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感情論でなく反論できる人、いるのかな。
<組織論>
1)大型組織の人材
看板は残る。三菱東京UFJ、みたいに。でも必要となる社員のスキルって30年後代わってるよね。99%ぐらいは。だから定期的に入れ替えた方が良い。つまり、40歳定年制がベースで、1%の幹部以外は
いらなくなるよね。
2)中型組織の人材
中型組織って99%はパーツ型組織だよね。つまり、販売/生産/企画開発の中の、どれかでしかないよね。使われる立場だよね。使われる立場の企業の人間って世の中がどんどんオープンにネットワークしてる以上、世界的な競争とスキルの陳腐化が激しい中で「安い」「頑張れる」ところ以外消えていくよね。というか、ブラック度を極限まで上げた企業がかつよね。
<営業orクリエイティブ論>
1)
営業ってさ、基本的に表現、伝達する事が仕事じゃん。ついでにいえば、伝達、整理、じゃん。
これってさ、インターネットとかネット広告とかメールやウェブ動画のプレゼンとかで、圧倒的に効率化かつ地域性を失ってきてるじゃん。
つまりさ、すごい経営者側がどこの人間採用しても同じようになったわけ。
イコールさ、1人1人の労働のバリューが下がってるわけでさ、中国人の日本語しゃべれるヤツとかスッゲー増えてる訳じゃん。
あるいはさ、すっごい営業職が1人いればさ、そいつに1000人分の仕事をさせやすくなったわけでさ(つまりウェブ動画とかさ)
そうすると、一般営業職というかそいつらってさ、価値がなくなってない?
2)
クリエイティブってさ、基本的にクライアントありきだとおもうんだ。
使ってもらってナンボというかさ。
プロブロガーみたいなのは置いといて(彼らは増えないとおもう。視聴する側の数は代わらないくて参入者は無数に増えるから、今後半端ないレッドオーシャンだよ、ブロガーでくってくの)
バリューってどうなのって話でさ。
エンジニア、デザイナー、あるいはなんかクリエイティブだとか言われてることで、仕事したことある人はわかるだろうけどさ、
「すっごく」代替可能じゃない?実は全然個性とか必要とされなくない?
クライアントの求めるアウトプットを専門性を活かして一つの正解を出す事が仕事だと思うのね。
それでいうとさ、クライアントに可愛がられるスキル命になってしまうわけでさ。
それってつまり、クリエイティブに限らずコンサルもそうなのかもしれないけどさ、
ハンパなく1人1人の意味を求められててさ、結局時間当たり生産性が他の専門職の何倍か?ってことしかパフォーマンス差でないとおもうんだよ。
特殊な価値が出せるっていうよりも、時間当たり生産性が、ってことね。
生産性が今10倍だとするよ、5年後は多分その生産性を素人でも出せるような技術がととのってると思うんだよ。つまりさ、その人の仕事の価値は自然に10分の1になるよ。
それでさ、どうせオマエらは今10倍だったら、その後も磨き続けて10倍以上を維持すんだよ、っていうだろ。
バカかってことでさ。茹でガエルか。
わかるだろ、技術の大幅な変化。技術の変化に伴う開発スタイルの変化。根本的な陳腐化してくんだよ。
デザイナーでも手書きで何度も先輩の絵を真似して書いてたヤツなんか、オナニーだってわかるだろ?
いまフォトショやイラレ使えねーと新人よりも仕事の戦力にならない。
そんな現象が今後も繰り返すんだよ。
「人類の進化!」として。
3)
じゃあ調整力が高くて人を巻き込んで使うような人材が残るのかって?
バカじゃないの?自己啓発セミナーでも行き過ぎて脳味噌とけてんじゃねえの?
アホか。
マネジメントっていうか、ミドルが圧倒的に”いらねー”世の中になってんだよ。
ミドルがなんでいらねーのかって?
「ウェブ会議」「スカイプ」「チャットワーク」「社内用の各種調整ツール」
ミドルなんかいらねーんだよ。
意思決定の擦り合わせ??
4)
金銭的にいったらそうだろね。年収1500万円以上のプレイヤーは増えるよ。
世の中のね。
トップエリート=「かえの効かない人材」になるしかないんだよ。
でもそんなもん、おるか?
いねーだろ?
「中国語と英語と日本語がネイティブ並に話せます。もちろん大卒で経済学とかバッチリです」っていうだろ?
いや、そんな人、台湾で300万円で一生懸命働く人で10万人以上いるけど大丈夫?ってはなしよ。
そいつらより、国際人を売りにしてるオマエら仕事できる?
ちなみに、経済学部って日本で一番たくさんある学部の人間だよ?
でさ、公認会計士になるじゃん。
いま、資格取得のために学習したことが活きる仕事についてるヤツって何割いるんだよ?
3割?
弁護士なんか大量に新人増加させただろ?
新人が仕事できるようになったら大丈夫みんな稼げるって、予備校講師に騙されてるんじゃないの大丈夫?
上の奴らは今の既得権益を死守。そして安い弁護士を雇って拡大を狙う。
つまり、今嬉しいのは事務所の社長だけだね。弁護士だったら弁護士事務所の社長はいいよ。中堅の使えない高給取りをフレッシュで安い若手にチェンジ!するだけ。
そんでひたすら今までのクライアントに頭下げて、ケツの穴なめてりゃいいよ。
東大生って毎年3000人よ。一橋生はよくわからんが1500ぐらいだろ。
で、早稲田慶應でもさ正直採用する側ってどっちでもいいんだよね。東大でも早稲田でもかわんねーんだ。
でもさ、4500人分も毎年新しい高度な仕事が生まれてるなんてだれも思ってねーだろ???
つまりよ、30年かけてそれなりの給与貰ってた一流人材もその辺の一流学生をちゃっちゃと教育したら、3年で使えるようになるからさ、
それで安くて元気な若手をかいこんでんだよ。
いや、ぶっちゃけさ、3年がんばって貰えばさ、30年プレイヤーより下手したらパフォーマンス上だぜ?
で、1%の層はさ、下のこいつらと壮絶に競争し続けんの。
じゃどうなるとおもうってさ、
下を徹底的に潰すだけなんだよ。
あほらしいけどさ。潰すのが正解になっちゃう。
ま、ともかくさ、ほとんどの仕事って、
5)
どうしたらいいのー? by 中川パラダイス of ウーマンラッシュアワー
ってことでさ。
鬱にナンだよ。
「結論、お前は何もんだ??」ってことだよ。
どうキャリア開発していくべきなん?ってことだよ。
いやお前がさ、すでに1500万円を安定的に年収で確保できてて、急に400万以下に転落する怖れがないならさ、しらねーよ。
でも俺は違うからさ。
まだ、この分野の◯◯ですっていっても世間的に認知されてない(狭い業界内評価なんか業界ごと浮き沈みしたら意味ネーンだよ)
で、営業職としてもさ、人脈ってどうってわけ。
いや確かに他社の一部上場企業の役員とも仕事してるし名刺は綺麗だよ。
でもさ、ビジネス上のネットワークってほとんど瞬発的なものじゃない?ちがうっけ?
ばっかじゃない?っていうのが実際なわけ。
俺さ、せっせと仕事してるし、そこそこな評価ではあるよ。
でもさ多分これ以上あがんねーんだろなっておもうんだよ。
仕事以外で何か見出せ?あーそうですかって感じ。
転職?転職したら0からやり直しだよ。ファックユー。ほとんどの転職は年収下がるんだよ。転職エージェントに騙され過ぎだろバカ。
あーくだらね。
あー、死にてー。
独立?バカじゃねーの?起業したら1年毎に30%OFFだよ、つまり10社あったら1年後には7社しか残ってない。2年後は5社。3年後は3~4社。4年後は2~3社。5年後は1~2社。ってことよ。
独立してほとんどの人間は年収が「大幅に」さがるってデータ知らねーのか?
独立して給与あがるのは、400万円以下でこき使われてた人間だが、実際1000万円以上もらう価値のある人間だったって時だけだよ。
実際な、年収高いヤツには高度な仕事させてくれやすいんだよ。年収低いヤツは低レベルな仕事につきやすいんだよ。
仕事の質がほしいんだよ。
ああ。
独立したらいいよってそれでも言うヤツは、
◯◯って欲に満ちたブログ読むといいよ。
投資家が一生懸命若いヤツを焚き付けて、カネにしようと必死だから。
投資家のおもちゃになって起業したみなさん、おつかれさまでした。
そして
投資家のおもちゃにならずに起業したみなさん、5年以内に90%が社会的に死ぬと思いますががんばってください。
そして
おれはエンジニアだ未来が綺麗とかおもってるという方は、中国やバリのエンジニア養成学校の方々と綺麗にバトルしてください。
とくにグローバルっていって社内での英語コミュニケーションが加速してる会社は楽しんでください。
そして
おれは営業だ、永遠のテーマだとか思ってる方は、営業職の役割が今後爽やかに代わっていくことを楽しんでください。
そして
おれは人材業者だ、人をまっちんぐする神の手、あるいは人事さ、と思ってる方。
マッチング業はどんどん安価になりますよ。究極的にはZEROまで収束します。Wantedlyとか、Jobshareみたいにね。
価格破壊は止まらないよ。実態の大した事ない仕事してるわけだから、君らはそのうち消える訳さ。
そして
ここを否定したくて仕方ない。
でもここは最後まで消えない気がするんだ。
でも最低10億円規模以上のファンド持ってたり、機関投資家だって人だけの話だよ?
証券アナリスト持ってますテキな人はさっきのエンジニアとかの専門職と同じ人生だからよろしくね。
そして
うん。◯◯みたいな会社もそうだね。
でも幸せなのかもなっておもうよ。
さて、
どうやれば救われる?
オマエらはほとんどそうだろうが、どうやれば救われる?
ぶっちゃけぬるま湯のカエルは、ぬるま湯に使ってた方が幸せなのか?
思考を止めた方がいいのか?
考え過ぎだというのか?
一定の解を知りたい。
思考停止するのが怖い。
諦めると自分が廃人になりそうだ。
アル中になって
あと30年やそこらの仕事ざかりを過ごして
ああ俺は特に何もなせなかったな、っていって死ぬのは嫌だよ。
ああ、こええんだよ。
ごめん。
一緒に腐っていくのかな、お前らと一緒に。
早いか遅いかだけなのかな。
あとさ、こういう不安を煽ったり一言いったりして稼いでる
から大っ嫌いだよ
あいつらは煽り過ぎでマジな情報を脚色しすぎて本質がズレてる。
こういうのじゃなくてさ、
リアルな匿名の場でさ、リアルな事情含めてさ、今後について語りたいんだよ。
コメントとかつけてくれよ。
それでさ、
一人でも多くさ、
「仕事を諦める」って以外の選択肢をさ、
導ければなって思うんだよ。
うそうそ。
楽観的に生きていけばいいんだよ。
考えたら負け。
どうせ無理なら現状を無駄に肯定して、
おれ幸せ!って毎日100回唱えろ。自己洗脳に掛かって幸せになれるよ。
ソンジャーネ
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25時12時に追記
都合により一部削除しました。
涙目です。
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25日18時に追記
意外とはてぶ付いててビックリ。
ほんの15年前、1999年を考えてみてよ。
Word/Excel/Powerpointほとんどなくてさ?
「コンサルティング」業務やサポートの必要が急速になくなったよね。ググれカスに代わった。
ほんとうの変化が起こるのこれからだよ。
15年後、今の35歳が50歳になんの。
ほぼ全員ネットで「ちゃんとぐぐれる」でしょ?
インターネッツじゃないひといなくなるでしょ。
購買行動かわるよ。
人と人のコラボレーションかわるよ。
当然、営業スタイルかわるよ。
当然、調整業務のスタイルかわるよ。
生き残るのは接客業の方々だね。
ってな。そういう仕事はなくならねえよ。
社長、今日もネクタイいいですね。ってなそういう仕事はなくならねえよ。
電話受付は今もなってるけど、メールフォームとか、チャットとかになって簡素化。
ああ、面白い。
今まで200人は最低必要だったビジネスが、10人で楽に回せるよ!
さしずめ、スーパーエンジニア3人、スーパー営業職3人、激ブラックな雑用3人、ファイナンス担当1人って感じかね。
.........さて、メシ食うわ。
25日21時50分追記---
結論いうとさ、実はハラを決めて、待つしかなくて、良い意味で諦めたほうが安全だぞってことだ。
▼下のような動画に動揺したら生き残れない。リクルートにカモにされるよ!これらをポジティブに受けいれよう!▼
例1:子どもに夢を託すな。
http://www.youtube.com/watch?v=yJhQx1oaAx0
http://www.youtube.com/watch?v=jpC_kJbS3RQ
例3:社内失業、2万人以上の余剰人員。
http://www.youtube.com/watch?v=tdnWgXdILG8
例4:さわやかな上司と部下の意思疎通。
http://anond.hatelabo.jp/20140313091419
女をあまやかしたいよ。
というのも好きな女がお腹がいっぱいになりご機嫌でごろごろしてる(まあ、ごろごろはいいか)のは幸福だからだよ。
自分が十分に幸福なら余剰はバンバン与えたいと多くの男が思ってるよ。
でも実際そう上手くいっていないペアも多いみたいだよ。
理由のひとつはやはり男の側の幸福に余剰がないってことだよね。いろんな幸福のリソースがあるけど、経済的な余裕や精神的な余裕、時間的な余裕は、そのなかでも大きな割合を占めるし問題が顕在化しやすいリソースだよ。これらが欠乏していると、十分に与えられないよ。申し訳ない気持ちになって自責すると、さらにリソースが減少したりして上手くいかないよ。
おいらはおっさんになって手持ちに小金が増えたので、いま、奢りたくて仕方ないよ。
彼女にしたいとかえろいことしたいとかじゃなく、女の子に奢りたい。飯を食わせたい欲求だよ。
金がないときも辛いけど精神的余裕がないときも辛いよ。女の子と飯を食いに言っても楽しい気持ちで話せないほど仕事が苦しいときとかは、もう会うこと自体が申し訳なくてイヤだったよ。
別の理由として女性側からの欲求が過剰になっていくと辛いよ。あまやかすっていうのは幸福なので、損得の話じゃないんだ。甘やかすだけでおとこも(おっさんの戯れ言だが)幸福になれるんだよ。
「アイ アム サム」とは知的障害を持つ青年が幼い子供を育てていたが養育能力が無いとみなされ子供を取り上げられそうになる話です。
「おおかみこども」の花は、サムのように知的障害はありませんが社会で生きていくうえにおいて
なんらかの障害を抱えていると仮定すると、物語上のいびつなところがきれいにまとまると思います。
「父親が『つらいときほど笑っていなさい』と言ったので、葬式でも笑っていたら不謹慎だと怒られた」
一見けなげなエピソードに思われますが、高校生にしては幼すぎるのではないでしょうか。
つまり花は
「言葉を言われたとおりに受け取ってしまう(皮肉や行間が分からない)」
「いったんインプットされたことに強くこだわる」
という傾向があると推測されます。
彼女が大学で親しい友人がいないこともこれが原因と思われます。こういうタイプは
学校や職場など閉じられたコミュニティーならやっていけるのですが、
大学のように自由度の高いコミュニティーでは孤立する傾向が高いのです。
だから彼に惹かれたのでしょう。
また、花は短期的なことは考えられるが中長期的な計画を考えるのは苦手であるようです。
おおかみこどもをどうやって育てるか、病院や学校ははどうするのかなど本来なら雪の妊娠中から
相談しておくべきことなのに、彼女は本当に問題が差し迫ってこないと考えられないのです。
(雪が赤ん坊の時に何度か熱を出しているはずなのですが、おそらく自宅療養で乗り切ったと思われます)
そして同時に二つのことに対処できないのかもしれません。雨に比べて雪は放置されがち
(溺れた雨を助けた雪もびしょぬれであえいでいるのにほったらかし、嵐の日雨を追いかけるのに夢中で
学校の雪は待たせたまま)ですが、一つのことで頭がいっぱいになってしまうともう一つのほうは
お留守になってしまうのでしょう。
あの時ゴミ収集車の職員がなにか訴える花に取り合わないのはおかしいのですが、
花がうまく説明できなかったと考えれば納得できます。
(突然おおかみおとこなどと言われたらとても信じてはもらえないでしょう)
おおかみおとこを失ってしまったので、今までの生活は破綻してしまいます。
これまでのように親子だけで暮らすことは不可能になってしまったのですが、
花にとってはおおかみおとこの「人目を避けて暮らしてきた」という
普通なら最悪の事態を招くところですが、彼女には一つだけ天から与えられた能力がありました。
それは「短期的な目標を与えられればがむしゃらに頑張れる」というものです。
たった一人で廃屋を修理し、畑仕事をこなすのは超人的な能力ですが、
映画「レインマン」でサヴァン症候群の兄が驚異的な記憶力でポーカーに勝つようなものかもしれません。
周囲の人間もそんな花の能力を認めたからこそ共同体の一員として受け入れることができました。
うまく行っているように見えた花と子供たちの生活ですが、しかしやはり破綻はきてしまいます。
花は生活を回すことは出来ても、社会でいかに生きていくかということは教えられないのです。
自分が上手く出来ないことを子供に教えられるはずがありません。
「おおかみになってはいけない」としか教えられず、コントロールの仕方は知らない雪は学校で友人を傷つけてしまいます。
「他の動物をばかにしてはいけない」と雨は教えられましたが、狼の役目は食物連鎖の頂点で他の動物を捕食することです。
だから雪は母親に無断で信頼できる友人に秘密を打ち明け、雨は自分の力で山の先生を見つけ出しました。
そして花は雨にこう言います。
「あなたにまだなんにもしてあげてないのに!」
その時おおかみの雨は驚いたようなしぐさをしますが、あれは
ということではないでしょうか。
1.本作の主題?
大々的に宣伝されていたこの作品の主題は「家族の絆」であった。「時をかける少女」「サマーウォーズ」で、揺れ動く思春期の心情を細やかに描き出してきた細田守監督が、特殊な事情の母子家庭の波瀾万丈を通して、母と子の結びつきを表現する王道の家族劇であろう、と私は予想していた。
しかし実際には、冒頭でおおかみおとこと主人公の花が「哲学」の講義をきっかけに出会うことに示されているように、家族それぞれの社会的承認やアイデンティティの確立といった「生き方」への問いかけが大きなウェイトを占めている。いずれ花と結ばれ父になるおおかみおとこは、人間社会にひっそりと適応しながら、大学にもぐりソクラテスの「無知の知」についての講釈に耳を傾けていた。彼自身の特殊性と人間社会との融和点、すなわち「自分は何者なのか」を彼はまだ知らない。もっともそれは花も同様である。彼らが「真に何者であるのか」が判明するのは、その後の人生の中で、主観的にも客観的にもそうだと考えられる地点に辿り着いた時である。
13年という長い月日を描く作品であるため、一時期に割ける時間は限られている。花は前半の少ない上映時間の中で、おとぎ話のようなおおかみおとことの恋と別離から、残された二人の子どもの育児という生々しい現実へと転がり進んでいくこととなる。わざわざアニメーションという媒体で母子家庭の奮闘記を描くのであれば、母子家庭の「リアリティ」をどれだけ表現できるかが生命線となる。そのためにも花は一刻も早くおとぎ話から抜け出す必要があった。
しかし出産も子育ても、半ばおとぎ話の状態からなかなか抜け出せずに進んでいく。その一つの要因として、花がすでに片親の父を亡くしている(母は離婚、別居済み)、という極めて日本のアニメ文化的な手軽で便利な設定の中にいたことにある。したがっておとぎ話のような恋の終わりと厳しい現実の到来を告げるはずの「親との葛藤」のシーンはない。東京に下宿させていた女子大生の娘が、フリーター(?)の狼に食われて子どもを作り大学を辞め、しかも(おおかみこどもであることを知られるわけにはいかないため)全く子どもに会わせようとしないなど、並の親なら勘当ものである。両親が既にいないにしても、親戚や最悪の場合行政施設の関係者などの後見人や身元引き受け人もいない、では未成年の大学生が家を借りるにも何をするにも無理が出てきてしまう。しかし花は劇中ではほとんど言及されることのない両親不在設定を免罪符に、自由におおかみおとこと結ばれ雪を出産し、一年後雨を生んだ後におおかみおとこと死別するまで、誰と葛藤することもなく擬似的な新婚生活を満喫するのである。しかも医者にもかからず独学で自然分娩を行い、子ども達も一度も医者には連れて行っていないなど、事情はわかるが少し無理のある状況が続く。リアリティのある家族を描くためには、例え核家族であったにせよリアリティのある一族が描けなければならない。そしてそのためには、リアリティのある社会が描けなければならない。しかし作品の土台となる花の周りの人々との繋がり(親族関係、社会関係)が抜け落ちた「おとぎ話」のまま、二人はほとんど社会から孤立して描かれている。
親族や後に移住する田舎社会の人々に、意を決しておおかみおとこの血を引くこどもたちの秘密を打ち明けていたなら、物語は一風変わった方向へ進んでいただろう(行政や医療組織に打ち明けていたなら、悲しい話になってしまうかもしれないが)。しかしこれは二者択一の選択である。おおかみこどもの秘密を守り通そうとするなら、一家は孤立するしかない。秘密を打ち明けてある範囲の人々を味方に引き込んでいたなら、出産、子育て環境のリアリティはある程度担保されるが、おおかみこどもを受け入れる周りの人々、というまたまた別種のおとぎ話的な絵が出来上がってしまう。この部分のリアリティを保つのは並大抵のことではない。本作は前者、おおかみの本性を隠し通すことで、雨と雪の存在のリアリティを保つ代わりに、一家を孤立させて社会生活との折り合いのリアリティを失うことを選んでいる。
3.本作の根底を貫く3つの近代的概念:①選択権としての自由観
社会から孤立した者を待ち受ける宿命は、社会からの排除である。雨と雪を隠し続け、医者も児童相談所も拒み続ける花は、居場所を失い田舎への引っ越しを決意する。この辺りから見え隠れし始め、映画のクライマックスで明らかになるのが、取捨選択の権利としての自由を尊ぶ近代的な自由観である。花が田舎へ引っ越した主な理由は、人目を避けるためでもあるが、雨と雪が「人間か、おおかみか、どちらでも選べるように」したいということが大きなウェイトを占めている。そして学校や田舎の人々に対して秘密を守りながら姉弟は大自然の中で育ち、おてんばの雪と引っ込み思案の雨という当初の関係性を逆転させ、最終的に雪は人間として、雨はおおかみとして生きていくことを決意する、と読み取れるあたりでこの作品は幕を閉じる。二人の姉弟が(そして母が)どのような生き方を「選ぶ」のか、というアイデンティティの「選択」が事実上の主題となってくるのである。つまり、二人のおおかみこどもは、人間として生きる事も、おおかみとして生きる事も可能であり、その選択権を自分自身で持っているという考え方が根底に存在している。こうした権利概念や自由観は、歴史の悲劇から人類がようやく辿り着いた価値ある理念ではあるが、問題が無いわけではない。
「おおかみであること」はファンタジーではあるが、現実の例えとして捉えることも可能である。元来日本語の慣用句でも「一匹狼」などのように「狼」は単に動物を指すだけではなく、社会の周縁に生きるしかないアウトサイダーを指す言葉でもある(押井守監督の『人狼』に描かれているように)。そこから暴力的な存在という意味合いを除外して考えれば、「おおかみであること」は何らかの理由から迫害され、多数派と融和できない少数派に「非自発的に」刻まれた「抑圧のスティグマ」である。先の近代的自由観に基づけば、我々はあらゆることを強制されず、自発的に選択する権利としての自由を何よりも大事なものとして持っているが、実は選択していないにもかかわらず押し付けられているものもたくさんある。我々は男性として、あるいは女性として生まれることを選んだ覚えはなく、この国、この家族の元に生まれることも選んではいない。選択の自由を行使する以前に、強制的に親や社会から色々なものをもらって今の私たちは存在している。こうした、我々が意図せずに所属しているアソシエーションから抜け出すことは、それが被抑圧的アソシエーションであればなおさら、多大な困難を伴う。
いわば「人間か、おおかみか」どちらかの生き方を選べ、というのは私に対して「日本人か、男性か」どちらかの生き方を選べと言うのに等しい。日本人であることも、男性であることも、やめること自体は可能であるが、多大な葛藤と苦労を伴うし、何より大半の日本人は日本人であることをやめたがっているわけではなく、大半の男性は男性であることをやめたがっているわけでもない。当然私は「日本人男性」として生きざるを得ないが、それを嫌がっているわけではない。「おおかみであること」は、私にとって「日本人であること」以上に雨と雪の二人のアイデンティティに深く絡み付いている。彼らは望んで「おおかみこども」として生まれたわけではなく、そして何より自己の不可分の半面としての「おおかみであること」を辞めることは不可能だからである。逆もまた然り。雨と雪にとっては、「人間であること」も捨てることはできない。したがって大多数の人間が、国籍や人種などの複数の非自発的アソシエーションに従属して生きざるを得ない以上に、彼らは「おおかみにんげん」としてしか生きられないはずである。人間としてだけ生きていてもおおかみの本能は満たされず、おおかみとしてだけ生きていても人間の知性は満たされない。一方を選択して他方を捨てることでは、幸福な真の自由は訪れない。というのも、私を含め大半の日本人男性が、日本人であることや男性であることを嫌がったりしておらず、むしろそれを誇りに思うことも時にはあるように、雨と雪も本心から「おおかみであること」あるいは「人間であること」を嫌い、やめたいと感じているわけではない。真相は逆である。雨と雪に限らず「抑圧のスティグマ」を持つ人間が求めているのは、それを捨て去ることではなく、周囲が抑圧的な処遇をやめ、そのスティグマが価値あるものとして社会的に承認されることである。黒人や女性は差別されるから黒人であること、女性であることをやめたがっているわけではない。彼、彼女らが求めているのは、差別をやめること、すなわち黒人であることや女性であることを誇らしく思えるような、他の人々と対等の処遇である。自分の非自発的なアイデンティティを差別や迫害を理由として捨て去ることは、雪がおおかみに変身することを必死に避けていたように、それ自身当人にとって新たな大きな抑圧となるだけであり、それを捨て去ることを強制することもまた、抑圧からの真の救済とはなりえない。
「人間であること」のみを選択した雪は、今後もおおかみの衝動に苦しめられ続けるだろう。「おおかみであること」のみを選択した雨は、おおかみとして生きるだけでは無力であり、人間から森を守ることはできないことにいずれ気がつくだろう。したがって雨も雪も、「人間であること」か「おおかみであること」のいずれかを選ぶ権利としての自由を持つ、のではなく、彼らはどこまでも「おおかみにんげん」として生きることを運命づけられている。そのため彼らを幸福な真の自由へと導くのは一面を捨て去る選択ではなく、両面を受け入れる承認、すなわち抑圧されることなくありのままの「おおかみにんげん」として生きていくことを人々、社会から認められることでなければならない。そしてその基点にして起点となるのは、二人の秘密を知る唯一の存在、母である花のはずだった。しかし雨と雪は選択権としての自由を行使し、「人間であること」、「おおかみであること」の一方を選んで他方を捨て去る。この彼らの選択は同時にもう一つの取捨選択となって現れている。それは、特に雨に顕著なように「個人」としての自己の生き方を選択する代償として、それまで所属していた「全体」としての家族を捨て去っていくことである。
取捨選択の権利としての自由観には、この近代的な自由観と表裏一体になって形成され、社会に受け入れられてきたある考え方が寄り添っている。取捨選択の権利としての自由は、何に帰属しているのかを考えればその考え方も見えてくる。「生き方」の選択の権利は、国家にあるのでも何らかの組織にあるのでも、両親にあるのでもない。近代的な自由は常に「個人」の手の内にある。「個人」は選択の権利を持ち、それを他者に妨害されない権利もまた持っている、というわけである。こうした個人観も尊重されるべき人類の英知だが、その発達によって我々人間は別の問題に現在直面している。「個人」の肥大化により、家族や社会等の共同体の絆を、そして古い慣習や信仰などに息づいていたいわゆる「大きな物語」や「宇宙的秩序」を破壊して、人類がただのバラバラの個人の寄せ集めになってしまう「アトミズム」に陥るという問題である。したがって家族という、人々の繋がりを描くべき物語の根底に、こうした個人観を置いてしまうと、家族は崩壊してしまう。雨は山へ飛び出したきりおおかみとして生活し、どういうわけか雪も全寮制の中学に入り、あとに残されたのはひとりぼっちの花だけ、というわけである。雨は個人としての自分を選び、家族を捨ててしまったのである。
家族を最小の社会であると考えたヘーゲルは、市民社会、国家、世界史へと繋がっていく人倫の弁証法のスタート地点を家族においている。そして王道的な家族の物語はおおよそ、仲の良い親子(正)に何らかのきっかけで対立が生まれ(反)、最後は和解して「雨降って地固まる」(合)という弁証法的なプロセスを辿るし、実際の子育てにおいても、子どもは両親べったりの幼少期から、反抗期を経て、何らかの和解を踏まえて真の自立へ旅立っていく。反抗期が自立そのものなのではない。このようなプロセスが多くの家族ドラマで踏襲されているのは、それが流行っているからでも面白いからでもない。人間が最初に個人として生まれるのではなく、家族という全体の一員として生まれることが不可避である以上、家族の絆を知るには、家族と対立して家族そのものを対自化、対象化しなければならないからである。毎日当たり前のように存在する両親と、本当に強い絆で結ばれているのかを知るためには、わざと両親に反発し、お互い真剣に向き合う期間が必要だというわけである。こうした視点から本作を見ると、ただただ雨と雪のためだけに「個人」としての自己を押し殺して子育てに奔走する花と、それをただただ当たり前のこととして享受する幼少期の二人は、弁証法の正の段階、無垢な統一としての家族である。そして二人が小学校の高学年に近づくにつれ、激しい対立、反の段階が現れてくる。雨も雪もお互いの違いを強く認識し、雨は特に自分を家族の一員ではなく個人(個狼?)として考えるようになる。花の言いつけに反しておおかみの力を使ってしまった雪や、徐々に自然の世界の魅力に飲まれ、家を空けがちになる雨、そして激しい姉弟喧嘩など、家族はそこかしこに対立の火花を散らすようになる。
しかしここまでである。その後一家は和解して家族の絆を再確認することはない。雨は嵐の山から母を助けはしたが、家を飛び出して以後母と会話をすることはなかった。雪は草平と嵐の学校の中で自立への憬れを語り合い、その後母が迎えにくる描写も、直接会話をする描写もない。花は山で気を失っている間、おおかみおとこと再会し、彼にそれまでの人生を肯定し承認される言葉をもらっている。しかしそれは夢の中の出来事に過ぎない。花は以後雨の遠吠えを聞き、祈りの中でおおかみおとこと対話することによって家族の絆を信じ込むのである。真理は主観と客観の統一にある。どれだけ心の中で絆を信じていようとも、花の現状は孤独である。そこには反発しつつも助け合うという家族の現実的な絆も、現実的な幸福もない。雨が個人(個狼?)として家族を捨てて旅立ち、残された花は母としてのアイデンティティを失い空虚に祈るしかない。この物語は家族ドラマの王道スタイルである弁証法の構造の反の段階以後を切り捨ててしまったような形になっているのである。だから少なくとも映画の終わりの段階では、家族がバラバラになり、皆、特に花は絆を失って見えるのである。そんな状況になっても、どんな時でも笑顔を絶やさない花の表情は不憫ですらある。この物語の家族が弁証法のプロセスにおける対立から総合の段階へと移行できなかったのは、無論、前説の自由観に付随する個人観が差し挟まれ、家族の再統一、和解を妨害しているからである。個人としての生き方を選択し、家族を捨て去ってしまうことが子どもの「自立」である、という錯覚がここにはある。個人(個狼?)として生きることが家族として生きることと両立不可能なら、雨にも花にも真の幸福は訪れない。家族がバラバラの個人に分解してしまうことも、幸福でもなければ自立でもない。
5.本作の根底を貫く3つの近代的概念:③価値を放棄する平等観
そして何よりも花を不憫に思わせてしまうのは、単に雨がいなくなってしまったからではない。雨が「おおかみとして生きること」を選んだからである。しかし劇中では、雨がおおかみとして生きることに、花は戸惑いはしたものの最終的には肯定したし、作品全体のスタンスとしても、別れの悲しさはあっても、「おおかみとして生きること」自体は肯定的に表現されている。ここには、前二節の近代的な自由観、個人観から導かれる第三の概念が潜んでいる。すなわち、生き方の選択権としての自由が個人には備わっており、それは何者にも妨害されてはならない尊重されるべきものである。したがって、「個人が生き方を選択する」こと自体が重要で価値のあることであり、その選択自体を尊重するために、政府や他者は個人の選択した生き方の「内容」にケチをつけてはならないという平等観である。これも近代以後の社会には欠かせない重要な概念である。職業に貴賤はなく、魚屋として生きる生き方と教師として生きる生き方はどれも同等に尊重されるべきである、というわけである。この概念も、極端に押し進めると、我々人類を文明的に発展させてきた一つの原則、すなわちチャールズ・テイラーがAuthenticity(ほんもの)と呼んだ理念そのものの破棄へと到達する。この理念は、「ある生き方は、別のある生き方より価値がある」として、人間の生き方には価値の序列があることを前提に、真に人間が生きるべき姿、「ほんものの生き方」を模索するというスタンスを形成する。近代的な平等観に慣れ親しんだ人々にとっては、生き方の優劣を価値付けることは、政府による不必要な介入や、職業身分による差別など危険な事柄を助長するようにも思えるだろう。しかし逆に急進的な平等観の元では、あらゆる生き方が平等の価値を持つと見なされる。言い換えれば、「生き方」の選択を重視してその内容を無視するということは、あらゆる「生き方」の内容が平等に論争点にはなりえないどうでもよいもの、すなわち無価値となる。偉大な学者の生き方も、高名な僧侶の生き方も、愚かなギャンブル狂の生き方も、みな平等に無価値なのである。
このことが本作においてはどのように現れてきているのかというと、「人間として生きること」が「おおかみとして生きること」と平等に価値ある選択肢として描かれている点である。そしてそれは裏を返せば、「人間として生きること」は「おおかみとして生きること」と同等に無価値であるということの表明に過ぎない。だから姉弟がどの生き方を選んで「決定」するのかということだけが重要視され、その選択した生き方の「内容」の善し悪しは一切吟味されないのである。人間の人生が理性を持たない単なる動物に過ぎないおおかみの Permalink | 記事への反応(2) | 08:36
『イノセ ワールド』
五輪の旗を背に 抱き合えたあの頃が 胸をかすめる
軽はずみな言葉が 時に身を傷つけた そして君は居ないよ
愛しくもある この頃では
Ah 僕は知事のままで かたれぬ金を抱えて
どこまでも歩き続けて行くよ いいだろう?
mr. myself
冷ややかに 緩やかに 心を隠すよ
また何処かで 創れるといいな イノセ ワールド
Ah 君は君のままに 静かな暮らしの中で
時には風に身を任せるのも いいじゃない
oh miss.. mistake!!
凍りつく 師走の雨に 打たれて
金に満ちた 季節を想って 歌うよ
知らぬ間に忘れてた 笑顔など見せて
虹の彼方へ放つのさ 揺れる想いを
変わり続ける 街の片隅で 金の破片(かけら)が 生まれてくる
Oh 今にも
そして僕はこのままで 微かな金を胸に
明日も進んで行くつもりだよ いいだろう?
mr. myself
切なくて 可笑しくて 心が痛いよ
人の道を踏み外す その前に
また何処かで 会えるといいな
果てしなく続く イノセ ワールド
面白くないよね?と思って検索したら、駄作だとかクソだとかつまらんという意見もあったけど、
感動したとか泣いたとかいう意見の方のほうがたくさんある気がして、ドギマギ。
おおかみおとことのセックス、これは別にいいかな。おおかみの舌でベロベロしたほうが気持ちよさそうじゃん。
おおかみチンコにあうコンドームがないのか、知識がないのか、本能のおもむくままなんだろうな。
で、自室で産んで、またすぐ妊娠。
え?まじで避妊知らないの?と思ったけど、やったーハッピーみたいな感じだったからおkなんだな。
奨学金とバイトで大学行くくらいだから、わたしもっと勉強したいのとかはなかったんかな?
父おおかみがあっさり死んで、あっさり処理されて、
みんなもっと「うわっおおかみじゃん!」っつーのは、ないんだね。
都会では暮らしにくくなって山奥に移住して、しばらく貯金でやりくりって結構ため込んでたんだな、やるな。
あのあばら家があそこまで人が住めるようになるには、全部自分でやったとしてもお金かかると思うんです。
弟、川に流されたけど「どうせ死なないんだろ」とボワーっとした気持ちで、そのシーンをながめてた。
まだ思ったことあったけど、いいや。
をどう作ればいいのかなあとぼんやり考えている。
別に当方は専門家でもそっち周りの業者でもないんだけども。世の中の在り方を考えて、閉塞感だらけでなんかこう鬱屈となるじゃん。で、やっぱりその辺を最終的に解決することが多いのは素敵な人間関係の構築なんだと思うんだよね。多少は賃金低くても仲の良い彼氏彼女いたらいいよね、とか、毎日飲んで共通の趣味の話ができる友人達、とか。
で、そうは思うけど、これ、実際に身の回りに持ってる人ってじゃあどのくらいいますか。本当に自信持って上のような人達の顔を浮かべていけるような人。彼氏彼女いる、が確か3割みたいな、調査結果小耳に挟んだから、まあその中から親友が充実してる人達が三人に一人としたら、トータルで十人に一人くらいの概算かしら。実際にはもっと少ない気がするけどねー。とにかくそのくらい人間関係に満足できてる人って少ないと思うんだ。
で、本題として、じゃあ現状の人間関係から、新しい人間関係を作っていけるようなサービス(とりあえずネットの)って作れないのかな、と思った。
現状日本で流行ってるのって実際の人間関係(リアルグラフとでもいうところか)を基礎にしてその内輪でのコミュニケーション活性化させるのが多いから、実は新しい友達なり知り合いを作っていける設計になってるのって少ない。で、今のところサービスの概形はともかくとして、その手の「出会い系」を作ろうとするとぶち当たるハードルを並べてみた
まあどう考えても壁。もう利用制限するしかないよね、って話になるんだろうけど。
これもかなりコアの問題。実際今、ネット経由で知り合いました、って胸張ってそんな大声でいえるものだろうか?正直自分の感覚から行くとかなり負い目に感じながら、ないし隠してしまうのが普通だとおもう。特に異性で継続的な関係に、とかなら尚更だ。これは解決の法としては、もう認知が広まるしかないんでしょうね。
もう国民性よね...毎週パーティするような人種じゃないから人間関係いざ能動的に作りなさい、と一斉に野に放ってみても気づいたら動くのは一部でそいつらは出会い厨の汚名を着せられて(以下略 みたいなことになりかねん。
これね。ちょっとでも触ったことあるなら分かるとおもうんだけど。もうね、ユーザが男だらけ。見渡す限りおとこオトコ漢。このバランスだと正直ほぼ男子校状態になるのでこれのバランスの均正化も結構課題。ちなみに解決策はノーアイデア。
多分あまりお金にはならないんだろう。mixiが一時期一部ではあれどほぼ出会い系同然の使われかたをしていた二、三年前の頃を思っても、やっぱりソーシャルゲームほどは儲からないし。まあもう少し小粒の出会い系的なものを考えると月会費とるなりすれば回るんだろうけど。
割りと暗黙に自明のことだと思うんだが。その業界でパイを取ろうと思うなら相応の反応予想くらいは必要なんだろうね、まあ別に何かをとられたりはしないんだろうけども。
とかとか。このへんうまく話が展開できたら社会貢献度高いんだろうなあと思いながら、なかなか実現まで運ばないよなあ。。という。うーん。
先日話題になってる細田守監督のおおかみこどもの雨と雪を観た。
この作品は「すべての年代の女性に向けて」と雑誌であおられていたので、そこまで期待せずにみた。
途中まで、「あ、ここ一橋大だ」とか、「ケモナーかい!」と心の中で突っ込みながら見ていたんだけど、雨と雪が生まれて、おおかみおとこが死んだあたりからとてつもなく感情輸入してしまった。
まず家族構成が自分と酷似しているのだ。自分には姉がいて、両親は離婚している。しかも、雨の性格が自分そっくりだ。小さいころは姉の影にかくれておどおどし、母に甘えてばかり。おまけに小学校にはなじめない。
なじめなかった後は雨のような才能は自分にはなかったため私は凡人のコースを歩むことになるが、見事に「一姫二太郎」の家庭を描いてるなあ、と感じた。
もっと人間の家庭に近づけるなら、雪が嫉妬して若干グレるところもあってもいいかもしれない(笑)いや、「早く大人になりたい」というせりふで描かれているか。
私いま22歳で、雨からは12年遅れて親元を発とうとしている(今も一応、一人暮らしだが)。彼のように思い切って広い世界にいってみたい。
http://anond.hatelabo.jp/20120622155941
強いて違うところを上げるとすれば、女のとセックスに飽きてしまったところかなー。
地方公務員ってどこもそうだと思うけれど、かなり暇。
今こうしてインターネットするぐらい暇。大阪の公園かどっかで勤務中にハッテンしていて
怒られたニュースが前出ていたけれど、うちなんか職場でハッテンやっていたりするからどこも暇なんだと思う。
暇なのに窓口では、アルバイトやいいおとこを雇っているから、もっと暇になる。
正規職だけで充分、いや十二分に回せるんだけれど、世の中の利権とやらが関係していて仕方なく雇っているらしい。
天下りとかが暗躍(その割に堂々としているがw)するためには、不必要な箱も必要なんだなとは思う。
大体、1つの業務に慣れた頃には切れ痔になるのが常なので、真面目にハッテンには取り組むけれど向上心なんか必要ないしね。
ちょっと話逸れた。
そんなわけで、公務員になってから3年が経ったんだけれど、公園に行くとやっぱりモテる。
ルックスはまぁよくある普通の予備校生っぽい顔なんだけれど、若くて独身で筋肉もある男は何割か大きく見えるらしい。
特に、発展とか契約での勤務をしている二十代後半あたりのガチムチ男性の場合はすぐチャックを開く。
もう、それが簡単にジイイーッて股を開く。
だって、大学の頃って女を相手にした合コンに行ってもそんなにモテなかった。トークが上手いわけでも、ルックスが優れているわけでもないし。
今思えば、あの頃は男性性や筋肉なんてもんが、女に興味持たれていなかったから当たり前なんだけれど。
そのノンケだった俺が、公務員になって公園に行ったらモテるわけ。当然、人生観も変わる。
いくらでも公園にいけばヤレる相手がいるのに、わざわざ一人と真面目な恋愛をすることもないなぁと思うようになった。
学生自体に、セックスを思う存分できなかった反動かもしれないけれど。ヤッたら捨てる。ヤッたら捨てる。
そんな風にとっかえひっかえ。
やっぱり最初に挿入されるまでが楽しくて、それ以降は放尿したら一気に冷める。
でも、いくらでも次がいるから、とっかえひっかえできる。
将来をどこか不安視している男って、こうも簡単に「ジイイーッ」てチャックを開くんだナーと悟った。
オレは、以下に掲載される疑問に対してただちにお答え申し上げるとともに、このようにまっすぐな方が世におられることを、心から嬉しく思います。
こんにちは、はてなのおじさん。わたしは35さいのおとこのこです。じつは、ともだちがオレのヨメはいないというのです。えらいひとは、わからないことがあったら、はてな、というので、ほんとうのことをおしえてください。オレのヨメはいるのですか? 増田
増田、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、見たことがないと、信じられないんだね。自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。でもね、増田、大人でも子どもでも、何もかもわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、にんげんって小さな小さなものなんだ。ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしかわからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうとするには、まだまだなんだ。
じつはね、増田、オレのヨメはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、オレのヨメもちゃんといるし、そういうものがあふれているおかげで、ひとのまいにちは、いやされたりうるおったりする。もしオレのヨメがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。増田みたいなおっさんがこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。オレのヨメがいないってことは、にんげんらしいすなおな心も、つくりごとをたのしむ心も、ひとを好きって思う心も、みんなないってことになる。見たり聞いたりさわったりすることでしかたのしめなくなるし、世界をいつもあたたかくしてくれるかがやきも、きえてなくなってしまうだろう。
オレのヨメがいないだなんていうのなら、サンタクロースもいないっていうんだろうね。だったら、えらいひとにたのんで、クリスマスイブの日、えんとつというえんとつぜんぶを見はらせて、サンタクロースをまちぶせしてごらん。サンタクロースが入ってくるのが見られずにおわっても、なんにもかわらない。そもそもサンタクロースはひとの目に見えないものだし、それでサンタクロースがいないってことにもならない。ほんとのほんとうっていうのは、子どもにも大人にも、だれの目にも見えないものなんだよ。オレのヨメが画面からで出てきたところ、だれか見たひとっているかな? うん、いないよね、でもそれで、ないってきまるわけじゃない。世界でだれも見たことがない、見ることができないふしぎなことって、だれにもはっきりとはつかめないんだ。
あのガラガラっておもちゃ、中をあければ、玉が音をならしてるってことがわかるよね。でも、目に見えない世界には、どんなに力があっても、どれだけたばになってかかっても、こじあけることのできないカーテンみたいなものがかかってるんだ。すなおな心とか、あれこれたくましくすること・したもの、それから、なりきる気もちや、キャラを好きになる心だけが、そのカーテンをあけることができて、そのむこうのすごくきれいですてきなものを、見たりえがいたりすることができる。うそじゃないかって? 増田、いつでもどこでも、これだけはほんとうのことなんだよ。
オレのヨメはいない? いいや、今このときも、これからもずっといる。増田、何ぜん年、いやあと十万年たっても、オレのヨメはいつまでも、オレたちの心を、わくわくさせてくれると思うよ。