はてなキーワード: 受験勉強とは
もやっとする記事だったので書く。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be8e13c70803c42f8e9a6f96a2935c1736788b37
高校では3年の秋ごろに教科書の内容を終え、大学入学共通テスト対策にシフトした。(……)担任は、共通テスト対策の授業を受けるよう指示。「受験に必要ない」と抗議する級友もいたが、考えを変えなかった。
そもそも高校の授業には通年の履修しかないし、いわゆる「選択授業」以外は卒業に必要な科目なので、「秋ごろから内容が変わったので受けません」と言われたら「その科目が未履修になる(つまり卒業できない)けどいいの?」としか言えない。
大学で「就職に必要ないから」という理由で履修せずその結果卒業を逃している人がいたらどう思うだろうか。「大学がおかしい!」とはならなくないですか?ここらへんは確定申告とかと同じで、勝手に履修とかされちゃってる感が、自分の履修(と修得)と卒業との関係を曖昧にしていてよくないのだろうなとも思う。
まあ、とにかく言いたいことは、別に担任が「考えを変えなかった」のではなくて、現状のシステムで途中から急に授業を受けなくなることは単純にありえないだけ、ということ。
確かにこの人は学校でやりたくないことをやらされて時間を奪われたかもしれないが、それでも自分の大切な進路を決定するプレゼン資料に週2時間しかかけられないというのは、客観的な事実としてはちょっとありえないかな、と思う。進学校で放課後補習があったとしても、自分の時間が週2時間しかなかったら全然受験勉強進められないだろう。厳しいことを言うようだが、いくらでも時間は作れたはずだし、担任以外で相談すりゃ個別で対応してくれる先生もいたはず。
総合型選抜に合格すると、担任から「みんなの前で言わないでね」とくぎを刺された。共通テストを控える同級生に「水を差す」と考えたらしい。
これは担任の言い方がよくなかったのかもしれないが、このようなことを言いたくなる心情はよくわかる。早く決まった生徒が多くいればいるほど、そのクラスで最後まで受験する生徒にとって学習環境は悪くなる一方だから。実際にこの人と友人は、受験対策授業を受けたくないと教員に訴えていたらしいから、「先に合格をした」という事実ではなくて、そういう言動で水を差していた可能性もある。
学校側から生徒に示された企業の求人は二つだけ。高卒段階での就職活動は、学校の斡旋(あっせん)により企業の求人票を得るのが主流だが、教員がハローワークに届く求人を十分に探すことはなかった。
詳細がわからないが、高卒求人は高校によって就職者数が違うので、たしかに高校によってはおざなりな対応になっている場合もあるのかもしれない。ただ、高卒求人は、求人票解禁の時期、企業見学の時期、面接解禁の時期と、明確なシーズンがあるので、高3の秋頃に進路に困ってなんとなく就職と言い出されても、あまり満足できる選択肢が残っていないという場合も大いにある。まあ、進路の先生の対応がおざなりの場合は、「ハロワに聞いたら、全国のハロワの高卒求人がオンラインで見れるって聞いたんですけど……」とか言えば見せてくれると思う。
まあ、学校や先生に色々不満があるのはわかるんですが、ただ、「実績を求める学校/教師が全てを捻じ曲げて生徒の進路を画一化している」みたいなストーリーは、現場の感覚とは乖離している妄想の部分も大きいかなと思ったのでつらつら書きました。
中学受験についていろいろと勘違いしていたのが失敗した原因だと思う。
根本的にわかってなかったのは行く意味のある中高一貫校はとても少ないということ。
うちの場合の「行く意味」とは将来、難関大学に合格できる学校。
でも現実にはコンスタントに難関大学の合格者を出してる中高一貫校なんて多くはない。
そんな当たり前のことを受験勉強を初めてからだいぶ年月が経ってから理解した。
そうした学校の定員と受験者数を考えれば当然なのにちょっと頑張れば合格できるような幻想を抱いていた。
でも現実には難しい。
そもそも中学は高校や大学と違って義務教育。受験しなくても地元の公立中学に入学できる。
わざわざ受験してまで難関大学にほとんど合格しない中学に行く意味は少なくともうちにはない。
小学校でいじめられているから公立中学に行きたくないとか、女子校がいいとか男子校がいいとかなら話は別だけど。
そもそもの受験理由は将来の難関大学のためだったのに私立は公立より設備がいいとか、高校受験がないからゆっくりできるとか。
そこで撤退できていたらよかったんだろうけど。
中学受験に英語なんて全く関係ない。正確には英検保持者を優遇する学校とかもあるんだけど、うちにとって行く意味のある学校ではない。
そして受験勉強で痛感したのは先生や問題の日本語(国語)をちゃんと理解できないこと。
日本語がちゃんと理解できないのにどうして国語でなく英語なんてやらせてたんだろう?
先生の日本語が正確に理解できない、問題の日本語が正確に理解できない。
でも学年が上がれば「小学生の塾にこんな金額がかかるのか」となる。
模試の後の個別指導の勧誘、夏期講習やら春期講習やら成績が悪いほど金がかかる仕組み。
「そもそも学校の成績が全部よいでなければ中学受験なんて意味ないですよ」とかハッキリ現実を言ってくれたほうが助かったけど、塾も商売だからね。
将来の難関大学以外の理由である設備がいいとか、高校受験がないとかの理由で私立は選択しない。
大学で勉強や研究をするためなら、高校の教科書をしっかり完璧に理解できていれば、十分だと思う。
指定校推薦やAO入試で一流大学に入った人の、大学時代の成績が良いのも、彼らが高校の教科書レベルをしっかり身に付けているからだろう。
しかし、高校の教科書レベルを完璧に理解したとしても、かつてのセンター試験では90%以上の得点は取れるが、
センター9割の学力では、旧帝大や早慶の入試問題はまったく歯が立たないのだ。
東大や京大など日本トップレベルの大学は入試問題自体がとても難しい。
だからトップレベルの大学に一般入試で入るには、教科書レベルのことは早めに終えて、
中高一貫校では高2にまでに教科書を終えて、高3は演習をするのが普通。
成績上位者の受験勉強とは、教科書を理解するための勉強ではなく、難しい入試問題を解くための訓練なのだ。
そういう訓練を最低でも1年間はしないといけない。
しかし、上でも述べたように、そういう訓練をしてない推薦組のほうが大学での成績が良かったりする。
一流大学に入るための受験勉強は、大学入試以外では役に立っていないのが現実。
ここ最近で言いたかったことを吐き出したいです。自分は「白饅頭」氏のマシュマロに投稿した国立大学の医学部生です。詐称を疑われるといけないので特定されない範囲で所属を明かせば、東医体の参加校だけど北医体の参加校ではない国立大学の学生です。
昨日は悲しいことがありました。公衆衛生(講義名は公衆衛生ではないが、実質そういう講義で、講義名を明かすと身バレするのでそういうことにしてください)の講義で喋っていた先生が質疑応答の際、生活のために営業を継続することと感染対策に協力することを天秤にかけた上で前者を選んだ人々のことをどう思うのか,どう対処するのかという説明に対して「そういう人たちは小さい頃勉強しなかったからねえ〜」と発言しました。その後に続いた言葉と合わせて推測するに、明らかに「受験勉強で学歴を得てコロナの影響を受けない職業につかなかったことが悪い」旨を含意していました。自分の実家は決して大きくはない観光関連の会社をやっていることもあり、意図的ではないにしろ向けられた悪意に感じるところがありました。
留保なく「コロナはただの風邪」とは言いません。しかし、自分はすでに3回目のワクチンを接種していますし、日本では8割近くがコロナワクチンを必要回数接種しています。コロナによる死亡者の平均年齢は79歳で、一方で国立社会保障・人口問題研究所が公開してる22/2/7時点のデータによれば10代の死者は4人、20年代の死者は27人です(出典1)。基礎疾患があった人や事故で亡くなった人にPCR検査を施したら陽性だったようなケースを除いて、「基礎疾患のない市中の若者が感染し死にいたる確率」は取るに足らないほど小さいでしょう。特にオミクロン株については感染状況で先行した沖縄県の専門家会議の座長ですら「致死率0.006%」「入院は必ずしも必要ない」と言っています。中高の同期と医学科の同期を合わせて6,7人ほど今年に入ってオミクロン感染した直接の知り合いがいますが例外なく鼻水のみか37.5度程度の熱で収まっています。翻って2回目のワクチン接種の副反応では自分を含めて体感で2/3程度が40度近い熱と悪寒を体験しています。同年代の若者は無知ゆえにコロナを恐れていないのではなく「ワクチンの副反応>オミクロン」を経験則的に知り、先述のデータもこれを裏付けています。こうした背景がある中で、飲食や観光、イベント業に従事する人たちが自分と家族を養う義務とコロナの(ワクチンによって小さくなった)リスクを天秤にかけ、また若者が今この時にしか楽しめないことと天秤にかけ、感染対策に協力しないことを選ぶことは全く責められるべきではないし、少なくともミクロの領域では合理的でしょう。
ツイッターで「医クラ」という医師の集団をフォローしています。最初は志望科に迷っていた中で生の先生の様子が垣間見えることでフォローしていましたが、彼(女)らの言動に対する違和感が拭えなくなってしまいました。「東京で10代が亡くなった」と彼らが大騒ぎしているのを見たら事故で亡くなった人にPCR検査を施したら陽性だったケースだったり、基礎疾患があったケースをなんら健康に問題がない若者が死亡/重症化したかのように言い彼らも当初言っていた「正しく恐れる」態度からかけ離れた発信を度々行っていました。仮に基礎疾患のない市中の若者が感染し亡くなるケースだったとしても、レアケース中のレアケースを取り立てて発信することは彼らが蛇蝎の如く嫌う「反ワク」と全く同じように思えます。それ以上に目立ったのが他業種に対する蔑視です。先ほど述べた弊学の先生みたいな先生はマイノリティーだと信じたいですが、「商売人にはモラルがないので規制は緩めるな」「不要不急じゃない居酒屋なんてあるの?w」「成人式は不要不急」みたいな発言をしょっちゅう見かけます。コロナ禍で縮小する景気の中で額面収入の20パーセント近い社会保険料を医療の原資として納める市井の人たちや自分達にとって限りなく低いリスクながら利他心で感染対策に協力する若者にあまりにも礼を欠いていると考えます。
こうした医師の多くは「日本経済は鎖国のダメージはない、未来永劫鎖国して内需で食っていこう」「若者にとってもコロナは死の病」みたいなことをどうやら本気で考えているらしく、少しでも疑義を挟む人間は反ワクと同じカテゴリーに見えてしまうようです。しかし、はっきり言えばこのようなバランス感覚が欠如した人間の訴えは全く若者には響きません。厚労省の「医療給付実態調査」からライフネット生命が計算したデータによれば若者が年に病院に行く回数は5回に満たない程度です(出典2)。自分のような慢性鼻炎持ちが通院回数を押し上げているので中央値はもっと低いでしょう。若者にとっては病床よりもバイト先の飲食店のシフトが自粛で削られることの方が切実な問題なんです。鎖国したまま日本経済は回りませんし、自粛で失った若者の青春は戻ってきません。医師の先生方も中高での行事や医学部での部活・東医体での経験で人格を涵養されたと思うのでわかっていただけると思います。
若者を感染対策の取り組みに動員したいなら何がなされるべきでしょうか? それは僅かなリスクを針小棒大に煽り立てて脅したり、事情があって十全に感染対策に協力できない人々を蔑視し劣情に駆り立てることではありません。少なくとも「ワクチンを2or3回打った基礎疾患のない若者にはコロナは風邪に近い」ことを認め、それでも協力してくれる利他の心に感謝してお願いすることです。それと共にハイリスク層へのブースターや経口薬の流通を進めることです。兎にも角にも、ワクチンを打った若者にとって「未接種の高齢者が重症化するから自粛しろ」は効かなくなりつつあることを認識すべきです。
出典1:https://www.ipss.go.jp/projects/j/Choju/covid19/index.asp
・多少難解で非日常的な内容であっても日本語として正しく受け答えできるか
小学校時代限定で神童だったような奴らが好むような「地頭テストなぞなぞ」なんてものを解かせるのに時間を使うことが間違ってる。
高校までの出題範囲なんてわざわざ考えるような価値の有るものはなく、全てを完全に暗記してほぼ0秒で解答を出力できることが理想なんだ。
丸暗記だなんだと言われようが、そもそもその程度のことに脳のメモリを必要以上に割いている時点でそこから先の学問に進むときに邪魔になる。
結局は基礎の基礎の基礎でしかない知識に対してひねくれた考え方が出来ることをひけらかせるかなんて大学で価値を持つのは1年生までだよ。
今なら心の整理がついたので、獣医学部に行って後悔した話を書きつづる。
学力的に言えば、国公立のかなりいいところを狙えるくらいの偏差値ではあったものの、思った通りの合格は勝ち取ることは出来ず、とはいえ資格さえもらえればどこでもいいかと滑り止めの私立大学に進学した。
もちろん、一握りのすごいお金持ちというわけではないが、安定して世帯年収1千万は超えていて、とくに浪費しない家だったので、私立大学の獣医学部の学費と、一人暮らしの生活費を与えられる幸運に恵まれた。
私は、昔からソロバンをはじいて行動する可愛くない子供だったので、浪人して1年分の年収が失われる損失、10代の1年が受験勉強に浪費されるという損失などを秤にかけて、資格を得られるなら食いっぱぐれることはないだろうということも計算にいれて(入れたつもりだった)、私立大学に進学した。
いや、違うかもしれない。
お金を出してくれるという安心があって、獣医になれれば私立でもまあいいや。と思ってたから、たいして勉強しなかった。
塾にも行ったことがない。
今あの頃に戻れるなら、もう少し勉強して、一浪してでも東大京大かに入っておけと自分に言いたい。
が、医学部なんかとは違って、一般家庭でも出せないこともない額ではある。
私立理系の大学の学費が120万くらいのところ、200万。高いといえば高いし、卒業まで6年だ。
といっても、理系は修士まで進学する人が多いので、獣医以外の理系なら4年で済むというわけでもないかもだが。
さて、入学して早々(正確には入学式の数日前から)、私はまた人生設計の続きを始めた。
とりあえず入学は果たした。たぶん、ストレートに卒業できるだろう。さて、卒業後どうする。
求人票をみてビックリしたのが、週休二日の社会保険完備が半分くらいだったこと。
社会保険完備だと初任給が数万安く、逆に初任給が高いところは代わりに社会保険が完備されてないか、あるいはボーナスがない。
今考えれば、個人事業主のところに就職するというのは、そんなもんなんだと思うけれども、当時は動揺した。
給与も、全体的に、当時の大卒初任給より1割くらいは高いような気がしたが、正直がっかりした。
そして、卒業を控えたと思われる6年生らの会話を盗み聞き、動物病院の勤務医を選んだということは、いつかは独立を考えなければいけないもの(少なくとも当時は)ということを知った。
考えてみれば当たり前だ。動物病院のほとんどは個人事業主で、終身雇用はあり得ない。
この、中小企業サラリーマンより少しいい程度の給与水準で、開業資金が数千万、無理ではないがかなり苦労するのは18歳でも解った。
自分のような奨学金の返済もないボンボンなら十分可能ではあるけれど、やりたいかと言われたらやりたくはない。
皆が喜びにあふれてるなか、将来への不安で悶々として新入生オリエンテーションに参加。
実際、知らないわけではなかった。
獣医といっても皆が動物の治療で生計をたててるわけではなく、公務員として公衆衛生や家畜衛生分野で生きる獣医が多いらしい。
そうはいっても、誰がなるんだ?と思っていた。
この記事を読む人にもご存じない人もいるかもしれないので、軽く説明すると、公務員として獣医が働く先は大きく二つ。
自治体によって部署の名称は違うのだけど、農業関係の部と、ヒトの衛生に関わる部のどちらかに配属される。
農業関係の部だと、家畜保健所に配属されて、自治体のなかの家畜保健所を数年ごと点々とする。
公衆衛生分野、つまりヒトの衛生に関わる部で獣医が活躍する場所というと、食肉検査所と保健所の二種類。
食肉検査所というのは、屠畜場で流れてくる肉にオーケーを出す仕事。
保健所というのは、スーパーのバックヤードの指導とか、食中毒が出たらその調査とかなんだけど、なぜそこに獣医なのかというと、もともとは、野良犬の捕獲の仕事が多かった時代に、狂犬病予防員野良犬捕獲の陣頭指揮という肩書で獣医の枠が用意されていたことに由来してて。
今だったらコロナでそれどころじゃないんだけども。
さてさて、仕事内容はとにかくとして、オリエンテーションを終えてからさっそくリサーチ。
給料はやっぱり高くない。6年出てるのに、修士よりも低い。このへんも自治体によるけども。
またまた落ち込む。
就職氷河期で仕事があるだけで勝ち組みたいなムードの時代ではあったけども、なまじ高校時代の偏差値に己惚れていたため、
「仕事があるだけラッキーじゃねーよ!年収1千万は目指してーわ!」
と泣きたくなる。
単純に、親の年収は超えたかったってのもありますけども。親よりは学校の勉強が出来た自負があったので。
さてさて、獣医学部を卒業しても、思った以上に楽な人生は送れなそうということに気づいて、いよいよ一年次の学生生活が始まった。
続く(まだ本題には入れてない)
私は筑附(我々は「附属」と呼んでますが)出身者で、悠仁さんが後輩になったら単純に「わ〜い」みたいな気分はあるんですが、悠仁さんにとってメリットあるのかなあ。
国立の貴重な枠を奪いやがってって、叩かれるデメリットのほうが大きい気がする。(マコさんの乱の直後なだけに・・・)
後述するように、そもそもそこまで奪い合うような枠でもないと思うんですが、現実にまあまあ奪い合われている以上、特例でそこに入っちゃうと気分を害する人が出てきます。
そこまでのリスクを負って、筑附にしかないものって別になくないか?と疑問です。
筑附って(公立校にありがちですが)先生もサヨク的で、皇室的なものと相容れないし、報道では「東大に入れるために筑附」とか言われてますけど、それは筑附に入る子たちが結果的に学力とか上昇志向があるからそうなってるだけで、筑附と学習院比べてどっちがいいかっていうとかなり微妙です。筑附はむしろ受験勉強のサポートよりも、受験にまったく役立たないエッセイ書きとか自由研究みたいな課題が多いし、部活もけっこうちゃんと頑張るので、それはそれで長い目で見れば大事なことで楽しいけど、いわゆる受験向きではないと思います。まあ、私は一昔前の卒業生なので最近は違うのかもですが・・・あと些末な話だけど、入学早々に学習院と筑附でスポーツの総力対抗戦みたいのがあり(筑附からは「院戦」学習院からは「附属戦」と呼称)、マスコミには良いネタにされるんでしょうね。
東大に入れたいなら、どこの学校でもいいから落ち着いた環境に入れて、信頼できる家庭教師でも雇って、粛々と家で勉強したほうがいいです。
そういえば自分は東大出身者でもあるんですが、東大も学部では大したこと教えないんで、東大を目指してるってのも本当だとしたらなんかイメージに踊らされてる感じがします。高校も大学も別にどこの学校に行ってもいいと思うけど、「東大に入れたいから筑附」はツッコミどころ多すぎて。
「暗殺教室」を読んだときにも感じたのだが、世間の人たちは進学校に対して、適当な情報やフィクションによってゆがんだ認識を持っているのではないかと思うことがある。
関西にある1学年の生徒の内40%は東大に進学し、30%は京大に進学する学校に通っていた。数字だけでみれば東海高校やら山形の名前も知らない進学校より「東大に行くのが当たり前」という学校だ。
しかし、この学校では特に「東大進学でなければうちの生徒ではない」という雰囲気はなかった。勉強は各自の自主性に任せられおり、進路相談で教師が「このままだと東大に行けないぞ」なんて言うこともなかった。
東大理Ⅲを目指す連中だけは雰囲気が違ったが、それ以外の人間はガツガツ受験勉強をこなすようなことはなかった。みんな夕方まで部活を楽しみ、その後自宅で2~3時間勉強をこなすという生活を行っていた。文化祭なども全力で楽しんでいた。私も普通に高校3年生の春まで部活動をやっていた。私は東大合格できるかどうかスレスレのラインだったけれど、それでも東大に行かないと人生終わるというプレッシャーを感じたことはない。
そもそも大学受験は1発勝負ではない。どうしても東大に合格したいなら浪人すればいい。親が許さないという家庭もあるだろうから一概には言えないが、東大受験生が多い学校なら、浪人して受かった人の話は当然聞くはずだ。 それなのにそこまで追い詰めるのであればやはり家族が悪い。 「東大でなければうちの生徒じゃない」とかいう学校があったという話も、その芸能人が、周りの人間がよく知らないと思って大げさに話を盛っているようにしか思えない。
仮にどちらも学校のせいであるなら、その学校の先生は、無能すぎる。それだけ生徒をたきつけて追い込んで、そこまでやってその程度の実績しか出せないなら、害の方が大きい。山形の進学校ってどこだよ。名前すら聞いたことねえよ。
勉強もスポーツも、一般社会では直接的には何の役にも立たない、価値のないものだけど、
もしくは間接的に、勉強やスポーツができる人は他のこともできるだろう、と思われるわけだ
だから、勉強やスポーツに打ち込んで、それでいい進学、進路が選べること自体は何の問題もない
それよりも、何の努力もしなかった人たちが徒党を組んで、その勉強やスポーツに打ち込んだ人を排除したり、
もしくは、過去に勉強やスポーツに打ち込んでいたが、天下り先みたいな吹き溜まりの場所に集まって、
その過去の功績や獲得した能力や地位を悪用して生きてる人たちがいたり、
そういうのが問題なんであって、
努力が報われることが少ない世界で、努力が報われた、という人がいる、
そういうシステムがあるということ自体は何の問題もない気がするんだよなぁ
努力が報われたという実績やシステムを否定する人は、それは本当に嫉妬とか、何か醜悪なものだと思う
その一方で、努力が報われない方が多かったりするわけだけど、
努力とか時間と成果が余りに比例しなくなると、人間は誰しも学習生無力感を味わうようになり、
それが大衆に蔓延すれば、治安が悪化したり、世界はおかしくなると思うし、
現にそうなってる
昨日か一昨日、『文学部になんか行くな、勉強しても報われないぞって初めから言え』のエントリを書いた人間です。
でもめっちゃ風評被害をまき散らしてしまったので、ちょっとだけ冷えた頭で過去を捉えなおした記事を書きたいと思いました。
あれを読んで嫌な気持ちになった人に謝れるわけではないし限りなく自己満足ですが、ネットの海に放流しておきたかったので。
就活で心が折れてしまった上に、俺の性格が極端で未熟だったことによるところが大きい。
確かに、客観的に見れば貴重なことを文学部で学んだのかもしれない。
文学部の人や人文学に触れたことがある人は知っていると思うが、文学部は感想文を書き散らすところでは断じてない。
まずは対象となる作品に触れて、自分で疑問を発見したり、隠されたものがあるのでは?と気づく。
そしたら、その疑問や発見を足掛かりにさらに深くテクストを読み込み、適切な研究書・論文を探して読んで根拠を集める。
必要な場合は、過去の理論を適用して新たな気づきがないか探したり、自分の立場を明らかにする。
そうして根拠を十分集めて、最初の疑問や発見に対する結論を導きだす。これが俺の学んだ手法。
思い出してみれば、自分は一年生の時から成績がよかったわけではなかった。
なぜなら入学当初、課題発見力が限りなくゼロに近かったから。お得意の受験勉強では全く何もできなくて、最初に書いたレポートは散々でした。
で、レポートを書けるようになりてえと思った。正直言うとその動機はお子様なもので、アカデミックな論文が冷徹に真理を追究してるみたいでかっこよく見えたから。
まあ悔しかったのか文学が好きだったのか、今ではよく分からんがとにかく少しでも大学の学問に触れたいと思って、そこから色々やった。
教授に質問したり、レポート上手い友達にどうすればいいか助けを求めたり、『レポートの書き方』とかロジカルシンキングの本を読んだり。
それで成績が上がったんでした。
コメントでも指摘があるように俺は自分の評価を限りなく外部に依存する悪癖があり、成績を自分の判断基準にしすぎというのは真っ当な指摘です。
でも、その外部からの評価を得るために自分でいろいろやったなあ、ということをガン無視していたので、それはちょっと認めてもいいのかもしれないと思った。
ということで、もらったコメントを受けて考えてみれば、文学部に行ったから俺の未来がどうこうなんじゃなかったということです。
それどころか、文学部で勉強して知った「テクストを客観的に読んで課題を発見し、資料を参考にしながら結論を出す」という手法はどこにでも通用する教訓なのかもしれない。
いや、そうじゃないかもしれない。俺は社会に出てもいないし、就活にしても本選考が始まったわけではないし、本当に社会に通用するのかは今知りようがない。
とにかく考え直してみた結果、俺は価値ある学びを身につけられたのかもなあ、と思った。
文学部の人、文学部に行きたいと思ってた人、すみませんでした。グチャグチャメンタルで軽率に貶したりして、本当に馬鹿でした。
この謝罪は読んだ人への媚び売りではなく、もらったコメントを読んで自分の学んだものの価値を思い出した結果だと思っている。多分。
これが万人に通用する真理かどうかも知らない。今のところの自分の結論というだけ。まだ未熟な部分が腐るほどあるんだろう。
・ただ文学部は関係ないけど、俺がやらかしたことに変わりはない
そうは言ったところで、俺が人付き合いから目をそらしてきた事実は変わらない。
なので、自分がゼロ地点にいることを自覚したんだから、今度こそ自分でなんかやろうと思った。
今の時点ではまず進路をどうにか決めるのが先だが、その先はバイトかボランティアがグループ立ち上げか、とにかく人と会わなきゃと思う。
がむしゃらにただ会うんじゃなくて、自分と相手の対流みたいなもんを作ればいいのだろうか、よくわからないけども。
しかも、あれだけ叱責のコメントをもらってすら未だに周りの人間を恨んでいる節がある。
ただ、これもコメントにあったことだが、実際には「コミュニケーションをとれ」というアドバイスをもらいながら目を背けていただけの気がする。
自分には合わないから!机に向かってれば楽だから!そういう自分本位の理由でアドバイスを無駄にしてたんだろうな。
それで俺に愛想をつかした人、多分たくさんいるだろうと思います。
あと根本的な問題点として何かに失敗するのがどうしても嫌というプライドと不安があるのも分かった。
なので失敗したら引きこもるのではなく、どこがダメだったか考えて再試行するのを人付き合いで繰り返そうと思う。怖いですが。
「勉強を頑張れるのは一つの長所」という励ましのコメントをくれた人が数人いました。今はまだ大事なものを取りこぼしたしくじり感が強いけど、将来「勉強したことが血肉になってるんだな」と思える日がくればいいと思う。
その一方、「ガクチカでそれを書けばいいじゃないか」というコメントにはあまり同意しない。
なぜなら、就活本に書いてあったガクチカについての説明がとても筋の通ったものだったからです。
就活始まってたくさん読んだマニュアルの大半には、「ガクチカに大学内でのことを書くと視野が狭いと思われる」という指南が書いてあった。
そして具体的なアドバイスとして、「社会人としての素養=コミュ力、社会性をアピールするため大学外部のことを書け」という対策が書いてある。
だからみんなサークル・ゼミのことをアピールするのは極力避け、アルバイトやボランティアのことを書こうとするんです。
これは筋が通っていると俺は思う。なら、上に書いた文学部での学業はガクチカとして不十分だ。特に俺はほとんど一人で動いてしまったから、社会性とコミュ力のアピールにはならない。
で、その上でガクチカをどう書くかはまだ決められてません。とりあえずキャリセンと外部の講座に頼ります。
・自分語り(コミュニケーションが苦手、人格が幼いことについて)
これを治せないのかは分からない。
ただずっとコミュニケーションが嫌いだったかというとそういうわけではなくて、その方法を限りなく間違え続けたあげく人間関係で病んだのがきっかけだった。
小学生の時にいじめを受けていて、それで辛い人の気持ちが分かったつもりになった。
で、自分は優しい人でありたいと思ったので、それ以来誰彼かまわず相手に尽くしまくった。
ただ人格形成が遅かったのか、はたまたその時から他責性格で自分の成長を怠ったのか、自他の区別がつけられず優しさと甘やかしの違いが分からなかった。
その結果メンヘラ製造機になり、それを抱えきれなくて自分がメンヘラになった。
横になって壁見ることしかできねえ何もできねえ何も食えねえみたいな時期が続き、高校で教室に行けなくなった。
精神科には行かずにスクールカウンセリングを一年ぐらい受けたけど、結局克服には至らず。
で、大学に行ったらぼっちを謳歌するぞ、友達なんかいらないぞと思って、それを実行した。
ここで周りの「他人と向き合え」というアドバイスが実際あったのに無視したとすれば、それがさらに人格形成をサボる分岐点だったんでしょう。
上で「友人にレポートのアドバイスを聞き…」と書いたように、確かに数人は大学の友人がいる。しかし自分から全く外部に行かなかったので成長できてないんだと思う。
根本的な原因としては「甘やかすことと優しくすることの違いが分かってない」=「自分がない」なんでしょうか。
ただしばらく考えてもこれを解決する方法が分からない。でも今まで頭でっかちで失敗してきたのは確か。なので今までの沈考から趣向を変え、トライアンドエラーを繰り返す方式で他人と関わろうと思う。
大学生になる人、俺みたいに「人間関係しんどいから一人でいるぞ!」って逃げずに自分から人を見つけに行け、めちゃくちゃ遠回りすることになるから。
・で、将来どうするのか
明確には決められていない。決めたことは、
2.キャリセンなりガクチカ講座なり行って、相変わらず涙目になりながら自己PRの文章を助けを得つつ書く。
(3.橋にも棒にもひっかからなくて全滅したら、大学に推薦があるか聞きにいったり、お金ためて来年の公務員試験を狙ったりする。)
これで全部。
コメント読んでて確かにそうだなと思ったのは、そもそも文学部選んだのだって、恵まれた環境があって自分で決めたんだろうということ。
もうこれは客観的に見てそうなんだろうけど主観的にはまだ周りを恨む他責思考が抜けきってない。改心するのは時間がかかる。
本好きだなあ、もっと知りたいなあ、文学部行きたいなあ、って思った高校生を周りが尊重してくれた、というのが事実なんだろう。
今「尊重」と書いてて思ったけど、周囲の人たちは「文学部は通用しないと知りながら黙ってた」ではなくて、「周りの忠告も聞こえないぐらいなら尊重してあげよう」と思ったのだろうか。
入学して学業の難しさ、つまり「本好き」だけでは文学研究は成り立たないことを知ったわけだが、学業の入り口の入り口ぐらいには立てたと思うので、本懐を遂げたと言っていいのだろう。
・まとめ
一言で言うと、「恵まれた環境にあぐらをかいている+おそらく価値あることを学んだのだろうが、価値を自分で認めきれない+学んだことの活かし方が分からない+今まで逃げてきたことのしっぺ返しを食らってパニクっている」ですかね。
座学じゃない勉強が足りねえんだわ。
これからどうするかは決められてません。大学三年間ずっと他人との向き合い方を学びませんでしたから、未だに絶望感はあります。
ここからは周りに甘えた上に責任転嫁するのはやめて(そもそも周りの責任じゃなかったような気がしてきたので)、自分の人生ここからは自分で何とかするって気持ちでいたい。
これさ、男の性質のせいだと思われてるみたいだけど、日本とかアジアの一部地域の男がそうなだけじゃないの?
観測範囲の外人男、バトルは好きだけど人間関係大好きだしお喋りだし感情表現ハッキリするし、女より人間好きお喋り好きなんじゃないかみたいな奴多いぞ
言語能力の発達が遅くて、女の子は幼稚園小学校と話をさせるトレーニングが行われてるけど男は女に合わせた段階ではまだ同じことができないから
発達段階に応じた会話トレーニングをされなくて、そのまま受験勉強と仕事を課されるので取り残されてるだけだと思う
外国の高校生男子とよく話すけど、同年代の日本男子よりかなーーーりまともにコミュニケーションできるよ
日本高校男子が不貞腐れてゲームしながら「今ゲームしてるからうるさい」って言ってる横で海外男子は「ママはいつも忙しいから休んでいいんだよ、僕が家事するから」って言ってるし(同い年)
日本男子に話しかけてもゲームの話する以外はイキってるだけか無言(根はいい子)みたいなのばっかりだけど、海外男子は適度に他人に話題を振るし、話しかけるし、他人を気遣うし、人好きでお喋り好きだし、自己開示して意見を言えるし、根だけじゃなくて振る舞いもいい子
こんなのめっちゃ見るで?
若い男は喋んないのがカッコいいみたいな文化が日本にはあるのかな?シャイなだけならいいんだけど、他人に優しい振る舞いをして喋るのは女だけ、男はしないのがかっこいいみたいなのはなんか全然意味わからんし違うと思うで?
優しい振る舞いができなくて気が利かなくてお喋りする能力が低いだけや
しかし現状で結婚して子どもがいて23区内駅歩10分圏内に戸建てを持っている。
運がいいと言っても、宝くじでめっちゃ当たったみたいな極振りではない。
まず運が良かったので顔がそこそこ良い。
・身長が平均未満
・積極性がないので告られ待ち
・無口なので話をふらない
・金払いも悪い(女性とは割り勘)
というデメリットがあってもそこそこモテた。1年に1回くらいは女性から誘ってもらえて2人に1人くらいはそのまま付き合う感じだった。
努力をしないので受験勉強はせず高卒後適当に専門に行って、就職氷河期にも関わらず運よくホワイトな感じの会社に就職した。
その会社がとても運よくそれなりに業績を上げていって、俺はただのお荷物社員だったがほんのちょっとの仕事をしているだけでそれなりにお給料をもらえた。
会社内ではほぼほぼヒマだったのでそれが苦痛だったが、近年テレワークになったので日中は漫画やアニメを見て過ごしている。
子どもは欲しかったので妊活していたが相手に問題があってなかなか産まれなかった。
そのうち妻が30歳を超える頃、もう諦めて家を買うことにした。実家が社宅だったから俺はずっと団地住まいで、戸建てに憧れていたんだ。
3階建とかいう団地みたいな戸建てはクソだと思っていたので2階建てにこだわって探したら築浅の中古物件が運よく出てきた。
妊活に忙しくて妻はパート年収200万になっていたが、俺がそれなりにお給料をもらっていたのと20歳から仕事していて貯金があったのでそれなりに頭金を入れて35年ローンで買えた。
買って引っ越してしばらくしたら妻が妊娠し、そのまま無事に成長し産んでくれた。最近第二子を妊娠したので無事に産めるよう神頼みしてきた。
子どもがいない時に買ったので部屋数にはこだわらなかったが、買った戸建ては運よく4LDKだったので部屋は2人までなら大丈夫そうだ。
当然誘われ待ちだが子どもが産まれる前までは月に1回くらいは誰かと遊びに行っていた。今は子どもを放っていけないので3ヶ月に1回くらい妻にお願いして遊びに行っている。
妻を結婚したと紹介したら仲良くなった友人がいて、その人らは子どもとも遊んでくれる。2ヶ月に1回くらい家まで来て子どもと遊びつつ談笑して帰っていく。気のいい奴らだ。
子どもももう5歳なのに産まれた時からの付き合いなのでめっちゃ懐いている。友人が来る日は駅まで迎えに行ってはしゃいでいるくらいだ。
なお、この運の良さなら俺行けるんじゃね?と思っていくつかの個別株に手を出したところ、上がっても下がっても売り時がまったくわからず死蔵することになった。
1回、なんかの株がめっちゃ上がった時やったぜと思って売ったらまだまだ上がってありゃーと思ったんだ。
それ以外の株は今は買った時より下がってるか微増程度なので、運ではなく才能の世界なんだろう。
くどいほど多い
章とか節、ひとつひとつの終わりに必ずくどいぐらいの練習問題がある
あと、巻末とか別冊で大量の練習問題がある
原因が前者だけの人は単なる誤解や偏見なので損するわけだよ。
だって、受験勉強とか、スポーツで言うなら野球とかで特待生になるのと同じで、
社会に出て仕事で受験勉強や野球が役立たないとしても、社会的評価にはつながるわけで、
いわゆる学校の勉強、受験勉強も朝練があって、自主練があって、ひたすら身体にしみこむまで練習する、
練習すれば比例して勉強もスポーツも成績が上がり、社会的に評価されるんだから、
できない原因が後者の場合もあるけど、それはやってみないと分からないわけで、
逆に言えば、スポーツも勉強もできない、という人は理解できる気がする
それはどちらか一方が本質的に向いてないから、もう片方もできない
つまり、守破離の守の段階で、こんなことやって何になるの?と疑問を持ってしまう、投げ出してしまうとか、
あと、思い返すと、これが根本的に誤解を生む原因のひとつなんだと思うんだけど、
いわゆる「学校の教師」という人たちが、このことを理解できてない
というか、スポーツの方はスパルタというか、叩き込むべきだとは思ってる
しかし、学校の教師は、いわゆる学校の勉強、受験勉強も最初は叩き込むべきだと思ってない