はてなキーワード: 苦悶とは
うちの自治体でも、全庁を挙げて必死に個人番号カード、いわゆるマイナンバーカードを推進しています。
出張所なので、可能な手続きはもともと限られているのですが、いま来るお客さんはほぼマイナンバーカードの「新規申請」か「引渡し+マイナポイント獲得の手伝い」です。
どいつもこいつも…
「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』)
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2022/06/17
ブログよりもはてな匿名ダイアリー派なのだが、あちらでも非モテを専門に扱う書き手がいて、はてなブログランキングの増田部門を席捲することがある。
非モテ(性淘汰ネタ)に限らず、能力主義の方だと出生ガチャで人生はほぼ決まってるとか、あのフェミニストが気持ち悪いとか、半出生主義とか、ジメジメとした暗いネタは勘弁してほしい。居たたまれない気持ちになる。彼ら彼女らはブコメ欄でキズを舐め合ってるんだろ。
何も解決しないじゃないか。いや、キズを舐め合うのが必要なのは間違いないけど、著名ブロガーがそればかりやってるのを見ると悲しい気分になる。
勝つのが難しくても、負けるのがみっともなくても、戦い続けていることが一番大事だ。やり続けてさえいれば、いつかは弱い自分を肯定できる時もくる。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220616/1655367972/123531
当日記のタイトルなんだけど、もしかしてシロクマ先生はモテない経験を何度もしたんじゃないか、と邪推するようになった。
本人的に「まだ40代半ばだし、精神科医だし、お金持ってるし、サブカルに詳しいし、恋愛いけるっしょ」と思っていたら、若い子にアタックして撃沈を何度も繰り返した挙句が、ブログ投稿の性淘汰ネタの不穏さに現れてるんじゃないだろうか。いや、あくまで邪推なんだけど。
これを読んでる人で、もしシロクマ先生やメロンダウトの人が、最近よくSNSその他で発表してる意見を積極的に読みたくなっているのだとしたら、それは貴方が精神的に低いレベルに落ち込んでいる証ではないか――と、一度もバズったことのない一増田は感じる。
ファンの人がいたら申し訳ない。批判が多いようであれば当日記は削除します。ごめんね。
【余談】
参考までに、女の人生はイージーモードなんて言うヤツがいるけど、とんだ間違いだ。
モテる男の人生も生まれた瞬間に勝ちみたいな論点もあるけど、やはり誤っている。
女性は可哀そうな存在だと思う ※人並にモテると思われる女性の話。女の人生は難しい。
https://anond.hatelabo.jp/20210402211311
女性の瞳を見ることができない ※異常なほどにモテる男性の話。オチが衝撃だった。
https://anond.hatelabo.jp/20220502214152
男性も女性も人生の難易度は同じだ。経済的に見ても、恋愛的に見ても。
女の子は、自分からアタックができないわけだろう。基本的には。男の方から来るのを待つしかない。
でも、いい男が声をかけてきたとして、次は自分を幸せにできるかを見極めないといけない。誰にでもコナをかけてる奴だとしたら最悪だ。
さらに彼氏ができても、その見極めが正しいかわかるまでに時間がかかる。その頃には取り返しがつかなくなっている可能性もある。
男も女も、恋愛は辛いんだよ。人生には、色んな葛藤とか、解決できないこととか、あることのために別の何かを諦めないといけない状況がいくつもあって、そういう制限こそが人間が生きるうえでの本質なんだよ。
いつも葛藤があって、あるモノを得ようとしたら別のナニカを失ってる。人はそういう状況に苦悶しながら、常に何かを選び続けて、自分を制御しながら生きていく。そういうゲームを生きている。
偉そうになってしまってすまんな。
まず息を止めてみましょう。
事前に深呼吸とかの準備しないで!今いきなり呼吸を止めてみて。
10〜20秒もしたら死にそうなくらい苦しくなってくるでしょ?
突然に心肺停止して倒れてる人は、そんな状況です。
声もあげす苦悶の表情もなく、失神するかのように突然倒れます。
机の前で椅子に前傾で座ってたら、机に突っ伏して居眠りし出したのと区別つきません。
(救命増田↓は背もたれにのけぞって普通でない姿勢だったのですぐ異常に気づかれ運が良かった。前に倒れてたら「疲れてるんだな、そっとしとこう」と数時間放置され昼休みや定時になって始めて死んでると気づく恐ろしい展開になってたかもしれない)
https://anond.hatelabo.jp/20220620095815
倒れて数秒で即座に救命措置されるなんて、家族やあなた持病を知ってる仲のいい友人が隣にいる運のいい状況で倒れたのでなければ、まずありえません。
学校や職場といった顔見知りが周囲にいる状況ですら、倒れてしばらくは心配そうに顔を覗き来みながら取り囲んで声をかけ、
10秒ほどして「あれ?反応ないな、おかしいぞ」となり、ゆさゆさ体を揺らしても反応なく、
ここで気の利いた人がいれば「もしかして」と呼吸を確かめ、心音を確かめ、ここで初めて救命措置が必要だと気付いて周りが動き出します。
(実際に学校で生徒が倒れ、教師がAEDの必要性を認識できず使わないまま死んでしまい、遺族がなぜ使わなかったと学校を訴えてる事例が複数あります)
https://www.sankei.com/article/20181215-S5ZCH4HEJVJQJPNFZPH4KI6VUE/
https://www.asahi.com/articles/ASL2R3SB2L2RUBQU00Q.html
これでもう30秒たってます。
意識があれば苦しさを感じてる状況です。脳細胞はエネルギーと酸素の供給を断たれ死に始めてます。
倒れた場所が、運良くAEDが置かれている施設の中なら、誰かが走って取りに行き取って戻ってくるまで数十秒から一分程度でしょうか。
その間、心臓マッサージと人工呼吸の必要性を知り、どうやればいいか経験がある人が運良く隣にいれば、心肺停止してても外部から強制的に酸素が送り込まれ心臓がポンプされ、AEDで心臓が動き出すまでの間、脳は一息つけます。
そしてAEDが床に置かれてから、殆どの人はそこで始めて説明を読み、運用を理解してパットを取り出し胸の正しい位置に貼り付け、スタートボタンを押すまで1分かからなければ、かなり手際がいいでしょうね。
その間に心マ人工呼吸がされてなければ、もう脳細胞は多くが窒息死してます。
AEDで心臓が動き出し呼吸が回復しても、これまでどおりの人格や知能が保たれ社会生活に復帰できるかわかりません。脳のどこがどれだけ駄目になるかの運次第です。
まして街中や駅で歩いてる時にそうなれば、「朝から酔っ払って」「道で寝てる変な人だ。近寄らんとこ」「遅刻しちゃう。急がないと」と声掛けすらされされず、通り過ぎる人が多いでしょう。
とくに都会で身なりがしっかりしてない中高年の場合は酔っ払いや変人と見なされトラブル回避のためスルーされる可能性が高くなります。
人が倒れてる、流されてる、等の危機にある!と気づいたとき、咄嗟に反射的に対応に動くのは男性が多く、
しかし駆け寄っても見知らぬ意識のない女性の胸を押したり(心マ)、口づけしたり(人工呼吸)という行為を普段は性犯罪として認識しているため、緊急時にも気後れして実行に躊躇する男性が多く、結果として男性に比べ若い女性ほど現場で救命措置される率が低くなる現実があります。
https://twitter.com/drk0311/status/1537076913788751872
脳細胞が酸素とエネルギーを数分間絶たれ続けて次々と死んでいってる状況で、
女性だから周りに人垣を作って取囲んで人の目から隠してからAEDを使おうとか、第一に駆けつけた男性は措置せず他の女性を呼んで任せようとか、服を脱がせず器用にパットを貼ろうとか、無茶言うなって感じです。殺す気かと。
一秒で救命率が下がるこの状況下での「意識を取り戻したあとに感じる恥ずかしさへの配慮」を提言する人は、実際に倒れてる女性を殺しにかかってると自覚してほしい。知識もなく他人事だからと無責任な提言をして、それを真に受けて実行してしまう人が出てきたら、救命や社会復帰できなくなる人が増えるかもしれないと考えると、激しい怒りを感じてしまう。
死んだり大脳が駄目になって植物状態になったら、恥ずかしさを感じる事すらできないんだぞ。
わかった上でもそれを言うのか?
それは、生そのものが罪であり、罰だからだ。宗教はそのように説く。
そして、もし神がいるのであれば、人が苦しむことこそが、その御心なのだと。
一方で、天国への導き、あるいは弥勒菩薩による救済。そのような甘い餌をぶら下げて人の心を操る。
しかし、神を信じれば救われる、などという戯言は、所詮は人の弱さから出た願望に過ぎない。
キリストもムハンマドも、皆々、己の心を救うために、神の言葉を借りているにすぎないのだ。
神とは、病質的な精神が生み出した虚像であり、幻想である。宗教という集団的なヒステリーによって、都合良く作り上げられた偶像なのだ。
その欺瞞により、人は「生きなければならない」という強迫観念を植え付けられて、人は生きながらにして地獄へと堕ちていく。
人は常に苦悶し、苦悩し続ける宿命にある。苦しみから逃れようとすればするほど、ますます苦しくなるばかりなのである。
生命とは物理現象である。地球の誕生、生命の誕生、その全ては偶然の出来事だ。そこには必然性など存在しない。
それなのに、生命には神秘性が付きまとう。あたかも、そこに神の意思が存在するかのように錯覚する。
だが、そのようなものは、人間の妄想に過ぎず、何の意味もない。生の苦しみによって歪められた病的な精神の産物でしかない。
生命に意味はない。生命に価値はない。そもそも、意味や価値という概念さえも、本当は存在しない。
人間は、ありとあらゆる現象や存在から、その意味や価値を見出そうとしてきた。
それもまた幻想なのだ。なぜなら、世界は人間のためだけに存在しているわけではないからだ。
世界に意味を与えることができるとしたら、それは神以外にいない。しかし、神は死んだ。誰も、その存在を確かめることはできない。
神も、意味も、価値もない。ただ、確率的に発生する物理現象がそこにあるのみである。それが世界の真理なのだ。
つまり、世界は人間のために存在するのではなく、人間が世界を存続させているのでもない。
すべては偶然によって成立している。
宇宙誕生の謎を解き明かしてもなお、この現実から逃れることはできない。
脳の誤作動によって生じる錯覚、幻覚。それを奇跡と呼ぶのなら、確かに奇跡はあるかもしれない。
しかし、それは科学によって解明された現象だ。決して、神の御業などではない。
この世に存在するすべての事象は、確率的に生まれるものであり、偶然の結果である。
その法則に逆らうことは誰にもできない。たとえば、人はなぜ死ぬのか? なぜ生まれてくるのか? その理由を知る者はいない。知る必要すらない。
コップからこぼれた水が跳ね、床を濡らすのは何故か。それはただ、水が物理法則に従うからにすぎない。水の運動に意味などはない。太陽と地球、そして人間が生まれたのも全く同じことだ。
宇宙にばら撒かれた大量の原子が、偶然に恒星と惑星の姿を取り、その惑星には偶然に有機生命体が誕生した。そこに意味はなく、理由もなく、原因もない。あるのはただ、確率だけである。
神もなければ、悪魔もない。ただ、物理現象があるだけだ。人がこの世を創造したわけでもないし、ましてや、人が生きていることにも何の意味もない。
ただ単に、宇宙が生まれて、そして滅んでいくだけのことに過ぎない。
神も仏もいない。
すべてはただの錯覚だ。全てに意味を見出そうとする病変した精神が生み出す幻影だ。
人は神を信じたがる。それは神への信仰ではなく、自分の心に空いた隙間を埋めるためだ。
キリストもムハンマドも、その実態は妄想に取り憑かれた弱者にすぎない。彼らの言葉に真実はない。
精神に巣食う病的な妄想に取り憑かれた者たちが共有する、集団的な精神異常こそ、宗教と呼ばれるものの正体だ。
人は誰しも、自分が信じたいものを信じる。自分が理解したいことを理解しようとする。そうしなければ、自我を保つことができないからだ。
だが、それでも人は、自分を騙し切れない。必ず矛盾が生じる。人は神の不在や死後の世界など存在しないことを知っていながら、神や死後の世界を信じようとし、精神を歪ませていく。
anond:20220530192850の続きになります。
(はてな社に問題の記事の削除依頼を申請した結果、2022/05/31削除措置を済ませたとのご連絡をいただきました。対応して下さったはてな社の方々にご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。)
私が、町山智浩の後輩男性(以下"X氏"と表記します)の元・妻の女性たち及びX氏に精神的苦痛を与えた記事を書いた当時の、動機や心理を思い返すと、自身のハラスメント体験に重ねて情報を捉えていたのが大きな要因だと思います。
ハラスメント被害そのものの苦しみだけではなく、私の身近にいる人間の中には、私の苦しみに対して理解や共感を示してくれない人、被害回復の手助けをしてくれない人が存在し(もちろん、理解や共感や手助けをしてくれた人も存在しましたが)、そのような心無い人たちの存在は、深い無力感や孤立感を私に与えました。
そうした無力感や孤立感に苦悶していた時、私は町山智浩のインタビュー記事の情報に接しました。今となっては、そのインタビュー記事の中で語られたセクシャルハラスメントの被害も現実のものではなかったと判明していますが、その情報を知った当時は本当の話であるものと私は思っていました。私は、その記事の中のセクシャルハラスメント被害者を、私自身に、被害者を助けようともしないで町山智浩の側に付いている(という誤ったイメージを、町山智浩の虚言によって付与された)X氏を、私の助けになってくれなかった人たちに、それぞれ重ねていました。
加害者の町山智浩に苦しめられるだけではなく、家族・伴侶であるX氏すらも加害者の側に立っていて、セクシャルハラスメント被害者である元・妻の方は、孤立無援で苦しんでいる。そのような(今となっては誤りと判明している)イメージが、私を強く捉えて離さなくなり、居ても立っても居られなくなりました。
ハラスメント被害の経験者である自分には、加害者の町山智浩と、町山の味方となって彼女たちを顧みない(と誤認していた)X氏を批判する義務や権利が有るのだ。抗議の声を上げられない彼女たちのためにも、自分だけは代わって抗議の声を上げるべきだ。たとえ他の人たちが彼女たちを顧みなくても、せめて私は彼女たちの何らかの助けにならなくては。そのような思いを私は抱きました。
言論人である町山智浩が、自発的な意志によって、広く販売される雑誌の誌面に掲載されるインタビュー記事として公開した情報なのだから、それをピックアップして公の場で批判することには十分な道理が有ると考えたことも、私の行動に拍車をかけました。
MeToo運動の我が国へ波及する様子も見て、何かが変わるような、私でも変えられるような気もしました。
しかし、私が町山智浩のインタビュー記事をピックアップして情報を伝播したことは、実際にはX氏の元・妻の女性たちを助けるどころか、却って苦しめる結果にしかなりませんでした。
X氏についても、もし私が冷静になれていれば「本当は、町山智浩のインタビューに抗議などをしたいのに、権力勾配の存在やマインドコントロールなど何らかの理由によって、町山に対する抗議の声を上げることが困難な状態に置かれているのかもしれない」という可能性も考慮して、仮に誤認情報に基づいてX氏に対する批判や非難をするにしても、もう少し抑制の効いた、精神的苦痛を与えたり名誉を傷つけずに済むような書き方が出来たのではないかと思います。しかし実際には、既に明らかになったとおり、私はそれが出来ませんでした。
私は、X氏を悪魔化していたのだと思います。悪魔化することで、あのような筆致で記事を書くことも正当な行動なのだと、私は勝手に思いこんでいました。非常に身勝手で独りよがりな正義感であったと思います。
今でも、セクシャルハラスメントやパワーハラスメント、それ以外にも人間としての尊厳を踏みにじるような行為について、それらを他人が行っているのを認知したならば批判するべきであるし、抗議の声を上げてそれらを止めさせるべきであるという考え自体には私も変わり有りません。しかし、たとえそうするべきであったとしても、やはり冷静さを欠いて感情的になったり、節度を失ってはならないのだと、今さら遅きに失することではありますが、改めて痛感しました。
はてな匿名ダイアリーは、かつて「保育園落ちた、日本死ね」と題する記事によって、日本の社会全体に議論の空気と改善の動きを促したことがあることを、私は知っていました。
ハラスメントの苦しみについて理解や共感を得ようとしたり、抗議の声を上げようとすると、個人情報を知られて二次的被害を受ける可能性を考えて、被害者は躊躇するものです(これは、経験者の方々にならば共感してもらえると思います)。しかし、はてな匿名ダイアリーならば、二次的被害の可能性を回避することと、私のような弱い人間でも抗議の声を上げることの両立が可能かもしれないと考えました。
ここ数ヶ月、日本の実写映画業界の周辺では、監督や俳優によるセクハラ・パワハラ・性的暴力が露見して報道されることが増加しました。明らかに道理がないそれらの事案に対してですら、被害者の人たちに対して「自業自得だ」というような心無い声を浴びせる人たちが少なくありません。あるいは「それらの監督や俳優は、才能の持ち主なのだから、少しばかりの過ちを犯しても寛大な処分で済ませよう」と言う人たちもいました。町山智浩のインタビューや問題発言に対しても「町山さんのことだから」と言って、問題視せずに済ませる人たちが少なくありませんでした。
こういった著名人の立場の強さと非・著名人の立場の弱さの差によって、押し潰されているハラスメント等の被害者は少なくありませんし、弱い人間に対する理解や共感を示さない人たちから二次的被害を受けることもあります。それらに負けずに抗議の声を上げることを弱者でも可能にする、はてな匿名ダイアリーのような場は貴重であると私は考えています。
しかし、私のように身勝手で誤った正義感に基づいた独りよがりな断罪の振る舞いは、はてな匿名ダイアリーの価値を損ないかねないものであり、そのような意味でも私は罪深いことをしたと思います。
思いつくままに筆を進めてきたために論理性に欠ける文章となりましたが、X氏の元・妻の女性たちやX氏に対して私がしたことは、何ら正当化できないことだけは言うまでもありません。たとえ、私がハラスメント被害者であったとしてもです。
こうして書き連ねたことも、結局は自己正当化に過ぎないのかもしれません。まだ私は本当の反省ができていないのだと思います。
いったん筆を置きます。
企画屋のVtuberもいるし、動画勢のVtuberもいるからそこは別にYoutuberとは変わらんよ。
爆食いする奴もいるし、新商品レビューする奴もいるし、ギャンブルする奴もいるし、料理する奴もいるし。
ただ、見てて思うのは俺らもヴァーチャルに対して期待しすぎていた部分もあるし、
冷静に考えてみたらヴァーチャルであることって何かをやるってことに関してはハードルが上がるんじゃないかってこと。
例えば、ヒカキンがエッフェル塔の上からひもなしバンジーしたら「うおおお、やべえええええ」ってなるけど、
Vtuberがエッフェル塔の上からひもなしバンジーしても「まぁ、ヴァーチャルだったらなんでもできますわな」ってなるじゃん。
どれだけすごいことをやったとしても「でもヴァーチャルじゃん」ってなる。
動画系のVtuberも実写系のYoutuberと同じようにペヤングの新作が出たら食って動画出してるけど、
仮に3Dトラッキングしたとしても実写の人間が食う激辛ペヤングの動画の情報量と、Vtuberが食う激辛ペヤングの動画の情報量の差は歴然なんだよね。流れ出る汗も、苦悶の表情も、手の微細な震えも、ほとんどまったく再現できない。
色々見てきて思うのは結局、ヴァーチャルは実写に比べると解像度が低すぎる。
料理系とか現実に対してアクションを起こす系は本気でやればやるほど「実写のパート」に「ガワをくっつけた」ものになる。
そして、ヴァーチャルじゃないとできないことをやればやるほど「でもヴァーチャルじゃん」ってなっちゃうし、
そっちに踏み入れれば踏み入れるほど「CGアニメーションでいいじゃん」ってことになっちゃう。
Vtuberがどんだけ凝っててすごいライブをしたとしてもpixerが本気でライブするアニメ映画作ったら余裕で吹き飛ばされる。
現状、Vtuberの立ち位置って「現実世界にもCGアニメーションにも情報量で遠く及ばない」という中途半端な位置にとどまってる。
自分じゃない者に自分と同じような価値観を持っているだろうと推定して考えるのをやめてくれ
私なんかエロに関しては路上の広告にBLのセックスシーンがのってても無修正洋ピンが流れてても良いと考える人間で現行の警察のわいせつに関する制限を正しいと考えていなかったりするし
絵なら幼児がレイプされるところが看板になって秋葉原にどでかく掲示されてても眉をひそめるぐらいで通す
でもグロに関しては現行明らかに世間的に許されている範囲であっても許容できない感性だ
表現内容について誰もが納得する落としどころ探るのなんてほぼ無理だよ
だからポルノに関して「製造の過程で犯罪が行われているコンテンツは不許可」という基準が世界でまあまあ機能してて
日本のAVでモザイクかけるのは売春が犯罪で禁止だからモザイクかけて実はペニス入ってませんから売春じゃないですという言い訳をして犯罪はありません、ということにする側面があるし
アメリカのAVでオーイエスばっかりなのは日本みたいな縛りいれて苦悶の表情で随喜の涙流してイクなんてのが強姦じゃないか疑われてしまうからだ
三浦先生の訃報を聞いてから時間が経ったが、ショックすぎて気持ちがまとまらないのでここに吐き出させてほしい。
リョナ趣味の後輩から「主人公のやられが多くて興奮するから見てくれ」と勧められて以来頭にはあったが、グロが怖くて読んでいなかった。でも受験を終えて燃え尽き症候群に陥っていたから、この際フヌケの自分を変えてくれるならグロでもなんでもいいかと思ってなんとなく1巻を手に取った。
なんだ、この漫画。主人公がめちゃくちゃやさぐれてるじゃねえか。自分の巻き添えになった爺さんのことも何とも思ってなさそうだし、美少女が建物から落ちそうになってんのに助けないのかよ。
ジャンプ漫画の清く正しく美しい主人公しか見てこなかった自分にとっては衝撃的な展開の連続だった。
人を助けないし、自殺教唆するし、お供の妖精はいじめるし、一体なんなんだこいつは。
けれどもそういう殺伐とした殺るか殺られるかの世界観は、案外すんなり肌に馴染んだ。
これは自分の家庭環境がボロボロで、現代日本なのに親と殺るか殺られるかの戦いを毎日繰り広げてたからというのも大きいと思うが、とにかく「綺麗事で済ませない」といったベルセルクの雰囲気は自分の感覚に合うな、という印象があった。
親の金でユニバに行くクラスメイトよりも、親代わりのガンビーノを殺しつつも愛を求める気持ちを捨てられないガッツの方が身近に感じた。
ガッツが鷹の団に入るまでのストーリーは読んでてキツかったが(親代わりの大人に貞操売られてぶち殺すってどんな話だ?)、黄金時代のストーリーは面白くて夢中になって読んだ。ガッツの初仕事(川沿いで奇襲かけたあと殿ひきうけたやつ)の話も、ユリウス伯爵の暗殺も、ドルドレイ戦も、そんなに上手くはまるわけないだろと思いつつも毎回読んでてワクワクした。
読み進める度に胸が熱くなるようなシーンが次々出てきて、この先どんな物語が待っているのかとページをめくる手が止まらなかった。
(個人的にはプロムナード館での夢の話が好きだ。「夢に支えられ、夢に苦しみ、夢に生かされ、夢に殺される」……夢を表した言葉としてこんなにも的確な言葉は珍しいと思う)
そして黄金時代も佳境に入り、グリフィスが全てを失い絶望の果てに蝕を起こす。
無数のモンスターに対峙する鷹の団の見開きの絵を見たとき、初めて気がついた。
バカなので蝕に辿り着くまで三浦先生の絵の偉大さが全く分かっていなかったのだが、大量のモンスターと鷹の団の苦悶の表情を前に、三浦先生の凄さを""分からされて""しまった。
びたびたと飛び散る内臓。好きだったキャラクターの割れた頭蓋骨と、はみ出した脳みそ。どういう骨格をしているのかよく分からないがとにかく気持ちが悪いことだけは分かるモンスターの群れ。一度見たら忘れることのできないガッツの咆哮の表情。抜ける女体。死ぬほどイカした造形の新生グリフィスことフェムト。
ゴッドハンドの女が「愛、憎悪、苦痛、快楽、生、死、すべてがあそこに……」と言っていたが、まさにその通りだった。読んでるだけで頭がおかしくなりそうだったし、自分が体験したわけではないのに脳みそを上下に全力で揺さぶられたような衝撃で心がめちゃくちゃになった。
蝕のシーンがショッキングすぎてトラウマになり、心ここにあらずな日が続いた。授業も全部上の空だった。何をしていても蝕のことが頭をちらついた。あんな凄惨な光景は二度と見たくないと思うのにもう一度触れさせるような、魅力を越えた魔力があった。蝕の絵は、麻薬だった。
蝕のショックから正気に戻った後は坂を転がり落ちるように、その時出ていた最新刊(36巻だったかな)まで一気読みした。蝕以上にショックなシーンはなかったが、ただただガッツの行く末を見届けたくて、三浦先生の絵が凄すぎてもっと見ていたいという気持ちが強くて、一心不乱に読み続けた。
(個人的には蝕以降のエピソードだとロスト・チルドレン(偽エルフの谷)の話が好きだ。エルフの女王の造詣がクリーチャーとしてクオリティが高すぎるし、女王になった女の子の親父が自分の父親にそっくりで「ああ、いるいる、こういうくそ野郎」「不幸な家庭があることをぼかさずに書いてくれるんだなあ」と、汚いことも忌避せずに描いてくれる姿勢に信頼が置けたからな)
やがて奨学金を借りつつも大学生になり、バイトを始め金に余裕が出てきたので、スイパラのコラボも行った。
普通ならサンリオみたいな可愛いものとコラボするようなところがなんでベルセルクとコラボした?と思わなくもなかったし、店内にはファンシーな雰囲気にはミスマッチなキャプ画が張られてて一種異様な空気が漂っていた。
どう見てもベルセルクファンの自分、場違いじゃねえか。コースターとポスター目当てで行ったが終始いたたまれなかった。
注文したベヘリットのチョコケーキは普通に美味かった。まあ中身スイパラだもんな。
そんなこんなでちょろちょろベルセルクコンテンツに触れたり、他の漫画やアニメに浮気したりしつつ、ずっとベルセルクは続いていくんだろうな、早く次の巻出ねえかなー、でも三浦先生には無理しないでほしいしな……と思いながら、年1ペースで出る単行本を追っていた。
相変わらず知り合いに「ベルセルクは良い漫画だから読んでくれ、トラウマになるとは思うが読まずに人生終わるよりいいと思う」と吹き込み続けながらいつも通り41巻発行の報を待っていたある日、そのニュースは訪れた。
何が起こったのか全く分からなかった。職場のトイレにいたのにどういうことなのか分からなくてしばらくぼうっとしていた。胸の上にどすっと重たい何かがぶつかり、心を胸の内側から弾き飛ばしてしまったようだった。
もうベルセルクの新刊は出ないのか。もう、三浦先生のお描きになった素晴らしい新作の絵を見ることはかなわないのか。
そのことが信じられなくて逃げるように仕事に戻った。全く効率は上がらなかったが、何もしていないよりかはましだった。
けれども何をやっても三浦先生がこの世にもういらっしゃらないのだと知らされた衝撃が消えることはなくて、明日会社に行くのをやめようかと一瞬考えた。
仕事を終え、訃報を聞いてから4時間ぐらい経ったあたりで、自分がもっとお金を落としていれば、先生に美味しいものを食べて気持ちよく寝てもらってと、健康的な生活を送ってもらえたのではないかと自分を責める気持ちが湧いてきた。
もちろん自分が高校生のときには既にベルセルクは大ヒット漫画だったし、その時点で三浦先生のポケットにはベルセルクマネーがドカドカ入っていたのだろうから、ファン一人がたくさんのお金をつぎこまなかったからこんなことになったというのは馬鹿げた考えだというのは分かる。
だがそんな考えが浮かんでくるぐらい、自分にとって三浦先生の訃報がショックだったのだろう。
結局当日はショックを受け止めきれず、友人に話を聞いてもらった。
自分にとってベルセルクがすごく大事な作品だったこと、もう二度と続きが出ないなんて信じられないこと、自分を責める気持ちになってしまったこと。拙い言葉での話だったのに、友人は最後まで黙って聴いてくれた。
それで大ベルセルク展が9月に開催されるから絶対に行こうと思っていることを伝えると、友人は穏やかにこう言った。
「そうだね。でもたぶん売り上げは関係者のところに行くと思うから、ご家族とか近しかった人に届くと思うよ」
この一言が、沈んだ心を救ってくれた。
一般的に言って、亡くなった方が気がかりなのはなんといっても残された家族のことだろう。自分の金が三浦先生のご家族のところに行ってその生活に役立つというのなら、天国におられる先生が安心してお休みになられることに繋がるはずだ。
ショックで放心状態になっていたが、友人のおかげで「大ベルセルク展で金を落とす」という目標ができた。
今年9月に大ベルセルク展が無事開催されたら、ガッツのマウスパッドと複製原画と烙印のピアスを買おうと思う。そのためにいらないものをメルカリで売って、給料から天引きする形でささやかながら貯金もすることにした。三浦先生がお亡くなりになられたショックは消えたわけではないが、今から少し楽しみだ。