はてなキーワード: 悪夢とは
どんな人でも、理不尽な扱いや嫌がらせを受けたり、人間関係や金銭など諸々のトラブルに巻き込まれたりして「こいつ嫌い!死ねばいいのに!」という感情になることはあると思います。
私は高校の頃「嫌い、死んでほしいくらい嫌い」と思っていた同級生がいました。
その方が去年、自殺したということを知ったので自分用の記録として書きます。
亡くなった人をAさんとします。
違うポジションでクラスも違っていたので1年生の頃は特に関りもなく、休憩時間や移動時に隣になれば世間話をする程度の関係でした。
Aさんともう一人(Bさん)が率いるグループ(X)が部の雰囲気を悪くしているということで、部全体を巻き込むトラブルになりました。なぜXグループが部の雰囲気を悪くしていたのか、その原因はほぼ忘れてしまいましたが、「課題を提出出来ずに居残りになるのがなぜ悪いのか」と開き直って、真面目にやっている人が割を食うみたいなそんな感じだった気がします。
一応県ではトップの強豪校で目指せ全国!って感じの部だったので、居残りや遅刻にはものすごく厳しく連帯責任があるほどでした。とにかく顧問の権力が絶大で、口ごたえすればめちゃくちゃに怒鳴られますし、私含め皆洗脳されていたと思います。
その事件については部全体での話し合いで一応解決しました。その後、トラブルは度重なり、Xグループと他グループが対立したり、それきっかけでBさんが退部したりと色々ありました。2年になると私は部長候補、Aさんは副部長候補となり、表面上は事務的に普通に接しているけど、お互いあまり良く思っておらずなるべく関わり合いになりたくないという感じでした。
Bさんの抜けたXグループはその後もイケイケ路線を貫き、全体としてはまとまっているものの各々では不穏な雰囲気が漂っていました。3年生が引退して代替わりすると、私は部の雰囲気に嫌気がさして部長になることを辞退し、XグループにいたCさんが部長、私とAが副部長になりました。
その後は割と平和でしたが、CさんとAさんが裏で結託している様子、私がXグループで叩かれている様子は分かりましたし、常に2対1になってしまいます。私だけならまだしも、その他の真面目に勉強や練習している人を馬鹿にしたりするのは本当に呆れましたし悔しかったです。その他も最終下校時刻を守らない、放課後マックで騒ぐなど小さいトラブルもありました。しかし「決定的なトラブルやいじめ」というものはなく、常に冷戦が続いていたと思います。
結局3年生になった私たちの代は成績も残せずさっさと引退しました。さらに言うと、Cがトラブルを起こし、途中で私が部長をやる羽目になりました。これがものすごく屈辱的でした。今更部内改革を起こす気にもなれず、そもそも3年生になってからは部や競技そのものに情熱を持てなくなっていてさっさと負けて引退したいという気持ちでいっぱいでした。
また3年生ではAとBと私が同じクラスだったのでその二人がウェイウェイしてるのを常に目にする状況でした。これが一番きつかったです。
Bさんに対してはいい印象が全くなく、しかし今思えば「嫌いになるような痛烈な事件」というものもありませんでした。ちいさなイライラが少しずつ積み重なって心から「嫌い、本当死んでほしい」と思うようになりました。
卒業するころになると、Xグループはほぼ全員受験失敗(Aは志望を下げて合格)、私は皮肉なことに部活の成績(あとは普通に評定も良かった)で推薦で大学に受かりました。
やっぱり最後は努力したものが勝つのだなぁとちょっと見返した気持ちになって大学進学をしました。
そのあとはOBとしてたまに手伝いの要請が来るくらいで、私は進学先が遠方だったこともあり会うことはほとんどありませんでした。
大学進学後に困ったことがありました。AとXグループに陰口をたたかれたり嫌がらせを受ける夢を何度も見るのです。3年の時は部活を辞めたくて辞めたくて仕方なかったため、自分は春に退部したという設定で「途中で投げ出した弱虫」みたいに陰口を言われてました。
これは社会人になっても続いていて、自分の中で相当トラウマになっていたのだと思います。
そして25歳のある日、SNSの「知り合いかも?」にBが出てきました。なんとなしに眺めていると、「Aが死んだなんていまだに信じられない」という投稿がありました。投稿を遡ると去年亡くなったようでした。親切なことに死因が自殺であることと、精神を病んでいたらしいことが書かれていました。実家に電話してOB会の名簿を確認すると、Aの名前がなくなっているようなので本当らしかったです。
Aが死んだ。その事実に対して割と何とも思わなかったのが正直な感想でした。
名前しか知らない同級生が引っ越したくらいのどうでもいいような内容に感じられました。
そのあと「あぁ私はきっと過去のAの記憶から解放されるのだな」と安堵しました。
悲しい、という気分にはほとんどならなかったです。
BがAの死について苦しんでいる様子がSNSを通じて伝わってきたので、正直そこは「ざまぁ」と仄暗い喜びを感じました。
しかし、Aは私の苦しみを知らずさっさと人生リタイヤしてしまったのだな、と思うと「ずるい」と正直思います。でもAはAなりに色々あったようなので、そこは少し気の毒だなとは思います。
高校卒業してAは自分の中で完全に過去の人になっていて、大学の研究なり仕事なり「今の世界には必要ない人」になっていたからこんな軽い感情の動きで済んだんだと思います。
それが大学卒業直後やトラブルの渦中だとしたら、また違うと思います。
しかし、今現在進行形で「死ねばいいと思っている人」がいる人に「時間がたてば、どうでもよくなるよ」なんてことは言えません。これはあくまで私の例で、その人の感情には全く当てはまらないからです。
しかしその「死ねばいい」という気持ちは否定しないでほしいです。それは自分が嫌なことを嫌ではないと否定することになると思うので。あんまり周りの人に吹聴するのはその人自身の立場が悪くなるのでおすすめはできませんが。
そう思うんだけど、同時に「じゃあどこの政党なら良いの?」みたいな話を聞く。
個人的には「立憲民主党が(まだ)マシなのでは?」と思っていて、その理由はすごく簡単。議席数が二番目に多いから。
議席数が二番目に多いところに投票すれば、それが回り回っていつか与党になれる日が来ると期待していて、そうすれば自民党を降ろせるんだよ。
自民党降ろそうぜ。もう無理だよ。
とはいえ、立憲民主党を全面的に支持するつもりはないし、そもそも立憲にはまともな議会運営能力はないと思うので、どうせその次の選挙で自民党が返り咲くだろうことはある程度推測できるんだけど。
今の自民党の問題は二つあって、「野党を軽視しすぎる」ことと「そもそも腐敗してる」こと。
これは安倍政権が長いからって話だけじゃないんだよな。安倍が無能だから腐敗していることが表に表出しただけで、昔から腐敗してたにすぎない。
で、トランプゲームの大富豪と同じで、一度大富豪(≒与党)になると、次のゲームからは大貧民(≒野党)から強いカード奪えるから勝ち続けることが容易なんだよね。
それに対して大貧民(≒野党)が勝つためには「革命」の選択肢を取らざるを得ないわけ。
つまり、「長期政権を持つ政党はそれだけで利権の温床になる」し「長期で政権を獲得できていない野党は革命のような甘言しか言わなくなる」ので、悪循環になるわけよ。
改めて言うけど、だからといって今の野党が政権を獲得してもまともな議会運営はできないと思うよ。
でも、定期的に与党を引きずり下ろして、今の野党が政権の運営を学ぶこと、そして今の与党に与する利権だけを優遇しないこと、というのは絶対に必要。
多分後数年のうちに自民党は「表面的には」改善していくと思うんだけど、今後も自民党はお肉券を配ることはやめないことは自明じゃん。
日曜の午後だった。整理が2週間近く遅れていた。
3週間ほど,体も熱っぽく胸も貼っていて,いつものPMSとは何か違うなとは思っていた。
でもまあ生理不順だろう,妊娠なんてしてないよねと検査してみたら,
思い当たることは何もなかった・・・と胸をはって言えないのが情けないが,
中に出さなきゃOKでしょ,位に考えていた大アホな自分をぶん殴りたい。
慌ててパートナーに連絡を取る。
空港で登場手続き中だった彼,急遽行き先を変更して,会いに来てくれることになった。
翌朝一緒に病院へ行こうと決め,
●病院はどこがいいの?
ホームページできちんと手術の情報提供をしているところを3つほど選んで,
電話をかける。
日曜だからか,つながらない。
最後の3つ目でやっとつながり,翌朝の予約を入れることができた。
22時過ぎ,彼が到着。
不安なまま眠りにつく。
●診察,手術日決め
受付にはまだ人がいない。
問診表に一通り記入し,診察の順番を待つ。
名前を呼ばれ,彼もいっしょに診察室へ入った。
下着をとり,診察台へ座る。
カーテン越しに先生の気配。隣にはパートナーが入ってきてくれている。
「さて,赤ちゃんはいるかな?」と先生がエコーを私のおなかにさしこむ。
あ,いるね。「見えますか?心臓がぽこんぽこんってしていますよ」
大きさは3ミリ,6週と3日だと言われる。
「心臓が動いているの,見えるね」
赤ちゃん,いるんだ。
手術は麻酔で眠っている間に終わり,4時間ほどで日帰りでできる。
当日は,二人の署名押印をした同意書と,ショーツとナプキンを持ってくるよう言われる。
手術費用は,妊娠週数が増えるごとに5千円ずつ高くなるらしい。
お互いの仕事の都合もあり,
結局,8週目の金曜日に手術を受けることに決めた。
金曜なら,週末,家で安静に過ごせる。
保険がきかないので1万5千円の支払い,高い。
産んであげられる環境だったらよかったのにね。
複雑な気持ちで,そんなことを話しながら家に帰った。
●手術まで
激しい眠気,熱っぽさと体のだるさにはじまり,
このまま産んであげられたら,と何度も考えた。
家はどうしよう。仕事は?親にいつ話す?
彼も相当に悩んだらしかった。
でも結局,飛行機2時間の遠距離恋愛で,お互いキャリアも別々で,
看護師さんは「考えが変わったら,いつでも連絡してね」
と言ってくれた。
●手術当日
彼に付き添ってもらい,病院へ。
順番が来て,診察室へ入る。
エコーでおなかを見ると,赤ちゃんは少し大きくなっていて,心臓は元気に拍動していた。
「心臓,元気に動いているね」
もう決めたことなのに,心がとても痛んだ。ごめんね。
「あまり言うとつらくなるからね。これくらいで」と言って手を止めた。
「子宮はおなかの方に傾いているね」と言われる。
再度手術の説明を受け,支払いを済ませる。
手術費+診察費+赤ちゃんの埋葬費で合計12万円ほど。
手術は眠っている間に終わり,出血と軽い腹痛はあるかもしれないが,翌日から不通に生活できるとのこと。
性交渉は2週間ほど禁止らしい。入浴もNG,シャワーは翌日から大丈夫とのこと。
やっと安心できた。
9時半過ぎ,個室に荷物を置き,彼に見送られて手術室へ向かう。
15分くらいで終わる,難しい手術ではないという。
手術台に寝かされ,足を固定される。
私は一瞬で意識を失った。
下腹部の鈍い痛みを感じつつもうろうとするなか,担架にのせられ個室のベッドへ運ばれる。
手術は無事に終わっていた。
ずっと悪夢を見ていたが,
目が覚めて気が付いたら彼が来ていて,昼過ぎになっていた。
立ち上がろうとするもふらついてまともに立てない。
おまるを持ってきてもらう。
ぐったりしている。体が鉛のように思い。
そのまま1時間ほどまた眠った。
二度目に目覚めたとき,気分はそれほど悪くなかった。
14時過ぎに病院を出た。
無事に終わってほっとした,それが一番だった。
遅めのランチに何を食べようか,彼と話しながらバス停までのゆるい坂道をゆっくり歩いた。
バスはすぐ北。
麻酔が抜けきっていなかったのだろうと思う。
何とも言えない気持ち悪さで,すぐバスから降りて横になりたかったが,そうもいかない。
何とかターミナル駅でバスを降りてタクシーに乗り換え,家に着くとベッドに倒れこんだ。
述語は安静にね,としつこく言われたのに,私が甘かった。
アルコールに弱い,もしくは全く飲めない体質の人は麻酔がききやすいらしい。
私がまさにそうで,しかも体力もないのだから,用心すべきだったのだ。
●術後の経過
翌朝,退庁はかなり良い。
が,昨日のこともあるので家でおとなしく過ごす。
術後の腹痛や出欠具合は個人差が大きいそうだが,私の場合はどちらもほとんどなかった。
体の熱っぽさが嘘のように消えていて,船酔いのようなつわりもさっぱり消失していた。
術後は3日間ほど薬を飲み続ける。
薬を飲み切った翌日の夜,急に生理痛のような下腹部痛があった。
耐えられないほどではないが,生理痛が普段ほとんどない私にとっては,かなりしんどい痛みだったため,痛み止めを飲んだ。
調べてみたら,妊娠で大きくなった支給が元の大きさに戻ろうとするときにおこる,正常な痛みらしい,ほっとした。
市販の痛み止めは買っておいてよかった。
●1週間後
診察台へ上がり,エコーの機会を挿入されるのも慣れたもんだ。
「うん,完璧ですね」
よかった。
●まとめ
・術後すぐはあまり動かないこと
・痛み止めは買っておいたほうがいい
・料金は8週目で総額14万ほど(診察費,薬代等含む)
家事や育児をまともにする男は、わたしのようなブスを相手にするはずがないと思っていたが
先輩の美人が、家事育児と仕事の両立ができないと退職したのをきっかけに、どうせ男は家事をしないなら、もういっそ適当に顔が好みの男と結婚して子供だけ作って、嫌になったら離婚して1人で育てようと思い立ち、当時友人の紹介であった顔が好みの男と付き合って半年で籍を入れ、小規模な式を挙げ、結婚生活を始めるも共働きの折半の約束の家事を激務のわたしの代わりに6割程度やってくれて、育児に積極的な顔が好みの夫に支えられて育休も半年にバリバリと働けて楽しいなあと思っていたのが6年ちょっと。子供の小学校入学後すぐ、突然仕事を無断で辞めてきて専業主夫になると言い出だし、相談はして欲しかったけどまあよいかと家事や育児の8割程度を任せるようになり、案外円満な家庭を築けるものだななんて思っていたのが2年。だんだん家事や育児のわたしの負担が増え、結婚当初の4:6に戻ったあたりで、[ゆーかちゃんママ]との浮気が発覚するも、仕事がピークに忙しく話し合う気力もなく、「お前が構ってくれないのが寂しかった。お前が悪い。」と責められ「ああそうか申し訳ないことをしたな」と思い、内内のまま再構築を決めたのが 年前。
中学校に馴染めず子供が不登校になり、「他の家はもっとお母さんが構ってくれる」と言われ、「ああそうか申し訳ないことをしたな」と思い仕事をセーブしようとするも上手くいなかったのが4年前。夫の[真希先生]との浮気と貯金の使い込みが発覚したのも3年前の春。午前2時の病院で帰宅が怖くなり家に帰れずネカフェに向かったのは3年前の夏。これではいけないと離婚のため弁護士に相談しに行ったのは、子供が参加しなかった2学期の始業式の翌々日。調停まで持ち込んでやっと離婚できたのがその5ヶ月ちょっと後。奇しくも子供がわたしと来ることを望んでくれ、退職し、夫のいない我が家で学校に行ったりいかなかったりする娘の面倒を見ていたのが一昨年。実家の方に引っ越したのが一年前。こちらの高校に毎朝元気に通う子供を見送れる生活にしみじみと幸せを感じられたのが半年前。2月前に再就職しぼちぼち働き始めた。前よりずっと楽だし、実母と実妹の支えもある。子供がお母さんみたいになりたいと医学部を目指したいと言って予備校に通い始めのが3月の頭。一週間ただずでもう高2になる。複雑ながらも表向きには応援している。
新婚の頃は「結婚してよかった。わたしなんかでも幸せになれるんだ」と思っていたけど、今にしても思えば一瞬の夢見たいな期間だった。0時過ぎに帰宅して、セックスレスじゃ有責だと責める夫に謝りながら相手をした後、泣きながら寝てた期間は悪夢だった気もする。その時はよくわからなかった。モラハラだったんだろうか。いまだによくわからない。幸せだと思った時もあった。
もっと考えて結婚していたら……とは思うけれど、出産のタイムリミットを思うと焦る気持ちもあって、恋愛経験だってたいしてなかったし、見る目がなかった。もし、わたしがきちんと元夫に向き合えていたら違ったのかなーとか、疲れてることを言い訳にしすぎたのかなーとか思うけれど、もう一度やり直せたとしても仕事と家庭を両立出来る気はしない。どうすればよかったんだろう。
きっと医者にも結婚にも向いていなくて、なのに、医者になって結婚したのがよくなかったんだろうなと思う。でも、今この幸せは確実に娘のおかげで、出産は人生で一番してよかったことだと思って。わたしなんかの元に生まれて申し訳ないことをしたなあと思うけれど、それでも許してくれる娘は寛大だ。
どうすればよかったんだろうな。仕事と結婚と出産どれかひとつだけしか選べないとしたら、間違いなく出産を選ぶんだが、仕事と結婚ができなきゃ出産は出来ないのが今の世の中だから厳しいなと思う。絶対浮気されないような美人だったら、仕事も育児も両立するだけのスーパーマンだったら、だとしたらなんとかなってたんだろうなー。女に生まれたら、どう生きるのが正解だったんだろうか。養ってもらえない上に浮気されるようなブスに生まれたのが間違いかな。幸にして夫似の娘なら、正解の人生を歩めるのかな。いいなー羨ましい。
仕事も結婚も出産も全部上手くはできなかったし、離婚しちゃったし、申し訳ない。申し訳ないけど、日本の方針としては、シンママ手当て拡充の方向性で、女の人生の正解から結婚は免除してもらえるのかなーとか予想している。仕事しかできないブスとしては有難い。そう考えれば、ブスでも仕事があって、愛してくれる子供がいるから、部分点ぐらいは貰えるかもしれない。満点を取るのは無理だった。頑張ったんだけどな。言い訳にはならないか。
働いて、子供を2人以上産んで、両親のそろった家庭を築く……のは無理だった。すみません。わたしがもっとマシな顔だったら、出来てたのかもしれないと思うと、顔面フル工事するのが正解だったのかもしれない。ブスに生まれた時点で80点どころじゃない減点があったのではないか、ブスは生まれた時から女の不正解なのではないかと思う。
20数年前のブスは「女はさっさと結婚して出産するのが一番」というのを信じて頑張ったんだがな。ダメだったよ。医者なんかにならなきゃよかったのかな。でも実兄が病死しててさ、実兄みたいな人を救いたいと思って小学生から医者目指して生きてきたんだよ。頭も良くないなりに努力してきたんだよ。あれが全部間違いだったんだろうか。じゃあ褒めないで欲しかった。でも、ブスには養ってくれる人なんか見つからないから自分で稼げる仕事に就くしかなかった。身の丈に合うブスの低収入職につくべきだったのだろうか。正解の男性と結婚していたら正解していただろうか。ブスには男を見る目なんかなかったから、難しかった。ブスなんだから、若さぐらいしか取り柄がないだろうと言われて焦っていた。女の高収入はなんの取り柄にもならないと言われたし、事実ならなかった。ヒモを養うにはいいかもねー(苦笑)ってだけ。離婚前の5年ぐらいは専業主夫なのに全くと言っていいほど家事してくれないから、家政婦さんに来てもらってたし、その人と家でヤってたのも後に知った。元夫は初めはとても優しかったし、結婚する時だって舞い上がってたし、結婚してすぐの頃は本当に幸せだった。こうなるとは思ってなかった。ブスの人生は諦めから始まって諦めに落ち着いた。
どうでもいいだろうけど、長年のコンプレックスだった一重瞼を糸で留めていただいたのが午前中、だ。今更加点がないのは知っているが、せっかく恥も外聞もないブスの出戻りだからと思い切った。こんなブスでも母親と娘には応援されてるんだ。もうどうなったっていい。
(いくつかフェイクあり)
カウンセリングを受けて何かと楽になったので、知見を共有したい。
それに、カウンセリングを終えてからそろそろ1年が経過するので、ちょうど過去を振り返るのにちょうどいいと考えた。
増田でも、多くの人が「カウンセリングに行ってみたら?」と時には本気で、時には冗談で言うのだけれど、そこが実際にはどんな場なのかを知らないせいで、行くのをためらっている人が多い現状を、変えたいというのもある。
増田だけではなく、ネット上の多くの人が、少しでも楽になれるように祈っている。その助けになれば幸いだ。
長くなりそうだし、愚痴っぽくなるのも嫌なので、代表的なものだけを箇条書きで挙げる。
臨床心理士の資格を持っている50代の女性。中学生くらいの子供がいるらしい。
髪の毛が長く、少しやせ型。落ち着いた物静かな女性だが、明確な自分の考えを持っている印象がある。初恋の人に似ている気がするがおそらくは気のせいというか、投影しているのは間違いない。
初回は風景構成法を行った。これはカウンセラーの指示に従って、順番に山や川、家や田んぼ、人物などを配置していくもので、専門書に当たれば具体的な解釈方法が書かれているが、自分は専門家ではないので省く。当日に描いた作品を今になって振り返ってみると、道のど真ん中に障害物の石が置かれていたり、山が雪に閉ざされていたりと、寒々とした印象を受けた。描かれている人間も逆立ちをしていて、何やら不穏である。蛇も不気味にとぐろを巻いていた。
二回目からは主に夢分析を行った。カウンセリングとカウンセリングの間の一週間に見てきた夢を記録して、それを材料に話をする。つかみどころがないようだが、意外なことにかなり効果があった。理屈はわからないが、この治療中は同じようなテーマの夢を見るようになる。さらに、肝心なのは夢の内容そのものではなく、夢の話をしているうちに自分が何を思い出したか、あるいは漠然とした印象をどのように語りなおしたかで、それによって、自身の考え方の偏りや傾向が見えてきた。現に、夢の内容を話す時間は案外短く、後半の三十分は、そこから思い出した過去の出来事や近況、それについて自分がどう感じたについて話し合うことに費やされた。そうした雑談をきっかけに、突破口を開いたこともある。
夢分析が行き詰まった時には、箱庭療法を試みた。これは、砂の敷かれた箱の上に人形や模型を配置していくもので、話しながら人形を動かしたり、砂の上に模様を描いたりした。うまく説明できないが、非言語的なものを明確にするのに役立った気がする。例えば「このタヌキ(の置物)は寂しくて困っている。友達がいなくて寂しそう。上下がひっくり返って困っている。悲しくて暴れている」などと比喩的な話をすることで、日常使っている言葉の論理で語りたくないことを口にしていた。小さな人形を触っているうちに気分が落ち着いたり、逆にひどく動揺することがあったり、不思議な経験だった。箱庭療法の最初の一回も、自分の心理的混乱が反映されていたのか、人形同士がにらみ合ったりひっくり返ったり無意味に積み上げられたりと、非常に張り詰めた印象のもので、カウンセラーも「ちょっと怖い」という印象を漏らしていた。
これらの技法は、ある種のきっかけというか呼び水だった気がする。どんなことを語っても許されるというか、傾聴してくれる場というのはそれだけで貴重で、話しているうちに自分の思いがけない本音や、ダブルスタンダードに気づいた。また、夢のような一見「どうでもいい」話ができる仲になることで、普通は人に話すこともはばかられるような、野外オナニー願望についても話すことができた。
治療も後半になると、こうした技法はほとんど用いず、通常の雑談に近くなった。自分はこういうことをしてこう言う結果になった。自分の気持ちはこうだ。そうしたことが素直に言えない人のために、これらの技法はあるのかもしれない。
始め、自分は藁にも縋るような思いでカウンセリングを申し込んだ。と同時に、どこか疑ってもいた。自分はカウンセリングの技法についての基礎的な知識はあったし、大体どのようなことをされるのか予想がつくと思い込んでいた。精神分析に関するフロイトの著作だって読んだことがあるし、河合隼雄の「ユング心理学入門」も読んでいた。しかし、カウンセリングの概略を知っていることと、実際にカウンセリングを受けることとは、まったく別の経験だった。水泳の理論と、実際に水に入って泳ぐこと以上に隔てられている。なんといっても、何年にもわたって定期的に同じ人間と会うのだから、必然的に相手には強い感情を持ってしまう。結局、人間が強い感情を持つのは人間に対してであり、人間が変わるのも対人関係を通してだ。
カウンセリングでは何について話すことも自由だった。幼少期の悲しみ、いじめられた経験、両親から受けた不条理な仕打ちなどなど。それだけではない。女性にするべきではないとされている話もした。自分の性生活、自慰行為、風俗店での出来事など、自分は露悪的なまでに細部を語ったが、しっかりと耳を傾けてくれた。
そして肝心なのが、何度同じ話をしても相手は退屈する様子を見せない点だ。自分は、同じ話を繰り返すことで忘れていた細部を思い出すことがあったし、それに新しく意味付けをすることもできた。
最後に、カウンセリングの時間が終わりに近づくと、カウンセラーは僕の話した内容を簡潔に言い直す。そうすると、自分はこういうことを考えていたのか、と毎度のように驚かされる。まとめられた内容を反芻しながら次の一週間を過ごすことで、自分の考えが深まっていった。他にも、自分がすべての不平不満をぶちまけた後で、それに対する解釈を投げ返されることで、その負の感情を自分の一部として取り込むことができるようになった。「あなたがそこで腹を立てるのは当然だ」「あなたの感覚はそれほどおかしなものではない」という趣旨の言葉を返してくれるだけで、自分の過去を少しずつ受け入れることができるようになっていった。
ところで、カウンセリングに通ったのが、2014年3月から2019年8月のことなので、4年以上も同じ人と毎週のように会っていたことになる。途中から自分の気分が落ち着いてきたので隔週に切り替えたのだが、それでもかなりの頻度だ。自分は、自分のあらゆる感情や悩みをぶちまけて、それでも受け入れてくれる存在がうれしかった。モテないあまり風俗に浸っている自分を軽蔑しない彼女の存在が尊く思われた。
珍しくないことだが、自分はカウンセラーに好意を持つようになった。自分は、職業倫理上その気持ちは受け入れてもらえないことだと知ってはいたけれど、「あなたを尊敬しているし、とても強い好意を持っています」と伝えた。カウンセラーからは「私もあなたと会うのが楽しみです」という趣旨の返事をもらった。と同時に、僕は、なぜこのカウンセラーが好きになったのかをじっくり考えだした。すると、自分には好きな人に自分の悩みを洗いざらい吐き出したいという願望があったのだ、と気づいた。同時に、自分は知的水準の高い女性に強いあこがれを持つことも改めて認識した。年齢などどうでもよかった。比較的若く見えるが、相手は五十代の人妻で、自分が手を出すわけにはいかないのだけれど、叶わない想いだとは知りながら、相手に尊敬の念を持ち続けるというのは、思ったよりも悪くなかった。おかげで、自分にとって他人を好きになるとはどういうことかを言語化できたし、他人を尊重することを身をもって学んだ。
一人の女性を好きになり、それを軽蔑されたり馬鹿にされたりしないこと安心感を、自分はたくさんの悩みに取り組む支えとしていった。僕は、このカウンセラーのことが好きになれて、本当によかったと今でも思っている。
過去のどのようなつらい経験も、自分はそれぞれ意味があったのだと、迷いなく考えられるようになった。それから、今までは様々な物事を与えられて当然だと感じていたが、やっとのことで与えられた物事に感謝することを学べたように思う。
また、自分の恐れの感情やトラウマにとらわれずに行動できるようになったことで、自分の外側の世界に対して、うまく働きかけることができるようになった。
もちろん、上に書いたような悩みのなかには、直接解決しなかったものもある。でも、それはそれで仕方がない、と受け入れられるようになった。
何よりも現実検討能力がついた。不安を不安のままかかえておけるようになり、不安で頭が真っ白になることがほとんどなくなった。自分の中の膨大な不安のエネルギーが、落ち着くべき場所を見つけたかのようだった。
悩みの解決の過程を言語化するのは難しい。自分の考えがどんな風に変化していったかを記すにとどめる。人によってたどるべき道のりは異なるし、僕の頭の中の理屈をそのまま文字にしても、納得できないことは十分に考えられるからだ。
過去のいじめ、対人関係のトラブルはとても悲しいものだった。でも、おかげで自分は人をできるだけ傷つけないようにしようと心掛けられるようになった。それと同時に、絶対に誰のことも傷つけない発言・表現というのも無理だとも知った。男性であれ女性であれ、相手を一人の個人として尊敬することが大切であり、それは自分と相手は異なっていると認識することだ。だから、できるだけ丁寧に接することは大切だけれども、自分と他人は別の存在なので、礼儀正しくしていたとしても、絶対に不快な思いをさせないでいることは不可能だ。かつての自分は、自分が女性から不快な思いをさせられた経験から、絶対に女性を傷つけてはいけないというルールを自分に課していたのだけれども、それは不可能だと知った。過度に自分を縛る目標は、ある種の呪縛だ。
それに、世間にはいろんな女性がいる。優しい人、冷たい人、知的な人、ちゃらんぽらんな人。一人の女性が自分に暴力を振るったからと言って、そうでない人もたくさんいる。女性一般や平均的女性像みたいなものに、振り回されなくなった。
フェミニズムとの距離感もうまく取れるようになった。納得できることはうなずき、わからないことについては調べ、おかしいと思うことには反対する。それは、フェミニズムだけではない。自分とは違う考えの相手に対する対応の仕方と全く同じだ。
仕事に関しては、転職をした。自分の能力に見合った仕事に切り替えることでやりがいも感じられるようになった。給与は下がったが、例えば600万稼ぐ人間が300万稼ぐ人間の2倍偉いのかといえばそういうわけでもないし、僕にとっての一番大切な価値観は、早寝早起き快食快便が守れる生活が維持できるかどうかだと知った。
男らしくないのではないか、というのも気にしなくなった。世間の価値観がどうあれ、自分が好きなことを好きなようにする。自分らしくあることが自分にとって男らしいことと定義しなおした。
その中で、家族との関係も改善した。今にして思えば、両親は自分と非常に適切にかかわってきてくれた気がする。圧倒的にすがりたいと思っていた両親も50~60代のただの人間なのだ、と実感することができた。しかし、ただの弱みもある人間だからこそ、大事にしたく思えるようになった。距離感が適切になった気がする。
処女厨もロリコンも治った。正確には、そういう願望があることそのものに対して、思い悩まなくなった。一つには、50代の女性に恋をすることで、実際に小学生と恋愛したって、物足りなくなるに決まっていると心の底から理解したというのがあるし、人生経験豊かな女性の魅力に気付いたのもある。さらに、処女厨の根源にあった、「セックスとは汚いものだ」という意識も弱まった。「セックスは気持ちよいものだし、誰かを愛することは素敵なことだ」という感覚しかなかったら、処女喪失を汚れとは認識しないだろう。それよりも、出会った二人が新しく一緒に思い出を作っていくことの喜びに目が向くようになった。まだ彼女はできていないけれども、一緒にデートしたり、他愛のない話をしたり、うとうとしたりしたいし、それに向けて今でも努力している。
女子小学生の裸を見たいという感じもほとんどなくなった。確かにあの年頃の女の子はかわいいけれど、それだけのことだ。どんな感情を抱こうとも人間は自由だと思えるようになったことで、かえってそうしたロリコン的な願望から自由になった。
同時に、野外オナニー願望も消えた。なんというか、得体のしれないドロドロした性欲のエネルギーに、適切な形が与えられた感覚がある。よく夢で、性器を露出したり全裸になったりするパターンが多かったのだけれど、カウンセラーと話すうちに「おちんちん見せるだけじゃ意味ないよね?」みたいな話になり、そうしたことを話しているうちに、セックスって相手あってのことだよね、みたいな認識に到達した(このあたりの話が非常にわかりにくいのではないかと恐れている。ラポール、とでもいうのだろうか、クライアントとカウンセラーの間には、長い間の会話の積み重ねからくる膨大なコンテクストの共有があり、ある種のツーカー関係が出来上がっているので、会話だけも書き起こしても非言語的な部分が多くを占めていて、客観的にはわかりにくくなりがちだ)。
死への恐怖は、とりあえず先送りされた。これは個人的な経験だけれど、死ぬのが怖くてたまらないときというのは、何か大きな変化を恐れているときか、未知のものに飛び込まなければいけないときに強まるような感覚がある。
カウンセラーには日々の出来事を何でも話すことができたが、別にカウンセラーに聞いてもらわらなくても、別に大丈夫になってきた。さらに、ここで話をしても、これ以上自分は楽にはならない気がするようになってしまった。
とても感謝はしているけれども、自分で自分を励ます考え方ができるようになっていて、あとは毎日の出来事を淡々とカウンセラーに報告するだけみたいになっていた。
というのも、自分の悩みを解決できるのは、最終的には自分だと思うようになったからだ。話を聞いてもらって勇気をもらったり、現実的なアドバイスを受け取ったりすることはあったけれども、実際に行動するは他ならぬ自分なのだ。
ならば、これ以上ここにいても、自分は変われないのではないか、という気がした。そして、3月という区切りのいい時期であったので、そこで終えることにした。
最後にもう一度風景構成法を行った。山には緑があふれるようになり、街には人がたくさん姿を見せるようになった。蛇は道や川のうねりへと姿を変えた。困ったときには駆け込めるような病院や、芸術を鑑賞できるような美術館も街に描かれていた。そこでは、たくさんの人々が連れ立って歩いていた。ずっと住み心地のよさそうな風景だった。
俺は森加計や安保法や労働法改正や水道法改正やその他もろもろ含めて安倍の事を信用したときはなかったんだけどさ
コロナで株価が悪夢のような(笑)民主政権並みになったら安倍のいいところってどこなの?公文書も改ざんするし反社と税金で花見するし
仮にコロナがきっかけでオリンピックもグダグダになって政権交代が起こったとしよう。今の野党が与党になって、なにか疑惑が出てきたとしよう。
「いつまでやってんだ」「もうあきた」「いまそれどころじゃないだろ」そう言えばいいんだろw池沼答弁のご飯論法使って、審議拒否してきたら「さぼりだ!」「税金の無駄遣い!」
それでネトウヨはそれ以上何を言えるの?
お前らのしてきたことがいづれブーメランとして返ってくることに気づかなかったのか?wブルーベリーフラペチーノでも飲んどけよ
いつもは安倍やめろって言ってたけど、今は逆に安倍に降りられたら困るねwオリンピックも俺は最初から反対だったけど、もうここまで来たら最後までぐだぐだすればいいよw
ほれみたことかと笑っておくことにするよ
昨日は悪寒があって夜は37.1℃の微熱もあり辛かった。親と電話で会話したら「いちいちそんなこと聞かせるな! 自分の子どもが具合が悪いと聞いてる親の気持ちを考えろ!」とキレられたので、まだ午後7時だったが睡眠薬を飲んで寝た(起きていたくなかったので)。そのあと午前4時にいったん起きる。いつもは悪夢をみて動悸とともに目を覚ますのだが、わりと楽しい夢でスッキリ目覚められた。そのあと二度寝三度寝したが、いずれも良い夢をみた。今日は体の調子がまあまあ良い。
とりあえず、親がもっと歳をとって身体のつらさを訴えてくるようなことがあったら、私が昨日言われたことを言い返して絶望させてやりたい。そのときが来るまで頑張って生きていたい。
うちもトイレットペーパーが残り少なくなったから大事に使ってる。
「なるべくトイレに行く回数をすくなくしなきゃ」とか、どうしても使うときは「なるべく少なく使おう」とか。
何も考えず潤沢にトイレットペーパーが使えた日々が懐かしい。
いまの日々は悪夢だよね。
「悪夢のような民主党政権」って安倍総理は言うけどさ、いま悪夢だよ。悪夢のような安倍政権だよ。
安倍総理が公文書破棄しても、嘘ついても特に実生活で困らないんだよね。
なんなら憲法改正されても、そんな急に困ることは起きないと思うよ。
でも、トイレットペーパーないとね。生理的な部分でほんと困るから。理屈じゃないんだわ。
安倍政権、倒れるな、これ。
○ご飯
朝食:なし。昼食:ご飯、目玉焼き、納豆。夕食:白菜、しめじ、鳥肉、豆腐の鍋。
○調子
むきゅーはややー。
先々週の出張と、先週のごみみたいな理由の残業が相まって死ぬほど疲れてる。
一日中横になってスマホだけ弄ってだらだらしていたけど、回復の兆しすらない。
まだ寝たい。シンドイ。
ここら辺でこのゲームは一区切りかなあ。ログインとデイリーミッションぐらいはやろうかな。
ただ、最終上限解放が何人もいるので終わり切らなかった。
キャラのティアマトとマキラもまだレベル上げ終わってないのもあって、これは来週のかなあ。
テンポラリーカードっていうお試し? 機能みたいなのが期間限定ですごく拡充されてたので、大会上位デッキのコピペで何戦かプレイしてみた。
好きなカードであるルシウスとユナが使えるアグロヴァンパイア、それとモノのリーダースキンをたまたま引いた機械ヴァンパイアをプレイ。
どっちも使ってわかったけど、悪夢の始まりというサーチと展開を兼ね備えたスペルが超強い。
カードリスト眺めてる時は、トークンの詳細を見るのがめんどうだからついついこういう効果のカードは読み飛ばしてたんだよなあ。
何戦かして勝ったり負けたりで楽しかったけど、やっぱりガチの対人戦は頭使うし何より「もたもたすると申し訳ない」という気持ちが働くからまだちょっといいかな。
当分はストーリーを楽しんでいよう。