はてなキーワード: 些末なとは
活動家憎しというのとは違うけど、例の記者会見で流れが変わってしまった気はするな。
議員会館を野党議員が借りて、左派メディアに質問させて、弁護士がぞろぞろ出てきて提訴を発表する。
野党とメディアといったら、地方の些末な国有地売却失敗を政局にまで持ち込むことのできる凄まじい火力を持ってる二大権力だから、
捉え方にいろんなスタンスの人がいて、一言に「擁護側」「批判側」としても互いに違和感が嫌悪感になりそして憎悪分断になるだけかなーと。
ただ一般化できるほど自分も見識があるわけじゃないので、とりあえず自分の捉え方をリスト・言語化してみようかなと。
まあ、自分がすっきりするためだけに書いてるんだが。これって私の感想ですよね。
まずタイトルをリストして、その後それぞれについて書くという流れで。
「そこに行けば飯にありつける」という支援の仕方は良い者かなと思う。
更生とかうるせぇよビルとか入って受付とか嫌だ、みたいな人を拾うという意味で。炊き出しと同じね。
その上で話しやすいようにするってのもいいと思う。
ただ弱者の区分が性別ってのはちょっとどうなんだとは思う。これ最初強めに思ってたが、例えばバスケ奨学生やってるイノタケに「ハンドボールは救わないのか!」って言うのも筋が違うなと思うので、ある程度はしゃーないのかなと。性別による区分けは男子校女子校の例もあるし。
ただしもし「女はみな弱者で男はみな弱者ではない」みたいな論法に持っていくならそれは全然承服しません。「加害性」とかいう言葉で加害してくるなら否定します。
これはシンプルに。あと誹謗中傷する奴とか。それが代表向けであれ暇向けであれ被支援者向けであれ、クソである。
まあそういう連中こそ「助けたくない顔をしている救うべき弱者」かもしれないけどね。知らんけど。
私が目をつぶっているような弱者を支援してくれる人々がちょっとザルい会計してる、とかは正直別に良くね?って思う。
もちろん、今批判的な見方をしている人々が公金の使われ方に関する会計の重要性を見ているのは分かるしだからこそ納税者への説明は不可欠であることは分かるが、自分は本質的には些末な問題と考えている。
自分は「政治家が不倫したからなに?政治に関係ないだろ」と思うタイプの人間なので、意味のある事をしている人たちが多少ダメなとこあっても別に良くね?と思う。
ただし。仮に2桁万超えるような金をポッケナイナイしているようなクソオブザイヤーみたいなのがいるならその限りではない。それは「【目的】が真実」でないことを示すからだ。
「【目的】が真実なら」というのはそういうことで、後述するがそれが金でなく政治的主張であってもクソオブザセンチュリー。
だからさっさとごめんなさいして、サボってた領収書関連をかき集めて、ない分はキチンと説明して、再発防止の説明をしましょう。
てかそれで大半の人(「公金の使い方ちゃんとしろ!」の人)は引いていくよ。残った連中はそれころ「暇アノン」と定義しちゃえば後は収まる。だって目に見えて批判する余地があるのはそこだけだからね。なぜしない。
今金払って雇ってる会計士?だかなんだかいるんであれば、引責辞任とかしてもらったほうがよいのでは。
あとは任命責任?とかいうよくわからない責任があると思うならその辺引責していただいて範を示していただいて。
自分は任命責任なんてどうでもいい派だけどね。あ、インチキ任命は別ね。利益供与とか。
代表の人、行動力があるとかはとてもいいと思うし実際に形にするってのは素晴らしいことだと思う。
それはなかなかできることじゃないし、いろいろ味方やコネクションを作ってやるのに細かいことや言い方を気にせずやっていく必要があるのはスゲー分かる。
ただ継続していく、ってのは団体の中だけでなく外部に向けてもある程度気にしなきゃいけない。
スパイシーな物言いもしてもいいんだけどその場合はより根拠をしっかり持たないと、継続していくってのは継続的にいろんな目にレビューされることを意味するわけ。
そういう意味で、雑に火付けする印象のこの代表の人は、団体の継続は苦手なんじゃないかと思っている。
立ち上げと継続で人が変わるってのはプロジェクトではよくある話なので、支援がやりづらくならないためにも継続が得意な人に交代したらどうだろうか?
もしくはせめて「お目付け役」を付けるか。代表を利用したり代表の信者だったりするような人でなく、弱者支援というところを純粋に共感して見れる人。
立ち上がって運用に入ったプロジェクトは、もはや私物ではない。利用者を一番に考えた采配が必要。
完全に関わりを絶つ必要はないけど、権力は持たないようにする。後任があまりにも頼ってくるなら、キチンと独り立ちできるようにしないと。
なんか被支援者をどこどこに連れてった、誰誰のお手伝いさせた、みたいな話も聞くけど、こういうのやめよう。代表や運営は与える側、強者になっている。
希望するからと言っても、少し呼びかけとかしてるなら「いかなきゃかな」とかなるわけ。
なんなら相手から言ってきても「御恩いただいてるから奉公しなきゃ」という思いかもしれない。(ちょっと話題になった「恩知らず」もいるだろうが、そればかりではないでしょ)
弱者支援という【目的】があるなら、それを利用するのは自身の信条を汚すことになってるよ。
逆にそういう活動に参加することを目的として支援に近づいてくる輩まで出てくる。そうなるといよいよ【目的】が果たせなくなる。
よく「○○の関係者は△△に参加しないでください」というのがあって、「行きたいのになんでいけないんだ~私は私なのに理不尽!」みたいなルールあることあるけど、そういうのには意味があるんだよね。
団体の運営ってそれくらい慎重なところを持たないといけない、【目的】を果たすなら。
自分の持つ【別の目的】にそれを利用しようという思いがもしあるのなら、それはやめてください。ついでやら相手から言ってきた、でもダメです。権力勾配による「強制性」がそこにあるからね。
動機が嫌悪や個人的体験なのは全然いいけど、それを「復讐の道具」にするならクソ。「被支援者が救われることのみが私の復讐なのだ」であれば、それは良い発散の仕方だとは思うがね。
温泉むすめとか根拠薄弱なお気持ちを社会問題とか大げさなことを言ったり、室井佑月とかどう考えてもちゃんと謝るべきところ謝んなかったり。
室井氏の件はせめて「誤解を与えたのであれば謝ります」と言えばまだマシなんだが、その言葉をポイズニングしているゆえにそれより悪手の「謝らない」を実行するのが本当にクソなんだよね。しかも「意図的に攻撃されてる」みたいにして。少なくとも室井氏に関してはお前謝る立場だろ。炎上にかこつけて攻撃してくるやつらに関しては批判すべきだが、それはお前が火付けした後の大衆に対してもやれ。主に性嫌悪の連中だよ。そこに関してだけは、暇の態度を見習え。
でこれなんだが、こういう代表の活動とか被支援者の弱者性を利用して政治の話につなげていこうという〇モいジジババがいるなら、本当に心底軽蔑する。
ハッキリ言ってやってることが高須署名と同じレベルだし、もし仮にそういう「畑」を作るために弱者支援を利用しているのだとしたら、もっと最悪、クソオブザヒューマン、真の悪。
弱者はどこまでいっても利用される。弱者性の搾取、女性性の搾取という意味では「性的搾取」とも言える。
共産党だか自民党だか立憲だか知らんが、そういうのがいるとしたら本当に心底マジで悪だよ。
支援の役得みたいに考えてるなら、本当に滅んでくれないかな。まだ被支援者に合意の上で肉体関係を持つ支援者の方がマシ(後者は更迭されるけど、前者の方が自分的にはクソなのに野放しなんだよな)。
それでいて被害者ムーブして、もしそういう利用してるならほんと呪われるぞ。自分の心にまで嘘ついて自分まで洗脳しても、おてんとうさまは見てるからな。
正直ここまで届かずに終わる前に、本当はここが実際どうなのか、というところには届いてほしい。仮にコラボと代表だけ切り捨てられるとかされてここがグレーのままになるなら全然納得いかない。
まあ暇のベースは私怨なので、彼女の切り捨てまでいけばOKなのかもしれないが。自分的にはもはや代表はどうでもよくて、そういう背景をはっきりさせてほしいと思っている。
非常に難しい部分だけど、謝らないことで注目が残り続けているこの問題で会計について詳細に確認する中で、万が一その金の流れからそこが「炙り出される」もしくは「全くの妄想の陰謀論である」ことが分かれば、それが一番いいなと思う。
これ「人は死のうと思えば死ねる」をもったいぶった言い方にしただけでなんの反論にもなってないけど?
はい。私の元々の主張を曲解されないよう懇切丁寧に言い換えました。それを改めて提示する事で、この元々の意見に対する「成功率の低い自殺方法も存在する」という反論がいかに的外れであるかを理解して頂きたかった次第です。
>一番大事な結果の部分が同じなら安楽死にこだわらなくても良いんじゃないの」という話をしていたの。
→だからぁ、結果は同じでも苦痛と成功率の問題があるから安楽死という概念があるってわからない??何度も言うけどお前は妄想だけで語ってるから無意識のうちにその辺の問題を軽視してトンチキな結論に至るんだよ
「結果は同じでも苦痛と成功率の問題があるから安楽死という概念がある」という意見は「自殺は苦痛から逃れられない。ゆえにその苦痛を減らす事が安楽死の意義である」とほぼ同義だと思います。「成功率が考慮されていない」といった些末な揚げ足取りはご遠慮頂けますと幸いです。あなたの主張を理解した上で、この場においてそれは的外れだと申し上げました。
>それに対して「自殺は苦痛から逃れられない。ゆえにその苦痛を減らす事が安楽死の意義である」っていうのはちょっと論点が離れてんじゃないの。
これこそが安楽死のいちばん重要な論点だろwなんのために「安楽」って付いてんのw あ、電気椅子が安楽死だと思い込むレベルだからしゃーないかw
その主張自体が間違っていると言っているのではなくて、「自殺は結果が最も重要であるという仮定に立つのであれば、安楽死にこだわらず自殺を選べば良いのではないか」という話をしている時の反論としては的外れだ、とという意味です。あなたの反論が持つ機能は「自殺は結果が最も重要である」という「仮定」の部分に異を唱えることですが、その否定を支持する根拠は何ら提示されていない。安楽死もまた自分の意志で死を選ぶという意味での「自殺」に違いなく、であれば仮定から「結果が最も重要になる」であると導き出され、これは「安楽死の意義が過程の苦痛を減らす事にある」という事と矛盾しない。「安楽死は自殺の過程の苦痛を減らす手段であり、かつ死という結果がもたらされる事が最も重要である」という主張は破綻していない。ゆえに反論としては的外れでしょう。
>だからさぁ、「なぜ自殺ではなく安楽死なのか」っていうテーマで「死のうと思えば死ねるという事実はある」から「自殺すればいいんじゃないの」って明らかに何も考えてないじゃん
これは以下の文脈のとおりだと思うんだけど、どこが文脈無視なの???文盲はどちらかな?
>でも死にたきゃ死ねる訳だし、(良い悪いという規範の話はさておき、人は死のうと思えば死ねるという事実はある)悲しまれたり迷惑がられたりネットで叩かれたり勝手に追悼されたりする可能性を踏まえた上で死にたいなら死ねば別に良いと思いますけどね。
方法がなんであれ、人は自殺をすれば迷惑をかける。それが自殺を踏みとどまる一因として考えられる。しかし規範とは別に人は死のうと思えば死ねる事実がある。それを行使しようと思えばできるのだから、人から煙たがれる事を自覚した上でも(あるいはせずとも)行使したければすればよい。という、「個人的な考え」としっかり前置きした私の元々のスタンスです。全体の、人がなぜ安楽死を求めるかという動機に関しての勝手な想像を踏まえて上での結論としてこうあるべき、という規範を提案したという訳ではありません。
これ「は」以下の文脈のとおりだと思うんだけど、ってもう言外に他のがほとんど文脈を無視してるって自分で言ってるじゃないですか。
筋の悪い部分をしっかり無視した切り取りによる無理筋のすり替えの反論、誠にありがとうございました。
人はいきなり喧嘩腰で難癖をつけられたら気分を害されて言葉遣いが悪くもなります。
元増田言ってたのは別の人ですよ。って言っても無駄なんだろうけど。
バカを言い負かそうとして気持ちよくなってやろうと思った私が悪かったです。バカは自分の主張の的外れさに気付けない、あるいは認められない。そして自分の失礼な言葉を撤回する事もしない。そのため、話を切り上げるには私がバカを言い負かすのを諦めて早々に話を切り上げるべきであったところ、大人げなく言い返していたために無駄な時間を使わせてしまいました。大変申し訳ごさいませんでした。
言い争いの結果ブクマが増える事に喜ぶのは良いのですが
「ネット上だけで盛り上がっててメディアで取り上げられない」というあなたの不満点の原因はこうした話題の広がり方にあるのではないかと
海賊版サイトでfakku等によって原本から翻訳されたものが幅を利かせせているので、本来なら原本を買えば済む話なのだが、とにかく日本人側は翻訳版の再翻訳をしなければならない歪んだ状況に立たされているという話になっていた。
そういう話の流れで出たのが双龍の漫画「こういうのがいい」ってどの言語でも訳せなそうだよねという話だった(あえて言い古された「ちんちん亭」には触れない)。
もちろんこれは「こういうのがいい」の翻訳版を謳うものが出た場合は既に元の台詞回しのニュアンスが壊れているはずなので、また原本の日本語自身が独特なので、元の台詞を復元することは困難であるという含みもある。
台詞回しの一例をあげてみよう。
女:ワキガチェックしてくれたまへ
男:剃り残しがございます
女:うむむ…永久脱毛の金を稼がねば…って違うぞ違うぞぉ?臭いはどうなんじゃ
男:…なんか甘いんだが
女:スイーツだと
文章の随所において終助詞など細かく拘られていて、独特のテンポが形成されている。
ただ何より注目すべきなのは、このピンクの美少女が「違うぞぉ?」とか「どうなんじゃ」とか中性的かあるいはどちらかといえば男性的な口調でものを言っていることだろう。
この言語的倒錯が生むチャーミングさといったら一体どう翻訳すれば保存できるのだろうか。
たとえば英語圏にも男性口調とか女性口調の区別は確かにあるのかもしれないが、ただ女性に男性口調に相当する言葉を言わせる「ずらし」でそれは再現可能なのか。
上記の男口調は、俺妹にも拙者が一人称の男言葉を使う女はいるが、あの口調ともまた、それが放たれたときに読み聞きした側が感じる空気感というか味わいといったものが異なると思う。
つまり同じ言語内における言語的倒錯についても、ずらし元とずらし先の違いによってそうしたニュアンスが異なってくるのに、その各ニュアンスを別言語において再現可能なのかということだ。なかなか難しいものがあると直感される。ちなみに現代の女性が「たまえ」というだけでも面白いがそれが「たまへ」と表記されたときの独特の滑稽味もまた再現し難いだろう。
もう一例あげておこう。場面は風呂場の脱衣所で男女が裸になっているという状況だ。
女:ふいータオル貸してー
男:いいよーっておいそれ昨日使ったやつだぞ洗ったのあるよ
女:いいよ別に乾いてるし
女:むっ雄の香り
男:えっ?酸っぱい?お酢?
女:ちゃうオスメスの雄w
やや育ちの悪そうな自然体の男女カップルの会話が自然に、あるいは少し技巧的過ぎるかもしれないが、素晴らしい具合に再現されている。ちなみにネカマするならこういう本からこそ口調を見習うべきだろうとも思う。
後半の雄とお酢の畳みかけは、男の受け答えが女の意図したいことに対してあながち間違っていない(絶対酸っぱい匂いがするという意図もあったはず)という点も含めて言葉遊びとして面白い。
しかしこうした言葉遊びの翻訳は後述するが映画翻訳業界では十八番のようなもので、比較的なんとかなる類のものかもしれない。
さらに続きを見てみよう。
女:乾かして―
男:なんで至れり尽くせり体制なん
女:頼むぅいいじゃんよぅ
男:だが断る
女:えぇなんでー面白いのになー
女:でも勃起サイズアップするらしい…ってあれあれ~?復活ですかー?
男:いや刺激与えたらそりゃな?
もはや語尾の小文字と長音符の使い分けなど、この作者の文体の妙を説明するうえでは些末な類だろう。
「至れり尽くせり体制」などの日本語母語話者が談話においてしがちな咄嗟な造語はどう訳せばそのニュアンスを海外の読み手にも届けられるのか。
伏字になってない伏字も面白味があるがこれは比較的なんとかなりそうだ(相変わらず女の使う「だぜ口調」が翻訳の難所になろうが)。
男がジョジョの言葉を使っていることも注目しておきたい。誤用であるかもしれないことは作者も承知している可能性があるのであえて触れないとして、こういったものはどう訳せばいいのか。
そもそもこういった台詞は元ネタを知っているかしないかで同じ日本人でも読んだときの感覚は異なっているだろう。
結局ジョジョが世界的に有名な作品なだけあって、その言語圏で出版されているジョジョの該当セリフをそのまま引用してあげれば割とスムーズに我々が感じているニュアンスを届けてあげられるのかもしれない。
・
ある言葉が翻訳可能かについては、そもそも出版や映画の世界の翻訳技術の長年の蓄積があるのだから、薄っぺらなのは承知でこれらにも触れておく。
先述したが言葉遊びの部分を別の言語に落とし込むことは映画翻訳が得意とするところである。
その言語の音韻体系でしか成立しないだろというものもうまく落とし込まれているものである。ぴんと来ないなら参考にtedの生音声と字幕を比較してみることをおすすめする。
「ぼくのワンダフルジャーニー」の原題は"the dog"である(the objectを「遊星からの物体X」と訳すのとは似て非なる事情だと思う)。
素人目にはどうしてこんなアクロバティックな翻訳な成立するのだろうと思わずにはいられない。
逆に向こうの人にとって"the dog"という訳はどういう印象を持っているのか?個人的にはお堅い文学的な味わいすらも感じられるが、それを母語とする人にはひらがなで「いぬ」と書いた程度のニュアンスまで幅広くカバーしているのかもしれない。
「いぬ」と「ぼくのワンダフルジャーニー」なら、まずまず対応していると言えなくもない…か?
あるいは端からニュアンスを丸ごと保存しようとは翻訳家も考えないものなのかもしれない。
その文章の文体やテンポが、鑑賞者にとってのニュアンスや味わいに対して重要な要素としてどれだけ影響を与えているか、支配しているかということは弁えているものなのかもしれない。
たとえば注意書きの文章をテクニカルライターとして翻訳するにあたって、日本語の注意書き、特に箇条書きが持つ淡泊さを独特のニュアンスとして捉えその存在性を肯定することはできるかもしれないが、日本人が注意書きを読むにあたってそのニュアンスを重要としていないのと同様、そのニュアンスが保存されているかどうかにまで気配りする必要はないだろう、という具合だ。
とっくの昔に源氏物語が様々な言語に翻訳されていることも押さえておくべき事実だろう。
これもまた古文が持つ独特の味わいをどう翻訳しているのか、あるいは翻訳を放棄しているのかという話になる。
日本人の心には中等高等教育を経て古文単語に対して、仰々しさをはじめとした独特の感性が培われている。
その感性を通してこそ「変態糞中納言」は独特のギャグとして成立するわけだ。
しかし源氏物語にはギャグの要素はあったとしても重要ではないだろうし、結局助動詞とか係り結びに使う助詞が持つあのニュアンスは全部放棄しているのだろうか。
アーサー王物語時代の古英語でも使えばあるいは教養ある英語話者に似た味わいを感じてもらえるかもしれないが、これは英語圏の人間に限られる手法となってしまう。汎用的な手法を見出せないものか。
ところで海外の人が日本のアニメを字幕付きで見るということが大いに行われている。
主観になるが吹き替え版は可愛くない。仮に可愛いのだとしても、少なくともそれは日本人声優の演技とは別質のものである気がする。そのあたりにもなにがしかのニュアンスが宿っているかもしれない。
そのニュアンスは非言語的な要素が持つものであって話がずれていると言われればそれまでだし、因果関係上は先に生の動画があってその日本語が分からないから字幕をつけているというものに過ぎないわけだが、とにかく日本人声優の演技というのも、字幕の持つニュアンスを補うための日本語の音声という側面があると私は解釈している。
私なりに長々語って来たわけだが、私の関心はあくまでこうした「多言語に訳せない言語」が日本以外に諸言語にあるか、それにはどういった事情があるかなどといったことであって、巷で言われるような「日本語は難しい」的な自言語を特別視する態度は持ち合わせていない。
むしろ浅学でわずかな日本語と英語の例で比較したり考察したりすることしかできないのが嘆かわしいぐらいである。
戸田奈津子や村上春樹や、最近だと東大に40言語話せるハイパーグロットがいるらしいが、彼らに自分が「訳せない言葉」と思うものを持ち込んで翻訳をお願いし、その翻訳作業をじっくり見学したいものである。知見も深まるというものだろう。
35歳男。世の中に自分の居場所があるのか、いつも自分に問いかけていた。
ここ数年、たくさんセックスをした。そしたら自己肯定感が湧いてきた。
相手は様々。女子大生もいるし、社会人もいる。彼氏持ちもいるし結婚している人もいる。おしゃれな人、太っている人、裕福な人、不幸な人、色んな人がいた。色んな人と会話をして、キスをして、セックスをした。セックスに詳しくない女性に性を教え込んだこともあったし、お互い協力して最高のセックスを追求することもあった。癒やされるセックスも、溶けて無くなるかのような激しいセックスもした。
そういう経験を経て女性や人間というものが多少わかってきた。なかでも一つ知見として得られて良かったことがある。男性が女性を強く求めるのと同様に、女性も男性を強く求めていること。そのことがわかったし、自分を求めてくる女性が結構たくさんいるということもわかった。自分を求めてくる人がいること、それはこの世の中に自分の居場所ができたことと同義だった。
たくさんの女性とセックスをしたことは、おそらく世間的には良しとはされないだろう。彼氏持ちや夫がいる女性とのセックスもしたので自分のせいで不幸になっている人がいるかもしれない。全部公になったら罵詈雑言を浴びせられる側になるだろう。でも、それはもうどうでもいい。他人の顔色を伺うより自分の居場所を作ることのほうが遥かに重要なのだから。たとえ誰かを怒らせても、罰則がつくことになっても、自分がセックス依存症だと診断されることになっても、それらは些末なことなのだ。
セックス観も変わった。以前の性に疎い頃は、どうも男性が女性を搾取しているような感覚があったが、少なくとも自分のセックスに於いては全くそうではないと思った。むしろ女性からセックスを求めてくるほうが多いと思う。世の中の女性はこんなにもセックスに飢えているのかと驚くくらいだった。搾取ではなく協力。それがセックスだ。
今はもう昔のようにセックスをしなくても良いと思ってる。でも、女性から求められたら断れない。女性も恥ずかしい中セックスを求めてくるわけだから、それを断るのは人間としてひどい行為だからだ。さて、仕事納めの今日もセックスだ。
この問題は何度も世に出てきていると思うが、法治国家のことを勘違いしている人がけっこういる。
表現の自由界隈からも「法律を超えたら表現の自由はない」ってのが無邪気に言われまくってるけどさ、じゃあ、「本日から漫画を描いてはいけない」って法律ができた瞬間、漫画を描く表現の自由はなくなるの?逆なんだよ。表現の自由が先にあって、それを侵さない範囲で規制が許されるだけ。
これに対して
自由を侵害する法律が作られたら法の手続きに基づいて侵害されないように法改正をするのが法治国家の自由の行使なのだ。
法治国家原理は、法律の法規創造力の原則(国民の権利を新たに制限し、義務を課す法規範は国民代表議会のみが作ることができ、行政が立法してはならない※)、法律の優位の原則(行政活動は議会制定法に反してはならない)、法律の留保の原則(国民の権利を新たに制限し、義務を課す行政活動は、法律によって授権されていなければならない)から成り立つ。これらのどこにも、自由を侵害する法律が作られたら、法改正を待つべきであり、あえて規制に逆らうべきではない、という議論は含まれない。
※これは行政に関する原理であるというのがミソで、私人同士で新たな義務を課すのは、原則として自由である。たとえば、100万円を借りるという金銭消費貸借契約を結べば、あなたはカネを返す義務を課されることになる。それに先だって国民代表議会の授権規範が必要であるというのは馬鹿げている。しかし、原則が自由だからこそ、社会における事実上の力関係によって一方的に立場が弱い契約を結ばされるということが起きる。そこで、契約の自由を制限する法律が制定されたり(例えば借地借家法を思い浮かべよ)、裁判所の判例法理によって調整が図られることがある。
二番目のツイートは、法治国家を(古代中国の法治国家の伝統もあって)遵法義務の問題と取り違えているだけで、些末な揚げ足取りではないかと思われるかもしれない。しかし、遵法義務の問題として考えてもおかしい。もちろん、国法は自らに従わない者に対して制裁の仕組みを用意することが多い。刑法にせよ、行政上の何らかの義務履行確保の手法にしても。刑罰という結果を避けるために従った方がベターであるというプラクティカルな議論としては意味があるだろう(事実としての強制秩序の問題)。しかし、それと服従義務とを混同するべきではない。たいていの法学者は、不正な法に対して服従する義務はないと考えているのではないか(例:ラートブルフ「法律による不法と法律を超える法」)。ラズなんかは、それを超えて、一般論としては国法への服従義務などない、と言っているようだ。
ただ、これは難しい問題で、誰が不正かどうかを判断するのかという問題がある。万人が自らに都合の悪い法を不正であると判断すれば、アナーキーとなり、宗教戦争の再来である※。しかし、実定法にただただ服従するべしと言えば、ナチスの法にも服従する義務があるのか(事実として強制されるからやむなく従うのではなく)と言われてしまう。結局、個々の法規範に則して個別的に判断する他あるまい。上記のツイートでいえば、一般論として漫画という出版様式の禁止を無視したからといってアナーキーに陥ると考えるのは馬鹿げているであろう。
現代の違憲審査制は、こういった正義と実定法のジレンマをなるべく起こさないようにするためにある。憲法に人権という形で示された一般的正義の原則に照らして裁判官が実定法を審査し、不正な法と認定した法規範の適用を拒否するという仕組みが我々の社会には導入されている。ただ、裁判官の目をすり抜けてどうしようもない実定法が作られることがないとは言えない。立法者と裁判官にさしあたって頼らずに正邪を判断する視点を持つことは、自由な民主的社会の市民であり続けるために必要なことである。・・・自分の頭で考えた結果、おかしな結論に到達する人もいるかもしれないのが頭の痛いところだが、それが自由であるということである。
悪法といえども国法に従う義務があり、悪法をただすには法改正に賭けるべきという態度は、肉屋を支持する豚と言われてもやむを得ない※。
※ひょっとすると熱烈なホッブズ主義者なのかもしれないが、ホッブズ主義者なら、本当に当該禁止によってアナーキーが避けられるのかをもうちょっと真面目に検討するのではないか。
参考文献
長谷部恭男『法とは何か[増補新版]』河出書房新社、2015年
おまけ:
それに反する法律は作れません。
こうした見解に対する批判は本文中にも書いた通りだが、この人の中では、薬事法(古い名前だ)の薬局距離制限規定が作られたことはなかったのだろう。薬事法は、自分に関連する分野ではないのか(薬剤師ではないから、違うかな・・・)。
LGBTQの人々を祝う意図が込められた記念日だが、この日に有名企業アカウントが続々と「炎上」した。
花王などのアカウントが軽はずみに「カミングアウト」という言葉を使って情報を投稿したため、批判が相次いだわけだ。
軽々しく「カミングアウト」という言葉を使うことについて、不快に思うLGBTQの人たちはいるだろうから、それは避けたほうがいいのは間違いない。
「炎上」した火をさらに燃やすような攻撃的な表現のツイートも散見され、
心がざらつく感覚が残った。
例えば、著名フェミニスト・治部れんげ氏の夫、一橋大学准教授の竹内幹氏は――
人が苦しんで死んだりしてるイシューでもあるのに。むかしなら「新聞読んでないでしょ」というレベルの無知→担当者。
と投稿した。
この攻撃的なツイートは花王や花王の関係者(竹内准教授のいう「孫請け」なども含め)を
必要以上に傷つけることにはならなかっただろうか?
大学の教員だけにカミングアウトデーについての知識が豊富なのだろうけれども、
何か意見を述べるのならば、教員らしくもう少し、諭すような、おだやかな言い方にした方が啓蒙効果があるように感じ、残念に思った。
などといった表現からは、「知識レベルの低い」人への差別意識がにじんでいるように感じる人が多かったようだ。
その中の一人、松戸市議会議員の、みのわ信矢氏は、竹内准教授の花王に対するツイートを見て、
「竹内氏のツイートもまた『差別的』なのではないのか?」と、次のようなツイートで疑問を呈した。
かつて身をおいていた広告代理店は、上場企業から見たら曾孫受け程度の超零細企業でした。
そういう会社で働くと、やっぱり知的水準が低いとみなされるのか、、、
このツイ主さんはいわば、差別と戦った方々とその歴史を軽んじている、と憤っておられるのですよね?
すると、竹内准教授は、みのわ松戸市議のこのツイートに対して、
>知的水準が低いとみなされる
すみませんが、そうとは書いていないはずです。
再度お読みください。
差別的”と感じられることを考え、「知識レベル」という言葉を使い「知的」とも言いませんでした。
孫請けのくだりは、花王が直接コンタクトをとれていないからかという意味合いです。ご査収ください。
と逆批判して、みのわ松戸市議を「謝罪」へと追い込んだのだった。
自分が思うに、「知的水準が低い」よりは、竹内准教授が実際に書いた「知識レベルが低い」のほうが、表現としては少しマシかもしれない。でも「五十歩百歩」だろう。
一方、「知識レベルの低いところが孫請けとかでしょうか」=「花王が直接コンタクトをとれていないからかという意味合い」 と捉えるのは
無理筋だろう。
かなり苦しい弁解のように思う。
竹内准教授と、みのわ松戸市議のこのやり取りを見ていた別のある人が、
「差別を指摘する側が実は差別にどっぷり浸かってること、よくある」とツイートしていた。
一理あるな、と私は感じた。
「カミングアウト」という言葉を、カジュアルに使ってツイートしていたことがあった。
自分の妻もカジュアルに使っている「カミングアウト」という言葉を花王担当者もカジュアルに使ったわけである。
その使用法に対して
人が苦しんで死んだりしてるイシューでもあるのに。
むかしなら「新聞読んでないでしょ」というレベルの無知→担当者”
とまで言う必要がはたしてあっただろうか?
ヒトには、自分自信を「正しい」と思い込むことによって、自分自身を癒やしているようなところがある。
ゆえに、賢い人も、「知識レベルが低い」人も、普通の人も、自分の内なる差別意識を見つめることはとっても難しい。
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#治部れんげ氏の夫
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