はてなキーワード: 一言とは
しかし、正義感あふれる人々が目を逸らすとある興味深い事実が存在する。
それは、現実には「ロリコンよりも親からの加害の方が多い」という有名な事実だ。
最近のロリコン・小児性愛者論争はこのことが無視されがちではないかと思う。
アメリカ白人が「イスラム系のテロを許すな!」とイスラム系をいじめてたら、実際の国内テロは白人の方が圧倒的に多かった、みたいな話ですな。
家族を守りたいという動機であろうと、普通このアメリカ白人は「差別主義者」扱いされますよね。同じ話なんです。
テロは許しがたい。
しかし実際にテロを起こしているのは違う人物かもしれないのです。冷静になりましょう。
口で何言おうが現実に手を出さないロリコンより、「何も言わないけど現実に手を出す親」の方が悪い事は当然わかりますよね?
ロリコン・小児性愛者というだけで差別していいなら、「親」を理由に差別するほうがはるかに合理的になってしまう。
差別、よくない。
そもそも、小児性愛者は「子供への加害(性行為)」を認めろなんて要求は、していない。
していても極一部だ。それを全体の主張とすりかえるのは、当然詭弁です。
もちろん例のラブドールのツイート主だってそんなことは言っていない。
「現実の子供に手を出す前に」という発言が危うかったのはわかるが、これは言葉のチョイスが悪かっただけ、単なるミスの話だろう。
このツイートを糾弾していた例のnoteの表現に従うならば、あれは「社会的な責任を意識しているからこそ」出てきた一文でしかない。
逆に責任を意識していなかったら、そもそも出てくるはずがない発言だ。
「現実の子供に手を出すのもいいけど、ラブドールもいいよ!」だったならともかく。
犯罪を抑止する発言だったことはまるっと無視して無理やり悪意を見出す行為は、どう考えてもフェアじゃない。
加えて例のnoteが醜悪だったのは、「法律に関する嘘までついて」いる点だ。
法律の嘘については別の増田が解説している。 https://anond.hatelabo.jp/20200901160242
「自分の主張を通すためなら、法律に関わる嘘をついても構わない」という思想の人間が言う事を、あなた簡単に信じるんですか?
それ普通に考え直したほうがいいですよ。
そもそも「小児性愛者が現実で思いを遂げる」という「抽象的で曖昧な表現」をわざと使っていることからして、読者を煽る気満々だ。
文脈を限定しているようでいて、「性行為をしたら」などと直接言及しないのが実に卑怯でいやらしい。
小児性愛者だろうと博愛主義者だろうと、個人の「思い」なんて千差万別なのに、「小児性愛者が思いを遂げたら、即犯罪(これすら嘘)」だそうである。
あのnoteは「小児性愛者の思いはすべて犯罪に関わることだ」、とすり替えている。
実際には、「現実には手を出したくない」という思いの方が強く、大多数なのに。(もしそうじゃなかったら、日本は世界一の性犯罪大国である)
どれだけ悪意がつめこまれてるねん。
また、「小児性加害に関する話題はツイッターの規約で禁止」としつこく書いているが、本当に小児型のラブドールの話=小児性加害の話だろうか?
そうであるならば、元ツイートに関して言及することだって十分「小児性加害に関する話題」だと思うのだが、それはいいのか?
堂々と正論を述べているようでいて、実態は「自分に都合のいい線を引きまくり」の文章でしかない。
こんな不誠実なnoteに煽られる前に、皆さんには一旦冷静になることをおすすめする。
「ロリコンがネットで何かを言うこと」にフォーカスがずれているように感じるのだが、それ、なんか解決になるの?
現実の児童への性加害を放置するより、「ラブドールで欲望を発散することによって現実の児童に対する性的欲求を抑えることができる」ことを啓蒙する方が、まだ有意義じゃないだろうか。
さらに一部では小児性愛者が「子供への加害(性行為)」を要求しているかのように誘導していますが、それは普通に差別扇動です。
間違った認識を元にイスラムへの差別を煽ることとまったく同じです。
それでも、「ロリコン・小児性愛者が内心の自由を表明するのは許しがたい」と思う人がいるかもしれない。
しかし、「二次元児童ポルノが許されてて世界中から糾弾されているが、児童への性加害は各国より少ない日本」と、
「フィクション上での児童ポルノは厳しく取り締まられているが、現実の児童への性加害は日本の何倍もある国」のどちらがマシか。
もちろん「フィクションを取り上げられたら予備軍共が現実で犯罪を犯しまくる」などと言うつもりはない。
しかし、「それが根本的な解決にならない」ことは諸外国を見れば一目瞭然なのだ。
現状、児童への性加害の総数は減少し続けている。
素人の感覚で「これをやれば劇的に児童への性加害を減らせる!」なんて魔法は、あるわけがないのですよ。
差別は、それを阻害する。
未成年者に対する性的行動を起こしたいという欲求そのものが加害であり、そういう思想を持っていると表明している人間がロリコンである。内心で思っているだけならばロリコンかどうかは分からないが、ロリコンだと分かっている人間はそういう思想を持っていることは確定している。
一方、黒人が他者に対して加害したいと思っているかどうかは定かではない。「黒人」というカテゴライズ自体がそういう思想と結びつくこともない。
用語が不正確なことだけが問題なのではない。こちらが一言も「オタク」という表現を用いていないにも関わらず、「オタク差別をしそうな人間だろう」という偏見をもってこちらの意図をねつ造しようとしたことがまず大問題なのである。
ミスって途中で連投しちゃった。すまん。
採算とれない配達引き受けるかどうかは店側の責任であって客が考えることじゃない
快く配達してくれるってことは商売として成り立ってるってことだよ
わけ分かんない遠慮して売上が減って店が潰れたらそれこそ申し訳ない気持ちにならない?
遠慮なく注文すればいいし、一言「暑い中遠いのにありがとうございます」とか「いつも美味しくいただいてます」とか添えるだけで十分だよ
さらに何かしてあげたいと思うなら、同僚に宣伝するとか、休日は店頭に買いに行くとかすればいい
冷たい飲み物の差し入れはともかく、金券なんか押し付けようとするのはかえって相手を困らせるから止めるべき
遅めの配達でいいと思われてる、ってのもあなたの勝手な想像で、もしかしたら配達ルートの都合でその時間になっちゃうだけなのかもしれないし
とにかく、お気に入りの店に何がしてあげらるか…って、その店を利用することの他に何があるというのか
私は「わかる」っていう一言が欲しい。
作品(原作)を見て、ここが好き!って気持ちを1人で抱えきれなくて妄想も湧いてきて、誰かと共感したいな〜と思って二次創作してしまうから。
描いた絵とか、ストーリーとか、私の「妄想」の部分を褒められてもなんかモヤモヤしてしまう。
って気持ちでやってるので
「わかる!」
が1番嬉しいけど、すごい長文で私の妄想について語ってくれる感想が多くて、ありがたいけどなんだかなーーという気持ち。
というか自分の二次創作力が低くて伝えられないんだなってちょっと落ち込む。
自分がひねくれてる気がしてきたけどどうしたらいいんだろう。
改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下は護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。
ここにその輝かしい業績を記したい。
WWII以後も熱戦の時代は続き、世界は民族自決、植民地独立、冷戦下での大国介入に伴う戦争を経験してきたが、敗戦で武装解除された日本は関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。
その冷戦下で9条の改正を目指すのが自民党、護憲が革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党は改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線が固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者の戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新で護憲派だった。
ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり現憲法は良いものだから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである。
その為護憲=お花畑、空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦の終結により日本の立場は流動的となった。
そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本は戦争への協力を求められる事になり、世論は右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界観である。多国籍軍は国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。
湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動に自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジアの民主選挙の監視である。
また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である。
先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。
憲法も法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学に接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権の自由主義的な思想的意味が延々とこね回されたりする。
国民主権の主権は元は絶対王政の国家の正統性の為のフィクションであって、統治権、外交権、交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権が思想的に称揚されるばかりだったりする。
例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権は国家に対する対外的権力だ。
統治の問題は主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATOの軍事介入の理由に人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。
コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。
改憲問題でエポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである。
西部は改憲派のテーブルに座り「憲法9条や前文の精神が日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神が浄化され理想的市民や国民が出来ると言う考えだ。
それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。
これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。
それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃんと改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。
当初から戦争の理由は疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISISが勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。
これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線を留保すべきという流れになるのは当然だ。しかも国連の影響を抑える為の政策を米国はしまくった。この為に国連路線を旨としていた日本の国際貢献もイマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である。
改憲の旗艦となった彼は新右翼の学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。
彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。
すると2007年にコバセツは自民党の憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである。
ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いでリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。
例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。
日本会議の中枢に居るような新右翼の学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。
吉田茂は後に吉田ドクトリンは撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本の海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本が重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。
徴兵は海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識が希薄な若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為だから戦争に従事させろというだけだ。
またいつのまにやら立憲主義は否定されて憲法は国民が守るべき事柄になっていった。
コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである。
何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである。機械ばらして直せなくなるガキかよ。
それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである。
つまり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。
これは左翼神学的で実学に接続しないので憲法学者が微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。
そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通の立法プロセスが付いていないのである。
こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺は朝日新聞の捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似のコンテンツとなってしまった、
南スーダンの情勢が悪化し自衛隊がPKO活動をしている地域が危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。
今回は撤収するにしろしないにしろ「国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りでPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法とPKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である。
なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである。現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったから自衛隊と憲法の問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田口閣下が前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。
更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。
だが隠蔽の責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。
つまり自衛隊に後ろから刺されたのである。制服軍人をスーツの政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家は破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。
だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。
しかも自衛隊の活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。
だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民の意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。
ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族は大事とか良い事が書いてある憲法を朗読しましょう」という流れは保護された。
アイドルのような還暦女性にポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子でロリポップを舐め続けることができた。
だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議を国民に投げかける事はしなかった。
2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末に靖国神社を参拝したところ、日米関係は戦後最大の冷え込みとなった。
太平洋地域の戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである。靖国参拝は英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんである。バカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。
因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義の右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタ・ポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。
こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である。
米議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本の憲法を改正させて米国の戦争をサポートさせるというのは共和民主問わず共同認識になっていたのだ。
集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法で合法としてしまったのだから改憲のカードは無くなった事になる。
PKOの歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本が軍事的な国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。
尚、日本は民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権を承認していた。あの虐殺で国民の半分近くを殺しまくったポルポトを国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。
こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。
護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派の憲法学者も全て護憲派に寝返った。
一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。
そんな情況の空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味が判らんかった聖帝閣下は友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達の稲田防衛大臣は制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。
「襲うことができる」とは言ってるけど「襲いたい」とは一言も言ってないように見えるが
Twitterは初期のmixiの一言ブログ版みたいな空気感がちょうどよかったなー
そこにオタクが馴れ合いの場として進出してきて「ふろってくる〜」「いてら〜」とかやりだしてから残念な感じになってきた気がする
あの手の人って、要するに、実際子供を持ってる人間にとって小児性愛犯罪者がどれだけ恐怖の存在かってことに無神経なんだよね。親は、細心の注意で小児性愛犯罪者から子供を守らなければならない。自分の子供の人生を潰すかもしれない、しかも、犯罪が発覚しない可能性が高く、必要な事後対処すらできないこともある。本当にクソみたいな冗談だよ。感情でものを言えば、この一言でもっておれはこいつに死んで欲しいと思ってるよ。
あれを読んで「わ、分かる~~~!!!!」と思った人間なんだけど、色々な批判意見見ていたら「なんか論点違くない?すり変わってない?」と思った
あの漫画や、それを見た人達によって児童を狙った犯罪が助長される可能性がある以上、我々は慎重にならねばならない
というのがnote主の一番言いたいことだと思う
現実で犯罪をするわけない!混同していない!と言い切るのではなく、そういった可能性はあるのだと認識しなければならないよって事ね
貴方は犯罪しないかもだけど、もし他のぺドフィリアが犯罪をした時に「ほらぺドが犯罪したじゃねーか」って言われて一気に立場が悪くなるじゃん
あのnoteはけしてフィクションを真似する人を馬鹿にしているわけでも、貶めているわけでもないと思う
だからあれを読んで「フィクション好きは全員犯罪をするってことか!暴論だ!」ってキレてる人はちょっと落ち着いて欲しい
日本は表現の自由という曖昧なものが存在しているので、何を言っても何を表しても良いという建前ができてしまっている
私は表現の自由を規制すべきだ!と言わないし、規制されたら困ると思う部分もあるのでそこに関しては追求しないよ
ただ、だからといって何をしてもいいの?
黒人を差別し、それを揶揄するようなことを言っても許されるの?
人を殺したいけど捕まるのでゲームで人を殺していますと言う人に何も思わずにいられるの?
多分これらは、私たちが当事者ではないから笑って誤魔化し、茶化し、のうのうとダブルミーニングを語っていられるんじゃないかな
他国の"展示"に日本の国旗を使用された時に憤怒し苛烈な言葉を投げた口で
「殺人犯が人を殺すゲームをやっていた」と報道されるや否やフィクションと現実を同じにするなと語る口で
「表現の自由だからw」と色々なものを踏みにじってはいないかな
あのnoteを読んで、それでも暴論だ極論だと思う人とは絶対に話が合わないよ 社会的なものに対する考えが違うから
でも、何事も極端に結びつけるのではなく、ここは同意できるけれどここは同意できない、と様々な意見を並列に考えてみたらどうだろう
何事も白か黒かで判断できる訳では無い。だからこそnote主は何度も「ケースバイケースだ」と言っているんじゃないかな
犯罪をする人もいればそうでない人もいるし、フィクションを規制しなければならない時と、しなくてもよい時とがある
それこそ表現の自由も同じで、
正解が無いしどこまで許されるのかの線引きもない。
ただ、「これを公表したらまずいよな」という人間の善悪に基づいているだけ
だからこそ、茶化して誤魔化すのではなくダメな時はダメだと言わなければならないよ
今回の「ぺドのショタドール購入漫画」を公表すべきだったのか、そうではなかったのか
批判的な意見に対しとにかく噛み付くのではなくて、ここはダメだった、ここは良かったんじゃないか、と考えなくちゃならない
正解を探るためには、そうやって社会に生きる当事者の「私たち」がボーダーラインを少しづつ引いていくしかないんだ
そして、そのボーダーラインを引く事をサボり、適当に誤魔化していればいつか強制的に法によって規制されてしまう
「あれは良いけどこれはダメ」ではなく、力づくで「全てダメ」と言われてしまう
それは、フィクションを好む人々からすればあってはならない事でしょ
現実を脅かしかねないフィクションを誤魔化さずにセーフとアウトを考えていこうよ
ってことだと思うんだけどなぁ
色々読んでて、ある一点だけを見て「ムキーッ!」ってなる人が多いんじゃ…と思った
「倫理観の無いものを好むのであれば、社会的な倫理観を持っていなければならない」という話でしょ
別にぺドが悪いとかそのうち犯罪をすると断言してもいないじゃん
ただ「犯罪の可能性があるからそこは自覚的でいようね」ってことでしょ
note主も私も、元のドール購入漫画に対し批判的ではあるので偏っているとは思うんだけど
(購入への批判ではなく、「手を出す前に」の一言が余計だったし公に出すものではなかったよなという批判
あの一文があると、「この人は現実とフィクションの区別が着いていないのでは…」と思われてしまうじゃん 現にそうだし)
「ぺドは同性愛と一緒だから何も悪くないだろ!」とか「何でもかんでも規制しようとはするんじゃない」とか「ぺドが犯罪をした証拠を見せろ」とかちょっと話の内容から飛んだ意見が目立つので、いやいやそれは違うじゃん と思った
よく表現規制派はオタクを叩くときに、オタクは一般人に見たくもない性的な表現を見せて加害している! といった主張をすることで『少数のオタクVS大多数の一般人』という構図を描き、多くの人々が社会的な要請として表現規制を望んでいるのだから少数のオタクは公共のために当然折れるべきだ、という形で自分たちの考えを通そうとする。
大多数の一般人がオタク表現についてどう考えているかといったら、それは「どーでもいい」の一言に尽きるだろう。
ネットのお仲間ではなく、自分の家族や同僚、友人に積極的な表現規制を望んでいる人がどれだけいるだろうか?
おそらくそんな人はほとんどいない、仮にいたとしても少数なのではないだろうか?
所謂、”普通の人々”はそもそもオタクがどんな表現をしようが興味がないし、たまたま嫌な表現を見かけたとしても余程の酷いモノが頻繁に視界に入ってくるような場合でもなければ、そこはそういう表現がある場所と理解して自分から離れていく。
”普通の人々”の多くは無関心と表裏一体の懐の深さを持ち合わせているものだ。
しかし、表現規制派は自分の意見を押し通すために、一般人の考えを歪めて自分たちの見方であるかのように主張する。
大多数のどーてもいい派を差し引いて、フェアな視点で『表現規制反対派VS表現規制賛成派』で考えた場合、果たしてどちらの方が人数が多いだろう?
昨今のオタク文化の台頭、オタク人口の増加を思えば、反対派は相当な数になるのは間違いない。オタク表現に興味はなくても表現規制そのものに反対意見を持つ人だっているハズだ。
もちろん数が全てとするのは暴論だろう。
ただ、表現の自由に制限をかけようとするのならば、それが公共の利益のための社会的要請であると示すために、やはり賛同者の数は大切になってくる。
元増田の書きぶりをみるに、素直にこうだと思う。リアルにこの(元増田の)デリカシーない「うわーショックぅぅううう!」とかいう反応見たら、一言注意くらいはしてしまいそう。そもそもFtMというだけで、その人の性的嗜好が女性であるかは決定していない上に、自分がLの人の視線に現在進行形で無防備に晒され続けていることには全く無自覚なのかこの人は。ほんと物を知らない人間ってのは、哀れな存在だな。
私は従業員という立場上「今日は随分早いですね」の一言くらいならまだ許される余地があったのかもしれないが、意気地のない私は彼女の姿が視界に入っただけで心臓バクバクになり、声をかけることもできず、事務的に受付を済ませるだけで精一杯であった。
その人のことで頭が一杯になるし、その人の姿を見ただけで緊張して心臓バクバク。
はっきり言って見た目が自分の好みドストライクなだけ、だが相手に興味を抱き始めるきっかけとしてはそれで十分だ。
いくつになっても恋って素敵。
オープンにしたら一言一言に突っ込んで激詰めして絡んでくるやつがいて、それに対処しなければいけない。
やはりオープンにしても良いことはない。
オープンにしたら結果として詰められないように皆が情報を制御するようになり、社内統制という点では優れている手法なのかもしれない。
タイトルの通りだ。
友人が亡くなってるかもしれない。
この事に気がついたのは数時間前で、自分はそれを某ソシャゲ内のたまたま見たフレンド一覧のログイン時間から気がついた。
正確には友人がこの所ログインしていない事に気がつき、何かあったのだと思った。
友人は2年程前に病を患ったが、闘病の後快復しており、
去年の年末はまだ完全に治ったわけではなかったがゲームのイベントに一緒に赴きだらだらと遊んだ。しかもその後自分が体調を崩して寝込んだ。
年明けには海の向こうで何やら新型のアレが流行だしたと言う所だったが、まだそこまででもなかってので普通に開催されたバンドのライブをマスクをつけながら一緒に観た。
ただ直前再発したかもということはツイッター上で報告したのを確認しており、無理はするなよ的なやり取りをした覚えがある。
当日もあまり具合は良くなさそうだったが、ライブの直前まで某コラボカフェいたとか話を聞いた。
この時友人が死ぬ。なんて思うわけもなく、ずっとこのまま適当に関係は続くものだと思っていた。
たまたま名簿順の前後で、クラスで唯一オタク化が進んでいたオタク同士だったので2人で話す事が多かった。ただそんなに趣味が合ったというわけではなかったので深い話などする事もなく、アニメや漫画の好きなキャラの話とか他愛もないことを話していただけだった気がする。
唯一、年明けに見に行ったバンドだけがたまたま本当に2人だけの共通項で、そこから一緒に出かける関係になったんだったかな確か。
友人との関係はそんな感じで薄っぺらくて、主にメールと友人のHP→mixi→ツイッターって感じで細々と場所を変えながらたまにやり取りを交わして続いていた。家がそこそこ近かったのもあって高校で離れてからもたまに家の近所で会ったりして。
でもお互い相手の家に入った事はない。いつも私の家の前で立ち話をしていた。私は友人の家は知らない。山を一つ超えたらあるぐらいしか知らない。打ち込んでて本当に友人だったのかな…と思う。
お互い割と口数が少ないのもあって、本当に腹を割って話したという事がないのだ。
自分は本当にコミュ障なのだが友人はコスプレをやってたりした事もあって知り合いが多そうだった。
でも近所で同級生でというと自然と自分になるのかなといった感じで、利用…というと語弊があるかもしれないが丁度いい埋め合わせ相手として見ていたのかなと感じる事もなくはなかった。
自分は前述の通りコミュ障でオンにもオフにも全く知り合いがいないので、自分を気にかけてくれるありがたい存在だと思ってるので気にしていないし、寧ろ自分でいいのかなと良く思ったものだ。
友人は割とツイッターを見ている方なのだがTLにはいなかった。
慌てて前にやり取りしたDM画面から友人のトップ画面に飛んだ。
固定にはお知らせとして一月前の状況が書かれていた。
病状は悪化し、もう余命いくばくもない事、これから緩和ケアになるという事。
ツイッターのアカウントは消そうと思うが消せるかわからない事などが綴られていた。
友人の呟きを辿ると入院時の呟きがずっと続いていて2週間前に止まっていた。
自分もツイ廃ではあるが、友人と繋がっている方は今は殆ど見ずに別のアカウントで下らない事を垂れ流している。
友人の報告にも何も返せず、最後の呟きにも何も言えず、ただ友人は普通に生きているのだろうと信じ切って普通に生活していたのが本当に悔しくて情けなくてどうしようもなく愚かだなと思って、ただどこにも吐き出す所がなくてここに吐き出しにきた。
凄い薄っぺらい関係だったけとそれでもやっばり自分にとって数少ない大事な人だった。
もうリプも貰えないし迷惑もかけられないし会えないとか信じたくないな。
ライブもイベントもいつ行く?とか話す事も頑張ってチケット取る事ないんだな。
友人は自分なんかよりも辛い環境で耐えて、真面目に生きてきたのにな。どうしてだろ。
ただの書き殴りなのでここまで読む人いないと思うけど読んでくれてたらお疲れ様でした。ドラマチックな展開とかなくてすいません。
亡くなってるかもしれない、というのは単に呟きが止まってるだけかもしれないのかが、上記の通り関係が希薄なので訃報がここまで届かないのもあってわからないからです。
どうにか住所調べて親御さんに話聞きに行ってもいいんだけどそれも難しそうなんですよね…だからいつの日か風の便りが届くのを待つしかできない。
生きていてくれたらいいんだけどなぁ。
共感は要らないとは言ってない
だから返信しなくていいしこっちが見てるとも気付かれない空リプなどはおもしろかった
私にとっての「感想不要」=私へなんかしらの圧力(評価返し、返信、交流、今後の作品について)をかけるのをやめてくれということかな?と日記書いたりトラバブコメ読んでて思った
まあ勝手に相手の気持ちを考えすぎて義理とか義務感とか感じやす過ぎるんだと思う
相手がそんなこと求めてるかどうかなんて確認する術はないんだからおかしな話だけどなかなかやめらんないね
でもリアルの対人関係では割といい方向に働いてる性格特性ではあると思うから矯正するつもりもないけど
トラバブコメが付くとおもしろいのも空リプとかと似てて反応しようがしまいが自由なところかもね
はてなだと勝手に反応してみたいなと思ったところだけに言及することができるけど同人では厳しい。少なくとも私の現況では
気まぐれにやれる環境を構築できればTwitterとかでもそうすることもできるんだろうなあ
でもまだそこまでやれてないから、誰か1人に反応返しすることで感想を欲していると勘違いされたら困るって不安がある
「私の気持ち的負担にならない感想」なんて「空リプ感想」とか一言で表せるものではなくて、たとえ言語化したって私以外には完全には伝わらない。当たり前だけど
大体の感想に気持ち的負担を感じる要素が含まれていることを思えば一律欲しくない人だって思われてるのが一番楽だよね
「私こんなに繊細で、こうこうこういう内容で、こうこうこういう手段で送信された感想以外は受け付けないんです〜〜〜」なんて素振りを見せたらそれこそまともに人を気遣えるような人だけ遠ざけて、ヤバい奴らだけが私にヤバい感想を送ってくる未来が目に見えてる
だからこちらへの気遣いに関する要望って自分で言語化しちゃいけないんだと思う
なぜか雰囲気で察してくれる人って中にはいて、同人を通じて仲良くなれたのってそういう人ばかりだ
そういう人って不思議ではあったけど、多分非言語性コミュニケーションの上手な人なんだろうなと話してて思う
察してちゃんと言われる人の悪いところは「察して」って素振りがバレバレなところで、「察しても察さなくてもいいよ」って気持ちを出せるようにうまくやりたいなと思う
理想の上では、なので察してちゃんになってしまう危険性は多分に孕んでいるので気を付けたい
元増にも書いた内容の補足だけどこの辺が「感想不要」って書かない理由
色んな対応を割と長い創作歴の中で模索してきて、さらに色んなリスクを勝手に想像してそれ自体をストレスに感じてしまう性質がゆえに「そういう雰囲気を出す」のがベストという結論になってるだけ
こっちも似た雰囲気を出してる人と仲良くなりたいので、言語で表明するスタイルに変えてしまうと似た雰囲気を出してる人達の方から攻撃的と思われて来てもらいづらくなってしまう
非言語性コミュニケーションが苦手な人からすると困るのはわかるけどこっちも内心色々思うところはあれどスルーするので適当にやってほしい
こんなこと聞いて煽られているって思われると知ったとしたらどんな気持ち?
勿論特定個人とそれと似た人々を煽っているので、言外の意図を正しく読み取ってくれてありがとうございますという気持ち
まあ私が煽っている人が見たとしても、煽られてるとか思わずにただなぜかイライラしてTwitterでシャドーボクシングしてしまうだけな気もするけど
要は元増に書いた感想欲しくてしょうがないけど貰えない過激派のことです
私がTwitterに絵を投稿した後いつも通りエゴサをしていたら、過激派が空リプ感想、というか私個人と仲良くなりたそうな内容をチラチラチラチラ数ツイートに渡って書いていた
なかなかそういう人はいないので面白すぎてしばらく観察していたら、私がなんかツイートするたびに私信らしきものを飛ばしてきていた
初期の私信の内容は距離感がやばすぎて気持ち悪かったけどまあ好意的と取れるものだった
それを無視し続けていると、無視し続けていること自体が理由かどうかはよくわからないけど、私信が憎しみに変わっていった
私に無視されてるから私のことが憎くて仕方なくなってるんだとしたらおかしな話だよ
だって上述の「インターネット上で似た雰囲気を出してたので(即売会で話して)仲良くなった旧友たち」以外には誰にもリプしたりしてないのにどうしてフォロバやいいねRTなどをしてもらえると期待した?
そもそも作品のいいねRTは友達のツイートであってもしていない
勝手に義務感を持ちやすい性格を自覚しているのでTwitterに四六時中張り付いていいねRTマシーンと化さないために一律しないことにしているのだ
過激派は私の旧友のひとりもフォローしていて、たまたまリプをし合った直後に交流を羨ましがるツイート、RTしてもらえたらなあなどの発言をしていたので反応を期待されてたという理解をした
まあなぜ私がその友達と仲が良いのかなんて本人同士しか知らないし、旧友だってことすら大半の人にはわからないだろう
相手の中で多分好意っぽい感情だったのが憎しみっぽい何かに変わっていく過程を見るのは本当に面白かったので嫌だったとかストレスだったとかは特にない
相手が私の好きな人であればストレスだったんだろうけど私は相手のことをなんとなく嫌いで正直言うとどうしても見下す気持ちが湧いてしまうからむしろちょっと快感だしなあ
でも今もTwitter上で私に呪詛を吐き、嘘つきだとか世間に媚びすぎて無個性だとか負けないとか作品で見返してやるとかなんとか、頑張ってマウント取ろうとしてくる相手を煽り返したかった
私は「本当は感想が欲しくてしょうがないのに『感想?別にあってもなくてもどっちでもいいですけど?』みたいな態度をしている」わけではないので嘘つきではないし、世間に媚びているのではなくてたまたま私の大好きなものを世間も好きだったからその恩恵に肖って多少の反応を貰えているだけだし、無個性と言われりゃ無個性なのかもしれないけど過激派の言う個性は技術を磨かないための言い訳でしかないし、個性とは技術という基礎があってその上に成り立つものなのにそこをめんどくさがって、誰に向けてかたくさん言い訳をして個性とやらに執着しているような人に評価数で負けることもその人の作品を見直すこともない。勿論それを自覚して改善したとすれば別だけど
私の思う"ダサさ"のすべてを詰め込んだような人だよ
相手から言わせりゃ卑怯なんだろうけど私もこういう点では向こう見ずではないので、相手に毒マロを送ったり、ましてや本垢で直接でこういう意見を表明したりはしない