喪服に腰回りが入るか心配をする季節。祖父の三回忌がもうじき行われよう、という頃であった。
祖父を追うようにして、と言うには少し年月が経っていた。そして、三回忌になる祖父の死を、祖母が認識できていたかは、はたしてわからない。
要介護4。祖母が認知症を患ってから、もう20年は経っただろうか。
合掌。
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戦前を知る祖母。海外旅行が好きで、アルバムが何冊もある。そのほとんどをめくったことはないし、思い出を尋ねたこともないが…。実に惜しいことをした。
裁縫が得意で、幼少期に好きだったゲームキャラクターのぬいぐるみを、ねだって作ってもらったことがある。手作りのプレゼント、と思い返すと、今でも気持ちがあたたまる。
祖母は長年、自営業だった祖父の会社の経理を務める傍ら、学童保育なんかの地域活動に勤しんでいた。60歳を過ぎたあたりで、そうした仕事縁が切れてしまったようで、毎日、特にすることもなく、会う人もなく、自室に籠りがちになった。
特に具合が悪いとは聞いていないが、時おり部屋を覗きに行くと、散らかり放題。まず、足の踏み場がないくらい服が散乱している。万年床で力なく横たわる祖母の頭上には、布マスクが何枚も干してあり、床には消費期限切れのあんぱんやバナナが、袋に入ったまま潰れている。
当時はげっそりするばかりで、祖母を慮ることができなかったが、おそらく、鬱だったのだと思う。社会に、自分の居場所がなくなってしまったのだ。家族でさえも、居場所を作れなかったのだと思う。
おばあちゃん、なんかヘンだね、と家族で話題にあがることもあるが、「しっかりしてよ!」と本人に言うくらいで、解決のしようがわからない。これからしばらく経つと、祖母の口から物や人の名前が出てこなくなり、めっきり口数が減った。
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次いで、認知症らしい症状が出てくる。
自分の食事が済んで部屋に戻ったあとで、入れ歯で咀嚼に時間がかかり、食事の遅い祖父に対して「まだ食べているのか」「洗い物ができない」と小言を言いにくるようになった。…3分おきに。
あまりに頻度が過ぎるので、逆に祖母が咎められる始末。でもまたすぐに、小言を言いに戻ってくる。まるでコントのようだが、本人の言い方は鬼気迫っている。見方によっては、祖父にだけは強く出られる、…それは愛情だったのかもしれない。
わかった、わかった、と折れるが食事の終わらない祖父。 その後、また小言を言いにくる祖母。祖母が老人ホームに入るまで、夕飯時はこのシーンが毎日、繰り返されることになる。
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振り返って、認知症の決め手に思えたのが、「死んじゃいたい」という祖母の発言だった。小言を言うようになって1年ほど経った頃に、祖母がふいに口にしたのだった。
なんてことを言うんだ…! …と驚いた。家庭に、希死念慮のある人がいるとは。
「情けないよ、死んじゃいたいよ」
これを何遍も繰り返す。認知症の人は、直近の出来事の記憶はなくなっても、腹が立った、哀しかった、恥ずかしかった、という感情は残るのだという。おそらく祖母は、このときには自身の認知症をはっきり自覚していて、それに伴う負の感情が、いよいよ堰き止められなくなったのだろう。
これはもう家族の手に負えない、と思って診断を受けてもらうと、当時は軽度ではあったが、やはり認知症の認定をもらったのだった。遅かった、と悔やむが、早ければどうにかできたのだろうか。接し方くらいは、変わったかもしれない。
買い物は危ない。出先で声をかけられたのか、家族で登録済みの生協に個人でまた登録してしまったり、フルーツの訪問販売に食べきれないほど買わされそうになったり、人の良さや判断能力の鈍さに"付け込まれる"ことは多々あったが、それでも祖母は、自宅で自分の身の回りのことをやれるだけの元気はあった。
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我が家ではねこを飼っている。認知症の祖母にとっても、ともに同居する家族にとっても、ねこの存在は救いだったと思う。
相変わらず祖父への小言は絶えなかったが、ねこを愛でるときは、祖母本来の、やさしい気質を感じさせた。
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祖母と過ごした時間は、祖母が認知症を患ってからの期間の方が、ずっと長くなった。
もう祖母の思い出というと、例の夕食のシーンがほとんどだったが、あるとき反物をもらったので、これを浴衣にしてほしい、と無茶を頼んだことがある。
「ずいぶん久しぶりだから、どうかしら…」
ちょっと困った顔をしていたが、やるだけやってみる、と十数年ぶりかに、針と糸とを手に取ってくれた。
数日後、ちょっと丈の短い浴衣が完成していた。物が出来上がったこともうれしかったが、大変だったのよ、とこぼす祖母の"小言"にも、うれしさを感じた。
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それから私は家を出て、LINEで家族から近況を伺うか、たまに帰ると名前を忘れられている人になるか、そういう距離感で祖母と接していた。
認知症が進み、施設介護が必要になってきた。ショートステイから始めて、遂にホームに入居するようになった。相変わらず、祖父は食事が遅いが、それを咎められることもなくなり、家は静かになったそうだ。
一方で、祖母はホームではよく食べるようで、自宅にいた頃よりもがっちりとした姿を写真で見せてもらっていた。
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一昨年、祖父が持病で亡くなった。
"長生き"が目標。90歳を超えて、呼吸や聴力、咀嚼に難はあったが、認知能力に問題はなく、足腰は丈夫で、最後まで自分の身の回りのことはこなしていた。友人には先立たれ、お金もあまりなかったようだが、酒と煙草はやめられない。…適量でね。カメラと高校野球が好きな、元気な人だった。大往生だろう。
年齢からすると、祖母も大往生と言える。ただ、人生の後半20年は、認知症との並走だった。家族も辛かったが、本人も辛かっただろう。どんな心境だったか、皆目検討がつかない。
本人が「情けなくない」と自分に安息できた瞬間は、この老後にあっただろうか? ひとつ、ねこを撫でているときは、そうだったかもしれない。
孫の私は30歳を超えて、訃報を聞いたきょうも、だらしなく生きている。もう倍生きると、祖母の認知症が始まった歳になる。
「情けないよ、死んじゃいたい」と、私もいずれ、誰かに言うことになるかもしれない。誰に言えるだろうか? そう口にしてから、どう仕切り直していけるのだろうか?