はてなキーワード: カウンセラーとは
昨年の話になるが、ネット上の知り合いにイベント会場で名乗り出るという、所謂オフっぽい顔合わせをした。ほんの5分程度、話しただけだったが、直後に激しく後悔した(が、何とか開き直った)。どうしても、キモイ奴だと思われたんじゃないか、他の人と笑いものにしてるんじゃないか、とそんな光景ばかりが浮かんでしまう。
その人は別段、態度を変えることもないし、むしろより親切になった気さえするから自分の卑屈さが本当に嫌になる。
これを切っ掛けに、他の人とも会えるようになれれば…と心の何処かで思っていたがやっぱり無理だった。上っ面の会話はできても、自分を曝け出すことも相手を気にすることもできないからすぐ話が終わってしまう。中身のある会話ができない。初対面で緊張していただけだろう、とも思ったが、先日も同じ人にイベント会場で会ってみて実感した。相手にばかり喋らせて自分は何も喋れない、喋る内容が何も思いつかない。いわゆる、同好の士である人だというのにだ。
他人と会話ができるというのは相手に対して聞きたいことがある、即ち興味があるということだ。ならば自分にそれができないのはつまり、他人に対して興味を持っていないということになる。
然り然り、何も全く否定できない。周囲に壁を作り、そこへ引き籠もるだけの自分には他人との会話など、あまりにハードルが高かった。
ここまで来るともう、不動に近い性格的な部分に根ざしているものだと思うのだけど、コミュ障治療でぐぐると出てくる怪しげなカウンセラー系というのはどこまで有効なんだろうか。そもそもにおいて、他人を基本的に信用しない・限り無く敵に近い存在と仮定する自分がそんな胡散臭い他人の話を聞けるのか。医師にはそれなりの敬意を払うと思うが、それとこれとは別に感じる。
家にいるときが1番辛い。
というか母といるときが一番辛い。
家じゃなくても母と2人きりで出かけたりするときが辛い。
(今まで学校や会社で嫌なことや辛いことはあったけど、家に比べれば断然マシなので割と社会的にはやってこれたのかもしれない)
もしかしたらなんかあるんじゃないかなあと思ってとりあえずチラシの裏代わりでごめんなさい。
どうしてこうなったのかは定かではないけど、
怒られて叱られて(それはわたしも悪いのでまだよい)
関係のないことまで人のせいにされて
あげたらきりがないけど
だんだん頭ごなしに怒ることも多くなってきたように感じて、
次に言う言葉とかもすぐ連想できるようになったので無駄なことは言わないようにしようってしてきたら
返ってガーッと言われてるときは喉が詰まるようになってしまった。
だんだんこの返しをしてもこうなるし無駄だなってのを繰り返してきて、
頭が真っ白で何も考えられなくなったりもした。
ていうか未だになる。前よりひどくなってる。
鷲づかみされてるような息苦しさを感じることもある。
ある程度泣けば収まるとは言っても、とめどもなく涙が出てきたり
何か新しいことを始めようとしてスタートの話をしても
話したくなくなって即会話終了。
ろくな会話もできず大事な日を迎えることもしばしば。
確かにわたしが逃げていると言えばそうだけど、
そもそもこんな風になってしまったのは誰のせいなんだ?
っていつも頭の中で叫んでる。
みたいな感じで具体的に病名が出てきたこともあるけど
とりあえずカウンセラーさんには一度話しをしてみたいなあと思ってる。
なんなら下ネタを言うとグループ内での立場や発言力が上がっていく謎の現象すらある地域から、電車が10分に1本来るような都会に出てきたので、
会社に入った途端に学生時代と比べて周囲の人の話題の程度みたいなのがグッと上がったのはものすごく実感したので、その通りだろうなと思う。
基本的に、下ネタ言う人がたまに紛れ込んだり、店で近くに座ることがある、ぐらいまでは減った。
たまにキャラ付けとして「敢えて下ネタ系の話題を恐れない」みたいな方向に振ってる人がいるので、そういう人が場に紛れ込むことがあるけど、
まあ、そういう人たちでもセクハラで訴えるのがちょっと難しそうなぐらいにはオブラートで包んで遠回しに言うことがほとんどだし、発言に占める比重もそれほど多くはない。俺は苦手だけど。
地元と比べると現状でも快適すぎるんだけど、それでもやっぱりアレルギー体質はあるので触れると反応してしまう。
それはそうとアレルギーって言いえて妙だなと思った。使わせてもらお。
友人は親しくなった相手には親愛表現として自分の情報を積極的に開示しようとするところがあるので、その辺の欲求と俺の病が噛み合わないんだろうと思う。
俺が苦手なのわかってるから避けてはいるんだろうけど、自分の身に最近起きた出来事を伝えたい衝動とせめぎあって、
これは避けては通れないって流れになったところで、誤魔化しながらこれなら大丈夫だろって感じで言ってる気がする。
友人の恋愛事情のイベントとかがここ数ヶ月で立て続けに起こってここのところ少しそういう話題の頻度が上がってたのはあるけど、結果だけ見ると残念ながら大丈夫じゃなかったってことだろう。
友人自体、そんな話題しかないってわけじゃなくて、話題のほとんどは下ネタ関係ない話なんだけどねー。
夜通しいろんなことを話し込んで、下ネタのくだり自体は俺がすぐ切り上げるから5分もないとか、そんなもの。
だからちょっと惜しいんだよね、それだけ話せる相手って結構貴重だし、実際5年以上付き合って基本的にはウマも合うし。
でも、一回あたりはそのくらいの密度でも、いつの間にか蓄積されてしまったのか、
遂に露骨なアレルギー反応が出てしまったので、本当にそういう話題を一切口にしない人としか俺は深い関係を育めないのかもしれない。
昔バイトで行った工事現場のおっさんが5分で超えたラインに、5年以上かけて遂に到達したような感じだから、普通の人なら気にも留めないんだろうとも思う。
好みの女性のタイプとかの話すら直接的な下ネタに比べたらマシだけどやっぱり苦手だから、多分俺のボーダーが低すぎる上にアレルギーが強すぎるんだろうなあ。
今後できるのかなー友達。親密にはなるけどそういう話題はお互い一切出さないって、なんか表面上の付き合い感がどうしても出そうだ。
私は、文系院卒(修士)だ。事情により鬱病を発症したが、それに伴い発達障害(未診断ではあるが、ADHDとアスペルガーの合併症の恐れがあるスペクトラム)の疑いも担当医に伝えられている。
再就職をするにあたり、自分の適材適所を探すべく、GATBやウェイス3、学生時代のアルバイト経験での失敗・成功体験を思い起こすも、いかんせんこの「成功体験」が思い当たらず、なかなか職種の見立てが出来ない。
思い詰めて悩みを、公的機関のキャリアカウンセラーや心療内科の担当医に相談したところ、「もう一度、学校に通ってみては。」という事だった。違う大学、他の研究科でも良い、コツコツと興味関心のあるものを研究出来る環境が一番、あっているのでは。と言われた。
結論から言うと、それは難しかった。経済的な事もあるかもしれないが、もっと悲惨な状況になっていたからだ。それは、勉強のコツが思い出せない、集中して勉強出来ない、といった私は明らかに学習能力が低下していたのだ。
因みに今、院試に向けて勉強している分野は遺伝だ。自分の発達障害の一件がきっかけで一度じっくり研究したいと思った。文系出身の学位で学べるアプローチが、某大学院研究科の「遺伝」領域だった。特定出来てしまうかもしれないので、これ以上は言えないけれど、自分が携わる事が出来る所(居場所)欲しさに、とにかく躍起だった。
けれども、ほぼ初めてに近しい理系の勉強は困難でしかなかった。恥ずかしいけれど、今まで出来ていた文系の受験勉強や、文系分野の研究に対する学習能力に、疑問を持つ程に理系の勉強が出来ない。理系と言ってもすべての範囲を網羅する訳では無くて、あくまで研究科で出題される「遺伝分野」だけ。にもかかわらず、自分はなかなか頭に入ってこない。
自分はこんなに馬鹿だったのか。今までの自分は何だったんだろう。鬱のせいなのかな。それとも、実は興味・関心が無いのでは…?
そんな自己嫌悪で一杯になった。
じゃあ、他に何かやりたい事や現実的に私が「出来る事」はあるのか?一から戻って考えても、私がやれる事(成功体験)は思い出せない。
他の何らかの進路に切り替える事が出来る選択肢が浮かばないのだ。
そうこうしている内に、受験申込の日程が迫っている。志望理由所は書けても、本題の基礎知識が頭に入らない。英語もある。小論文もある。プレゼンもある。もう、自分の頭の悪さに劣等感で一杯だ。
夫婦のそれぞれの問題でとても大変なこともあるが、それらを乗り越え幸せな結婚生活を送っている。
そもそも現代の日本の社会において、小・中・高・大と結婚について詳細な教育を受けることがない。
下手すると親からも結婚とはなにかと教わることがないかもしれない。
漠然と、結婚はよいものだ。だからおつきあいしてラブラブだったら結婚しようという社会的な風潮だ。
結婚に至るモデルというのは、安いドラマとかにでてくる情緒的なカップルをモデルとする場合も多いだろう。
結婚について教育を受けてこなかった私たちは、なにをモデルにすればよいのか。
結婚してどのようなことが大変で、逆にどのようにしてより幸せになれるのだろうか。
なかなか客観的にはなりにくい。
自分の欠点を強く指摘される、逆に相手の弱さについてストレートに言及する。
そのような中において、互いが主観的になる。
ビジネス上の課題がある、この解決すべき課題については客観的に見つめることができる。
冷静に多角的に把握して分析ができるのだ。対象が自己の外に向いているからだ。
逆に、夫婦の問題の場合、己の中にある問題、そして相手の心の奥にある問題に向き合わなくてはならない。
そして、これらに互いが触れる時、主観的になる。
主観的なので視野は狭まり、自分と相手が持っているそれぞれのバイアスが強く働く。
■■まずロジャースになれ
来談者中心療法を確立した臨床心理の大家カール・ロジャーズだ。
「無条件の肯定的関心」「共感的理解」「自己一致」を基軸にしたカウンセリング法だ。
自分が夜家に疲れて帰宅したら、リビングに既に仕事を終えて帰ってきた仏頂面の伴侶がいたとする。
そして、相手が会社の愚痴・不平不満をいったとする。自分も会社のストレスを抱えていてとても疲れていてそんな話し聞きたくない。
それでも、「無条件の肯定的関心」「共感的理解」でまず話を聴いて相手を理解しようとすることだ。
私をはじめ男性はつい、解決案を提案しようとやっきになってしまう。ビジネスだったらそれでもいい。
でも、相手は感情を理解して欲しいのだ。そしてその感情を言語化したいのだ。
解決する力はその伴侶のうちにあるのだ。
しかし、自分が肯定的に伴侶の話を聴いていて、相手が一線を越えた場合どうするのか?
自分を罵倒してきた、言葉による暴力をしてきた、さらに言語道断であるが、
暴力を振るってきた場合、倫理に逸脱した行為をしてきた場合、どうするのか?
■■正の強化
応用行動分析学的に、黙っていると言うことは、黙認していること、
その行為を認めていることだ。
相手が行動を起こす→黙認する(認める)→その行動が学習され強化される
といことになる。
自分の考え・感情をきちんと相手に伝えることがとても大切になる。
ではどうすればいいのか?
結婚当初の愛を深めていくにはどうすればいいのか。
夫婦の合意のもと、二人でミッションステートメントを書くのだ。
ミッションステートメントの詳細については検索するとか『七つの習慣』を読むとかで調べて欲しい。
複数の価値観のバラバラな人間が集まる会社ですら、ミッションステートメントを書いている。
ミッションステートメントはとても重要だ。
まず、それぞれ己のミッションステートメントを1週間ほど書けて紙に書いてみよう。
次に、出来た物を夫婦で見せ合って、語り合おう。それぞれ人生において
なにを目的にしているのか、何を価値観としているのか、いろいろ気づきと共有するところがでてくるだろう。
互いに尊敬し合い、語り合いながら、それぞれのステートメントをまとめて、
1つの夫婦(家族)のミッションステートメントを書き上げてみるのだ。
なにか夫婦で問題が生じても、まずミッションステートメントを取り出してきて、
これを中心に問題について語り合うのだ。
ミッションステートメントなしで話し合うと、「いった」「いわない」の互いに非常に主観的パラダイムになるが、
紙に書かれているミッションステートメントを見ながら語り合うとより客観的に問題について語り合うことができる。
つまり夫婦それぞれが中心ではなく、その上の原則(ミッションステートメント)に従って行動していくということだ。
これが非常に大切なのだ。
ミッションステートメントは定期的に語り合いながら見直して、夫婦の節目においてバージョンを上げていくことも重要だ。
■■最後に
夫婦互いが主観的パラダイムになりやすいが、もう一つ重要なことがある。
第3者を見つけておくことだ。第3者というのは、夫婦の状況を客観的に見て、
鏡のようにフィードバックしてくれる人だ。
だが、カウンセラーでもよいが、
お金をかけずに近所のおばちゃん、親戚のおじさん、学生時代の学校の先生、神父さん誰でもよい。
日頃からそのような人と良好な関係を作っておき、相談できる環境を整えておくことは非常に重要だ。
夫婦がバイアスによって気づかなかった新しい認識を得ることができる。
これはホント大切だ。
最後に、結婚生活ケンカも沢山して、とても大変なことも多いが、
妻への深い愛と感謝のうちに
なんだかもうここ数年、うつ病になる2歩手前ぐらいをずっとうろついているのだ。
ノイローゼでもなく、軽めの抑うつ状態とでも言うべきだろうか。
家族が病に倒れ、別件で家族がまとめて鬱になって私を残して心中しようとして、関係ないけど友人は実際に自殺しちゃって、仕事もうまくいかなくて、恋愛も失恋続きで……とまるでいいことが無い。
この数年間毎日のように泣いている。普通に映画や小説に感動している場合もあるが、ふと過去のことを思い出して涙が止まらなくなったりするのだ。
ひどいときは「死にたくない」「忘れられたくない」「置いていかないで」と声を上げながら泣いてしまう。
しかもこれをやっているのが薄幸の美女ならまだしも、私は初対面の人に「昔柔道やってた?」と必ず聞かれるようないい年した巨漢である。全く画にならない。
もういい加減辛すぎる。もうどうしていいのかわからない。
こういうことを人に話すと「無理をしてはいけない。休むべき」みたいなことを言われることがある。
元々私は「まず与えよ」精神が強く、他人のことを考えて自己犠牲に走ることも多いので、そう言われることはわからんでもない。
しかしどうすればいいのか。
まず仕事を辞めてしまえればいいのだが、そうすると生活の手段がなくなる。
家族は今でこそ落ち着いてはいるものの上記のようなことがあったのでとてもすねをかじるというわけにはいかない。
カウンセリングには通った。カウンセラーと話をしていると楽にはなるが根本的な解決にはならなかった。
素人判断ではあるが精神科にかかるほどではない。憂鬱ではあっても眠れなくなったり体調不良になったりするわけではないからだ。
それに食欲と睡眠欲はこの数年間ほぼ安定しているのだ。ひどいときは積極的に食べようとは思えなかったし性欲もなくなってやばかったが眠ることはできた。
そして人を助けようといろいろ手を回す。誰も恩返しなどしてくれないのに。
自分の趣味なんかに没頭すればいいとも言われるが、もはや自分が何に喜びを覚えるのかもよくわからない。
昔から今まで好きな映画や音楽や小説や学問やプログラミングはあるが、どれも私の表面をなでですぐに消えて行ってしまう。
いやはや、本当にどうしたものだろうか。
数年ぶりに「とにかくこの人の笑顔が見たい!」という衝動に駆られて恋愛してみたものの見事に玉砕した記念に増田に書いてみた次第である。
実は俺も働く気が起きない一人。
どうしようもない事だって分かってるのに何もする気が起きない。
ニートと違ってこちらは何十回も足繁く就職活動をしているが、はや4年。何の成果も出ていない。
また、この状況が続くので障害年金を受給するなどして打開する人が少なからずいて、
俺もその一人になりたかったのだが。
しかし、発達障害はたとえ精神の2級を取っていても障害年金を受給する事が叶わない。
いわば八方塞がりの状態にある。
厳密には広汎性発達障害や自閉症などは一応(働いていれば)3級以上が貰える事例が出来ているけど
俺の場合は違う。
ADHD、俗に多動性注意欠陥障がい(注意欠陥性多動性障害とも)は障害年金の対象になっていない。
また、ADHDはその特性から求人自体が少なく、応募の際に電話面談でお祈りされる事がままある代物だ。
要は何処へ行っても仕事の当てはないし、生活保護的な障害年金の受給も不可能という障がい者差別の中の障がい者差別を
モロに受けてしまっている。
今日の就職状況では発達障がい者のほぼ全てに当たる人が支援A型事業所で日々訓練しており、
パソコン技能やフォトショ・イラレから軽作業等々の職業訓練学校で学ぶ限度の作業を全て熟しており
はっきり言っちゃえばその辺の健常者たちよりもずっと優秀かつ勤勉な人が多い。
例えば、落とした求人企業はてんかん持ちや新型うつ病の人ですら何人と受け入れている実績があるにも関わらずだ。
如何に不公平か。
ハローワークでは、発達障がい者に対して表面上は差別なく色々な求人を紹介してくれるし、求人企業も発達障がい者を受け入れる体勢を整え始めている、と言っているが
実際に応募してかれこれ大手中小問わず22件に応募したが、書類で必ず落とされる。
無論職業訓練の事も資格も豊富に書いてあるし、前職についてもしっかり余白なく書いた。
キャリアカウンセラー数人に修正やアドバイスを貰って出来た自分の中では完璧な履歴書と職歴書を送った。
年齢もまだ30に達していない20代後半。
また、いわゆる大人の発達障害ではなく、先天的な子供の頃からのADHDだったりするので
これまで色んな人に理解されず偏見を持たれながらも一般の学校、大学、大学院まで学んだ。
それでも駄目だった。
ちなみに一般枠で行くと同じ企業では面接まで通して貰えた事がある。
やはり発達障害には求人の門戸が閉ざされているのかもしれない。
だから働く気が起きなくなってくる。
全てが嫌になってくる。
だけど、そうは言いつつも何とか今までやって来れてるのは
訓練している事業所や同じ障害を持つ仲間、家族や医師、障がい者専門カウンセリングのお蔭だろう。
こんなにも優しい人達に支えられてるのに、本当に何年も就活して何も成果を得ていない。
これもう俺に死んで生命保険とかで報いろって言ってる様にしか思えない。
だけど人一倍生にがむしゃらなんです、俺。
アベノミクスで正社員や非正規社員の採用数が爆発的に急増しました、というニュースをちょくちょく見る。
これが身体や知障なら大歓迎なんだけどね。
酷いんだよ。
あいつら目に見えて障がい持ってる奴ばっか優先的に採るけど
俺みたいに脳ミソに障がいのある、目に見えない障がい者は全く障害者枠の意味なく落とされるんだ。
今度また2社に応募するんだけど、また落とされるんじゃないかな。
書類で。
面接だけの奴も駄目だ。
ちょろっと話して後は書類選考になるんだよ。
で、落とされる。
はは、ふざけんなよ!
上手い事発達障がい者だけ抜け穴があるかのように落とされるんじゃ
もう就職なんて無理じゃんか。
実質就職無理な今のご時世なのにうつ病とか軽い障がい者の受給はいけるのに
俺みたいな働けるのに働けない、結果働く気が起きなくなる発達障がい者に対して
このままでいいのかよ。
さっさと就職出来る様にしろよ!それか障害年金受給できるようにしろよ!
働く気が起きなくなるなんて嘘だからな!
俺は働きたいんだよ・・・。
働きたい。
詳細には言わないようにしている。
色々と話してみたんだけど、
病気であることをプロフに書いたり、毎日の話が病気のことばかりの人、同じ病気の仲間としかつるまない人って、
正直、自分は病気のために生きているわけではないので、色々うわぁ…と思うことも多かった。
症状って人によってけっこう違うと思うし、○○という症状が出ていなければ絶対何病じゃない、ってことはないと思う。
自分は症状がちょっと珍しいケースでもきちんと薬が効いてるし、病名もついてる。
けど、こういう人たちって、ネットや本なんかに書いてある知識にはやたら詳しくて
自分たちの知っている知識に該当しないと、きちんと通院してる人間を相手にしても、
時々「本当の病気じゃない」って言う人たちがいるのね。
「何病にはそんな症状は出ないし、あなたは勉強不足。いい加減なことは言うもんじゃないわ。
本当に苦しんでいる私たちに対して失礼です。」
そんなこと言われても困るし、私の医者にでも言ってくれ…
病気故に被害者意識が強いので、正義感で攻撃的な態度に出て来るのが困りものである。
なんか、一昔前にネットで流行った、これに当てはまる貴女はナントカ同盟です、みたいなのを思い出す。
こういうこと言う人に限って、謎のお薬アピールとか、今日はこんな症状がと逐一アピールしてる。
そんなこといちいちアピールして一体何のステータスになるって言うんですか。
病んだ人間同士で価値観を共有して群れてるから、いつまでたっても病気のことしか考えられないで、だらだら治らないんじゃないかな。
彼らには、
xevra先生が、高齢メンヘラカップルのブログに、薬が合ってないのか、とブコメされておられるが、
ブログを読む限り、主治医への相談が必要で薬を変えなければいけないほどのうつ症状がある感じはしない(あのブログの精神的リスカは通常営業だ)し、
そもそもパーソナリティ障害自体は、神経や脳器質などの生化学的なものというより、他人に迷惑になるレベルで著しく性格が悪い人、というだけのことなので、
薬じゃあ治らないし、根気よくカウンセリングなどを続けたところで、あまり効果がない(何しろ著しく性格が悪い人を相手にカウンセリングしなきゃいけないから)ことが多い。
パーソナリティ障害には多くの種類があるが、これは、様々なベクトルの性格の悪さを、大まかにカテゴリー分けしているだけ、という側面もある。
実体験数が少なく、それに反して情報量が多い今時の若者には、多かれ少なかれパーソナリティ障害的な心の動きが見られる人もいて、それほど珍しいことでもない。
まだ若い人であれば、良い友達や良いパートナーときちんと付き合っていくことで、カウンセリング的な効果を得て、成長と共に
「他人に迷惑になるレベルで著しく性格が悪い人」から、「ちょっと個性的だけど面白い子だよ」ぐらいまで改善することも少なくない。
まぁ、当該の高齢メンヘラカップルは、もう既にどっちも高齢者で、今までの道のりで見つけられたであろう性格の改善ヒントをすべてスルーしてきたという実績に加えて、
道端に落ちてたメンヘラを拾って隙間を埋めてみたけど合わなかったから捨てました、みたいな、
いい年した人間ならとっくに卒業したような(おまけにそれをSNSで告白したり、サブイボ級のポエムタッチなブログで公表したりの)破壊的な行動を繰り返している輩どもなので、
パーソナリティ障害に係る各種の「生きづらさ」の改善は、期待できないだろう。
「うつ」は心の風邪だから休養がいちばん、という例えに倣うなら(これは本当によくできている例えだと思う。複合原因または原因不明、放置・反復が過ぎると死を招くところまで特徴をよく表してる)、
パーソナリティ障害は「子供の頃からの生活習慣ですっかり太った精神的デブ」みたいな感じだと思っている。これは自分が勝手に定義していることではあるが。
彼らのような、パーソナリティ障害に苦しんでいる人たちの持つ共通の原因は「肥大化した自意識」。他者の存在を受け入れずに生きてきた結果「自」のフィールドだけが肥大化している。心の内臓脂肪が理由。
これは、遺伝的な体質ももちろんあるけれど、どちらかと言うと、生育環境なども含む生活習慣由来の問題なので、投薬やおざなりのカウンセリングなどでは、根本を改善するのは難しい。
例えば、長年の運動不足で肥満症から糖尿を発症した人に対して、糖尿への投薬治療はできるけれど、運動不足由来の肥満を解消させて原因を改善させるのが本当に大変なのと同じような感じ。
そして「適度に食べ、適度に運動し、人生を楽しむ」習慣が身に付けば、収まってしまう(糖尿発症しちゃうと収まっちゃうと簡単には言えないけど…)ようなものでもある。
パーソナリティ障害で精神科を受診すると抗うつ剤を処方されることがあるが、肥満が理由の糖尿と、メンヘラ理由のうつは、似ていると思う。
そして、肥大した自意識=過剰な内臓脂肪、と例えると、他者=筋肉量、という感じである。
上の方に記した「良い友達や良いパートナーときちんと付き合っていく」というのが、「適度に食べ、適度に運動し、人生を楽しむ」にあたる部分で、とても大切なことだったりする。
職業カウンセラーでは、そこまで対象者に踏み込み、「適切な距離を取った他者」であり続けるのは、時間的にも精神的にも難しいのが現実。
一方で、メンヘラではない多くの人は、自分の近くにいる人と適切にコミットしたいと願うのがふつうだ。その方が人生を楽しみやすいし人間関係の安全性を確保しやすいから。
ましてや、近づいた意図が友情や恋愛などの「好意」に基づくものであれば、時間や労力を厭わずに、その相手との適切なコミュニケーション、コミットメントの方法を模索しようと試みる。
「メンヘラ傾向があったが色々あって落ち着いた人」というのは、このような友情や愛情という機会を、きちんととらえることができた人。
若いうちのメンヘラは恋すれば治る、みたいな側面もあって、良い人と巡り合えば、ケロッと、それこそ憑き物が落ちたかのように普通になっていたりする。
一方で、当該の高齢メンヘラのブログを読むと、今まで、改善の可能性を感じる「他者」と向き合わうべきタイミングで常に逃避行動を取って生きてきたのだろうということが分かる。
な、著しく性格が悪いだろう。
ちなみに、他者と向き合わなくても、結婚だって離婚だって浮気だってセックスだって、するのは簡単。というか、むしろ他者ときちんと向き合わない方がどれも簡単だったりする。
相手のこと考えずにいる方が、照れや逡巡や羞恥心やプライドなんかの、恋愛やセックスにまつわる精神的なハードルは超えやすいから。
ただし、他者ときちんと向き合った付き合いの上で行う、結婚生活やセックスは、向き合わないまま行う結婚やセックスの何千倍も多幸感が強い。まぁ当然の話だが。
「彼ら・彼女ら」が、あれだけ行動的で、発信意欲が強くても、ちーとも幸せそうに見えないのは、これが理由。
パズルの合わないパーツを、手前勝手に合わせようとして癇癪起こしてる子供と一緒。
他者と向き合わず精神的な成長を否定して、というのは、大昔は「ピーターパンシンドローム」なんつって流行ったんだ。
まぁあれはあれで、この文章と同様に偏狭な側面が強いものではあったが(なんで男性に限定したんだろうなあれ、時代性だろうか)。
まぁ、そんな通俗心理本が出る程度には、一山幾らの、凡庸で特に特徴も魅力もないような、特に珍しくもないような、ただの性格の悪さでしかないんだよな。
アスペとADHDを併発してる夫に、カサンドラ症候群になって別居中の妻が最近言ったり送ったりしたことをまとめなおしてみた。
あなたはいつもデフォルトの「あなた」がしっかりとあって、基本的に寝て起きるといつも同じ「あなた」からスタートする。
昨夜言い争った内容も、私の涙も、出ていない結論も、あなたに訪れた幸運さえも、きれいに「解決」「終わったこと」になっていて、
「えっ、なにそれ?」「ごめん、思い出せない」「いつの話だっけ?」と忘れ去り、毎日まっさらな気持ちで気持ちよくニコニコ笑っている。
私はこんなに悶々と悩みを抱えているのに。まだ、何も解決していないのに。
どうしてあなたはそんなに幸せそうな顔でいられるのだろうと、私は静かに憤りを感じる。
そのことに、あなたは気付かない。気付けない。
でも、私の雰囲気の変化を敏感に感じて、だけどそれが何かわからないので、
「どうしたのー?」とニコニコしながら頭を撫でてもらっても、今は私の気持ちを逆撫でするだけだというのがわからない。
私が「今はやめて」と言ってしまうと、あなたはどうすればいいかわからなくなって、泣きそうな顔でフリーズする。
そして明日になって、今日が昨日になってあなたがリセットされるまで、身体的接触自体に消極的になってしまう。
あまりに純粋すぎるあなたを前に、私はまた罪悪感から自己嫌悪に陥ってしまう。
あなたが「昨日」を引きずるのは、心身の調子がとても悪いときだけ。
常に私が話すとその場その場では真剣に考えてくれているのはわかるのだけど、何かで気が散ったりしてその場で結論に至らなかった場合、話が翌日に引き継がれることはなかなかない。
引き継がれているとき=考えすぎて身体にも異常が出てしまっている(大体急に40度近い高熱を出す)ときなので、
あなたが苦手な分野の話をするのはとても億劫になるし、熱を出させてしまうと申し訳なくなる。
毎日リセットされるので、行動も思考もほとんど変化がなく他人に影響されない。
ブレない自分を持っているあなたは、その基準の中で厳格で明快な判断を下す反面、
まるで精密機械にように、同じ結果、同じ結論に達するために同じ経過を幾度も辿るので、何度も何度も同じやり取りをして、同じ失敗をする。
あなたは気付いていないかもしれないけれど、私からは、毎日同じ段差に躓き、毎日車輪を再発明してニコニコ喜んでいるような生活を送っているように見える。
だから、最初からできることは確実にできるけど、できないことはなかなか、時には年単位で時間をかけてもできるようにならない。
実は前の失敗を踏まえてアプローチの仕方が変わっていたり、つまずくポイントが微妙に違ったりして、あなたなりに変化が全くないわけじゃないのはなんとなくわかるんだけど、
一度失敗したら、気を付けていれば普通二度と失敗しないだろう。と思うようなことで何度も失敗しているのを見ていると、面倒くさくなって頼むのをやめたり、つい手を出してしまう。
私が手を出すと、あなたはペースが乱れて混乱し、蓄積されかけていた経験値はあっという間にゼロに戻る。
あなたの歩みを見守るには、私には忍耐強さが足りないのだと思う。
一つ新しいことを覚えるのに、時間をかけて体と脳に染み込ませる必要があるし、大抵のことはリセットされて翌朝には元に戻ってしまうので、
一緒に暮らしていて相手として、相手に影響を与えている感じがしない。まるでよくできたロボットと暮らしているような気持ちになる。
カレーを焦がさず作る練習の為に毎日カレーを食べ続けるのはさすがに苦痛だし、仮に特訓の果てにカレーの玉ねぎは焦げなくなっても、野菜炒めはやっぱり焦がしてしまうのがあなた。
特に苦手な、自他の心情や情動の絡むことになると、そもそも全く一般的でない、突拍子もない考え方でこれまで生きてきていたりして、
一般的な感覚やリアクションに至る理由が全く理解できなかったり、「その発想はなかった!」ということばかりのようで、教えようとすると大変労力がかかるし、それも徒労に終わることの方が多い。
すごく頼れてしっかり者で、同年代の人よりはるかに精神的に大人な部分と、普通の人は当たり前にできることができない小学生並の部分が混在していて、そのギャップが激しすぎる。
だから、「ただもう少し気を遣ってほしい」とか、「こういうことを察して行動して欲しい」というような小さな不満が、
元の不満が小さいからこそ、『なぜこんな簡単なことが何度言ってもできないのか、それは私が大切にされていないからではないか』とどんどん膨らんでいく。
診断がついて、頭ではあなたの特性によるものだと理解しているつもりでも、あなたの優秀な側面も知っているからこそ、「そんな馬鹿な」「できるはずだ」「私でもできるのに」と、どうしても心が納得させられない。
あなたがもっとポンコツで、スッパリ諦めがつけばいいのに、諦めきれない。
あなたが私を愛してくれていることは、あなたの態度や行動からとてもよくわかるのだけれど、
あなたの表明してくれる愛情と、そういった未発達な部分からくる対応の齟齬で、私の心はひどく混乱し、罪悪感や自己嫌悪に蝕まれ、疲弊する。
口に出して頼みさえすれば、なんでも喜んでやってくれるのはわかっているし、その都度私があなたに言うようにすれば家庭が円滑に回るのはわかっているけれど、
全部言葉にして言わなければ伝わらなかったり、項目や手順を紙に書いて掲示しなければいけなかったり、やってくれても思わぬところで失敗したりするのがしんどくて、つい、言うよりも自分でやってしまう。
伝える労力と我慢を天秤にかけて、我慢を選んでいるのは私自身なのだけれど、それでも不満が蓄積されていく。
もっと早く診断がついていれば、言わなければわからないものなのだと知っていれば、まだ言っていく方向に頑張れたかもしれないけれど。
ずっと「普通は察して自発的に動けるハズで、それをしないのはやる気がないからだ」と思っていたし、
「なぜ私ばかりが言うという労力を払わなければならないのか(なぜ分からないのか)」
「なぜ書かないとわからないし、今から書く必要のある話をするということも察せないのか」
「なぜ記録を残さないと忘れるのか」
「なぜコミュニケーションをするために、準備に労力を払って、テンポの悪いやり取りをしなければならないのか」と、今もどうしても思ってしまう。
普通じゃないのがあなたの魅力でもあり、弱点でもあるのに、私はあなたに私の思う「普通」であることを強く望んでしまう。
カウンセラーとのやり取りの中で、あなたがあなた自身あまり意識はしないままに、幼いころから自分はなんとなく社会の中で居場所を確保できなさそうだと気付いて、
時間をかけ、工夫を重ねて、人とは方法が違っても概ね同じ結果が得られるように様々なことを訓練してきたことを知った。
その結果、表面上「ちょっと変わった普通の人」風に振る舞えるように努力し続けて、今現在社会的に自立した生活を送れていて、
それが同じような特性による不自由さを持つ人たちの中では、カウンセラーや医師が投薬を渋って今後に期待をかけたくなる程度には上々の成果とされることもわかっているつもりだし、
実際、なにが問題なのかさえ正しく認識できれば、大抵のことをゆっくり解決に向かわせられるだけの自己分析能力も問題解決能力もあって、
生活を改善する意識もかなり高い部類であることも、本などに出てくる様々なケースを読む中でわかってきた。
けれど、それでも、私が無意識に求めてしまう「普通」と、あなたの演じられる「普通」には大きな隔たりがあって、その溝はきっと今後も埋まらなくて、それがとてもつらいし、不安になる。
前提として、全くこれっぽっちも死ぬ気はないです。
ただ躁鬱で何をやらかすかわからないのと(人様に迷惑はかけないようにとは心がけている)、遺書という形に今も気持ちをアウトプットすれば見えてくるものがあるのではないかと思って、このように考えたわけですよ。
さて、私が遺書に残したいことはなんだろう。
真っ先に出てこなかったのが情けないが、感謝の言葉も必要だろう。
死ぬ理由は訴えたら楽になるのだろうか。それを死ぬ前に言おうと言う気にはならないだろうか。
私が泣き言を言うなら、やはり理解して欲しかったという言葉が出てくる。
もう少し遡るなら、過去への恨み言になる。
私が躁鬱を発症した時、親はそれを認めてくれなかった。
親からしたらそれは優しさ…親なりの励ましだったのかもしれないが、私にはだいぶ堪えた。
「そんな子を産んだ覚えはない」という言葉は、「だから(私の子なのだから)躁鬱なんかではない」という意味合いだったと後から言い訳がましく言われたが(言い方に棘があるのを見て分かる通り、私はこのセリフをずっと根に持っている)その言葉に私は見捨てられたかのような絶望を覚えたものだ。
薬を飲んでいれば叱られ、取り上げられ、仕事を休めば「俺は仕事を休んだことなんてない」という励ましにもならないオヤジの自慢話だけを永遠と聞かされた。
その選択は間違っていなかったと信じたいが、やはり一人きりでの闘病生活は苦しい。
正直言えば助けて欲しい。
朝は起こしてほしいし風呂には入れて欲しい。
理解してもらえたら私の心は安らいでいたのだろうか。
わからないなーーー。
真っ先に出てくるあたり、根に持ちすぎていて笑える。
死を選ぶいうことは現状への不満があるはずだ。
現状の不満はなんだろう。
現状
・働いているがクビになりそう(出社率が悪すぎる)
・金がない
・食事は1日1~2食
・風呂は2日か3日に1度
・独り身
そもそもクビになっても生活保護とかまだ生きていく道はありそうだけど、そっちはどうなんだろう。メンタル的に耐えられるのかな。何か、道行く人全員に萎縮しそうだ。
多分、未知が怖いんだ。
状態…
よく幻聴がする…いや、独り身だから、実際に鳴ってるのか幻聴なのかわからないけど。
匂いもたまにおかしい。ものが腐った匂い(部屋が汚いから?)りんごの匂い。
見えるもの。視界の橋に虫。
夢見も悪い。家族の夢を見る。
改めて、これはわりかししんどい。死を選ぶ理由になりえる気がしてきた。
大きいのはなんだろう。周囲とのギャップかもしれない。
私が良かれと思ってやったものを怒られる。
考え方が違いすぎてしんどい。
異星に迷い込んだ気分。
何か中二病みたいなこと言ってるけど、本当に周りと別の生き物のような気がしてつらい。
うまく言葉にできないということは、私がまだこの問題を捉えきれていないのだろうか。
一旦、ここまでにします。
声をあげろとか相談しろとか言うけどさ、たとえば子供だったとして、周囲の大人って誰のことか分からないんだよ。適切でない人に当たって、お前も悪いじゃないかとただ怒られるような、絶望をただ深めることはしたくないんだ。
困っている自分の状況を十分に説明できる奴ばかりでもないわけで。汲み取ってくれる人に出会えるかどうかは「運」だなんて言われても困る。わかる?相談しようという意思は、諦めの言葉「解決なんてどうせ無理」「どうせわかってもらえない」に今のところ全然勝てていないんだよ?
警察、児相、宗教、NPO、病院、カウンセラー、教師、教委、議員、自治体、マスコミ、なあ、どこに相談すればいいよ?
薬物で悩んだときはここ、レイプされたときはここ、不良とトラブルになったときはここ、赤貧で食事にも困ったときはここ、いじめのときはここ、バラバラに林立されても本当に信頼できるところなのか悩みの中にいる人間には分からない。
ここは大丈夫だと大人が責任をもって一覧で扱ってくれよ。そんで中学生になるまでに知らしめて、ここに相談すればいいとサクっと教えてくれよ。頼む。
小学生の娘との何気ない会話で突然、
痛くないんなら別にもう死んでいい」
みたいなことを言われた。
娘がそんな気持ちになるほど、
生きることにつらさを感じていること。
自分のような者が母になってしまったことに最大級の罪を感じる。
自分も、小学生の時から、楽に死ねるものなら今すぐ死にたいと思っていた。
人に馴染めず、劣等感のかたまりで、生きているだけで周りに迷惑をかけていると感じていた。
今でも、困った問題がある度に、
生まれ変わって来世で苦労するとか、
自分は信じていない。
人より劣る自分が、
恥ずかしいとか、
情けないとか、
申し訳ないとか、
あと、痛みとか苦しみとか、
そういう生きづらさを感じずに済むことにただ憧れる。
もしも死後の世界とかがないとして、
生きていたのはただ、
親を悲しませたくなかっただけ。
そう思っていたけど…
夫に出合い、優しくされ、
この人を困らせたくない、
優しさに応えたい、
がんばって人並みになって、
この人を喜ばせたい…
そう思ってしまった。
それでも結婚前に何度か別れを申し出たのだが、
「がんばればなんとかなる!」
今となっては、そういった類いの正義感や優しさに、
憤りさえ感じる。
なんとかがんばって無難に過ごしていれば無関心で関わらない。
死にたがる人を救っているように見えて、
実は逃げ道を塞いでいるだけで、
がんばればなんとかなるとか言って、
娘が問題行動を起こしたり、
ただでさえ仕事でいつもいないのに、
もちろん、
娘のためによい母になろうと努力はしてる。
回避性人格障害とか、
だけどやはりなにかが人と違う…
それがなんなのかよくわからないけど、
生きづらさがなくならない。
娘にまで生きづらさを感じさせてしまっているのだと思う。
私が返した言葉は、
死なれるとつらい。
誰か一人でも、つらい気持ちにさせたくない人がいるなら、その人のために生きて。」
その時は納得してくれた様子で、何気ない会話で終わった。
ただ、このまま生きていて娘が幸せを感じられる日が来るか正直まったく自信がない。
娘はADHDと診断されており、痛みに弱く、ストレスに耐性がない。
何事にもがまんができない。
人と話すことを極度に恥ずかしがり、
学校に行くのをいやがっている。
またあるときの会話では、
「私は子供なんて産まない。結婚なんかしない。」と言っていた。
私はそれでもいいと思う。
さらに言えば、
いつか娘が本当に死んでしまいたいと思う日が来るのならば、
自殺したってかまわない、と、思っている。
娘には、苦しんでほしくない。
ただ、わがまま放題に生きてほしいわけでもない。
上手に人に助けを求められるようになってほしい、
娘が社会に馴染めるよう、全力を尽くしたい。
口がさけても娘には言えない本音。
娘に生きることのすばらしさ、正論を説きながら、
心の内では死に憧れている。
私のような心の弱い人間は、
すぐに他人に流される。
優しくされれば心折れる。
子供を生んで不幸にするくらいなら、
やはり親に気遣いなどせず、早く死んでおけばよかったのかもしれない。
(追記)