はてなキーワード: 震災とは
北海道での地震を期に「人工地震」陰謀論が活発になりつつある。
人工地震という陰謀論は比較的新しい。なぜならば昔は「神」や「悪魔」などの超常現象的なもので説明がついたからだ。
しかし近年になると状況は一変する。陰謀論者の間で「HAARP」というスターが現れたのだ。
HAARPは主に軍が主導する研究で、正式名称は「高周波活性オーロラ調査プログラム」
巨大アンテナから電磁波を放出して電磁波と電離層の関係等を調査する研究プロジェクトだ。
一見すると地震とはなんの関係もなさそうに見えるが、「軍」「電磁波」ここらへんの単語に刺激されたのだろう、アメリカの陰謀論者たちはこの研究プログラムが地震や干ばつ、洪水、ハリケーン、台風、停電、慢性疲労症候群などを引き起こす装置だと断定した。
例えば東日本大震災のときには震災直後からHAARPのせいだというツイートが拡散され始め、2013年頃には最盛期を迎えた
東日本大震災は米ハープが起こした?
2011年4月8日(金)15時45分配信
米ミネソタ州元知事ジェシー・ベンチュラ氏は、日本の地震や津波は「米国の地震兵器ハープ(the HAARP)が引き起こしたものだ」と発言している。
http://t.co/PxoOtXo— 龍神 (@kamikaze_tokkou) April 8, 2011
最近の熊本地震や北海道胆振地震でもHAARPの人工地震だという説は事欠かない
熊本地震が起きる前日に、巨大電磁波が日本列島全体を襲う!
HAARPもすごい事になってた/熊本県 自衛隊高遊原分屯地と入力したら、緯度32.8経度130.8と出て震源地とピタリ一致!https://t.co/T5IJXBqtlm pic.twitter.com/f4Du9E0oEq— 非自公民の脱原発に一票(しろ) (@xciroxjp) April 18, 2016
一体なぜ、こうやって見ると荒唐無稽な「人工地震」陰謀論は流行ってしまうのだろうか?
ヒントは「同質性」にある。
みなさんも心当たりがあるだろうが、SNSでは同じ考えを共有するもの同士がつながる傾向にある。
似たもの同士が集まり合い、お互いにお互いの意見を絶賛しあい、しまいにはゲテモノとなったのその主張が正しいと信じ込んでしまうのだ。
こういった陰謀論に付属するのがこの言葉「可能性はゼロではない」だ。
この可能性はゼロではないという言葉は、あらゆるデマや陰謀論に適用できる魔法の言葉だ。
陰謀論は「ありそうなこと」をもとにしているため、この言葉をつけることが容易なのだ。
ひたすらデマを繰り返すことでその情報が既成事実化して「否定する人が多いのが逆に怪しい」「行政が否定してるのが怪しい」という言説が出るようになった場合、そのデマをなくすことは難しくなる。
陰謀論やデマを信じる人々に「正しい情報」を提示しても彼らは止まらない。
なぜならば陰謀論者が信じる情報というものには自身のアイデンティティや信念が内包されているからだ。
よって、正しい情報を信じることは自身を否定することにつながる。
そういったことで、一度信じ込んでしまった情報を「あれは間違っていた」とすることは、間違った情報を信じ込むことより遥かに難しいことになる。
さらに対立を促し、陰謀論者の思考が凝り固まることにつながるのだ。
よって、この記事で陰謀論に対して論理的反論をしたとしても彼ら/彼女らには響かないし、信じることはできないのだ。
とは言っても、著名な人物が陰謀論を拡散するというのは実に見苦しい状態だ。
先ほど北海道厚真町の地震は苫小牧での炭酸ガスの地中貯留実験CCSによるものではないかと書いたばかりの本日、再び厚真町を震源とする震度6の地震が起きてしまった。被災された方々にお見舞いを申し上げると同時に、本来地震に殆ど見舞われなかった地域だけに、CCSによる人災と呼ばざるを得ない。— 鳩山由紀夫 (@hatoyamayukio) February 21, 2019
CCSによる人工地震の可能性は、日本CCS調査株式会社による発表
「地震の震源は貯留地点より水平距離で約31km離れた胆振地方中東部の深度37kmで発生しております(深さを考慮した直線距離で約47km)。実際の二酸化炭素が圧入された地層と地震の震源が位置する地層とは連続性がなく、二酸化炭素の圧入による影響が本地震の震源まで及んだとは考えられません」
により完全に否定されているが、これも陰謀論者に言ったところで信じることはないだろうということを考えると、虚しくなるのである。
陰謀論は日々発生しているし、たいして影響もないがそれが災害という特殊な状況下では別だ。
災害下では人々が精神的に動揺し、疲労し、憔悴するからだ。そういったことにより、デマは信じられやすくなる。
私達は災害時の陰謀論・デマの危険性を知っているはずだ。それで多くの人命が失われた事例も知っているはずだ。
もう一度いうが、人は一度信じ込んでしまったことを自分自身で正すことは難しいのだ。
陰謀論には注意しよう。
ありがたいことにたくさんブコメいただけたので全て目を通しました。
私が右派、左派という言葉を使ったのでそういうブコメ色が強くなってしまったというのは確かにあるかと思います。
あと民主党政権の議事録が一切残されていないとしたことへの反響に関しては多少言い過ぎた部分ありました。すみませんでした。
こちらの記事では震災時に限られますが、残したものもあるようですね。
https://r.nikkei.com/article/DGXNASFS2700A_X20C12A1MM0000?s=0
また元の47ニュースの記事が消えてしまっているので個人ブログで申し訳ないですが、議事録を残さないというのは震災時だけでなく鳩山政権からの方針です。
http://iiko.hatenablog.com/entry/20120128/1327755863
これらを踏まえてまた言わせていただきます。
他に多かったブコメとして私を右派とした批判、選挙を控えた誘導だと言う声、また元政権への意見を求める声が多くみられました。
答えとしては前回の本旨に出てると思うんですが、私のような人間は自民党を強く押す右派ではないと思います。
安倍政権は完璧な政権ではなく、それどころかボロも多い、しかし何故それに野党は勝てないのかと言う思いが強いです。
そして安倍政権に関わらず、自民党一党が単独で支持を得ている状態は憂いていて、ライバルがおらず、切磋琢磨もなく、一党がずっと政局を持ち続けていればやがて政治は腐っていくと言うのは真だと思っております。
なので、野党は自分達の支持率を考えて行動し、支持を伸ばして欲しい。与党と野党で切磋琢磨し、互いを引き締めるような関係でいて欲しい。その為には与党の失態をただ責めるのではなく、自分達はしないように帯を引き締めたり、過去の自分達の失態を反省し、支持に繋げて欲しいというのが私の本旨でした。
政権の監視も重要な仕事であるのはわかっていますが、政権を批判し続けることで支持を得ることが出来ないのは現状が物語っています。
一刻も早く安倍政権を、自民党政権を引き摺り下ろしたいならそれこそ支持を得ましょう。
相手が国民の声に耳を傾けず反省しないでボロを出していると言うなら野党は自分の失態、失策を反省し、自分達に対する国民の声にも耳を傾けて一つ一つ糧にしましょう。
都知事選後、野党に苦言を呈した宇都宮氏も丁度同じようなことを言って反発を受けていました。
完璧な清廉潔白とまでは言いません、人間ですから。しかし自分達の行いを総括・反省し、新しい方針を打ち出していくことはできますよね。そう言った前へ進む姿勢を見せて欲しいです。
野党の仕事が政権の監視であること、その支持者が政権に厳しく当たることはわかりますが、ならば同等に野党にも厳しく当たるべきだと思っています。
現与党が反省せず耳を貸さない嘘つき政党と責めつつ、同じことをした、してる野党は支持されるでしょうか?
特にこうした野党に少しでも文句をつけるような意見は“ネトウヨの声”として問答無用で切り捨てられもします。
民主党政権時代の反省もなく、都知事選の反省もなく(共産党は都知事選をよくやったと讃えてすらいます http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-08-01/2016080101_01_1.html)、しかし与党の不祥事はけしからん、最低最悪だと言い、それは政権の監視が仕事だからと理屈付ける。
私の言った助言というのはこの辺のことで、ブコメで野党はもっと支持を考えて欲しいだとか、その為にこうしたら良いのにとか意見付きで書いてるものをよく見ていたので書きました。
二児を育ててきましたが正直言って苦労という苦労の実感はなかったです。私の母もそうでした。
だから子育てが大変だ大変だという世間がさっぱりわかりません。
乳幼児の頃は確かに全然寝られませんがかわいいから平気でした。
夫は基本的に土日に子供と遊んでくれたり私が風邪で寝込んだときになんとかしてくれるぐらいでした。
子供が3歳と1歳の時にはカタールに長期出張に飛び、さらにはインドネシアやミャンマーにまで。その後もなんども海外出張がありました。私は「ちょっと大変だな」「カタールって安全な国だっけ?」以外なんとも思いませんでした。やること色々あって忙しいですからね。
この歳だと子持ちの友人知人がたくさんできて、家庭状況も様々ですが、彼女たちを見渡すと、育児でおかしくなりかけた人とそうでない人の違いって、物理的な諸条件より当人の性格のような気がしてなりません。
たとえば、シングルマザーほどおかしくならないんです。彼女たちは物理的にものすごく忙しいですから。くだらないこと考えて人を恨んだりする暇がありません。だから明るいです。物理的なヘルプを頼まれて駆けつけたときもいつも元気です。
いっぽうで、物理的には余裕も暇もある人の方が精神的に思い詰めた空気をまとっていることは結構あります。精神的に落ちているので会うとウッとなります。
ところで、育児でおかしくなりかけた人は震災でもおかしくなりかけました。
放射能に関する怪しい情報をたくさん仕入れて私にも教えてくれようとしました。元増田さんの奥さんはもしかしてそっちのタイプではないでしょうか?私が思うにあの人達は頭が暇で、余計なことをたくさん考えて思い詰めるんです。
母と私で共通するのは趣味があって子供を育てながらも極力楽しんだり習いに出掛けたりするところです。あまり大勢の人と一緒にいるのが好きではない代わりに、一人でいてもやることがたくさんあって全く暇ではありません。
また、集中する癖があって、家事もやっている間は没頭してしまいます。掃除している間は掃除のこと以外なにも考えていません。
でもおかしくなる人はどうもそうではなくて、何をしていてもなにか考えています。物理的に暇があるといよいよ考えています。そんなこと考えながらやっているから家事もなかなか終わりません。
たとえば乳幼児の面倒見ながらポコポコと空く「なにかに取り組めるほどではないけど暇な時間の細切れ」に、私は趣味のイラストのペン入れの感触を反芻したり、寝ている子供のお腹の動きをじっと見つめて一体化したりしていたので、頭がとても忙しく充実していました。
しかしそこで頭が暇になる人は、夫を恨みだしたり子供を憎みだしたりして、それを反芻しながら繰り返すにしたがってものすごい恨みになって、自分が不当に不幸な境遇にいるとう考えで一杯になるのではないでしょうか。
dvしてくるとかでもないのに配偶者が遅くしか帰ってこないとか家に寄り付かないとか、たったそれだけのことで精神的におかしくなる人は、相当に頭が暇な人だと思います。私は夫が好きですが、突然3年出奔しますと言われても動揺しません。お金はお願いします。きちんと常識的に使って管理しますからね。
水道の蛇口で、レバーを上げると水が止まるタイプと、下げると止まるタイプの両方があり、戸惑ったことはありませんか――。日本工業規格(JIS)では、2000年に「下げ止め式」に統一された。そのきっかけが16年前の阪神大震災だったという説がある。事実なのか、「都市伝説」なのか。調べてみた。
「わが家でも両方のタイプがあって、いつも間違ってしまうんです」
そう苦笑するのは神戸市水道局配水課の田中孝昌(たかまさ)さん(46)。1997年に建てた自宅は台所が「下げ止め」、洗面所は「上げ止め」。かつてメーカーごとに別々のタイプを製造していた名残だ。
レバー1本で水を出したり止めたり、湯と水を切り替えたりできる蛇口の正式名称は「シングル湯水混合水栓」。日本バルブ工業会(東京都)によると、欧米で生まれ、70年代半ばから国内でも普及した。押して出る方が人間の自然の動作に近く、未使用時にレバーが上にあった方がデザインが優れていることから、国内で最初に製造されたタイプは「上げ止め」だった。
ところが、80年代初めに米国の大手水栓メーカーが「下げ止め」に変更。国内でも「下げ止め」のメーカーが現れ、混在するようになった。90年代初めに規格統一に向けた議論が業界内で始まったものの、結論が出なかった。
そこへ、95年1月の阪神大震災が起きた。神戸市水道局によると、この時、物が落ちてレバーを押し下げ、水が出たままになった例があったという。これが「震災きっかけ説」の根拠になっている。
昨年5月に神戸市中央区に転居した会社員女性(24)は、水道業者から「蛇口のレバーを下げれば止まるようになったのは震災がきっかけだよ」と聞かされた。
神戸市水道局の田中さんも年に数回ある市民向けの出前講座で、震災と蛇口の規格統一とを関連づける説明をしている。その方が興味を持って聞いてくれるからだ。「明確な根拠があるわけではないと知っていました」としつつも、「同僚の間でもそういう認識があった」と言う。
「シングル湯水混合水栓」は96年にJIS規格化の対象になり、経産省の日本工業標準調査会が翌97年、00年3月末での「上げ止め式」の廃止を決めた。バルブ工業会によると、理由は欧米で「下げ止め式」が圧倒的に普及していることに合わせたためだ。
ただ、震災での事例を踏まえて「下げ止めの方が(非常時に)安全ではないか」との意見もあったという。工業会の比企諭(ひき・さとし)専務理事は「震災対策も含めて、グローバルな観点から下げ止め式に統一することになった」と説明している。(清野貴幸)
自衛隊遅れた理由考えたらそこ比較にあげられるなんて思うはずなんやがな…
あれはむしろ自衛隊に好意的な思想持ってない人間が自衛隊トップに立つ怖さの例って話やろ
あと耐震技術とかの建築基本法とか自民政権の下で変わっとるんやで
民主が政権交代した時に麻生政権時の小学校とかの耐震予算削られてからの震災やん?
その時一緒にIAEAに言われてた東電の原発の懸念箇所への予算国から出すみたいな話もあったて聞いたわ眉唾かもしれんけど
元々交代前に言ってる事の財源聞かれて一様に無駄が多い削れる埋蔵金があるって具体的に言ってなくて事業仕分けメディア呼んでやって防衛関係制服とか弾とか安い中国に頼めばいいみたいに言ったりスパコン疑問視してJAXAも削って大した成果も強制力もないから手のひら返されてパフォーマンス言われてついには報道番組で石破に自民時代にそういうの散々もうやってるんで的に言われてアナウンサーかの何で我々は知らないのかって言葉にマスコミさんは言っても興味なかったんですよみたいに皮肉言ってたの覚えてるわ
あの時の自衛隊のトップが誰か理解してんのかって聞いて答えられないのに対して知ってるけど国民のために黙ってくれてると思うけど首相やぞって皮肉とか石破半ばキレとったもんあの頃
自民の土建イメージからか堤防とかインフラとか災害対策対応予算も軒並み削ってその冬北国大雪でそのせいでまともにやれずに自衛隊出動要請かかってたり何十年に一度の洪水に対応するスーパー堤防とかいります?てやったら何十年に一度の大雨洪水来たり堤防決壊したりもうコントみたいやったやん
官僚バカにした発言しててまともに使わずそのせいで色々やらかしてたり結局アメリカから戦闘機も言い値で買ってたわけやし自分達の能力の把握程度と実力の乖離があまりにもやった印象やわ
安保もあんだけ反対しとったけど民主党政権時に同じような事進める話しとったらしいし消費税も叩いて政権交代したとこもあるのに上げる気満々マンやったやん
リーマンショックも民主じゃなくまだ自民の時からやし日本はサブプライム出遅れてたから助かった感じやろ派遣切りとか影響あったけど
でも民主党がやばかったのは対応ってより国の代表と政権の区別がついてないとこやったと思うわ
ブコメやトラバで勇気でた。買うわ。ありがとう。全てのコメ主に幸あらんことを。
ハザードマップのうち、内水(降雨)による氾濫リスクのマップを見よう。これの色がついた土地は要するに水はけが悪く、ジメジメした環境になる。生活環境もしかりだが、湿度は建築の寿命に多大に影響する。欧州の建築が何百年も持つのは地震がないこともあるが、空気が乾燥しているのも一要因。
確率の高い順に、
— レベル1:確実にくることがわかっている —
親が要介護になる/日本全体の人口減少/大都市への人口集中/自分も周りも高齢化/子供の成長と共に家が狭くなる。
共働きができなくなる/おいらの収入が減る/家具が倒れるレベルの地震/隣人がキチガイまたはキチガイ化
— レベル3:起きるかもしれない —
無収入になる/家族の誰かが死ぬ/ヒビがはいるレベルの地震/大雨による氾濫/管理組合が機能不全になる
レベル4リスクをカバーするために高いローン組んだり郊外の物件にすれば、レベル1,2リスクの影響がでかくなる。だから、レベル4のリスクは目を瞑る。
現政権が良いんじゃなく一回やらせてみよってやった政権交代のおかげちゃう
あの全方位ええとこ無し加減思い出すと相対的に評価甘くなるのもしゃあなしって思えるわ
あの時大企業も下請けも派遣も就活もやばくて政治と金の話に失言に大臣交代に口蹄疫とか震災のお粗末さも全部盛りでやばかったやろ
外交も尖閣国有化からの中国反日デモとか竹島上陸とか今のこじれてる沖縄の基地問題もあそこ発端やろ
その時点で何年もかけて説得して決まってた話を県民煽って県外移設言ったのはええけど実は何の考えも根回しもなく思いつきで勝手に移設先挙げてそこの知事キレさしたり啖呵きって1日経たん間にあそこに基地ないとアカンて理解したみたいに言ってたのやばすぎて笑ったの覚えてるわ
あと政権交代前の短期政権連発の不安定感とその時の経済の感じ重なって思い出すとかちゃう
郡山は雨だ。
文字通り真っ暗な車窓に、水滴が張り付いている。
少しでも遅れると困る。このまま大宮まで在来線を乗り継いでいかなければならない。
グーグルからの通知で、宇都宮から遅れているとの情報を受け取る。
日付が変わる頃には家に着いていたい。
土曜の7時過ぎ、平日なら都内の方面へ向かう大宮駅の在来線ホームにいるはずだが、この日は打って変わり、新幹線ホームにいた。
金曜の夜のうちに、鳴子温泉の宿を取っていた。
昨晩熟睡できたおかげか、頭はすっきりしている。
少なくとも午前中には宿に着いてしまう、余裕を持ちすぎた旅程だった。
出発の5分前に新幹線は入線した。構内のブックエクスプレスで買った本を読みながら発車を待つ。
雪が降っていた。
西口のペデストリアンデッキの隅々には黒く汚れた雪がそこかしこに避けてあった。
本来なら、鳴子温泉にまっすぐ向かうのであれば、古川行きの特急券を用意するのが一般的だが、気分の変わりやすい私は、なんとなく先のことを見越して仙台行きでやめておいた。
別に、仙台から東北本線、陸羽東線を乗り継いで行っても問題ない。
また、結果的にその通りになったのだが、仙山線に乗り迂回しながら鳴子温泉にも行ける。
コートのポケットの中には行き先指定の乗車券ではなく、乗り降り自由の周遊券が収まっている。
これでふらふらと時間の許す限りどこまででも行ける。
雪を見たら必ずどこかに行きたくなる。
仙台に降った雪にそそのかされ、仙山線で山寺を目指すことにした。
山形県境を超えると、雪が濃くなった。
車窓には白色が占める割合が高くなり、車輪が雪を踏みしめる音が聞こえる。
私は学生の身分から社会人になったが、仙山線のこの風景は何も変わってはいない。
立石寺までの道のりや、参道の茶屋の雰囲気、何もかもそのままだ。
昔のことを考えていたらなぜか気恥ずかしくなり、1時間半滞在した後、すぐに山形方面を目指した。
あの頃は、貧乏学生で新幹線なんて使えず、全て鈍行での旅程だった。
駅前では旅館のおかみさんがボートを手に掲げ、待っていてくれた。
一晩お世話になる宿は、とても素晴らしいものだった。
なによりも、お湯が最高であった。
鳴子の湯は、湧き出る箇所によってその特色が全く異なる。
今回の宿は、これでもかというほど白く濁りきり、硫黄の匂いで脱衣所どころか、宿全体が溢れていた。
2階建てですべてが和室。こたつにストーブ。更には湧き出る源泉の温度を利用したヒーターが備えてあった。
夕食後は湯に浸かり、酒を飲んで、気付くと朝を迎え、あっという間にチェックアウトをしていた。
かつての震災。実家が青森の私は、知っておくべきことではないかという観念があった。
整然としている。真っ先に思い浮かんだ感想。
列車の中で見た女川までの車窓は、やはり想像していたとおりだった。
復興の力とはすごいものだ。震災直後の町の有り様は、詳細には私にはわからないが、一つだけ言えるのは、さっきまで見ていた車窓とは全く異なっていた、ということだ。
これこそが活気だと感じた。
だか、確実にここには人が住んでいる。そういう気分にさせた。
私はその後、今日何度目かの温泉に浸かり、土産を買い、ただの観光客という身分でそこにいた。
観光客でいられるということは、よく考えてみれば、それはもう立派な町だ。
間違いなく東北は立ち直ってきている。一部分の一瞬を切り取っただけを見た私が言うのは甚だ軽薄で軽率であるが、そう思わずにはいられなかった。
一年前、仙台から鈍行で東北本線を上ったことがやけに懐かしくなり、私は300km超の道のりをゆったりと列車に揺られている。
残りの時間は少し眠ろうと思う。仙台で少し買いすぎてしまった酒がもう底を尽きた。
なんとまあ奔放で堕落した2日間だっただろう。
あの頃、私は大阪の大学の研究室で、毎日ひぃひぃ言いながら研究に明け暮れる日々だった……とか書くと、何自慢してるんだ、とか言われそうなのだけど、なかなか良い結果が出ずにひぃひぃ言っていただけの話で、色々辛い思い出ばかりの時期だったのだ。
そんなときに来たのがあの地震だった。私は深夜に戻って寝ていた下宿であの地震に遭遇したのだが、幸いそこは大した被害はなかった(室内はぐちゃぐちゃになったけれど)。しかし大学は、あちこちで建物の窓が割れていたり、ある建物の最上階ではボヤになったり、実験に使っていた装置のアラインメントが狂っていたり……と、色々と問題が出て、その後も何か月もの間尾を引いた。友達の一人は、家の壁が抜けてしまい半壊認定、そして転居することになったのだが、もともとが貧乏人(馬鹿にしているのではなく、私も同様の貧乏人だった)だったので、見舞金で一種の焼け太りとでもいうような状態だった……いや、でもあの忙しい時期に引っ越すのはそれはそれで大変だったと思うけど。後輩のひとりは家が全壊し、しばらく研究室に住み着いていた。よく研究室のシンクで、湯沸器で行水していたっけ(後で考えるに、体育館にでも行けばシャワー位ありそうなものなのだが)。
そして……ここからがこの文章の本題である。あの日から一週間程過ぎた頃、隣の学科の教授が亡くなったという話が聞こえてきたのだ。その教授はある分野ではかなりのビッグネームで、私も概論のような授業でその教授の授業を受けたことがあったのだが、私の専門分野とは微妙にずれたものだったので、それ以上の関係というのはなかった。ただ、そのときの状況は、そんな位置にある私から見ても何やら奇妙なものであった。普通、教授が亡くなったら、それはそれなりに騒ぎになる。病気療養中のところ、とかいうならまだ準備ができているかもしれないが、聞いてみると、やはりあの震災で亡くなられたのだというのだ。だったら尚更、騒ぎになってもよさそうなものではないか。しかも一週間過ぎてから……どういうことなのだろうか。
友達に一人だけ、その学科の学生がいたので、学内で見かけたときに思い切って聞いてみたのだ。彼は言葉少なく、
「ちょっとな……」
「ちょっと、って、何よ」
「色々あるんや。言われへんこともあるんや」
言われへんこと……そのときは、ちょっと想像がつかなかった。まあ、周囲の目もある学内だから、話そうにも話せないことでもあるかもしれないんだが……でも、殺されたとかいうならまた別だけど、そういうわけでもなさそうだ。一体、何が問題なのだろうか。
共通の知人の家で遊ぶことがあったので、思い切ってもう一度聞いてみると、ようやく彼は事の経緯を教えてくれたのだった。
その教授は、最初行方不明という話になったのだった。確かに震災があったわけだが、その教授の家があったのは大阪である。大阪も、場所によっては確かに酷いことになっていたのだけど、その教授の家はそういうこともなかったらしい。しかし、教授と連絡が取れない。そうなって三日が過ぎたとき、思いもよらぬ報せがきた。神戸市内のある倒壊家屋で、その教授の遺体が発見されたというのである。
「……何故そんなことに」
「で?」
教授の遺体と共に、一人の女性の遺体も発見された。そして判明したのだが、この女性は教授の愛人だったのだ。つまり、この教授は神戸市内に妾宅があり、そこに滞在していたときにあの地震に遭遇、倒壊した家屋の中で亡くなったということらしい。
「……そんなことって」
「あるのか、って思うやろ? 俺もそう思ったけど、事実そういうことらしい」
恋人でなく愛人と書いたことからもお分かりかと思うが、教授には家庭があり、夫人がおられた。その夫人が、教授の遺体の引き取りを拒絶し、その後の説得に対してもなかなか翻意しなかったのだという。まあ、この夫人の心中を思えば、むべなるかなとも思うわけだ。三日間、消息を心配していたその矢先に、思いもかけぬ場所で思いもかけぬ経緯で命を失い、しかもそれが自分への裏切りとセットになって報されたというのだから。
こういう学界のビッグネームが亡くなったときには、その弟子や同じ分野の研究者達が「追悼論文集」をまとめ、出版するのが通例である。一年近くの後、この教授の追悼論文集が出版され、私の研究室にも回ってきた。教授をしのぶコメントに目を通してみたけれど、「不幸な事故に遭われ……」としか書かれていない。私もいくつかこの手の論文集を目にしたことがあるけれど、何々という病気で闘病され、とか、これこれの事故に遭われ、とか、少々リアルな話が書かれていることが多いものである。しかし、そりゃあ弟子も業界関係者も、今回ばかりは書きようがない。論文集を読むだけでは、何かその教授がすっと消えうせたかのようにしか思われない。そんな印象が今も強く残っている。
私はこのことから何を学んだか。いかに天災であったとしても、この教授は、自分が死んでしまえば後のことは知らない……などとはとても言えない程に、残された人を深く、多く傷付けることになってしまったわけだ。家族だけでなく、自分の育てた弟子と言ってよい研究者達も、師匠を突然失った喪失感を抱えつつ、その師匠のこんなことをどう扱ったらいいものか、と困惑し、悩みながら後始末をするはめになったわけだ。どれ程高潔に、後々の準備をして死んでいく人であったとしても、そういうものを完全に残さずに逝くことはできないだろうけど、やはりあれはまずかった。自分がある日この世から消えて、その後に残される近しい人達のためにも、誠実に生きていかなければならない。いや、それ以前に、自分がそういうことに対して誠実になりたいと思えるような、そんな生き方をしなければならないんじゃないか。そう思ったのである。
阪神大震災で毎年思い出すのがジャンプ・スーパー・アニメツアーだ。
当時週刊少年ジャンプが行っていたジャンプ・スーパー・アニメツアー
関西地区では神戸が会場で行うことになっていた。もちろん僕も応募したが落選してしまった。
しかし震災があったために一旦取りやめ、翌年に再応募で大阪で行うことになった。
今だったらクレームものであろう、抽選リセットで再び応募した僕はめでたく当選した。
生で鈴木結女さんのそれでも明日はやってくるという曲を聴いたのだが素晴らしすぎて感動したのを覚えている。
それ以来1.17が来るたびにこの曲を聴いては毎年、頑張ろうと気合を入れ直している。