はてなキーワード: 自死とは
数日前にTwitterにて回って来たアマゾンの書籍レビュー。
ある日突然、大切な子供が自ら命を絶ち、そんな現実を受け入れられないまま、それでも世界は回り、
受け入れられないまま葬儀の手配をする。
今まで、子供を育てた二十数年間の日々。明日も続くと思っていたそんな日々を突然失った人が、
どうにかして、何かに、多すぎて言葉にできない怒りとも悲しみとも喪失感とも呼べるものを、その書籍にぶつけたい。
そんな悲しみに満ちた話かと思った。
違った。
そんなお綺麗なものじゃない。
既視感がある。
それを私はみたことがあるぞ。
そもそも「後始末マニュアル」と出た時点で私はそのツイートを読むのをやめるべきだった。
私はだいぶ油断していた、それなりに良いことがあったし、最近はほとんど思わなくなっていたし、
というより考えるのをやめるコツをちょっとだけうまくなって、どうにか思考停止もできるようになっていたし。
だから油断して全部読んで、気分が悪くなった。
全部読まないで途中でやめればよかったのに、怖いものは見たいし、臭いとわかってるものは嗅ぎたくなるような、そんな心情。あるよね。
そんでもって、この体たらく。最悪だね。
私は、十代の義務教育後半から、義務ではないけど世間一般に義務教育みたいな扱いを受けた学生時代。
それはそれは死にたかった。
病院には行かなかったし、この先だって行く気もないし、そこまでではない。
その頃は手首はバレるからと、腕を切り刻んでいて、そろそろ十年ほど経つのに、それは二度と消えない真っ白のケロイドとして三十本は残っている。
私は、それを消したいとも思わないし、誇りだとも思わない。見せびらかすなんてありえないし、憐れまれる原因、弱みとなるものなんて見せるはずない。
話が逸れた。
想像でしかないのだけど、その子供が死ぬことを選んだのは、おそらくその家族間にも問題があったのでは。とも思う。
実際何がいやで、何がそこまで追い詰めたのかなど知らないから、どうでも良いのだけど。
この、レビュー主のおそらく母親の言い分が、めちゃくちゃに刺さった。最悪な形でね。
そろそろ埃でも積もるかと思っていた、だいぶ前に閉じた箱が、まさしくパンドラの箱のごとく蓋がずれた。
確かに、きっとおそらく、子供を愛する母親なのだろう。でもそこに、恥ずかしいと、書くべきではなかった。
程度が知れてしまうよ。
薄っぺらい。
子供を、育て、愛し、清く正しくまっすぐに、間違ったことをしても謝れるように。そういう風に育てる、母親。
私だって大変なんだと、きっと言ったいた。
それくらいどうしたっていうの、それより私の話を聞いてよ。
病院に行けば?と言いつつ、本当に行こうかと思っていると相談をすれば、本当に行くの?いや、良い大人なんだから好きにすれば良いと思うけど?
そうやって、否定的なものをにじませた声色で言うのだ。きっと。
そこにふざけたような笑い方も付け加えていなかったか。
冗談のように言っていただろう。
子供の意思を尊重させていると言いつつ、自分の思い通りにならなかったら、育て方が悪かったのだと、泣く人。
絶対にそうだと思う。
外面が悪い。
マンションから出られない。泣くときは窓を閉める。声が聞こえないように。線香をあげるとき、窓を閉める。だれへの配慮だ。
本当にマンションだからか。人が死んだと陰口を叩かれたくないだけではないか。
人の目が気になる。親族に自殺だなんて言いたくない。でも、友達には「見送らせてあげたい」
ああ、本当に嫌だ。
まるでそっくりだ。
悲劇にヒロインぶりたい人だ。正しい母親であること、普通の母親だと、愛があるのだろうが、それだけではないだろう。
本当に気分が悪い。
本当に。
死んだのが私で、私の母親がこれを書いたのではないのかと思ってしまうほどに。
他人の目なんか気にしていないよ。と、そんな風に振舞って、そのくせとても人の目を気にしている。
おそらく過保護。
人のことを考えて。と言いつつ、自分のことしか考えていない、根底は優しくても、本性は愚かしい人だ。
思い出されたのは、私が学生の頃、程度は違うのだがしこたま言われたことだ。
私は頭の出来があまり良くなかったから、勉強に苦労した。覚えが悪いし嫌いだった。
全員で首をくくるしかない。
進級できなかったらどうするの。恥ずかしくって表を歩けない。
あんたのやることをやりなさい。
学校自体に辛いことはなかった。ただただ、毎日のようにそう言われるのが、恐ろしくしんどかった。
言わなくちゃあんたはやらないでしょう。
もうそろそろ、一番初めの頃から十年は立ちそうなのに、まさかここのパンドラを開く羽目になるとは思わなかった。
まあ、私は途中でふざけて袖をまくられ、切り傷まみれの腕を見られ大泣きされたし、
恨みつらみを書き連ねた日記帳を投げつけたりもしたし、それ以降はまるで本当に傷物で腫れ物に触るように
だいぶ甘くされている。
だから今でもフラフラしていても、そこまで辛く当たられることもない。
それでも、時折見せるその視線の先を感じるし、耳障りで仕方がない。
もう今では切り刻んでいることはない。タバコに切り替えているからね。私は自傷行為の延長で吸っている。
遺書があればよかったのか。
それで満足したのか。きっとしないだろう。
自分のことばかりだ。子供を愛していると抱きしめた手と、その口から出る言葉の温度があまりにも違う人だろう。
よかったね。君は救われたのだろう。それしか選べなかった君。とても勇気があり、ともに愚かしい。
けれど私はとても羨ましい。
私は学生のころ、とても死にたかった。成人以降はだいぶ楽になったけれど。
私はだいぶ特殊というか、恵まれたというか、恵まれている、甘やかされていると言われるような
振る舞いをしているのだから、本当に同じように辛い人の気持ちはわからないのだろうけど。
本当に気分が悪い。久しぶりに吐きそうな叫び出しそうな泣きそうな走り出しそうな気分だ。
「誰か、残される人のことを考えてください。」という人。
それで引き止められる人は優しい人。
確かに、考えてしまえば足を踏み出すのをためらってしまうだろう。
けれど、そんな言葉を口にした、その人が本心から心配をしているのだろうか。
この人のように、誰かの目を通した自分を、心配しているのではないだろうか。
集団の中で生活し、生きているけれど、自分自身の命の使い方くらい、自分で決めさせてほしいものだと、私は思う。
だいぶ前から、いつかその書籍は読みたいと思っているし、これは話題になったしそろそろ買う時期かしら。と思った。
その書籍を読んで、実行に移す人が少なかったという話を、私は知っているよ。
コムドットについて詳しくなくとも、SNSで拡散される彼らの活動を目にする機会は多い。彼らはそのように有名になってきたのだから、彼らのファンでない私のような人間が彼らに言及することも、ごく自然なことだと言える。
彼ら、というかリーダーのヤマト氏の炎上に対する声明を読んだ。
少し調べれば、多くの人がその文章に対し強い違和感を抱いていることがわかる。今暇なので、この違和感を明文化してみようと思う。
まず、コンビニ、近隣住民への騒音での迷惑等についての謝罪がある。これはそうだろう。コロナ禍でなくても絶対にやめてほしい。赤ちゃんが寝付いたばかりかもしれないし。
ここでは明確に謝罪の対象にしていないが、彼らは当然マスクをしていない。感染症予防のため、飲食店等を除き、複数人でマスクなしで密になることは避けるべきという『ルール』がある。
コムドットはこれまでも何度か炎上しているようだ。YouTuber飲み会をはじめとするそれらは、『ルール』に違反したから炎上した。
ではここで、この『ルール』について踏み込んで考えてみよう。
ここでの『ルール』とは、法律ではないものの、社会全体の利益のために守るべきこと、とでも言い換えられるだろうか。現在におけるマスク着用はまさにそれだろう。
私が彼らの炎上やそれにまつわる弁明について調べ強く感じたのは、彼らは本当にこの、マスク着用『ルール』の必要性を理解しているのだろうかという疑問である。
マスク着用ルールは、判子は斜めに押すとか、乾杯の際はグラスを下にすべきとかそういうクソくだらない仕草ではなく、疫病の蔓延を防ぐためという目的を持ち、また明確に効果が判っているものである。マスクは本当に不便だが、私たちは自分がウイルスの運び屋にならないよう、大切な人、あるいはそうでない人を守り、この疫病を根絶させるため、マスクをして、密を避け、ときには帰省や結婚式を我慢して過ごす。
自分と他人を守るための『ルール』を履き違え、大きな問題となった、NAMIMONOGATARIというHIPHOPフェスについて、知る人は多いだろう。HIPHOPにカウンターカルチャーの側面は認めているものの、それは体制的な抑圧であったり、不条理な命令であったりに対するカウンターである。
おそらく参加者にとって、マスク着用、密の禁止、禁酒もしくは減酒というルールは、「根拠のない、上からの不条理な命令」程度の認識だったのだろう。だから破っていい。
コムドットメンバーの根底に、同じような気持ちを認めるからこそ、ファンは不安すら覚えているのではないか。
コムドットのファンには良識的な人が多いと感じる。悪いことをしたことは認めつつも、応援の姿勢を示し続けることは簡単なことではない。
だからこそ彼らは不安を抱くのではないか。自分が応援している人たちが、バカではないと信じているからである。
コムドットと『ルール』は意外と根深い関係性を持つ。彼らが盗撮を嫌い、直接ファンに苦言を呈する動画をアップロードしたことは有名らしい。
盗撮はもちろんルール違反であるが、ただちに法律違反ではない。そんなことを言い出したら、彼らの撮影中映り込む人々は、彼らを訴えていいことになる。
では何をもって悪意のある盗撮とみなすのか、その線引きが難しいからこそ、『ルール』によって彼らは自分たちの、また、ファンは彼らの盗撮を許さない。
マスクおよび密を避けるというルールと、この盗撮に関するルール、正当性については述べるまでもないが、彼らは前者のルールをたびたび軽んじ、それどころか、タバコは外で吸うが(条例違反)、他人のタバコのポイ捨てを厳しく指摘するなど、矛盾が多く見られる。
これは大きな違和感であるし、彼らもその矛盾を否定はしないだろう。だから謝罪文は早々にその姿を変える。
ヤマト氏による謝罪文は、いかに多くの誹謗中傷が寄せられ、その恐怖が如何程であるかを切々と述べている。情に訴えている。
さらには過去に行きすぎたネット上の誹謗中傷により自ら命を絶った有名人をもちだし、覚えていないのかと訴える。
ここにも大きな違和感がある。明文化するのは難しいかもしれないが、やってみよう。
まずここでの有名人はまず間違いなく木村花氏のことであろう。彼女の痛ましいニュースは私たちに否が応でも画面の向こうに人がいることを思い知らせた。もちろんそれを私たちに教えるためだけに彼女は亡くなったわけではない。
まず第一に、このタイミングで彼らが自らその話を持ち出すことに対する違和感である。
任意の誰かが社会通念上誤ったことをしたとき、「そんなに叱ったら死ぬよ!」などと言われたら、私たちはどうしたらいいのだろう?
死は究極的に個人的なものだ。100人いれば100通りの死に方があるだろう。もしそれが自死であれば、その理由は本当に個人的なものだ。
彼らはあえて木村花さんという個人名を出さないことで、これに関するそしりから逃れようとしているのかもしれないが、個人名を出せないということは、それは配慮ではない。後ろめたさがそこにあるということである。
木村花さんは、何もしていない。本当に何もしていないが、マスメディアにより悪意のある人間に仕立て上げられ、自分の意見を述べることもできず、頼れる人もおらず、また前例もないため、亡くなるほど追い詰められていたことに気づく人もおらず、孤独に死を選んだ。彼らとは土台から違う。それを指摘されたくないから、個人名を出さなかったのは、卑怯とすら思う。
自分たちの引き起こした不祥事に、無関係の故人を持ちだし、自分の死を匂わせることで、批判から逃れようとする姿勢がダサい。彼らの肩で風を切るイメージとあまりに相反する態度に、違和感を覚えるのである。
もちろん誹謗中傷はルール違反ですらなく法律違反だし、絶対に行ってはいけない。密になるよりマスクしないより騒音を起こすより、明確に悪いことである。そういう人に対し、彼らは私刑に出る必要もない。法的にアプローチすることができる。皮肉なことにこれは、あきらかに木村花さんの事件あっての効果である。
正直なところ、そんなに批判の矢面に立つのが嫌なのであれば、大きな芸能事務所に入ればいい。大きなところであれば文春スキャンダルを揉み消すこともできるし、こういった際矢面にたちタレントを守ってくれる。
しかし彼らは自由でいることを選んだ。事務所のものになり、金銭的、肉体的な縛りを受けるより、自由に活動していくことを選び、彼らのそんな姿勢がウケているのである。
自由は必ず痛みを伴う。これは、自由な者は痛みを覚えるべきということではない。痛みを受けることと自由であることは、ほとんど同じ意味であるということだ。
総合的に一貫性がない、悪い意味で、あらゆる立場のいいとこ取りをしてやろうという彼らの甘えを私たちは感じ取っており、彼らと彼らのファンが大事にする『筋を通す』ことができていないことに、失望を抱かれているというのが、現状への分析である。
別に特にメンタルがやばい状況というわけではないのでその点はご心配なく。
ふと自分の掲題のあたりについて改めて考えたりしたので、書いてみます。
なお、以下の文章で考えや認識を示しているところでは、暗黙に「個人的には、」という枕詞がついているいると思って読んでいただければと思います。
(毎文につけてるとくどいので)
ただ、何かの強い使命感などを持っているなどの理由から、簡単に答えの出る人は少なくて、生きていく中で、同じようなことを再考し続ける人も多いのではと思っています。
で、これについて自分の場合を考えると、前提として、私はあまり生に執着の無い方だと思っています。
痛かったり苦しかったりするのは嫌ですが、生を終えること自体に恐怖はありません。
人生楽しいこと、苦しいことがありますが、割合としては苦しいこと(や面倒くさいこと)の方が多いと考えているので、多分生きている方が大変なんだろうな、と感じています。
ここで、唐突にキアヌ・リーヴスの話をすると、彼はテレビ番組で死生観を問われた際に、少し間を置いて、
と答えたそうです。
私はこの答えが自分の生きる理由を一言で言い表していると感じました。
自分の場合、親は存命ですし、兄弟もいます。そして既婚者でもあります(現状、子供はいません)。
仮に私が自死をしたとした場合、おそらくそれは、私の親にとっては、何よりもの親不孝だと思いますし、兄弟や妻にとても大きな喪失感を与えることは想像できます。
(妻を幸せにする責任があるだろ、というような考え方もあると思いますが、正直なところ、それが生きる理由になるかと言えば、私の場合、ならないです)
ちなみに、余談ですが、ある友人は「絶対に死にたくない、怖いし」 といったことを言っていて、そもそも生きる理由なんて考えない人も結構いるのかもな、とちょっとした衝撃を受けたことがあります。
オチはありません。
どこかで聞いた(見た)ものですが、
という発言を知っていて、私もおおむね同じようなメンタリティで生きています。
ただ、つまらなかったり、退屈なのも辛いので、高杉晋作が遺したとされる以下の言葉に則って、
楽しく生きていけるようライフマネージメントしている日々です。
(上の言葉には続きがあるそうですが、ここでは省略しています)
以上。
今、仕事に関する悩みを抱えている。
しかし悩みの解決は困難で、悩みを打ち明けられる人というのもいない。
(例えば頼ってくれる恋人や世話をしなければいけない子供がいれば、精神状態は違ったと思う。
悩みの解決は出来なくても、一時的に忘れたり、問題内容を置き換えたりできたのではないかと)
一人で悩んで出す答えというのは、たいていの場合“逃避”になる。
今の私もそうだ。
悶々と自分のせい、相手のせい、会社のせい、社会のせい・・・あらゆる理由をつけて「逃避するしかない」という結論を出そうとしている。
単純なAorBという選択だけでなく、問題を保留したり、置換したり、Cという全然違う答えを出したり
しかし、相談する相手がない、自己の中でしか答えを出せない状況になると
結局はAorBの単純な解決策しか導き出せない。そうしたAorBという答えは大抵その場しのぎでしかなく、大局的には破滅に向かっていく。
つまり、孤独な人間は悩みの解決の仕方ですら劣等生であるということ。
湯沢町ではないが、新潟県内の若者の一人の気持ちだ。この一年と数ヶ月ずっと真面目に我慢していた。それが馬鹿みたいだ。友人との飲み会やおでかけもしていない。今まではライブだ舞台だテーマパークだとしょっちゅう行っていた県外へも一度も行っていない。祭りやイベントもない。あっても行っていない。県外に暮らしている友人が帰省してきても会っていない。今までの楽しかったこと、生き甲斐のような気持ちでいたもののほとんどを我慢して生活していた。
それでも、世間やテレビのニュースに影響された中高年たちには若者のせいで感染が広まっている、若者はコロナなんか気にせず出歩いている、と言われ続けてきた。そういう人たちも確かにいるけどそれは若者だからではなくてどの世代にもいる、と訂正しつつも受け流してきた。
それでも国内、県内の感染者は増えている。でも、はやくこの時代を終わらせるためにと努力と我慢を続けていた。一人ひとりがそうしていればいつかきっとと思っていた。
しかし、明日からフジロックは開催される。私が我慢してきたことを踏み躙るように県外から客がくる。私だってこんな世でなければ行きたい。どうして、県内の人間が行くことを我慢しているのに県外の阿呆たちがそれを楽しむのだろうか。許せない気持ちしかない。
主催者に対してはどうして中止しくれなかったのだと怒りはあるものの、出演者やスタッフに関しては仕事であるのだから事情がある場合もあるだろうと怒りはない。
観客はどうだろう。ただ自分が楽しむ以外の目的で来る人しかいないだろう。どうしてそんなことができるのだろう。ワクチンを打ったとしても罹っている人もいる。陰性だったとしてもそれでも潜伏していたという例もある。変異種もある。何が対策だ。来ないのが一番の対策だろう。
チケットの払い戻しも行われているし、ライブ中継もされるのだ。家で騒げばよいだろう。生で観るからこその価値があることは分かるが確実に今じゃない。フジロックの未来へ繋げるためにチケットの払い戻しを行わずに自宅で楽しむという方もいた。その方は立派で正しい姿勢だと思う。
苗場の経済を回すため?それならばネット通販で何かを買うなり、募金をするなりしてくれ。何のためのインターネットだ。
また、東京五輪に関しては反対していたのにフジロックには賛成、参加するというお花畑みたいな人々もちらほら見かける。思考が分からなすぎて、気分が悪すぎて笑える。五輪が開催されたのだからフジロックもとは?何のために五輪の開催に反対していたのだろうか。五輪開催に関しては反対ではあるし、実際感染も広まっているが、無観客で行っていた五輪の方がまだましではないだろうか。
実際、フジロックの開催地が別の県だったら、疑問や怒りを感じるにしても、ここまで怒っていたかは分からない。私だって結局は自分が自分がと思う人間ではある。自分が我慢しているのにどうして、という気持ちが結局のところ一番ではある。でも、その気持ちを持つ人間は私一人でないはずだし、開催地がどこで同じ気持ちを抱く人間は必ずいるだろう。
フジロックには来ないでください。来る人間は全員地獄に落ちてください。人間一人ひとりはその行動で感染を広めることはできる、しかしちっぽけだからその責任を取ることなんてできないのだから。私はこれからも真面目に感染対策を続ける。
追記1 タイトルと内容の一部の言葉が乱暴で過激なので、自身のことを批判されていないにしても気分が悪いという方がいるかもしれないのはごめん。たぶんあなたのことは悪く言っていない。
追記2 フジロックに限らず、大型イベントは国内(新潟も)の感染者数が一番多い今やるべきではないと思う。ただ、地元で開催される全国から数万人という人が集まるイベント、ということでフジロックには個人的に特に怒りがあるだけ。たぶん、あなたの地元で同じようなイベントが同じように開催されたらあなたも思うところがあるんじゃないかな。
追記3 自分に関係ない地元の人間がどうなろうと関係ない的なコメントがあった。感染を広めることだけではなく、参加者自身が感染して苦しむこと、またそこから参加者の親しい人間たち、またその親しい人間たち…へ回してしまう可能性も考えてほしい。地獄に堕ちろなんて呪詛は吐いているけど、参加者たちが苦しむことも私は望まない。いい人ぶってごめんと思うけどそれもまた本心です。タイトルがしねころすの互いでないのは、いつかバチが当たれという意味を込めての地獄に堕ちろだから。
追記4 地元や主催者への抗議は済んでいます。それでも開催されるのだから、もう参加者へ来ないでと言うしかない。ここで前日になってから文句垂れている理由はそれ。
追記5 県内、または感染者の少ない地方から参加する人たちは自身が感染し、持ち帰る可能性が高いので感染者の多い所から来て広めてしまう可能性が高い人と同様におかしいと思う。
追記6 我慢しないで遊べば、という意見もあったけど、周りの目が気になること以前に私自身だけでなく家族や同僚、またその家族(特にその中にいるかもしれないご老人、疾患のある人、子どもや妊婦)にうつってしまったら…と思うと無理。
追記7 まあ、現在開催中なわけだけど、都会と地方(と限らず、まあ人によるけど)ではこの感染症に関する意識が違うので、村八分による感染者の自死、県外ナンバーの車への嫌がらせなどなどがあり、病気になって身体が辛いだけではないだけではないから来た人も地元の人も本当に気をつけてね。
根底には社会的強者への反発や恐怖から来る団結があるという前提で見れば、その強者から自分達も混ぜろと言われる苦痛は明らかだ。なにせいくら心はマイノリティと言っても身体は強者そのものなのだから。
シス男性よりもシス女性よりも学校でいじめられやすく大学進学率が低く働き口が少なく家族から縁を切られやすく自死しやすいトランス女性を、身体的な強さ(ホルモンで弱まるが)だけで社会的強者とすることはできない。
嫌悪でなく恐怖に基づいていれば異人種や外国人や障碍者やホームレスを排除しても差別にならない、などということはない。
もっともTERFを批判してる人も含めて多くのトランス当事者は一定の排除を受け入れてるようだが。風呂は竿を取ってからとか、トイレはパス度や生活実態に応じてとか。それが全く差別でないと言い切るかはともかくとして。
そもそも男性障碍者の利用を認めている女性専用車両は多いのだが。
それもゼロリスクじゃないから駄目だと言うなら、一般車両を利用する男性だって性被害はゼロリスクではない。
ここで女性と限定するのは、トランス男性と男性の場合トランス男性は男性用トイレに入りたがると思えないからだ。ある程度生きれば、性自認に関わらず女性の身体で男性用トイレに入るリスクを考える。
その度に、自分の事を話さない上でちょこちょこその反応に言及する事があります。
定期的に犯罪関連でニュースは賑わうし、割と火を使われてる事が多いんで、もうその度に「オワーーーそうか〜…」って世間というかTwitter上での世間を眺めるんですよね。
自分を傷つける方法や他人を傷つける手段の話は、出来れば共有しないで欲しいなってツイートをしたんだけど、あまりうまく言えなかった。
現在hotなものだと、サラダ油に引火するかしないかとかの話ですね。
ぶっちゃけうちの父は私が6歳の時に、職場の懇親会で上司からガソリンをかけられてバーベキューのコンロに引火させられて亡くなってて、死因が全身の火傷だからだったんですけど(亡骸が酷すぎたのでお葬式も顔を隠されてて見せてもらえなかった。父方の叔母の旦那さんは病室から出て泣き崩れてた)
全身火傷だったけど、18時間くらい生きてたからね…痛かっただろうな。
弟と私も取り残されたけど、加害者本人に助けられて生きてる。私はちょっと顔を火傷したくらいだったけど弟は一歳なのに右手を結構大きく火傷してしばらく右手は包帯ぐるぐるしてたよ。
2歳の妹は先に母と逃げてたけど、火傷しなかったから良いって話ではなかった。
なので、私はなんか弟が大きくなったって感じる弟の誕生日の方が、あの頃から経った時間をより感じるんだよね。
あの時の事件を覚えてるの、私と母と父の職場の人だけなんだよね。
共有できる人で会えるのは母しかいないし、その後の母からの虐待で関係が難しい事になってるので、誰にも分かち合えないんよね。
まあなので、まずそういう、火を使う犯行を聞くのが珍しくないのがしんどいポイント1なんすよ。
なんで人を燃やそうとするんかねぇ。熱いんだぞ
どういうことをしようとしたのか、事の大きさ考えて…
んで、これは二つ目で、私と同じように施設出身の友人がいてよく話してるんですけど、その子のご友人(その子もまた施設出身)が、所謂具体的な自死の方法を看護師さんから聞いちゃったらしく、その子の状態の危うさで衝動が起こった時に、方法を知っていたが故に実行しちゃったんですよ。
父の加害者の方も、お酒で酔ってたが故にストッパーがなかった。線を超える時のきっかけって、衝動が多いんですよ。
まあなので、敢えて自分と他人を傷つける方法って書き方をした訳だよね…。
別に、その話をしないでねって事では無いんよ。
私にとっては火っていうのは怖い存在だし、思い出す一つのトリガーになる事もあるけど、ぶっちゃけ私の記憶力ってかなり細かくて、きっかけがあろうとなかろうといつもいるにはいるんですよ。(この記憶とかはPTSDの影響あるだろうけど、その前の記憶から結構覚えてたり、やたら覚えが良いねって褒められていたのでおそらく元々良い方ではある。)
20年も経ってるので、もうパニックとかにはならないけれども。
なので、私が思い出して怖いからやめて〜って言うより、「どういう流れの中で、どういうつもりで言ってる?」っていう話なんですよね。
もし、その事件の文脈で気をつけてねってお話をするのであれば「もし火がつくものがあっても、こういう行動すれば抑えられるよ」みたいなものが受け入れやすいものになるし、しかもそれって渦中の出来事で緊張が漂ってる時を選ばない方がいいと思うんだよ。
少なくとも、「火がつく時はこういう原理でこれの方が燃えます」ってのは、ちょっとどの範囲の話でそれ言ってるのかな?となるんよね。
だって心が不安で揺れてる時に、危険性の話をメインにするのは危ないもん。
日常の中に危険が含まれてるから、その話を避けてはいけないとかそういう話でもなくて、本当に今それをしなきゃいけないお話かな?ということを言いたいんよ。
そういう時それについて調べる人って、事件の件でサーチかけてる人ばかりじゃない?って思うし、そういう人が安定してる可能性がどのくらいなのかって話じゃん。
私、Twitterの検索開いてトレンドにいるだけでちょっと暗い気持ちになるよね。
悪意がある人が手段として用いようとしたケースがあった時に、不慮の事故の場合の話をするのであればかなり厳重に問題を分けて整理してから話した方が良いし、そういう特殊が起こってピリピリしてるときに、日常にも危険が潜んでいるという話をするのが本当にベターかな?
私は被害者遺族の他に施設出身っていう属性を持っていて、今のところ被害者遺族って言う理由で同じように施設に入った子には直接は会った事がないんだけど、それぞれの事情で世間に安心とか居場所とか落ち着ける時間がない子が結構いて、そういう中で生きていく過程で張り詰めている子を何人か見ているし、私自身社会で頑張らなきゃいけない間はもう少しピリピリしてた。
優しくない人の行動に嫌だなって感情向けてたりね。
一応私は昔から、絶対に理不尽な経験を理由に腐らないってのを軸に生きているので、形を変えつつも社会を否定しないって手段を取っているのですよね。
お父さんは元々不良が大人になったみたいな人で、なので事件について「何か原因があったんじゃないの?」とか言われる事があって、実際そういう育ちとしては良くないかなって言われる家庭の人でもあったんだよね。
それでも、私に学が必要だって勉強を少し力入れている幼稚園に入れたり、末っ子の弟が産まれた時には母方との溝を埋めようと頑張って、自分の親にはそこは頼れないからマンションを買う時の保証人として母方の祖父に頼み込んだりさ。
稼ぎがほしくて当時仕事を割り振る加害者の方と、仕事を受けさせてほしいって事で揉めたり。
けして焼き殺されていい人ではなかったし、父がそういう悪人かどうかとか、加害者の方が小さい私を可愛がってくれていた優しい人だったとか、そういう話ではなくて、これは線を越えた加害者の人がいて、私はそれで失ったものが沢山あるから、私は相手を許せないんだよ。
悪人(に見える人)がいるというのは、誰かの加害を正当化できるものではないんだよ。
私にとって小さい頃って本当に幸せな時間で、会う人みんなが私にとって大好きな人だったんだよ。加害者の人も含めてさ。(まあなので、事件があった時に加害者の人間性の話にはしてほしくはないかな。加害者が良い人だったとしても線を越した事はなくならないしね。第三者が加害者をデフォルメしちゃうのもうーーーーんてなるかな。)
その中で私が憎悪に負けて、理不尽を与える側になったらさ、父に何て言えばいいかわからないよ。
なので、私は腐らない。
善人になりたいわけではないけど、自分の心からは逃げたくない。逃げて誰かの理不尽になりたくない
それでも、相手を受け入れるだけだと、伝わらなくても相手は生きていけるときに、どうして自分はこれを貰えなかったのかなって気持ちが抑えられなくなる事もあったので、私の悲しい気持ちや相手が本当に出来るものか、そもそもしなくてはいけない責任があるものかっていう所を分解しながら考えてる。
まあ大体個人に個人を助けなきゃいけない理由はないし、私が傷を受ける事が正当って訳でもないから相手を否定しない形で伝えるしかないかなに至る。
福祉は頑張ってくれると助かるなぁ。
父の件の後は、好きだった人たちとの関係がしんどくもなる事が沢山あったけど、大好きだった記憶は忘れられないし、それから経験した楽しい記憶もなくならなくてね。
だから、理不尽な現実そのものは憎いけど、やっぱり他人を嫌いになれないんだよね。
だってみんな大変だったし、人が起こす理不尽て大体それに至る流れがあるからさ。
その上で、(自分で言うのもアレなんですけど)これ理不尽を受けたって感じてきた子がやるには難しいんだよ。
自分の場合は決意するきっかけがわかりやすいけど、理不尽のかたちは沢山あって、それは施設の子なんか一般家庭の人よりわかりやすいし、わかりやすくなくても世の中でいう女性故にかかえるハンデとか、結構身近に憎悪の種はある。
「きちんと考えられない人を憎んでいるな」とか
実際、生きるのが苦しい理由って、他人から受ける事情にも沢山あって、だからこそ自分で自分を大切に出来た方が良いとも思うんだけど、私はそういう流れで育てられた憎悪をコントロール出来ないって、自己責任だとは思えないよ。
そう言う範囲の人って、いわゆる精神障害として認定される事多くて、私は私でPTSDと被虐待児症候群て診断されてる。
私だって、何かが違えば世界への憎悪をトリガーに取り返しがつかない事を引き起こしてたかもしれない。
色々気になる事に対して、あなたが過敏だからではないかとか、「気にしない方がいいよ」って言葉をかけられる事もある。
でも、自分自身こういう経験をしてて、あとはちょっと身近な人を自死とかで亡くしてたりする。
自分だけじゃなくて、同じように施設出身の界隈の子がそういう社会での絶望とか孤独を理由に命を絶とうとするみたいなのを、結構な期間ずっと聞いてる中でさ、そういう人に対する影響は考えちゃうよ。
どうしても、心の弱さで加害者や被害者になり得る人へのリスクを優先してしまう。
私は、それを経験してない人や知らない人に対して、「貴方が知らないから悪い」とは言いたくないんだよね。だって私は経験したくなかったもん。
自分がしたくなかったものを、他人に「この人は経験してないからいけないんだ」なんて言ったらさ、敵しかいなくなるし。自分の経験が社会的には少ない事は、多分大体の人がそう思うだろうなって感じだしね。
(苦しい気持ちに優劣はないけど、社会的な位置は存在するかなとは思う。わかりやすいものとわかりにくいものとかね)
例えば、火がつく原理の話を、知識を持っていれば有事の際に対応できるかもしれないとか、何か有益になるかもしれないからって人もいると思うんだ。何かしなきゃって善意からやっている心そのものを否定したら、それは混乱する理由になるよね。
じゃあどうすればいいの?ってなると思う。
そういう、傷ついてきた人にとってはズレているかもしれない善意を、否定はしたくないんだよね。
でも、私が自分の為に相手と一緒に生きたいからこそ、自分の心が傷ついた時に私が経験していて、勝手に傷ついてるとも思いたくない。
向こうは善意でやってるのに、そこを理解しない自分が悪いとも、ちょっとできない。
経験してない人と私の違いって何?私が悪かったからこんな経験してるの?っていう。
相手も自分も否定したくないからこそ、相手の心を否定しない言葉を頑張ってるし、「どういう事?」「なんの話?」ってなる所までは説明を頑張るけど、それを私が相手を黙らせたいからやってるとか、相手をわからせたいからやってるみたいに捉えられると、こまるんだよ。
それは私が一番やりたくない事なんだよ。
だって社会と一緒に生きたいから、なかった事にしたくないから、それが今やる事かなとか、それで追い詰められる人がいるってことは、伝えたいんだよ。
私が世界のこと好きじゃなかったら、もう少し割り切って世間を馬鹿にしながら生きていたし、頑張れない人がいても私は頑張れてるから頑張れない人が悪いって切り捨てられてたよ。
それでも私には、世界を好きにさせてくれる理由が生きてる中で沢山あったから頑張ってるので、悪意と見なされるのが本当に悲しくてどういう方法をとっていけば少しでも伝わるのかなって考えてしまうよ。
私これネットだけで感じてるものじゃないよ。むしろ現実の方が伝えられなくて難しい。
ネットだと、相手のそれまでの言葉を遡れたりするので、それが本当でも嘘でも、流れをまだ見る事が出来るんだよね。
出来てこれだから辛いんだけど。
どうしたらいいのかね。
頑張りたいからこそ、ひとりで頑張れないからこそ、ちょっとネットに書き込ませて貰いました。
読んでくれた方はありがとうございます。
出来れば、これを「考えようとしない人が悪いって言葉」とは受け取らないで欲しい。
そういう事が他人の事でもしんどいなって方は、少しでも自分を大切にする方を優先して欲しいな。
考えられる方は、できれば“誰かが悪い”ではなくて、その悪い気持ちを何が生み出しているのかとか、理不尽な言動を何が生み出して、どうしたら少しでも折り合いをつけられるのかを一緒に考えてくれると嬉しいな。
JOC経理部部長の自死のニュースをみて初めて増田なるものに投稿してみる。
だが、やはり彼が死んだのは、オリンピックで生まれる金の行き先を知っているがゆえに自殺したのではないだろうか。
この明らかに中止スべき中、人々を死に導いてまで開催されるオリンピック。
きっと表に立たず、この社会のお金を動かしている上流階級のやつらの懐にだろう。
人の死を糧にしてまで金をとりつづける全くの人権を無視したこの行為に僕は苛立ちを超えた何かを感じざるを得ない。
このオリンピックに人の善性ははっきりいってない。
不思議でならない。なんでこんな状況でだれも彼もがオリンピックの中止を口にしてるのに、それを強行するやつらを止めるために動こうとはしない。
おれは動きたい。このクソみたい行為が行われるのをただ見ている自分に嫌になる。
だけど見えないんだよ。
何をするにしても、どこのどいつに働きかければいいのか。
ただ、菅じゃないのだけはわかる。
この金を得るためだけに人々を地獄に落とそうしてる本当の黒幕はどこどいつなんだ?
だれか教えてくれエロい人。
割とその頃はメンタルいっぱいいっぱいで、半年前くらいからリスカが癖になってた。学校で嫌なことがあったとか、家で何かあったとか、単純に自分が嫌いだとか、そういう理由で切ってた感じ。
その日は元々学校で嫌なことがある予定で、まあ精神状態も最悪で、普段は持ち歩かないリスカ用のカッターをタオルに包んでスクバに入れた。たぶん保険とか、お守りみたいなつもりだったんだと思う。「何かあってもこれで切れば気分は落ち着くぞ」みたいな。いや学校でリスカすんなやって話だけど。
で、授業中。やっぱり嫌なことは起こってしまったので、「気分悪いので保健室に…」とか言ってカッター入りタオル片手に教室を出て、そのまま近くのトイレに入っていった。授業中だから他に人はいない。それで「もう後には引けない!」とか思ったのかな。
手洗い場の側で、いつもより深めに2本。確か2本目のほうが深くて、ばっくり割れた肉(真皮?)が白いのに驚いた記憶がある。いつもより血が滲んでくるのが遅くて、でも出始めたらなかなか止まらない。暫くトイレットペーパーで押さえてたけど、普段も止血に一晩くらいかかるからまあ止まるわけがないので、ちょっと冷静になったのもあって保健室に行くことにした。けどこれが間違いだった。
一時期保健室の掃除当番をやってたり、友達の付き添いでよく来てたから、養護教諭とは割と顔を合わせていたほうだった。タオルとカッターを持ったまま、血の止まらない腕を素手で押さえて、「腕切っちゃって、血が止まんなくて」的なことを言って保健室に入ったと思う。当然養護教諭は驚いてた。
まず傷口を洗った。それからたぶん消毒をした。そのときに他の傷も見られたからリスカだってバレた。ガーゼを当ててもらった後、何か色々聞かれたし、泣きながら色々喋ったんだと思うけど、唯一ハッキリ覚えてるのは「家には連絡しないで」って言ったこと。この頃は、少なくとも家ではちゃんと隠してたから、家族はリスカしてるって知らなかった。
その後保体の女の先生、それから担任と面談があって、カッターは担任に預けた。没収されたのかもしれないけど覚えてない。時間にしてみればそんな長いもんじゃなくて、授業が終わると同時くらいには解放された。保健室を出ると中座した授業の担当教諭が立っていて、物凄く申し訳なさそうに「ごめんね、嫌だったね」と言うのでこっちまで申し訳なくなった。この先生は一つも悪くなかったから。
教室に戻ったら案の定クラスメイトからの視線は痛かった。担任が事情を話す時間はなかったから何も知らないだろうけど、直前の様子とかを見れば明らかに変だったし、腕にガーゼ貼ってるし。友達は恐る恐る「大丈夫?」って聞いてくれたけど、それでまた泣きそうになったから、適当に流しながら帰り支度をした。担任から早退の許可はもらってた。
バス通学だったけど、停留所から家まで離れているからいつも祖父が迎えに来てくれていた。早退するとメールしたのは自分だけど、罪悪感と気まずさでめちゃくちゃ後悔した。
腕の傷は、家族には「ガラスで切った」ということにした。ガーゼで他の傷跡も上手いこと隠れてたし。祖父母も父もそれで信じた。
でも、どうやら母だけは養護教諭から連絡を受けていたらしく、泣きながら、時には自死をほのめかしながら自分を問い詰めた。正直死ぬほど怖かったし、死ぬほど面倒くさかった。自分より冷静じゃない人を宥める余裕なんてないのに。「あんたが死ぬなら私も死ぬ」とか、「嫌なこと言う子がいるなら殺してやる」とか、いやほんとやめてって感じ。本気で死にたいわけじゃないからね。誰かにいなくなってほしいわけじゃないしね。
だから口止めしたのなぁ。なんで守ってくれないかなぁ。うちの母は自分以上に脆い人ですって、ちゃんと言ったのに。
卒業式まで担任に預かられていたカッターは捨ててもらった。でも、その後もリスカ癖は抜けなくて、かなり頻度は減ったけどあれから4、5本は増えた。
夏でも長袖着たりとか、もうそこまで必死に隠す気はなくなったけど、まだ母以外の家族はリスカのことを知らない。よりにもよって一番知られたくない人に知られたけど。
古市憲寿が小山田の擁護のつもりで「裁判するにも頭と金が必要だからね」と火に油を注ぎ、それへのフォローのつもりで「あれは結婚祝い」とか変なこと書いてまた炎上しているけど
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/poe1985/status/1416750358521475073
あれってわざとナンセンスな事言って「相手にしてない」って態度示してるだけだと思うよ。
2chで正面切って異論を唱えるIDが来た時に、住民が延々と「好きな寿司ネタ」とかの話をし続ける事があるが、あれよ。
80年代地続きの90年代前半を吹っ飛ばしたのはオウム事件なんだが、この時思想的に責任がある中沢新一は「あれはネタだし」って事を言って呆れられ更に叩かれる事になった。
数年前に衝撃的自死を遂げた西部邁は東大教授だったのだが、80年代末に「あれは学問ではない」と中沢の研究を認めない東大教授会に対抗して中沢擁護の論陣を張り、結局退官してしまった。
そんな西部が体張って人生掛けた自分の研究、カッコつき「学問」はネタだと言ってしまった。んでついでに自分も身に覚えがある浅田彰は「自分も構造の中で逃げろと言ってた訳でw」とか言っちゃった。
ネタだから、本気じゃないから本当の自分は傷つかないのって事を公の場所で言った訳で、自意識のコップの中であーだこーだ言ってたのがバレちゃったのよ。
めいろまなんかも言ってる事だが、そういう文化的土壌というかサンドボックスを吹き飛ばしてしまった、或いはサンドボックスの外郭を外からサーチライトで照らし、それがガキの遊びだったって事を知らしめたのがオウム事件で、その後はオウム以前の言説、思想商売なんか全く出来なくなって環境が一変してしまった。
今回の小山田の問題はそのオウム前のサンドボックスでやってた事がオウム以後である現在、しかも五輪プロデュースという究極の「オウム後」で参照されてる事にある訳だ。
言うまでもないが被害者にとってはそのサンドボックスは機能していなかった。小山田とサブカル糞連中だけが中で遊んでただけだ。
1985年生まれの古市はオウム事件では10歳であるのに、何故かこの思想的サンドボックスを巡らすとリアルから保護されるという認識を持っている。不思議だ。
知のサンドボックスは学問とか大学には必要なものだが、それを現実に影響するところでやると「構造の中で逃げろと言ってた訳でw」って言う羽目になる。
そして今おっさんになって渋谷系のリスナーなんて居なくなり、更に五輪の楽曲担当に選ばれてしまった小山田の立場というのは「内向きのノリ」で擁護できるはずがない。
その辺はオウムの時に10歳だったので判らないのだろうが、浅田彰に聞いてみるとか島田裕巳(オウム事件で大学解雇)に聞いてみるとかあるだろうと思う。
辞任はよくあるけどさ、まったく責任取ったことにはなってないよね?
刑務所ぶち込まれて刑期全うしたとしても、それまったく責任取ったことにはなってないよね?
やらかしという事象と、それに伴う被害者たちから生まれた感情そのものに対して、何をどうしたら責任を取ったことになるの?
その後になにか全体利益に繋がる大きな成功を収めれば、それは責任を取ったことになるのか?
もし仮に、すでに起きた事象に対しては、本質的に責任を取ることは不可能というのなら、なんで「責任を取る」なんて概念が存在してるわけ?
具体的に何がどうなれば責任を取ったことになるのか、その辺のコンセンサスをいい加減に明確にしてくれよ
ちなみに俺は、辞任を以てして、責任を取ったとは認めないし、自死までいっても認めない