はてなキーワード: 包含とは
意訳です。ニュアンス違ってたらごめんね。
「哲学や社会学は、世間の人に、難しくて偉い学問だと捉えられているふしがあるけれど、実際は大したことない。
例えば、哲学は歴史学や倫理学の一部とみなせるチンケな学問だ。社会学も、民俗学や経済学や心理学に包含される狭い学問に過ぎない。
ところで、『哲学・社会学』と『歴史学・倫理学・民俗学・経済学・心理学』との関係を、日本に実在する組織になぞらえてみると、
『警察』と『公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁』との関係に似てるのかも。いや、そうでもないかな。
哲学を学ぶ人は歴史学や倫理学も併せて学んでいるだろうし、社会学にも他の学問の知識が求められるはず。
これに対して、『警察』と『公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁』との関係は、互いに独立している。ということは、そんなに似てないか…
とはいえ、『哲学・社会学』と『歴史学・倫理学・民俗学・経済学・心理学』との関係を、『警察』と『公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁』との関係になぞらえるというアイディア自体は、悪くないと思う。
例えば、一つの組織だけではカバーできないほど業務領域が拡大した場合に、その組織とは異なる新たな組織を作成するのはアリだと思う。
同じように、『歴史学・倫理学・民俗学・経済学・心理学』でカバーできない学問領域があるならば、それらの学問とは異なる『哲学・社会学』という独立した学問領域を設定するのもアリだと思う。
でも、現状の『哲学・社会学』は、『歴史学・倫理学・民俗学・経済学・心理学』でカバーできない学問領域を探求するものではない。やっぱ、『哲学・社会学』って不要だと思う。
聖地巡礼とは中世ヨーロッパの封建社会においてキリスト教徒のあいだで流行した、キリスト教の聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である。
転じて、現代においてはアニメや映画などの熱心なファンが、創作物やキャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。
私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組のロケで訪れたり雑誌等メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。
大塚の天祖神社やバッティングセンター、千歳船橋の喫茶店ぱおーん、五反田のデニーズ……
思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。
それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。
聖地巡礼には楽しさがある。
思えば私は日本史と世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画のロケ地を訪れることもある。
(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)
今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代にマゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊、フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。
そう、私はフランシス・ドレークの足跡を辿りたいのである。
乃木坂のメンバーが参詣した神社に自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分もバットを振るいたいのだ。
そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである。
この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。
バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティングの最中は乃木坂のことは忘れて純粋にボールをバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。
しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別な意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。
私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。
この違いは何に由来するのか。
まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼の動機に深く関わっている。
私は何も藤田ニコルや西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡に自分の足跡を重ねたいとは思わない。
フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)
では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。
恐らくは、その人物との関係性および距離感が聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ。
想像するに乃木坂のメンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地を巡礼したいという衝動はなくなるだろう。
同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ。
友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。
ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別」である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。
そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為を追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。
その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。
私は宮崎駿監督の映画が大好きで、監督がハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県の鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。
フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周にロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。
しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼランの足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。
(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)
「手の届かない「聖なる存在」である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。
ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターでバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂のメンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。
一年間彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアルに追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記:そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為に限定するべきだったかもしれない)
聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ちを自分も受けたいかというと難しい。
例えばメンバーの誰かが過去にイジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。
しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年間継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。
キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいね。はい。))
体験の総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。
心地よい感情が動きがあればよい。
郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。
いや、違うな。
上に述べたエモさは体験そのものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為を追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。
例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為そのもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋な巡礼っぽい)
先例のイジメのように行為自体は許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。
「追体験行為を包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼が追体験を包含する」よりも「巡礼に追体験が付随する(ことがある)」が正しい)
距離も重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理的距離感である。
遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。
私は電車移動含めて一時間もあれば十分である。しかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値は希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。
遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂のメンバーが訪れた場所の比較として、私の現在地から大塚のバッティングセンターとパリの街角にあるカフェとの物理的距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリのカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。
これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂のメンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理的距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェを目的に渡仏する気にはならない。
いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為そのものに乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味で巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記:日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的に行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係。目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋な巡礼価値は何によって決まるのか。))
これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行そのものに少なからず体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。
でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフで聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。
眠いし目も疲れたので「過去の自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。
おやすみなさい。
今まで本当にすみませんでした
リベラルに対する批判としてよく言われていたのが「いくら偉そうな理屈をぶち上げたって、どうせ中年のおっさんは気に食わないから適用するつもりがないんだろう?」というものでした
そして私自身もそう信じていました
所詮あんなものは既に「弱者」と認められた人のための運動に過ぎず、もっと言えば金持ちの家に生まれたマイノリティ様が経済的格差をごまかすための代物でしかないのだと
しかし最近のネットを見て、それが間違いだったとわかったのです
「環境に配慮していますか」などと質問風啓蒙をぶつけられるであろう店員に対する同情のコメントの数々
そしてガス会社の件では配偶者を「主人」と呼ばれるのは嫌で仕方がないのに、自分は他人を「おっさん」呼ばわりするのか、という批判がありました
どちらも今までの保守的な考え方のままでは、まず実現しなかったことです
これはリベラリズムがより多くの人たちに浸透した結果と言えるでしょう
もちろん今はまだ「上級国民のウエメセが気に入らない」「あれはもうクレーマーだろう」という反感ありきの話ではありますが、リベラリズムは確かにおっさんをも包含していたのです!
家無いのは異文化だし 金なくてPC無いのは異文化だし 金なくてスマホ持てないのも異文化だし 毎日カレー食ってたり不労所得で生きてるのも自分と違ったりマイノリティなら異文化でしょ
異文化だからじゃなくてそれが社会として手厚く保障すべきかどうかでしょ重要なのは
[B! 差別] ホームレスを異文化扱いしてはだめなのか|池澤 あやか|note
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/ikeay/n/nad1517232125
oka_mailer
だめですね。彼らも我々も同じ社会の中に包含されてるもので、それをわざわざ「異文化」と線引きするのは当事者ならまだしもマジョリティが振るうには無邪気過ぎる。
「ワープア派遣社員を「異文化扱い」する発想まであと一歩だよこれ。逆ギレてる人たちは「駅徒歩30分1Kの快適空間」「手取り12万円で生きる逞しさ」「閉店まで粘って半額弁当をゲットする生活の知恵」も許容すんのかな。 / “[B! 炎上] ホームレスを異文化扱いしてはだめなの” Twitter
https://twitter.com/segawashin/status/1328199330247766016
はてブのトップコメントのこの人もトンチンカンなこと言ってるし
ワープア派遣社員ももう異文化になってるでしょ。それから目をそむけるなよ。
https://tsumanne.net/my/data/2020/11/17/897141/
こっちの方が理知的じゃねえか
ブコメで多く見かけるのは異文化として切断するのではなく社会的に包含しなければならない的なやつ。
御立派ではあるけども、ぶっちゃけはてブよりもホームレスにより近い人たち、
たとえば地方の公営団地に住んでる低収入な人、ネット上ならホスラブとか爆サイで下品なこと書いてる人、
もしくは春ごろに叩かれながらもパチンコに通ってた人、
そういう人らと随分扱いが違う。
マシなところでも、馬鹿が存在するのは仕方ないからそのつもりで社会設計しなきゃだの。
異文化として切断処理してんのは誰だよって。社会的包含どこ行った。
【直球&曲球】宮嶋茂樹 まだやっとるんか日本学術会議問題 - 産経ニュース
より
あのな…学者センセイ方…アンタら特別職国家公務員なんやで。公務員が、政治活動や組合活動ばっかり、熱心にやっとったとしたら…あの日教組とやっとること同じやん。
はあ、さいですか。もっとえげつない政治活動やってらっしゃる特別職の国家公務員の方々もいらっしゃるようですがね。国家公務員法の第二条が特別職の国家公務員とはだれを指すのか書いている。引用。
○2 一般職は、特別職に属する職以外の国家公務員の一切の職を包含する。
一 内閣総理大臣
二 国務大臣
四 内閣法制局長官
五 内閣官房副長官
五の三 国家安全保障局長
七 副大臣
七の二 大臣政務官
八 内閣総理大臣秘書官及び国務大臣秘書官並びに特別職たる機関の長の秘書官のうち人事院規則で指定するもの
九 就任について選挙によることを必要とし、あるいは国会の両院又は一院の議決又は同意によることを必要とする職員
十 宮内庁長官、侍従長、東宮大夫、式部官長及び侍従次長並びに法律又は人事院規則で指定する宮内庁のその他の職員
十一 特命全権大使、特命全権公使、特派大使、政府代表、全権委員、政府代表又は全権委員の代理並びに特派大使、政府代表又は全権委員の顧問及び随員
十一の二 日本ユネスコ国内委員会の委員
十二 日本学士院会員
十二の二 日本学術会議会員
十六 防衛省の職員(防衛省に置かれる合議制の機関で防衛省設置法(昭和二十九年法律第百六十四号)第四十一条の政令で定めるものの委員及び同法第四条第一項第二十四号又は第二十五号に掲げる事務に従事する職員で同法第四十一条の政令で定めるもののうち、人事院規則で指定するものを除く。)
十七 独立行政法人通則法(平成十一年法律第百三号)第二条第四項に規定する行政執行法人(以下「行政執行法人」という。)の役員
○4 この法律の規定は、一般職に属するすべての職(以下その職を官職といい、その職を占める者を職員という。)に、これを適用する。人事院は、ある職が、国家公務員の職に属するかどうか及び本条に規定する一般職に属するか特別職に属するかを決定する権限を有する。
○5 この法律の規定は、この法律の改正法律により、別段の定がなされない限り、特別職に属する職には、これを適用しない。
第三項に「特別職の国家公務員」が列挙されてる。「内閣総理大臣」「国務大臣」はもろ特別職の国家公務員。「就任について選挙によることを必要とし、あるいは国会の両院又は一院の議決又は同意によることを必要とする職員」は国会議員。というわけで、自民党の議員センセイ方は全員特別職の国家公務員なんですけど、あの人たちも熱心に政治活動やってるよなぁ。
ショタコンの人が男児ラブドールを買ったレポ漫画で炎上した件、
5年とか10年とか前だったらもっと反射的に叩いてた人が多かったんじゃないかなって思う。
もっとも背景がいろいろ違うので単純な話ではないのだが(レポ漫画というスタイルが今ほど著名じゃない・10年前だとTwitterは画像添付できない・ツイフェミの隆盛など)。
ネラー・オタクだけではない人が増えたから、昔の方が面白がられてたんじゃないかっていう意見もあるだろう。
今回の男児ラブドール問題で痛感しているのは「問題を切り離して考えられる人が増えた」ということだ。
もちろんそうじゃなくて感情の反射反応で叩いてる人もいた。でも冷静な人がかなり割合として増えた印象だ。
・「現実の男児に手を出す前に」という言い方が良くなかったと思う。差別を助長したり、誤解を招いたりする言い方だ。(言い方の問題)
・やはり、ロリコン・ショタコンはその嗜好故にあまり堂々とするべきではない。ラブドールとはいえ性行為に及んだ事をあまり言うべきではない。(隠れろ問題)
・Twitterで公開したのが良くなかったのではないか。R-18指定できるサイトなどで公開すればよかったのではないか。(公開場所の問題)
など、やり方やアプローチを違えているという指摘はあるものの、
「ショタコンとかもれなく全員殺せ」という物言いをしている人は随分減ったり、そういう人を「それは違うんじゃないのか」と諫める人も増えたように思う。
(※申し訳ないがツイフェミは多様性に反する存在という認識なのでここでは包含しない。)
一昔前だったら普通じゃないものは即排斥みたいな感じだったが、LGBT議論の活発化などからか、いったん頭で考えて発信しようとする人が増えたと思う。
それはとてもいいことだ。
まず「体を温めること自体に、様々な疾病等を改善する大きな効能があること」
次に「いわゆる泉質といわれるもの(pHだったり、ミネラルが含まれているなど)は事実として測定可能だし、その中の一部には実際に証明された効果もあること」
最後に「温泉に入るという文化が歴史的に非常に古くからの背景を持っていること」
これらが組み合わさった結果、温泉文化には最古かつ最強のニセ科学が君臨してしまっている
これは具体的には「体を温めることによる効能と、いわゆる『温泉成分』による効能が未だに区別されていない」ということである
温泉に入ることは、体を温めることを包含しているので、現に人は健康になるのであるが、そのうちどこまでが「単に風呂に入ったから起こったこと」で、どこからが「温泉独自の効能」なのかという研究はされていない
にも拘わらず、歴史的な背景から、温泉地にはまことしやかに効能が謳われているものが多い
古くは湯に入ること自体が貴重だったため、温泉でもなければそもそも「単に体を温めるだけの効能」すらも得られず、その効能も温泉効能の中に一緒くたになっていたのだ