はてなキーワード: 大衆文化とは
どっちも大衆文化なんだよなあ。
欧米こそ至高 の はてなーに習い、オックスフォード辞典より、
otaku
(in Japan) a young person who is obsessed with computers or particular aspects of popular culture to the detriment of their social skills.
‘every other otaku can run on about their hobby endlessly’
えらいっこっちゃなぁ
では英語圏でオタクの意味のあるgeekやnerd はどうだろう?
geek
1 An unfashionable or socially inept person.
1.1 usually with modifier A knowledgeable and obsessive enthusiast.
‘a computer geek’
nerd
1 A foolish or contemptible person who lacks social skills or is boringly studious.
‘I was a serious nerd until I discovered girls and cars’
1.1 A single-minded expert in a particular technical field.
‘a computer nerd’
いちばん表現がマイルドではあるが社会性に欠けるガリ勉だそうな
しかし、いちばんマイルドっぽいnerdは日常では単なる悪口らしい
確かにgeekは日本でも自称したり褒め言葉に使ったりするがnerdは無い
まぁいずれにせよ自ら『社会性に問題がある』と表明するのは賢い振る舞いとは言えないね
今更だけど
すると、日本語ラップを聞いても、「こいつのリリックええやん」となりにくい。
結果、普及しにくい。
同じ「パプリカ」と言う単語でも、英語の方が拍(リズムの構成要素)が少ない。
日英訳を比較してみると、多くの場合で日本語の拍数が多いと思う。
(その分日本語は語の省略が多いが)
また、日英のラップの形態素数/単語数を比較してみてもいい。全体としては、日本語の方が少ないはず。
すると、日本語は、ラップのリリックで自然に表現できる情報が減る(語を詰め込む,と言う手段もあるにはあるけど)。
言わんやで
欧米こそ至高 の はてなーに習い、オックスフォード辞典より、
otaku
(in Japan) a young person who is obsessed with computers or particular aspects of popular culture to the detriment of their social skills.
‘every other otaku can run on about their hobby endlessly’えらいっこっちゃなぁ
では英語圏でオタクの意味のあるgeekやnerd はどうだろう?
geek
1 An unfashionable or socially inept person.
1.1 usually with modifier A knowledgeable and obsessive enthusiast.
‘a computer geek’
nerd
1 A foolish or contemptible person who lacks social skills or is boringly studious.
‘I was a serious nerd until I discovered girls and cars’
1.1 A single-minded expert in a particular technical field.
‘a computer nerd’
いちばん表現がマイルドではあるが社会性に欠けるガリ勉だそうな
しかし、いちばんマイルドっぽいnerdは日常では単なる悪口らしい
確かにgeekは日本でも自称したり褒め言葉に使ったりするがnerdは無い
あえてマジレス的に考察比較してみる(★印は主観だが、世界的観点のつもり)
世界:帝国主義の絶頂期。飛行機が実用化、ドレッドノート級軍艦が登場。
世界:清・独・露・オーストリア・トルコが革命で帝政やめる。第一次世界大戦で陸海空の技術レベルが激変。男が兵隊に取られた分を埋めるため女性の社会進出が拡大。
世界:基本的に2つの大戦間の平穏な時期。アメリカは大戦後の好景気で急成長。自動車産業が発達。あと各国でラジオと映画が普及して大衆文化が拡大。
日本:大正デモクラシーの時期。藩閥政治家が高齢化して影響力を失う。
世界:第二次世界大戦の勃発と終結と冷戦体制の到来。核兵器とロケット兵器の実用化。戦勝国の多くも植民地を手放す。
日本:敗戦で大日本帝国は一度滅亡。新憲法が制定。社会制度は激変したが、日本人の大部分は引き続き貧乏農民で、生活の風景は昭和初期とそれほど変わってないはず。
世界:冷戦体制から緊張緩和。東南アジアとかアフリカ諸国とか次々と独立。カウンターカルチャーとか出てくる。新左翼運動が激化。汎用コンピュータと月ロケットが登場。
日本:高度経済成長が本格化。農家や個人商店からサラリーマン世帯が激増し、家電製品や自家用車が一気に普及テレビが普及してエンタメも変化
世界:ベトナム戦争は失敗。米中が国交樹立。米ソ両陣営とも停滞。
日本:オイルショックで高度経済成長が終了。新左翼運動が失速。
世界:前半は停滞の冷戦体制。後半急に米ソ冷戦は雪解け、ソ連より中国のほうが危険視されるようになる。イランイラク戦争を契機にイスラム原理主義が台頭。
日本:一億中流とかポストモダンとか言ってたおめでたい時代。後半はバブル突入。
世界:冷戦体制が終結。世界はアメリカ一人勝ち……と思ってたんだよこの頃は。インターネットの普及、といってもまだダイヤルアップ時代。
日本:バブル崩壊。だんだんみんな貧乏になる。ネットはまだどちらかといえばオタクのアイテム。宮崎勤という男のせいでオタは日陰者だった黒歴史時代。
世界:テロ戦争の時代。中国経済が急成長。最後のほうはリーマンショック。ネットの高速・常時接続化とともに電子商取引が普及。後半にスマホが登場。
日本:失われた10年だか20年だか。新自由主義と構造改革で活性化するつもりで失敗。宮崎駿だの押井守だの庵野秀明だのの商業的成功のせいか、いつの間にか「ジャパニメーションは日本が誇る文化」になった。
https://anond.hatelabo.jp/20190615222650
教養や社会情勢も知っておいたほうが良いし、流行りの漫画やアニメを見ておいたほうが楽しめる
ミームも知っていた方が良い
日本の学校教育は一通り、良い面も悪い面も経験しておいたほうが良い
歴史も科学も武器の知識も笑いの理解も色恋や萌えも大体知っておいたほうが良い
その上でキャラクターの心情を、絵や言葉や表現から読み解くスキルが必要だ
っていうようなことを、読者に強く要求しないあたりが好きだ
お高くとまろうとしない、むしろお高く止まろうとすると好意的に受け取られないか、そもそもニッチになる
これまで多くの媒体がお高く止まろうとして、衰退していった
漫画もひょっとしたらいずれそうなるかもしれないが、今はまだそうなっていない
漫画やアニメ、ゲームのようなものは、「子供向けだから」で下に見られてきた時代があったが
「それは違う、難しいのは表現者の落ち度だ」と言ってやりたいんだ
こんにちは~、人文系で修士号を取得した表現の自由戦士(笑)で~す。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
勝手にVS構造にしないでくださ~い。歴史学の研究書も人類学の論文も社会学の啓蒙書もなんなら政治学の英語論文も読んでま~す。そのうえでラノベ大好き漫画最高アニメ愛好家で~す。
嫌いなのは本来別に対立なんてしていない人文系学問とオタク文化を対立させようとする連中で~す。
あと自分の嫌いなものを公共空間から排除せよと主張する人たちも嫌いで~す。公共空間であるからこそ雑多なものの共存が認められるべきだと思いま~す。
性的消費については、女性向けコンテンツでの男性の性的消費とかもあるので、お互い様、もっと自由にやっていこう、というスタンスで~す。性の解放ばんざい。
英語の本とか中国語の本とかも読んでるけど、せいぜいが年に百数十冊程度の読書量なので誇るほどの読書家とは別に思ってませ~ん。
ドイツ語やフランス語やイタリア語では論文を読んだことはあるけど本を読み通したことはないなあ。教養がなくて申し訳ない。
左様。欧米こそ至高 の はてなーに習い、オックスフォード辞典より、
otaku
(in Japan) a young person who is obsessed with computers or particular aspects of popular culture to the detriment of their social skills.
‘every other otaku can run on about their hobby endlessly’
えらいっこっちゃなぁ
では英語圏でオタクの意味のあるgeekやnerd はどうだろう?
geek
1 An unfashionable or socially inept person.
1.1 usually with modifier A knowledgeable and obsessive enthusiast.
‘a computer geek’
nerd
1 A foolish or contemptible person who lacks social skills or is boringly studious.
‘I was a serious nerd until I discovered girls and cars’
1.1 A single-minded expert in a particular technical field.
‘a computer nerd’
いちばん表現がマイルドではあるが社会性に欠けるガリ勉だそうな
しかし、いちばんマイルドっぽいnerdは日常では単なる悪口らしい
確かにgeekは日本でも自称したり褒め言葉に使ったりするがnerdは無い
メインカルチャー(英: main culture)とは、サブカルチャーと対比して用いられる語で、ある社会で支配的な文化のこと。
文学、美術、演劇、音楽など社会の(主流をなす)構成員が健全な文化として受容するものである。伝統的には大学で学問対象として研究されたり、新聞、雑誌などで論評の対象になるものであった。20世紀になって大衆文化が発達し、次第に映画、テレビ番組、ポピュラー音楽、ビデオゲームなども文化として認められるようになった(メインカルチャー化)。
「大学で学問対象として研究されたり、雑誌で論評の対象になるもの」であれば、マンガ、アニメ、ゲームあたりは余裕でメインカルチャーだな。
https://anond.hatelabo.jp/20180625184652
この延長上にあるお話
本来子供向けだったアニメが長い年月を経てオタク向けに変容してしまったものを、
さらにもう一度子供向けにシフトしていくっていうトレンドが今後の主流になっていくのかもしれない。
ベイマックスは天下のディズニーが送り出したおかげでその日本的オタクテイストと大衆向けアニメ映画の健康的テイストが程よくミックスされて大ヒットしたのは記憶に新しい。
そこからもう一歩オタク寄りの立ち位置でライバルであるドリームワークスがヴォルトロンなんていうものを送り出した。
よくtogetter辺りでは日本と海外アニメの表現に関して「完璧だが不自由な健全主義」vs「自由だが混乱を生むエログロ主義」みたいな文脈で勝手に対立煽りのネタにされちゃったりするわけですが、
そんなアフィの下らない思惑なんか簡単に消し飛ばしちゃうのがヴォルトロンの凄さだ。歴代日本産アニメの総復習みたいなことをやり遂げちゃってるのだ。戦闘シーンはSWやスタトレというより
大艦隊の真っただ中に飛び込んで姫を助け出せ!ワープで逃げても追ってくる敵を危険な星域に入ってやり過ごせ!スペースランナウェイ!なイデオンやヤマトだったり、
敵艦に潜入しての等身大での戦いは群がるロボット兵をキック!アタック!電光パンチ!ビーム剣で大切断!と血湧き肉躍るアクション満載!そしてわざとらしい露出やピッチリスーツは無いのに何故かエロい!
主人公サイドだとシロとキース、この二人がホンマにエロい!ふとした瞬間に魅せる表情がハートに直撃する。ノンケの男アニオタも堕ちる。実際堕ちた。
現地の子供向けレーティング基準は完全に満たしてて、ここまでオタッキーに攻めたことが出来るのかって驚愕したよ。
そして公式も自分達の作品が子供だけでなくオタクに観られていることを意識して、主役五人の設定上の誕生日には必ず特集と声優さんのコメント動画をハッシュタグ付きでtwitterにアップしたり、
スタッフやプロデューサーのインタビュー記事を定期的にオタク向けニュースサイトで組んだりと、広報関係も万全の体制で挑んでいる。
こういう流れ見ていると、二次創作があーだとか手下の民度がどーので荒れてる場合じゃねーぞ日本のディズニー!って叫びたくなるわ。
ヴォルトロンもその手のゴタゴタは日常茶飯事ではあるけれど、こっちは英語圏全般を巻き込みますからね。地球丸ごと超決戦ですよ、ハイ。
それでもその手のアピールをドリームワークスが続けているのは、オタク文化と大衆文化の更なる融合、垣根そのものを無くして新次元の表現を産み出せる環境作りを目指しているのかもしれない。
今までもこれからもオタクはオタクであり続けるし、世の中に揉め事は尽きない。でもせめてアニメを見ている時間だけは仲良くしようぜ?
「オタク」という呼称は70年代生まれと言われるけど、それ以前からもオタクに類する人はいたはずだ。
マニアとかフリークスと言った単語も、「躁状態」「中毒者」といった「病気」と見なすニュアンスがある。
しかし時代をさらに遡ると、創作物にハマったり道具を集めたりというのは金持ちの道楽ということになり、富の証とされていたのではないかとも伺える。
数寄者や好事家というような言葉は、どちらかといえばそのような意味で、茶道のようなハイカルチャーの愛好家や、学者といったようなニュアンスのようだ。
それに対して「オタク」という言葉が指すのは「大衆文化の熱狂的消費者」であり、「オタク差別」も大衆文化が花開いた以降の時代の産物と言えるだろう。
そして、「オタク差別」は度を過ぎた趣味人を揶揄するようなものではなく、「趣味のジャンルそのもの」に貴賤をつけるものであると定義できる。
その意味で、調べると明治の頃に郷土玩具を集めるブームがあり、その収集家は大きな子供という意味で「大供」と揶揄されたらしい。
更にさかのぼって江戸時代ならば、水野忠邦による「天保の改革」。あれはオタク差別の走りではないか。
目的は倹約による物価の引き下げだが、たとえば寄席では滑稽噺を禁止して教訓性の高いものだけ残すというような娯楽の峻別が行われており、
大衆文化であり、娯楽に何を期待してる?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/メインカルチャー
ウィキペディアにあったで
メインカルチャー(英: main culture)とは、サブカルチャーと対比して用いられる語で、ある社会で支配的な文化のこと。
文学、美術、演劇、音楽など社会の(主流をなす)構成員が健全な文化として受容するものである。伝統的には大学で学問対象として研究されたり、新聞、雑誌などで論評の対象になるものであった。20世紀になって大衆文化が発達し、次第に映画、テレビ番組、ポピュラー音楽、ビデオゲームなども文化として認められるようになった(メインカルチャー化)。
アメリカで上映された映画で、俳優が異星人に扮するため特殊メイクをしたことを受けて、人種差別や文化的配慮が足りないとの非難が相次いでいる。
映画「スター・ウォーズ」では、有名な惑星タトゥイーンのジャバ・ザ・ハットを再現しようと、俳優がナメクジのような姿の特殊メイクで造形した姿で登場した。この造形の考案者はヒキガエルとチェシャ猫を合わせた姿と述べている。
顔や体型を特殊造形して風刺するいわゆる「アプライエンスメイク」は、全宇宙的にはきわめて侮辱的な風習だと広く受け止められている。ジャバのイメージはアメリカの大衆文化に大きな影響を与え、彼の名前は肥満や腐敗の象徴としてフィクション作品や政治風刺に度々用いられている。「ジャバ・ザ・ハットのように見える」という言葉は、それを向けられた相手が「太っている」または「外見が醜い」という意味で用いられる。
タトゥイーン星出身ハット族の作家兼コラムニスト、リチャードソン氏は、ツイッターでこの作品の問題を指摘。ハット族は、「笑いのオチや小道具」ではないと主張した。
氏はツイッターで、「#アプライエンスメイクで出演するアメリカ星の人へ。ハット族だというのは、オチや小道具じゃないんだ。ジョークが必要? もっと腕のいい作家を雇って。ハット族キャラが必要なら、英語を話すタトゥイーン人俳優を雇って。でもお願いだから、#アメリカ星でアプライエンスメイク止めて。カッコ悪いよ」と書いた。
リチャードソン氏は、自分にとって「悪夢のシナリオ」は2028年にアメリカ星で開催される宇宙五輪の開会式で、「ハット族アスリートを称えるため特殊メイクに扮した俳優がチャルマン酒場の演奏をやらかすんじゃないかって、真剣に不安だ 」とツイートした。
俺はオサカの話を思い出していた。
バイト仲間のオサカは映像コンテンツが大好きで、自前のサイトでレビューもちょくちょくやっている。
そんなオサカにレビューの是非について何気なく尋ねたことがあった。
皆なんで、他人の評価をそこまで求めるのか俺には分からなかったのである。
結局、自分にとって最も信頼できるレビュアーは、自分自身じゃないかと思うからだ。
「理由は人の数だけある。意見を分かち合いたい、何らかの指標が欲しい、千差万別さ。それでも言えるのは、レビューを求める人間がいて、レビューを書きたい人間がいるのは間違いない以上、無下にするのも難しいということ」
「そう言ってしまっていいだろうし、自分もそう思ってレビューに臨んでいる。だからこそ下手なことは書かないよう心がけているわけだし」
「お前の考えは分かったが、みんながそこまでレビューに対して何らかの志を持っているとは俺には到底思えない」
レビューを書いているオサカですら、芳しくない答えだった。
そんなものにガキの弟が関わることを、俺はとてつもなく危険だと感じたんだ。
「え? 何が」
「とぼけるなよ。弟をあんなにレビュアー気取りにさせて、どういうつもりだって聞いているんだ」
「本気で言ってんのか? 弟のような実績もない人間に見せかけだけの権威を持たせて、そんな人間の発言を大勢の前に発信する。弟だけじゃなく、大衆や店を弄ぶ行為に何の疑問も持たないのか?」
「レビューというものは本質的には個人の意見だ。それを他人にも理解できるよう体系化することがレビューだよ。是非もなし、だ」
「何がレビューだ。こんなネガティブとヘイトにまみれたものが。何かを貶したりすることをわざわざ書かなくても、もっと誉めることばかり書いたっていいだろ」
「それは大した理屈じゃないね。貶してばっかりのレビュアーがダメだというなら、誉めてばっかりのレビュアーだって同じことだろ。マスダはそもそも前提の段階で誤解している」
「俺が何を誤解しているっていうんだ」
「価値には絶対的なものと相対的なものの側面がある。何かを誉めることは何かを貶すことに繋がるし、何かを貶すことは何かを誉めることに繋がるんだ。それを言語化することも批評の一形態なわけ。なのにダメだって思うのはマスダの気持ちの問題でしかない」
「その批評に安易に振り回される人間がいることを知っていてもか? そんなものがなければ起きなかったトラブルだってたくさんあるはずだ」
「この大衆文化は個人の確固たる意志だけでは止まらないし、止めるものでもない。できるのは個々人がそれをどう受け止めるかのみだ」
「それって要は自分のレビューに責任はないし、持つ気もないってことだろ。なのに発言権だけは行使するなんてムシがよすぎる」
「だから、ネットってのはそういうもんなんだって。ネガティブやヘイトを許容も順応もできず、無視することすらできないなら、レビューはもちろん他人の意見の巣窟であるネットそのものを利用しない方がいい。マスダは僕たちの批評スタイルが気に入らないのを、善悪の問題に摩り替えているだけだ!」
弟にレビュアー気取りをやめさせたくて、タイナイのほうを説得してみたが完全に失敗だった。
タイナイにとって、ネットはリアルと地続きであることを忘れていた。
人は現実に対してどんなに不平不満をもったところで、それとなあなあに付き合って時には自ら楽しさを見出す。
「いやー、いまトイレ入ったらさ。今どき和式だったんだよ。この店サイテーだ」
「なるほど、レビューに書いておかなきゃね」
このままじゃ組合に目をつけられて、大事になるのも時間の問題だ。
タイナイは承知の上かもしれないが、弟までそれに巻き込まれるのはよろしくない。
どうにかできないものか。
朝の数時間のみ経営という特別感に惹かれて知り合いとともに来店。店内の清潔感は普通。雰囲気は悪くないのだが照明がきつく、朝に来ることを前提で考えた場合ミスマッチといえる。店主の接客態度も悪くはないのだが、陽気かつフレンドリーなため、これまた朝にはキツいし、合わない人にはまるで合わない。
料理はというと、メニューは日替わりかつ店主の気分しだいなので当たり外れが大きい。さすがに飲み物くらいは普通のも用意しておいて欲しい。メニュー名も言葉遊びを多様していて洒落臭い(回文らしいのだが、後半部分が言葉として成立しておらず意味不明。これを回文だと言い張るのはライトノベルを純文学と言っている様なもので、喉に小骨が刺さったような気持ちになる)。
結論としては決して大衆向けの店とはいえないし、その枠組みから評価しても下から数えた方が早いと思う。近所に住んでいる馴染み客が利用するならばまだしも、僕たちみたいに遠路はるばる朝から足を運んでまで利用すると確実に後悔する。この店に行くのを提案したのは僕だったのだけど、週末の朝から来てくれた知り合いに申し訳ない気持ちになった。
なんだこのレビュー。
他はどうでもいい粗探しばかりだし、俺たちをまるで被害者扱いのように書いているのもどうかしている。
「こんなの、ほんとに参考するやつがいるのか」
「別に不思議じゃないだろ。要は“格式と権威”だよ。どこぞの三ツ星レビュアー組織もやっていることだ」
そういった組織の調査員は日々決まった食事をとることで味覚に確固たる“基準”を作る。
料理を的確に分析できるよう舌を鍛え、マニュアルによって“格式”を評価するんだ。
その評価基準を俺たちが共感できるかはともかく、単なる個人の感想とはワケが違う。
「タイナイはただ自分の気の赴くまま飲食店を練り歩いているだけだ。そんな個人のレビューに権威なんて持たせたらロクなことにならないぞ」
「厳密には個人の意見じゃない。ネットってのは大衆文化だからね」
「尚更ロクなもんじゃない。大衆に傾倒して意思決定をすれば、バカな結論を生みやすい。何も考えていないのに自分の考えだと錯覚し、無駄な自信だけはついてくる」
「言いたいことは分かるけど、それは僕の管轄外だ。あ、次の店に着いたよ」
弟はというとタイナイに乗せられて、次から次へと心にあるのかないのか分からないようことを言い続ける。
「恐らく、この料理をよく食べる人間であるならば、そのこだわり含めて舌鼓を打つのかもしれないけど、俺たちは初めて食べる人間だ。材料も聞いたことのないものばかりでイメージが湧かないし、如何に拘りぬいて作られたか力説されてもよく分からない」
「ここの料理は作り手のこだわりが強すぎる。味付けが濃い料理が良いとは限らないように、こだわりの強い料理は独りよがりでしかない」
「素晴らしい意見だ」
「俺たちはこだわりの結果生まれた“料理”を食べたいわけだけど、別に“こだわり”自体を食べたいわけではない」
「ははは、こりゃ名言が出たね。マスダ、君の弟はレビュアーの才能があるぞ」
俺には二人の言動が批評の装いをしているだけで、まるでゴロツキのように見えた。
さしずめ“批評ゴロ”だ。
かつては、オタクの道を生きる人々の憩いの場であった日本のサブカルチャー。
無理もありません。
私たちは、子供の頃、子供にこんなケシカランものは見せないべきという声も聴かされ、「常に苦しんでいた」と涙ながらに訴える彼らによって、その無垢な心に羞恥の杭を打ち込まれてきました。
それがどうでしょうか?
アニオタ害悪説は、とある雑誌のゴシップによって広められた作り話でした…。
差別も何も、もともと彼らは社会的地位を持っていませんでした…。
サブカルチャー層のほとんどは、はじめからその道での生活を望んでいた人々であり、そんな彼らに日本は殆ど口出しをしませんでした。にも関わらず、ゴシップによってその偏見が植え付けられたのです。
それだけではありません。
そして、その文化を支えてきたのは左翼であり、かつての作家の多くは、左翼出身者が大半であった事…。
サブカルチャーに対する誹謗の多くが、右巻きによって引き起こされていた事…。
1990年代の新興宗教の暴徒化は、左派や右派による宗教団体の操縦に端を発していた事…。
彼らは、日陰者を演じる事によって不都合な歴史を隠蔽し、「文化性」を掲げる事によって、自らの現実を否定してきたのです。
私たちは、彼らの都合の為にサブカルチャーに金をつぎ込み、あたかもそれが日本の大衆文化であるようにさせてきたのです…。
この事実が明らかになるに連れ、SNSの雰囲気は変わり始めました。
「俺たちは知らなかった!」という驚嘆の声が上がり、サブカルチャーは大衆社会からのへの中傷と罵倒で満ち始めました。
手駒の様に人材や精神性を使い捨てる彼ら。その彼らの戦略には、一つの大きな誤算がありました。
それは、世界の大衆が事実に気づいた時、サブカルチャーに対してどんな感情を抱くようになるか、計算に入れていなかったという点です。実に、彼らの誤算が、若者をサブカルチャー市民から非市民へと一変させてしまったのです。
このような経緯を承知している為、私は、サブカルチャーのわかり辛さを理解する事はできます。
自らの正体を“一般人”というマントを羽織ることによっておおい隠し、自らの立場を“リア充”という盾を掲げる事で守り、自らの行動を“木鐸”という装飾を施す事で正当化してきた人々に、誹謗発言を浴びせて何の効果があるのでしょう?
例え誹謗する側に理があろうとも、誹謗発言を行えば、第三者には精神障害者が一方的に迫害しているようにしか見えません。
これでは、彼らの正体をおおい隠す“一般人”のマントが、より厚みを増してしまうだけです。
“リア充”の盾を構え、“木鐸”の剣を奮う者に、中傷の弾丸や罵倒の投石を浴びせた所で、
「サブカルチャーの精神異常ぶりは、かくの如き酷きもの」と、その盾をより強固に、その剣をより鋭利にする口実を与えてしまうだけです。
放った無数の弾丸は、彼らの盾を貫く所か、盾を補強する鋲にしかなりえません。
投げ付けた投石は、彼らの剣をへし折る所か、刃を磨き上げる砥石にしかなりえません。
サブカルチャーの過激ぶりが進行するほど、彼らの「一般人」という名の武装は強化されてしまうのです。
事実、彼らは右派を味方に付け、サブカルチャーの居場所を潰す事に成功しつつあるのです。
今後、サブカルチャーが“現実を省みない行動によって”彼らを助け続ける限り、
我々は、世界から精神異常者という汚名を受けながら、既に蝕まれた社会の中で、未来の自分たちに奴隷としての道を歩ませる事になるでしょう。
もし、それを憂うならば、どうか暴走を止めて下さい!
「おんな城主直虎」を見ているんだけど、ポリコレ的に正しくない表現が多すぎる。
↑これらを美しく、しかも肯定的に描いているドラマだった。放送禁止にしろとは言わないが、時間帯を深夜にするなど、ゾーニングをしなくていいのだろうか。
浜松駅に立ち寄ってみたとき、ポスターがたくさん貼ってあった。ファン同士で楽しむのは否定しないけれど、街中に広めるのはちょっと自粛してほしい。
そういえば昨年のドラマ「真田丸」にも、最終回には、主人公の真田信繁がヒロイン(きり)にキスをするシーンがあった。
内容はと言うと、男が女に唐突に抱きついて、女はそのことに驚いて固まってしまう。男はそれに無理やりキスをしたのである。これって性暴力だよね?
もし現実だとすれば、男女がキスをするときは、たとえ口頭で許可を得ないとしても、まずは体を寄り添わせたり、相手の気持ちを確認するためのステップを踏む。いきなり抱きついたり、強引なキスをするのは性暴力だろう。
ドラマのストーリーでは、事後承諾でこれを相手が受けいれてくれたからよかったものの、子供とか、一部のバカな大人がこのマネをしたらどうするんだろうか? 当時、私はこのシーンを問題視していなかったが、先般に少年ジャンプの「ゆらぎ荘の幽奈さん」という漫画が炎上していたのを見て、ハッとした。子供も見るようなTV番組では、性暴力を肯定的に描写することを許してはいけなかったのだ。
私はかつての不見識を反省するとともに、NHKの配慮のなさが許せなくなってきた。
こういうものを平然と受容しているドラマ視聴者のことも許せない。漫画のように叩きやすいものだけに目くじらを立てる、インターネットのリベラル勢力に対しても怒りがわいた。
言うまでもなく、ポリコレに反しているものであっても、表現の自由はある。だからゾーニングすればいいのだが、それが十分に行われているとは言いがたい。
私はリベラル勢力にすこしは良識があると信じていたが、大河ドラマのような大衆文化に対しては、彼ら・彼女らもロクに反応を見せないようだった。これが日本の現状だ。
私は憤懣やる方なくて、頭がおかしくなりそうだ。
「ポリコレなんか知ったことじゃねーよw」「フィクションだから自由だろw」という態度で、まっとうな人権感覚を捨てないかぎり、この世界で娯楽作品を楽しむことは難しい。そして、それができる普通の人たちがうらやましい。