はてなキーワード: 学問とは
高校ではもちろん理系を選択、全国模試をやれば化学は偏差値70をいつも超えていたし、先生にいつも色々と質問をぶつけていた。
大学は誰もが知る難関大学の化学系に進学して、学部の間もそれなりに優秀な学生だった。
自分が博士課程に進学して、優秀な化学者になる未来を思い描いていた。それを疑ったこともなかった。
で、いざ学部4年になって本格的に研究してみると、これがあまり面白くない。
割り当てられたテーマはやりたいことではなかったけれど、学部4年の1年間自分なりに頑張ってみた。
でもテーマの都合で見かけの進捗が同期に比べて随分遅い。
これが俺のプライドを傷つけたのかもしれないし、そもそも結果がなかなか出ないとやりがいがない。
じゃあ座学はというと、上にも書いた通り俺は”それなりに優秀”程度なので、研究室内に自分よりすごい同期がいるし、1,2年じゃ追い越せないような先輩もいる。
座学でも特段目立ったところがない。
だがそれ以上につらいのが、化学を”楽しい”と感じられなくなったことだ。
同期や先輩が、何かしらの論文だとか他人の研究だとかについて楽しそうに語っているのを何度も見てきた。
けれど、俺は論文も他人の研究も”面白い”だなんて思ったことがない。
ギリ”interesting"はあっても、”fun"や"exciting"になったことがない。
教科書レベルの話ではない、突き詰めて詳細で、地道な研究やデータの積み重ねは見ていて楽しくない。
結局俺があんなに好きで、将来を捧げたいと思っていた”化学”とはいったい何だったのだろうか?
高校や大学学部程度の勉強で語られる学問の神秘性が好きだったんだろうか?
それとも俺がただの負けず嫌いで、化学で他人に勝ってることが好きだったんだろうか?
貴方が挙げた三つは支援されるべき対象にはなりにくいのでそこは認めます
ただ争点は、明らかに学生よりも支援される対象があるのに何故そちらを救済せず
まだ彼らはホームレスの様に家が無いわけでも家族が無いわけでもありません
学問に回す時間を労働に回せば、動けない障害者と異なり収入を得ることができます
いや、ないでしょ。
都合四か月の長い長い春休みがあって、その上国からお金をもらう?
どう考えても馬鹿げているでしょう。支援の決定をしたアベは本当に浅はかです。
困窮学生って、遊び呆けているのが殆どなのに支援なんてしなくてもいいじゃないですか。
モラトリアムを延長してもらった癖に苦しいと声を挙げるなんて言語同断です!!
生きていく上で必要ありません。パチンコやギャンブルと同じことです。
学問なんて道楽でやるもので生活に役立つことなんて微塵もありません。
(学問があったってアベみたいなくず鉄になるのが目に見えてます!)
好きなことに傾倒して金がないからって、中世の芸術家じゃあないんですから。
やだやだ、僕払えないもんなんて社会に言ったら通用しませんよ?
そういう人は就活なんかでもろくなところに就職できないでしょうね。
本筋とは逸れますが。
たかだか二か月で勉強が遅れるとぎゃあぎゃあ騒ぐ学生たちは何なの?
それくらい家庭学習ができるでしょう。教科書なんていくらでもあるんですから。
というかですね、私に言わせれば日ごろから要領を超えた「勉強貯蓄」を作っていない方が悪いですよ。
このご時世、二学年、三学年先の勉強は当たり前。ちゃんと我が子にもそのようにさせています。
いい大人なのにそれをしてこなかったツケが来ているだけで大慌てするなんて。
今の大学生にそんな力はないです。甘え切ったがらくたみたいなものです。
このご時世、自分で稼げて自立できる学生こそが優れているのですから。
むしろ真面目な子を選別し堕落した子淘汰する丁度良い機会なんじゃないでしょうか。
簡単にまとめると、今学生に支援する必要はまったくありません。だって必要ありませんから。
苦しんでる?いえ、苦しむべきです。若いころの苦労は買ってでもしろっていうじゃないですか。
それが今無償で支給されてるんですよ。貴方達の好きなログインボーナスです。良かったですね。
まず学問をやって知識だけ詰め込むと人間誰しも「生意気なだけの役立たず」になるわけです
男はその後で社会で現実を叩きこまれて一人前になるわけだけど、女はその機会が無いので役立たずのまま大人になって、モテなけりゃ金も無い中年おばさんになるわけ
なんでその機会が無いかっつーと、女は恩知らずだから育てる価値が無いからだよ。男は育てたら何だかんだで一生の付き合いになるが、女は何の役にも立たんから育てる価値が無い
もちろん女を育てようっていうバカも居たけど、そういう奴は全員女に裏切られて死んだんで居ません
Metoo だってそうでしょ? くだらねー女にセックスと引き換えに面倒見てやったら後で手を噛まれて大惨事じゃん
女なんか相手にせずに、男を使い走って育ててた奴はしっかり守られてる。女はちょっと成功すると、手柄を全部自分のおかげだと思い込んで、手にした力で恩人を叩き始めるからな
女ってのは顎で使われてる内は従順に振る舞ってるし、女自身もそれが一番幸せで満足してるんだよ
世の中を見てみろ、力を持った男は皆幸せそうだが、力を持った女は常に怒り狂ってるだろ「力を幸福に繋げる能力」ってのが女には欠けてんだよ
なぜこういう事が起こるかと言うと、女は力というものが何なのか理解してないからだ。力を万能の神通力だと思っている節がある
だが実際、力で出来る事は「思い通りに生きる」事だけだ。それ以上は力ではどうにもならん
例えばだ、暴力があれば気に入らない奴をブン殴ることは出来る。だが人をブン殴った後「みんなから嫌われ避けられる」ことは暴力じゃ解決できない
あるいは高い知能で相手を言い負かす事もできるが「言い負かした相手が自分を嫌って従わない」ことまでは制御できない
男は長い淘汰の歴史のなかで生まれつきそういう事を「自然かつ直感的に理解する」ように出来てる。そうでない間抜けな男は死んで子供を残せなかったからだ
だが女は、そういう失敗をしても直感的に理解できない、そういう風に出来ていないからだ。犬にいくら話しかけても喋り始めたりしないのと同じだ
犬を人間と同じ環境においても喋り始めないのは何故だ? そりゃもう「犬は生まれつき言葉を使うように出来ていない」からだろ
女は力を持つことはできても、力をコントロールできないのだ、これは非常に重要かつ大きな違い
例えば、猿に銃を持たせて「人を殺させる」ことは出来る。ネットで探せばチンパンジーが銃を売ってる動画とか結構あるだろ、ちょっと仕込めば猿でも銃は使える
だが猿に銃を持たせて「平和を維持させる」ことは出来ない。銃を持った猿は警察官や自衛官にはなれないんだ
何も持っていない猿は、多少うるさくても愛されるだろう。だが、銃を持った猿、しかもそれを人間に向かって撃って来る猿が居るとしたらもう殺すしかない
この猿の死因は「コントロールできない力を持ったこと」だ。女に力を持たせても同じような事が起こる。フェミニストは今それで死につつあるだろ
力を得るだけなら簡単だ。恐れられる事もな。だがそれは「銃を持った猿」に過ぎないから、いずれ社会に殺される
力を完全にコントロールしている人間であると見なされ、人々から「貴方の力が必要です」と言われる状態になって初めて力と幸福は結びつく、それが出来ないなら力を持たない方が幸福だ
東京大学 文学部 で 医師の監修がなく 芸能人で よしもとのおわらいテレビで 本当に薬を使っていて
一切の医師の監修がなく 子供に薬を使う人体実験を行っていた場合
これ なぜ なんだっけ 総理大臣 辞任とかではなく
こんなもん、わからないわけないだろ
議論が必要なレベルじゃない というのをどういうふうに 表現したらよいかでこうなった
包丁で 人を指したら死んじゃった って 東大の教授が言ったら
東大解体だろそんなもん まぁ 特殊な採用なら わかるが 事情がなく一般で大卒で教授まであがっていたばあい。どうやったら、そんなことがおきるのか?
自分たちが、向精神薬をでも どっから入手したぐらいには議論になるが、未成年を使って人体実験を行って医師がいないとなったばあい
どうやったら、そんなことがおきるのか?
未成年に 人体実験を 目的にして 医学や学問の発展のためといった場合
なにがおかしいんだこれ
之より社中の気風益ますます固結して曾かつて動変することなく、
爾後じご王政維新の太平に逢い又無数の事変をも目撃したれども、
報国致死ちしは我社中の精神にして、
その由来一朝一夕に非あらず、
蓋けだし社中全体の気風なりとは雖ども、
仁三郎君の一言亦重しと云うべし。
第二章 「貧富を問わずに人才を作るは、前金を払うて後の苦労の種子を買うもの」
「最も恐るべきは貧にして知ある者」
「報国致死はわが社中の精神」
─労働権を軽視する福沢女性論は男女平等論とは無縁である」216
─偕老同穴論が前提されている 226
「夫婦間の権利については、条文の規定一点の疑いを容るるところなく」
─「女徳」へのこだわり 234
「内実は不品行を犯すとも、これを秘密にして世間の耳目に隠すべし」
─ 239
─良家の娘を守るために公娼制は不可欠 242
─薄幸な貧しい女性をそこまで指弾するか?! 251
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tl;dr
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前提
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「ある男がパートナーの女の(誤った)発言に対して毎回優しく肯定的に応じたのち、間違いを説明する」というカップルの在り方について、「優しく肯定が入る方が女性側の立場として自信が得られる」という考えについて。
基本的にこの構図がお互いの認識になること自体が mansplaining さがあって嫌なのだけど、それは表題の文脈の下では脇に置いておいて、そこでの選択肢として、{肯定的/否定的}に応じ間違いの説明を{しない/する} という4通りにおいて、{肯定的, する} というのは確かに望ましい。まず、批判と非難の違いが一般に理解されにくいのは、批判の否定的な口上は例えばその場が学問的であるといった「場」があることで信頼が支えられていて初めて機能するので、それ以外の場で批判(正/偽)と非難(善/悪)が混同されることがあるのは、必ずしも混同する側が悪いわけではない(cf. 元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言)。その意味で、プライベートなコミュニケーションにおいて、{肯定的/否定的}というのはニュートラルではなく、肯定的の方が心理的効果として望ましいといえる。また、毎回間違いの説明をすることは、毎回間違っているということに気づかされることになり自信を喪失しうるが、指摘しないままにパターナリスティックに傷つきやすさにのみ配慮して放置することは相手が反論したり、追加情報を提示したりといったことを通して「相手の方が正しかった」という可能性に賭けないということであり、他者としての尊重に欠けるばかりか、相手の成長の機会をも奪うことになる。ただ、陰謀論的だったりオカルト的だったりといった特定のバイアスを含む情報ばかり拾ってくることは、一朝一夕で改善するものではない。そうならないためには相応の努力と知識が必要なのであって、場合によっては、ずっと同じ構図を繰り返しその構図がお互いの認識になるということが生じてしまうかもしれない。そのどうしようもないギャップを、他の側面で補うことで相互の尊敬を維持できるならば、これは問題として前景化しないかも。でも、その切り分けをせずに、繰り返し続けている誤りについて、口上のオブラートでごまかしたとしても、少なくともそれは知的自信の向上までにはつながらない。自信を支える相応の能力や実践、もしくは基礎的な肯定感が必要である。
ここで、「もしくは」になるのは、「自信」の性質に拠る。(上のような話をしておいてリテラシー低めの引用をするのは気が引けるが、読みやすさを重視して、参考: https://diamond.jp/articles/-/78423?page=4 )自信を得るのに能力や実績が有効ではあるが、能力や実績がなくても自信が得られないわけではない。生来の自己肯定感などによってそれは変わる。逆に言えば、そこが低いと、小手先で何をしたところで、自信は低いままにもなる。病的であれば、薬によって脳内神経伝達物質のバランスの改善を図るということも視野に入れるべきである。しかし、そこまででないならば、「他の側面で補うことで相互の尊敬を維持」という意味で「愛されている」という実感による基本的な肯定感の向上などが有効でありうる。逆に言うと、自分を愛さない人間と一緒にいることは、自己肯定感の側面からかなり危ない行為であることに留意したほうがいい。ここで、愛も、条件付きの愛とそうでないものがあるが、条件を、性的なものや、ある1つの能力的なもののように一側面の条件に頼っていると、それは脆弱になる(というかそれは愛ではないと思うが)。条件付きであっても、それは、条件と等価以上に為されるものであることで(cf. 信頼と信用の関係、『信頼の構造』を想定しているけど、アドラーでもなんでも同じようなこと言ってる) 肯定感を支える愛になりうる。
少し話をもどして、プライベートなコミュニケーションにおいてそもそも正しいことが必要かどうかというのも一考の余地はある。例えば、「今日は空が赤いねぇ、不吉な感じすらするねぇ」という言葉に対して、「空は予言能力はない」なんて返したら、その返しすらギャグである場合を除いて、「科学的に正しいこと」に重きを置きすぎていると言われてもしょうがないだろう。いつもいつも科学的な正しさを持ち込むべきではない。一方で、「〇〇という薬が効くそうだよ!」という言葉に対して、「それは××という危険性が指摘されていて安易に飲むべきではない」と応じることは、プライベートの場面であるとはいえ、いやむしろ、服薬するという最も実践的な場であるからこそ、科学的正しさが適切に活かされなければならない場面である。政治的な発言については、例えば「#検察庁法改正案に抗議します」とだけ呟いた芸能人に対して「なんも分かってないだろ」といったクソリプが相次いだけれども(それ自体は具体的ではない発言に具体的ではない形で具体的発言のなさをなじっていて全くクソリプでしかないと思う)、そこで立法の背景の正当性についてどう思うかと問うこと自体は(数の暴力を伴わなければ)議論を深めるために民主主義的には望ましいコミュニケーションである。それがTwitterのようなパブリックな場ではなく、プライベートなコミュニケーションにおいても同じく妥当する。ただ、政治的な話をすることというのは、それ自体が嫌がられるし、議論となるともっとそうだ。特段の配慮が必要でもある。学問的な話なら、それが宇宙人の存在についてであってすら、正しさはむしろ娯楽のために重要である。それが(学問ではなく通俗的な意味での)文学的な話ではないと相互了解があった上ではあるが。つまり、「タコ型の宇宙人って歩きにくくない?」から始まる会話は科学的正しさによって楽しもうという意思は見られないので、それはまるで漫才の相方のように応じればよいのである。{正/偽}をコードとしない意外と多くの場面でも正しさというのは実用的にも楽しさの面でも重要なのであり、それが、「知的レベルが合っていないと楽しくない」というのがよく言われる原因でもある。もちろん、賢いなら相手に合わせることもできるのだが、それは冒頭の話に戻る。そのパターナリスティックな対応は、相手を尊重しているのですか、と。
deepL翻訳
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コロナウイルスに関連した差別や迫害は今や世界的に広がっています。
その状況を具体的かつ広範にまとめたものがある。
―――
"COVID-19パンデミックに関連する外国人の恐怖と人種差別事件のリスト"
―――
Google Chromeで、右クリック→日本語に翻訳してくださいと出てきますが、ちょっと訳が荒いですが、誰でも日本語で読めるようになっています。
内容はこんな感じです。
>> フランスでは、2020年1月24日に新型コロナウイルスが確認されてから、アジア人に対する嫌がらせや差別が多発した[41]。中国人、韓国人、日本人、ベトナム人、フィリピン人[42]などのアジア人を狙ったもので、中国人、韓国人、日本人の乗車を拒否するタクシーや電車が登場している[41][43]。
>> フランスの新聞『Le Courrier Picard』は、2020年1月26日に「イエローアラート」という見出しで、マスクをしたアジア人女性をトップページに掲載した。
>> 2020年3月8日、ピエモンテ州トリノ市リヴォリにある日本食レストランが、店主をからかって伝染病のキャリアと呼んだ10代の若者に放火の標的にされた。[191]
上記に限らず、中国の武漢とアフリカ人、日本の中国人と感染者。
アメリカでもエジプトでもアフリカでも世界のどこでも差別は全く存在する。
ある意味ではほぼ平等である。極端な状況下では、敵を作らずに自分たちを維持できる「弱者」も珍しくない。
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しかし、私が言いたいのは "フィランソロピーで優しく生きよう "などという使い古されたフレーズではありません。
異論はありません。世の中から差別や偏見をなくすことができるのであれば、当然それを望む。
しかし、それ以前に私が感じたことは、大きな疑問でした。それは学問的な関心といってもいい。
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中国人は武漢の原住民を差別し、日本人は中国人を差別し、ヨーロッパ人はアジア人を差別する。
なるほど、コロナウイルスの感染拡大を考えると、それなりの理由があるのですね。"見たところ、危険なのはその地域 "ということですね。
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しかし、ここで不思議なことがあります。アジア人、アフリカ人、黄色人種、黒人、彼らは世界中の多くの場所で差別されているのです。
率直に言って、黒人はコロナウイルスとはほとんど関係ないと言ってもいいでしょう。元々の差別意識が表面化しただけです。
これらの民族や地域は平等に差別されている。恐怖心に基づく差別意識だが、間違っているが筋は通っている。
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4月から5月にかけて、欧米で爆発的な広がりを見せたコロナウイルス。
世界の感染者数ランキングでは、米国だけが134万人で、5月10日現在の感染者数4億200万人の4分の1以上を占めている。
2位以降はスペイン、イタリア、イギリス、ロシア、ドイツ、ブラジル、フランスが続き、それぞれ国内の感染者数は10万人を超えている。
ブラジルを除くと、2位から7位まではすべてヨーロッパです。西ヨーロッパ」という言葉があるように、明らかに世界で最も危険なコロナウイルス汚染地域/感染地域であることがわかります。
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しかし。不思議なことに、"世界では白人、欧米人、アメリカ人が差別されている "という話はほとんどありません。
もちろんゼロではありませんが、一つの "白人差別 "を探しているうちに、"アジア人差別"、"黒人差別"、"黄色人種差別 "などが出てきます。
現在世界で拡大しているのは、中国からの第一波ではなく、ヨーロッパからの第二波であり、パンデミックだと言われています。
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これで、「白人」が清く正しく正しいことを続け、コロナ対策に成功してきたことは、まだ理解できる。
1月、2月にはすでにアジア人が "コロナ・コロナ "と称して歩き回っているという話も珍しくなかった。
どう考えても、白人は悪の化身である。それは良いことではありません。
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初期の流行に関わらず、「コロナ感染の温床」がそこに移ってしまった今、白人に嫌われてもおかしくないはずです。
そうでなければ「平等な差別」とは言えない。結果として、それは間違っている。
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ここで理由を考えてみると、結局のところ「対象は種族/元々敵対心を持っていた対象」ということになります。
"移動に制約があり、白人アジア社会はあるが、白人以外の社会はほとんどない "というのが仮説かもしれません。
このあたりを学術的に研究してみるのも面白いのではないでしょうか。
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しかし、歴史的に見ても、「白人」が十字軍と一緒にいろんなところで十字軍をして、それに逆らって全力でやっているのを見てきました。
イギリスのトリリンガル外交が、現在テロが頻発している中東で、黒人やインディアン、黄色人種への差別を繰り返して悪事を働いている状況を作ってしまったのではないかと思います。
だから、ここでは白人を正しく差別しようとするのが正しいのではないでしょうか?
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そんなことを考えていた今日この頃でした。
学問以外への業務拡張は、部活から始まったように思います。授業についてこられない生徒に活躍の場を、と言って中堅校以下でブラック部活的(スクール・ウォーズ的)に始まり、その有り様が全国化していったような。
1960年代に校内暴力が頻発したのは、様々な理由はあろうかと思いますが、一つの理由としては、戦争PTSDを抱えた養育者(が作った社会)によって育てられた次世代が愛着障害に近い状態になっていたのではないかと思っています。
ブラック部活は、愛着障害の治療の集団療法という側面があったのだろうと思います。愛着障害が存在している状態での授業は困難を極めます。授業を成立させ、生徒に学問を修めさせるために、教員は意図せず心理療法を施していたのだろうと思います。各種行事もそうですね。
そのあたりから、学校に福祉的機能が入ってきて、今は学校によっては福祉機能のほうが学問機能よりも大きくなっているかもしれません。障害を持つ生徒への合理的配慮、個別の支援計画、外部機関との連携。部活動。
教員は、授業を成立させるために、福祉的業務をやむなくやっていたのですが、文部科学省がこれを正式に業務にしてしまうのです。
ただし、それに対する予算措置もなければ、人員の補充もない。専門家集団を校内に組織することもない。外部機関との連携とか、非常勤カウンセラーやスクールソーシャルワーカーの配置はしますが、外部機関だったり非常勤なのでお客さんです。彼らは責任は取れません。
以下は、『身体はトラウマを記録する』という本の抜粋群なのですが、
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太古の昔から、人間は自分の中の非常に強く恐ろしい感情に対処するのに、集団で行なう儀式を用いてきた。古代ギリシアの演劇の内、文字による記憶が残っている最古の物は、踊り、歌、神話の再現を含む宗教的儀式から発達したと思われる。ギリシア演劇は、戦争帰還兵にとっては再統合の儀式だったのかもしれない。
演劇を通してトラウマを治療する。愛と憎しみ、攻撃と幸福、忠誠と裏切りは演劇の本質であると同時に、トラウマの本質でもある。トラウマを負った人は深く感じることを心底恐れている。一方、演劇は情動を身体化し、それに声を与え、リズミカルに場面に関わり、それを体現する。
学校からは、能力と集団の絆をはぐくむために、昔から大事に受け継がれてきた、音楽、演劇、美術、スポーツがどんどん姿を消している。
見捨てられる経験をすると、人を信頼できなくなります。そして、里子は見捨てられるというのがどういうことなのか身をもって知っています。彼らに信頼されるまでは、何一つ影響を与えることはできません。
筋肉を動かすこと、意識の集中が必要な作業をしたりすることは、喪失体験に対抗する大いなる助けである。
教師達は最初、「もしソーシャルワーカーになりたかったら、ソーシャルワークの学校に行っていたでしょう。でも私は、教師になるためにここに来たのです。」といった類いの反応を示すことが良くある。とはいえ彼らの多くは、頭の中で警報ベルがひっきりなしになっている生徒で教室が埋まっていたら教えようがないことを、すでに身にしみて知っている。どれほど熱心な教師や学校システムでさえも、子ども達のあまりに多くが深刻なトラウマを負っていて学習できないために、しばしば苛立ち、無力感を味わう。試験の得点を上げることだけを主眼としていても、教師達がそれらの生徒の行動面での問題に効果的に取り組めなければ、成果は上がらない。
規則を平然と無視する生徒は、アメリカの学校で広く行なわれているように、譴責しても、停学処分にしてさえも、考えを改める可能性は低い。
他者の言葉をしっかり聞き、自分の言葉もしっかり他者に聞いてもらう。他者に本当に目を向け、他者にも本当に目を向けてもらう。
教師が怒鳴ったりする代わりに、子どもが経験していることを言葉で表したり、選択肢を与えたり、自分の感情を説明する言葉を見つけさせ、思いを表現し始めさせたりするようにするべきだ。安全の経験を学ばせるのだ。
(しかし)学校はトラウマを誘発する更なるトリガーとなってしまいがちだ。
トラウマに敏感な教師なら、手に負えない生徒の親に電話をして状況を説明すれば、子どもが殴打され、さらに深いトラウマを負う可能性が高いことに、程なく気づく。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 べッセル・ヴァン・デア・コーク https://www.amazon.co.jp/dp/4314011408/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_mpGTEb5V1TPY4 @amazonJPさんから
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いわゆる教育困難校と呼ばれる学校はこうした子どもたちが非常に多いです。進学校であればこうした子どもは少ないかもしれません。少ないですが確かにいます。教員は守秘義務があるので、他の生徒に知られないようにこれに対応しています。個人情報なのでメディアにも明かされません。
日本の福祉政策の不備を、教員が無償労働で払っているように思えてなりません。でも、そうした子どもを学校が福祉的にケアすることを国民は望みます。学校の教育機関としてのリソースがそちらに持っていかれてしまっているように思います。まあ、そういうことを言うと、福祉的ケアを導入した教育の方が教育効果が高いと言われて、口を封じられるのですが。十分なリソースがあれば効果は高いでしょう。しかし、リソース不足でこれをやれと言われれば機能不全に陥りますね。実際、陥っているように思われます。
僕は旧帝国大学の3年生。私立中高一貫校を出て一浪後に今の大学に合格した。客観的に見て恵まれた環境で育ってきたのは間違いないだろう。
そうなのだ。恵まれているのだ。大した悩みなんて無いはずなのだ。それなのに、死にたくて死にたくてしょうがない。自分で死ぬ勇気もないから、何かが自分を殺してくれるのを待っている。
ああ、二年はあっという間だった。自分の無能さを知るのが怖くて怖くて、何に対しても真剣に取り組むことができなくて、気づいたらもう三年生。二年間、見るのはスマホの画面ばかりだった。スマホに依存する自分が嫌いで、それでもスマホから目を離すと死にたくなるから、ずっと無味乾燥な画面を目で追い続ける。そんな日々。
そうして二年の日々を空費している間、同じ年に入学した人たちは多様な変化を遂げていた。
難しい本をたくさん読んで学問知識をどんどん深めていく人。月に何十時間もバイトをして仕事経験を積む人。サークルや趣味に打ち込んで強固なアイデンティティを築いている人。
彼らのような充実した大学生活が僕にもありえたかもしれない。それなのに、今となっては一生届かない。
え?今から一念発起すれば間に合うかもしれないだって?無理だ。もう取り返しはつかないんだ。僕はどうしても小さなプライドを捨てられない。自分だって彼らに追いつくことができたはずなんだ。そうじゃなきゃいけないんだ。そんな思考に取り憑かれている。どうしても振り払うことができないんだ。心の奥ではそんなことはもうできないってわかっているのに。現実の彼らに追いつけない自分を僕はどうしても許せない。現実を意識した瞬間に死にたくなる。だから、スマホに逃げる。そうしてますます自己嫌悪が募っていく。
もう勝ち目のない戦いから降りたい。勝てない自分を許したい。けれども、どうやらそれがどうしてもできないらしい。きっとこれからもずっと僕は自分が嫌いで退屈なスマホいじりに逃げてまた自分が嫌になる。そんな人生の繰り返しに違いないだろう。
虐待とか生活苦とか何か苦しさに理由があればまだよかった、と思うときがある。自分の苦しみに意味を見出せるからだ。
特に何か理由もあるわけではないのに精神をすり減らすのは心底疲れる。なんとなくだけど、30歳になるまでに自殺するような気がする。いや、自殺を結構するほどの実行力が自分にあるとも思えないな。死という形でこの苦しみが終わるならそれでいい、と思うのだけれど。
https://www.tachibana-akira.com/2011/01/1800/3
金融危機とそれにつづくハイパーインフレで、私の実家も妻の実家も、祖父母が年金だけは生活できなくなった。そのうえ父と義理の父がリストラされ、路頭に迷ってしまった。それで田舎に3軒の家と農地を格安で購入し、一族が肩を寄せ合って暮らすようにしたのだ。同じようなケースはほかにも多く、日本は大家族制に戻りつつあった。
東京駅前には、赤ん坊を抱いた物乞いの女たちが集まっていた。その枯れ枝のような細い腕を掻き分けて改札を通り抜けると、5000円のビールとつまみを買ってあずさのグリーン席に乗り込む。平日は都心のワンルームマンションで単身赴任し、週末に家族の待つ田舎に戻る生活を始めて1年になる。
プルトップを引いて、冷たいビールを喉に流し込む。この週末は、失業した妻の弟が、いっしょに暮らせないかと相談に来ることになっている。娘の進学問題も頭が痛い。将来に不安がないわけではないが、泣き言はいえない。いまや一族の全員がわたしを頼っているのだ。
中国語やハングルやアラビア文字のネオンサインが、新宿の夜空をあやしく染めていた。青白い月を眺めながら、いつしか浅い眠りに落ちていた。