はてなキーワード: シーニュとは
https://twitter.com/NaotoKan/status/1454300109827555333
「府中駅ルシーニュ前にて、府中市のマイク納めです。
年齢のことご指摘いただきます。
ただもう一度、菅直人に仕事をさせてください。
自然エネルギー100%を推し進めます。
まっとうな政治、支え合う社会に転換して参ります。
どうか皆様の力をもう一度菅直人へ
よろしくお願いします。」
うーん
Permalink | 記事への反応(0) | 19:10
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このことについて一日考えていた。
英語舌でできそうな発音に近づけるなら、seen yaでどうだろう。
seen のnはあまり後ろにリエゾンしない。seen you でもシーニューという感じにはあまりならない。
Permalink | 記事への反応(0) | 22:44
フーコー「言葉と物」二の五「言語(ランガージュ)の存在(エートル)」を読んだ。
シーニュの配置がシニフィアン、シニフィエだけになった近代以降は、ランガージュが物質的な実在とは限らなくなったこともあって“第一義的なテクスト”への接続が断たれている。文学はそのランガージュの生のままのエートルに遡ろうと頑張るけど、もはや第一義的パロールが失われてるから昔のように上手くはいかないようだ。(末法思想みたいだな。)
Permalink | 記事への反応(1) | 20:32
フーコー言葉と物、二の三「世界の限界」を読んだ。
アナロジーは実在するものと結びつき、別の相似が支えてそれを支えるのは別の相似、、というので、世界の別のものと結びつけるほかないという意味で別のところに究極の答えがあるわけではないという意味で限界がある。多分
合理性は近代人が自己の特性として至上のものと考えてるけど、占卜も博識も同じ解釈学だった。シーニュと相似者があるだけ。シーニュとソーニャは似てるけど関係ない。勉強の哲学はやはり分かりやすくて良い本だったんだな。
Permalink | 記事への反応(0) | 21:34
シニフィエとシニフィアンの関係は恣意的で、必然性はないこと。
ある一組のシニフィエとシニフィアンの組み合わせがシーニュ:”言葉”としたら、ひとつのシーニュがある状況で使われることで、別のシニフィエを得ることがあること。
そうしてシニフィアンが多層的にシニフィエを持つにいたること。
ある言葉を得るために、個人は他人と共有できる体験を通じる必要があること。
同じ言葉を得るために経てきた体験が少しづつ異なるために、個人と個人の間では共有できないシニフィエがあること。
Permalink | 記事への反応(0) | 08:58
なにを幻想抱いてやがる。
恋愛=美しい、綺麗とか言ってるのとレベル変わらんじゃないか。
浄化されたら興奮せぬではないか。記号内容が変わるんだよ、恋愛は本来抱えている俺たちのシーニュをぶっ壊してくれる。
浄化どころか破壊性に満ちてんだよ!記号の束縛からの解放感が性的興奮と密接に関わる!
ああ、上司なんてどうでもええ!親なんてどうでもええ!友達だって関係あるか!
俺とお前との間でこそ成立するシニフィアンとシニフィエの有機化合!それが愛だ!それがセックスだ!
Permalink | 記事への反応(1) | 18:49