はてなキーワード: 月並みとは
仕事量の多さが指摘されてるけど、まずは以下の状態になってないか確認した方が良い。
1. 適切な優先順位で処理できていない
2. 目の前の仕事に集中できていない
1, 2が当てはまるなら、「あれもやらなきゃ!これもやらなきゃ!」と頭の中が整理できていない(=今やっていないタスクに脳のメモリを使ってしまっている)ことが原因なんだろうと思う。
「適切な優先順位で」「目の前のことに集中できる」状態を作るには、なんとまあ、とても月並みだけどタスク管理が超重要。
タスク管理の仕方は流儀はあるんだろうけど、自分は優先順位をつけやすく、頭の整理をしやすくするために当日期限のタスクを洗い出し、1画面に収まるように見える化してる。短いスパンの、小さいタスクに分けると優先順位がつけやすくなるのでオススメ。
こうすることである程度適切な優先順位でタスク処理できるし、頭の中が整理され優先順位が明確になったことで目の前のことに集中できる。
ということで今すぐにでも積まれた仕事に手をつけたくなってしまうけど、一呼吸おいて多少時間を割いてでもタスク管理をきちんとやるようにすると良い。
これを当たり前にやっていて、それでも処理追い付かなくて無理!というなら、やっぱり仕事量が多いことが原因なので他の指摘通りに。
月並みな理由だが、ウサイン・ボルトの走りを観たときにそのダイナミックさに惹かれた為だった。
毎年数人世界大会出場者を輩出する中高一貫校に通っていたし、上位の成績だったため、
オリンピックとはいえ不可能ではないだろうと思い上がっていた。
挫折を知ったのは中3の時だった。
100mで、みんながサクサクと10秒台を出していくなか、私は出すことができなかった。
何度走り方を説明されても今ひとつ飲み込めず、体得するのに時間を要した。
高1になって100mの周りのレベルは高くなり、負けじとトレーニングの大半を100mのために占めるようになった。
高3の短距離専門の女性の先輩はとてもフレンドリーで、何度も説明を求める私に優しく砕けた口調で教えてくださった。
その先輩と、割いた時間のお陰で中3の時に比べて走力は安定していたが、周りに比べると瞬発力やセンスが足りていないのは明らかだった。
そして、陸上競技場利用のためにも地元のクラブチームに通うことを選んだ。その先輩に誘われたことも大きい。
クラブチームでは、学校の「そこそこ運動神経がよい」は全く通用しなかった。
私よりも足が速い人なんてごまんといた。同級生に。県内に。こんなに近くに。
私はまさに井の中の蛙だった。
クラブに行ったことで、漸く100mを諦める決心がついたのだった。
偶然見つけた武井壮に興味を惹かれたこと、得意だった走幅跳・やり投げをのばしたいというのもあったが、競技人口が少ないことから全国にいける可能性があることが重要だった。
だからと言って県予選敗退になったとき、大学でも続ける覚悟もなかった。
先輩が大学にいったら陸上を続けないと言っていたことが主な理由だった。
短距離専門の三年生の先輩に提出した練習ノートが返却され、余白にいろいろなメッセージが書いてあった。
競技人口少ないからと言って楽な訳じゃないとか、今回の練習後もアイシングしてなかったよとかお小言めいた言葉もあったけれど、どこか温かいものだった。
結びに、「100m楽しかったね、大好きだったね。1年間ありがとう」と書いてあった。
それを見て涙が止まらなかった。
私は100mが好きだった。
大好きだったのだ。
何度もなんども苦しめられて、意味がわからなくて苛立って泣いた日もあったけど、100mが好きだった。
だけど、どんなに好きでも圧倒的なセンスを持つ天才には敵わなかったし、
かなり時間をかけて取り組んだ100mが予選落ちだったのに、殆ど練習をしていない混成競技で入賞したりするのだ。
敵わないし、足りないのだと気づいてしまった。
「混成っていろいろできていいな」「俺も100mから逃げたい」
と冗談交じりに友人に言われるたびに、泣き出したい気持ちでいっぱいになる。
きっと後悔していないのかと聞かれると嘘になる。
でも自分の選択が間違っているとは思わない。私は100mが好きだったのじゃない。その先輩が好きだったのだ。
なにはともあれ、もう私は前に進むしかない。
ここからドラマティックに先輩にプロポーズすることもできないし、
独学で100mをやることも私はしないだろう。
私は、先輩が大好きで大嫌いだった100mをようやく捨てられる。
月並みな理由だが、オープンキャンパスに行った時にその学風に惹かれた為だった。
毎年数人京大合格者を輩出する中高一貫校に通っていたし、上位の成績だったため、
挫折を知ったのは中3の時だった。
数学の授業(確か三角関数だったように思う)で、みんながスラスラと解いてみせる問題を、私は解くことができなかった。
何度説明されても今ひとつ飲み込めず、理解するのに時間を要した。
テスト勉強に於いて初めての失敗だった。その時のテストはいつもより20点近く低かった。
高1になって数学は数ⅡBに入って難しくなり、勉強時間の7,8割近くを数学が占めるようになった。
高1の数学の先生はとてもフレンドリーで、何度も説明を求める私に優しく砕けた口調で教えてくださった。
その先生と、割いた時間のお陰で中3の時に比べて成績は安定していたが、周りに比べると瞬発的な理解力やセンスが足りていないのは明らかだった。
そして、得意な英語や国語の勉強に割く時間が減ってしまったために成績が落ち、自習室利用のためにも塾に通うことを選んだ。
私よりも頭がいい人なんてごまんといた。同級生に。県内に。こんなに近くに。
私はまさに井の中の蛙だった。
結局、塾の数学のテストの成績ランキングに私の名前が載ることは1度もなかった。
偶然見つけた某私大の学部に興味を惹かれたこと、得意だった英語・国語を深く学びたいからだというのもあったが、
京都大学以外の国公立大学に全くと言っていいほど興味が持てなかった。
私たちの次年度から大学の入試制度改革が行われること、私の性格的に浪人が向いていないことが主な理由だった。
国公立至上主義の我が校では国公立を選択した者だけ進路選択と同時に志望校の提出・面談を行うことが課せられていた。
数学の先生に提出した課題ノートが返却され、余白にいろいろなメッセージが書いてあった。
3教科受験だからと言って楽な訳じゃないとか、今回のテストもケアレスミスしてたよとかお小言めいた言葉もあったけれど、どこか温かいものだった。
結びに、「数学楽しかったね、大好きだったね。1年間ありがとう」と書いてあった。
それを見て涙が止まらなかった。
私は数学が好きだった。
大好きだったのだ。
何度もなんども苦しめられて、意味がわからなくて苛立って泣いた日もあったけど、数学が好きだった。
だけど、どんなに好きでも圧倒的なセンスを持つ天才には敵わなかったし、
かなり時間をかけて取り組んだ模試の数学の偏差値が、殆ど対策をしていない英語の偏差値を超えることもなかった。
敵わないし、足りないのだと気づいてしまった。
と冗談交じりに友人に言われるたびに、泣き出したい気持ちでいっぱいになる。
後悔していないと断言すると嘘になる。
なにはともあれ、もう私は前に進むしかない。
2/11、ももクロバレイベのライブビューイングに行ってきた。
現地のチケットはもともと行けるかが曖昧で取っていなかったので、
初の4人体制でのライブは映画館で観ることとなった。(2/10は仕事で不参加。)
私はZになる少し前からももクロが好きで、ずっと有安杏果さんを推していた。
まぁとにかくこれを書いている時点で卒業発表からまだ1ヶ月が経っていなく、
何もかもがすごいスピードで決まり、終わり、過去のことになっていくのに今もついていけずにいる。
有安さんは何度か喉の不調やインフルエンザでステージを欠席することがあったので、
4人のこともずっと大好きだったし、今はまず満員の東京ドームを見せてあげたい。
推しが誰になるかは分からないけど、私はずっとモノノフでいるのだろう。
そう呑気に思っていた。バレイベに行くまでは。
1/21の幕張で、これが最後の自己紹介だぞと喉を潰す覚悟でありやーす!と叫んだのに、
本当にもう二度と有安さんに向かってありやーす!と叫ぶことはできないんだ。
時々涙を流しながらも、だてありではあーりんMIXを打ったし、
でも有安さんのフェイクがない怪盗、からの走れで、もうどうにも涙が止まらなく、
初めてももクロのライブで最後のZポーズをすることなく会場を後にしてしまった。
私は走れの「待っていても始まんない」からのパート(Cメロ?)を5人で順々歌っていくのが好きで
その日有安さんのパートが他のメンバーに替わっていった悲しさがそこで爆発した。
スクリーンを出て、劇場が入っているショッピングモールのベンチで息を整えながら思った。
私は多くのモノノフと同様、推し以外のメンバーへのコールもサボることはしていなかった。
どの子のソロパートにもその瞬間はその子だけを見てペンライトを振り名前を叫んでいた。
それでも有安さんに対するそれは毎回熱量が違った。
意識してそうしているのではなく自然とそうなる、だから杏果推しを自称していた。
(当たり前にみんなそうだと思うけど敢えて文字にしたことがなかったので特別なことのように書いてしまった)
それがライブ中の自分の中の緩急であったと思う。その「急」の行き場がなくなってしまった。
どこに力をぶつければいいのか分からない。1曲1曲がふわっと終わっていく。
いつからか備わった「この曲の有安さんの良かったところ」をピックアップするオート機能がエラーを起こしている。
有安さんの名前を叫ぶ、有安さんの表情や歌い方を噛みしめつつ記憶に残す、
そういったことを息をするようにしていたので、
今まで4人のソロパートも楽しかったじゃない?コールしてたじゃない?
もしかしてもう少しで有安さんのソロパートが来るからという期待がそうさせていたのかもしれない。
考えたこともなかったけど。
周りに迷惑にならなさそうな時はサビ以外や間奏も踊っていた。
それはすべて有安さんのフリだった。
有安さんが腕を上げるタイミングで私も腕を上げていた。
いつも有安さんと同じ動きをしていた。
ライブ中、メンバーが動いていないタイミングでペンライトを掲げてしまった。
どう動けばいいのかまったく分からない。
現場を重ねて慣れていけばいい、と考えるべきなのかもしれないが、
正直、まったく、楽しくなかった。
目で追いたい子がいない。動きを合わせたい子がいない。
ファンクラブサイトのトップページのように私は自然に箱推しになったのだと思っていた。
それは違った。
何年も命を削って応援してきた子が辞めてじゃあ今日から箱推しですとなれる切り替えの良さは私にはなかった。
4人のことも好きなんじゃなかったの?
何度も自分に訊いた。
れにちゃんは相変わらず聖母のような笑顔だった。レスの範疇を超えたレスに感心した。
夏菜子ちゃんは髪型は大人っぽいのにつるつるのおでこがあまりに可愛くて笑ってしまった。
しおりちゃんの自然な演技がとっても素敵で大好き。ドロシー、応援してる。
怪盗の「ささき あやか」の時の少し照れくさそうなあーりんの笑顔、守りたいって思った。
強気でありつつも、「4人のももクロも少しずつ慣れてね」と優しく提示してくれたいいイベントだったと思う。
それを受け入れられない私に問題がある。
誰もがすぐ新体制のライブを受け入れられる訳じゃないよ!という意見は当然あると思う。
でも新体制に慣れるまで、箱推しもしくは誰か推しの振る舞いが身につくまで、
何度もこの辛さや虚無感を味わう余裕はない。
月並みな言い方だが日々の辛いことを忘れられるのがももクロという存在であり、
現場でまで辛い思いをする余裕はもう本当にない。
タイミングが悪く今現在私生活がかなり辛い。有安さんのことを考えるともっと辛い。現場に行っても辛い。
じゃあ明日から他界します!と宣言する勇気もないが今は楽しみだった東京ドームに申し込もうという気もなくなってしまった。
有安さんを責めたいというような気持ちはない。
大好きだったオレンジノートのフリが変わってしまったことも強く否定しない。めちゃくちゃ悲しいけど。
前しか向いてないももクロを、後ろ向きな気持ちのまま応援するのは失礼なので、ももクロから離れたいと思う。
これはキレイごとバージョンで、雑に言うと自分が辛いのは嫌なので、ももクロから離れます。
こんなブログなんて書いたことがないので特にまとめずに書き始めた私情たっぷりの「日記」の名にふさわしい独り言だけど
読んで嫌な気分になったモノノフさんがいたらごめんなさい。
自分も最近スマホ落として幸い拾ってもらった事があったので、読んでて胸がキュッとなったよ…
あなたは何も悪くないよ
失っちゃったものばかり考えるより、また旦那さんからプレゼントしてもらおうよ。
(または一緒に選んだり)
お子さんが産まれたらもしかしたら、昔使ってたのよりもっといい物が見つかって
子供と選んで買った思い出の品が増えたり、子供からプレゼント貰ったりするかもしれない
綺麗事かもしれないけど最近自分も色々失ったから、ちょっと自分にも言い聞かせてる所もある
お金が落ちてたからネコババするなら、まだ人間的に分からなくもないけど
(自分も小学生の時、財布の入ったポーチ落としてたった3000円だけど、小学生には大金だし、お気に入りだったしですごい凹んだことある)
警察の態度もひどい
一番は戻ってくる事を祈ってるけど
自己紹介をさせてほしい。
25歳で女ということを鑑みても、東京では低賃金労働者の部類だ。
では暮らしぶりはどうかというと、さほど困窮しているわけでもない。友人とルームシェアをしているので住む場所はある。三度きっちりと食事をとる。週末は友人と飲みに行くこともできる。それこそブランド物の服やバックは一つも持っていないが、着るものは一応ある。
その通りだと思う。現に私は生きているのだから。
だが月並みな言葉だが、何かが足りない。衣食足りて礼節を知るとはいうが、本当にそうなのだろうか。
倫理道徳以前に、今の私は他人のために割くメモリがない。なずむような現実をただ過ごしていくのでいっぱいいっぱいだ。
「憂いも辛いも食うての上」とはよく言ったもので、しかしこれが最も心を腐らせる。
下手に生きているから苦しいのだ。「まだ最悪ではない」「食っていけないわけではない」「赤貧ではない」「仕事にやりがいがないわけではない」という「ではない」意識を積み上げているうちに、「生きている」から「死んではない」という状態に爛れるのだ。
消去法的に自分を定義していくうちに、今後どうありたいかを考えなくなった。
多分もう、何にもなりたくないのだと思う。
「むしろ今まで(タバコが)普及していたのが不思議なくらいでしたね」
「すっぱり禁止にするというのは思い切りが良すぎるとも思いますが、現状を踏まえるとそれ位しても良いのかも」
予想以上に『禁煙法』に賛成する人々は多かった。
これが個人にとってどうでもいい対象ならば、肯定する側も否定する側もたくさんいただろう。
だが大半の人々にとってタバコは肯定する理由はなくても、否定する理由はたくさんあった。
「もっとネットとかでネタにされるレベルのこと言って欲しいですよね」
「ま、あのあたりの街のヤカラにインタビューしたら、月並みな意見しか出てこないわな」
この流れにマスターたちは落胆するかと思いきや、意外にも冷静だった。
「みんな、タバコが吸えなくてツラくないんですか?」
「ちょっと口寂しくはあるが、オレたちは依存症になるほど吸ってないからな」
「他の喫煙家たちも、ほとんどは耐えられるレベルだと思うよ。毎日たくさん吸うか、よほど重いタバコを常用しているとかでもない限り」
「なるほど、だから冷静なんですね」
「いや、まあ、それもあるけどな」
タケモトさんが気になる言い方をする。
他にも何か理由があるのだろうか。
「私たちは『禁煙法』が、しばらくしたら撤廃されると思っているんだ」
その答えに俺は少し落胆した。
楽観的な考えだと思ったからだ。
「それは難しいんじゃないでしょうか。多くの人は『禁煙法』を歓迎していますし、タバコの有害性から考えても、改めて普及するほどの理由がない」
「マスダ、物事には善悪だとか好悪だとかでは単純に語れない。そういうケースが多くあるんだ」
センセイの含んだ言い方は要領を得ない。
「じゃあ、どうやって撤廃させるんですか。デモとかをするんです?」
「ははは、違う違う。デモなんて一般大衆からすればタバコ並にウザい行為だよ。ましてや主張が支持を得られないなら尚更」
「まあ、デモをするやつもいるだろう。主張の内容が何であれ、一応は立派な抗議活動だし。だが、それはあくまで問題意識を持続させる位の効果だ」
「では、一体……」
「つまり最終的な判断が政府側に委ねられている以上、この『禁煙法』が失敗だと思わせる必要があるってこと」
それからしばらくすると、センセイたちの言っていたことを俺は理解しつつあった。
なぜか禁煙法ができてからのほうが、消費量は増えてしまったのだ。
まずこの決まりを作った人間がタバコに詳しくなかったうえ、法を急造したものだから色々と穴だらけだった。
そのせいで一般的な紙巻き以外の、マイナーなタバコが普及し始める。
「おい、タバコを吸うのはやめろ」
「吸ってない。噛んでるんだ」
「吸ってない。舐めてるんだ」
「吸ってない。吹いてるんだ」
「んん? どういうことだ」
しかも、それらタバコは紙巻きタイプのものよりも非常に“重い”ものがほとんどだった。
「オレは缶タイプのを試してみたな。だがパイプでアロマやってた身としては、あれはキツすぎるわ」
各タバコを間違ったやり方で楽しむ人も多かった。
「私は噛みタバコを試してみたよ。ちょっとクセが強かったね。飲み込んだときの風味は特に」
「センセイ、それ飲んだらダメなやつじゃ」
「ガムも飲むもんじゃないですよ」
当然そんなことを恒常的にしていれば、重度の依存症になりやすい。
結果として紙巻きタバコが普及していたときよりも、患者数の割合は増えてしまったのだ。
事態はこれだけでは終わらなかった。
『彼方のアストラ』が最終話だから感想書こうと思ったけれども、細かいこと言い出すなら色々とあっても結論としては『良い作品だった』ってことになるから、まあいいや。
ド派手なアクションシーンで楽しませながら、終盤にちょっとしたオチ。
まあ終盤のオチは、あれがないと単なる「巨大生物に立ち向かう戦士たちのヒューマンドラマ」になって月並みだから、ちょっと捻ってみましたっていう印象のほうが強いかな。
もちろん設定とかもちゃんとこじつけてはいるけれども、大筋の描写がしっかりしすぎているが故の弊害かもしれない。
『マッチョグルメ』の人が原作だってこと踏まえると、ある意味で納得。
ややもすると真面目に描きにくい話を、大真面目に描いてストーリーを成立させるっていうスタイルだからね。
いや、「良くも悪くも言うことない」ってのは、つまり評価していないってことになるか。
前半の話に読者を引き込んでくれるようなものがないし、後半はタイトルにもなってる『鬼の影』についての解説がほとんどだし。
坦々としているというか、陳腐というか、「設定垂れ流しマンガ」みたいになってしまっている。
「実は主人公は……」みたいなパターンも定番だし、その展開も読んでいる途中ですぐに気づく。
展開が読めること自体が悪いとは一概に言えないけれども、それが作品の面白さとは何ら関係ないってのは欠点だと思う。
絵も基本的に拙いけれども、鬼の影が登場する場面は割とサマになっている気がする。
カラーの力が大きいだけかもしれないが。
ストーリーものってサクッと読めないから感想書きにくいけれども、テーマが最初からハッキリしていると、それだけで読みやすくて助かる。
粗探しをするなら、ニケはキャラクターとしては出来ているけれども、ストーリー上の役割としては舞台装置的でしかないって点かな。
超常的な存在なのに大したことをやらせないから、展開としてはあまり盛り上がらない、役割としての必然性が薄い。
もちろん主人公の心境が少しだけ変化するキッカケにはなっているけれども、その程度だったら別に似たような人格の登場人物でも良いって思ってしまう。
“ハートフルコメディ”らしいが、コメディ要素に関してはそこまで楽しいと思える要素が少ない(ハートフル要素に関しては異論はないけれども)。
とはいえ描きたいことは理解できるし、作風と演出そのものにケチをつけるようなところはないので、総じて手堅く纏まっているって印象。
回想の代わりに動画の記録という演出を取り入れて、その演出がちゃんとストーリー上でも意味があったと分かる構成が良い。
この手の話ってオチが読めたり、判明した後だと途端に白けるんだけれども、本作はそれが分かった上でなお読ませる構成になっているのが上手いと思う。
オチを理解したうえで改めて読み返すと、カメラに映っている登場人物たちの言動とか、視点が見下ろしになったところとか、色んな箇所に恐怖を覚えるっていうね。
もう一度読み返したくなるっていう意味では、今回感想を書いた読み切りの中では一番印象的かな。
難点は、ちゃんと読み込まないと話を理解しにくい構成なのが一長一短といったところ。
色々と工夫しているのに、それが分かりにくいのは勿体無いと思う。
余談。常々思っていることなんだけれども、はてブでホッテントリになる漫画って、いまいち基準が分からないことが多いんだよね(面白いかどうかって話じゃなくて、面白いマンガの中からホッテントリになるのはどういう類のものなんだろうって話)。ただ、今回のに関してはまあ分かる。やっぱりプロットにキャッチーさがあると強い。
特定のシーンとかしっかりキマっていて、絵の迫力も中々なのに、話の流れとか展開が不自然なところが多くて悪目立ちしてる。
セリフ選びのセンスというかセリフ運びもぎこちなくて、そっちが気になって目が滑る(深読みするなら、一応この不自然さにはちゃんと理由があるといえなくもないんだけれども、ほとんどの登場人物のセリフがぎこちないから、ちゃんと機能しているといいにくい)。
テーマは犯人のセリフからして明瞭ではあるけれども、ただ喋らせているだけって感じ。
ときおり出てくる独特な表現がプロットに馴染んでなくて、単なる賑やかし的な飾りにしかなってないのも気になるし。
演出意図が希薄なのに目立つ表現って、悪目立ちに近いから読んでると戸惑う。
作風は色濃く出ていて、一つ一つの要素を抜き出して評価する分には面白いんだけれども、それらが一つの作品としては噛み合ってないなあって印象。
こういうシチュエーションは、『言の葉の庭』を思い出すね(別にパクりって言いたいわけじゃない)。
『君の名は』でメジャー級になるまで、新海誠監督がいまいち大衆に認知されない理由を象徴するような作品だと思う。『言の葉の庭』って。
アニメーションと表現力は圧倒的なんだけれども、プロットが退屈すぎるからね。
主要人物のやり取りとかの繊細さ、空気感など、作り手の表現したいことを汲み取った上でなお退屈だった。
なんか『言の葉の庭』の感想になっちゃたけれども、なんでこういう話をするかというと、この漫画の長所も短所も大体同じだからだと思う。
身も蓋もないことをいえば、動きの少ない、劇的じゃない物語を面白がるのは難しい。
ましてや本作は漫画だから劇半やアニメーションがない分、漫画という媒体を存分に活かした表現や、よりプロットが重厚で繊細でないと厳しい。
キャラ漫画とかだと、キャラクター性に振り切ることで緩和されるけれども、地に足の着いた登場人物たちが現実的な世界観で物語を紡ぐなら何らかのフック、エンターテイメント性のある劇的な要素がないと、どうしても盛り上がりに欠ける。
漫画的記号のキャラであるゴッデスと、漫画的記号の取り巻きたちに、主人公がイライラするっていう要はメタフィクション要素の強い作品。
“こんなヤツ現実にいるわけがないし、いたとすれば絶対キャラでやってるだろ”っていう読者の共通認識をコメディの主体にしているのは、取っ掛かりとして良いと思う。
「キャラとかではなく、本当に忘れっぽいだけ」みたいなオチに逃げず、ゴッデスが最後の最後にやらかしたポカが、ネタを忘れるっていう展開なのも利いてる。
深読みするなら、結局ゴッデスがネタでやっているのか、素でやっているのか有耶無耶にしているとも解釈できるけれども、それだと話としてフワフワしすぎているから個人的にその線はナシかなあ。
それと、展開にもう一捻り欲しい。
漫画的記号に対するツッコミを主体にするなら、それこそゴッデスというキャラや、彼女を持てはやす取り巻きの不気味さとか掘り下げられる要素はたくさんあるのに、ただ表面をなぞっているだけのストーリーになっているのが物足りないかなあ。
それから紆余曲折あり、母は免許取得のため試験を受けるハメに。
「なるべく早く免許をとって帰ってくるから。それまでは我慢してね」
それまでの間、いつも母と一緒にいた時間は、学童保育に預けられる時間になる。
この時は寂しかったかというと、俺は思春期を迎えて親と一定の距離を保つようになったため、そこまで感傷的にはなっていなかった。
この時期に出来た友達だっているし、俺にとってはそこまで苦痛だったわけでもない。
だが学校に入りたての弟にとってはかなりショックな出来事だった。
そして、その寂しさを紛らわせる行動の犠牲になるのは俺である。
「皆でドッジボールやろう。マスダと弟くんは……じゃあペアで」
この頃の弟は今と違って人見知りが激しく、俺にベッタリだった。
俺が何かしようとするたびに弟は付属品になり、弟が何かしようとすれば俺は付属品にさせられるという状態。
今でも弟が俺にちょくちょく頼るのは、この頃のイメージが残っているせいだろう。
「なあ兄貴。母さんは母さんじゃなくなるの?」
弟が不安を口にしたとき、それを一蹴するのは俺の役目になってしまっていた。
「んなわけねえだろ。そんなことにならないよう、母さんは母さんであるために遠くでがんばってるんだよ」
もし免許がとれなかったら、と。
それは母にとって俺たちが子供であること、俺たちにとって母が母であることが、普遍的でなくなり不変でなくなるかもしれないってことだ。
母も俺たちも何も悪くないのに、何でこんな七面倒くさいことになる。
俺たち家族全員が“親免許”に言いようのない憎悪を持ち始めていた。
ところかわって母のほうでは、親免許取得のためのセミナーが始まっていた。
試験自体はまだ先で、それまではセミナーを受けて予習する必要があったのだ。
「まずはこの映像を観てください」
「まず大事なのは、子供も同じ人間であるという当然の認識を持つこと。ですが子供と大人には、男と女のように明確な差違があることも踏まえ……」
子供なら黙って聞くか茶化すなりできもしたが、大人たちはそうもいかない。
「子供には責任能力がありません。問題が起きた場合、子供が責任を持ちたくても、子供に大人顔負けの知性が備わっていたとしても、周りの大人や組織に責任が発生することを覚悟しておいてください。あなたたち大人側に明確な落ち度がなかったとしてもです。これを理不尽だと思う方には、親免許をあげられません」
母は脳に繋がれたメモリーボードによって何とか抑制できていたものの、そこにいた誰もが真面目なフリをするのに必死だったとか。
「このご時世に子供を生んだり育てようと思っている人に対して、こんな陳腐な内容で大丈夫なのかしら……」
あれから春がやって来て、夏になり、秋が過ぎ去って、冬に入るというのに、私はまた無職。
まああの後しばらく働いたのだが。
元に戻ってしまった。
数年前に一度か二度お会いしただけなのに、あれから毎年欠かさずに送ってくださる。
いつも達筆な文字に感心するばかりだったが、今年届いた暑中見舞いの言葉に、私は救われた。
「お体大切に」
それだけ。
だが、ちょうど一人で体調を崩していた自分には、この言葉が身に染みるほどありがたく感じられた。
振り返ってみると、この方の葉書には、必ず、相手の体を気遣う言葉が書かれてある。
月並みといえば月並みだけれども、自分の体を労わることが、どれだけ大切なことか。
恥ずかしながら、この歳になって初めて教えられたのであった。
ご飯が食べられる。
散歩ができる。
テレビが見られる。
そんなふうに考えていると、自分が無職であることを忘れてしまう。
さて、今日は天気が良い。
久しぶりに海の方へ行ってみるか。
無精髭を映した鏡の前にも立ってみよう。
どんな顔の男がいるか。
たぶん、あの頃よりは晴れやかな色も見えるだろう。
エイブラハム・リンカーンはいないだろうが。
親戚ん家に行ったら生後半年の赤ちゃんがいた。超かわいかった。
普段からとても大人しい赤ちゃんらしく、実際私などが来ても全然人見知りせずお祖母さんの腕の中に収まっていた。
赤ちゃんをだっこさせて貰った。「重いよー」と赤ちゃんのお祖母さんは言ったが、六歳と三歳の子供のいる私にしてみると、まるで羽の様に軽く感じられた。そんな私も子供達が生後半年の頃には、くっそ重い~腰が折れる~とか言いながらおんぶしていたものだが。毎日抱いている子供は重いけれども、たまにしか抱かない赤ちゃんはぬいぐるみみたいに、軽くてふわっふわ。
赤ちゃんは、だっこした瞬間は本当に綿の様なふわっふわだったし大人しかったが、すぐにだっこしているのが慣れ親しんだ家族ではなく知らないおばさんだと感知したようで、体を少し強ばらせて「んぶー、んぶぶー」と控えめながら抗議の声をあげていた。なので赤ちゃんのお祖母さんのもとへすぐに返した。
つい自分の子供が赤ちゃんだった時のノリでハグしてしまったが、こんなに小さな赤ちゃんでもやはり他人と保護者の区別をちゃんとつけており、気安く距離感0のおつきあいはゆるしてくれないのであった。
一方私はというと、赤ちゃんをだっこした時の感覚がもはや懐かしいものになっていた事に驚いていた。自分の上の子だってまだ甘えたがりだし、下の3歳児もたいがいベッタリ私に張り付いているものだが、それでもいつの間にか、赤ちゃん時代よりは距離が離れていたらしい。
私は子供達が大好きだし、子供達も私を大好きだが、だからこそ気付かなかったのだ。赤ちゃんの様にはもうベッタリとひっついていられないという事を。お互い自分の体の一部の様に、繋がりを感じてはもういられないという事を。
子供達はいつの間にか私の手を離れて行ってしまうし、他人が産んだ赤ちゃんは最初からお互いに一線引いている。子供と距離感0でいられるなんて人生のうちの本当に短い私にしてみればボーナスステージの様なものであり、貴重な一時だったのだ。
それは月並みだが失ってみて初めて気付くかけがえのない一時であった、というか、いつの間にか失っていたことにやっと今気付いたのであり、なんかすごく淋しいんだがまあしょうがない。
休日の動物園に行ってきた。家族連れから外国人観光客まで、とにかく人の数がすごかった。
そして動物園に来ていつも思うのは、月並みの発想だが、一体どちらが展示された動物……つまり檻の中に閉じ込められたいきものなのだろうと。ECHOESの「ZOO」では、人間のほうが動物園の動物のようで、檻の中にいる動物たちが外から人間を鑑賞している揶揄がこめられているのをどこかで聞いた記憶があるが、今日行った動物園はどのケモノもやる気がなく姿を見せず、獣舎内はもぬけの殻だった。背中を向けたパンダをバックに記念写真を撮る人たちを、遠目に眺めていた。
展示の看板にはレッドデータ区分が書かれていたが、こうして当たり前のように展示されていて、太古から子孫を繋いできたメジャーな動物たちも、天変地異の気まぐれや人間の勝手な都合次第でいつかは絶滅してしまうのだろう。動物園内には、日本は本当に少子化なのかってくらい妊婦や小さな子どもたちが沢山いたが、こうしているうちにも人類は少しずつ、静かに穏やかに滅亡していくのだなと思う。動物と人類、ただどちらが先に絶滅するかの違い程度で。
今年の夏コミで販売されたこの本について感想を述べたいと思う。
私は今年、夏コミには行かなかった。その前週に自ジャンルのオンリーイベントに一般参加していたこと、また個人的に引越しが決まっており、夏コミが
その直後の日程であったため、関東への遠征を躊躇ったためだ。だから私はこの本を夏コミ終了後、通販で購入した。
こういった感想の類はそれを最初から最後まで全て読んでから行うべきだとは思うのだが、如何せん、私はこれを書くまでこの続きを読むことが出来そうにない。
だから読了を待たずに記述を始めしまっていることを、どうかご容赦いただきたい。
さて、本書はすでに読み終えている17ページに至るまでにも、既に様々な恋愛をする女の話が書かれており、各々に大変興味深く、その全員が愛すべき女達であると感じた。
故にそれら全てに言及するのも吝かではないのだが、そうなってはこれを書き終えるのがいつになるのか、何字を費やすか分らなくなってしまう。
それでは困る。
本書の続き、17ページ以降をいつまで経っても読めないではないか。私は続きが読みたい。
しかし、読んでいて、どうしても感想をしたためたくなってしまい、いてもたってもいられなくなった。
ひとまず「夫のちんぽが目覚めない女」について、感想を述べさせてもらいたい。
「夫のちんぽが目覚めない女」と題された本書16~17ページに書かれるのは既婚女性の28歳、初恋の相手が名古屋稚空というチンアナゴさんという方である。
この初恋相手の名前の読み方と、何の漫画に出てきたキャラクターかがすぐに分かった私は、それまでの項と同様に早速読み進めた。
チンアナゴさんにはEDの夫がいて、1年半になる結婚生活の中で一度も本番行為をしたことがないという。
私にとってはそれだけでも、大変共感できるような内容だった。
読めば読むほど、そうだよそうだよと頷ける部分が次から次へと出てきた。
私には5年8ヶ月付き合っていたが、その交際の中で一度も本番行為をしたことがない彼氏がいた。
その彼との関係と共通する内容がこれでもかというくらい多かったのだ。
彼のオタク趣味が鉄道で、自分のオタク趣味がアイドルであること。
それに何より、彼に向ける性欲。それが私のそれとぴったり一致していた。
私もチンアナゴさんと同様、挿入と射精のない性行為に達成感のなさや苛立ちを感じていたし、
今日は立つかもしれないと期待させられてだめだった時のやるせなさを幾度と感じてきたか知れない。
また、私は彼との交際中に彼以外と性行為をしようとしたことはなかったが、チンアナゴさんが
友人男性と実際に行為をして感じた、「好きな彼に挿入されたい」という気持ち。それが痛いほど分った。
痛いほど、というと月並みな比喩表現になってしまう気がして、正確に私の気持ちを伝えられない気がしてあまり使いたくないのだが、本当に心が痛くなった。
私はいくつかの行を泣きながら、時に何か呻き声をあげながら、読んだ。
特に「夫は優しくて、私には過ぎた良い人で、大好きだ」という部分は、涙が止まらなかった。
そして本稿は、「だけどこれからもずっとこの生活が続くかと思うと真っ暗になる感覚がある。」という文で締めくくられる。
そこには、どうにかしたいがどうすることもできない、という悲哀と絶望が満ちているように思った(あくまで私が感じただけだが)。
私もまた、この悲哀と絶望を知っていた。
これまで私はこの悲哀と絶望が自分だけのものであるかのように錯覚していた。
何故なら、私の知る限り、このような感情を抱いている同じような人というのが全くいなかったからだ。
普通は恋人がいて長く付き合っているのであれば、セックスしているということは、当たり前であり、普通なのである。
5年付き合っている恋人がいると話すと、それだけで、性行為を前提としてその関係を捉えられてしまう。
聞かれることに適当に頷いておき、性行為を前提とした普通のカップルであることを装った。
せめて周囲が思い描いている姿くらいは、普通の、当たり前のようにセックスを伴う恋人同士であって欲しかった。
だから私の悲哀と絶望は、誰にも打ち明けられることはなく、私だけのものとして胸の奥に仕舞い込まれていたのだ。
おそらく、ネット上であれば、例えば知恵袋的なもので同様の相談が見つかるとは思った。
しかしそれを探すことはあえてしなかった。
本気で悩んでいたからこそ、インターネットの匿名性が生む、無責任な回答を見る気にはなれなかった。
例えば、誰かがある犯罪について自分の意見を増田か何かに書けば、同時にそれに意見する様々な意見・反論が生まれる。
ネット上に生まれる意見達はそれが賛同であれ反対であれ、切っ先が鋭い物が多いように思えて、恐ろしかった。
(それでは何故今こうしてこんな増田を書いているのか?と、鋭い意見に文字通り切り刻まれてしまいそうだが、
「もう仕舞い込みたくない」というたったそれだけである。この増田の行く末を私は一切見ないつもりだ。)
だからこそ、この「夫のちんぽが目覚めない女」に胸を打たれたのだ。
同じような気持ちを感じている、私とそう年も変わらず、同じオタクでもある彼女に共感せずにはいられなかった。
私は気付いた。
私の胸の内が完全に晴れなくとも、私と似たような経験をしている誰かが存在しているという事実、それがあるだけで、私は救われたような気持ちになれた。
誰かに相談すること、質問すること、それに対して意見をもらうこと、そして解決されること、そのどれもが絶対に必要なものではなかったのだ。
ネット上の掲示板や増田のように投書に対して必ず反論や意見を伴うという媒体ではなく、一つ一つ、一人一人のエピソードを紹介する形式のものだ。
それが、私を救った。感謝した。
きっとこの2000字程度の文章にこのエピソードがまとめられるまでに、チンアナゴさんは多大なエネルギーを要したのではないか。
「だけどこれからもずっとこの生活が続くかと思うと真っ暗になる感覚がある。」という最後の一文からも分るように、彼女の悲哀と絶望はまだ終わっていないのである。
過ぎ去った過去のことを思い出したり、自分の中で決着が着いたことを書くのであれば、そこまで負担は大きくない。
しかし、現在進行形の内容であれば、その主体である自分自身をある程度客観的に眺める必要がある。
それが、現在進行形であればあるほど、難しく、エネルギーが必要なはずだ。
自分主体の勝手な謝辞になって申し訳ないのだが、一先ず、そう言わせてもらいたい。
最後に私の話を少しだけする。
私がチンアナゴさんと決定的に違う点を挙げる。
それは、私がもう彼とは交際していない、という点だ。
先ほど書いた通り、「私には5年8ヶ月付き合っていたが、その交際の中で一度も本番行為をしたことがない彼氏がいた。」のだ。
今まで散々、共感できる、と言い続け、なのにオマエは別れとるんかい!と、自分でも思うし、少し後ろめたいがもう少し続ける。
別れは彼から告げられた。
彼の誕生日にビジネスホテルで1泊し、相変わらず本番行為もなく、プレゼントを渡した後、関東に戻る彼を
見送った後、ラインがきた。
ラインには、
私との付き合いに限界を感じていて、もうそろそろ手放して欲しい、私のことは好きだし
話をするのも楽しい、尊敬もしているが、付き合うという感じではなくなってしまった、
という旨のことが書いてあった。
そこには彼の、その誠実な人柄が表れていて、私はそれを読んで一人、部屋で号泣した。
ラインで良かったと思った。直接言われたり電話なんかだったら、きっと泣いて泣いて、何も言えなかっただろうから。
泣きながらでも、今までありがとう、元気でね、と返事が打てて本当に良かったと思う。
それがちょうど6日前の話だ。もう6日も経ったのかとも、まだ1週間も経っていないのかとも思う。
何はともあれ、彼にとって私は「付き合うという感じではなくなって」しまっていたのだ。
ものすごく平たく言ってしまうと、話すのは楽しいけどセックスは出来なくなってしまった、ということだった。
「付き合う」という言葉に唯一当てはまらなかったのはセックスをしなかったというその一点だけだったので、そう解釈して間違いはないだろう。
付き合っている間にそれを本人に確かめたわけではないが、もしEDであったなら、「付き合うという感じではなくなった」という表現にはならないはずだ。
だから「私が彼にとってセックスをする相手として選ばれなかった」というのが真実だったのだ。
事実、最初の2~3年くらいまでは彼が私に向ける性欲を感じていたし、私を前に立たせているのを何度も見たことがある。
しかし、お互い童貞と処女同士で何となく本番が上手くいかず、時間が経つにつれて、いつしか欲望を抱くのは私だけになっていた。
私は「この悲哀と絶望が自分だけのものであるかのように錯覚していた」と前述したように、それを自分の胸の内だけに押し込めてきた。
彼にそれをぶつけたことはなかった。
ぶつけてしまったら最後、誠実な彼はきっと私に真実を告げるだろうと、私達は一緒にいられなくなってしまうだろうと、そんな予感があったからだと思う。
だから私は性行為について、最後まで彼に自分の気持ちを述べたこともなければ、彼の気持ちを確かめたこともなかった。
もし、この本を夏コミの会場で手にしていたらどうだっただろう。
まだ彼と別れる前の自分が読んでいたら。
「事実」がハッキリと分かる前だったら、今よりももっと共感していたかもしれない。
しかしいずれにしても、「夫のちんぽが目覚めない女」は私を救ってくれた。
5年8ヶ月付き合った彼と別れた直後で、まだそれを全然受け止めきれず、整理のついていない私の心を救ってくれたのだ。
だからもう一度言う。
前にNHKで産後クライシスの話やってて、脳波を調べて奥さんが一日のうちで一番安らいでいる状態になる時は、旦那さんが夜帰ってきて話をする時だってやってた。
あとほら、鬱はお日様に当たらないのよくないっていうから、もうやってるかもだけど、土日どっちかだけでも赤ちゃん預かって、奥さん一人でお出かけさせてあげるとかは?
月並みだけど。
それかお天気のいい休日に増田が赤ちゃん抱っこして夫婦二人で近場にお出かけとかもいいんじゃない?もうやってるかもだけど。
まあ増田も辛いだろうけど、子育ては夫婦二人で乗り越えていくものだからさ。
頑張れー!
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
つまり、そういうことだ。
コミケとかでも金が取引されたとしても、モノは「頒布」と表現するだろ?
……この例えはちょっと違うか。
私のエントリに来て、それっぽい回答を思いついたときは返すこともある。
もちろん、「それっぽい回答」とは私のやってるFAQの枠組みでという意味だ。
月並みな返ししか思いつかなったり、不毛なレスバトルにしかならないと感じたら自重する。
そんな調子で他人の話にわざわざ首を突っ込んで、くどくどと持論を展開させていたら面倒くさい人になっちゃうだろ?
いい質問だ。
昔話をしよう。
とある人物A、B、C、Dが、とあることで熱心に議論していたときのことだ。
Cの意見は前向きではあるのだが、観念的なことを語っているばかりで中身がない。
Dはというとアニメを観ていた。
……察しの良い人間なら、すでに私の投げかけたこの疑問自体がミスリードであると気づいただろう。
つまり、そういうことだ。
あ、ちなみに私は上の話だとF的存在だ。