はてなキーワード: 語源とは
って擬態語?(擬音語ではないよね) 最近漫画でよく見かけるようになった
急に冷めるシーンとか相手に呆れるシーンとかしらけるシーンとか
あと相手の言う事にはっとして納得するシーンとか主にネットで連載してるようなコメディ漫画で結構見るんだけど
わーこれ若い人の新しい文化だな~~!!!ってめちゃくちゃ思ってる 新しい漫画用の表現が生まれる黎明期を目撃してる気する
好きか嫌いかは今のところは別としてこれからだんだん馴染んでいくようになるんだろうか
私はもうそんな若くないのでこの「すん…」の正しい用法が複数の漫画読んでても未だにわかってないんだけど
誰か若い人か詳しい人で知ってる人がいたら教えてほしい
↓追記↓
すごいたくさん教えてくれてる人がいる!ありがとうございます
昔から「しーん」「シーン」は沈黙を表す表現として数多くの漫画で見かけるけれど
突拍子もないことを言った人や世間知らずだったり常識外れな行動をした人にあえて沈黙と遠い目で反応するコマとか
あまりのことに相手に呆れたり急に真顔になってしらけたりして「あっそう…」みたいな感じで黙っちゃう、
みたいなシーンのときにギャグっぽい表現として使われてる感じ(pixivコミックとかでよく見かけます)
ポイントは「急に黙る」だと感じてるんだけど、ブコメにもあるけれどトラバの
>むかしから、「うんともすんとも言わない」って表現あったじゃん? あの「すん」が単独で使われるようになったんさ。
>「すん」の意味とは?
冷たい態度をとるさま。
内心では関心がありながら表面的に関心のないふりをするさま。
しなやかで、張りのあるさま。
用例
「すんとした表情で見られる」
「いつも彼女はすんとしている」
というのを読んで
あーなるほど言われてみればだよねと思った わかってみれば納得って感じの表現なんだなあ
「うんともすんとも」を思い浮かべない状態では画面に描かれている言葉は人物の能動的な行動を表していると思えるので
「何も言わないで静まり返っている」みたいないわゆる「シーン」と同じような表現とは思わなかった
現状ではそこから一歩進んでその描かれてる「特定の人物」が「急に黙る」
元は古くからある表現でも創作物とかツイートで見かけるようになったのはごく最近だから
それまでは一般的ではなかった表現だってことだよね(昔からあるのを私が観測してないだけかもしれないけれど)
たくさんの人が使うようになる最初のきっかけはなんだったんだろう
広がるということは多くの人の腑に落ちる表現だってことだよね すごくおもしろいです
あと「しゅん…」「シュン…」は「しょげかえって黙ってしまう」というニュアンスがあるので「すん…」とはちょっと違うかなあ
それから昔からある方のカタカナの「スン…」は登場人物が静かに鼻をすすりながら涙ぐむ、というときの擬音語だと思うので
最近広まってきた方のひらがなの「すん…」とは基本的には多分使われ方の違うものだと思うのでした(作者の意図にもよるでしょうが)
↓追記2↓
>言葉として前からあったかというより、それが擬音として膾炙したことが時代性なんではないか。
描き手の方っぽいブコメも読んでなるほどなー!ってなってます 教えて下さってありがとうございます
私の言語化があまりうまくなくて的確な説明ができてなかったんだけどまさにこういうシーンで使われてるな!
っていう読み手の感覚としてもぴったりな説明がブコメやトラバにいくつかあったので引用してエントリを終わります
>すん は興味がなくなり落ち着いた様子を表してると思うけどな 賢者状態からエロ要素を抜いた表現だと思う
>キャラクターが「しゅん…」とした時にできるようなすっと下がるような間を描きたいけれど別にしょげているわけではない、
というときに使うよ/正規の意味はしらないよ雰囲気だよ/平仮名でもカタカナでもいいよ
>「シーン…」は状態。「すん…」は変化。つまり沈黙の状態が「シーン…」で、沈黙への以降が「すん…」。/個人的にはこんな認識。
>すん【スン、すん…、スンッ】 類義語または語源:しゅん、シーン ①言動・感情などの激しさ、勢いが急速におさまるさま。
②感情・場の空気などが冷めるさま。一気に消えるさま。 という認識
このあたりの感覚が「すん…」が使われる状況の「感じ」として
本稿では、BL/やおいと比べ論じられることの少なかった「GL/百合」ジャンルの確立・歴史と、その現状について考察する。
はじめに、「百合」というマンガ・アニメにおけるジャンルを示す言葉の概要を説明する。「百合」とは主に、女性同士の恋愛と、それに満たない関係性も含めて描いた作品のジャンルを指す。川崎によれば、定説として語源はゲイ雑誌「薔薇族」に由来する。男性同性愛を指す「薔薇族」と対になるよう、女性同性愛者を「百合族」と呼称した「百合族の部屋」というコーナーが1976年から不定期連載されるようになったのが始まりであるとされる(川崎2014:44)。当時はレズビアンを指す用語だったが、徐々にサブカルチャーに輸入され女性同性愛を扱った作品群を呼称する言葉に変化していった。
まず、日本での「百合」のマンガジャンルとしての成立について述べる。そもそも、大正ごろの日本においてマンガとしての形態以外で女性同性愛をテーマにした創作物としては、性描写の過激な男性向けポルノか、少女向けの小説に二分されていた。特に女学生同士の姉妹関係「エス」をテーマにした少女小説の金字塔として、「花物語」(1925)などが代表される。しかし、大正時代に少女文化として流行した「エス」の概念は現代の「百合」概念とは違い、上田は「自覚的に女性を愛することを選択したというよりは、良妻賢母になるための安全なる予行演習という側面もあった」と述べている。(上田 2014:192)
マンガが発展し、女性同士の関係性を主題とした最も初期の連載作品は1970年代ごろから、山岸涼子「白い部屋のふたり」(1971)、池田理代子「おにいさまへ…」(1974)、「ベルサイユのばら」(1972-73)のオスカルとロザリーなどにみられはじめる。これらは、「24年組」に代表される少年愛をテーマとしたマンガと同時発生的に少女マンガ誌に掲載されたものだ。藤本は、このころの百合マンガの大きな特徴として
①対照的な二人の容姿(中性的・くっきりとした美人と可憐な少女のイメージ)
③悲劇的なストーリー(少年愛を扱う作品と対照的な同性愛による葛藤の描写)
を挙げている(藤本 2014:101)。これらの特徴は、1970年代の女性の抱えていた抑圧感を反映していたものなのではないかと考えられる。女性作家による「少年愛」が現実の抑圧からの解放として、性的に未分化な存在(少女)の何物にも縛られない感情の動きを描写したものなら、このころの「少女愛」はそれと対照的に、抑圧からの逃避としての悲劇的な結末が設定されることが多かったのではないだろうか。表現手法や舞台設定は耽美で幻想的でありながらも、当時の日本での女性のおかれる立場に忠実な閉塞感が描写されたものだと考えられる。また、この時代の百合マンガは少年愛ほどの大きなムーブメントには発展せず、作品数も多くはなかったため、自然消滅的に衰退していった。
しかし、1990年代、同人誌文化の発達に伴い、百合ジャンルも急速にその勢いを復活させる。
まず、「美少女戦士セーラームーン」(1992-97)によって、女児向けマンガにおける戦う美少女という概念がジェンダー論的な観点においての大きな転換点となる。異性愛的な要素が物語の中心に関与していたにもかかわらず、同人イベントではセーラー戦士同士のカップリングを描いた作品が爆発的なブームとなった。その理由として考えられるのは、消費される客体としてではなく主体としての戦う美少女像が確立されたことではないだろうか。これにより、百合的な描写も70年代における悲劇的な結末に向かう物語ではなく、少女が二人で主体的に幸せを獲得していく過程が重視されるようになっていったと推測できる。
そして、物語の中の関係性から百合の文脈を汲み取っていた時代から、前提として百合そのものを主題においた作品も増加していく。代表的なものとして、「少女革命ウテナ」(1996-98)がある。この作品は、古典的な少女マンガのシンデレラストーリーを基盤に「王子様」と「お姫様」を少女同士に置き換えてなぞりつつ、70年代の百合作品に見られた演劇的なモチーフや学園モノ、男装の美少女といった設定を取り入れ、また絵柄としても耽美で繊細なものであったが、これらは意図して行われたパロディ化された演出だった。ストーリーの結末も、最終的には二人が離れ離れになる点は悲劇的にも取れるが、その後ヒロインたちの再会が示唆されている。アライによると、「王子様」と「お姫様」が結ばれてハッピーエンド、という構造を少女同士で反復するだけではなく、最終的にヒロインたちは「王子様」と「お姫様」構造を破壊し、自身を覚醒させ歩き出すことで、社会的な女性規範を打ち砕くことができるのだ。(アライ 2015:57)それこそが「世界を革命する力」であり、この結末によって投げかけられたのは、異性愛規範や家父長制へのアンチテーゼと、黒人女性の解放運動や日本女性のウーマンリブ運動などの背景を踏まえた社会的なメッセージだった。
これらの2作品によって、社会的な動きと呼応した百合マンガの潮流が形作られはじめる。「セーラームーン」も「ウテナ」も少女マンガ誌に掲載されており、本来のターゲット層は10代の少女を対象にしていたと考えられるが、ここでのプラトニックな少女たちの絆がオタク層にも受け入れられ、恋愛的な文脈に解釈した成年層による二次創作が爆発的に流行する。これと同時に一次創作のオリジナル同人誌においても、「百合」という概念が定着しはじめ、少女同士の恋愛を主題にした作品がみられるようになる。
そして2000年代に入ると、マンガジャンルとしての百合を専門に掲載した「百合姉妹」(2003-2005)が発刊される。その後、「コミック百合姫」(2005-)に統合され、現在も刊行中。専門誌の発刊は大きなジャンルの発達の手掛かりとなり、この雑誌に連載されていた作品のアニメ化や二次創作の流行によって、「百合」というジャンルがはっきりと定義されはじめ、広く認知されるようになっていく。しかし、その定義に関して「男性が主要人物として登場し、恋愛関係に介入する」「性的関係が生じた場合、百合ではなくポルノ」などといったさまざまな議論が巻き起こったのもこの時期である。
また同時期に、「神無月の巫女」(2004-05)や「舞-HIME-」(2004-05)などの少年誌で連載される百合作品が登場する。これらの作品は、少女マンガ作品よりも直接的な同性間の恋愛としての描写や性的な表現が強く押し出されていた。ここから、現代の男性向けと女性向けの要素を同時に内包した現代の百合マンガの形態が確立しはじめたといえる。2007年には、前述した「コミック百合姫」の姉妹紙として一迅社から「コミック百合姫S」と「コミック百合姫Wildrose」が発刊。「S」は本誌よりソフトで繊細な関係性の百合を扱い、なもり「ゆるゆり」(2008-)が代表するような「日常系百合」の流れを作った。一方「Wildrose」は、それまで成人向けポルノとしての過度な性描写は忌避されがちだった(厳密な定義での「百合」ではないとされる議論があった)当時の風潮の中、直接的な性描写を掲載した作品を扱う専門誌として独立した挑戦的な試みだった。
ここで、2008年に行われた「コミック百合姫」の読者アンケートを参照してみる。2008年7月号時点の『コミック百合姫』読者の男女比は男性27%、女性73%であるのに対し、『コミック百合姫S』の方は男性62%、女性38%となっている。つまり、現在統合された「コミック百合姫」の購買層は、この男女比を単純に平均すると男女差はほぼ半々で、やや女性読者のほうが多いということになる。ここでは百合マンガの購読層を性別と消費の形態に4つに分類して考察した。
女性購読層において基本的には、社会的な比率を前提にすると異性愛女性のほうが多いと考えられる。彼女たちは少女同士の関係性に、「現実における異性愛、ジェンダーロールによる苦痛」から隔絶された「非現実的な同性間による越境の快楽」を心の拠り所として愛好するのではないだろうか。なおこれについては、やおい/BL ジャンルを愛好する女性においてもほぼ同じ理論が適用できる層が存在すると思われる。
百合というジャンルの性質上、他の恋愛形態をメインとしたジャンルよりもレズビアンやバイセクシャルを自認する女性が購読層に多い傾向にあることは考慮するべきである。彼女たちは、異性愛女性が「少女マンガにおけるロマンティックラブ」を夢見るのと同じように、自身の性的指向に一致した自己投影先として「百合マンガにおけるロマンティックラブ」を享受していると考えられる。
百合を自分の投影先の存在しないストーリーを消費するものとして受け取っている購買層。①「傍観」型女性とほぼ同じ論拠が適用できると考えられる。
百合マンガの登場人物に自己投影する男性は、ジェンダーロールからの解放と、女性との恋愛の疑似体験を同時に達成できる。この購読層の性的指向に関しては、社会的比率として異性愛男性が多いと思われるが、異性愛コンテンツ(NL)ではなく百合(GL)を愛好する彼らに関しては、③「傍観」型男性よりさらに複雑な感情にルーツを持っていると考えられる。また、TS願望を持つ男性(MtFとは区別する)や、同性愛男性が共感を持って少女同士の関係性を愛好する例も、この枠にひとまず収めることとする。
特に男性向けの性的描写の含まれる百合マンガ等においては、その世界の中に没入し登場人物の中に「混ざりたい」という観点で消費する層も存在する。これは上記の4つの例と異なり、少女同士の関係性ではなく「(男を知らない、穢れのない存在として描写される)レズビアンである少女を自らの男性性によって屈服させたい」というマウンティングによる性的な欲望や、男性主人公やその代わりとなる女性キャラクターの存在しない「ハーレムもの」といった受け止め方に由来するものと思われる。ただし、これらの男性は百合ジャンルのファンからは忌避される傾向にあり、特に近年の百合を主題とした作品においては減少している。
これらのファンがそれぞれ百合というジャンルの定義について議論を重ね、各需要を満たすような創作物を制作していったことにより、百合ジャンルが発展していった時期だった。
次に、2010年代の百合文化を振り返る。このころに代表的な作品として挙げられるのはテレビアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」(2011)だろう。この作品は、「セーラームーン」にルーツをもつ戦闘美少女の系譜を受け継ぎながら、現代調に前提として百合を意識して構成された作品のひとつで、魔法少女同士のカップリングを扱う二次創作が爆発的に流行した。
また、少女マンガ誌において百合を扱った作品が満を持して再び登場する。70年代以降、異性間のラブストーリー(NL)に偏っていた少女誌において約30年ぶりに百合が復活した形で、「野ばらの森の乙女たち」(2011)や「ブルーフレンド」(2010―2011)が連載された。これらの作品は、少女漫画特有の筆致でありながらも明確な少女同士の恋愛関係としての描写があり、また両作品とも70年代のような悲劇的なラストを迎えることはない。少女向けの要素として、学園設定や疑似姉妹などの設定は残されているものの、これらは批判的なパロディというよりも前時代の少女誌における百合作品に対する敬意からくるオマージュと解釈するほうがふさわしいだろう。これは近年において少年誌よりもジェンダーロールの強固だった少女誌界隈に百合ジャンルブームの波及がみられた、極めて注目すべき例である。
中学受験はそのIQの高さも影響してか、完全無勉でそこそこの中高一貫校に入学した。
中学のときにゲームやインターネットにハマり、宿題もほとんどやらず授業以外一切勉強していなかったが、やはりここでも学校内で平均より少し下くらいの成績を維持していた。
高3の夏休みから流石にやばいと思い受験勉強を開始して、塾・予備校を使わずに有名国公立大学に進学した。
本題はここからで、高校時代までとくに褒められた経験が無かった。努力した人が褒められるのはもちろん分かる。ただ、もとから頭が良い人間はむしろ忌み嫌われ、努力マウントを取られることに納得がいかなかった。
受験勉強期間、仲の良かった友人に「なんで俺の5分の1も勉強してないお前の方が模試の点数高いんだよ、死ね」と言われたことはやはり忘れられない。(冗談っぽく言ってはいたが、この後疎遠になった)
自分がギフテッドだ、とまで言うつもりは無いが、今後自分のように劣等感を感じる人が出てこないように日本でも2E教育が進むことを願う。
修正しました。漢字にかなり弱いのでまだあったら教えてください。
不快にさせたならごめんなさい。2Eの語源がtwice-exceptionalなのからもわかる通り発達障害の人は皆IQが高いという訳では全くないので、ADHD全般に話を大きくするのは控えていただきたいです。
大学名を隠す意味も確かにあまり感じなかったので正直に言うと、東工大です。国語力が致命的に欠落していたため東大は断念しました。確かに大学には自分と気の合う人も多く、楽しくやっています。プライドが高いだけというのは確かにそのとおりかもしれません。
診断済みです。
追記2
あまり意識してなかったのですが、それはあるかもしれません。今まで多動衝動性に感じては自覚が薄かったですが、気をつけてみたいと思います。
tomiyaiさん
primedesignworksさん
夏から勉強を初めて合格できたのはコンサータを飲んで集中力にブーストをかけた事も要因のひとつとしてあるかもしれません。
akainanさん
東工大に入って自分より頭の良い人に出会え、今は比較的充実しています。
文章の書き方が悪かったですが、主に高校生時代に思っていたことを書きました。一部修正します。
mazmotさん
昨今ネットでラディカルすぎるフェミニストが目につくことが増えてきたので、もしかして日本ではフェミニズムって言う言葉は悪い意味で広がりすぎているのかもしれないと思ってるので、自分が把握している範囲で歴史を紐解きつつまとめてみようと思う。
まず、フェミニズムはあくまで「女性の地位向上」が目的として出てきた運動なのはまぁ言葉の通りだよね。男性の地位が高く、女性には発言の自由が認められていない状況をなんとかしようね、というのがフェミニズムの始まり。
だから、フェニミストが声を上げるたびに「じゃあ男性の権利は剥奪される一方で良いのか!」という反論を目にするんだけど、「語源としてフェミニズム」から見た時に、フェミニズムは女性の地位向上が目的なわけで、こういう反論はトンチンカンだとは思います。
ちなみに、男性の地位向上を目指す運動は「マスキュリズム」と呼ばれていたのですが、思ったよりはこの活動は流行らなかったです。
マスキュリズムの考え方はとても良いものだと私も考えます。離婚の際、子供の親権は女性に有利すぎるだとか、そういう女性優遇は確かに存在しますから。
ただ、マスキュリズムが流行らなかったのはマスキュリズムは実質的には「反フェミニズム運動」にしかなれなかった、というところが大きいんですよね。
「フェミニズムなんて活動が出てきたからそれまで保たれていた男女の均衡が崩れたんだ」なんていう言説が出てくるくらいで、はたから見ても「既得権益を守りたい男の言い訳やん」って部分が結構あったわけです。
「女性の地位向上」を目指す古いフェミニズムは、根本的に「そもそも性で地位を区切ろうとしている」ことからは思想的に抜け出せないので、定期的に「女性とは何か」という定義をして、フェミニズムの運動の対象とするかどうかを更新しています。
1960年代は、レズビアンのことを「自らを男性に同一化して女性を愛する女性」ということで、「レズビアンは女性ではない」と定義してレズビアンは排斥されてきた過去もあります。
その後、逆方向に振り切って、「レズビアン・フェミニスト(男性がいない社会を作りたい、ラディカルフェミニストの一派)」なんかが出てきたりもしています
いずれにせよ、フェミニズムは女性の地位向上、果ては男女平等を目指す活動であるはずが、同時に女性とは何かという定義を更新し続けてきたわけです。
ところが、「じゃあLGBTQADを全て男性/女性に切り分けて定義するのか?」となってくると旧来の「女性の地位向上」という枠では立ち行かなくなってきたんですよね。
そこで、現在は「ジェンダー平等」がもっぱら議論のテーブルに上がっているように感じています。
特にリベラルなフェミニストは既に女性の地位向上というよりはジェンダー平等の方を目指しているのでは?
ジェンダー平等という言葉は、「男性/女性/それ以外全て」の性差を撤廃しようという活動なので、男女平等とは異なる概念です。
SDGsのゴールの一つにも名言されてますしね、ジェンダー平等。
特に有名なのは国連も賛同しているHeForShe活動でしょうか。
元々、2014年のエマワトソンの演説では性差の撤廃を述べながら、HeForSheの活動そのものは「フェミニズムは女性だけの問題じゃないから男性も一緒に話し合おう」と言うにとどめていたのですが、2016年頃から「そもそもフェミニズムって女性の地位向上目指してるっぽく見えるし、ちゃんとジェンダー平等を目指そう」って活動に切り替えています。
ただ、ここで気になるのは、エマワトソンの演説と安倍総理の演説の違いです。
エマワトソン演説ではかなり丁寧に「ジェンダー平等」という言葉を選んでいて、「男性も女性も他の性も大変だよね、だからお互い性でくくらない方法を考えようね」と述べているのに対して、当時の総理の演説では、「女性の人権向上」だけがお題目になっていました。
日本にとってのHeForSheの運動は、「ジェンダー平等」ではなくて「女性の地位向上」から変わっていない、ということです。
まぁ、HeForSheも英語の語義的には「女性のために男性は立ち上がれよ」って感じの意味なので、ジェンダー平等を掲げるつもりなら活動の名前も変えたらよかったのでは、と思わなくもないですが。誤解している日本人もかなりの数いるのでは。
ジェンダー平等と日本の考えの差異はエマワトソンのYouTubeの話と安倍総理のレポートの内容を見比べると「マジか」って思うと思います。
http://japan.unwomen.org/ja/news-and-events/in-focus/heforshe
http://japan.unwomen.org/ja/partnerships/japan-commitment
いえ、もちろんSDGsのゴール5だって「ジェンダー平等を達成し、女性の権利向上を」って言っているし、政治的なアプローチとしては未だに「女性の地位向上」をしないとダメってのが現状なのは世界的に見ても間違いないんですけど。
ということで、日本ではまだ「ジェンダー平等」よりも「女性の地位向上」の方がフェミニズムに求められている、というのが現状だと思います。
特にネットを眺めていると、本当にジェンダー平等を目指そうとしているフェミニストっているのか疑問を感じてしまうくらいに、ミサンドリー(男性嫌悪)が蔓延っているように感じています。
確かに、先述したレズビアン・フェミニストに代表されるような急進派のフェミニストは国内外問わずミサンドリー(男性嫌悪)をあからさまにしている人もおり、エマワトソンとかが頑張ってるのに未だに「フェミニスト→ラディカルフェミニスト→ミサンドリー→男性の敵」という理解がされているようにも思います。
日本でも「ポリコレ棒」という表現がありますが、それも上述のようなラディカルなフェミニスト(あるいはマスキュリスト)によって生まれた極端な例の叩き合いでしょう。
こうなると、そろそろ「フェミニスト」って言葉自体、あまり良い意味を持たなくなってしまったなぁ、と悲しくなっています。
例えば「右翼」にとっての「ネトウヨ」や「左翼」にとっての「ネトサ」のように、「極端な人を切り離す言葉」があれば良かったのですが、フェミニストはそれ自体が極端な人を表すレッテルになってしまっていて、今の日本でジェンダー平等を目指そうとする動きに、フェミニストやフェミニズムっていう言葉がノイズになってしまっているように感じます。
今回のトランスジェンダー(MtF/男性から女性に性転換した人)への強烈な差別だって、フェミニストの中には「生まれが男性であればそれは女性と認めない」という人が一定数いて、しかもそういう人が自分こそがフェミニストだとふるまっているから地獄になっているように感じます。
「ラディカルフェミニスト」って言葉が長いのでレッテルとしてあんまり良くないんですよね。ミサンドリストって言うのもなんかうーん、という感じです。
ということで、「ジェンダー平等を目指す人」ってのは本当は沢山いますし、フェミニストの中にもそういう人はたくさんいます。
ただ、もう、そういう人たちは少なくとも日本では「フェミニスト」を名乗ってもあまり得はないと思うので、なんかもっとかっこいい肩書を考えてください。
Picture-in-Picture (PinP/PiP)が正しいと思うんだけど。
まず語源からして合ってない気がするし、ワイプって言われるとシーンからシーンに映る時のトランジションエフェクトのことだと思ってしまう。
wipe
【自動】
拭く、軽くこする
【他動】
〔汚れなどを〕を拭く、ぬぐう、拭き取る、一掃する
・Wipe the inside of the tube with a clean cloth. : 清潔な布でチューブの内側を拭いてください。
【名】
拭くこと
Premiereのドキュメントには Picture in picture って出ている
wikipediaの「Category:xxxx年のテレビアニメ」を一年ずつ眺めていくと面白いです。
ちなみに anond:20180324005516 は違う増田。
単純そうに見えて、コピペを調べるのに意外に手間がかかっている記事。
元がアダルト業界のよくわからん俗語なので、地味に苦労して調べた記事。
三大銀行の公式サイトを参考にしつつも主にWikipedia情報で書いた記事。
どっちかと言うと系統図を作図するのが大変だった。
けっこう独断で選んだので、実際にその国の人に聞いてみたら「こいつは違うだろ」って言われそうな記事。
Wikipediaのページなど存在しない人も多く、いろいろ調べるのが大変だったが面白かった。
なるべく知名度があるツンデレキャラを載せようとしたんだけど、
実はガンダムをそんなに観ていないので調べるのが大変だった記事。
まとまった情報がなかったので、いちばん苦労したかもしれない記事。
もともとオカルトには興味がなかったし。
こういうのを元増田みたいに質問する人がサッと用意してくれるといいよね。
「へったくれ」の語源 anond:20170713203121 なんかも大変だったけど。
これも興味のない分野について調べてみた記事。
意外に綺麗に時期分けできるのが面白かった。
毎年書いてるんだけど、100以上ブクマされたり全くブクマされなかったりする。
各年を代表するアニメのまとめがメインで、景気のことは二の次だった記事。
自分のなかでは anond:20150703142948 に近い感覚の記事。
これはほぼ記憶で書いたあと裏付けを取っただけで、あまり手間のかかっていない記事。
「パワーカップルの基準がだんだん下がっている!」というネタに異を唱えたかった記事。
これはまあWikipediaのページを行ったり来たりするだけで、
テーブルを組むほうが大変だった。
eスポーツが嫌い! 肉体を酷使するスポーツはスゴい! と喚くだけの増田。
こんなツッコミ所の多い主張、まともな人間はアホらしくなって相手しないだけ。
釣り、もしくはスポーツ信者の怪文書だが、まともに相手してやろう。
現代のスポーツも、仕事のストレスを解消する役割を担っており、「遊び⇔労働」の関係にある。
スポーツが仕事のプロでもない限り、どれだけハードなトレーニングをしようが、遊びの域を出ないわけ。
財やサービスを生産する行為でなければ、ビデオゲームもフィジカルスポーツも遊びということ。
そして、ゲームの試合で価値を生み出すゲーマーは、遊びの域を超えてプロ・ゲーマーになる。
流行に明るい奴なら、eスポーツが「競技」を意味することは知っているだろう。
運の要素が高い、またはPay to Win(課金額で勝敗が決まる)のゲームは、練習量が重要ではない。
遊びだ。
この増田は「ゲームの練習=判断力の低下と眼精疲労なだけ」などと抜かしているが、
ソフトウェアの仕様をいかに早く把握するか? という点でも相当な個人差が生まれる。
「ロクな」は「陸な」と書き、もともとは「陸のように平坦である」という意味、
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B8%E3%83%BB%E7%A2%8C-414007
「ロクなゲームではない」というと「まともなゲームではない」というわけだ。
現代の辞書的には「後に打ち消しの語を伴う」ということになるが、
もちろん江戸時代の頃には否定を伴わない形で使われてもいたこともある。
あくまで慣習的なものとみなすべきで、「語源からしてありえない」というわけではないと思われる。
やはり大半は否定とセットで使われているが、
屑のような論文が百も出るうちには一つくらいは少しはろくなものも交じる確率があり、万人の研究者の中には半人くらいは世界的の学者を出すプロバビリティーがあるかも知れない。
ろくな仕事をこつこつやるより、かうやつてぼんやりしながら「悲歌」のことだの、僕が近いうちに身を打ち込んでやりたいと思つてゐる仕事のことだのを考へてゐる方が、まあどんなに好い事だらう。
など用例がないこともない。