討の上で車があったほうが便利そうならまず免許をとってレンタカーでも試すところからだが、
眼鏡矯正できないほどのド近眼やてんかん、免許返納すべき高齢者など