はてなキーワード: コートとは
ひきミートおじさんのワイは一足はやくお昼にしたやで
その一部始終をくまなくご紹介していくやで
まず舞茸を焼いてくやで
1/2株…はもったいないから1/4株を手で割いてフライパンで乾煎りするやで
1株78円やったけど大事に使うで
フライ返しで押さえつけるとピィーゆうて菌糸生命体が泣き叫ぶけど慈悲はないやで
ワイの昼餉になるんやで
だいぶ水分が抜けてペシャンコになり焦げ目が見えたらオリーブ油
…は高いから切らしてるんやったわ
サラダ油を少しなじませて軽く塩ふって下味つけたら皿に避けとくやで
さっきまで炒ってたフライパンに水350mlを計って入れるやで
このデジタルスケールはアリエクで売ってた安くて正確らしいやつやで
長年つかっとるから天板がバコーン外れたから接着剤でつけなおした気がするが
元々雑に二本線状に貼られた両面テープで固定されてただけやったで
ともかく水に顆粒コンソメ小さじ1半と塩をひとつまみ入れて沸かすやで
ひとつまみは3本指やけど麺を多めにするからつまんだ上にも少し塩が乗ってるくらいの多めにしたわ
ほんで沸いたらスパゲッティを本来100gやけど120gにして投入やで
おなペコやからしゃーないな
このスパゲッティもドラッグストアで一番安いBerrakとか書いてある海外のやつやで
フライパンは楽天のクーポン使って1500円くらいで買った北陸アルミの28cmの深型のやつや
落としたら即変形するくらい薄いけどその分軽くてコートも丈夫でツルッツルなんでおすすめやで
こいつの何がええってスパゲッティがそのまんまギリ収まることやな
折ったりひねりながら入れたりせんで済むのは偉いわ公式みつけたわこいつやね
とにかくぐつぐつ煮込んでくわけや、水分量で判断するから時間なんてはからんで
その間に牛乳90ml、バター…風味のマーガリン10gをカップに計量しとくやで
めんどいからマーガリンもカップの縁にへばりつかせてスケールで計100gや
これが生クリーム100mlの代わりになるって寸法や
そしたら麺を菜箸で適度につつきながら茹だり待ちやな
ギリ収まるゆうても茹だってきたところを均等にバラしてやらなあかんでな
水が減ってきたらエセ生クリームの素を投入や
カップの縁のマーガリンも菜箸でつまみあげたパスタでぐりぐり拭くで
ついでにテーブルコショーも2振りしたらまぜまぜや
クリームが仕上がってくのを待つ間に洗い物するで
菌糸生物を抑圧したフライ返しとパスタと擦りあいっこした計量カップとコンソメ計ったあと柄の部分でマーガリン掬った小さじの連中の罪を濯ぐんよ
水分が減ってもうちょいで完成って頃に舞茸を戻してなじませとくやで
クリームがサラサラ過ぎずデロッデロのゲルにならない中間を狙うんや
洗い物ふえるしな
でも上手くできたから今日は菜箸やなくておフォークを使っていただきますわ
!!
記録して人類に貢献したろとか思って書いとったら完食からもう1時間経ってたで
さっき皿洗ったついでに歯も磨いて完璧や
さあゲームするやで
牛丼屋に入ると秋の穫りたて新米だった、だが客たちは荒ぶっている、忙しいのだろう、急いで盛った丼に汁がこぼれてて手が汚れた、俗世の民たちの力強い生き様を喜び新米店員頑張れの歌
恋に敗れ田子の浦を傷心旅行中、肉山で米が見えない素晴らしい牛丼に出会えた、私は感動のあまり紅生姜をたっぷり乗せて食った、明日から頑張ろう
落ち葉の積もる山奥のド田舎を歩いていると、腹が減りようやく見つけた牛丼屋に入り、いつもの並&卵を食していると、どこかしらから牛の鳴き声が聞こえてきてなんか罪悪感を覚えた、モォーモォー鳴いてるし、ゴメンて
オールで遊び疲れ牛丼を食うた、汁一滴も残らぬ乾いた丼に渡し箸、行儀が悪い
一息ついて外を見れば夜が明けてきた、そういえば肌もカサカサだわ、不健康だわ
こんな人生で良いのだろうかと悩む様
街を歩いていると牛丼の匂いがしてきた、誘われてる、悪い誘い、食いたい、
昼休みエレベーターを待っているとこれからランチに行く人、ズルして早飯で戻ってきた人と別れすれ違う、みな牛丼を食ったのだろう、奮発してうな重だろうか、僕はなにを食べようか、ワクワク
東京本社では平社員が早飯とかありえないんですけど、という心情
親父(君)が牛丼買ってこいつーて、寒いから嫌だと断ったのに、もう春だと押し切られ、まぁこれも親孝行かと諦めて渋々出かけたら案の定コートに雪が積もる、
ありえねぇ、チャリの前カゴに詰んだ牛丼を眺めるとイライラする、Uberにすればよかった
仕事が忙しくランチタイムを逃し、ようやく仕事が片付いて飯に向かう、腹がすきすぎて大急ぎで吉野家に駆け込み、注文を聞かれる前に「並と卵!」とオーダーしたった
あまりの形相に店員は驚いたのだろう水を出すのも忘れ、先に牛丼が来た、お水ちょーだい
ふと見た窓の外には大勝ちした客がおり目眩がした
昨日の住之江競艇に懲りずに難波ウインズ、競馬で大博打、夢は一瞬で散った
哀れすぎてこの世を去りたい、だが牛丼を食う、すぐ忘れて元気になった
昨日の難波ウインズを妻に詫びたが、結局今日も懲りずに難波ウインズでまた負けた
最近増田で婚活体験記がよく出てるのでとりあえず出してみた。去年の話。
年齢:35歳
身長:160cm
年収:200万以下
職業:非正規雇用社員。6社経験。仕事で同じミスを何回もするので上司によく叱られた。
病歴:鬱病発症、この婚活ののち、発達障害と診断され今に至る。
彼女いない歴=年齢
40近くなって「結婚しなければいけないのか」と思って婚活を思いつく。父親に「〇〇(俺の名前)で我が家はお終いだな」と言われてムカついてたのもある。
マッチングアプリを始めたが収穫ゼロだったので結婚相談所に登録した。鬱病の調子も良くなってきて、収入が少し増えたのもある。
ネットでいくつか検索して結婚相談所をいくつか絞り、費用が余り掛からず、障害者でも受け入れてくれるところに登録。
説明会で創業者の一人が現れて「今なら入会金ゼロですよ」と言われたことも登録するきっかけの1つになった。
*婚活内容
はじめ高卒でパン焼きしてる女性を見つけ、「会いたい」ボタンを連打したが反応なかった。
とりあえず片っ端から「会いたい」ボタンを押しまくったが50人も反応なし。
相談員からは年収、プロフ、写真が理由で断られてると言われた。
2か月後、ようやく1人目会いたいという女性が現れた。
歯科医で34歳の方。
障害者の福祉施設を作りたいと言ったので、自分の経験を涙ながらに語った。
けれど1回目で終了。
介護士で29歳の方。
直接対面。写真の見た目が小学生みたいで子供っぽい感じだった。
写真で見たより綺麗だった。
話した内容は覚えてない。
直接対面。背が高い人。
偶然同じ大学だったので、大学ネタでそれなりに話は合った気はするが、1回目で終了。
介護士34歳
直接対面。
のんびりした感じの人。
持ってるスマホについて話した。
退会した理由は半年経っても中々2回目まで行かなかったこと、上司に仕事を減らされた上に叱られ続け、精神のバランスを失ったのでまた転職を始めようと思ったこと。
チェスターコートを求めて彷徨う。しかし、どうにも場違いなようである。
金曜日とはいえ、平日の午後であるからか、ショッピングモールに人は少ない。
空いているのは良いが、服屋に入ると目立ち、ほぼほぼ店員に声をかけられてしまう。
こういうところは二人で雑談しながら巡る方が良いのだろう。
お互いに会話していれば、店員もおいそれと関わってこれまい。
そして、値段の上でも場違い感を見せつけられる。
17万円のコートが、50%オフとはいえ平然とぶら下がっている。まるで家電だ。
多数の男女が談笑しながら歩くのをよそに、寒空の下をあてもなく歩く。
二人で来たなら、世界に二つとないオリジナリティあるお土産であり、かさばりもせず、描くまでの間まったりと座って待てるのだから、
お互いの相性や将来なんかを占うんだろうか。
スケートを楽しむ人たちを眺めながら、ひとりでミルクティーをすする。
MARKISの前は青く光るイルミネーションで輝いており、スマホで撮影を試みる人も少なくなかった。
街の灯りがとても綺麗ねヨコハマ、ブルーライトヨコハマ。
残念ながら一人である。
推敲してないので途中で口調が変わるけれど許して。ブームが去る前に公開しておきたい。
2000~2001年の話です。そのとき生まれた娘は健康に育ち独立して離れた場所で生活。私は当時の夫とは娘が1際の時に離婚し、その後、娘の高校卒業と同時に別の相手と再婚しました。
前情報だけでおわかりの通り、産後の恨みが原因で離婚しました。そして産前から出産の時も含めて広い期間ダメダメだったので、『産後の恨み』どころか『出産前後およびその他諸々の恨み』が正しいかも。今はもう相手のことを恨んでいることはありませんが、それはスッパリと関係を断ち切ったからであり、今でも共同生活を送っていたなら、頭の中でグチグチと恨みを反芻させ骨髄に入るまで温存させていたでしょう。
当時の夫とはデキ婚でした。この時点で当時の自分を説教したいのですが二十歳そこそこの世間知らずの恋愛脳だった自分には、説教したところで、どんな言葉も右から左に貫通していったこと間違いなし。ほんとにしょうもない。体験して失敗しないと脳に染み込まない。本当のうえで理解したのは全部が終わって数年たったころだったと思う。相手もまた1歳年上の二十歳過ぎたばかりのペーペーです。
この時点でアカンと思うでしょ。私も書いてて「こりゃ、アカンわ」と思ってる。
とにかく妊娠をきっかけに結婚し、新居として安アパートを借り新生活開始。妊娠による体調不良であれよあれよと働けなくなり退職。
田舎だったこともあり『育休産休』という制度はあっても実際に取っている人が周りに居なかったため、辞める以外の選択肢があるなんてその時の自分には思いもよらなかった。男性だって明らかな労災でも自己負担で病院に行ったりしていたのが普通だったため、そういうものだと思ってました。
というより育休とる以前に、安定期入る前に何度も貧血を繰り返し、ホルモンバランスが崩れて顔・体全体にアトピーが出てしかも赤ちゃんのために薬も飲めず、肌がグルート(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにでてくる木のやつ)みたいな見た目になって人前に出るのがまず精神的に無理になった。膿んで乾いたカサブタが、振り向くたび、お弁当を食べて大きく口を開くたびにこぼれてデスクの周りが汚れた。客前に出ることはおろか、お茶を淹れることも、書類仕事にも支障が出た。上司(女性)からはその都度迷惑そうに「もうお茶淹れなくていいから」「書類汚れてるので、長袖かつ手袋できないだろうか」「また貧血? もう帰ったら?」と言われた。
「働きたかったけれど、働けなくなった」という気持ちは微塵もなく、逃げ出すように退職して、もう人前に出なくて済むと思ったのが当時の心境。自分視点で書いてるから被害者っぽい書き方になっちゃうけれど、上司視点から見て私は困った対象だったと思う。ギリギリの人員で回している仕事を私の都合で滞らせていたので、迷惑だっただろうなと。当時は優しい言葉をかけて欲しかったけれど、求め過ぎな気がする。今、自分は同じ立場になって、昔の自分のために当事者に気遣いの言葉をかけるようにしている。
ホルモンバランスが不安定で誰にも会いたくない状態で病院通いだけしていたころ、夫の友人がお祝い持って当日にアポ無しで現れた。
こんな顔で人になんて会いたくなかった。しかし部屋が汚かったので、リビングに座ってもらいながら大急ぎで片付け、その周りの掃除機をかけた。すごく迷惑そうな顔をしていたと思う。夫友人が少しだけ話しをして申し訳無さそうにお祝いを置いて帰ったあと、夫には「せっかくお祝い持ってきてくれたのに」と小言を言われた。自分自身も申し訳ない気持ちになって落ち込み、具合が悪いからと部屋で休んだ。
8時過ぎに目が覚め、夕飯を用意してなかったことを思い出して、「ごめん、夕飯用意してなかった」とキッチンへ行った。夫は優しい気遣う声で「気にしなくていいよ。もう食べたから」と。シンクにはカレーヌードルの汁だけ入った箸の刺さった容器と、お湯を沸かしただけなのに、そこら中にお湯が飛び跳ねている状態になっていた。もちろん外装フィルムもそこに横たわっている。なんならストックしてないはずのパックご飯のカラもあったし、ゲームしてる夫の脇にはポテチもあった。コンビニで買ってきたのだ。そして私の夕飯はもちろん買ってきておらず。
その光景だけ見て、私は脱力し再び寝室に戻った。夫から「〇〇(私)の分どうする?」という言葉もなく、朝起きたら、ゴミはゴミのままそこにあった。私のことを気遣ってほしかったし、自分で出したゴミは自分で捨てて欲しかった。けれども、当時は言葉にするのも面倒で、ただ黙ってゴミを捨て、キッチンをキレイにしてから朝ご飯を作った。
夜の生活も続いていた。妊娠のある期間は中出しOKのボーナスタイムという知識はあったらしい。
それで妊娠はしないものの、出されたものがそのまま留まってくれるでもなく、しばらくして排出されたものをトイレで流す必要があって億劫だった。ゴムをしているときより滑りが良いと判断したのか、回を重ねるごとに前工程が雑になっていって辟易した。ついにはキス、胸、即挿入になってビックリした。今、書いてて不思議に思うけれどグルート肌の女を良く抱けたな。
そして臨月。お腹が大きくなって寝返りもうてなくなった。腰も痛いし、便秘になるし、車に乗れば車酔いするし、妊娠期間中は種類の違うあらゆる不調が手を変え品を変え一身に降り掛かった。体型が変わって服も替えなければならなかったが、幸いなことにホルモンも安定期に入ったらしくこの頃には、「ちょっと肌荒れが酷い人」くらいまで回復した。買い物している時、重い荷物など明らかに大変なものは持ってくれたが、かがむ必要がある軽いダンボールなどは放置され、お願いすると「これくらいでも?」と言われ、「これくらいでも」と返した。夫のぺったんこのお腹が恨めしかった。
そして出産。予定日になっても生まれず、あらかじめ病院に入院して陣痛促進剤を打って臨む運びとなった。前もって出産日がわかるというのはありがたい。夫は有給をとって分娩直前まで一緒に居てくれることとなった。(立ち会い出産は断られていた。このころ周囲でもテレビでも今のように「立ち会いがむしろデフォルト」のような時代でもなかったので、そういうものかと受け入れていた)
朝一番から付き添ってくれるハズが夫は来なかった。夫が居なくても処置は進む。促進剤を入れ、やがてジワジワと兆しらしい変化が現れ、そして昼過ぎには痛みは最高潮。それが夕方まで続いた。
夫が現れたのは14時過ぎ。あとで聞いたところ朝方までゲームしていて寝過ごしたそう。出産までの陣痛マックスの時も夫は病室の隅っこの椅子にちょこんと座り、手を握ることもしてくれなかった。原因不明で子どもの心音がとまり、慌ただしく右往左往する先生や助産師さんの邪魔にならないようにしたかったのかも。メチャメチャ苦しがってる私に何をすればいいのかわからなかったのかもしれない。夫は部屋の隅で怯えていた。
原因不明の心停止は、あるとき突然原因不明のまま復活。そして分娩。生まれた。
いざ、産み落とす!となった瞬間から急に助産師さんが鬼軍曹になって叱咤してきて、まじでビビった。命に関わることなので、それくらい追い立てなきゃスムーズにことが運ばないんだと思う。それは出産後の入院時期にも続き。いろんな助産師さんがいる中で、比較的若い人は穏やかに、経験値の高そうな人ほど厳しくビシビシと授乳や寝かしつけ、沐浴などの指導がされた。(そして点滴やらおっぱいマッサージやらは、そういう厳しい人ほど巧い) 結婚する以前までは、自分の目指すべきところは『プリンセス』にぼんやり置いていたけれど、出産した直後からは『ソルジャー』になることを求められた。そうしないと子供が死んでしまう。強く賢く逞しくならないといけない。生まれたての弱々しい我が子を抱いて、自分の目がカッと見開いたような気持ちになった。
入院中、夫はあまり見舞いに来なかった。義両親が来た時に案内して少し話してすぐ帰宅。2~3週間の入院期間の内、来たのは3回くらい。夫が毎日会社帰りに寄って、面会時間ギリギリまで一緒にいる同室の夫婦たちを眺めていたので羨ましかった。
退院の数日前、夫に「◯日の◯時に、車で迎えてにきて欲しい」とお願いしたら、「出産日に休んだので、会社に申し訳なくてもう休めない」と言われた。は? 真冬に、新生児を抱えて、2週間分の入院の荷物と、これからのためにと持たされたオムツやら何やらを一人で家に持ち帰れと???? 私、ついこの間、股が裂けて縫っているので、重い荷物とか持って踏ん張れないんですけど?
退院日なんて入院する前から決まってた。しかも出産日に休みをとったって、お前現れたの午後じゃん! ゲームして寝坊してきて、来たあとも全っっっっ然、役に立たなかったじゃん! 実際の処置は医療者じゃなきゃ無理にしても、励ましの言葉もかけてくれなかったじゃん。さすがにキレて怒った。そしたらキレ返された。「お前に俺の何がわかる!」
全然わからない。苗字も体調も体型も仕事も生活も変わらず、私がこれまで持っていて失ったものをほとんど失わず、健康体で子供のことを気にせず働けて、余った時間でゲームを楽しめる人の気持なんて何一つ。
結局、退院日は母にバスで来てもらい、帰りはタクシーを使った。
帰宅後、愕然とした。部屋が寒かった。お互い地元で結婚し、新居を構えたのでそれぞれの実家が近い。私の入院中、夫は実家に帰ってご飯を食べそのまま寝泊まりをキメていた。人の住まない北国の部屋はひときわ寒い。そしてうっすらとそこら中に積もった埃。休日は家でゲームを過ごしていたらしい場所だけ埃はなく、人型にそこだけ綺麗だった。ゲームもドライヤーもコップも出しっぱなし。何かあればうっかり死んでしまう新生児が私の腕の中に居た。「赤ん坊をウィルスから守って」と言われた退院していた。ストーブを焚き、母に子供をみてもらいながらそこら中を掃除をした。この件に関しては怒ったら素直に反省してくれた。キレ返さないだけでも嬉しかったのを覚えている。
さて、ここから季節が変わるまで記憶が定かじゃない。どうやって新生児期を乗り越えたのかとんと思い出せない。若くして子供を産んだこともあり、体力があった。「母親になった。子供を死なせちゃいけない」という、これまでにないプレッシャーにアドレナリンみたいなものがドバドバ出ていたと思う。夜泣きも平気だったし、数時間おきの授乳も辛いとは思いながらも、病院で指示されたとおりにやれた。私は助産師さんからの指導の甲斐あって『ソルジャー』にクラスチェンジしてたのだ。ある時、友人に誘われコートを着て買い物に出たら、「え、なんで暑いの? 空気が張り詰めてなくて穏やかなんですけど!!?」となって春の訪れを知った。
夫は沐浴とか『これは父親の役割』という分かりやすいことはやってくれた。混合で育てていたので、哺乳瓶での授乳もお願いすれば嫌な顔せずやってくれたし。夜泣き対応も、私の腕が限界になればやってくれた。当時はありがたいと思っていたけれど、今の価値観だと足りてないですね。
ある時、子供に急な発熱があって、でも保険証は夫のカバンに入っていたため、職場に行って受け取り、その足で病院に行こうとした。夫の職場で子供を抱えながら自己紹介し、夫を呼び出すようお願いしたら「この一週間、無断欠勤してます」と。
夫には結婚前から借金があった。遊ぶ金欲しさにどうするアイフルしていたのが発端。会社に返済催促の電話がかかってきて、そこから居づらくなって行ってないと言う。どうして黙っていたのかと問いただしたら「◯◯(私)や、生まれてくる子供のことを考えたら言えなかった。二人を幸せにしないと……と思って、隠し通さなきゃと頑張ってた」と。当時、ニュースで取り上げられてた多重債務の地獄に落ちていた。闇金だ。
それから義両親も巻き込んで話し合い、アパートは引き払って夫の実家で暮らすことになった。生まれて半年くらいの子供は私の実家に預けて私もパートに出た。
この時、社会問題化していたものの、今のように銀行は個人ローンはお断り(家や車を買うのや学資はOK。債務の一本化などは受け付けられませんと審査すらしてもらえなかった)、弁護士が『債務整理承ります!』と宣伝打つようになるのも、もっと何年も先の話。家族ぐるみでひたすらその月、その月の返済に追われた。
正直、アパートでのほぼ子供と二人きりのような暮らしに飽き始めていたので社会に出られることはありがたかった。新生児がいては気軽に出かけられず、夫は帰宅して夕飯を食べたら即ゲーム。こちらから話しかけないと会話が始まらないことがストレスだった。今のようにスマホがあったわけでもなく、重いデスクトップPCを起動して、ピーヒャラーと電子音ならしてネットに繋いでいた時代。世間とのつながりはほぼテレビで感じていた。『ダサいダンナ改造計画』とか、今となっては炎上しそうな内容ですら、貴重な娯楽となっていた。もともとソロ活が得意な方だったものの、自分から一人で過ごすのと、強制的に社会から断絶させられるのとは違う。いつの間にか「外で働きたい人」になっていた。もちろん、子どもは可愛かったけれど、ほとんど寝るか泣くかご飯を食べるかの暮らしで、コミュニケーションが取れるようになるのはもう少し先だった。
それと専業主婦の立場に居心地悪さも感じていた。自分のお金で稼いだものじゃないので、ちょっとしたおやつや趣味の雑誌を買うのも躊躇していたのだ。
自分の稼いだお金で子供の服を買ったときにちょっと感動すらしてしまった。結婚前は当たり前だったのに、自分の稼ぎで必要なものを買うことの『当たり前』に『誇らしさ』がオマケでついてきた。とはいえ、結局稼ぎの殆どは夫の借金返済に充てられていたのだが。
あと外に働きに出て、ある程度自分の裁量で物事を決め、今後の見通しが立てやすい作業は子育てに比べてとてもやりやすかった。
そして夫実家で近居の義兄からこっぴどく叱られたことがあった。義兄もまた夫の作った借金のため金策に励み、会社をクビになった夫の働き口を探してくれていたのだ。それを知らず、夫婦で食材の買い物に行き、やってきた義兄に対して、義父が『二人で遊びに出かけてる』と伝え、激怒された。
こっちが苦労して東奔西走している間に、遊びに行くとは何事だと。家庭を持つことに対する自覚がなさ過ぎると。
遊びに行ってたわけではないのだが、自覚がないというのは最もだ。もっと『夫を』怒ってくれ……と思っていたら、私も一緒に叱られた。夫が私に黙ってこさえた借金は、親子三人の生活費にも使われていたため、周囲から見れば私も同罪だったのだ。今となっては「それはそう」と思うけれど、その当時の自分にとっては「そうなの?」という気持ちでいっぱいだった。私は自覚のないまま、分をわきまえない借金をこさえた大馬鹿者になっていたことにこのときようやく気付いた。一緒に買物に行って、私のカバンに商品を入れて万引きした絶縁した友達を思い出した。夫は私が叱られている間、ずっと「カミナリがこちらに降りかかりませんように」と空気になっていた。義兄の帰宅後もフォローはまったくなかった。この時、夫の中では「お前のせいで借金が膨らんだ」と思われていたのだ。
その後も夫は新しい職場でもうまくいかず、家出もした。もうこの頃には「怒って詰めたら、話し合いまで発展しない」と分かっていたので、諭すようにこれからのことを話した。……が、「もう無理。人間はそんな簡単に変わらない」と弱音しか吐かなくなり、ついには「お前、変わったよな」と言われた。私は出産をキッカケに『ソルジャー』になった。しかし夫はまだ私に『プリンセス』を求めていた。
家出中に何をしていたのか、今後のために携帯のチェックをさせてもらったら、出会い系に登録していた。この頃は『メル友募集』とかそういうヤツだ。実際に出会うところまではいってなかったけれど、出会おうとしているところまでは確認した。夫は自分を慰めてくれる『プリンセス』を探していた。
そこからは自分の実家を頼り、出戻ってお互いの両親を交えて話し合い。養育費が払えるとは到底思えなかったので、最初から請求せず。代わりに面会もさせない運びとなった。夫はその頃にはもうとにかく「自分だけがかわいそう。この世のすべてが自分を傷つけにくる敵」みたいな状態に陥っていたので、子供に執着もなく揉めることはなかった。生活の中で新しく二人で買った家電や生活雑貨はすべてこちらで引き取ることとなった。ほとんどは私の独身時代の貯金から出していたので異論はでなかった。しかしプレステ2だけは譲ってくれなかった。それくらいの執着を私と娘にも向けてほしかったと思う。
若気の至りで周囲の人に迷惑をかけた。その恩返しではないけれどやがて訪れた実父の闘病生活はできる限り付き添い、実父が亡くなり一人暮らしになった実母にも、今も頻繁に実家を訪れ日常の買い物や困り事を解決したりしている。(義父除く)義実家は一緒に暮らしている間によくしてくれたので、今でも申し訳ないと思っている。孫の成長も見せたかったが、連絡を取らない取り決めに巻き込んで会わせていない。
いろいろ私視点から書いたので夫の言い分もあると思う。振り返ると二十歳過ぎたばかりのアンチャンには荷が重すぎたとも思う。
夫には良いところももちろんあったし、私にも至らない点が多々あった。さらに離婚することで借金から逃げたとも言えるし、今の価値観で判断すると、子どものために養育費は請求するべきだったかもしれない。
長々と書き綴ったアレコレもそれぞれが離婚の原因にはなったものの今となっては大方許せる。時が経てば大抵のことはどうでも良くなるし、人を恨み続けるほどの胆力は、その後のシングルマザー人生で別のところで必要になったため雲散霧消した。
でもそれでも出産日に寝坊して遅刻してきて退院の時に迎えに来てくれなかったうえ逆ギレしてきたことと、借金を隠して、さらにその理由に「私と娘のため」と発言したことは、今でも絶対許さないと思っている。
なるほど確かにその通りですね。
よって、僭越ながらわたくしめが土下座で謝罪させていただきます。
土下座の方法としては、中国より古来から伝わる「三跪九叩頭の礼」を用いさせていただきます。
「跪(グイ)」
膝をつきます。
「起(チイー)」
顔を上げます。
「起(チイー)」
顔を上げます。
「起(チイー)」
顔を上げます。
「起立(チイーライ)」
立ち上がります。
「跪(グイ)」
膝をつきます。
「起(チイー)」
顔を上げます。
「起(チイー)」
顔を上げます。
「起(チイー)」
顔を上げます。
「起立(チイーライ)」
立ち上がります。
「跪(グイ)」
膝をつきます。
「起(チイー)」
顔を上げます。
「起(チイー)」
顔を上げます。
「起(チイー)」
顔を上げます。
「起立(チイーライ)」
立ち上がります。
御清聴の程、大変ありがとうございます。
https://note.com/ideal_hyssop8446/n/n1d1d3640ab8a
上記の記事でまとめられていることについて、該当のパンフレットは現在の情報をまとめたものに刷新してほしい増田も思う。
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患者は嘘をついているわけではないはそうなんだけど、統合失調症とかの妄想申告とかも患者にとっては嘘をついているわけではないので、化学物質かどうかは留保かな。偏頭痛とかで感覚過敏があるので神経系か何かかな
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増田は昨年の初夏に
②在宅勤務だったので、清掃から3日くらい経つまで1日の大半を部屋ですごした。
③清掃があった次の日の朝から目の痛みや湿疹はでていたが、汗疹が悪化したのかと思って放置していた。
④3日後には湿疹から流血しまくり、顔や首を中心に腫れ上がって目が開かなくなったので皮膚科に行った。
以来エアコン清掃時に自室にあったものは全部アレルゲンのような存在になってしまった。
部屋に置いてあった本に近づくと、目が痛くなり喘息が出て湿疹が出て指先まで腫れ1週間くらい寝込むといった具合。
本や趣味で収集していた物、思い出の品といったものを全部処分するのは心理的に辛かった。
専門医にかかり、平衡感覚が保てているかとか腕を動かせるかとかよくわからない検査や診察をした結果、
部屋にあったものを捨てる・部屋に入らない を徹底すれば
今は全身湿疹(魚の目みたいに割れて血が出るので痛い)で我ながら見た目がグロいが仕事をして生活できている。
金と仕事の大切さが身にしみた。
化学物質過敏症について診断や治療ができる医療機関は全国に7箇所しかないらしい。
頭にビニールキャップを被り、レインコートを着て、それでも肌がぼろぼろだった患者さんのことが忘れられない。
ちなみに専門医(香害についての意見などでよくメディアにも出ている)から指導された治療方法は
"規則正しい生活・運動・お風呂に入ってデトックス" で正直それしかないのかとがっかりした。
処方薬はグルタチオンというサプリとしても入手できるようなものだった。
なので増田は今は診察は受けていない。
清掃会社にも連絡はしたが、「安全なものを使っている」とクールなクレーム対応をされて終わった。
専門医の待合室には化学物質過敏症についての本がたくさんあった。
症状の程度によっては外出が一切出来ず仕事につけないので
身体障害手帳の申請方法について案内するページがあったのがショッキングで印象的だった。
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「本人は嘘をついていないけど化学物質起因かは〜」と捉えている人もいるのだなと思うと
せめてアレルギー的なニュアンスで捉えてくれと伝えたくなった次第だ。
増田は清掃会社がエアコンに塗布した抗カビコート剤に含まれていた成分が発症の原因だと思っているが
国内でこの薬剤を使っているのは増田が清掃を頼んだ会社だけらしい。
同じ抗カビコート剤から増田のように手持ちの私物を全部捨てることになる人が出ないといいなと願っている。
湿疹が痛くて目が覚めてしまって、ふと日中読んだブコメを思い出して文を打ったが、該当ブコメの人が目にしてくれる確率がどのくらいあるんだろうか。
さっさと寝ろと自分でも思う。
なんかタイムラインでフェミニズムみたいな人たちが痴漢の話してて、別に詳細は見てないんだけどふーんと思ってて
女子高生だった頃もめちゃくちゃ陰キャでブスだったと思うんだけど、そういう人間でも電車で痴漢とかされたことあってそれを思い出したんだけど、
こんなことどこにも書けないから書く
冬だったから痴漢がコートを手にかけてて、それを隠れ蓑?にして下半身とか触られたんだよね
なんか痴漢に対して示談?とかにして金もらったわ、みたいな他校の女子の話を聴いたりしてたから、よっしゃワイも示談金ゲットやと思ったんだけど、
よく見たらその人の薬指に指輪が見えたんだよ
女子高生から見ておじさんだったから、今思えば40歳ぐらいなのかね、わかんないけど
当時痴漢免罪で人生がぐちゃぐちゃになったおじさんの話とか見てたからそっちも思い出して、
今陰キャでブスの私がこのおじさんを駅員さんとかに突き出したら、さしたる証拠もないのに(触られてたとは思うし、目も合ったけど、いかんせん確証がない)
あの時のおじさん、私からしたら見逃してやったのに近いので「あの時助けていただいた痴漢です」って私が困った時に恩返しに来てくれればよかったのに
まあ助けてないからいいのか…
いまこれ書いててもう一個思い出したんだけど3.11のときも痴漢にあったな
なんか都会の駅にいて、夜だったかな、電車が動くっていうんでその時遊んでた友達何人かと移動するとき
ぎゅーってすし詰めの電車の中で当然友達とばらばらになっちゃって、降りる駅だけ確認してじゃあそこで降りよう!あとで!って感じになったとき
たぶん後ろから下半身触られたんだよね 生理だったからナプキン敷いてて局部は触れなかったと思うけど
何の話なんだろうなこれ…極限状態でも痴漢する人っているんだな、極限状態だからかな
あとこの間も痴漢にあった気がする
気がする、っていうのはなんかちょっと確証持てないんだけど多分局部を腰にずっと押し付けられてたと思う
何の服着てたかは忘れたけど、え〜〜〜こんな陰キャの三十路女に痴漢すんのこの人と思ってしまった
降りる時にちらっと見たけど、ペットボトルが当たってた〜とかではないのでなんだったんだろう 人間の真ん中にあって骨っぽい感触のものある?
(いま思えばフンフン息の音が聞こえたぐらいだけど、本当に確証がもてない 触られたわけじゃないからこれは私の自意識過剰かもしれない)
中学生ぐらいの頃に初めて痴漢にあって、当時は驚いたけど今はどちらかというと「怖い」になったよ