海賊版サイトでfakku等によって原本から翻訳されたものが幅を利かせせているので、本来なら原本を買えば済む話なのだが、とにかく日本人側は翻訳版の再翻訳をしなければならない歪んだ状況に立たされているという話になっていた。
そういう話の流れで出たのが双龍の漫画「こういうのがいい」ってどの言語でも訳せなそうだよねという話だった(あえて言い古された「ちんちん亭」には触れない)。
もちろんこれは「こういうのがいい」の翻訳版を謳うものが出た場合は既に元の台詞回しのニュアンスが壊れているはずなので、また原本の日本語自身が独特なので、元の台詞を復元することは困難であるという含みもある。
台詞回しの一例をあげてみよう。
女:ワキガチェックしてくれたまへ
男:剃り残しがございます
女:うむむ…永久脱毛の金を稼がねば…って違うぞ違うぞぉ?臭いはどうなんじゃ
男:…なんか甘いんだが
女:スイーツだと
文章の随所において終助詞など細かく拘られていて、独特のテンポが形成されている。
ただ何より注目すべきなのは、このピンクの美少女が「違うぞぉ?」とか「どうなんじゃ」とか中性的かあるいはどちらかといえば男性的な口調でものを言っていることだろう。
この言語的倒錯が生むチャーミングさといったら一体どう翻訳すれば保存できるのだろうか。
たとえば英語圏にも男性口調とか女性口調の区別は確かにあるのかもしれないが、ただ女性に男性口調に相当する言葉を言わせる「ずらし」でそれは再現可能なのか。
上記の男口調は、俺妹にも拙者が一人称の男言葉を使う女はいるが、あの口調ともまた、それが放たれたときに読み聞きした側が感じる空気感というか味わいといったものが異なると思う。
つまり同じ言語内における言語的倒錯についても、ずらし元とずらし先の違いによってそうしたニュアンスが異なってくるのに、その各ニュアンスを別言語において再現可能なのかということだ。なかなか難しいものがあると直感される。ちなみに現代の女性が「たまえ」というだけでも面白いがそれが「たまへ」と表記されたときの独特の滑稽味もまた再現し難いだろう。
もう一例あげておこう。場面は風呂場の脱衣所で男女が裸になっているという状況だ。
女:ふいータオル貸してー
男:いいよーっておいそれ昨日使ったやつだぞ洗ったのあるよ
女:いいよ別に乾いてるし
女:むっ雄の香り
男:えっ?酸っぱい?お酢?
女:ちゃうオスメスの雄w
やや育ちの悪そうな自然体の男女カップルの会話が自然に、あるいは少し技巧的過ぎるかもしれないが、素晴らしい具合に再現されている。ちなみにネカマするならこういう本からこそ口調を見習うべきだろうとも思う。
後半の雄とお酢の畳みかけは、男の受け答えが女の意図したいことに対してあながち間違っていない(絶対酸っぱい匂いがするという意図もあったはず)という点も含めて言葉遊びとして面白い。
しかしこうした言葉遊びの翻訳は後述するが映画翻訳業界では十八番のようなもので、比較的なんとかなる類のものかもしれない。
さらに続きを見てみよう。
女:乾かして―
男:なんで至れり尽くせり体制なん
女:頼むぅいいじゃんよぅ
男:だが断る
女:えぇなんでー面白いのになー
女:でも勃起サイズアップするらしい…ってあれあれ~?復活ですかー?
男:いや刺激与えたらそりゃな?
もはや語尾の小文字と長音符の使い分けなど、この作者の文体の妙を説明するうえでは些末な類だろう。
「至れり尽くせり体制」などの日本語母語話者が談話においてしがちな咄嗟な造語はどう訳せばそのニュアンスを海外の読み手にも届けられるのか。
伏字になってない伏字も面白味があるがこれは比較的なんとかなりそうだ(相変わらず女の使う「だぜ口調」が翻訳の難所になろうが)。
男がジョジョの言葉を使っていることも注目しておきたい。誤用であるかもしれないことは作者も承知している可能性があるのであえて触れないとして、こういったものはどう訳せばいいのか。
そもそもこういった台詞は元ネタを知っているかしないかで同じ日本人でも読んだときの感覚は異なっているだろう。
結局ジョジョが世界的に有名な作品なだけあって、その言語圏で出版されているジョジョの該当セリフをそのまま引用してあげれば割とスムーズに我々が感じているニュアンスを届けてあげられるのかもしれない。
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ある言葉が翻訳可能かについては、そもそも出版や映画の世界の翻訳技術の長年の蓄積があるのだから、薄っぺらなのは承知でこれらにも触れておく。
先述したが言葉遊びの部分を別の言語に落とし込むことは映画翻訳が得意とするところである。
その言語の音韻体系でしか成立しないだろというものもうまく落とし込まれているものである。ぴんと来ないなら参考にtedの生音声と字幕を比較してみることをおすすめする。
「ぼくのワンダフルジャーニー」の原題は"the dog"である(the objectを「遊星からの物体X」と訳すのとは似て非なる事情だと思う)。
素人目にはどうしてこんなアクロバティックな翻訳な成立するのだろうと思わずにはいられない。
逆に向こうの人にとって"the dog"という訳はどういう印象を持っているのか?個人的にはお堅い文学的な味わいすらも感じられるが、それを母語とする人にはひらがなで「いぬ」と書いた程度のニュアンスまで幅広くカバーしているのかもしれない。
「いぬ」と「ぼくのワンダフルジャーニー」なら、まずまず対応していると言えなくもない…か?
あるいは端からニュアンスを丸ごと保存しようとは翻訳家も考えないものなのかもしれない。
その文章の文体やテンポが、鑑賞者にとってのニュアンスや味わいに対して重要な要素としてどれだけ影響を与えているか、支配しているかということは弁えているものなのかもしれない。
たとえば注意書きの文章をテクニカルライターとして翻訳するにあたって、日本語の注意書き、特に箇条書きが持つ淡泊さを独特のニュアンスとして捉えその存在性を肯定することはできるかもしれないが、日本人が注意書きを読むにあたってそのニュアンスを重要としていないのと同様、そのニュアンスが保存されているかどうかにまで気配りする必要はないだろう、という具合だ。
とっくの昔に源氏物語が様々な言語に翻訳されていることも押さえておくべき事実だろう。
これもまた古文が持つ独特の味わいをどう翻訳しているのか、あるいは翻訳を放棄しているのかという話になる。
日本人の心には中等高等教育を経て古文単語に対して、仰々しさをはじめとした独特の感性が培われている。
その感性を通してこそ「変態糞中納言」は独特のギャグとして成立するわけだ。
しかし源氏物語にはギャグの要素はあったとしても重要ではないだろうし、結局助動詞とか係り結びに使う助詞が持つあのニュアンスは全部放棄しているのだろうか。
アーサー王物語時代の古英語でも使えばあるいは教養ある英語話者に似た味わいを感じてもらえるかもしれないが、これは英語圏の人間に限られる手法となってしまう。汎用的な手法を見出せないものか。
ところで海外の人が日本のアニメを字幕付きで見るということが大いに行われている。
主観になるが吹き替え版は可愛くない。仮に可愛いのだとしても、少なくともそれは日本人声優の演技とは別質のものである気がする。そのあたりにもなにがしかのニュアンスが宿っているかもしれない。
そのニュアンスは非言語的な要素が持つものであって話がずれていると言われればそれまでだし、因果関係上は先に生の動画があってその日本語が分からないから字幕をつけているというものに過ぎないわけだが、とにかく日本人声優の演技というのも、字幕の持つニュアンスを補うための日本語の音声という側面があると私は解釈している。
私なりに長々語って来たわけだが、私の関心はあくまでこうした「多言語に訳せない言語」が日本以外に諸言語にあるか、それにはどういった事情があるかなどといったことであって、巷で言われるような「日本語は難しい」的な自言語を特別視する態度は持ち合わせていない。
むしろ浅学でわずかな日本語と英語の例で比較したり考察したりすることしかできないのが嘆かわしいぐらいである。
戸田奈津子や村上春樹や、最近だと東大に40言語話せるハイパーグロットがいるらしいが、彼らに自分が「訳せない言葉」と思うものを持ち込んで翻訳をお願いし、その翻訳作業をじっくり見学したいものである。知見も深まるというものだろう。