かつては、オタクの道を生きる人々の憩いの場であった日本のサブカルチャー。
無理もありません。
私たちは、子供の頃、子供にこんなケシカランものは見せないべきという声も聴かされ、「常に苦しんでいた」と涙ながらに訴える彼らによって、その無垢な心に羞恥の杭を打ち込まれてきました。
それがどうでしょうか?
アニオタ害悪説は、とある雑誌のゴシップによって広められた作り話でした…。
差別も何も、もともと彼らは社会的地位を持っていませんでした…。
サブカルチャー層のほとんどは、はじめからその道での生活を望んでいた人々であり、そんな彼らに日本は殆ど口出しをしませんでした。にも関わらず、ゴシップによってその偏見が植え付けられたのです。
それだけではありません。
そして、その文化を支えてきたのは左翼であり、かつての作家の多くは、左翼出身者が大半であった事…。
サブカルチャーに対する誹謗の多くが、右巻きによって引き起こされていた事…。
1990年代の新興宗教の暴徒化は、左派や右派による宗教団体の操縦に端を発していた事…。
彼らは、日陰者を演じる事によって不都合な歴史を隠蔽し、「文化性」を掲げる事によって、自らの現実を否定してきたのです。
私たちは、彼らの都合の為にサブカルチャーに金をつぎ込み、あたかもそれが日本の大衆文化であるようにさせてきたのです…。
この事実が明らかになるに連れ、SNSの雰囲気は変わり始めました。
「俺たちは知らなかった!」という驚嘆の声が上がり、サブカルチャーは大衆社会からのへの中傷と罵倒で満ち始めました。
手駒の様に人材や精神性を使い捨てる彼ら。その彼らの戦略には、一つの大きな誤算がありました。
それは、世界の大衆が事実に気づいた時、サブカルチャーに対してどんな感情を抱くようになるか、計算に入れていなかったという点です。実に、彼らの誤算が、若者をサブカルチャー市民から非市民へと一変させてしまったのです。
このような経緯を承知している為、私は、サブカルチャーのわかり辛さを理解する事はできます。
自らの正体を“一般人”というマントを羽織ることによっておおい隠し、自らの立場を“リア充”という盾を掲げる事で守り、自らの行動を“木鐸”という装飾を施す事で正当化してきた人々に、誹謗発言を浴びせて何の効果があるのでしょう?
例え誹謗する側に理があろうとも、誹謗発言を行えば、第三者には精神障害者が一方的に迫害しているようにしか見えません。
これでは、彼らの正体をおおい隠す“一般人”のマントが、より厚みを増してしまうだけです。
“リア充”の盾を構え、“木鐸”の剣を奮う者に、中傷の弾丸や罵倒の投石を浴びせた所で、
「サブカルチャーの精神異常ぶりは、かくの如き酷きもの」と、その盾をより強固に、その剣をより鋭利にする口実を与えてしまうだけです。
放った無数の弾丸は、彼らの盾を貫く所か、盾を補強する鋲にしかなりえません。
投げ付けた投石は、彼らの剣をへし折る所か、刃を磨き上げる砥石にしかなりえません。
サブカルチャーの過激ぶりが進行するほど、彼らの「一般人」という名の武装は強化されてしまうのです。
事実、彼らは右派を味方に付け、サブカルチャーの居場所を潰す事に成功しつつあるのです。
今後、サブカルチャーが“現実を省みない行動によって”彼らを助け続ける限り、
我々は、世界から精神異常者という汚名を受けながら、既に蝕まれた社会の中で、未来の自分たちに奴隷としての道を歩ませる事になるでしょう。
もし、それを憂うならば、どうか暴走を止めて下さい!
意味が分からん 3行で簡潔に述べろ