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2024-10-14

「好きこそ物の上手なれ」の「こそ」の意味を聞かれて、「~なれ」に繋がる係り結び、じゃ答えにならんでしょ。別に「~なれ」に繋がらなくても「こそ」は「こそ」単体で意味があるんだから

すべからく」の誤用を指摘するのはいいんだけど、「~すべし」に繋がる係り結び本来意味!で説明した気分になってるヤツ多すぎん?

2022-12-09

訳せる言葉、訳せない言葉

海賊版サイトでfakku等によって原本から翻訳されたものが幅を利かせせているので、本来なら原本を買えば済む話なのだが、とにかく日本人側は翻訳版の再翻訳をしなければならない歪んだ状況に立たされているという話になっていた。

そういう話の流れで出たのが双龍漫画「こういうのがいい」ってどの言語でも訳せなそうだよねという話だった(あえて言い古された「ちんちん亭」には触れない)。

もちろんこれは「こういうのがいい」の翻訳版を謳うものが出た場合は既に元の台詞回しのニュアンスが壊れているはずなので、また原本日本語自身が独特なので、元の台詞復元することは困難であるという含みもある。

台詞回しの一例をあげてみよう。

女:ワキガチェックしてくれたまへ

男:剃り残しがございます

女:うむむ…永久脱毛の金を稼がねば…って違うぞ違うぞぉ?臭いはどうなんじゃ

男:…なんか甘いんだが

女:スイーツだと

文章の随所において終助詞など細かく拘られていて、独特のテンポ形成されている。

ただ何より注目すべきなのは、このピンク美少女が「違うぞぉ?」とか「どうなんじゃ」とか中性的かあるいはどちらかといえば男性的な口調でものを言っていることだろう。

この言語倒錯が生むチャーミングさといったら一体どう翻訳すれば保存できるのだろうか。

たとえば英語圏にも男性口調とか女性口調の区別は確かにあるのかもしれないが、ただ女性男性口調に相当する言葉を言わせる「ずらし」でそれは再現可能なのか。

上記の男口調は、俺妹にも拙者が一人称の男言葉を使う女はいるが、あの口調ともまた、それが放たれたときに読み聞きした側が感じる空気感というか味わいといったものが異なると思う。

まり同じ言語内における言語倒錯についても、ずらし元とずらし先の違いによってそうしたニュアンスが異なってくるのに、その各ニュアンスを別言語において再現可能なのかということだ。なかなか難しいものがあると直感される。ちなみに現代女性が「たまえ」というだけでも面白いがそれが「たまへ」と表記されたときの独特の滑稽味もまた再現し難いだろう。

もう一例あげておこう。場面は風呂場の脱衣所で男女が裸になっているという状況だ。

女:ふいータオル貸してー

男:いいよーっておいそれ昨日使ったやつだぞ洗ったのあるよ

女:いいよ別に乾いてるし

男いや洗った奴のがってあーまあいいか

女:むっ雄の香り

男:えっ?酸っぱい?お酢

女:ちゃうオスメスの雄w

やや育ちの悪そうな自然体の男女カップルの会話が自然に、あるいは少し技巧的過ぎるかもしれないが、素晴らしい具合に再現されている。ちなみにネカマするならこういう本からこそ口調を見習うべきだろうとも思う。

後半の雄とお酢の畳みかけは、男の受け答えが女の意図したいことに対してあながち間違っていない(絶対酸っぱい匂いがするという意図もあったはず)という点も含めて言葉遊びとして面白い

しかしこうした言葉遊びの翻訳は後述するが映画翻訳業界では十八番のようなもので、比較的なんとかなる類のものかもしれない。

さらに続きを見てみよう。

女:乾かして―

男:なんで至れり尽くせり体制なん

女:頼むぅいいじゃんよぅ

女:おぅマン●拭きやすいな毛がないと一緒にパイパンしようぜ

男:だが断る

女:えぇなんでー面白いのになー

男:面白みで剃るもんじゃなかろうが

女:でも勃起サイズアップするらしい…ってあれあれ~?復活ですかー?

男:いや刺激与えたらそりゃな?

もはや語尾の小文字と長音符の使い分けなど、この作者の文体の妙を説明するうえでは些末な類だろう。

「至れり尽くせり体制」などの日本語母語話者談話においてしがちな咄嗟造語はどう訳せばそのニュアンス海外読み手にも届けられるのか。

伏字になってない伏字面白味があるがこれは比較的なんとかなりそうだ(相変わらず女の使う「だぜ口調」が翻訳の難所になろうが)。

男がジョジョ言葉を使っていることも注目しておきたい。誤用であるかもしれないことは作者も承知している可能性があるのであえて触れないとして、こういったものはどう訳せばいいのか。

そもそもこういった台詞元ネタを知っているかしないかで同じ日本人でも読んだとき感覚は異なっているだろう。

結局ジョジョ世界的に有名な作品なだけあって、その言語圏で出版されているジョジョの該当セリフをそのまま引用してあげれば割とスムーズに我々が感じているニュアンスを届けてあげられるのかもしれない。

ある言葉翻訳可能かについては、そもそも出版映画世界翻訳技術の長年の蓄積があるのだから薄っぺらなのは承知でこれらにも触れておく。

先述したが言葉遊びの部分を別の言語に落とし込むことは映画翻訳が得意とするところである

その言語音韻体系でしか成立しないだろというものもうまく落とし込まれているものである。ぴんと来ないなら参考にtedの生音声と字幕比較してみることをおすすめする。

「ぼくのワンダフルジャーニー」の原題は"the dog"である(the objectを「遊星から物体X」と訳すのとは似て非なる事情だと思う)。

素人目にはどうしてこんなアクロバティックな翻訳な成立するのだろうと思わずはいられない。

逆に向こうの人にとって"the dog"という訳はどういう印象を持っているのか?個人的にはお堅い文学的な味わいすらも感じられるが、それを母語とする人にはひらがなで「いぬ」と書いた程度のニュアンスまで幅広くカバーしているのかもしれない。

いぬ」と「ぼくのワンダフルジャーニー」なら、まずまず対応していると言えなくもない…か?

あるいは端からニュアンスを丸ごと保存しようとは翻訳家も考えないものなのかもしれない。

その文章文体テンポが、鑑賞者にとってのニュアンスや味わいに対して重要な要素としてどれだけ影響を与えているか支配しているかということは弁えているものなのかもしれない。

たとえば注意書きの文章テクニカルライターとして翻訳するにあたって、日本語の注意書き、特に箇条書きが持つ淡泊さを独特のニュアンスとして捉えその存在性を肯定することはできるかもしれないが、日本人が注意書きを読むにあたってそのニュアンス重要としていないのと同様、そのニュアンスが保存されているかどうかにまで気配りする必要はないだろう、という具合だ。

とっくの昔に源氏物語が様々な言語翻訳されていることも押さえておくべき事実だろう。

これもまた古文が持つ独特の味わいをどう翻訳しているのか、あるいは翻訳放棄しているのかという話になる。

日本人の心には中等高等教育を経て古文単語に対して、仰々しさをはじめとした独特の感性が培われている。

その感性を通してこそ「変態中納言」は独特のギャグとして成立するわけだ。

しか源氏物語にはギャグの要素はあったとしても重要ではないだろうし、結局助動詞とか係り結びに使う助詞が持つあのニュアンスは全部放棄しているのだろうか。

アーサー王物語時代の古英語でも使えばあるいは教養ある英語話者に似た味わいを感じてもらえるかもしれないが、これは英語圏人間に限られる手法となってしまう。汎用的な手法を見出せないものか。

ところで海外の人が日本アニメ字幕付きで見るということが大いに行われている。

海外声優吹き替え版というのもあるが流行っていない。

主観になるが吹き替え版は可愛くない。仮に可愛いのだとしても、少なくともそれは日本人声優の演技とは別質のものである気がする。そのあたりにもなにがしかニュアンスが宿っているかもしれない。

そのニュアンスは非言語的な要素が持つものであって話がずれていると言われればそれまでだし、因果関係上は先に生の動画があってその日本語が分からいか字幕をつけているというものに過ぎないわけだが、とにかく日本人声優の演技というのも、字幕の持つニュアンスを補うための日本語の音声という側面があると私は解釈している。

私なりに長々語って来たわけだが、私の関心はあくまでこうした「多言語に訳せない言語」が日本以外に諸言語にあるか、それにはどういった事情あるかなどといったことであって、巷で言われるような「日本語は難しい」的な自言語特別視する態度は持ち合わせていない。

しろ浅学でわずかな日本語英語の例で比較したり考察したりすることしかできないのが嘆かわしいぐらいである。

戸田奈津子村上春樹や、最近だと東大に40言語話せるハイパーグロットがいるらしいが、彼らに自分が「訳せない言葉」と思うものを持ち込んで翻訳をお願いし、その翻訳作業をじっくり見学したいものである。知見も深まるというものだろう。

2021-05-14

「ありがとう」って言われたくて〜YouTubeを見続けるけど〜

YouTubeで見る動画の内容はわりとどうでもいい。

動画最後に放たれる「ご視聴ありがとうございました」的なセリフが聞きたいのだ。

俺みたいな低層な人生では、日常を生きていて「ありがとう」なんて言われる機会はなかなか無い。

から、その「ありがとう」が俺ひとりを向いたものでなかったとしても、その言葉は心に染み入る。

ちなみに、YouTubeにハマるまでは、コンビニたばこ屋がその役割果たしていた。

しかし、そこでは「ありがとう」の発生に何らかのコストが発生するため、おいそれと多用できなかったのだ。

それなのに、YouTube無料だ。これは嬉しいことだ。一日に何十回でも「ありがとう」と言われることができる。

一円も払わなくとも、ただ動画の終了までひたすら待つだけでいいわけだ。なんなら、動画最後まで飛ばししまえば済む。

しかし、それではせっかくの動画作成者申し訳無い。ちゃんと、10分でも20分でも動画の終わりまで、ウサギのように早送りせず見る。

そうやって待ちわびた後に来る「ありがとう」風呂上がりの一杯を思わせる貴重なものだが、

それでも、そんなことをしていては、受け取る「ありがとう」の濃度が下がってしまう。

もっとたくさんの「ありがとう」を浴びたい。俺の人生を祝福する「ありがとう」言葉が聞きたい。

から、興味の持てる範囲で短い動画ばかり探してしまう。

最初のうちは、自分普通に生きていれば知らないような内容の動画を作って頂いた上に、

さらに私というさもない存在感謝言葉が頂けるなんて、動画作成者はなんて低姿勢な人たちなんだ!とも思っていたが、

今や、長い雑談の上に「バイバイっ」じゃねーんだよ、欲しいのは「ありがとう」一言なんだよ!と悪態をつく始末。

から、こうなったら、他人に頼らず自分動画を作ってYouTubeにアップすれば済むような気がしている。

10分、20分もかかる動画じゃなく、数分で終わるようなやつ。そして、最後に「ご視聴ありがとうございました」と必ず言うやつ(重要)。

ただ、自分の声で感謝されても気持ち悪い(なんで、マイクを通すと自分の声はあんなに気持ち悪く聞こえるのだろう?)、というか、

自分自分「ありがとう」と言う惨めな気持ちの方を強く感じてしまうので、声は何とかロイド白元じゃない)ってのを使うことにしよう。

そうすれば、その動画作成者自分であることも忘れられるし、気持ちよく「ありがとう」を浴びられる。

それでも、同じ動画を繰り返すのではダメだ。それでは笑い袋を押し続けるのと変わらず、満足が足りない。

色々な人に「ありがとう」って言われたいんだ。だから動画も一本では足りない。

短い動画をたくさん作ろう。でも、たくさん作るためには、色々なことに興味を持つ必要がある。

今のままでは無理だろう。色々な本を読む必要がある。なんなら図書館に行ったり。

外出が増えるだろう。社会に出ていく必要がある。さらには、誰か他人に話を聞いたりする必要もあるだろう。

また、動画を作るには解説する態度を身につける必要がある。その相手には知識を請うだけでなく、

自分意見を聞いてもらうことも必要だ。その上で議論になったりするだろう。相容れなくて仲違いもするだろう。

しかし、私には「ありがとう」必要なのだ「ありがとう」自分に聞かせるために動画を作る必要があるのだ。

から仲直りをする。仲直りをするための努力をする。そうできるだけのコミュニケーション能力必要だ。

仲直りをすると、相手も謝ってくるだろう。自分も仲直りしたかったといった内容で。

自分も謝りたかったけどできなかった。だから、謝って来てくれて嬉しかったと感謝される。

感謝される。

感謝される!

ということは、その係り結びとしてやってくる言葉は…

「ありがとう」

「ありがとう」

まさかの、「ありがとう」を作るための「ありがとう」

そうやって、「ありがとう」のための楽しい仲間がポポポポーンと増えていけばいいと思った。

2020-01-24

【横増】室町時代くらいの人と果たして会話できるのか

anond:20200124000832

このあたりの議論面白かったので横増させていただきます

論点標記の通り。素人考えです。

まず、この枝では言葉がここ500年で変化したかどうかが議論になっています。ある増田はそんなに変わっていないと言い、ある増田はいや変わっているだろと反論する。

後者増田は、時間軸だけでなく空間軸でも変化があると論じている。

私はこれらに明確に答えを出せないけれども、二人の言わんとしていることはなんとなくわかる。

しゃべり言葉は500年くらい変化がない

これはたしかにその通りで、たとえばwikipediaの「中世日本語」の項目を見ると、「この時期に古代から備わっていた特徴の多くは失われ、現在日本語にかなり近い形となった。」

とあり、その細かい要件が書かれている。わかりやすい例でいうと、散々古文で苦しめられた「係り結び法則」が最終的に崩壊するのがこの時期。

私たち古文で苦しむのは、この時期に古文古文になったことが関係している。

増田はこの辺りを論点として「変化がない」と主張したのだろう。

ネットで見られる具体的な原典として大英図書館所蔵『天草平家物語』を見てみよう。

https://dglb01.ninjal.ac.jp/BL_amakusa/show.php?chapter=2&part=1

ローマ字っぽい表記で当時の言葉の「音」を知ることができる。

発音に多少違いはあるのだろうがこれ、令和を生きる私たち結構読める。

日本言葉ヒストリアを習ひ知らんと欲するひとのために世話にやはらげたる平家物語

表題に書いてある。ぜひ原典対応させて読んでみてほしい。読める。

他に、柳生徳政碑文という石に彫られた文字がある。

正長元年ヨリ

サキカンへ四カン

ウニヲ井メア

カラス


正長元年より先は、神戸四箇郷に負目あるべからず。字の流れ的にはいけなくはない。

ところが通じないのだ

ここからは2番目の増田意見に沿いながら話をする。

前段では意外に室町時代くらいの日本語ならば通じるのではないかという話をしたが、実は通じないかもという話をする。

例えば『天草平家物語

世話にやはらげたる

のところ。「世話」も「やわらげたる」も現代語でもほぼ通じそうだ。「世話」という言葉は今も使われるし、「やわらげたる」は「やわらげている」とすぐに発想できる。

ただ現代では、直接「世話にやはらげたる」の意味がわからない。

「世話」は、現代ではあれこれお手伝いするみたいな意味

ところが他に「話し言葉世俗で使う言葉」という意味がある。現代ではほぼ失われた用法だ。

まりここでは、『平家物語』を(当時の)現代語に和らげて書きましたよ、ということを示している。

現代人はこれがわからない。

まり文法は近いけれども、用いられる言葉やその意味全然異なるのだ。

方言問題、あるいは発音差異問題と絡めて、この点は500年前の人と会話を難しくする要因になる。

それでも俺は会話できると信じている

つの異なる意見が、それぞれ正しさを持っていることを見てきた。

増田ではそこまで語れれば本望で、こっからちょっと蛇足

織田信長くらいの時代の人と会話できるのか?

見てきた通り、行けそうでもあるし行けなさそうでもある。私は、それでも、いけるんじゃないか、と思っている。

なぜなら日本語には文字がある。それも、平仮名片仮名漢字もある。そして、述べてきた通り音もある。

論語』やそれこそ『平家物語』など、共通の「話題」もたくさん存在する。

これらを駆使して「会話」すれば、互いの言語感覚を調整・修正しながらコミュニケーションを取れるのではないかと思う(そして、当然と言えば当然なんだが平安人より室町人の方が格段に「会話」は簡単だと思う)。

この点は、元増田の「言語的に正しい大河ドラマ」を作ったり私たちが見て楽しめたりできる可能性を肯定する。

字幕入れたり解説入れれば、英語字幕より近い感覚を持って楽しくドラマを見られるのではないか

おわりに

俺は、俺好みの室町貴族の娘や守護大名守護代クラスの娘(前髪ぱっつんの「のじゃ」口調の姫(大人っぽくてもロリっぽくても可))が異世界転生して俺の部屋にシュワみたいにやってきた場合に備えて、室町人と対話する準備はできている。

覚悟はいいか? オレはできてる

2019-12-15

古文かいうクソ科目

受験以外で役に立ったことない

いや、枕草子とか源氏物語徒然草とか大鏡とかそういう有名どころを押さえるのは悪くないと思うよ 時代背景と作者とだいたいの内容を学ぶ 素敵じゃない

でも文法までやる意味ある?つまんないし本気で無駄な感じしかしないしマジでやめたほうがいいと思う ぞ・なむ・や・か・こそは係り結び!とか覚えてどうするんだよ 本当にいつ使うんだ 趣味にすら生きる瞬間が全然ないだろ

古典不要論ってなんで完全になくすか文法までキチンとやるかみたいな話になってるわけ 有名作品をザッと現代語訳で読むとかでいいだろ 文法は1時間くらいチラ見するとかでさ

絶対かにやるべきことがあるんだよな

2019-06-02

よき。

昨今の流行語のなかでも気持ち悪さが突出している。

「よきかな」の「かな」を略しているという説明がされているが

たとえば「絶景かな」の「かな」を略して「絶景。」で止めても

普通体言止めに見えるから違和感ないんだけど

「よき」という形容詞連体形で止めると、宙ぶらりんに見える。

余韻を残すという考え方からすると宙ぶらりんで結構なのかもしれないが

こういう癖の強い表現が工夫もなく乱用されすぎるとうんざりもしてくる。

「よし」にするか、「ぞよき」の形で係り結びにするかしてくれれば

落ち着くんだけどね。

2018-12-19

anond:20181218200134

すいません。日本語警察ですが、それは説明として少し不完全であると思います

その説明なら、「ふざけろ」は「お前がふざけても私は意にも介しないぞ(平気だ)」という意味になるのでしょうか? あるいは「お前がふざけたら私はただではおかないぞ(脅し)」でしょうか? どちらにせよ「ふざけろっっ……!」と口走る福本マンガ主人公たちの雰囲気整合しにくい気がします。(彼のマンガで「ふざけろっっ……!」という台詞は、たいてい弱者が口惜しまぎれに口走っているように思います。それなら「平静を装う」というのもおかしいですし「脅している」というのも状況に合いません。)

個人の語感で言えば、「ふざけろ」「ふざけるな」どちらの言い方にも聞き覚えがある気がしております。その感覚で申し上げるのも恐縮なのですが、ご説明のような「~してみろよ(ただではおかないぞ)」の意味で使うとき「ふざけろ」は「ふ↑ざ↑け↑ろ↓」であり、福本マンガのようなケースでは「ふ↓ざ↓け↑ろ↑」と発音されるように思います(分かりにくくて済みません)。両者に込められたニュアンスはやはり異なっているのではないでしょうか。では、後者のように発音する場合、どういう意味が込められているのでしょうか。

この件については、まだ学者の方でも完全に説明されているわけではないことをお断りしておきます

(たとえば

https://core.ac.uk/download/pdf/43546097.pdf#search=%27%E5%91%BD%E4%BB%A4%E5%BD%A2+%E5%8F%8D%E8%AA%9E%27

この論文では「(嘘と思われる発言をした相手に対して)嘘をつけ!」という事例をあげ、「反語命令」と呼ばれて、これが議論されてきた過程に触れています。)

したがって確固としたご説明を申し上げることはできません。とりあえず、「既に起きた事柄についての言及であり通常の命令文ではない」「起きてほしいことの反対の意を込めているので反語的な用法か」等と論じられてきているようです。しかしながら、これらの説明でも、私個人の語感を十分には説明してくれていないように感じます


個人的には、このような例(たとえば「嘘をつけ」)の場合、あまり命令ニュアンスを感じないのです。どちらかと言えば「(お前は)嘘をついているよな」と確認するような意味と感じられますし、それは古語係り結びの形から来て、そういう用法ができたのではないかと感じています。つまり

「嘘をこそつけ(「つけ」は已然形)」=嘘をついているよな、嘘だと分かっているぞ、の意。

 ↓

「嘘をつけ(「こそ」が脱落し、命令形と誤認)」=嘘をついてはならない(命令形に反語禁止用法があるとの認識が定着)

ということで、個人的な語感としてはこちらの説明の方がしっくりきます。この説でいくなら、福本マンガの例「ふざけろ」も、「お前、ふざけているだろう。そんな理屈は通らないぞ」というニュアンスになり、これなら、欺かれようとする弱者が口惜し紛れに口走る台詞としてまだ理解できる気がします。つまり、これはややクラシック言い回しであり、その語感にはかなり世代間の差があるのではないか想像されます

なお、同様の事例として、愚かな発言をした人間に対する軽い罵倒語馬鹿言え(a)」があります。これも、「馬鹿(を言うなら休み休み)言え(b)」から連想で、(a)に仮定意味を読み取る向きがあるようですが、(a)の意味するところを率直に考えるなら「お前の言っているのは馬鹿な話だ」「お前は馬鹿を言っているよな」という断定であって、(b)とは少し異なるものだと思います

2017-08-26

勿来は難読地名でないむしろ規則的ですらある

勿来漢文読み下しにすると「来る勿れ」、クルナカレだ。

まり「来るな」という意味である

そこで「~してくれるな」の表現として登場するのが「な~そ」だ。

いわゆる係り結びと呼ばれる方法である

とするとこういう表現ができあがる。

「な来そ」(ナコソ)だ。

不具合、無愛想、不合格、無精、不養生、不出来、不格好などのように日本語場合否定文字熟語の文頭にあらわれる。

したがって、「勿来」という表現になるのもむべなるかな、ということになる。

2015-05-27

「~かしら」を男は使うな

女ことばだろ。男が使うな。

適当語源予測するけどどうせ、か+しら(む)っていう係り結び系だろ。

から別にもともと女ことばだったってわけじゃないんだろ。

でも現代においては女ことば扱いになってるのはなんでかしらんがそうなってるんだよ

から違和感ありすぎるから男はつかうな

 
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