はてなキーワード: バーナム効果とは
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。
あまり社交的とはいえません。きまじめで融通のきかないタイプです。デリケ一トな神経の持ち主ですが、人の気持ちをうまく察することが不得手なようです。また一面、あなたはややおとなしくまじめな方です。しかし、神経質でわずかなことでクヨクヨしてしまいます。
仕事を早くまとめたり新しい仕事などを覚えるのに他人より時間はかかりますが、確実に物事をやっていくタイプです。
非常に気分の変わりやすい性質です。興奮すると、大きな事故にもつながります。用心してください。
頭で考えたことを、すぐ動作に移すことが不得手のようです。
まわりの変化に対する反応がややおそいようです。
比較的おおらかですが、ときどき過敏な反応をする事があります。そんなときは、さらりと受け流しましょう。
バーナム効果かな
自分は根暗で、人間が嫌いで、自分にとって嫌なことがあるとすぐにスマホでネガティブワードで検索をし始め、精神病の名札がほしいというただそれだけの思いで精神病を調べまくってたらいつのまにかバーナム効果に陥っちゃってたり、ルサンチマンとかアレキシサイミアとかいう自分の中でかっこいいと思っているカタカナの文字列をわざわざ使いつつ、大学の心理学とか哲学だかの講義の論述問題で自分のどっよ~んとした心情を吐露して先生をドン引きさせて人様に迷惑をかけない主義の自分が先生に迷惑をかけたりしている超アイデンティティークライシス状態のつい最近虐待以外で自分の意志で飲酒しても未成年者飲酒禁止法に引っかからない程度の年齢になった大学生だけど、
本当の幸せになりたい
と思った。
自分の中での本当の幸せの定義は、「恒常的に幸せであると"感情レベル"で感じることができている状態」のことである。
感情レベルで感じるというのは、感情的に感じることができるということであり、逆に、いままで見てきた人の中に「~だから幸せだ」という、"考えた"結果として自分は幸せであると言っている人がいて、これを"思考レベル"の幸せというのならば、自分の中では 思考レベル < 感情レベル という幸せ度の違いがある。
そして3時間程度考えた結果、本当の幸せになるには性格を変えなければいけないという結論に至った(性格は簡単に変えることができないと考慮した上での結論である)。
なぜそのような結論に至ったのかというと、自分の中では感情とは脊髄反射に似たような反応であると思っていて、脊髄反射に似たような反応は性格によって起こっていると思っているので、脊髄反射的に幸せを感じるには、性格という不可侵領域をなんとか書き換えるしかないと思ったからだ。
自分の中では性格という地盤の上に考えが成り立っているので、思考レベルの幸せで妥協しようとしても、自分の場合は情緒不安定で考えが性格に支配されているので、考えがコロコロ変わり恒常的に思考レベルの幸せを感じることができない。
そこで、考えがコロコロ変わってしまうのなら、その考えを性格に強制的にインストールしてしまえばいいんじゃない?と思ったが、それはもはや"思考レベルのインストール"でしかない。
やはり本当の幸せになるためには、大嫌いな第三者に自分へ自分が感情レベルで脊髄反射的に感じる言動を与えてもらって性格を書き換えてもらうしかないのだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20170207224412
教育困難校のヤツ、遅ればせながら読んだ。
最近、自分の置かれた労働環境の悪さを嘆く増田が多いね。ネットニュースにも取り上げられたりしてさ。
この件に限らないけど、みんな仕事に要らぬ使命感持ち過ぎ。教育系とか医療系に多い。
あんま仕事を人生そのものとして重く考えすぎるな。過労死とかまさにその典型だ。
服とかアパート、クルマや家電を選ぶくらいの感覚で仕事を捉えた方が色々と楽だぞ。
理不尽な職場ならすぐ辞めろ。「私が居なきゃ・・・」ってのは大抵の場合、自意識過剰だ。
よっぽど替えのきかない奴じゃない限り、九割九分の場合「あの人辞めたんだ。へー。」で終わり。
上の奴らだって「替わりすぐ見つかるかなー。」ってなもん。イチ労働者なんて替えのきく歯車。
理不尽を押し付けられたら、とっとと「いち抜けた!」って大袈裟に辞表叩きつけて辞めちまえ。
そうすりゃ、それに続けとばかりに辞める奴が出てくるだろう。内心みんな不満だからな。
駄目押しで職場の労働環境の悪評を2chやSNS、転職会議に書いたり、親類・友人知人に全力で言ってまわれ。
この情報化社会だ。噂話ってのは想像以上に効力がある。その職場はチリツモで徐々に慢性的な人手不足に陥っていく。
最後まで残ったドM勢もさすがに耐えきれず、じきにくたばる。当然業務は立ち行かなくなる。
ここまで来ちまえば、職場側だって困るワケ。嫌々でも労働環境を良くせざるをえない。それか普通に潰れるか。
ほらな?ブラックな労働環境を駆逐するには、とっとと辞めて雇用の流動性を高めてくことが急務なのが、阿呆でも分かったろ。
だから、疑問点持ったらさっさと辞めちまえ。今置かれてる状況で即時判断しろ。待ってても良くならねえよ。貴重な時間を浪費すんな。
勿論、将来的に雇用の流動性が確保されればクビは切られやすくなるだろうが、再就職も容易になるだろうから問題ない。
辞めちまったからには少しでも恒久的なスキルが身につきそうで、ホワイトであろう次の仕事を血眼で探せ。
歯車は歯車でも、替えのきかないオンリーワンな歯車になれるように心掛けろ。そうすりゃ道は開けてくる。
なんなら知恵絞って自分で仕事作っても良い。そうすりゃ、歯車ワールドから一足早くおさらばできる。
こんなの理想論だ?うるせーよ。現にアンタら甘んじてばかりで何も行動起こしてねえだろ。受動的だから搾取されるの。
コミュ障・無能にはキツい?誰だって多かれ少なかれ、コミュ障・無能の因子持ってるっつーの。
バーナム効果だ、バーナム効果。(精神疾患とか発達障害とかは除く。)
せっかくだから、もうちょい頭使って人生有意義に過ごそうぜ。勿体ねえから。
こうやって書くとホリエモンやらイケハヤの受け売りとか言って叩かれるんだろうけどな。
一般的な脳ミソぶら下げてたら、これくらいは自明の理だと思うんだけどね。
家に帰って、日本社会ガー!老害ガー!格差ガー!労働環境ガー!と増田に書き殴るだけじゃ何も始まらん。それに全く建設的じゃない。
みんなでちょっとずつ賢くなって実際に動いて変えていかないと、我が国の労働環境は一向に良くなっていかんぞ。
「仕事ってのはこういうもんだ。」っていう固定観念を捨てて、草の根的に行動に移していくしかない。とりあえず仕事辞めろ。そんだけ。
これは絶対に許せない!俺は怒りまくっている!
Dは自分を良く見せる為にテレビ局とグルになって視聴者を騙して、あまつさえその捏造した見せかけの能力で
ここではそれを告発したい!
まるでカルトとか某有名霊能者や某有名占い師みたいだ。本当にひどい!
まずは簡単な手品を見せてすぐにタネ明かしをする。
これで自分はタネを教えてくれる人だと印象付ける。
次に正攻法ではできない不思議な手品を見せて同じくタネを教える。
しかしここでは嘘のタネ明かしをする。
まるで自分には相手の心理を全て読む能力があって、それを使って不思議な手品をやったと主張するのだ。
だってそんな事が出来たら、仕事も恋愛も自由自在だと思えるからな。
サクラ(協力者)を使った複雑な手品を見せたり嘘の話を聞かせて自分の能力を信用させ、
テレビまで使って有名になった後は、個別にカモを釣る、という部分は同じだ。
いや、それにしても、こんなカラクリを発見できる俺って超クールでカッケーと思う。
おまえらには無理だろう?
誰もこんな構造で悪人どもが金儲けしてるなんて思ってもみてないだろ?
このDってやつは、最近はトーク番組とかでゲスト相手にバーナム効果などの技を使って
美少女とかをたらし込みまくってるぜ!
誰にでも当てはまるような事を言って「君はこういう子だよ。俺は君のことはなんでもわかるのさ」ってやれば
とさえ言ってればすごい人に思われるぜ!おまえらもやってみろ。おすすめだ!
他のマジシャンとかと比べるとこんな感じだ。
手品師S | 手品師M | D | 霊能者とか | |
テレビ局がグルではない | x | x | x | x |
タネの存在の明示 | ○ | x | x | x |
手品の練習 | ○ | ○ | x | x |
手品の種類 | ○ | ○ | x | x |
効果を手品だけに限定 | ○ | ○ | x | x |
社会への影響の少なさ | ○ | ○ | △ | x |
どうだ。わかりやすいだろ。
似たような人を列挙して、それぞれの特徴を書いて、Daigoと比較してみたいと思う。
最初はマジシャンとして活動していたが、だんだん超能力者のフリを始めた。
TV局がそのように要求した面も大きいが、それに乗ったのは彼の責任。
当時はTV番組の司会者である福留アナウンサーすらサクラにしていた。もちろんテレビ局も悪い。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150615-00000003-the_tv-ent
彼の問題点は、トリックがあると明確にせず、いかにも不思議な力が自分にはあるという演出をして世間を欺いたこと。
手品師が尊敬されるのは、その卓越したテクニックや話術、ネタのユニークさなどがあり、
その技を使えば、まるで人間を超えた力を持つ者であるフリができるのに、それせずに「単なる手品師」と名乗る誠実さである。
マリックにはその誠実さだけが無かった。ただしその力を他の事に悪用して誰かを騙したりはしていない。
かれは手品師として、ちゃんとトリックを使っている事を明言している点で、そこまで罪は重くない。
しかし、やはりテレビ局の編集トリックを利用して、不思議すぎるパフォーマンスをしていた。
その場に映っている観客すべてがサクラ、などという事を平気でする。
視聴者はそのレベルの不思議さに慣れてしまい、誠実な手品師の職が奪われる。
ただ、これは悪事の主体はTV局側にある。なぜならTV局側から提案されたものだからである。
必要なテクニックを磨く努力をほとんどせずに、ただただ自分を大きく見せる事だけに技術を特化した。
しかしスプーン曲げやフォーク曲げは練習している。彼にできる精一杯のマジックがこれなのだろう。
目の肥えた昨今の視聴者にこの程度のパフォーマンスが受けるわけがない事は理解しているので、唯一の得意技であるこれらの手品のタネはあっさり教えてくれたりする。
それによって、この程度の事は自分にとってはなんでも無い事ですよ、という印象を与える事に成功している。
重要なのは、お客さんを喜ばせる為にやっているわけでは無いという点である。
普通エンターテイナーというのは客を喜ばせたいと思うものだが、彼にとっては自分を大きく見せる事の方が優先順位が高そうだ。
これが彼のアンチが多い理由だろう。明確に彼のやっている事が理解できていなくても、本能的に「あ、こいつはダメだ」と感じるので「なぜ嫌いなのかわからないけど彼は好きになれない」という現象が起きる。
ちなみに、フォークの先を曲げるには指輪を使えばいい。ひっかけて曲げるだけだ。
彼がよくやるパフォーマンスに客に色ペンで何かを書かせてそれを当てたりカラフルなボールから何を選んだか当てるものがある。
これも普通の手品だと思って見たら「そんなのより不思議な手品はいっぱい見てきたよ」というのが普通の感想だろう。
しかし彼のパフォーマンスを見ると、なぜか感銘を受けてしまう。
その本質は「うわー、この人すごい!!」と思ってしまう点である。
なぜそう思うのかというと、タネ明かしっぽく、表情を読んだとか、こういう人はこういう性格なので云々、などという説明が入るからだ。
それによって「心理学を追求すればそんな事ができるのか!自分もそれを学べばビジネスでも恋愛でもうまくできるんじゃないか?」みたいな希望が生まれる。
彼の著書が売れたりセミナーがヒットしている理由もこれである。彼は商売はうまい。
彼が全力で努力して身につけたスプーン曲げのトリックを一番最初に教えてくれるのも、ここに繋がる。
「彼は誠実な性格で、自分の手の内を教えてくれる人なんだ」という印象がここで生きてくるのだ。
視聴者は「目の前で起きている不思議な現象」に感銘を受けていると勘違いしているが、
よく考えて欲しい。単に何を選んだか当てる手品がそんなに不思議だろうか?
そんなはずは無い。それをちょっとした表情やその人の性格から当てた、という事が不思議なのだ。
あとは誰にでも当てはまりそうな事を言って、これがあなたの性格です、などとやれば人は簡単に騙される。これは占い師や霊能者などが使うテクニックでバーナム効果という。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%A0%E5%8A%B9%E6%9E%9C
彼の手品の構造は「しょーもない手品をあたかも何かすごい能力を使って不思議なことをしたように見せる」というものだ。
この構造は占い師や霊能者、カルト宗教などが使うものと同じである。
蛇足だが、彼の手品はこんなタネがあれば簡単にできるよという事を示そう。
それは協力者が送信機のスイッチを入れると演者の持つ受信機が振動するというものだ。
このような仕掛けを使えばババ抜きのようなカードゲームでも簡単に勝てるだろう。
こんなペテンでコケにされたのであればホリエモンも良い面の皮である。
なお若い人は知らないだろうが「あんた死ぬわよ」の占い師や、スピリチュアルな霊能者などの悪質さは論外なので、ここでは触れない。
彼らが毎週ゴールデンタイムの番組に出ていた時期があるのだがテレビ局にモラルはあるのだろうか?
セロ | マリック | Daigo | 論外な人達 | |
テレビ局がグルではない | x | x | x | x |
タネの存在の明示 | ○ | x | x | x |
手品の練習 | ○ | ○ | x | x |
手品の種類 | ○ | ○ | x | x |
効果を手品だけに限定 | ○ | ○ | x | x |
社会への影響の少なさ | ○ | ○ | △ | x |
「タネの存在の明示」については、Daigoは一見タネ明かしをしてるように見せて本当のタネをごまかすばかりか、タネ明かしそのものを自分の力を大きく見せる事に利用しているので、マリックより悪質。
「効果を手品だけに限定」という項目は、手品以外にも応用が効くと喧伝してない、という意味である。
マリックは「ハンドパワーは気功の応用で色々なことに使える」というような事を言っていた時期があるが、常に言っていたわけではないので不問とする。
Daigoは占い師などと同様に、自分を大きくみせる技を悪用して、企業のコンサルティングなどを行っている。
(意外かもしれないが占い師も企業の経営者に頼られていたりする。構造は同じである)
「社会への影響の少なさ」については、Daigoは論外な人達と比べるとマシだが、ビジネスに応用できるなどと勘違いさせてる点は悪質である。
論外な人たちは、それを信じた人の宗教観や世界観まで変えてしまうので悪質さはダントツで大きい。毟られる金額も桁違いである。
オウム真理教のサリン事件はテレビでオカルト番組を見て、そういう世界に拒否感を持たない人達がカルト宗教に入ったことで起きたものだ。
最初に提示された情報がそれ以降に提示される情報に対する印象に影響を及ぼす現象。
たとえば「東京の平均気温は50度より高いか?」と訊かれたあと「では平均気温は何度だと思うか?」と訊かれると高めの気温を答えてしまう。
たとえば選挙の事前予想で「A党が劣勢」と報道されるとA党への票が増える。
自発的にやっていることに他人から報酬を与えられるとやる気が低下する現象。
「好きなことを仕事にしてはいけない」などと言われる理由かも。
本人から直接言われるよりも第三者から噂として聞く方が信じてしまいやすい現象。
たとえばAさんから「綺麗だよ」と言われるよりも「Aさんがあなたを綺麗だと言っている」と聞かされるほうが嬉しい。
世界中から強豪を集めて大会を盛り上げようとするほど地元の選手が活躍できなくなる現象。
2013年にウィンブルドンでアンディ・マレーが優勝したのはイギリス人選手としては実に77年ぶりの快挙だった。
自分と同じ意見を持った集団の中に身を置くことにより偏った考えが助長されてしまう現象。
たとえば「青木まりこ現象」など。
カクテルパーティーのように大勢の人が会話している中でも、自分に関する言葉や興味のある言葉は聞き取れる現象。
相手の表情や仕草を真似て接していると相手から好意をもたれやすいという現象。
ある物事を意識した途端にそれに関する情報が目に付くようになる現象。
たとえば知ったばかりの言葉が急に世間でよく使われるようになったように感じたりする。
「見てはいけない」と言われると見たくなる現象。映画『カリギュラ』に由来。
以前に名前を聞いたことがあるというだけで有名人だと錯覚してしまう現象。
気分が良い時には良いことを、気分が悪い時には悪いことを覚えやすい、という現象。
過去に本で読んだり人から聞いたりした話を、まるで自分自身が体験したかの様に思い込んでしまう現象。
動物が周囲の人間の顔色を窺ってその期待に応えるように振る舞う現象。
「計算ができる馬」として有名になったハンスという馬が、実は飼い主や観客の動きを見ていただけだったという出来事に由来。
さっと視線を動かしたとき、その直後に見たものがわずかに止まって見える現象。
たとえば時計を見たときに秒針がなかなか動かないように感じる。
たとえば「捨て猫を助けるヤンキー」など。
何かの形をじっと見ていると、そのうちに「こんな形だっけ?」と元の形が分からなくなってしまう現象。
途中で失敗に気付いても、それまでの投資が無駄になるのが嫌で、やめるにやめられなくなる現象。
たとえば「鉄1kgと綿1kgはどっちが重い?」と言われると「鉄」と答えてしまう。
デパートの上層階の施設を充実させることで、そこに行って帰るまでの「ついで買い」を狙う戦略のこと。
ある情報を隠そうとするほど、その行動によって逆に目立ってしまう現象。
女優のバーバラ・ストライサンドが自宅の映った写真を取り下げさせようと訴訟を起こしたことに由来する。
たとえば赤色で『青』という字が書かれていると意味を把握するのに時間がかかるなど。
蛇に咬まれることはめったにないが一度でも咬まれてしまうと蛇を恐れるようになるということに由来。
信頼できない人から聞いた情報を時間経過と共に信じるようになる現象。
「情報」だけを覚えたまま「信頼できない人から聞いた」ということを忘れてしまうため。
達成できたことよりも達成できなかったことのほうを忘れない現象。
自分の名前や誕生日などにまつわる言葉や数字を無意識に好んでしまう現象。
幸運により金を得ると「無くなってもプラマイゼロ」という心理が働いて金遣いが荒くなってしまう現象。
たとえば予想以上のヒットで儲けた金をハイリスクな投資に突っ込んでしまうなど。
切りの良い数よりも中途半端な数の方が信頼性が高く感じられる現象。
たとえば「100%の人が高く評価した」よりも「99.8%の人が高く評価した」のほうが宣伝効果が上がるなど。
誰にでも当てはまるような曖昧な評価を自分によく当てはまっていると感じてしまう現象。
何かを評価するときにその特徴的な部分に印象が引きずられてしまう現象。
たとえば「身体能力の優れた人は性格も優れているだろう」と思い込んでしまうなど。
たとえば選挙の事前予想で「B党が優勢」と報道されるとB党への票が増える。
たとえば「5000円」と「4980円」とでは後者のほうが実際以上に安く感じられる。
酒に酔うと異性が魅力的に見える現象。
ロボットやCGモデルなどの容貌が人に近づくほど気味が悪く感じられる現象。
あらかじめ聞かされた情報がそのあとに聞かされる情報に影響を与える現象。
たとえば車について雑談した後にしりとりをすると車に関する言葉を思い出しやすくなる。
サッカーのオフサイドの判定などに影響を与えていると言われる。
デパートの地下の施設を充実させることで、そこに行って帰るまでの「ついで買い」を狙う戦略のこと。
その人の性格や特徴、職業まで思い出せるのに名前が思い出せない現象。
「誰かが通報するだろう」「周りの人も何もしていないから」「他人の目が気になる」などの心理の複合。
たとえば医師の期待を感じた患者が、実際にはそうではないのに「病気が良くなった」と報告してしまうなど。
悪い変化が起きていても、それがゆっくりとしたものだと、何もせず受け入れてしまう現象。
個々人は穏健であっても集団で協議を行うと極端な結論になってしまう現象。
積極的になりすぎるのがリスキーシフト、消極的になりすぎるのがコーシャスシフト。
何かのリストの内容を思い出すように言われたとき、手がかりを与えられたほうが逆に思い出しづらくなる現象。
共同作業を行うときに全体の人数が増えるほど一人一人が手抜きをしてしまう現象。
たとえば3人vs3人で綱引きをすると全力を出すのに、10人vs10人のときは無意識に力を抜いてしまう。
自分の特徴が、毒親の子供に色々と当てはまる気がするんだが、肝心の虐待をされた覚えがない。
親は決して子供に手を上げない人だったし、精神的DVとやらもあまり心当たりがない。
親が離婚・再婚はしているが、理由は性格の不一致みたいなことで、酷い修羅場などは特になかった。
離婚後も両方の親に会っているし、どちらも相手の事を悪し様に言ったりせず、特に問題は起きていない。
再婚相手も良い人で、邪険にされたような覚えは一切ないし、離婚した親の方にも気を使ってくれる。
そりゃあ、少しややこしい環境ではあるかもしれないが、親だって20代やそこらで結婚しているのだから、その時点で完璧な選択を期するなんて無理があると思う。
結婚後何年か経って、色々と食い違いが表面化して、子供の前で喧嘩するのも良くないと思ったから離婚するというのは、仕方のないことではないだろうか。
離婚したという一点を以て毒親とするのは気の毒だ。
毒親の子供の特徴自体が実は曖昧で、バーナム効果で当てはまったような気がしているだけなのだろうか?
それとも、親が悪くなくても場合によっては同様の子供が育つのだろうか?
もし後者なら、毒親という呼び方はもう少し考えた方が良くはないだろうか。
バーナム効果でしょ。血液型何とかで「XXX型の人はXXしやすい」「XX型の人はXXXをしてしまう」と一緒。
http://anond.hatelabo.jp/20090127091117
もういるじゃん・・・。