はてなキーワード: 文化的とは
ネズミ講はまあ一見で明らかに破綻してるから、おもしろい話をする奴がいねぇってことだろ?
自分が短絡的にもうけたいと思う人間は糞だが、どうやって楽しもうか考えることは、ネズミ講はしないってことかもしれん。
とにかく、人が楽しもうの工夫してることを、一方的で非文化的な主観で否定する人は脳味噌足らんのではないかとかそういうことですわ。あ、ベランダで焼き肉の話です。
……そんな話があったが、女児の選択は果たして本当に自由意志だろうか。
女性器の構造が水分を発散しやすいので、蒸れ解消のためにスカートをはくのだ、と。
しかしオリモノのない幼少期では、むしろ男児の方が皮膚の表面積は広い。
これについて、スカートの方がズボンよりも優れている、という説明がされがちだがフェアではない。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000034.000041167.html
実際にはスカートの下にオーバーパンツやスパッツをはいていて、何もはいてない人は 8.4% である。
通気性が本当に重要ならば、こうはならないだろう。
人目を優先してしまうなら、余分なレイヤーを挟まず下着の上に直接、薄手のズボンを履くのが合理的だ。
スカートには、男の性的まなざしを気にしてプライベートゾーンを守ることを意識づける効果がある。
奥ゆかしかったり、清楚だったり、女性が薄っすら好かれるような性であることは、男にとって都合がいい。
海外のフェミニストは、公営プールでブラジャーを外したり半裸でサイクリングする運動をして、不当な要請に反抗している。
トップフリーダム(Topfreedom)は、男女同権の一形態として、男性が半裸になることが許可されている公共の場所で、女性がトップレスになることを可能にする法律の変更を求める文化的および政治的運動。具体的には、この運動は、公の場で胸を露出させる女性の権利を制限する法律の廃止または覆すことを求めている。
誰も、自分たちだけが理不尽に『女性性を守る責任を負わされてる』世代だ、なんて認めたくはない。
だから次世代にも受け継がせる。まるで虐待を受けた児童が虐待する親になるように。
実際には多くの親が、虐待を仕方ないものと内面化せずに、頭で否定して過去を克服している。
通気性のウソで自分たちを騙すにとどまらず、分別のつかない子どもまで巻き込んではいけない。
だけど、スカートが女性の着るものと認識されてる社会で、意思が未熟な子どもにまでスカートという選択肢を押し出すのは問題なしでいいのか。
別にいいけど、元増田は腐女子でしょ?なんつーか、腐女子史観なんだよね。
ジビエネタもよかったし、作者がギャグとシリアスのバランスを体得した2~3巻あたりで跳ねたのはわかるけどね。
逆にいうとそのくらい初期からウケてた漫画だよ。ずっと注目作でしたよ。
「文化的な作品」という一面があるのはわかるし、大英博物館の漫画展のアイキャッチになったのは確かにそういう理由があったのはわかるけど、
最初から最後まで文化的描写は多かった(優れていた)し、最初から最後までエンタメ作品だったよ。
読者の評価も、社会一般の評価も「エンタメとして優れた作品」でしょ。
あの漫画を「(政治的に?)綺麗な漫画」だから評価する、してた人ってそもそもそんなにいたのかな?Twitterの一部だけじゃない?
「大英博物館が作品の持つある一面を評価した(抜き出した)」ことと「読者一般がその面を主眼に評価した」って全く別物だと思うよ。
しかし、ここにきて大確変要素が加わる。プリンス鯉登、心に闇を抱えた尾形などの、圧倒的に乙女受けなキャラクターやエピソードが増えたのだ。
まぁ~わからんでもないんだけどさ笑、それは誰目線の話よ。誰がよんだってあのあたりは面白いよ。
腐女子に受けたから作品としての評価が確変した、みたいなこと本当にあるのかねぇ。そりゃグッズは売れたのかもしれないけど…。
あんまり多く語られてないが、初期のゴールデンカムイは明らかに「山賊ダイアリー」とかのジビエブームの流れに乗っていた。
公式切り抜きがネットのミームになったり、そういうところから徐々に認知度が上がっていった作品だ。
今では評価が固まり過ぎて「多様性が」とか「歴史評価が」とか、批評的にお利口な語り口でばかりその魅力が語られるが、実際に初期から連載とその人気拡大を追っていると、ゴールデンカムイにはそれだけでない多様なフックと、それをタイミングよく引っ掛けるそれこそ漁師の神業がふんだんに見られた。
ゴールデンカムイの受容(需要)の変遷をまとめることによって、長期連載漫画が当たるためにどれだけ多くの仕掛とチャンスを要するのか、改めて考えてみたい。
2014年8月、連載始まる。 増田はこの頃はまだ読んでいない。
1話ははっきり言って、刺さる人には刺さるのかも知れないが、古臭い冒険ものの空気しか感じられない。
「露助」と差別語を使う戦争帰りの主人公。囚人を殺して皮を剥ぐ猟奇趣味。まだ頭身の高い美少女のアシリパ。
一部のネクラには受けても、一般には忌避される湿っぽいダークさが作品を包む。
キャラクターも、薄汚い囚人たちに、死をも恐れぬ兵隊、そのトップの怪人中尉と、マイナーさは否めない。
しかし、連載数話目から、この漫画にはちょっとだけ流行の要素が入ってくる。「ジビエ」である。
当時は「山賊ダイアリー(2011〜2016)などの猟師ものが密かにブームを迎えていた。
あるいは、同時期(2011〜2019)のメジャー作品として荒川弘の「銀の匙」など、「命をいただく」をテーマにした漫画も人気を博していた。
ゴールデンカムイはこの流れに乗って、「冒険をしながら猟師生活を見せる」というストーリー構成で注目を集めていくことになる。
ニコニコ静画のタイムスタンプによると、ゴールデンカムイの公式切り抜き漫画「アシ(リ)パごはん」第一回が掲載されたのは、2015年1月となっている。
初回は「リス」。可愛らしいリスの皮を剥き、ミンチにしていく様子がコミカルに描かれるシーンを作中から数ページ切り抜いて公開した公式の切り抜き漫画である。
これが、受けた。
チタタプ、オソマ、ルイベなど、アイヌ語の食べ物の名前が広く知られるようになり、アシリパがアザラシをしとめるシーンなど、コミカルなカットがネットミームにもなる。
しかしこの頃もまだ、一般受けする漫画とは言い難かっただろう。なにせ「山賊ダイアリー」のような、「命をいただく」テーマ自体が重すぎる、マイナーメジャーのものだ。キャラクターも男臭い変態だらけで「ホモソ受け」という感じは強く、牛山も女を武器にする卑劣漢だった。(このマンガがすごい! 2016 オトコ編 2位、マンガ大賞 2016 大賞)
増田自身、この頃作品を知り、アシリパごはんは面白く読んでいたが、金塊探しというメインストーリーにはまったく興味が持てず、長いこと本編は読まずじまいだった。
10巻頃まではこの漫画はこういった男向けの要素だけで進んでいく。変態的な囚人、覚悟を決めた簡単に死ぬ兵隊、「命を食らう」生活感。
しかし、ここにきて大確変要素が加わる。プリンス鯉登、心に闇を抱えた尾形などの、圧倒的に乙女受けなキャラクターやエピソードが増えたのだ。
彼らのシーンを見た瞬間に、増田は「あッ、これはジョジョみたいに腐女子アンテナにひっかかるゾ」と確信した。
今となっては当たりも当たり。SNSで「ゴールデンカムイ」を検索すれば9割女性向け同人イラストという現状への変動がこの瞬間に確定したのである。
そして本作はこの勢いを掴んだまままさに滝を遡る鯉のごとく大作へと変貌を遂げていく。
シリーズ前半のクライマックスとも言える網走監獄編を見事なテンションで描ききった本作は、アニメ化(2018)、手塚治虫文化賞 マンガ大賞(2018)、大英博物館の特別展においてキービジュアルを飾る(2019)など、大躍進を遂げる。
アニメシリーズは海外配信も好評で、海外にもファン層を広げる。
大英博物館の展示では、「女性を表している点。(中略)アイヌという少数民族の文化を描いている点」など「ダイバーシテイの理念を体現する作品になっている」を評価されキービジュアルに選ばれたとされる。
「多様性」や「文化歴史描写」に優れた名作という評価は、この段階で確立された。
網走監獄編で大きな波をひとつ越えたあと、人によっては中だるみと言われる樺太編に入る。
すでに確立された名声を揺るがすような劣化も見られないが、特に新しい要素が受けたわけでもないので話題は少なくなる。
このあたりで増えた要素と言えば谷垣を中心に多用される「ホモギャグ」である。
増田の受け止め方としては、「文化的な名作」扱いに対する作者の反発と言うか、何かヤケクソなものを感じる。
宇佐美の「◯◯探偵」に至っては常軌を逸しているというか、ここだけをもってして「文化的な作品」として他人に勧めることは出来ないだろうと思う。
しかしこれもある意味で時代は掴んでいるのかも知れない。一部のラディカルフェミニストを中心に、この過剰な下ネタが「セクハラのミラーリング」として全面肯定される現象も見られた。ほとんどの人には、ホモソーシャルの笑いの延長にしか見えないと思うが。
清濁合わせのみ毀誉褒貶を越え、本作は2022年に連載終了を迎える。
作品としては大団円だったものの「文化的」という名声を得すぎた故の重箱の隅をつつくような批判が最終回のいくつかの描写につけられた。
単行本化に際してそのうちのいくつかは修正され、うるさ方もそれで納得したのか、今では「文化的」で「多様性」を表現した、歴史に残るすばらしい名作という評価がほぼ揺るぎないものになったように思われる。
しかしその8年にも渡る連載期間を省みれば、このようにさまざまなフックと変化で客を掴み、興味を維持し続けてきた結果のことなのであって、ただ「綺麗な作品」(と思う人もまあいないとは思うが)を描いたから評価されたというような単純な話ではないのだということは覚えておきたい。
トラバもブコメもだけど、「自分の趣味にあった部分」だけが評価の対象じゃないと許せないって思考回路のやつ、キツいわ。
「血なまぐさい男受けだけじゃ同人受けや海外受けまで広がらなかったよね」ってことが書いてあるのわからん? 日本語わからん?
根本的にこの文章で書いてあることが何かということが理解できてないと思うので、自分が機能的非識字だと認識した方が良いよ。
クライマックス付近の無料公開で認知を広げたのは書いといても良かったなとは自分でも思った。
なぜ図書館を利用しないのかといった投稿を見たがまさにその通りだった。
新着資料の数は半端ないし、その月の雑誌、月5千円以上かかる新聞、ラノベに至るまで地方との格差がすごい。
私の田舎にも図書館はあったが、自転車で30分かかる上に、蔵書も日に焼けた古い資料ばかりで、月の新着はデスク一つに収まる程度しか入庫されなかった。
さすがに新作ラノベとか、話題の新書ともなると予約困難だが、電車で行ける地域の提携図書館含め検索してみれば読みたかった本、資料を無料で享受できる。
閉館も21時半までなので、仕事終わりにふらっと立ち寄って、気になるハードカバーを借りてみたりもできる。
これが地方との文化的格差ってモノなのかと思いつつ、今では学生の頃に迫るペースで本を読みふけって、映画を摂取したいときには反対方向徒歩五分にあるシネコンに
行き、割と空いているレイトショーを見る。
なぜ図書館を利用しないのかといった投稿を見たがまさにその通りだった。
新着資料の数は半端ないし、その月の雑誌、月5千円以上かかる新聞、ラノベに至るまで地方との格差がすごい。
私の田舎にも図書館はあったが、自転車で30分かかる上に、蔵書も日に焼けた古い資料ばかりで、月の新着はデスク一つに収まる程度しか入庫されなかった。
さすがに新作ラノベとか、話題の新書ともなると予約困難だが、電車で行ける地域の提携図書館含め検索してみれば読みたかった本、資料を無料で享受できる。
閉館も21時半までなので、仕事終わりにふらっと立ち寄って、気になるハードカバーを借りてみたりもできる。
これが地方との文化的格差ってモノなのかと思いつつ、今では学生の頃に迫るペースで本を読みふけって、映画を摂取したいときには反対方向徒歩五分にあるシネコンに
行き、割と空いているレイトショーを見る。
二次創作についてガイドラインが出てなくて許可取りしてなくても「自己責任でどうぞ」と「あくまでその行為をそそのかすことになる」言動をとる人たちがいるが、
この根拠を親告罪であることに求めているなら、それは上記で列挙したような器物損壊や名誉毀損に対しても「自己責任でどうぞ」と言ってよいとするのと同じだ。
物を壊す、人を侮辱するというのは典型的な「非倫理的なこと」平たくいえば「悪いこと」だ。つまり「悪いことをそそのかしている」ことに他ならない。
悪いことをしようとしている人に対してかけるべき言葉は「自己責任でどうぞ」ではなく「自分で責任をとれたとしてもやるべきではない」だろう?
某増田へのブクマで「私的自治の原則」を挙げて反論した気になっている人がいるが、親告すれば罪になりうる内容の二次創作は刑法犯としての性質を持つものなのに、民法の原則を挙げるのはちゃんちゃらおかしい。
「犯罪行為に対してはその被害者が赦していることが起訴しない絶対的な理由にならない」というのもまた法学のきほんのきだと思うのだが…。
創作の「意義」とやらを掲げて、非親告罪としての権利者が認めているか不明な二次創作の実行を擁護するなら、刑法175条にふれるわいせつ図画にも意義がないとはいえないでしょ。あるいはそれと比べ「二次創作」の方がどれだけ意義で勝っているといえるのだろう?
創作の意義を云々するなら、ストリップも文化的意義がないとは言わせないぞ。でも過去に上野のストリップが公然わいせつで捕まったな(これは、、被害者=劇場の観客が許していようが起訴しない理由にはならない例でもある)。
意義なんて曖昧なものを掲げるほうが、かえって法律上の不条理を浮き彫りにしてしまう。あるいは、二次創作の方がわいせつ図画やストリップより意義が大きいとみなされているから、後者2つと違って親告罪とされているのだろうか?
どれも「表現」には変わりないはずなのだが、その意義に差があるとでもいうのだろうか?どうせ、いやらしい方が意義が低いはずだみたいなステレオタイプにあてはめて判断しているだけで、理路整然とした説明は出来まい?
身もふたもない言い方すれば、自分たちの大好きな二次創作だから「好きだから意義深いはず」って信念だけだよね。それ、無修正エロ漫画が好きな人だって同様に思ってるはずだけど、(少なくとも創作側は)悪いことだと認識して我慢してるんだよ(読者側はしらん)。
結局この複雑な状況に出すべき結論は「お上が法律で違法と言っている」ことをそそのかすのは悪いことなんだよ。「自己責任で」と枕詞をつけることが免罪符になるわけでもない。
その証拠に「自己責任でなら無修正で性器ぱっくり図画出していいよ」「自己責任でストリップ劇場開いていいよ」って言うのははばかられるだろ?そういうこと。
① 裁判官や検察官などの学識や技能のある者は一般的にはもっと風情のある団地に住んでいると解され、前野1丁目公営住宅とか、ときわ台メリーガーデンのような腹黒そうな
ゴミが住んでいる建造物には文化的な見地から学識、技能経験者は住んでいない。例えば、坂下1丁目アパートとか、新河岸の方のより風情のある文化的な街区の住んでいると
思われる。
② ときわ台メリーガーデンに住んでいるのは、 2階の腐れ東大生、上階の自演のクソジジイ、ガキの集まり、Brilliaときわ台ソライエレジデンスの管理人の基地外、クソガキ
リヴァージュシティも同じようなものでほとんど変わらない。前野公営住宅には、自演者が大量に住んでいる。
③ メゾンときわ台は、 3階にババアが住んでいて、4階に老衰した40代がいる。 202号室は、イスラム人とアメリカ人。201号室は魔女のおっさん。3階に筋肉男が室内を
確かに、東京には田舎に存在しない文化的暮らしをしている人たちがいて、確実にそれは東京だからこそ得られるものだと思う
それが得られるのは地方だと京阪神くらいだし、それも伝統以外は東京に遠く及ばない
頂点の高みは他とは比べ物にならないほど高い
けど、それはあくまで頂点だけの話
下々の人間はどうか?
頂点の高さを誇るなとは言わんけど、お前はどっちなん?とは聞きたくなる
よく男性と女性の性差で議論になるとき「性差よりも個人差の方が大きい」という優れた意見に出会うことがある.同感である.
確かに性差はあるだろうが,個人差の方が大きいのは事実だろう.
東京 vs 地方の話題も同じだと感じる.どちらも都合よく,文化や環境の議論をしているように思う.
そこで,地方の子育て事情(3σ外れた異常値と認識している)として,自分が行った子育ての例を紹介したい.
異常値であると記載した通り,地方の子育てがこれが平均だというつもりは毛頭ない.むしろ,地方においても親が異常者であればこういう子育てが可能であるという例である.
先にバックグラウンド.私は東大卒で,妻も東京の国立大学卒である.二人とも博士号を有している.
仕事の都合で,地方都市(三代都市圏近郊ではない,まさしく地方都市.人口数十万人)で15年間子育てをすることになった.
私は仕事で住んだ地方都市よりもさらに人口の少ない地方都市出身者であり,18歳までその地元で暮らしていた.
まず,毎週末のように,県内及び隣県にある文化施設や大きな公園などに高速を使って出掛けていた.
子供たちが異常に好奇心が旺盛であったため,科学館や天文台,美術館,博物館なんでもOKだったし,
公園には必ず図鑑を持って出かけ,気になる花や虫は図鑑でチェックしながらなるほど〜と家族みんなで確認した.
連休は近隣県でジオパークに出かけたり,温泉旅館に泊まったりした.行く前に図鑑や本で地域の情報や歴史を調べ,
車の中でみんなで披露するというのがお出かけのパターンであった.
中学校くらいからは歴史に出てくる場所や有名建築家が設計した建築物回りなど,社会科学寄りのお出かけも増やしていた.
半年に1度程度の頻度で東京や大阪には出かけ,そこでしか体験できないこと(科博,未来館,キッザニア,鉄博,USJなど.なぜかディズニーには一切興味を示さなかった)
にも出かけた.特に未就学時は鉄道大好き人間だったので,JRの全ての鉄博,地下鉄博物館,京王レールランドなどにも行った記憶がある.
体験格差などという言葉があるが,少なくとも我が家はお出かけという観点において,首都圏での子育てと比べて,劣っているとはあまり思っていない.
それは元々自分も妻もお出かけ大好き人間であり,軽々しく遠出をする人間だったためと考えられる.
上の子,下の子ともにゲームは2-3歳から解禁していたが,1日30分というルールで行っていた.最初は駄々を捏ねていたが,
1週間もすればルールに順応する.小学生からは1日1時間.お休みの日や特別な日(テストが終わった日など)は長時間を許すという柔軟な運用をした.
私自身ゲームが大好きであり,子供の頃も馬鹿みたいにやっていたので,ゲームをすれば頭が悪くなるなんてことは一切考えたことない.
一方で,ゲームは面白すぎるのでやめ時が難しいことが問題で(これはマンガであれ,Youtubeであれ,小説であれ,映画鑑賞であれ他の全ての趣味にも共通する)
そこさえ親がきちんと見守れば,子供がやりたいこと,見たいものは与えて良いと思う.際限ないことが問題なので.
習い事や勉強について.未就学期の習い事は上の子は水泳,ピアノ,造形教室,ダンス教室,下の子は水泳,造形教室だった.
通っていたお絵かき教室が県内で相当有名なところであり,コンクールの賞ゲッターを量産するところだったので,
我が家もそれなりにエフォートを割き,小学生と中学生の際にはいくつかの賞を受賞し,地元の新聞に載った.
公文は個人的に否定派だったので,未就学時は自宅でこぐま会をやっていた.もちろん小学校受験などするつもりはないので,あくまで頭のパズルと基礎力をつけるという程度.
自宅で先取り学習は絶対にしないようにした(ここでいう先取り学習とは学年よりも先の内容をやること)
小学校(公立)では,全く勉強に困ることはなかった.これは首都圏のようなレベルの高い競争がないため,当然と思われる.
そのため,自宅では,首都圏の中学受験用の教材を4年生くらいから利用した.また,その地元の進学塾にも通っていた.
大学時代の友人(首都圏在住)を通して,勉強法を聞いたり,首都圏と地方での勉強の違いなどを埋めようと親が努力した.
(が,友人とも話したが結局は個人差の方が大きいというオチだった)
中学受験期には,本人も同意の上で,通えないこと前提で首都圏の学校をいくつか受けた.本人にとっては力試しという意味が大きく,通えないことは理解していたし,前向きだった.
上の子は開成に受かり,下の子も渋幕に受かった.上の子は中学は地元の公立中学に進学した.下の子は後述.
上の子が開成に受かった時は親としても非常に悩ましく,妻と子供たちだけ首都圏で暮らすことも考えた.
が,家族みんなで暮らす方が楽しいだろうということで,これはあくまで力試しが目的だったはず,本来の目的に戻ろうということになった.
ただし合格は本人の自信になったようだ.
それから数年後に私の転職があり,首都圏で暮らすことになった.
上の子は高校受験で開成に,下の子はちょうど引越しタイミングと受験タイミングが重なり,渋幕に無事合格した.
子供達二人とも首都圏に引越してから,学校でついていけないこともなかったし,特段の文化的な劣等感も感じることはなかったと話していた.
この後,我が子が殺人鬼になったり,オレオレ詐欺の主犯として捕まる可能性もあるので,手放しで自分たちの子育てが成功例であるとは言わないが,
少なくとも人口数十万レベルの地方都市においても,首都圏と同レベルの子育てはできるという実例になると思う.
もちろん親は二人ともめちゃくちゃ努力したと思う.そりゃ週末はイオンに行って1日過ごせば親もフードコートやゲームセンターで休めて楽だけど,
妻がお弁当を作り,大きな公園で遊ぶ,子供達が疲れてきたら近くのイオンに行き,買い物をして帰るという生活は体力的にも根性的にも辛い.
ただ,あの時の自分たちは私の仕事の都合で地方都市で暮らしていたこともあり,親の都合で子供達の住む場所が決まってしまっていることへの罪悪感からか,
過剰に,それこそ首都圏での子育て以上に様々な体験をさせてやるんだという気概があったように思う
その意味では,首都圏がどんなに文化や環境に恵まれていたとしても,1日中switchを与えて親が子供を放置していた家庭よりは地方の我が家の方が多くの体験をしていただろうし,
かといって周りを見渡した時に,周りのご家庭が我が家のようにある意味で狂気的な子育てをしていたかというとそんなことはないと思う
よって「地域差よりも家庭差の方が大きい」という面もあることを伝えたい.
「東大卒博士号の経歴をドブに捨てて田舎の専業主婦で終わった奥さん可哀想という感想しかない 」
というトラバ,まず妻は東大卒じゃないし,専業主婦とも書いてないんだが,エスパーか?
妻は専門職なので,地方都市でも東京でも育休中以外ずっと働いてたんだが…というのが1点目.
次に,仮に東大卒博士号持ちが専業主婦をすることの何がおかしいのか,可哀想なのかがわからないというのが2点目.
もしかして博士号のような生産性の高い人物が子育てという非生産的な行動を行うのが勿体無いと言いたいのか?
世の中で博士号持ちの女性,たくさん子育てしてるよ.日本だけじゃなくて海外でも.
それに,君,働いたことある?会社の仕事取ってくる営業や開発だけが生産的で,人事はコストセンターで生産性が低いまたはゼロと思ってる?
目の前でお金を稼ぐことだけが生産性じゃないんだよ.世帯内や社会全体で役割が分担されていて,その寄与度は複雑な関係になってるよ.
それに君が好きな生産性で言えば,うちの子供達が2000億ドルくらいのイーロンマスク並の資産を形成したら
うちの妻が仮に東大卒博士号持ちの専業主婦で20年子育てしたとしても,100億ドル/年のリターンがあるわけで,めっちゃその優秀な能力を発揮したことにならない?そんなこと求めてないけど.
3点目として,別にうちの子供がイーロンマスクにならなかったとしても,うちの妻的には人生が楽しければ良くないか?
上にも書いた通り,私はゲームが好きなんだけど,ゲームした時間って別に新自由主義的な意味で生産的な時間じゃないだろうけど,面白ければ良いのでは?
我々夫婦が「大変なこともあったけど,色々二人で頑張って面白かったな.子どもたちも育って勝手に好きなように生きてるし,なかなか我々がんばったね」って思えたら御の字で子育てでそれ以上を求めても仕方ない気がする
ネトウヨがなんか言ってる、と思った?残念!右系の人達は口ではウメウメ言ってるけど、実際は反発をさせて子供が増える邪魔をしてるだけ。
少子化対策とかいって作った省庁はそれを言い訳にし企業に利権で税金流すだけだし、子育て理由に増やした税は色々制限つけて子育て世代には還元されず社会保障や最悪軍事費になる。
子育て優遇なんて嘘だよ。本気なら子供が増えてなきゃおかしい。できないなら無能、無能じゃなくて悪意を持って日本人を減らしてるのが、今の政治。市町村単位で見れば、本当に効果的な政策してる所ではゴリゴリ増えてんだよ子供。
世界見渡したら結局人口こそパワーで、色々ワーワー言ったって子供が増えないなら負けなんだよ。こういう時、急に人類的な視点持ち出すやつとか本当馬鹿。日本語話者減ったら文化的バックボーンを失って、金以外拠り所のない民族になり、世界にバラバラになり、そのうち土地を欲しがって戦争するんだから。
土地と民族がセットで後継ぎがいて、それこそ文化の基底なんだよ。それを失わせようってそんなもん何党だろうが国賊なんだよ。やたらはてなーが有り難がる東京の文化ァ?あんなもん文化盗用の集合体で西洋権威様々、結局AIと何が違うん?
左手前に飯を盛った茶碗、右手前に味噌汁もしくは汁物を置き主菜をその奥に置く関東の作法に対し、
左手前に飯を盛った茶碗、左奥にに味噌汁もしくは汁物を置き主菜を右手前に置く関西の作法との文化的衝突がここ最近はてな界隈で話題となった。
私自身は関東の右利きの人間だが、右手前に味噌汁があるのは食べにくそうなので関西式に味噌汁は左側(左奥もしくは左手前の茶碗の更に左側の手前)に置いて食事をしてきた。
しかし今回の論争を見て、あえて関東式とされる右手前に味噌汁を置く方法で食事をしてみた。
よく言われている「右側に味噌汁があると主菜(おかず)を食べようとして味噌汁をこぼす」という事はなかった。主菜に箸を伸ばすことについて、右手前に味噌汁があることは特に障害とはならなかったのである。
関西式に左奥に味噌汁を置いた場合、味噌汁の椀を取るのは左手のみであった。
関東式に右手前に味噌汁を置いてみると、自然と腕を取るのは両手になったのである。箸を持っていない左手と、箸を持った右手の小指側掌底で椀を持ち上げ、腕が口に着く直前で右手が椀から離れたのである。
噂に聞くところによれば、江戸時代以前まで首都であり文化の中心であった京都を中心とする関西圏では主菜が充実しており、食事は飯+主菜をメインとして左手前に飯、右手前に主催があって、脇役たる汁物は左奥であった。
一方関東では、江戸の町人の食事は朝晩は茶漬け、昼は一汁一菜でありと言われ、昼の味噌汁は主菜であった。
あえて関東式の配置をしてみた時に自然と現れる椀の両手持ちは、まさしく「有難や有難や」と主菜たる味噌汁を両手で持ち上げる仕草なのではないだろうか。
さて、和食の例を離れて、中華や韓国・朝鮮料理ではどうなるであろうか?
これは簡単である。汁物の椀を直接手に持って飲むのは日本独特の作法であり、町中華のレバニラ定食や、焼肉屋のハラミ定食などで登場する中華スープや韓国朝鮮スープは蓮華や朝鮮匙で飲むものである。だから当然のことだがスープは利腕側(一般的には右側)にあった方が良い。
店によってはラーメンを汁物と考えて右側に置くが、これについては「汁」「飯」という発想から離れ、単純に器の高さから判断するべきであろう。
つまり、ラーメンの丼よりもチャーハンの皿の方が低い。利き腕側に低い器があった方が圧倒的に食べやすいので、右利き基準で考えれば右に炒飯、左にラーメンがあるべきなのだ。
ココイチに行くと、あることに気付く。必ずカレーが手前、奥がライスになるようにカレーライスが置かれるのである。そして客は無意識のうちにそれを45度回転させてから食べ始める。
利き腕側をライスにするとライスの消費が早くなり、最終的に比較的少ないライスと比較的多いカレーによって濃い味で食事を終える事になる。
利き腕側をカレーにするとカレーの消費が早くなり、最終的に比較的少ないカレーと比較的多いライスによって淡白な味で食事を終える事になる。
ココイチが客に対してカレーとライスの境界線を水平にするのは、右利きと左利きを差別しないダイバーシティの精神があるのではないだろうか。