はてなキーワード: 電球とは
この投稿が事実であるか創作であるかを判断するのは困難です。しかし、物語の内容や展開、そして心理描写にはフィクションに特有の要素が多く含まれているように見受けられます。
1. **極端なエピソードの連続**:三者面談での発言や運転中の妄想、そして「狐が電球にいる」といった現実離れした描写がいくつかあり、読者の注意を引くためのフィクショナルな表現にも感じられます。
2. **精神疾患の描写**:統合失調症などの精神疾患に似た妄想が表現されていますが、詳細な心理描写が綿密に描かれているため、創作として構築された可能性が高いです。このような内容はリアルな体験談でも描かれますが、一定の脚色や構成が施されている印象を受けます。
3. **文体**:一人称の感情的な語り口や時系列の回想構成は、文学的・フィクショナルな作品でよく見られます。
これらの理由から、この投稿を**70-80%の確率で創作**と判断します。ただし、創作である場合も実際の体験がインスピレーション源となっている可能性もあります。
私の母は狂人だった。私が母に母らしい親しみを最後に感じたのはいつだったか。
この人が母親であることが嫌だなと思ったのは、中学校の三者面談の時に、
私が担任に褒められるとみるや否や、
「うちの子は親の敷いたレールの上をただ走ってるだけですから」
と言い放った日のことだ。
きっとその前からおかしかったのだろうが、中学くらいからはっきり「この人はおかしい人だ」と思うようになった。
私が「学校の先生には電話しないで。家で文句言ってるだけだから」と言っても、
「母は私の言ったちょっとしたことをわざわざ学校に電話をするところがあるから、
もし母が電話をかけてきたら話だけ聞いて、あとは無視して、私に電話があったことを教えてください」
とお願いをした。
その年は3回、担任から「カーチャンから電話があったぞ」と言われた。
大学で一人暮らしを始めようというときに、私は新居に向かう道に迷ってしまった。
母に「マンションって駅出てどっちの方向に向かって歩けばつくんだっけ?」と電話したら
「はぁ?あんた何意味の分からないことを言ってるの?」と言われた。
「ごめん、分かんなくなっちゃって。私方向音痴だし」と応じたが、
「何言ってるの?意味の分からないことを言わないで」とよく分からない回答。
その後何度状況を説明しても、
「意味が分からないわよ」「道が分からないって何」「どういう意味なの」
と全く会話にならない。
家には無事たどり着いたが、その後、「道は分かったの?」と聞かれて、ますます怖くなった。
「なんであんな訳の分からない対応したの?」と聞いても、「別に」としか言わなかった。
だが、その土地は父にも母にも、合っていないようだった。
「私の通ってるジムのインストラクターさんがね、私のことを好きになっちゃったみたいで困ってるの」
「20代の子なんだけどね、ほら、私って楽しそうに何でもするでしょう。
だから、それがすごく良かったみたいなの」
だから私に嫉妬して、いろんな人を使ってあとを付け回すようになったのよ」
「ほら、この後ろの車もそう。」
母は著しく車の速度を落として、バックミラーを睨みつけた。
私には、時速50kmは出すような道で、時速20kmで走られて困ってる老夫婦がいるようにしか思えなかった。
私は「ねぇ、そんな遅く走るの逆に危ないよ。事故に遭うからやめなよ」と言ったが、
「何言ってんの、あいつらは私に嫌がらせをしてるのよ!」と言って聞かなかった。
「いや、他の車の迷惑だからやめなって」と言うと、母はしぶしぶ普通の速度で運転をし始めた。
「あの人たちがその婚約者の人の仲間だなんて証拠あるの?」と聞いても、
「私には分かるのよ」としか答えてくれない。
家に帰ってもその話は続く。
「その婚約者はね、嫉妬から呪いをかけてね、電球の中に狐を送り込んできたの。
見てごらんなさい、狐がいるでしょう」
どれどれ、と家の電球をのぞき込んだが、私には狐を見つけることはできなかった。
暗くなって、部屋の中に車のライトが入ってくると、「きゃあ!」と母が叫んだ。
「狐、狐よ!ほら、狐の目を光らせているのよ!」
「車のライトだよ」と言っても、狐だと言って聞かない。
「こうやってね、光を部屋の中に入れて、私のことを焼いてくるのよ』
「ほら、みて、これが光で焼けたあとよ!」
そう言って、どう考えても腕に出来た老化によるシミを見せられた。
たまりかねた父が「そんな光線なんて送れるわけがないだろう!そんな装置は何億とお金がかかるんだ!」と怒った。
母は負けじと「そうよ、その婚約者はお金持ちだから、何億でも使って私に嫌がらせをするのよ!」と言い返した。
「お金を積んだってなかなか手に入らないだろそんなもの。あなたの肌だけを焼く装置なんてありえない。
そんなものはNASAとかそういうところでしか作られないんだ!」
どうして父がアメリカの航空宇宙局の名前を出したのか、あまりに脈絡がなくて不思議に思った。
父は父なりに、母にも分かる「なんだかすごいところ」の名前を出して、説得しようと必死だったのだろう。
父の努力もむなしく、母は「私はNASAに狙われるほどの特別な人物だ」と豪語していた。
私は一人暮らしの家に帰るときに、父に「病院に連れてった方がいいよ」と伝えた。
数カ月くらいで、母は変なことは言わなくなった。
あれから何年たっただろうか。
「向かいの家の大学生の男の子に、一日中ずっと部屋を覗かれてるみたい」
もし忘れていられるとすれば、私は母のことを忘れていたいと思っている。
遠くに住んで、たまにおしゃべりするだけの存在だったらどんなに楽かと思う。
でもどうやらそれは難しいようだ。
そうすると電球が切れるはずや
部屋に入ると3つの電球のうち一つが点灯してるからこれはスイッチをオンにしたやつやってわかるやで
残り2つのうちフィラメントが切れてる電球があるからこいつはオンオフ繰り返したスイッチに繋がってるのがわかる
どや
蛍光灯の生産を2027年9月末までに終了 一体型LEDべースライト「iDシリーズ」をモデルチェンジ CO2実質ゼロを実現した新潟工場で生産能力を拡大 | 事業戦略・方針発表 | 企業・経営 | プレスリリース | Panasonic Newsroom Japan : パナソニック ニュースルーム ジャパン
https://news.panasonic.com/jp/press/jn241001-2
品種 | 生産終了時期 |
---|---|
直管蛍光ランプ(三波長形)丸形蛍光ランプ、点灯管 | 2027年9月末 |
ツイン蛍光ランプ(コンパクト形蛍光ランプ) | 2026年9月末 |
※2 特殊用途蛍光ランプ、電球も2027年9月末までに生産を終了します。なお、直管蛍光ランプ(一般色形)については、2025年6月末の生産終了をすでに決定、発信しています。また、上記生産終了期日より早く終了する品番もございます。
オワタ。
一部に集中してるからそれ以外の人に金が十分に配分されてなくて、そもそも雇用したり施設を維持したりするための金それ自体も足りなくなりつつある
今は金がないって言うと選択と集中の金ばっかり増えるんだけど、それをすると選択と集中の問題が加速するだけなので選択と集中以外の金がないのが一番の問題なんだよね
例えば高校の部活みたいなので遠征に"だけ"使える費用が何百万円とか降りてくるのに、そのお金は用途が旅費や一部の活動のみに限定されていて顧問を雇う金とか学校の電球を変えたりグラウンドを整備する金がほとんどゼロになってる感じ
でお金を要求したらまた遠征にだけ使える金が降ってきて、そっちは(一部の集中してる人は)使い切れないし、(それ以外の人は)金がなくて困ってるし、
実家がずっと汚い。
お父さんが鬱で働けなくなり、小学校4年生の時に母が働き始めてから実家がずっと汚い。
床にはものが溢れ、机もものの置き場はなく、机は常に食べ物のカスや液体のせいでベタベタしていた。
お父さんはずっと働いていない。
父は常に不機嫌なイメージだ。
父が働いていた時は父が帰ってくるときは、母に「お父さんが帰ってくるから静かにしなさい」と言われ、兄と見ていたテレビを消された。
普通の音量で話していても静かにしなさい、と言われたので、さらに声のトーンを落として兄とコソコソ喋っていたのを小さい頃の記憶で覚えている。
父が働けなくなってから父と母は夜な夜な怒鳴り合いの大喧嘩を毎日していた。
リビングで大喧嘩をするものだから、リビングで寝ていた私は寝れず、風呂場で寝ようとしたのを覚えている。
(それを兄が見て、親に言ったことで親はさすがに別部屋に移動し、その日私はリビングで寝ることができた)
兄は1人部屋があったので、ずっと部屋にこもって我関せずと言ったふうだった。
私も1人部屋がある予定だった。
家具もベットも私用にものすごく可愛いものを揃えてもらったのだが、父が「お父さん、布団じゃなくてベットで寝たいから〇〇ちゃん(私)のベットで寝てもいい?」ときかれ、その時小学生でまだ父のことが好きだった私は、いいよと答えてしまった。
そうして一度も私のために用意された可愛い白い机もピンクの小さいソファを使わないまま、私は大人になった。
小学生の時に回る椅子に雑誌を積み上げて、そこに乗ってリビングの電球を変えたりしていた。
背の高い父も兄も頼み事をすると不機嫌になったり、文句を言ったりするので、あまり頼めなかった。
母はいつも疲れていた。
でもすぐ汚された。1週間で戻った。
今思えば部屋を片すには捨てるという工程がいるのだが、親のものは捨てていいものがわからず、そして永遠に各自のものが増え続けるので、片付かないのは当たり前だった。
この間実家に帰った時にすごく汚いボールペンがあって、捨てようとしたら止められた。
止められた時は「!!???」となった。親はもう人生でボールペンを買わないことに決めているらしく、家からボールペンを減らしたくないらしい。
怖い。
母もそこそこの収入があったし、数年前に母方の祖父の遺産が入り、最近は裕福な暮らししている。
そして母もきつい仕事を辞め、今はパートだけしている状況で、ここ最近は夫婦2人で海外旅行に行きまくっている。
私は実家を出て2年ほどになり、実家の自分のものはほとんど処分した。
結婚もしていて、年齢もあるのでそろそろ子供を・・・とも考えているが、そうなると私が実家を片せるタイミングは子供がいない今だけだなと感じる。
あと自分のエゴになるけれど、実家を出て、片付いている家の快適さとか、実家の異常性とかを再確認して、苦労してきた母にも快適な暮らしをしてほしい気もちと、実家が綺麗になればなんだか自分のトラウマごとも全て綺麗になる気がしている。
この間に実家に帰ったときに、業者などを使っても実家をちゃんと片付けようと提案したのだが父も母も重い腰が上がらないのか、あまり乗り気ではなく、私の好きにすれば・・・と言った感じでただただ辛かった。
今思うと小学生の時からあの家を片付けたいと思っているのは私だけで、家族の中だと私だけ少数派で私だけ異常者みたいになってしまう。
正直、家族が片付ける気がないと、私だけの力で片付けるのに限界を感じているし、精神的にきつい。
私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である。
なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。
私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである。
精神科に通いつつ、投薬とカウンセリングの治療をおこなっている。
そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳の記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。
(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなたの言葉はあなたの感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)
正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。
早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。
当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法が流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。
楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合は母親もほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。
行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日の練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。
でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまうタイプの人間だった。
父親も叔母もスポーツで学生時代に成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。
それが母親の成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。
長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。
ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。
こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。
極め付けはようやく出来始めた友人関係を破壊されたことだった。
中学に上がると、小学生の選手育成クラスから中学生クラスに上がって、ここがジュニアの女子の選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子のさらにその上澄みだけが入る、一番練習がハードなクラスがあった。
いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイトと連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。
(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲームの一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)
けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。
私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスでちゃんと私の記録は伸びていた。
だけど母はその伸びでは満足できなかった。
母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。
私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。
そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。
私はかなり嫌がった。もともとジュニアの女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。
母は私に、「あんな肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたはダメになってしまう」と言った。
嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスのコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。
中学1年の女子が高校生の男子のクラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。
私が苦しんだので、母の不安は解消された。
実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。
注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたことである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナスの感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。
「あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから。
この頃から、試合や合宿で遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。
体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。
しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息を悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。
だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻き、ブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。
ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分の学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてからは予備校漬けになった。
受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業は自分の特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。
大学には簡単に合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。
とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。
ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分の偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。
ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。
1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。
とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。
学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリのラインだった。
振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。
このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショックや東日本大震災の影響があった時期で、特に女子の就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。
でも、留年したのに就活が全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親がマイナビリクナビでエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。
面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。
このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからたしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトはしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論は英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。
結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶はぼんやりしている。
ひとり暮らしの家を引き払い、実家にカンヅメになって母親の監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。
ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存で病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。
この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。
働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的に闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。
本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。
この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分の価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分の価値がボロボロと溢れ落ち、人生がダメになっていくことについて、母親への不健全な復讐の欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。
この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場を経験した。就職先は人売りのSESだった。
これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場が自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。
リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤の生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。
自社開発の案件にアサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事も客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手が全然わからず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴とスポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミットが全然出ないの?
年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。
社長から「新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。
これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始の休みを挟んだ後、ボツボツと休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。
心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解とワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。
この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が Permalink | 記事への反応(21) | 22:15
アドラーの本を途中まで読んだ.
これによると,精神疾患など生きるのに役立たない道に陥るものには,幼少期から共通感覚(コモンセンス)を獲得できていないという特徴があるらしい.
そして共通感覚を獲得できなかった子供いじめられたり問題行動を起こしたりする.
この共通感覚は家庭において保護者から学ぶらしい.つまり保護者が共通感覚を有していなければその子供も共通感覚を獲得することが困難で,大人になってから苦しむのだ.
なぜこの世界では誰でも子供を持つことが許されるのだろうか.ペットですらちゃんと育てられないなら飼うなと批判されるのに.
あるいはせめて,誰でも子供を作る自由があるのなら,どんな子供も自分で死んでいい自由を認めるべきではないか.
この物語では,子供は生まれたらすぐに親から引き離されて専門の施設で集団的に育てられるというユートピアが描かれている.
作中ではこのユートピアを明示的には否定も肯定もしていないが,画一的に育てられた子供は個性がなく皆同じような表情をするという描写が描かれている.
「個性なくしたら死んでるのと一緒だよ」
共通感覚を有しない"悪い個性"を持つことは決して本人のためにはならない.
個性を持つことが良いとされるのは,個々の親が独立して子供を育てる現在社会におけるナッシュ均衡にすぎないのではないか.
消滅世界のシステムのように全員が同じ教育を受け,共通感覚を有していることこそがパレート最適なのではないだろうか.
あるいは,個性,個体差は環境が変化した際に種全体が生き延びるのに有利だと説明される.
だが,これは明らかにほとんどの平均から外れた個性を持つ個体にとっては酷な話だ.当然ながら平均から外れた個体の殆どは環境に適応できず苦しむからだ.
上のような理論を唱える者は,「お前らのような珍獣が居た方が俺/私の遺伝子が残る可能性が高まるから生きろ.そして苦しめ」と言っているのに他ならない.
現代社会は第二次世界大戦前の全体主義を反省し,個人の幸福を最大化しようとしたのではなかったか.所詮それは,正規分布の真ん中あたりにいるマジョリティの自己満足に過ぎなかったのか.
そもそも,人類が環境変化を生き抜くのに,遺伝子の多様性は必要なのだろうか.
多数のサイコロをばらまいて確率論的に変化に打ち勝とうとするその他大勢の生き物とは違って,人類は理性を持って変化を予測し,技術で環境を変えて乗り越えることができるのではないだろうか.
だが,ときに個性は天才を生み出し,その天才が技術を飛躍的に進歩させる.
こういった天才を生むために正規分布の端のほうの人間も,その殆どは苦しむ運命にあるとはいえ,大人になるまで生きていなければいけないのかもしれない.これによって,苦しむ未来の天才に生きる希望を与えることができるから.
本当にそうだろうか.電球の発明のように一人の天才の発想が大きな一歩を生み出した時代とは違って,現代の科学の進歩は過去の技術を積み重ねて積み重ねて演繹的に導き出された進歩ではないか.
いや,そうでもないか.私も理系の大学院で研究の真似事をしたことがある.今でも科学の最先端では天才の発想が不可欠だ.そしてそういう人は共通感覚を有していない人が多い.少なくともそう見える.
つまり,現代においても正規分布の端にいる,共通感覚を有しない,遺伝子的耐用性を持った人間を生きさせることは必要なのかもしれない.
私は天才ではない.だが,共通感覚を獲得することができず,苦しんでいる.正規分布の中央に行けなかった人間の中の,一握りの天才を除くその他多数の中のひとりだ.
私の意識は死ぬことがのみが正解だと確信している.だが,私の無意識が生きることを声高に主張している.そのせいで私はまだ生きていてこの文章を書いている.
理性で動く私は,なんとかして自分が死ぬことが論理的に正しいのだと結論付けたい.だが,今日も失敗した.
誰か私を助けてくれ.お前はもう開放されて良いのだと背中を押してほしい.
コンビニのレジで「あ」と口に出しそうになって止める。まただ。買った覚えのない飲み物がレジ打ちされている。
買おうとしていた緑茶の横にあったのだろう、よく知らない健康によさそうで美味しくなさそうな飲料を、間違えて持ってきてしまったのだ。
もちろんそんなことを店員さんに言い出せるはずもなく、さも当然のように買ったものを受け取って、会計を済ませる。言い慣れた「アリガトウゴザイマス」は崩し過ぎのネイティブの発音よりよほど聞き取りやすい。緑茶よりも5割増しほどの値段だったその飲料は、不自然に苦かった。
この苦味と求めていた味の差が、つまりは私と世界のズレの距離なのだろう。物理的に冷蔵棚の隣に配置されていたのだろうから、ペットボトル一本分がそのズレと言えるのかもしれない。いずれにせよ、最近は世界とピントが合わないことが増えてきた。
物を間違えて手に取る、通り抜けられると思った隙間で身体を強かぶつける、単に平地で躓く。視覚のズレだけではない。電車で聴こえる他人の話し声はもはや何の言語かわからない。日本語だったとしても外国語のように響く。
体感としては、自分という電球と世界というソケットの接続が悪くなったような、そんな表現がしっくりくる。もともと噛み合っていなかったものが、どんどんその齟齬を大きくしていっているような。
どん、と後ろから通行人にぶつかられ、地面に膝と左手を強く打ち付ける。美味しくない飲料は全てこぼれ、アスファルトに小さな離島の絵を描く。私を倒した男はそのことに全く気づかなかったように前方に去っていく。自信に満ちた背中で。
あるいは私は、この世界から拒絶されて、消え去ろうとしているのかもしれない。それは、世界を拒絶し続けてきた私には相応しい末路のような気もするのだ。
俺が実際に感じるような違和感というのは、初期不良を訴えたら面倒なやりとりをせずともすぐもう一個送ってくれるだとか、
付属品はゴミ品質で細かい気配りは効いてないが肝心の本体は競合同価格帯より一回り上の音質とビルドクオリティで、そういう思想なんだなとか
箱はベコベコでよく見るとプラの電球カバーだが一見質感高く見えてすぐ壊れる1000円のオーヤマセンサー電球と違って180円のセンサー電球なのに感度も耐久性もいいなとか
日本製品と違って万人向けの体裁や機能に気を使わない、コストを割かない分のメリットを長所に集約させてるピーキーさ由来の違和感がほとんどだ