はてなキーワード: 伊勢海老とは
「本当に混乱したことがある」「国防色では?」ミリタリーオタクの言うカーキ色とアパレル業界のカーキ色は全く違う色なのかもしれない
https://togetter.com/li/1793680
カーキ(英語:Khaki)とは「土埃」を意味する言葉で、主として軍服に用いられる淡い茶系色を指す。
「軍服色」という意味合いで、森林地帯での戦闘を想定して採用された米軍のくすんだ濃緑色(オリーブドラブ) のこともカーキと呼ばれるようになり
と日本語版Wikipediaに記述があるが、英語版の説明では、英連邦諸国(コモンウェルス諸国)においてKhaki green をカーキと略すこともあるらしい。
<追記>
カーキ増田を見つけたので記す。
https://anond.hatelabo.jp/20230613182714
<追記終わり>
鶯色(うぐいすいろ)とは灰色がかった緑褐色を言う。(ウグイス由来)
抹茶色に近い柔らかな黄緑色を連想する人もいる。(メジロ由来)
ホーホケキョという鳴き声のウグイスは警戒心が強くなかなか姿を現さない。
春先に見られる鳥の関係が混同され鳥に由来する名前の色のイメージも変化した。
<追記>
鳥好き増田を見かけたので記す。
https://anond.hatelabo.jp/20220216120312
<追記終わり>
葡萄色(えびいろ)と海老色・蝦色(えびいろ)の色が近いことと葡萄(えび)と海老(えび)と音が通じるため、後に混同された。
緑色 (green) と青色 (blue) とを分節しない語彙を、言語学者はグルー (grue) 呼び、
緑色と青色を明確に切り分けない言語は言語はグルー言語とも呼ばれる。
浅葱色は青緑。
英語では亜麻の種の色のような淡い黄色。転じて明るい金髪の形容。
ドビュッシーの曲「亜麻色の髪の乙女」の元となる詩を書いた詩人ルコント・ド・リールはフランス人だが
フランス語では亜麻色(白)……亜麻の繊維の色のような薄いベージュ色と、
亜麻色(灰)……亜麻の花の色のような薄紫色。
仏詩人の亜麻色という表現は英語からの借用だったのではないかとの研究。
亜麻色の髪とは、淡い栗色ではなかった
物心がついた頃からずっと、二次創作は私にとって身近な存在だった。
シンデレラ、白雪姫、ラプンツェル。気に入った話があればすぐ「続きは?」とせがむ私に母はよく即興の続編を聞かせてくれた。
本を読んでくれるのは昼間だが、続編を聞かせてくれるのは眠る前の布団の中だった。
お話をしてもらえない日の夜は、仕方ないので自分の二次創作妄想で眠りにつくまでの時間を埋めた。母の語る話には遠く及ばないが、神が書いてくれない日は自分で書くしかない。私は今でもそう思っている。
お気に入りの妄想は、シンデレラや白雪姫が王子様に嫁いだあと、隣国の王子が姫を奪いに攻め込んでくる話だ。
自軍が不利な戦況になり、さらわれそうになったシンデレラが、果敢に剣術で立ち向かい隣国の王子を斬り捨てるシーンが特に好きだった。
隣国の王子を殺したあとは、隣国の家臣から銃殺されることも少なくなかった。
母のお話では主人公は死なないので、軽率に死ネタ妄想ができるのはひとりで寝る日だけの特権だった。
まあ、そうやってお話で寝かしつけられていた私は、下の子が生まれると今度はお話をしてあげる立場になった。
内容は好きなアニメや絵本、漫画のキャラクターがよその世界に遊びに行ったり、冒険をしたり、無人島に漂流したりする、雑多なクロスオーバーだったように思う。
小学生の発想力なんてそんなもんだ。
私がおはなし上手だったのか、それとも下手なのか、今となっては確認するすべもないが、当時はそれなりに喜ばれていた。
もうお話してあげないよ!と言って下の子を脅したり、言うことを聞かせたりしていたかもしれない。最低がすぎる。界隈でROM専相手に横暴きわめる同人女かよ。
「あの…そういう方に私の作品をお見せすることはできません。これからはリスト限定公開とさせていただきます。」「こんにちは!〇〇さんの繊細でありながら大胆な絵柄が大好きです!よろしければリスインお願いします💦」「初リプ失礼します。いつも〇〇さんの作品に元気をいただいています。昨日上げられていた✕✕の△△も、なんと申し上げて良いのか…すごいの一言です。もしご迷惑でなければリスインしていただけないでしょうか。」「初めまし
いやまあなんでも良いけど。
私はほぼ毎晩のようにお話をした。家族で伊勢海老を食べに行った日は、セーラームーンが無人島で釣った伊勢海老をエビグラタンにする話をしたし、幼稚園の運動会が近いときは、テレビで見たキャラがみんなで運動会をやる話をした。
大玉転がしの玉の下敷きになるハム太郎の話に、かけっこで水の上を走るバジリスクの話。応援テントで酒盛りをしているアガサ博士と毛利小五郎の話。バジリスクはダーウィンが来たに出ていたのを一度見ただけだが、かなり気に入っていたのでどの話にもちょいちょい出した。
いくらでも作れたし、思いついた話を笑って聞いてもらえるのはとても楽しかった。
しかし私がどんなお話をしようと、界隈の神は揺るぎなく母であった。
特別な夜にだけしてもらえる母のお話は、いつも夢中になるくらい面白くて、私なんか台詞、ストーリ、構成。どれをとっても母には敵わなかった。
私の話はキャラ萌えと勢いの良いギャグだけが売りの、とっ散らかった話だ。毎日連載し続けた根性はともかくとして、行き当りばったりで筋の通ったストーリーが一つもない。
まあしかし、特に私は母に嫉妬するでもなく、たまに母のお話が聞ける日をとても楽しみにしていた。
そんな私がジャンル撤退するきっかけになったのは、別の神との出会いだった。
10歳の頃、初めて使ったインターネットで、なんとなく好きなアニメについて検索していたら、同人サイトに入ってしまった。
同人サイトの主は原作によく似たきれいな絵を描く人で、私はたちまち彼女の虜になった。
そこから私は「寝る前のおとぎ話界隈」という平和な世界に彼女の解釈や妄想をそれとなく持ち込むようになった。
下の子は世界観のアンバランスさに文句を言いながらも、はじめは許容してくれていた。
でも私が「同人サイトで出会った神」から得たネタを使う割合が増えるに従って、「寝る前のおとぎ話界隈」はどんどん崩壊していった。
それまでハリーポッターにもおじゃる丸にも濱口優にも等しく見せ場があったはずなのに、私が「新しい神」に毒され好きなキャラばかりを贔屓し始めたからだ。
やがて、「寝る前のおとぎ話界隈」は、かつて神であった母からの「あんたたちいつまで一緒に寝てるの?」という言葉により終了した。
そのとき既に私の関心は新しい「神」に移っており、特に未練はなかった。
産まれてから10年。私に二次創作の楽しさを教えてくれた本当に長い付き合いの界隈であった。
まああれから十数年経った今も、私は好きなジャンルの同人界隈に属し、二次創作を書き散らかしている。
下品なエロを書くこともあれば、原作のほんの一コマを補うなんでもない話を書くこともあるし、昔みたいに推しをシンデレラにする日もある。
しかし「寝る前のおとぎ話界隈」にいたときほど自由に、のびのびと活動できることはもうないと思う。
性欲とか、原作レイプとか、解釈違いとか、神への嫉妬とか、スランプとか、評価とか、感想とか、ネタ切れとか、文才とか、表現力とか、完成度とかそんなことは一切考えずにただ思いついた話を語り、それを聞いてもらうだけで楽しかった「寝る前のおとぎ話界隈」
二次創作は全部オタクの戯言だとか、他人の褌で相撲を取る下劣な妄想だとか言われると、まあ今の私は怒らないけど、10歳の私はきっと怒るだろうなと思う。
あの頃の私は原作を神だなんて思ったことはなかったし、世に出されたキャラクターは読者みんなのもので、ルパンも桃太郎も鉢かつぎ姫もひとたびお話に出してしまえば全部自分のものになった。
キャラクターはみんなのものだと言いたがらないミッキーマウスは嫌いだった。絶対お話には出さなかった。
を見て思い出したので書いてみる
元々水捌けがよすぎて、水害にも水不足にも悩まされる土地だったため
多少の反対はあれどすんなりと決まっていた覚えがある
市内の人もダムの水を使うということで、小さな村の大した価値もない土地だったがなかなかの額を提示され
たまたまダム予定地に半放置農をしていた婆ちゃんと俺の親(出戻りのシンママ)はホクホクしていた
住み慣れた環境と小学校を変えてしまうのもどうなんだってことで、ダムから少し降りた小学校のそばの土地を買って、家もローンを組まずに一括で建てた
山上の学校よりもさらに標高が高い山奥に住んでいた俺としてはこれ以上ない幸福だった。
それから暫くは何をするにも景気良く、その頃できたばかりであった遊園地にも行ったし、婆ちゃんと母ちゃんと俺の3人で伊勢参りにも行った。その時初めて食べた伊勢海老は今でも俺の好物である。
俺の小学校は1学年1クラスとかなりこじんまりしたところで、ダムで土地を売った組はクラスに3人。3人のうち、ダム予定地に住んでいたのは俺1人ということもあって、それからいっときはクラス中の興味が俺に向いていて随分楽しかった記憶がある。しかし、そんな俺以上に注目の的となったのが親父が建築会社をやっていた山内さん(仮)で、急にお嬢様になった彼女は田舎の小学校にあるまじき可愛らしい格好で登校するようになり、女子は勿論、男子の間でも「今まで気にしてなかったけどよく見ると可愛い」と話題になったものだ。(同時に注目を浴びた俺と山内さんは夫婦、とからかわれ俺は内心満更でもなかったのだが、何も起こることはなく、山内さんは中学校に上がってのちに生徒会長に抜擢される出木杉みたいなイケメンと付き合うこととなったという儚い思い出がある。)
その頃の小学校は山間部に住む生徒が多く、ダムの話は他人事ではなかったんだよな。一度はダム候補地になったものの、外された所の子なんかには少しやっかまれた。
そんな一時のダムバブルも少しすれば忘れ去られ、いつもの日常が戻った。
その頃、DV(などという言葉もなかったが)がひどく離婚もままならないままに逃げてきた父親がどこかからダムの話を聞きつけて、家に襲撃し、俺の親権を求めて訴えてくるというなんとも情けない事件もあったものの、それ以外はごく普通の平和な生活だった。
ダムができたことによる影響といえば、遠方の大学に行く学費+仕送りを母に出してもらえたことぐらいだろうか。シンママで、役場の仕事と少しの畑仕事(みかん農家だった)だけの母の稼ぎでは、とてもじゃないがそこまでは叶わなかっただろう。
俺の村では殆どが高卒だった中、市内の頭の良い学校に行って大学進学、という努力ができたのもダムのおかげだ。
今では東京育ちの嫁さんと結婚し、すっかり都会暮らしに慣れきっているので、ダム底にかつての家があることを思い出すと、なんとも奇妙な気持ちになる。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 136 | 18368 | 135.1 | 39.5 |
01 | 53 | 7563 | 142.7 | 43 |
02 | 70 | 9059 | 129.4 | 32.5 |
03 | 43 | 3981 | 92.6 | 40 |
04 | 18 | 816 | 45.3 | 25.5 |
05 | 28 | 2666 | 95.2 | 42.5 |
06 | 30 | 2576 | 85.9 | 41 |
07 | 25 | 2510 | 100.4 | 40 |
08 | 76 | 6343 | 83.5 | 56 |
09 | 83 | 14328 | 172.6 | 48 |
10 | 152 | 10724 | 70.6 | 36.5 |
11 | 82 | 8555 | 104.3 | 46.5 |
12 | 148 | 12115 | 81.9 | 28 |
13 | 92 | 8922 | 97.0 | 43.5 |
14 | 182 | 10169 | 55.9 | 33 |
15 | 129 | 13443 | 104.2 | 42 |
16 | 143 | 6408 | 44.8 | 25 |
17 | 126 | 9633 | 76.5 | 43.5 |
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23 | 85 | 8183 | 96.3 | 44 |
1日 | 2228 | 200291 | 89.9 | 39 |
小川榮太郎(6), ラストクリスマス(7), ウザカワ(4), 伊勢海老(9), 添わ(4), 伊藤氏(6), 長尾(3), セカンドレイパー(5), 山口氏(9), 山口敬之(12), EP(10), 山口(35), クリスマス(26), 被告(11), 証言(17), 刑事(13), 強姦(20), 有罪(11), レイプ(54), 無罪(22), ラップ(8), 性交(10), 意(10), 合意(16), マ(9), 中傷(8), 裁判(16), ガイジ(15), ホテル(15), 訴え(19), 酒(25), 加害者(14), 証拠(21), 意思(14), 飲ま(9)
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ふと生まれ育った町の情景を夢で見て、多少思うところがあったので気持ちを書き留めようと思う。
静かな入り江から小さな漁船が海の彼方へ消えゆくような、そんな夢だった。
最近よく見かける「田舎で非知識階層に囲まれて育ったけど、地元に馴染めずなんだかんだで都会に出てきて過去やホームタウンを思い返すたびに多少絶望する」という散文的な自分語りであることを先に断っておく。
ただの個人の経験であり、エスノグラフィのようなものだと思って読んでもらえれば嬉しい。
確かに「東京の人間が想像することも出来ないような社会」が日本のどこかには必ずあって、学ばないことが規範と化して社会が再生産されているということ。
名古屋まで電車で1時間半以上、文化的な施設といえば聞いたことのない演歌歌手がたまに来る小さな市民ホールと、小さな本屋が2軒あった。
2軒の本屋は万引きの被害額が大きすぎて自分が町を出た後に潰れた(跡地はセレモニーホールという名の葬式場になった)。
1時間に一本しか電車のこない駅から伸びるメーンストリートで今でも開いている店は、年金暮らしの年寄りが趣味でやっている畳屋と宝くじ屋しか無かった。
街中でスーツ姿の人は見たことがほとんどなかったし、そもそも人が出歩いている記憶すらない。
高卒で一度も町から出たことのない母親は、漁師を相手にする場末のスナックで働いて自分を育てた。
同じ町で漁師をしていた父親はフィリピンパブで出会ったフィリピーナに入れ込んで、小学2年生くらいの頃に母親と離婚した。
それより前には「キミの父親は不倫をしているんだ」と小学校の同級生の母親から聞かされた。
相手は近所に住んでいた太ったおばさんだったので、あんなデブとなぜだろうとその時は疑問に思ったけどすぐに忘れた。
最後に父親と会ったのは、父親が家を出て半年後くらいに小遣いをやるからと呼び出された紫煙で視界の悪い雀荘だったと記憶している。
その後は行方不明で、風の噂では今はマニラに住んでいるらしい。
こんな家庭環境は、東京の自分が属するコミュニティでは聞かない。
なぜそんなことにわざわざ触れたかというと、自分の家庭は何も特別ではなく、周囲を見渡せば程度の差はあれどどこもそんなものだったから。
親が大卒の同級生なんてクラスに1割も居たかという感じだったし、自分が通った地元の中学校には200人くらい同級生が居たがそのうち大学に進んだのは20人くらい。
自分は博士まで進んだが、マスターレベルですら聞いたことがない。
あとで詳しく触れるが、そもそも勉強をするとか考えること自体を忌避するという一貫したスタイルがあらゆる局面で通底していた。
さて、シングルマザーの家庭はクラスに3割は居たし、両親が揃っていても母親・父親違いの兄弟姉妹が居るなんて話も珍しくない。
親世代の職業は漁業か水産加工、町工場、自動車修理で、小中学校教諭や公務員の子息は格の違いを醸し出すスーパーエリートの家庭扱いだったし、家も小綺麗だった。
スーパーエリート以外は、トタンの壁が海風で茶色く錆びて、汲み取り式のトイレから伸びる煙突の先がクルクル風で回っている文化住宅か、古民家カフェを思いきりボロボロにしたような都内なら廃屋だと思われるような家に住んでいた。
町工場に勤めている人たちで指が無くなったなんて話もよく聞いたし、どこそこの家が生活保護受給とかという話もよく聞いた。
クラスメートが学校を翌日休む理由が、その前に起こした暴力事件で家裁に呼び出されているからとかもよくある話だった。
そんな彼らが余暇にすることといえば、スナックかフィリピンパブ、ギャンブル、セックスくらいしか聞いた限り思いつかない。
確かに、成人した兄がいる同級生の家に遊びに行った時には、真昼間から居間で同級生の兄と派手な格好をした若い女性がセックスをしていたし、パチンコ屋には毎朝人が並んでいた。
ギャンブルはパチンコか電話で投票する競馬が主流だったが、甲子園の季節になると地元の暴力団が元締めをする高校野球賭博も流行っていた。
暴力団は偽ブランド品も売りさばいていて、軽自動車にスウェット姿だけど鞄は高級ブランド(偽物)という出で立ちの女性をよく見かけたものである。
まぁこんな感じでつらつらと思いつくまま挙げてみたが、自分の身の回りで溢れていたのは、キーワードでいえば貧困、性、暴力、ギャンブルだった。
そもそも大人たちがそんなスタイルだったので、子供達も似たような社会をフラクタル図形のように構成していた。
小学校の頃には駄菓子屋やコンビニでの万引きが横行していて、後に刑務所に入るような子供たちはその時代からすでに盗んだタバコを吸って、やっぱり盗んだバイクに乗っていた。
暴走族(ゾク)に入って大人たちを殴ったり大怪我するほどのゾク同士の喧嘩をする中学生たちが小学生のヒーローで、ゲリ便が出る時のような音を撒き散らすバイクに皆憧れていた。
そんな時に暴力的な彼らは、異質な存在を排除することが大好きで、異質とみなされた同級生は徹底的に排除された。
小学6年生のとき、教室に入ったらメガネをかけている子が素っ裸で椅子に縛り付けられて頭にバケツを被らされていた。
メガネは弱いものの象徴で、勉強や議論をするような人間は排除の対象だった。
文革かって感じ。
反対に、野球が上手いか、足が早いか、ケンカが強ければヒエラルキーの上部に君臨できる。
動物的に強弱を判別できることがそのままヒエラルキーの源となっていたし、意思の合意は感情とその時の雰囲気で決まっていた。
そして中学生になると、今度は成績が良い人が排除の対象となる。
真夏に水を飲まずに走りこんで泣きながら試合に負ける部活に打ち込むことがすべてに勝り、もしくは非行に走ることがある種の中学生らしさであるというコンセンサスを伴って正当化されていた。
授業中には廊下を自転車が走り、思い出した頃に校庭に暴走族や野良犬があらわれる。
トイレにはタバコの吸い殻が落ちているし、たまに窓ガラスは割られていた。
教師はたまに殴られたり、殴り返したり、車を壊されたりしていた。
一方で登校している生徒にとっては、校則はフーコーのパノプティコンも真っ青な規律を自動化させるもので、髪型は男子は坊主、女子は肩まで。
他にも細かい校則がたくさんあって、破れば容赦無く教員から殴られる世界だったし、皆が一緒であることを望んでいたので、逸脱すれば容赦無く告げ口されていた。
校則を破らなくても、目立てば排除の対象になりうるので、いつしか自分も誰かが見張っていると意識して、いかに溶け込むかを重視するようになっていた。
そして積極的に学んだり考えることが嘲笑の対象であったので、そこでもやはりセックスをしたことがあるかとか、バイクの知識があるかとか、そういう分かりやすい尺度でヒエラルキーが構成されていた。
授業中に教師から指名されて小難しい答えを言ったり、発音記号通りに英単語を発音しようものなら3日は真似をされてイジられるのは御多分に洩れず自分の地元も同じだった。
テスト期間は早く帰れるので皆喜んで下校後に遊ぶレベルの勉強に対する姿勢で、将来は男子は工業高校、女子は商業高校に通ってそのあとのことは何も考えないのが一般的だった。
ここまでは自分がライブで触れた15歳くらいまでの環境の話で、せいぜい15年くらい前の話だ。
はっきり言えば、そのような環境はまっぴら御免だし、そんなところで自分の子供を育てたくはない。
さて、経緯は知らないが、自分は幼稚園の頃にIQテストを受けた。
そのあとに、あなたの息子は知能指数が高いから相応の教育を受けさせてあげてくださいと園長先生から母親はコメントをもらったらしい。
大学のことすらよく知らない専門学校卒の母親だったが、自分を都内か海外の全寮制の学校に小学生のうちから預けようとした。
だが、当時の自分はこともあろうに泣き叫んで拒み、結局は地元に残ることを選んだ。
当時のことはよく覚えていて、理由は友達と離れたくなかったから。
その時に知りうる限りの世界を取り上げられることに対する極端な不安が何よりも勝っていて、母親は息子の気持ちを優しくも汲み取って折れた。
小学校に上がった時、小1か小2くらいの頃から、本を読み始めた。その頃に三島由紀夫や島崎藤村やら、古い作品から新しい作品まで縦横無尽に慣れ親しんだ。
早朝に登校して空いた時間や、ジャンケンで負けて押し付けられた図書委員の時間、図書室でひたすら本を読んだ。
そのうちに、自分が生活する社会と根本的に異なる社会、つまり学び、考えることが重要であるという社会が存在することを知った。
哲学や思想系の本はもちろんのこと、西洋美術の画集や建築の写真集に心を揺さぶられたし、マーラーのCDを初めて聞いた時の感動は死ぬまで忘れないと思う。
めちゃイケを好むふりをして、自分は加藤周一の羊の歌に感銘を受けて、とりあえず東大に行こうと中学の頃には考えていた。
そして周囲に迎合しつつも高校に進んだ。いわゆる地方の公立トップ校だった。
他にも理由はあったと思うが、中3の時には成績が良いという理由でものを隠されたり上履きにガムが入っていたこともあった。
入学から1ヶ月もしないうちに、明らかに新たな社会、社会階層に自分は組み込まれたと自覚した。
同級生の親の職業は、医者、弁護士、会計士、大企業の社員ばかりだった。
誕生日には名古屋のデパートの上層階のレストランだったり、どこぞで伊勢海老を食べるだのとそんな話もたまに聞いた(成金的な家はあまり無かったけど)。
彼らの親は旧帝国大学出身はざらにいたし、兄が東大、今はオックスフォードに留学中とかそんな話も当たり前にあった。
幼い頃からピアノやバイオリン、書道、バレエ、スイミングなんかをやっているのがマジョリティだったし、週末に美術館やコンサートホールに足を運んだという話も決してレアな話ではなかった。
彼らと出会ってとかく感動したのは、好きだった本や芸術の話を初めてリアルの人間とできたことだった。
そして何より彼らは、自身の解釈や、見解を示してくれたし、自分のくだらない議論にも向き合ってくれた。
もちろん性やギャンブル、暴力、ワンピースの話もたまにはあったが、それ自体を享受するだけでなく、思考の対象としても話題を取り上げることががあった。
高校以来、自分は学び、思考する人しか存在しないかのように振る舞う社会に身を置き続けている。
今にして思えば、もっと早く外の世界に出た方が良かったのではと素直に思う。
なぜなら、受動的に与えられたその社会が自分のすべてだったから。
母親が母親であるように、生まれ育った社会は生まれ育った社会であって、代替がきかない。
自分はたまたま、自分が立っていた社会と違う社会を知りうるきっかけを子供の頃に得たから今があるのであって、その機を逃せば一生地元に居ただろう。
なぜなら、考えることや知ることを拒むことが規範となる社会では、外の世界があるということ自体を知りようがないのだから。
自分は考えることも、こうして頭の整理をすることも好きだ。
パチンコの新台や、友達の奥さんが不倫をして旦那が相手と殴り合いの喧嘩をしたとか、そういう動物的な話題を「それ自体」をただ消費する社会に少なくとも自分は興味がない。
もちろん、そういった社会(自分が経験したような)を否定する理由はどこにもない。
ただ、自分が故郷を捨てたように、その社会に残るのは、その社会に適応しきった人々である。
有り体にいえば、将来の選択肢の存在すら意識できないのが自分の体験した社会であり、どのような選択肢があるのか獲得しようする営みそのものが封建的に否定される強い構造を伴っている。
だからこそ、自分の田舎はいつまでも同じ姿を留めることに成功しているのだと思う。
もちろん、その社会自体が恐ろしいぬるま湯であり、外には異なる社会が存在することを予期している人も稀にはいることだろう。
幼い息子を外の世界に出そうと考えた母がそうだったように、おそらくそれに気付いた時に自身を好転させるにはあまりにも遅い場合が大半であると自分は思う。
そして、自分は今更何があったとしても、地元の彼らと交流することはできないし、するつもりは一切ない。
母はもう二度と戻ってくるな、お前の居場所はもうここにはないと電話口でことあるごとに言う。
一方で、開成や筑駒から東大に進んだ都内組は何も捨てることなく、安定的に自分が望んだ社会を享受してその上に今も生活を営んでいる。
それは誰でもそうであるように、最後の最後に拠り所となり得る自らの地域的なアイデンティティをきちんと持っているということである。
自分は依拠すべき地域(地元)を自己実現と引き換えに失ったのであって、願わくば我が子には地元を与えるか、もしくは地元がなかったとしてもサバルタンとなり得ない思想的な土台を築いて欲しいものである。
道の駅やまだに行きましたわ!高速バスがこんなマニアックなところに停まるなんて驚きでしたわ!
やまだでかきラーメンを頂きましたわ。元祖だとかなんとか言ってましたがラーメンに牡蠣が突っ込んであるだけな感じでしたので他の牡蠣の産地でもなんかありそうな感じでしたわ。
やまだは割りとどうでもよくて、本命の鯨と海の科学館に行きましたわ。こちらは3.11震災後しばらくお休みでしたが17年7月15日再開していましたわ。海全般や山田の海とかいろいろと展示がありましたが、やはり目玉はほたて河童!『山田湾のカキやホタテなどの海の恵みや美しい景観をいつまでも見守る心やさしいカッパということで、山田町商工会が作ったマスコットキャラクターです』エロ目でしたわ。
本当の目玉はマッコウクジラの骨格標本ですわ。骨格なので目玉はありませんでしたわ。
世界最大級らしいですわ。17.6メートルもあるらしいですわ。わたくしの10倍はありますわ。10倍ですわ10倍
そして展示出口外の売店コーナーにはなんと水槽がありましたわ。いや水槽があることは知っていましたわ。サ……サ……
本当はこの後にかきラーメンを食べて買い物をしていましたわ。
そして到着したのが鉄の歴史館ですわ。
確かこの館がある釜石でその昔に日本初の西洋式の製鉄所を作ってそのまま製鉄の街になったとかなんとかだった気がしましたわ。サ……サ……サバはいませんでしたわ。いる余地がありませんでしたわ!いる余地がありませんでしたわ!
田舎の実家では、法事となると親戚を集めて宴会が催されていた。
なんせ田舎なので家が無闇に広くて、襖を外して30畳くらいの和室を作ってワイワイやる感じ。
そこではいつも、仕出し弁当屋さんが持ってくるお膳を食べていたのだが、どれもこれも作り置きで冷めていて、固形燃料の土瓶蒸しが辛うじて暖かさを得られた。
冷めた料理の中でも、伊勢海老を半分に切ってグラタンぽく焼いたやつ(料理名がわからないが洋食ではない)がとりわけ食いづらくて悲しかったのを覚えている。
大人になった今なら、酒を飲みながら、大人同士の話をしながらであれば、あのお膳も美味しく食べられるのかな、と思うのだけど、あの場にいた爺さん婆さんたち、みんな亡くなったんだよなあということに気づく。
今は、あれはなんだったのか、を確認できないのが悲しい。