はてなキーワード: 包含とは
ワーク(仕事)はライフ(人生)の中に包含される概念だろうが。
https://twitter.com/jcp_cc/status/1450053068968448003
の話。
なお、日本共産党を支持しているわけでもなんでもない。方針は賛成してもいいが、重要な所が間違ってる。
まず、児童ポルノは、表現規制より無くすべきだ、という考え方が正しいかどうかはともかく、そういう人が多いのは明らか。
そして、子供がいる親を考えれば、多く、そしてある程度は正しいと言わざるを得ない。
「非実在児童ポルノ」の表現規制に反対している人は、児童ポルノを無くす気持ちが少なすぎる。明瞭にそれは間違い。
ここを無視する人が多すぎる。動画も含め、IT技術が進展して、より簡単に表現が出来るようになり、同時に実在児童ポルノはもちろん、非実在かどうか分からない児童ポルノが増えてきた。
表現規制したい人たちは「実在」「非実在」など全く気にしてない。非実在でも実在に見えれば「実在」にしてしまう。
もちろん間違ってるが、そこをちゃんと議論すべきだという話だ。
私は出来ると考える。児童ポルノは最悪の物を言うのであって、普通の漫画など全く入らない。
そして、「漫画やアニメ」はもう十分に日本国民に浸透してる。その意味で迫害されていた昔とは違う。
昔から、「漫画やアニメ」は規制にさらされてきたので、「非実在児童ポルノ」という名称がどうしても、昔の規制と印象が被ってしまうが、その印象から、「非実在児童ポルノ」を批判するのは間違ってる。
「非実在児童ポルノ」は「漫画やアニメ」ではない。イコールでもないし包含してもいない。
上記の前提からすれば、どうやっても表現規制を検討せざる得ない。これは明らかに昔の表現規制とは違う。
少なくとも共産党の方針は、もはや「漫画やアニメ」を下らないからと言って馬鹿にして規制しようというのではない。
もちろんながら、共産党が正しいわけでもない。以下は違う部分だ。
上記を日本共産党はごまかしてる。なので全面的に賛成しているわけではない。
でも「非実在児童ポルノ」を規制するのは賛成せざる得ない。児童ポルノは犯罪だからだ。
なぜこう思ったかといえば、表現規制反対派とフェミニズムのお気持ちが重なって見えたから。
もう漫画/アニメは十分尊重されてる。女性がもう十分に尊重されていてフェミニズムが不要なのと同じだ。
しかし世界日報や電子版は一般紙であるため、メディアとしての中立性を保つ以上宗教的に踏み込んだ話自体がそもそも掲載出来ません。
なんて書いてあるけど、これウソの定義に基づいたウソの主張だぞ。
あたかも出版物が一般大衆向けの「新聞」とセクト内向けの「機関紙」に分類され、「新聞」である場合には「メディアとしての中立性」があるかの如く書かれているが、日本語の「新聞」には「一般大衆向け中立の物」なんて意味は包含されていない。
そもそも新聞は中立性を要求されない。日本新聞協会の新聞倫理要綱ですら中立性は謳われていないし、まして世界日報社は日本新聞協会の会員社ですらない。
ここで言われている「新聞」「中立性」は、世界日報社内部の用語と言わざるを得ない。
そして重要なのは、「カルト勧誘の本質は正体隠しという情報操作である」と言われるとおり、統一教会をはじめとするカルト宗教では、一般人への接触点を作る際は、宗教色・勧誘色を隠すようにマニュアル化されていることだ。
一般向けメディアでは宗教色・勧誘色を廃すのが、カルトの勧誘の手法だ。記事で「過度な宣伝・勧誘を行う記事を寄稿したとしても取り下げられる」といっているのは、この手法を自白しているようなものだ。
このようなカルトの勧誘マニュアルを前提に、記事が「新聞」「中立性」という語をことさらに持ち出していることを見ればその狙いは明確で、「宗教色・勧誘色のないメディアである」とアピールする意図に出たものだ。日本新聞協会の加盟社でもないのに世界日報を毎日新聞や産経新聞になぞらえるのも、大学生の勧誘時に大学公認サークルになぞらえるのと同じ手法である。
加えて、記事は、統一教会から世界日報社への「資金提供が漸次目減りしており自己資本での企業経営を強いられてきた」ことをもって、世界日報社が統一教会と無関係になったと主張するが、「漸次目減り」とは今なお資金提供を受けているという意味であるし、そもそも「資本的な協力が無い以上現在の支持母体であるとは見做せない」というのがウソである。読売ジャイアンツの運営母体である株式会社読売巨人軍は独立採算性かつ単独黒字で読売新聞からの資金援助を受けていないが、ジャイアンツと読売新聞が無関係だなどと言う者は居ないだろう。
元記事に現れた数々のウソは、どれもカルトの勧誘マニュアルに驚くほど一致しており、そのような記事が、統一教会と無関係だなどとカルト勧誘マニュアルと同じ主張をしても、信用に値しない。
まず、ℚ(√2 + √3) = ℚ(√2)(√3)であることを示す。
ℚ(√2 + √3)⊂ℚ(√2)(√3)は明らか。
逆の包含を示すため、ℚと√2 + √3から有限回の四則演算で√2, √3を作れることを示す。
1/(√2 + √3) = √3 - √2より、√3 - √2∈ℚ(√2 + √3)。
よって、√3 = ((√3 + √2) + (√3 - √2))/2∈ℚ(√2 + √3)、√2 = ((√3 + √2) - (√3 - √2))/2∈ℚ(√2 + √3)。
よって、ℚ(√2 + √3)⊃ℚ(√2)(√3)。
ℚ(√2)/ℚとℚ(√3)/ℚはともにℚのGalois拡大であり、それぞれ√2, √3のℚ上の共役をすべて含むから、ℚ(√2)(√3)も√2, √3のℚ上の共役をすべて含む。
したがって、ℚ(√2)(√3)/ℚはGalois拡大である。
写像φ: Gal(ℚ(√2)(√3)/ℚ)→Gal(ℚ(√2)/ℚ) × Gal(ℚ(√3)/ℚ)を
φ(σ) = (σ|ℚ(√2), σ|ℚ(√3))
で定めると、これは群準同型になる。
ℚ(√2)(√3)はℚ(√2)とℚ(√3)で生成されるから、σ|ℚ(√2)とσ|ℚ(√3)がともに恒等写像になるのは、ℚ(√2)(√3)の恒等写像である。したがって、φは単射である。
[ℚ(√2)(√3):ℚ] = [ℚ(√2)(√3):ℚ(√2)][ℚ(√2):ℚ] =[ℚ(√3):ℚ][ℚ(√2):ℚ]
∴ |Gal(ℚ(√2)(√3)/ℚ)| = |Gal(ℚ(√3)/ℚ) × Gal(ℚ(√2)/ℚ)|
よって、φは同型である。
Gal(ℚ(√2)/ℚ) ≃ Gal(ℚ(√3)/ℚ) ≃ ℤ/2ℤだから、
Gal(ℚ(√2 + √3)/ℚ) ≃ ℤ/2ℤ × ℤ/2ℤ
である。
人間には3種類いる。
「パートナーが既にいる奴」、
「パートナーが欲しくない奴」、
既に居る奴はいい。そして欲しくないというのも当然選択肢としてあるし、要らないならそれで構わないだろう。
問題は「パートナーが欲しいけど出来ない奴」だ。これが何故発生するのか全く理解できない。
パートナーが出来ない事自体は色々複雑な過程をたどるのでしょうがないが、恋愛がしたいのに出来ないって有り得るの?
車買いたいと思ったら車屋に行ってお金を出す必要があるように、
旅行に行きたいと思ったら、宿を調べて予約して、新幹線や飛行機を取る必要があるように、
恋愛もある程度はアクションを起こさないと出来ないと思うんだけど、言ってる人は大体しないので疑問である。
定番だがこれを言ってて出会おうとしてる人間を一人も見た事がない。
マッチングアプリもやってないし、恋活・婚活の場に足を運ぶ事もない。なんらかの新しいコミュニティに所属しようとも思わない。
部屋で寝っ転がりながらTwitterやってるだけの1年間で誰とどう出会うつもりなんだ。本気で出会えると思ってるならどうかしてるぞ。
でも世の中ブッサイクでも結婚してる人大勢いるし、ひたすら気にしすぎ。
そもそも本気で「顔が悪いから恋愛出来ない」と思っているなら、少しはマイナスをゼロにする努力をすればいいのに、大体しない。
中卒やクソみたいな年収で結婚したり、なんならヒモ的なやつなんて大勢いるし、やっぱり気にしすぎだと思う。
顔が悪いから派もそうだが、どちらかというと〇〇のせいで恋愛できないというよりは、コンプレックスでうだうだしてる事が大体の原因。
幼少期のいじめや毒親育ちであることをトラウマにしており、全部そのせいにしているタイプ。
増田もそういう被害に遭ってきたので気持ちは分かるし気の毒なのだが、過去は過去にしておかないと永遠に先に進まない。
別に一生「イジメノセイダー」「ドクオヤノセイダー」と言いながら死んでいくならそれでもいいのだが、それは恋愛をしたい人がする言動ではないと思う。
(追記)
・「お腹が空いてるけどうんこは食えない」派は、自分のスペックでは自分の理想に届かない事を知って諦めているのであるからして、選択的に要らない派に含まれないだろうか?
それならば「俺面食いなんだけど、俺のスペックじゃ美人と付き合えないから諦めてるわw」と言うのであって、恋愛したくても出来ないとウダウダしてるタイプの人にはならない気がする。
・男は生物学上必然的にいくらか余るとしても、では何故このような女性が発生するのだろうか。男女ともによくいる。
・自分が理解する必要がないとはいえ、「あーあ恋愛したいなー、でも私……†〇〇だから†……(キリッ)」って毎回言う人が周囲にしょっちゅう出てくるのでいい加減鬱陶しいと言うのが本音である。
なんか中二臭い風が吹いているというか、ダガーが見えるんだよな。単に行動していないだけの話を、少年漫画の訳アリ能力者が悲惨な過去を語ってる時みたいな臭さで語られるので良く分からない。
・「痩せたいけど痩せれない人」は類似例としてかなり近い。なんとなくお菓子を食べるのを辞めれば、ちゃんと運動すればいいのに意志が弱くてつい立てようとした誓いを破ってしまう心境。つまり「恋愛したいと口では言うけど出来ない人」も意志が弱いということ?
・片想いした相手と通じ合わないパターンというのは最も切ないが、個人的には恋愛市場の中には既に足を踏み入れているという意味で、そういう人は将来的になんとかなりそうな気はしている。
というより、あーあ私も恋が出来ればな系の人とは何か数段階ぐらい違うと思う。もしかしたらここはカテゴリーをある程度分ける必要があるのかもしれない。
・行動を起こしても失敗してしまう人というのは具体的にどういう人なんだろう。これが最も気になる存在なので体験談などがあれば教えてほしい。間違った方向に行動を起こしていてそれを軌道修正出来ていないのでは?とどうしても自己責任論的な事を考えてしまう。
・つまりこのエントリーで言いたいことは、「恋愛したいって言うけど、本当は別にそこまで恋愛したい訳じゃないんだろ?本当に恋愛したくてたまらないのに出来ないなんて人いるの?」という事である。
ノリが「ああ~行きたいよね、ハワイ。いつかね。」みたいな感じなんだよ。ハワイに今すぐ行かないと死んでしまうみたいな切迫感じゃないわけ。
ハワイにどうしても行きたいんだよなああっっっっ!!!!て言ってる奴がいたら、聞いてる側からしたらいや旅行予約すればいいだけではってなるだろ。(※コロナ禍ではない想定で)
今すぐ行動を起こさないならなんとなく漠然と思ってるような所詮その程度な訳じゃん。それって本当に恋愛したくてたまらない人なの?
A:いや普通はそんなことないと思うけど、少なくとも今周囲にないものを掴み取りに行きたいならそれなりに普段と違う事しないとダメじゃね?
少なくとも女性には妊娠に関してそれなりに明確なタイムリミットが存在するのに、「あーうん、子供、欲しいね」って人生無計画すぎるだろ。
・Q:理解してるのでは?
A:結局このエントリーで述べた事は、「口では恋愛したいと言いつつ本当は別にそこまで恋愛したくはない人」に対する考察でしかない。
「結構マジで恋愛したいし凄い頑張ってる、けど出来ない」のがこれだけブクマを見渡しても誰一人現れないので、分からないのだ。本題はこれなので引き続き募集したい。
ダイエットに例えると、食事のコントロールも運動もやって、時々医師に相談したりした上でなお全く痩せない人。
つまり、これといった自己責任的な非が無いのにも関わらず目的を達成できない人について、もっと詳しく知り、そして理解したいのである。
途中でお菓子とか食べちゃう人は求めてる快楽が 食べたい>痩せたい なんだからそらどう考えても痩せない気がする。想定した現象がそのまま起こっているだけのような。
・Q:片想いが何故想定出来なかったのか?
A:上にも述べた通りだが、特定の相手に好かれなかったことが原因であるなら、少なくとも「あー恋愛ね、したいね、でも自分には縁がないからなあ(キリッ」とは別の人種であると考えていたからだ。
どちらかというと「特定の相手に好かれなかった為」故に、選択的いない派の中に包含しているつもりであった。
はじめのカテゴリー分けがそもそも悪いという点については柔軟に訂正していきたい。あと今片想いしてる人は頑張って欲しい。
A:恋愛に対するコストの高さを前に支払う事を諦めた人は、それってもう選択的な独身なんじゃないだろうか?
色々考えた結果そういう方針に自分で決めたってことだよね?これは恋愛したくても出来ない人ではないと思う。
・Q:就職できない人が居るのと同じだろう
A:確かにこれも分からない。就職を見越してそれなりの学歴を築いたり、学生時代に資格や特筆するべきスキルを身に着けておけば、第一志望に受からない事こそあれど少なくとも全く誰からも相手にされないという事は起きない気がする。というか最悪誰でも働けるような場所という選択肢があるけど、それは嫌だから無職のままであることを「選択している」んじゃないのだろうか。
対策してない人が失敗するのは極めて普通の事だろうとしか思わない。
A:勉強しなかった奴が試験に落ちるのは当たり前じゃないの?受験した子は頑張ったんだから皆合格にしてあげて!っていう思想の方か?
簡単な話で、方言は話し言葉だから地域と時代による違いが激しいだけだよ。書籍に使われる言葉は書き言葉って言われる比較的全国共通の経年変化が少ない言葉。(あと書き言葉と話し言葉、文語と口語は違う。書き言葉の中に口語と文語が包含されている。文語はいわゆる近代小説みたいな堅苦しい表現方法で、ネットはそれと反対の口語。)
浄瑠璃と狂言台本が例に出されていたけど、それで方言が使われているのは、台本は「話し言葉を書き起こすもの」だから。だからこそ地域だけでなく時代(中世、近世とか)すらも反映した言葉が文字という媒体によって記録として残される。
つまりネットで方言使われないのは書き言葉だから地域、時代による違いが少ないってだけです。ネットスラングに関しては「口語の書き言葉」を前提とした集団が細分化され、またその集団の中で共有される言語が形成されたから…だったと思う。(論文もあるらしいけど私は読んでない)
「ひとりの男として」には、
コンセプトからして少年たちの卒業という意味で“男”になると言っているキモさと、
そもそもV6は既婚者が4人いる点では、一人の女に向き合うという意味での“ひとりの男”には既になっていたわけで、その上での芸能人のキャリアに関する個人(“ひとりの人間として”)の大きな決断を“ひとりの男として”の言葉で包含してしまうグロさと、
(キャリアに関する大きな決断をすること=男だと言ってしまうことで、“ひとりの女として”と言った場合に同じ意味にはならないという歴史を再強化しているキモさ)
手越~V6くらいの年齢でそう言うのは、これまで続けていた活動やめる決断ができないと/アイドルを辞めないと/グループを組んで仲良くやっていると/誰かを養えないと/結婚できないと、男になれないという化石みたいな価値観を強調していることになるキモさが詰まっている
(先進的なことをやろうとしていた、やっていくように見せていた手越ですら“ひとりの男として”の呪縛から逃れられないジャニーズの呪いの根深さよ)
が、アイドルの人生ってただの芸能人より遥かに犠牲にするものが多く、人間として生きられなかったグロさがまず存在して、
「残りの人生をひとりの人間として生きたいから」と言ってしまってそのグロさにファンを直面させてアイドルを終わるのではなく、
マイルドな表現として“ひとりの男として”を選ぶ優しさなのかもしれない
アイドルが“ひとりの女として”と言った場合にマイルドにならない辛さは辛さとしてあるが、
一方で“ひとりの男として”と強調した場合に“ひとりの人間”以上に背負わせていいとされてしまう男性の生きづらさから、彼らは結局一生逃れられないんじゃないかと思うと辛い
シン・エヴァンゲリオンは私にとって完璧なエンディングだった。
言うべき人が言うべきセリフを言い切って、みんなが解放されたと思う。ただ一人を除いて。
女子校に通いアニオタ声優オタ腐女子として目覚め、それらを順調にこじらせていた真っただ中だった。
そりゃドはまりするわ。謎めいた舞台装置は厨二病をこじらせた根暗な女子にはドストライクだった。
はまって、はまって、毎週ダッシュで学校から帰ってきて、18時だったか18時半だったか、録画もしつつ必ずリアタイしていた。
(今思えばウテナと前後した放映で、よくよく当時のテレビ東京の夕方アニメ枠は頭おかしかった)
前半は惰性で見ているところもあったが、物語が進むにつれてのめりこむようになった。放映時のことは今もよく覚えている。
MAGIにハックしかける使徒とその迎撃は、PCなんて持っていなかった私にこんぴゅーたーかっこええ!と思わせるに十分だった。
バルディエルのぐっちゃーのシーンが放映された日、夕飯は焼肉でさすがにちょっときつかった。
ミサトさんと加持さんの例のシーンはぴったり夕食時で(夕食時に食卓で親の前でエヴァ見るなよ、と今なら思う)、
母親から冷たい声で「あんた、いつもこんなん見てるの?」と言われたトラウマは今も忘れない。あれが私の冷や汗デビュー。
高校の声楽の授業でヘンデルのメサイヤ歌った時は22話のアスカのことを思い出して最高に興奮した。
でも私がひそかに熱狂していたのは、個性の強いメインキャラやストーリーそのものではなく、オペレータの日向マコトの存在だった。
上記イロウルによるMAGIハックの回ではやや出番は多かったが、基本的にセリフも少ない。
マヤちゃんほどキャラが立っているわけでもなく、人柄を掘り下げられることもない。
(が、ロン毛の青葉シゲルよりはやや目立つあたりがまたいい)
そんな彼に一瞬強いスポットライトが当たったのは、24話。いわゆるカヲル君の回。
カヲル君がセントラルドグマに降下していき、管制室に緊張が走る中で当初のプランどおり自爆を考えるミサトとのやりとり。
ーーーーー
ミサト:初号機の信号が消えて、もう一度変化があったときは・・・
マコト:分かってます。その時はここを自爆させるんですね。サードインパクトが起こされるよりはマシですから。
ミサト:すまないわね。
ーーーーー
日向くんはミサトが好きで、そのためなら死んでも構わないと、すこし掠れた声で決意を伝える。
が、そもそもミサトは加持さんと付き合っているのはネルフ内でも自明で、つまり日向くんの恋は叶わないことが前提だった。
劇中で恋心はちょいちょい漏れていたが(そしてEOEで彼のLCL化を導く使者はミサトの姿をしていた)、明確に伝えたのはこの時だけで、
盛り上がるストーリーと逆に一瞬だけ静寂が訪れるこのシーンが、ミサトと加持さんの例の直接的なシーンよりも大人の世界に見えて、
14歳のあの時から今に至るまで消えない記憶として残っている。
私は報われぬ恋をしている日向くんに、ミサトではなく正面を向いてひとりごとのようにそっと告白する彼に、恋をしたのだ。
そんな日向くんは新劇でも登場はしたものの、TV版や旧劇で見せたミサトへの恋心を表に出すことはせず、
新劇だからあの片思い設定もなくなったのか、ま、尺の問題もあるだろうししゃーないな、と思いつつ見ていたところの、今回のシン・エヴァンゲリオンだ。
物語終盤で特攻するためにヴンダーに残るミサト。彼女を一人残して脱出ポッドに乗るクルーたちが映る。画面右に日向くんもいた。
そのシーンで残ったミサトを思い、自分も残る、と言ったのは、日向くんではなくQから登場した新キャラの長門っちだった。
いやいやいやいやいやいや、ちがうだろ、いや、ちがうだろ。そこは日向くんでしょう。そのセリフを言うなら日向くんでしょう。
画面にいるじゃん、長門っちの右にいるじゃない。いや、長門っちも思わぬ感じでいいけど、
でもそこに日向くんがいるのよ、なぜ彼がそのセリフを言わないの?
いや、新劇はTV版とも旧劇とも関係ないから、この世界線なら日向くんはミサトのこと好きじゃないしそんなセリフ言わない、ってことかよと一旦は自分を納得させた。
が、その後私を待ち受けていたのはTV版も旧劇も貞本漫画版すらもすべて包含した、完全なるエンディング。
繋がってるのかよ!!!!TV版と!!!!旧劇と!!!!!お帰り惣流の方のアスカちゃん!!!!
だったら日向くんの恋心はどこいったの?なぜ、彼にこそミサトのもとに残りたいというセリフを言わせてくれなかったの?
日向くんはね、ミサトが加持さんとの間に子供生もうがなにしようが、もうそういうのに左右されないんですよ。
そんなことはとっくに受け入れて覚悟して、仕事に生きるミサトを部下として支えていこうって決めて、ネルフからヴィレまでずっとついてきているんですよ。
彼女も作らず結婚もせず、日々仕事(というには壮大だな)に忙殺されながらも、ずっとそっとミサトを見守ってきたんですよ。
あのバイザーをつけて髪形を変えて自分を捨てて頑なに艦長として生きざるを得なかった14年間のミサトにずっと寄り添ってきたんですよ。
加持さんが死んでミサトは一人になったけど、そこに付け入るとかじゃなくてただそっと寄り添ってきたんですよ、メイ見たもん!!!
もうおっさんになってプラグスーツ着るの恥ずかしいだろうに、がんばって着ちゃうくらい覚悟決まっているんですよ。
(完全に余談だけど予告編でプラグスーツ着るシーン見て鼻血出たよね)
なのに最後の最後にすら、日向くんに思いを語らせてあげないなんて。そのシーンが無いならともかくあるのに!なんで!
見終わった後、エヴァがこんなに見事に完結した余韻と、その中で唯一成仏しなかった日向くんの恋心を思い、私は虚脱状態になった。
そしてこのエントリーを書くことでやるせなさを供養しようと思っていたのだが、はたと気づいた。
叶わぬ恋だからかもしれないけど、決して自分の気持ちを押し付けることはなかった。
だから今回、ミサトの意思を尊重して脱出することこそが、彼の愛をそっと示す行為だったのではないか。
一緒にいたいとかそういう意思表明をするなんて表層的なことではなく、もっと深い部分で愛しているからこそ何も言わず、指示に従い下船したのではないか。
14年前からこの時までの長い時が、彼の恋を愛に変え、その最終的な結実があのシーンだったのではないか。
「日向くんが何も言わない」というシーンを見せるために、敢えて他のキャラにセリフを言わせたのではないか。
日向くんの恋心は消えてなんかいなくて、ちゃんと成就したんだ。
私が好きだった、他の人を好きな日向くんは、ちゃんといたんだ。
あのは頃まだ一部の人がやっている感があり、そこはかとないアングラというかアウトロー感というか
当時中二病を引きずっていた高校生の自分には、とてもワクワクする場所だった。
その時のサービスというか、そんなものがどうなったのかちょっと考えた。
当時の2chユーザを主とした中年層と業者と幾ばくかの他の年齢層が5chに
少し趣を変えてtwitterの一部クラスタが昔に居た2chの層としている感じ
匿名の若気のバカ遊びみたいなノリが機能する場所はなくなった気がする。
個人ニュースサイト⇒はてブ、スマートニュース等キュレーションサイト:
はてブに関してはリンク中心の前者から、コメント中心の後者になった感がある。
キュレーションサイトは個人の色がないというか、あまり面白みがない。
まだ更新してくれている個人ニュースサイトさんをたまに見るのが、月1の楽しみ。
後は更新の止まったサイトをさっさと丸ごと保存しないと、多分いつか消えるからしないとなぁ。
mixi⇒数多のSNS(Facebook、Instagram、tiktok,Clubhouse等):
mixiの対抗にGreeとか居たけどあの時代のSNSとしてはほぼmixiで、
進化できず改悪を繰り返すことで他のSNSに散らばった形なのかな。
mixiは止まった時を保存しつつ現存するSNSとして今も生き続けており、
たまに見ると楽しい。引き続き歴史文化の保存として社名を背負って頑張ってほしい。がんばれモンスト。
何気にmixiが現存しているのもあり、mixiの代替となるSNSはないように思える。
基本匿名のテキストベースの趣味と任意の人とのつながりみたいな、なんというかうまく言えないけど、アレは好きだったんだ。
テキストサイトと並行してブログもいたけど、、GeoCities的なアレからブログとかnoteとかに移ったのかな?
ただ、日記とネタみたいなはテキストサイト的なノリは少なくなったのか、少なくとも盛り上がらなくなった。
今もテキストサイト的なノリでたまに更新しているけどやはり当時のような熱はない。
それは、大量の読者があってのあの熱だったのかもしれない。
十数年後には今の状況を懐かしく思い出せるものなのかな。
何か他にあるかな。
酔いに任せて書いた適当なつぶやきがホッテトリってる。せっかくなのでコメントを拾って補完してみる。
デイリーポータル、テキストサイト⇒デイリーポータル、オモコロ:
テキストサイト成分とデイリーポータルを足していくつかで割った感じがオモコロの感
OKWave、教えてgoo、人力検索はてな、⇒Yahoo!知恵袋:
はてなについては、ポイントを質問者が配るという構図で、質問者優位の構図が新しかった。
上記とカテゴリは一緒なんだけど、「女性の悩み相談」というジャンルに特化した先見の明と生存戦略の妙が見える。
質問系はYahoo!知恵袋以外は駆逐されたけど、発言小町は発言小町として生きている。凄い。
存在を横目で見ていただけなので、よくは知らないけど趣味ベースのSNSということでmixiのコミュニティつながりを特化させた感じかな。
しかしこれもサービス終了ということでこの手のつながりに、今はビジネスとしてペイするほど需要がないのかもしれない。
結局Web2.0とかdocomo2.0とか何だったんだという感。
どっちかというと2000年後半な気もするけど、本人のHPも2008年が最終更新、Wikipediaも2012年が経歴の最終。
と、まぁアメリカで活動している人なんで、日本に飽きたんでしょう。
なんでもないつぶやきや独り言にゆるく☆を付けあう優しい世界。
同じく収益の問題があるはてブよりも全然世界平和に貢献していたと思うんだけど、
悲しいけどこれ、ビジネスなのよね。なんで、代替もないでしょうね。
HP(ホムペ)にぶら下がる掲示板、という感じでそこでの会話があり、HP主のみの発言の悲しい掲示板や
メジャーなSNS無き時代のネットコミュニティとして機能していた活発な板など様々。
基本的にHNでの発言で、コミュニティでは独自のルール「お礼3行以上」とかがあったりなかったり。
この掲示板を抜き出して集約して匿名化した、あめぞうからの2ch、まちBBSとかの系譜は既に2000年を待たずに出来ていた。
で、今もあるところはあるけど大体閑古鳥。5chとか、SNSに行っちゃったね。
これはツールが変わっただけでコミュニティの働きとしては同じく機能し続けているようにも思う。
チャット、ICQ、MSN Messenger⇒LINE、Slackなどのチャットツール:
ここにおけるチャットは上記のBBSと同列で個人HPにぶら下がっているものを指す。
ここでの状況はBBSと同じ。ただそのレスポンスが基本リアルタイムというのが新しかった。
MSN Messengerというより敷居の低い神サービスがあったので、これを主に使っていた。
そこから、特にMSN Messengerから現在のチャットツールでは基幹は変わっていないので
99年にできたMSN Messengerは凄かったな、とコメントにもあったね。
GeoCities的なアレからBlogという新しい概念!発明!とか騒がれていた気もする。
全盛期は使いやすさのLivedoorBlogと賞金と芸能人のAmeblo、アングラfc2、独自のはてなダイアリーみたいな感じだった。
そのなかでTrackbackという「情報で繋がれる!」なんて画期的っぽい仕組みも持ち上げられたけど、スパム横行で衰退。
※今も見ている個人ニュースサイト
いくつかあるけど、ugNews.netさんとか無駄な領域リサイクルさんとか面白いです。
ポストペット⇒ メッセージングアプリ「PostPet GO」:
当時は素敵そうだったけど、そんなにメールでやりとしなかったし。。。
メールのサービスは終わったみたいだけど、メッセージングアプリで復活する予定みたい。
Flash系⇒派生としてのニコニコ動画とYoutubeとか:
常時接続環境が出来上がりつつあるとはいえ、動画コンテンツに飢えていたネットユーザーの救世主だったのがFlash。
個人的にはNightmareCityが好き。
Flash自身がその死に向かう今、これらに近いのはニコニコとかYutubeとかあるけど、ちょっと違うんだよな。
言語化が難しいけど。
何か長くなってつかれたので、いったんここで中断しまっす。
clubhouseは…今後セカンドライフ化するのか、化けるのか。
少なくとも今時点では前者っぽい空気がするけど。
flickrは写真共有SNSとしてはこの時期の始祖だけど、PC前提っぽくて。
あまり詳しくないけど、flickrはflickrでよいところはありそうなので、
大枠としてはInstagramに流れつつも、flickrはflickrとして残るって感じかな。
買い手はなるべく安く落札する、ゲーム的要素の強い個人売買の走りだった。
高値更新を見据えたスナイプ合戦だったり、いかんせん敷居が高いし、めんどくさかった。
その辺りの敷居の高さを、おおよそ取っ払ったのがメルカリをはじめとしたフリマアプリでうまいことやったなと。
今は相場が決まっているものやライト層はメルカリ、相場が分かりづらいものはヤフオクみたいな住み分けか。
pya! そのものが宝島のVOWのネット版という感じで、画像はまさにそんな感じだった。
そこにFlashが乗っかったりで、”「ありがとう」って言いそびれたヤツいる?”は泣けた。
pya! はネタ色が強かったけどtumblrはネタ含めwebのスクラップって感じでそこに包含された感じ。
デリシャス?はて?と思ったら、Delicious、あの格子状のアレか。
確かに、この頃はDeliciousの方がよく見た気がする。何で衰退したんだろう。
自分は個人ニュースサイトをしつつ、いつかはこれに置き換わるんだよなぁ、なんて見ていたけど。
主に2ch界隈で色々な板でされていたオフ会に参加していたりしていた。
キャバクラに初めて行くより前にキャバクラ嬢と深夜ボウリングでハイタッチしたのは今でもいい思い出。
今はそういう匿名な闇鍋オフ会、あるんだろうけど自分はめっきり出てないな。
で、SNSでのオフ会とかはある程度ペルソナの知れた人の集まりなので、これは面白みがなさそう出てない。
いくつか出版とかされてて、それが映画ドラマになった電車男とか鬼嫁日記とかネットがリアルに来た、なんて見てたな。
ネットのメディア化という点ではむしろ加速していて、出版はもとよりTVの街の声とかもTwitterだしなぁ。
360SNS:
存在すら知らなかったけど、この時期、MIXIの派生版みたいなSNSはいっぱいあった気がする。
その中でこの360SNS みたいに意味ある形で定着できたものは少なかった様だけど。
あれはしゃーない。
と、キリがないので飛ばして。
それな。あの頃の探偵ファイルは軽快なノリと探偵ならではの情報ですげー面白かった。
大住氏とかえりす氏とかだっけ。あの人たちのバカなノリがとても好きだった。
オモコロもノリとしての継承はそれなんだけど、なんというか当時の探偵ファイル的な熱量と面白さはないなぁ。。。
全網羅無理っぽいのでいったんここで〆
(2/24 5時)
一般的な男のホモソーシャルって一般的な女のホモソーシャルの持つ排他性や権力性と相似してる単なる同性集団でしかないのに片一方だけ解体を迫られるの謎だわ
これは微妙で、女のホモソーシャルに比べて男のホモソーシャルは、特に文化系のホモソーシャルは「これはすべての男の子が好きなやつ」とか「男のロマン」とか「男が好きなようなバイクとか格闘技とかホラー映画とかの趣味を持つ女は彼氏の影響」とか、「女にはわからねーよな」「男の世界」「女子供はすっこんでろ」的な、女を排除することで結束を高める傾向が強い。女を排除することで自分たちの優位性をアピールして、女を見下して蔑むことを娯楽として楽しむというか。
女は女だけで固まってワイワイやってても、男を排除することそのものを楽しむ楽しみ方ってないんじゃないか。セーラームーンが好きな男がいても、彼女の影響に違いない!とか言わずにコミュニティに包含すると思う。
意訳です。ニュアンス違ってたらごめんね。
「哲学や社会学は、世間の人に、難しくて偉い学問だと捉えられているふしがあるけれど、実際は大したことない。
例えば、哲学は歴史学や倫理学の一部とみなせるチンケな学問だ。社会学も、民俗学や経済学や心理学に包含される狭い学問に過ぎない。
ところで、『哲学・社会学』と『歴史学・倫理学・民俗学・経済学・心理学』との関係を、日本に実在する組織になぞらえてみると、
『警察』と『公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁』との関係に似てるのかも。いや、そうでもないかな。
哲学を学ぶ人は歴史学や倫理学も併せて学んでいるだろうし、社会学にも他の学問の知識が求められるはず。
これに対して、『警察』と『公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁』との関係は、互いに独立している。ということは、そんなに似てないか…
とはいえ、『哲学・社会学』と『歴史学・倫理学・民俗学・経済学・心理学』との関係を、『警察』と『公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁』との関係になぞらえるというアイディア自体は、悪くないと思う。
例えば、一つの組織だけではカバーできないほど業務領域が拡大した場合に、その組織とは異なる新たな組織を作成するのはアリだと思う。
同じように、『歴史学・倫理学・民俗学・経済学・心理学』でカバーできない学問領域があるならば、それらの学問とは異なる『哲学・社会学』という独立した学問領域を設定するのもアリだと思う。
でも、現状の『哲学・社会学』は、『歴史学・倫理学・民俗学・経済学・心理学』でカバーできない学問領域を探求するものではない。やっぱ、『哲学・社会学』って不要だと思う。