よく表現規制派はオタクを叩くときに、オタクは一般人に見たくもない性的な表現を見せて加害している! といった主張をすることで『少数のオタクVS大多数の一般人』という構図を描き、多くの人々が社会的な要請として表現規制を望んでいるのだから少数のオタクは公共のために当然折れるべきだ、という形で自分たちの考えを通そうとする。
大多数の一般人がオタク表現についてどう考えているかといったら、それは「どーでもいい」の一言に尽きるだろう。
ネットのお仲間ではなく、自分の家族や同僚、友人に積極的な表現規制を望んでいる人がどれだけいるだろうか?
おそらくそんな人はほとんどいない、仮にいたとしても少数なのではないだろうか?
所謂、”普通の人々”はそもそもオタクがどんな表現をしようが興味がないし、たまたま嫌な表現を見かけたとしても余程の酷いモノが頻繁に視界に入ってくるような場合でもなければ、そこはそういう表現がある場所と理解して自分から離れていく。
”普通の人々”の多くは無関心と表裏一体の懐の深さを持ち合わせているものだ。
しかし、表現規制派は自分の意見を押し通すために、一般人の考えを歪めて自分たちの見方であるかのように主張する。
大多数のどーてもいい派を差し引いて、フェアな視点で『表現規制反対派VS表現規制賛成派』で考えた場合、果たしてどちらの方が人数が多いだろう?
昨今のオタク文化の台頭、オタク人口の増加を思えば、反対派は相当な数になるのは間違いない。オタク表現に興味はなくても表現規制そのものに反対意見を持つ人だっているハズだ。
もちろん数が全てとするのは暴論だろう。
ただ、表現の自由に制限をかけようとするのならば、それが公共の利益のための社会的要請であると示すために、やはり賛同者の数は大切になってくる。