はてなキーワード: 受験勉強とは
昨日の投稿なんだけどさ
高校選び間違えたっていうのがまさにこれの高さが仇になったんだよね。
早とちりして高校で専門科入ったけど微妙に都市部だから偏差値も低く出るし惰性で入った人ばっかりで困った。
大学で専攻すりゃいいじゃんって思うけど親の問題で大学行けるかどうか分かんなかったから折衷案を取った。
だけど転校したら奨学金と指定校推薦受けられるようになったので進学自体は出来た。
でも希望は上京したかったというのもあるので都内大学に編入してサークル作った。
今は中退してオンライン予備校で受験勉強している。再々受験になる。
浪人も当時許されてなかったので仕方ない。
貧困の連鎖から抜け出すにはとにかく勉強しろ。勉強して、良い大学を出ろ。古い価値観かもしれんが、学歴はないよりあったほうがいい。
学費免除や大学寮を利用すれば、バイトと少しの仕送り、出来れば避けたいが奨学金でどうにかなる。
それなりの進学校には入っておいた方がいいぞ。
ちなみに、予備校は近道なだけで、必ずしも通う必要はない。学校と教師を存分に利用しろ。
1つ目は、一年生の段階で担任に相談しておくこと。これが一番大切だったりする。
家の財政状況、進学の希望など包み隠さず伝えておけ。ハズレの担任でない限り、力の限り手助けをしてくれるはずだ。
もしハズレだった場合、誰でもいいから信頼できそうな教師に相談しろ。そうすることで学年の教師間で情報の共有ができ、対応できる。
分からないことがあったらその日のうち、最低でも一週間以内に質問に行け。担当の説明が分からなければ、他の教師に聞いてもいい。
とにかく分からないことを放置するな。後で取り返すには何倍もの労力と時間がかかる。
また、ある程度の進学校ならそれなりに課題が出るはずだ。答えを写して提出するような真似だけはするな。課題のテキストは良質なものが多いので、一年間真面目に取り組めば学力は伸びる。
土日は基本休みで、平日2時間程度の活動をしている部活がおすすめだ。家庭状況が許せばだが。
週一部活で学力が伸びるのは、強い意志と意識がある生徒か、元々学力が高い生徒だけだ。人間とは堕落する生き物なため、時間があるとやるべきことを後回しにしてしまう。制約があった方が学習習慣が身につき、学力は高まると思う。
4つ目は、学習習慣を身につけておくこと。
学習習慣といっても、大袈裟なことはしなくていい。出された課題に取り組み、小テストの勉強は前の日にやっておく。この程度でいい。その調子で定期テストの勉強もやれば、成績はそれなりにとれるはずだ。
この積み重ねが、いざ受験勉強になった時に生きてくる。習慣は一朝一夕では身に付かない。
なっがい愚痴です。吐き出せばすっきりするかなって思ったので、ここならいいだろっていう精神で吐き出します。
思えば幼稚園児のころから、帰ってきたら弁当を流しに出せだとか、園服を洗濯かごに入れろだとか、細かい面倒くさいことがこなせない人間だった。そんなに困っていたわけじゃなかったし、みんなこんなもんだろと思って何も考えてはいなかった。
本格的に困り始めたのは、小学校に入ってすぐのころ。宿題は全くこなせない、親へのプリントは出さない。やること全部がちんたらしてて、毎回怒られる。
学校の授業でプリントをやりましょうと言われたら、ぜんぜん終わらない。それで宿題になる。宿題の量が増える。もっとやりたくなくなる。宿題をやらない。明日の宿題になる。ずっと負の連鎖。
提出物が出せないと黒板に名前を貼られる。それで毎回帰りの会になると、名前をひとつづつ先生が読み上げる。先生の機嫌が悪い時は、出せてない人はその場に立たされて、ひたすら詰められる。それが怖くて仕方ない。「いつだすの?」「いつまで待てばいいの?」先生にさんざん言われて、帰りの会が大嫌いだった。
もちろん帰ったら親に怒られる。宿題をやれってずっと言われる。そりゃやらずに遊んでるんだから当たり前だけど。
でも、言ってくれるだけましなもんだったと、今ならいえる。低学年の頃は、何度も親に言われてやっとその日の宿題を終わらせた。たまに忘れていったけど。
そんな人間だったが、テストの点は悪くないし、騒いだりしなかったし、自分でいうのもなんだが割とフレンドリーなタイプだったので、学校での評価は「真面目な子」だった。周りの友達からもそんな感じの扱いだったのがなんとなくわかる。学校には毎日行ってた。
小3、そして小4。なぜか、プリントの問題を解くのが早くなって、優秀な奴扱いになった。結構気持ちよかった。
このころの記憶はあんまりない。なんでかはわからない。ただ、同じクラスの女の子が頭おかしいくらいメンヘラで(それは覚えてる)、母や友達いわくそいつにいじめられてたらしい。自分は全く記憶にない。
記憶ないけど、たぶん宿題はいやいややってた。担任の先生が変わったから、黒板に名前ドンの立たせて詰めまくり拷問はなくなった。それが楽だった。
反抗期はここら辺から小6がピークだった。結構えぐかった。風呂で自分の母親が声出して泣いてるのを見たとき、どうしようもない気持ちになった。それはずっと覚えてるし、たぶんこれからも忘れない。
この反抗期を機に、親が宿題に何も言わなくなった。学校はたぶんまともに行ってた。
最大の問題が起きたのは、小5の夏休み。宿題が終わらなかったのだ。今まで真面目キャラでやってきてた自分にとって、これは一大事。夏休みの宿題を出せないとなれば、まわりからは「お前何やってんの?(笑)」と言われ、「こいつさぼり魔(笑)」と陰でニヤニヤされるに違いない!今までにない危機感を感じた。
さて机を見る。残っているのは、読書感想文と、福祉のポスター。あと、ワークも少し...つまり、ぜんぜん終わらなかったのである。ちなみに、夏休みは何をしていたかというと、ゲーム、それからぼーっとすること。
ゲームが大好きというわけでもないが、簡単に宿題を忘れて遊べるので気に入っていた。
それで、最終的にどう決断したかというと、休んだ。ひたすら布団に引きこもって、親の声を無視した。部屋の惨状を見れば、どうして行きたくないのかくらいだれでもわかるような感じだったと思う。
まあ、その日は何とか休めた。
次の日は、ポスターだけ終わらせて行った。そうやって何とかちまちま先延ばしして、なんとか全部出し切った。
しかし、私の脳はその味を覚えてしまった。宿題ができなければ、休めばいいと。
それからは、宿題が終わらなければひたすら休みまくった。親ももちろんただじゃおかなくて、髪引っ張り回して学校連れてかれたこともあった。でもとにかく休んだ。
たまにどうしても無理だと悟ったら、保健室に逃げ込んだ。お腹が痛いって言ってベッドでゴロンゴロンしてた。
思春期真っ盛りだったからか、メンヘラ化が異常になった。当時好きだった奴がいたんだが、そいつが男女問わず誰かとは話すだけで異常に嫉妬した。(幼稚園のころから生活が苦になるほど嫉妬には悩んでたけど、だれにも相談できないままだった)それを理由に休んだこともあった。親にはお腹が痛いとだけ伝えた。
公立のただの小学校だったので、成績優秀でそのまま卒業した。小学校は割と提出物を出さなくても何とかなる。
あと小学校生活を振り返って、体育がどうしても嫌いだった。というかできなかった。周りからは笑われるし、役立たず係だし、チーム競技はクラスのカースト上位に嫌われてた子と一緒に二人ではぶられてた。別にその子のことは自分は嫌いじゃなかったけど、はぶられてるっていうのが嫌で仕方なかった。最後のほうの体育は、腹痛い作戦で休んでた。
そして中学1年生。
つらかった。何がつらかったかって、部活がつらくて仕方なかった。部活の内容自体は大好きだったけれど、放課後も休みの日もいつもちゃんと集合して、ちゃんとやるってのができなかった。それを見越して、超ゆるゆる運動部に入ったが、それでも全然続かなかった。一日学校で勉強するだけで精一杯なんだよ。部活選びに全力で失敗したと思った。毎週毎回のように休んだ。でも、変なプライドが邪魔して、転部出来なくて、結末を言うと中2の冬に完全幽霊部員化した。
メンヘラ化がいよいよヤバいことになってきた。息ができない。何をしていても苦しくてつらい。それを理由に何度か休んだ。
宿題がいよいよ終わらなくなってきた。学校で終わらせることで何とか解決した。実際、毎日出る宿題は小学校と比べて少なかったから、学校でやっても割と楽勝だった。
困ったのは定期テストだった。全く終わらない。体が動かない。毎回前日近くになって、ワーク開いて答えを映して、それじゃ到底間に合わない。先生に謝って、なんとかやってた。
テストの点は悪くなかったので、成績はまあまあ良かった。
中学2年生の時に、自分の中でつらかったものが爆発した。それから学校に行けなくなった。
メンヘラ化によるストレスが限界点に達した。定期テストで思った通りに勉強できないことで、自分にイライラした。体育の授業も、もう出たくなかった。できないから。
内申点もがた落ちした。テストだけ受けた。下から3番目だった。もう何もやる気が起きなかった。でも行きたい高校もなかったし、それでいいやって思った。
毎日自分に失望し続けた。情けない自分と目が合うのが嫌だった。
周りはつらくても頑張ってる。自分が恥ずかしくて、だれとも目を合わせたくなかった。
でも、休んでたおかげで好きなことがみつかった。これだけ落ちぶれたので、全体はプラスかマイナスかと言えば完全にマイナスだが...
中学3年生、今年は絶対頑張るって思った。春から毎日教室に行った。
内申のためにひたすら頑張った。提出物は相変わらず終わらないので、全力で謝罪して(それをすれば評価がよくなるかどうかは知らないが...)、なるべく全力でやり続けた。
あと、行きたい高校がみつかった。自分にはこの学校しかないと思うくらい、自分の希望にぴったり合った高校。
将来の夢と、自分のやりたいことと、全部かなえてくれるのはここしかないと思った。周りに聞いても、今自分で調べても、ここよりいい学校は見つからない。ここに入れなくて、別の高校で妥協するなら死のうと思うくらい(本当に死ねはしないだろうけど)。
中学3年生の1学期は、自分なりに全力で頑張った。テストの点は見違えるほど回復したし、内申も上がった。
でも、1学期の定期テストが終わって、もう学校には行きたくないと思った。これ以上頑張りたくないと思った。テストが終わった次の授業で、「この授業は2学期の内申に入ります」って言った。その時にぷつんって切れた。いつ休めばいいのかわからない。ずっと苦しいまま。
みんなそうってわかってるつもり。だからこそ、自分だけできないって余計につらい気持ちになる。(もちろん不登校が自分だけなわけではないが)
メンヘラ化も治らなかった。死にたくて苦しいままだった。
中2は休んでた体でいきなり全力出してうまくいくはずもなく、元々体力なかったのもあって、いろいろ限界だった。
2学期、学校に行かなくなった。もう何もかも終わりだと思った。毎日、「今日休んだらもう取り返しがつかない」って思いながら休んだ。
志望校にはまだ行きたいって思ってたけど、自分じゃ入学しても無理だと思った。
でも行きたくて、でもだめでっていう気持ちにはさまれて毎日泣いて、悩んで、死にたいって思って、また悩んだ。
周りの大人は全員、不登校受け入れの、私立を進めてくれる。それが最適解だってわかってるが、どうしても志望校があきらめきれない。そのうち、自分の中で周りの人間は自分の夢を応援してくれないクズだと思うようになった。とんでもないと自分でも思うけど、自分は昔からこういう被害妄想の激しい人間だったから仕方ない。
ここまで全部読んでくださった人がいたのなら、その方にはわかると思うが、もちろんこんな奴がまともに受験勉強できるはずがない。そもそも学校に行っていないので、出席日数と内申の関係で普通の人が行く高校に受かるはずがない。志望校行きたい、でも勉強はしない。勉強が嫌いなわけじゃない。でも、勉強しなきゃって思うと、めちゃくちゃ大きい自分からの自分へのプレッシャーが強くかかって、体が動かない。こんな人間社会に出ても何もできないと思って、本当にもう死にたい。周りがうらやましい。みんなできるのがうらやましい。ならやればいい。でもできない。
それが今。何もできないまま、何も進まないまま、何も決められないまま、今になってずっと過去を後悔し続ける。
言いたいこととりあえずほとんどかけたと思います。書いてたらすっきりしたようなしなかったような気がします。まあ、要は受験のストレスです。
こんなことに時間使ってる間に勉強すればいいって言われるのが目に見えているので、これはここら辺にして今日は勉強します。
もし読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました。
若い頃に童貞で独身であることに苦しんだ非モテ男としては、結婚して子供を持つと男らしさから降りられて苦しみが無くなった。
一人娘が生まれてもうこれ以上子供を持たないと妻と決めた時に「ああ、もう無理して頑張らなくていいんだ」ととても安心した。
妻子を捨てて今は気楽な独身生活というわけではない。逆に妻は専業主婦(子供の手が離れたら働くと言っているが)で生活費は全て僕が出しているのが現状。
そんな夫や父としての典型的な男性ジェンダーロールを引き受けておいて「男らしさから降りた」と僕が言っているのは意味不明に聞こえるかも知れないけど、僕にとっての男らしさとは「無理して女にモテる振る舞いをする」ことだったので。妻子持ちになってそれをやらなくて良くなったという意味だ。
妻と結婚して子供が生まれた時点で僕はもう男から降りている。これ以上モテる必要は無いし、寝た女の数で他の男と競う気も無い。同年代の男が恋人や所帯を持っているのを見て劣等感で苦しむことも無い。
家父長として、妻に言うことを聞かせたり、娘を指導して自分の望むように育てたりしたい、なんてマッチョな願望も無い。娘は完全に僕に寄生するニートにさえならなければ、独身実家暮らしでも、家を出て生活保護でも、本人の好きにすれば良い。本人の人生だ。
会社で働き続けることは僕にとっては自然なことで無理して引き受けた男らしさではない(独身のままでも働き続けていたに違いない)。働き続けた結果として今そこそこの稼ぎがあるから、妻子を養っているだけに過ぎない。
仮に僕が病気になったりリストラされたりして収入が激減したら、妻には「扶養の範囲ではなくフルタイムで働いてくれ」、娘には「大学は奨学金とバイトで通ってくれ」と言うと思う。
妻子を養うのは男の義務と気負って収入を維持するために、長時間・重労働の仕事を探したり、リスクの高い起業をしたり、そんな無理を僕はしないだろう。余生を気楽に過ごす。
生活レベルが落ちて働く苦労が増えて妻が不満を抱いても、娘の進路の選択が狭まっても僕の責任ではない。
別に妻が悪妻で憎んでいるとか娘に愛情が無いとかではない。妻はできた女性だと思うし、娘は可愛い。ただ彼女たちの人生に対して僕の責任は無いというだけ。
とても気楽だ。
二十代の終わり頃に「このまま童貞だったら俺は狂って通り魔殺人犯になってしまうかもしれん!」と身体の中から衝き上げるような焦りを感じて、それまで嫌いで苦手で逃げてきた女性にモテる装いや振る舞いを身に付ける努力を始めて恋愛市場に飛び込んだ。
勉強が嫌いで苦手で逃げていた人が「このまま高卒の肉体労働者を続けていたら、いずれ若さを失って稼ぎが減って貧困に落ち込むかもしれん」と危機感を覚えて大学入学や資格取得からのキャリアチェンジを目指す感じだろうか。
娘が生まれた少し後にデートで着ていた勝負服をゴミに出した。大学合格後にもう二度と読み返さないであろう文系科目の参考書を紐で縛ってゴミ捨て場に投げ込んだ時のような爽快感があった。
今の僕の格好は家の中でも外でもポケットのたくさん付いた作業着(外出時に財布やスマホやモバイルバッテリーを忘れがちなので常にポケットに入れてる)で髪型は1100円カットのスポーツ刈りだ。
誰もこんな見た目のオッサンを咎めない。女の子に相手にされなくても気にならない。
万が一お節介な人が「どうしてそんな安くてダサい格好してるの? オッサンでも少しは身なりに気を遣えば?」と聞いてきたら「いやあ、娘がこれからお金がかかる年齢なので節約生活ですわ」と返せばいい。
もちろん嘘だ。僕は経済的で合理的で身体的にも快適な今の自分の格好を気に入っている。昔は女と会う時は嫌々ながら店員の言いなりに買った勝負服を着て美容室で髪を切っていた。今も昔もそういう格好は嫌いだった。就活の面接に仕方なくスーツとネクタイで臨むようなものだ。
仕事でも、朝から今日は残業したくない気分の時は「悪いけど今日は夜に娘の用事に付き合わないといけないから」とでっち上げて定時に上がれる。仕事で無理をしない口実にも使える妻子持ちというステータスはとてもありがたい。
休日出勤に対しても家族サービスを名目に断るオプションを持てる。実際の休日の僕は「持ち帰りの仕事があるから夕食まで声かけないで」と妻と娘に言っておいて、半分仕事をしつつ、半分は今やってるようにネットをダラダラ眺めていたりするのだが。
非モテにとって恋愛や婚活は受験勉強や就活のような苦行なのは間違い無い。でも、若い時に人生のほんの一時期を耐えて所帯を持てば後は楽になれる。男らしさから降りられる。その後の人生で無理をする必要が無くなる。
「男らしさから降りる」という話題では、僕のような体験に基づく意見を見かけなかったので、昔の僕のような童貞・独身に苦しむ非モテ男が救われる方法の一つとして必要な人に届くと嬉しい。
前回 https://anond.hatelabo.jp/20211124015201#tb
絵心がなければ、絵の道は行き詰まる。
文才も想像力もなければ、筆の道は行き詰まる。
反射神経も動体視力もなければ、ゲームを遊ぶことさえ行き詰まる。
プログラミングは、書けば動く。
コピペして、繋いで、くり抜いて、入れ込んで、数字を弄り、エラーコードに従えば、そのうち形になる。
広がりだしたインターネットの海が見せる可能性、巷に溢れる比較的できの良い教材たち、才能のない者たちでさえ「なれるよ」と道を示される。
善意でその道は敷き詰められていた。
市販ゲームを分析してそれっぽいコピーを作って楽しむゲーム製作をするオタク。
この両者である。
とはいえ最近のゲームと漫画の話ができればなんとなく流れには乗れた。
むしろ、流行りのドラマだったり音楽だったりに対して今で言う『リア充』のような匂いを感じてアレルギーを感じているだけの偏食者の集いだったのだろう。
私はその中で、少しずつプログラムを学んでいった。
何かを作りたいと思って手持ちのコードを組み合わせようとしだすと途端にその闇の深さが見えた。
それでも、漠然と「これが将来の自分の仕事になる」と思っていた私は必死にゲームを作ろうともがき続けた。
エスカレーターで上がった高校に上がってそっちではプログラム部という名前になっていたゲーム研究会に入った。
4年目、流石に間に合った。
間に合ったが、先輩の作ったゲームのコードを弄って、他のゲームから持ってきた要素を組み込んだだけのバッタもんだった。
なぜ4年もかけてこんなことになったのか?
答えは明白だ。
途中からゲームを作ろうという気持ちが折れて、ゲームをやるだけの人になっていたからだ。
それは正しかった。
当たり判定のプログラミングを自分で書いてからは当たり判定が見えるようになっていた。
これやると多分バグるなと思って試してみて実際にバグったのを見て「手抜きだな」と呆れたりもした。
そういったことが出来たからと行って、それが自分のゲームづくりには活かせなかった。
努力の才能と、努力以外の才能、その両方が恐らく足りなかったのだろう。
「俺にゲーム作りは無理だ……」
そこはベッドタウンであることだけが取り柄のしがない町であった。
しいて特産品を挙げるのならのなら、現代の価値基準で言えば圧倒的な勝ち組家庭がモーレツに嵐を呼びがちな国民的アニメぐらいである。
私はそんな都心に近いことだけが拠り所のそこで、そのアニメの主人公たちからは1回りぐらい下の家庭に産まれた。
十二分な中流であった。
私を産んだ時に既に母は40を超えていて、父はそこから更に2歳ほど年を取っていた。
両親の性格は今で言えば大人の発達障害、その血をかけあわせて出産適齢期を過ぎた母体から世界に飛び出した私は、当然のように見えざる発達障害を抱えていた。
物心ついた頃、テレビで見た自閉症特集で「自分はこれをギリギリ回避しただけなのだ」と子供心に嫌というほど感じたものだ。
発達障害からくる情緒不安定、また生まれつきの運動音痴とリズム感の無さが幼少期の私を苦しめた。
せめて産まれたのが3月でなければ……。
持って産まれた才能と産まれた時期によって本能レベルの優劣を植え付けられた幼稚園時代、思い出せる記憶はおゆうぎ会で失敗した結果泣き出して最後には小便を漏らしたことだけだ。
他の記憶はどうでもいいものと辛いものしかないので忘れてしまったが、一番辛い記憶は忘れきることが出来ていない。
小学校に上がってからは、持ち前のコミュニケーション不全と癇癪持ちにより友人を作りかけては次々に失っていった。
ただ、両親が共働きの鍵っ子で、ゲームや玩具だけは持っていたため、それを目当てに厚かましい連中によく家を遊び場にされていたことを覚えている。
私にとって人と一緒に遊ぶことは食い物にされることだった。
結局彼らとの間に友情が芽生えることもなく、クラスで班分けがあると決まって彼らは本当の友人たちと群れあい、私は余り物のグループにいた。
同じグループにいる者たちは、今思えば全員が発達障害だったのだろう。
その顔つきは目がつり上がってこそいないが、うっすら自閉の色に染まっている。
スポーツは苦手だった。
ゲームも自分で遊んでも家をたまり場にしている連中よりうまく出来ないことにイライラしがちだった。
それで暗記が好きな子供だと勘違いされたのか、学校の教師は私に自信をつけさせようとよく電車や動物の名前を答えさせようとしたが、私は物についた名前に興味はなかった。
科学や論理に基づいてどういう事が起きているのかが好きだったのだ。
その理由は結局の所、生まれつき物覚えが悪い自分でも、名前を覚えなくても概念だったら分かるし、テストで出るときも穴埋めの周りにヒントが沢山あるので昔の偉人の名前なんかよりはずっと覚えやすいと感じたからだろう。
私の中にただ一つ人より出来ると感じられるものがいつの間にか産まれていた。
そんな私を見て、両親は中学受験を勧めた。
勉強が好きだと思ったのだろう。
新しい環境で、勉強の好きな同級生と一緒になれば、自閉症じみた我が子にもちゃんとした友達が出来ると信じた両親は、私を塾に通わせることにした。
塾に通うことの条件として私は大嫌いだったスイミングスクールと習字教室を辞めることを提案した。
取引は成立した。
それから私は受験勉強をそれなりに頑張り、それなりに手を抜き、結局暗記が得意でないことで躓き、志望校から2段階落ちる滑り止めの私立に入学した。
中学受験の勉強どころか学校の授業さえ本当に真面目にやっていれば受かれるような学校だったが、親戚や両親は私を賢いと褒めてくれた。
私だけが、自分がいかに努力しておらず、そもそも勉強自体も苦手なのかを思い知らされていた。
そして、同じく受験勉強をする塾の同級生を見ているうちに、自分が得意げにしていた「記憶力が足りない代わりとしての理解力」というも、実際は大したことがないことを嫌というほど分かっていた。
我が子を無事私立へと送り出したと胸を撫で下ろす両親とは裏腹に、私は自分という人間の程度を思い知らされた烙印としてその学校の制服へと袖を通した。
米国に駐在して3年が経つが、英語でのコミュニケーションがいまだにうまくできない。
一対一ならなんとか意思疎通 ができるが、ネイティブ同士の会話に入ると地蔵と化してしまう。
英語の勉強を始めたのは中学進学時から、冗長な授業が苦手で英語だけはテストで平均点に至らなかった。
高校に進学しても英語はだめで、高卒で就職しようと思っていた。それでも、なんとなく受験勉強を高2の終わりくらいから始めて、単語を1000個ほど覚えたら世界が変わった。長文が読めるようになったのだ。結果としてセンター試験の筆記では8割、リスニングで4割くらいをとって大学には進学できた。取り組んだ学習は単語の暗記(ターゲット)と長文読解(かたっぱしからやった)のみ。
大学進学後は英語を勉強する必要が全くなかったので、のびのびと暮らしていたが、ゼミで強制的に受けさせられたTOEICで400点前半を叩き出し、600点をとらなきゃ卒業させないと言われ絶望する。文法特急シリーズに愚直に打ち込みなんとか600点を達成し、卒業・就職。取り組んだ学習は文法練習とその音声を聞きまくるのみ。
就職先は英語に関わることが無いよう、国内でのみ事業展開をしている会社にしたが、私が入社した年から海外事業部ができ、そこへ配属される。TOEICは600点でも社内では高い方らしく、1年後の海外駐在を匂わされ、英会話教室へ。英会話教室では南アフリカ人から来た先生とテキストに沿って学習するも成果を実感できず。(週一度 3か月 15万円くらいだったか。。。) 程なくして米国のビザ申請にIELTSという英語テストの点数が必要だと言われ、死ぬ気で勉強を始める。(のちにデマだったとわかる。) 勉強内容は王道のオンライン英会話 笑。
予定通り?一年後に米国駐在に。出国前に受けたTOEICは800点を超えており、謎の自信をもって現地へ。しかしながら、会話ができるはずもなく、オフィスの隅で静かにする日々が現在まで3年続く。学習はオンライン英会話と現地での積極的なコミュニケーション 笑
これまでの英語の学習遍歴を見て改めて思うのは、能動的に英語の勉強をしていないこと。外国人と話したいとか英語のコンテンツを翻訳なしで味わいたいとか、そういう動機がまったくないこと。というかそもそも他人と関わるのが大して好きではないのだ。休みの日はベッドの上から動きたくないし、コロナ禍で外出ができなくても全く困らない。
上記のような性格だからコミュニケーションの能力が元から低いのだろう(因果が逆かもしれないが)。思い返せば日本語の聞き取りもかなり怪しく、半分以上を知識から補っている気がするし、複数人で話していると脳がパンクする。センター試験やTOEICで点数が稼げるのは低いコミュニケーション能力をテクニックや他の機能で補えるからだろう。
こんな感じの私の英語学習履歴だが、『米国駐在経験あり』という看板が新たに追加されてしまった。もう逃げることはできないと覚悟して学習を続けるしかないのか。。。