はてなキーワード: 考察とは
「ケムリクサが好き」
これはけものフレンズにも言えることですが、全話見た後に1話から見直すと新しい感情で話を楽しく見ることができる作品になっています。
今回はそれに加えて、単話単位でも複数回視聴ができるような構成になっています。ここからネタバレの記載をしますが、伏せ字するのでご了承。
おそらく一気見の方は気付いて無いのかなと思うので、一気見の方は該当箇所見直すとエモいです。
ケムリクサでは、1話から3話までで登場人物達がどのような思いを持ってどのように行動するのかを細かく示しています。
それ以後については、これまでの行動と矛盾する物があった場合は何かしら直前にやってたり理由が後から分かったりします。
1.みたいなのがままあるため、
1回目は普通に見る
2回目は1回目で気になった点を重点的に見る
3回目は考察勢が言ってた部分を見る
という感じのことを9話あたりから実施するようにしています。はっきり言って集合知に頼らないと分からんこと多い。
ケムリクサは複数回視聴に耐えうる作品でもありますが、どちらかというと複数回視聴を強要する作品だと思っています。
なので、ケムリクサの11話は、それはそれは素晴らしい回なのだが、今から一気見してケムリクサを楽しめるのかという点についてはかなり疑問を抱いていました。
特に1.に記載した9話の話は目配せだけで心情を分かってねと言っているもの(しかも初見時は気付きようがない)で、視聴者を信用しすぎでは?私は気付かなかった。
ただし、どうやら杞憂だったようで、一気見でも十分に楽しんでいらっしゃる方々もいるようで、結構驚いています。
ただ、ケムリクサって言うほどじゃないよねと言われた時に、
「実はちゃんとこんな風に理由つけてやってるんだよ」と言いたくなる気持ちもあるものの、
「そりゃ分からないよね」と言いたくなる気持ちのほうが勝ってしまう。難しすぎやしませんかねケムリクサ・・・・・・。
情報の洪水だったり、集合知でなんとか話についていくという点を考えると、私は「ヘボット!」というアニメを思い出します。
いきなり毛色が変わりますが、何も考えなくても見ることのできる作品といえばきらら枠。今回で言えばわたてんが該当するのでしょうが、1回見て満足した人ってのはその作品のDVD/BD買わないのよねという話。
各話1回しか見ないという条件で言えばケムリクサはわたしの中でかなり下位に入ってくると思っています。わたてんはかなり上位。
でも、DVD/BDを買う人って少なくともそれを2回以上は見たいと思う人が買うと考えると。
となると、何度でも見たくなる、見る度に新しい発見がある作品のほうがより売れるのではないだろうかというのはあるとおもうんですよ。
スルメの話が出てこなかったので、
最初聴いた時にはあまり印象に残らないが、何度か聴くうちに次第に曲の良さや深みを感じられる曲のこと。
「一口目ではあまり味がしない」けれど「噛めば噛むほど味の出る」スルメに例えられこのように呼ばれる。
比較的地味だったり、落ち着いた曲調の曲にスルメ曲が多いとされる。(ニコニコ大百科より)
「アドリブが効かない(ので答えにたどり着いてしまえば簡単)」「フロムにしては考察とプレイヤーの立ち回り方に自由度がない」という、Amazonだと☆2、クリア後のテンションのままなら3をつける感じだ。
俺はけものフレンズだとかケムリクサだとか、たつきだとか、吉崎観音だとか、そういうの本当にどうでもいいんだ、と思った。
目に飛び込んでくるけものフレンズに関するニュース、どれもがけものフレンズを肯定するニュースだったのが気持ちよくて、ラリってたんだ。
ラリラリになって盛り上がってる所にいきなり、たつき監督がけもフレアニメから離れるというバッドニュースが流れてきたら、おもちゃを取り上げられた子供のように泣き喚き、たつきについていけばまた熱狂できると思っているだけだった。
ケムリクサ。はっきりと面白いし、入ってくるニュースもだいたいは肯定だ。
SEKIROというゲームが発売された。
自分はアクションゲームが苦手だけど、パターン作りでだいたい突破できたので、今は二週目の序盤の敵のパターン作りに四苦八苦している。
クリアした時の感想としては、「アドリブが効かない(ので答えにたどり着いてしまえば簡単)」「フロムにしては考察とプレイヤーの立ち回り方に自由度がない」という、Amazonだと☆2、クリア後のテンションのままなら3をつける感じだ。
はっきり言ってブラッドボーン(DLC込まなくても)に遠く及ばない。
けど、多くのフロム信者は多分こういう意見に対して「おまえはわかっていない」「お前の意見はおかしい」「アドリブが効かないとかエアプか?」という。てか、最後のは匿名掲示板で言われた。
「あ、きっと彼らは好評以外の意見はエアプで、好評意見だけが真のレビューなんだろう。
彼らの頭の中の感情こそが全てで、周りもそうではなければならないのだろう。」
と、憐れんだ。
たつきが何をしてきた人なのかもわからない。脚本がすごいと思っても脚本の知識がないので具体的なすごいを言い表せない、そもそもアニメ業界に詳しくない。
それは、きっと自分が信じているものが肯定されると、頭が幸せになってラリるんだ、と。そして、否定されると頭が醒めるんだと。(頭は醒めるが酔は醒めないのがミソ)
新潟市民として徒然に。
初代リーダーが新潟市に北陸新幹線で来るって言った時以来、新潟市民敵に回してるから。
うちの嫁いわく、「フランチャイズのファストフード店が新潟で失敗したようなもんでしょ。さっさと撤退すれば良いのよ」だと。
特定の店舗でバイトテロやらかして、その店潰れてグループ全体に損害が出てる、それと何が違うの?と。
オレ個人は若干考え違って、バイトテロで潰れるのは地域密着だからだけど、NGTはそもそも地域密着じゃなく首都圏のオタクの金を新潟に落とすのが目的だろ、と。
今回の犯人だって、そもそも新潟の人じゃないんでしょ?勝手に新潟のイメージ下げるなよと。
新潟市民はNGTは外資系だと思ってるし、地域密着っていうなら古町どんどんとか食の陣とかに参加するのが当たり前だろと。
まあ、NGTがコケても新潟市民はなんとも思わない、というか新潟にとってなんのメリットもなかったね、で終わりかな。
今回の被害者がNGTを抜けて新潟密着アイドルとして再出発するなら、応援する人はいると思うよ。
でも新潟県警に悪いイメージを持っているなら残らないだろうねえ。
県警については、確かに不起訴で本当にいいのか問題はあるものの、多くの考察がされている通り、
加害者と被害者(ここが運営側になっている構図が最大の問題)の利害が一致すれば、警察は何もできないのが現状で、新潟県警じゃなかったら起訴できたんですか?って話。
将来AKSは新潟から潰れた、と言われるんだろうけど、それは勇気ある被害者が新潟で活動してたから、という良い意味で伝わってほしい。
ハウルの動く城を見たのは何回目だろうか.初めて観たときからこの映画にたくさん泣かされてきた.
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1533929590/
私はいつも4箇所で泣いてしまうから,それを時系列順に書いてみる.あと,合っているかわからないけど,新しい発見もあったのでそれについても書いてみる.
その前に上の人の考察を共有しておく
さて本題に触れる.
ソフィーは名前の通り,理性が先行してしまいいつも自分の感情を押し殺してしまう.そのため,ソフィーは帽子屋継がなければならないというしがらみに縛られている.そんなソフィーが老婆の姿になりそんなしがらみから解放された.広く,ぽっかりとひらけた星の湖はそんなソフィーの心情と重なる.抑圧からの解放を思い泣けてくる.
ハウルが「美しくなかったら生きていたって仕方がない」といったときにソフィーが言った言葉.心からの本心を解放し若返った姿で雨の中泣く姿に泣けてくる.
黒髪の(サリマンからの支配から解放された)ハウルは自分の家族を守ろうと決心する.そして,自分がいなくなってしまう前に引越しをし,ソフィーに花畑と小屋をプレゼントする.ハウルが幼少期過ごした小屋は,ハウルの心の奥なのではないかと思う.ハウルはソフィーに心の奥へ入ることを許可している.ハウルの決意を感じ取って,こんなの絶対死亡フラグじゃん!って泣いちゃう.
ラストのシーンでハウルの動く城はもはや人が乗るだけの小さな板に足がついただけのミニマルな姿になってしまった.これもハウルの心を表していて,沢山の物を削ぎ落として歩く部分しかない.でも家族が乗るだけのスペースがある.ハウルにとって何が大切な物なのかを表していて泣ける.
他にも泣いちゃうシーンはあるけれどだいたいこんな感じ.次は今回見て,発見したことを書く.
ハウルの少年時代にアクセスしたソフィーは「未来で待ってて!」と言う.その言葉をハウルは本当に信じていたのではないのかなぁ.だから,ソフィーの夢の中で出てきた鳥の姿のハウルは「だって、私、あなたを愛してるの!」という言葉に対し「もう遅い」と言ったのではないか.最後,疲れ果てた鳥の姿のハウルに対して「ごめんね、私、グズだから。ハウルはずっと待っててくれたのに。」とキスをしたのではないか.冒頭でハウルが「探したよ」と言ったときも,ソフィーを案内した指輪のように,ハウルの指輪も光っていた.そう仮定すると,次の二つも辻褄があう.
心を失ったハウル,コンプレックスを抱えたソフィ,欲深い荒地の魔女,支配しようとするサリマン.みんな心の欠陥を抱えている.ハウルはソフィーによってサリマンからの支配を逃れた.欲深い荒地の魔女は最後ソフィーの愛情によって,心臓を譲り渡した.サリマンは ハウルから付け入る隙を失ってハウルと対立することをやめた.
もうかなり前の話になるが,私も大学受験に失敗し,浪人をすることになった。
(することになった,というのは,したくてしたわけではないからである。)
人生で初めて,目の前が真っ暗になるような思いを味わった。
どうすればいいのかわからず,途方に暮れた。
そのとき,書籍等を通じて様々な先達の経験に触れ,それに励まされてなんとか乗り越えた。
これは遠い昔の一受験生の出来事であるが,ふと思いついて,自分が励まされたように,何かの役に立てばと思って書いてみた。
時代が変わっているので,個々の科目の勉強法等は記載していない。
大事な試験で失敗してしまい,失意の中にある人が,捲土重来を期すのに少しでも役立ってくれれば幸いである。
人生で最も勉強をしたのは,大学受験に失敗し,浪人生活を送った時だった。
その当時は自分なりに辛い思いもした。しかし,その分必死になって努力を行い,いかに状況を打開するかを日々考え抜き,最終的に結果を出すことができたので,得るものも大きかったように思っている。
なお,前提として,私は小中高と地方の公立学校で育った者である。塾にも浪人時代を除いてほとんど通ったことはない。
高校時代は部活をやっていたので,高2の冬までは授業を普通に受けていただけだった。志望校を決めるような段階になってからやばいと思って「受験生」になった,というのがバックボーンとしてあるので,以下の文章はそれを踏まえて読んでいただければと思う。
それまで特に勉強において壁にぶつかったこともなかっただけに,不合格の衝撃は当時の自分にとっては,人生初のものだった。
第一志望しか受験していなかったので,選択の余地なく浪人をすることになったが,仮にすべり止めで合格を得ていたら,果たして浪人という選択ができたか,全く自信はない。
それくらい,浪人するということについて,落胆していた。
同級生のうち,現役で受かった者が嬉々として大学生活に入っていく中で,少なくとももう一年,いろんなものを我慢して勉強に向かう生活を余儀なくされるというのは,たまらなくつらかった。
ひととおり落ち込み終わった後で,考えたのは,一つには,終わってしまったことを悔いても何もこの現実を変えることはできないということだった。
現役で大学生になる身近な同級生を想像し,なぜ自分はそうなれていないのかと身悶えせんばかりに考えたときもあったものの,いくらそのように思ったとしても何も現実は変わらない。過去に属してしまったことは,もう客観的には変えることはできない。そうだとすれば,今できることは,その意味付けを変えることしかないと思った。
今身を切るように辛く感じられる大学不合格という事実も,たとえば,次の機会に晴れて合格し,20年,30年も経てば,なかったことにはできるわけではないが,その影響は極めて小さくなっているだろうと言い聞かせた。
またおそらく世の中の評価というのは,失敗の数で評価されるわけではないとも考えた。人の失敗の数を覚えている人は多くない。そうではなくて,失敗の数があったとしても,結局のところ成功の数がいくつあるかが重要だろう。
そうだとすれば,まだコントロール可能な範疇に属している,未来を変えることで,過去の出来事の意味合いを変化させるしかないのではないか。
来年の合格という成功によって,今年の不合格という失敗を塗りつぶすしかないと考えるに至った。
期間はあまり覚えていないが,ここまで考えを整えるのに1か月くらいはかかったのではないか。
以上で考えたように,今年の不合格という意味合いを相対化するためには,来るべき「次」の受験で,必ず合格しなければならない。
再来年では駄目だ。また実力だけ伸ばしても駄目で,仮にいくら模試の成績が良かったとしても,現実に合格できなければ全く意味がない。
このようにして,「次」の受験で,「必ず合格する」ということを目標として設定した。
目標が定まった後,「必ず合格する」とは,どのような状態かと考えた。合格する可能性があるというだけでは駄目だと思った。可能性だけならおそらく今回もあった。「受かりうる」というだけでは足りない。「次の一回」で「必ず」合格しようと思えば,「受からないということがない」,「どうやっても受かる」という状態にまでもっていかなければならないと思った。
自分の中では,「100回受けて100回受かる状態」というのを一つの基準としていた。
そうなるためにはどうしたらいいのか。
受験において,本番で出題される試験問題そのものはコントロールできない。
自分が得意な問題が出るかもしれないが,苦手な問題が出るかもしれない。
そうだとすると,たとえば100回試験を受けた際に,自分が得られる得点ないし全体の中での自分の順位としては,一定の幅が生じると想定した。
自分が得意な問題が出れば点数ないし順位は良くなる。苦手な問題が出ればその逆となる。その幅と位置が自分の実力を示していることになる。
受かる可能性があるというのは,自分の中のベストの結果のときに,それが合格ラインを超えているということだ。すなわち,上で述べた実力の幅の上端が合格ラインを超えていることである。そもそもここが合格ラインに届かないというのでは,合格確率は0なのであって,話にならない。
自分の実力を客観的に見積もったときに,現役の受験時点でも,得点幅の上端は合格ラインを超えていると思った。しかし,全体として超えているかというとそうではなく,大半は合格ライン以下に位置していたのではないかと分析した。
この状態だと,運よく自分の実力の上端付近が発揮できるような問題であれば合格という結果になるが,そうでなければ不合格という結果になる。
以上の思考過程を経て,「必ず」合格するという状態を実現するためにすべきこととは,自分の実力を示す得点幅の下端を合格ラインより上にもっていくことだと規定した。その状態が実現できれば,どんな問題が出題されても必ず合格できる。
このようにイメージした。
次に,得点幅の下端を合格ラインよりも上に上げるためにすべきことは何かと考えた。
ただちにこうすればいいということまではわからなかったが,とりあえず実現すべきこととしては,得点できるはずの問題を必ず得点するということだった。先のことはわからないが,最低限,このことを徹底しなければならないと思った。
それだけでいいのかは,未知の領域なので不明であったが,得点幅の最下端を合格ラインよりも上にしようと思ったら,少なくともこの程度のことは実現できていなければ話にならないだろうと思った。
先に述べたように,受験の本番では,試験問題はコントロールの範囲外である。受験会場に来てしまってからでは,いくら「ここを勉強しておけばよかった」と後悔しても,その時点で知らない知識は答えようがない。試験の現場でできることとしては,そのときに持っている力で解けるはずの問題を確実に解くことだけである。
この視点は,いろいろなところに適用できるが,たとえば時間配分のところにあてはめると,「解けない問題で時間を浪費して,解けるはずの問題を解けないということを起こしてはならない」ということであると思った。
また,当時よくしていた勘違いなどのケアレスミスも,本来解ける問題を取りこぼす可能性があるので,起こしてはならないことになる。
これらは,本来解ける問題をこぼしているという点では共通しており,このようなことがあってはならない。
受験本番までは実力自体を向上させることももちろん目指さなければならないが,それと同時に,試験当日に,その時点で持っている実力すべてを最大効率で得点につなげられるようにしておかなければならない。
その観点から,模試などを受けた場合の振り返りとしては,正解したかどうかはあまり気にせず,正解できなかった問題があったとして,「その時点で正解する可能性がなかったのかどうか」を入念に確認した。
知識が足りなかったなどの理由で,そのときは正解する可能性がそもそもなかったのであれば,それはその時点ではもうしょうがないので,ただただ後日正解できるよう,知識を補充するなどして実力向上を図るというだけのことである。
一方,その時点で正解できたはずの問題を取りこぼしていた場合は,全力で悔しがるようにした。
「必ず」合格するという目標達成の観点からは,このような事態は絶対に起こしてはならない。
そのようなことをしている限り,「必ず」合格するという目標は達成できないからだ。
その場合,正解できたはずの問題をとりこぼさないために,なぜそのようなことが起きてしまったのか,再発防止策として何が考えられるかなどを必死で考えた。
以上は基本的に自分の中だけでの問題であるが,一方で他者との比較の視点も生まれていた。
正解可能性について考察しているうちに,自分が正解できなかった問題について,他の受験生はどうなんだろうかという視点が生まれたのである。
自分が間違えた問題の正答率が高かった場合は,それだけ多くの受験生に差を付けられたことを意味するのであるから,試験結果に与える影響は極めて大きい。一方,正答率が低かった場合には,大半の受験生もまた正解できていないわけなので,差を付けられた受験生の数が少なく,試験結果に与える影響は少ないということになる(極端な話,正答率が0%の問題であれば,全員が間違えているということから得点という点だけみればその問題はなかったのと同じであって,間違えたことの影響は0である。)。
このような視点で各問題ごとに正答率を確認するようにすると,感覚的には一般的に明らかに簡単と思われる問題でも,正答率が100%ということはないということに気がついた。受験生は,ごく簡単な問題でも意外と間違えてしまっているのである。
この点に気づいたときには,大げさにいえば勝機を見出した思いがした。
とんでもなく難しい問題まで正解できるようにならなければ「必ず合格」という目標が達成できない,ということだとすると,その難易度はかなり高い。
難問というのは,どんな問題が出るかもわからないから難問なわけで,対策という意味では容易ではない。
しかしながら,正答率が高い問題を取りこぼさない(他の受験生に差をつけられない)ということは,意識して徹底的にやりさえすれば実現できることだと思った。そして,これがきちんと実現できれば,成績的にはかなりのところまでいけそうだと思った。
時期的には,浪人になって最初の方で行われる模試の結果を分析してこう思ったはずなので,わりと早い段階でこのような確信を得られたのはありがたかった。
以上から,正答率が高い問題を重視し,かつ,それを絶対に落とさない,ということが具体的な行動目標となった。このように目標が明確になると,自ずとそれを実現するための勉強法も明らかになった。
自分が正解できる可能性のある領域を増やすことを目的とした勉強(塗り絵に例えれば,色が塗ってある範囲を広くするようなこと)も勿論必要にはなるものの,それよりもむしろ正解できる可能性のある領域での正解率を高くする(塗り絵で言えば,色むらをなくし,より濃くするようなこと)勉強を重視すようになった。
より具体的にいえば,復習を重視するようになったということである。
知らない問題よりも,一度やったことのある問題の方が正解率は高くできるはずで,投入する時間に対して得られる成果が高いと思われるからである。
復習は徹底的に行うようにした。特に記憶が重要となる社会の科目などは,一日の勉強の最初には,それまでやった学習内容をさかのぼってかならず目をとおしてから先に進むようにした。
具体的には,使っているノートを基準に最初から前回勉強したところまで必ず全部目を通すということをしていた。それはその一冊のノートを使い終わるまで繰り返した。見直す時間が膨大になってもしょうがないので,時間は一定を心がけていた。勉強が進むことによって見返す領域が広くなることになるが,その分見返すスピードを上げて各ページ毎の見る時間は減らして行った。
ノートの最初の方であればあるほど,何度も目にしているので,時間が短くても問題なかった。時間よりも回数を重視し,回数を繰り返すことで,記憶への徹底的な定着を図った。
これは面倒に思うかどうかだけで,誰にでもできることと思う。そして,記憶力に個人差は多少あれど,何十回と接触した内容については,誰でも記憶には定着しやすくなる。とにかく,一度学習した内容を,二度と忘れたくなかったので,そのようにしていた。
そのような学習法を実践していたことで,知識系の問題については,絶対の自信がついた。
当時は,記憶違いということはほとんど起こりようがないような状態を実現することができていた。
以上のような勉強法を行ってきて,浪人の夏に大学別の模試を2つ受けた。
これはその大学を受ける受験生であれば,たいてい受けるという種類の試験だったので,模試とは言え,その時点でのその大学を受ける受験生の中での位置付けを図る重要な試験だった。
「100回受けて100回受かる」という観点から,冬の大学別模試で100位以内に入ることを目標としていた。
当時,志望学部の合格者数が600名程度であることから,少し目標としては高いかと思ったが,これくらいが実現できなければ,安全圏にあるとは言えないので,あえて高めの目標を掲げたつもりだった。
蓋を開けてみると,夏の大学別模試のうち,最初に結果が返ってきた方は,79位だった。
自分で定めた目標をクリアできたので,非常にうれしかったのを記憶している。
想定していたよりも成績がよかったので,浪人生活全体を通して,このときが一番うれしかったように思う。
(それでも,これは単なる模試に過ぎないので,この程度の成績で油断はいけないと自分を戒め,喜ぶ気持ちを押さえつけた。)
しばらく経つと,もう一つの大学別模試の結果が返ってきた。そちらは20位だった。全く想定しておらず,正直自分でもびっくりした。こんなに結果が伴うとは思ってもいなかった。
ただやはり,「まだ受かったわけでもなんでもないので,いくら模試の成績がよかったところで,本番に受かるという目標が達成されたわけではない,油断だけはしてはいけない,もっと取れたはずだ」と自分に言い聞かせるのに必死だった。
その後も大きな方針を維持したまま勉強を続けたところ,冬の大学別模試では13位と14位という結果だった。
受験本番はどうだったのか,順位は発表されないので分からない。
予備校の発表する模範解答に照らして行った自己採点結果は悪くなかったし,結果はもちろん合格だった。
合格を確認したときには,うれしいというよりは,ほっとした。精神状態としては,「受かっているかどうかドキドキする」という状態ではなく,「絶対受かっているはずだが何かの間違いで落ちてないだろうな」という気持ちだったからだ。
方法論は人に合わせて千差万別なので,以上の方法が唯一絶対ではないと思う。
全く同じ人間が一人としていないように,誰にもピッタリと当てはまる万能の方法などというものはない。
それを前提として,自分の浪人生活のうち,成果につながった要素を抽出するとすれば,以下の点ではないだろうか。
まず一つには,本気で結果を出したいと思っていたことだと思う。
何事につけ,物事には障害がつきものである。そのような前提状況の中,何も考えずにただ臨めば,結果が出るかどうかは当たるも八卦当たらぬも八卦のような確率論に終わってしまう。
「本気で結果を出したい」というのを行動に置き換えると,「受験の優先順位を上げ,その他のことはどうでもいいと考える」ということである。本気でそう思えれば,遊びたいとか,のんびり寝ていたいとか,そんなことは気にならなくなる。
それは「誘惑に打ち勝つ」ということとは感覚的には少し違う。誘惑を感じている状態は,まだ本気度が高い状態とはいえないと思う。本当に結果を出したいと思って,その状態に入ったときには,その他のことは本当にどうでもよくなる。
「その他のことはなんでも差し出すから,とにかく希望している物事について結果を出させてくれ」という心持ちになる。そのときは,優先順位が二位以下のものごとは些事である。
そのような状態に入れると,仮に何か障害が生じたとしても,手段を尽くし,工夫を尽くして,結果にたどり着くという状態になる。
時間にしろ,エネルギーにしろ,資源が有限である以上,その中で一つの結果を確実に出そうと思えば,何が何でも結果を出したいという状態に自分を持っていくことが必要になる。
不合格という現実に直面したとき,何度も「嘘でしょ。結果を取り替えてくれないか。」と何度も思った。しかし,一度出た結果は変わらない。これが現実である。
自分の周りの環境は自分でコントロールすることはできないということをまざまざと体感した。
不合格を回避したいという思いを,エネルギーを,合格への執着へと昇華させることはできるはずだ。
二つ目は,以上の状態を前提として,「結果を出す」ということを実現するためにどうすればいいのか必死で考えたことではないかと思う。
先に記述した思考過程を経て,自分なりに結果を出すために必要な条件を考え,それを満たすためにひたすら実行した。
小中高と地方の公立学校で育ってきて,全国規模で自分が試されたことも位置づけをはかったこともなかったため,余力を残すという発想がそもそもなかったということも幸いした。
自分みたいな遅れて必死になった者が全国レベルの受験生を相手に確実に合格するという状態に達するためには,とにかく妥協なく徹底的にやり切る以外にはないと思っていた。
後にも先にもこのときほどストイックになったことはない(なお余談だが,このときにあまりに想像以上に結果が出てしまったため,後になってまた別の試練に立ち向かうことになった際に,「あそこまでやらなくてもいいだろう」と無意識に思ってしまい,無駄に回り道をすることになる。何事も,やるなら最初から本気でやるべきである。)。
当時,浪人時代は灰色一色で,とても精神的につらいものであったが,きわめて得るものの多い時期でもあった。
生活のことは親に完全に甘えられる時期であり,徹底的に勉強のことだけ考えていればよかったという意味では,むしろ幸せな時期であったともいえる。
浪人時代を通じて,物事に本気になるとはどういうことか,結果を出すとはどういうことかなどを身をもって体験することができ,その後の人生にも大きないい影響があった。たまたま運よくラッキーで現役合格してしまっていたら,このように自分を振り絞るような努力をする機会は得られなかったの
連邦vsジオン、連合vsザフトみたいな対立軸がなかったため、大規模戦闘を描写しにくかったのではないだろうか。もちろん00そう言えなくはないが、ソレスタルビーイングには、大規模戦闘を行う力があった。
各キャラが何をしたいのかが最後までわからなかった。主人公であるオルガは「火星の王」になりたかったようだが、火星の王とはなんのことだろうか。あまりに抽象的で、意味不明である。
また、マクギリスが実現したかったことは、ギャラルホル創設時の意思に立ち戻って、ギャラルホルンを改革することと考えられる。しかし、実現したいと思うきっかけが不明である。どのような動機に基づいているのかが説明不足であると感じた。
筆者的にはMA戦以降の展開を、書き直してほしい。
ふと思ったけど
今って「ある日突然ひょんなことから海外に飛ばされた」って話がやりづらいな
・現地の情報を適当にかけない、ネットで簡単に間違いだとバレる
・しかもそういうの突っ込んでくるやつがうざい
・調査が面倒
・言葉の壁
・すぐ帰れる
昔は海外=異世界みたいなもんだったが、今は海外=どこまでも現実でしかない
結果的に、密室の舞台を用意したり、現実とは少し違う世界を用意しなければならなくなる
素晴らしい海外の文化や世界観といったリソースは残念ながら使いづらい
だいたい考証の甘さがバレるし、やり尽くされてるし
そういうのってちょっと昔なら「調べないのは甘え」と断じられていたが
ネット時代に成っていよいよガチ勢じゃなきゃ調べ尽くせないくらいに成ってきた
多分、そういう兵器は飾っても仕方ないので(プラモになるかならないかとかではなくて、設定上は)無国籍なデザインであたりまえという前提があるのではないでしょうか。
歴史上の戦車とか飛行機も、和風とか、ルネサンスとか、バロック調とか、中華風とかなかったのでは?
俺は人のおすすめというものが嫌いだ。
きっかけは俺が通ぶったヒネクレ野郎かつ天の邪鬼かつ逆張り大好きマンな事なんだが、一応"スジ"は通しとく必要があるのでおすすめされりゃ触る。
でも素直に面白いだのすごいだの言えないから、粗探しして重箱の隅をつつくワケだ。そしておすすめしたやつにそれをつらつら述べて「言うほど~~か?」と否定しつつその自信を揺るがす。
でもいつからだろうな、否定が目的に変わったんだ。だって逆張り大好きだもん。そして本当に人のおすすめ全てが面白く感じなくなったんだ。というか何も面白くねーのよこれが。
理由は簡単だ。称賛されたりオススメされるものには粗探しと否定目的で触れるから、楽しむ気持ちも無い。設定考察ではなくガバガバなところを探すために細かく見るんだ。
そして否定行為が楽しいと言われればそれもハテナだ。「言うほど否定が楽しいか?」とかオウム返ししても俺は「楽しくもなんともないがやることはこれしかない」としか返せない。だからパンティーとかウンチとか言っとけ。
というわけでもう一度言う、「お前がおすすめするものは言うほど神か?言うほどすごいか?言うほど可愛いか?言うほど素晴らしいか?言うほどかっこいいか?言うほど面白いか?」、と。
異世界転生して奴隷ハーレム俺TUEEEEEEEEEE!!というなろう小説大好きな俺のお勧めは『キッチンの歴史: 料理道具が変えた人類の食文化』だぜ!!
いや、なろうのコメント欄ってさ。自称学者様が沢山湧くのよ。ジャガイモ警察みたいな輩が。
ジャガイモ警察は知識持ってるからまだマシなほうよ?大半は「騎士キャラの行動にリアリティがない!」とか言って、その理由を聞くと「日本の武士のような絶対的な忠誠心が感じられない」とかいう理由だったりしてもうゲンナリ。
そんな学者様を眺めているうちに「実際のところはどうなんだろう?」と中世西洋の文化を調べてみると、これがなかなか面白い。
特に食文化は調べれば調べるほど、今まで漠然と抱いていたイメージがあらかた否定されていって知識欲の虜になりそうでヤバい。
そして西洋食文化の本を何冊か読んだ中で、一番面白かったのが『キッチンの歴史』。
それになにより、うまいぐあいに知識欲を刺激してくれそうな題材の選び方が楽しい。
近代まで手づかみで食事をしていたのは他の本で知っていたけど、
大きな肉にかじりついて口に入らなかった余分な肉を手持ちのナイフでカットするのが一般的な作法とは知らなかった。
そして中世も終わる頃になってある貴族が「会食の場にナイフ持ち込むの危なくね?」という当たり前のことに気が付き、
テーブルナイフの刃先が徐々に丸くなり、切れ味が鈍くなっていくごとに料理も変化していった。
噛みついてナイフで切らなくても食べられるように、ひとつひとつの料理が一口で食べられる大きさに変わって行った。
食事の仕方が変化した時代の遺骨の頭蓋骨を比べると、噛み合わせが変化しているのだ。
「大きな肉に齧りつく」行為をしなくなった西洋貴族の前歯は、元から小さい食物を箸で食べているアジア人と同じ形に変わっていった……
みたいな感じで!ページをめくるたびに「へー!へー!」ってなもんっスよ!キッチンの歴史ヤバい!!エモい!!!パない!!!!!
※追記
本文中の「ジャガイモ警察」は「ジャガイモは南米原産!中世欧州にはジャガイモは存在しないはず!!!」という薄っぺらい知識で語る人ではなく、
「ジャガイモが存在するならもっと多くの人口が養えるはずだ。人口が増えればあらゆる社会の形態も変わっていくので作中の小規模の都市はリアリティが~」という考察ガチ勢の方々を指しています。
前者には「いやここ中世欧州じゃないし」で一蹴できるけど後者には何らかのつじつまを合わせるか、考察不足を認めるか、ごめんなさいねウチゆるゆる世界観なんですよ~と開き直るしかない。
ケンミンの焼きビーフンがべしょべしょになる問題について、一定の知見が得られたので記載する。
→中華料理レベルの感覚で入れる。そうすると後から入れるビーフンにも油がコーティングされてパラパラになる。
→根菜→玉ねぎ→その他葉物系→豚肉の順で炒める。肉は赤い所がやや残るくらいで具材を端に寄せてビーフン投入。さらに端に寄せた具材を菜箸で後から合流してきたビーフンの上に退避させる。そうすると肉などが硬くならず良い。また、ビーフンのもどり不足もだいたい解消される。どうでもいいけど、豚肉を先に入れる炒め系レシピはよくわからない。肉硬くならないか。
◆水の量はきっちりか少なめ
ゲーム単体として見たら凡ゲーといったところで、グラフィックはしょぼいし、シナリオも平坦、システムは意欲的だが荒削り、でも音楽と世界観とキャラクター造形が良くできていて、総合したら星3つ程度の評価が妥当なところだと思う。実際他人のレビューでも星3か4で色々惜しいと言われていた。
このキャラクターと世界観がどうしようもなく刺さってしまい、ファンアートを描いたり考察を垂れ流していた。ただ、良作ではなく凡ゲーだという認識は十二分に持っていたので、こうだったら良かったのにとガッカリしている気持ちも当然持ち合わせている。それでも好きだと言っていたつもりだった。
発売からまだ1年も経っていないが、このゲームの話をしてる人間がとにかく少ないので本スレを見に行ったら、スレは荒れまくりディレクターへの個人攻撃が繰り広げられていた。ここアンチスレだったか?
挙げられてる作品そのものへの不満点はだいたい共感できるものだったが、俺の理想のゲームにしなかったディレクターはクソでキモい(気持ちはわからなくもないがディレクター以外を棚上げした個人攻撃が酷い)、これを好きだと言ってる信者もキモい、さらには信者ヲチアピールまであって、これ本スレだよな??とげんなりした。
ログを遡っていくとファン叩きで盛り上がっていた時期があり、それが今では垢消ししてしまったフォロワーのことだというのも判明してしまった。内容と時期が完全に一致していたので間違いない。貴重な交流相手が垢消しするという実害が出ている、最悪だ。同時に好きだと発信することが怖くなってしまった。作品への不満は分かるだけに、盲目的な信者と一括りにされるのも嫌だ。信者は嫌いだ。
もっと有名なタイトルであれば、似た者同士寄り集まって騒いでいればいいじゃないかと思えたが、とにかく人口が少ない。今残っているのは未だに粘着してるアンチが大多数で、粗いゲームだったけど好きだというファンなんて全然いなんじゃないかという思考が消えない。でもこのゲームが好きだと思う気持ちは強くあって、絵を描いたり考察をやめたいとは思わない。恥ずかしい話だが、二次創作で物語をかきたいと思うくらいにはこの世界観とキャラが好きらしい。キャラがただ好きだから絵を描くのと、キャラが生きて動いているところが見たいという気持ちは少し違うんだなとこのゲームで初めて感じた。
……やっぱり信者なのだろう。来週公式が募集した企画に参加しようと思っているが、本スレ民の目に触れることは間違いないので叩かれる不安しかない。信者で何が悪いと開き直れる強さが足りない。
数日前に公式で小さな動きがあったのに本スレの書き込みが突然ぱったり止まったので、どうしたのだろうと思ったら葬式スレが活性化していた。本当にアンチしかいないんじゃないかと思った。
前に見たときも嫉妬の魔女はレムではと思ってたので、その時の考察と見返した今の考察を。
基本全部推測なので、”かも”とかが多いです。
色んなパターンの羅列なので、それぞれの考察は矛盾もあります。
とりあえずエミリアだとひねりがなさすぎ。仮にエミリアとしても別人格はだれか。
アニメ完了時点までだと、スバルを深く愛しているのはレムと次点でエミリア。
"愛"の言葉を口にしたのはレムのみ。
Wikipedia情報だと、レムは白鯨戦後に名前と記憶を奪われ抜け殻状態で深い眠り状態らしい。
どこかで名前、記憶、精神が戻る展開はあるだろうけど、ただ戻る展開より、例えば誰か他者の体に定着なんて展開もあるかも。
特にレムの意思が加わるなら、かつ愛が嫉妬にどこかで変わるなら、スバルの1番エミリアがベストな対象になる。
例えば、名前、記憶を取り戻すイベントか何かで、とりあえず、その場にいたエミリアに精神を定着させるしかないとか、エミリアと同居するうちにエミリアへのスバルの気持ちを目の前で見、直に感じて嫉妬へ変わっていくとか。
● タイトルについて
1. Reと":"とレム(Rem)
Windowsのバッチファイルで"REM"はコメントアウトに使われる
":"も2つ続けるとコメントアウト
"RE:"でなんとなく":"2つ分(=REM)と見えなくもない。レムを隠喩してるかも?
2. Reとゼロ
ゼロは無 => Re:ゼロ => Re:無 => レ:ム?
● その他、レム以外の考察
1. コメントアウトだとすると
↓
コメントアウトされた、本筋からは消されたが筋の書き手には記憶に残っている"ゼロから始める異世界生活"、つまりスバルの記憶からは消されたスタート時点より前のゼロ地点がある?
2. Windowsのバッチファイルで":"1つだと、その場所へ移動、セーブポイントみたいな意味がある。
":ゼロ"だとゼロ地点へ移動みたいな意味。Reを再びとすると再びゼロへ移動。
死に戻りそのものとも考えられるけど、ゼロの意味からすると、やはり話のスタート時点がすでに繰り返しなのではと思います。
3. Re, :, ゼロなどの意味合いの組み合わせで他にもいろいろ考えられそう。
例えばREM(コメントアウト)しようとしたがRe:(地点移動の繰り返し)になった"ゼロから始める異世界生活"とか。
[補足]
1. 英単語でサテラに近しいのはsatelliteあたり。衛星の他に従者、お供、〔権力者の〕手下、子分。
近しイメージはやはりエミリアよりレム。隠喩としてならスバルあたりも
2. GLAYの曲に「Satellite of love」という曲がある。
リゼロは小説投稿サイト『小説家になろう』にて2012年4月より連載スタート。
創案、書き始めが1年程度前として、曲が普及、作者が認知、参照するのに1年程度というのは、ちょうどタイミングはいいくらいな気がします。
サテライトからサテラでもいいけど「"サテ"ライトオブ"ラ"ブ」の全体を略してサテラと略せるような気もします。
それっぽい部分を以下抜粋
教えてよ 教えてよ 教えてよ
→ サテラを想起させるような?
大切な夢までも無くしたのね?
→ レムと逃亡Ifを想起させる気がする?
繋いだその指を離さないで…
どうかお願い…
→ 指切りシーンを想起
まとめ
仮説1「キングクリムゾンとエピタフは最初バラバラのスタンドであった」
仮説2「ディアボロはキンクリを、ドッピオはエピタフを持っていた」
仮説3「キング・クリムゾンは最初、一時的に自分が何者からも干渉されなくなる能力しか持っていなかった」
仮説4「エピタフと同化したことでキンクリは未来を見る力と飛ばした時間の中で世界に干渉する能力を身に着けた」
以上の仮説を一切検証すること無く妄想を垂れ流すだけの内容が以下の増田である。
これは間違いないことなんだよ。
なにせディアボロは自分にとって都合が悪くなるとドッピオという少年の人格に全てを押し付けて逃げてしまうんだから。
これが対等な関係でなく主従関係の形を取っているのも、自分自身に対してすら裏切りを恐れて完全に支配下に置こうとしている臆病さの現れなんだ。
「何か都合が悪いことがあったらひとまず姿をくらまして安全な所に引きこもる。キング・クリムゾンの能力の本質はこれなんだ。
銃弾が飛んできたり厄介な奴らが襲ってきたら、咄嗟に自分をこの世界からくらましてしまう臆病な卑怯者の力なんだよ。
困難に立ち向かうためにドッピオが産まれた
逃げてばかりではやがて手詰まりになるということは分かっていた。
しかし彼がヒーローであることを認めれば、ディアボロは自分が臆病な卑怯者であるという事実に向き合う必要がある。
だからドッピオは忠実な下僕であり、絶対的に下等な存在なのだ。
そんな彼が身につけた能力が「未来を直視した上でそれを乗り越える力」、エピタフだ。
エピタフは未来を見ることが出来る力であるが、そのビジョンにはときにドッピオやディアボロにとっては受け入れがたいような現実さえ映る。
そして何もしなければその未来はそのままの形でドッピオ達を襲う。
その未来を変えるには自分自身が世界に干渉していかなければいけない。逃げていてはしょうがない。
逃げてしまうのがディアボロの本能ならば、ドッピオはその影となる理性の存在。
キング・クリムゾンがディアボロの本能のビジョンならば、エピタフはディアボロの理性のビジョンなのだ。
逃げたいという本能と、立ち向かうという理性。
その2つはやがてひとつとなり「未来を見通した上で、ときに立ち向かい、ときに回避する」という力を持ったスタンドとなって現れる。
ディアボロはこの力を自分のものとして独占し、かつてはドッピオの物であったエピタフをさもディアボロが貸し与えたかのように所有権を主張する。
キンクリが持つ2つの側面
ジョジョフリークの間でしばし話題に上がるものに「キング・クリムゾンは果たして飛ばした時間に干渉しているのか」というものがある。
これについて私が建てた仮説が「キンクリはときに干渉するし、ときに干渉しない」である。
私はこれが言いたいがためにここまでダラダラと精神論を書き連ねたと言っていい。
飛ばした時間の中に干渉するとき、キング・クリムゾンは過酷な未来に向かって立ち向かう理性によって動き、
飛ばした時間の中に干渉しないとき、キング・クリムゾンは過酷な現実を避けようとする本能によって動くのだ。
逃げ出そうとする本能的な衝動を理性によって縫い固めたものこそが、キング・クリムゾンの繰り出す攻撃なのである。
度し難いほどに臆病で凶暴な生存本能と、それによって生まれた臆病で凶暴な理性、その2つが混じり合った姿こそ、2つの顔を持つ悪魔のスタンドなのである。
おわり