はてなキーワード: 蛍光とは
出勤して事務所のドアを開けたら警察の人と鉢合わせ。巡査とか刑事とかじゃなくてなんていうの……サスペンスドラマの現場検証の場面で写真撮ってる人達……鑑識? 一体何事なんだろうと思ったが、聞いちゃダメな気がしたので、とっとと制服着てタイムカードきってフロアに出た。
そんな謎な出来事があったにも関わらずオーナーがすごい上機嫌だった。マジで一体何があって警察が事務所に入ったのだろうか。
私が出勤してから45分くらい、外に蛍光色の表着を着た人がいて誰かとしゃべっていたのだが、あの蛍光色の表着、以前店で迷子を保護して110番した際に来た警察官が似たようなものを着ていたような。でも、夜に散歩するお年寄りなどもああいう目立つ色の表着を着ていがちなのでわからない。とにかく目立つので、店に入ろうとするお客様がみんな蛍光色の表着の人をちらちら見ていく。
オーナーとのシフトだったのだが、警察沙汰になるような何かがあったにも関わらず、オーナーはスーパー上機嫌。あまりにもご機嫌だとかえって気味が悪く感じる。そのせいで私は変に緊張してしまったのか、仕事開始後一時間くらい、胃がキリキリして吐き気までしてきて早く帰りたい気持ちで一杯だった。
ご機嫌なオーナーが珍しく私に雑談を振って来たのだが、その内容は警察沙汰の件ではなくて近くの小学校でコロナが流行り休校になっているということだった。私が「それ初めて聞きました」と言ったら、オーナーから「増田さんちの子の学校と同じ市内なのに?」と驚かれた。そう、市や教育委員会や小学校はメールでコロナ情報を送って来ることがあるが、学校での流行に関してはプライバシー保護の観点から情報を一切公開していないのだ。子供のクラスの隣のクラスが学級閉鎖になったとしても知らされはしないのだから、他校のことなど尚更不明である。
休校になってしまった学校に通う子の何人かがうちの子と同じ習い事をしているのだが、習い事も先月から休講なのでうちの子が習い事を通じてコロナをもらうことはない。だが、その子供の保護者が実はうちの子供の学校の特別支援教室で働いていて、今も欠勤はしていない。何で知っているのかというと、私が毎日学校まで子供を迎えに行く時間が、その保護者が仕事を終えて帰る時間と被っているからなのだ。本人やその家族が感染していなければ子供の学校が休校になっていても普通に仕事には出れるのかもしれないが、休校になった学校の子供達の全員が大人しく自宅待機をしている訳はなく、近所同士で行来していないとは限らないので、地味に心配ではある。
俺はモンハンライズが全体的にめちゃめちゃダサいと思っていて、それがすごく気に入らない。
具体的に言うと、
UIとフォント→縁取りのせいで世界観から浮いていて、ゴチャゴチャ感がものすごくチープさを増している。
色使い→モンスターや装備、エフェクトに使われる色に蛍光色が多くて下品。
犬→犬はいいが(色使いは下品)、着地や移動の際に犬乗ってるときだけ体重を全く感じなくてソシャゲのMMOのキャラくらい質感が無い。
比較してるのが前作、モンハンワールドだからか余計それが際立つ。あんまり知らん人は少し手間だけどyoutubeで「モンハンライズ」と「モンハンワールド」のプレイ映像を見比べて見てほしい。
そもそもワールドとライズではコンセプトがまるっきり違っていて、ワールドを洋画テイストの本格派とするならライズは中高生向けのかなりカジュアルなテイストだ。
それは、いい。おんなじシリーズを違うコンセプトで出すのは冒険的でなかなか出来ることじゃない。ただ、我々消費者は本格派かカジュアル、どちらを選択するのかを問われてる気がする。
ほんで話は戻るけど、俺はモンハンライズ、めちゃめちゃダサいと思う。プレイが止まるくらいダサい。だからGoogleで調べるわけ。「モンハンライズ ダサい」って。そしたら…あんまりヒットしないんだよね。「ワールド ライズ どっち」とかも調べちゃう。そしたら…結構ライズの支持が多い。意見としては探索や移動が面倒なワールドに比べて、ライズは犬も翔虫(虫で移動できる)も便利じゃないか、というもの。俺が最初に上げたダサさポイントを指摘する声はほとんどヒットしなかった。
この、何とも気分が悪い感じ…。俺は芯から嫌だと思ってるものが、割と肯定的に受け入れられてる感じ…。そうだ、オリンピック開会式のピクトグラムじゃん。
あの時もそうだ。オリンピックという世界中が注目するイベントで、クオリティによる感動ではなく"必死さによる面白さ"に逃げたピクトグラムが本当に悲しくて悔しかった。
いや割と叩かれてたじゃん、という意見は聞きいれない。俺は当日にその感想を増田に投稿して「悪くなかった」という意見を目にしている。
なんか…俺達の身の回りの物の程度がすごく下がって来ているのをひしひしと感じるんだよ。モンハンライズを楽しんでるプレイヤーは沢山いて、それは否定しない。友達とのかけがえのないゲーム体験はそのライズでしか成し得ないものかもしれない。だからこそ、純粋な気持ちで選び取るのが"それ"であることが悲しい。
ライズはワールドよりまだ売れていないみたいだが、今年の夏に来る大型アップデートで追い抜くかもしれない。もしワールドより売れたら、カプコンはモンハンシリーズをライズのテイストで行くのだろうか。
youtube、今は芸能人より力を持っているんじゃないかというくらいメインストリームだ。でも今こうして思うと、HIKAKINをはじめとするYouTuberがニュースで楽して稼いでる奴として紹介されて、テレビの人に下に見られてるくらいのときがまだ良かったのかもしれない。そんときは「そんなことない。彼らは物凄い努力をしてるし、コンテンツとしても面白いよ」くらい言えた。でも今はどうだろうか。
ひろゆき、Daigo、岡田斗司夫の切り抜きにでっけぇ文字のサムネが漂う世界である。今やこれが、僕ら若者の娯楽の1位である。
こういうジャンクフードみたいな物は美味しいし、あって良い。けどそれが1位になったらだめじゃない?「この国一番のグルメはフライドポテトです」って言われたら笑っちゃうでしょ。
まとめると、ゲームの中に別の世界が見えるほど、とんでもない解像度と熱量が込められたモンハンワールドの続編に、チープでカジュアルで下品なモンハンライズが出た。そしてそれが割と肯定的に受け入れられている事実を確認して「もうこの世はこっち路線で行きますからぁ!!」って神に判を押された感じがしたということ。
今主流の娯楽は程度の低いと感じるものが多くて、それを楽しむ人々(自分も含む)が、嬉々として残飯を漁る餓鬼に見えてなんだか心の底から悲しみが溢れる。もうだめか、この国は
萌え絵、セクシズムがどうこう以前に、「単純に視覚情報としてノイジーだから、公共空間で無際限に掲示・露出されるとしんどい」って意見はないのかな〜?
まずあの「大きい目」に、人間の本能にもとづく誘目性がある。赤ちゃんが三角形に並べた●×3つを顔と認識するのと同じ仕組み。視界のどこかにあると、どうしても意識がそっちに取られてしまってウザい。自分の中の動物の部分をハックされてる感じがある。
画像としても情報が多くて(俺からするとゴチャゴチャしてて)、脳が処理するときにエネルギー使わされる感じがある。
色的にも、たいてい原色・パステル色・蛍光色とかの多色使いになってて「うるせえなあ…」と思ってしまう。
俺は秋葉原が電気街からアニメ街になった時代に足が遠のいたんだけど、理由はアニメや萌えが嫌いだからじゃなくて、街中のどこに目をやってもそんな感じになってしまい、視覚的刺激が強すぎて長時間いると疲れるようになったから。
コロナが流行ってない世界のことを指すらしい。コロナに対する楽観論へのアンチテーゼらしいが、正直脳が死んでいる表現に思える。特定の発言に基づいた悪質なパロディであることは分かるが、もはや元の定義は失われ「ばーかばーかチンカス野郎ー」以上の意味を持っておらず使えば使うほど自分の品位が下がるだけの表現である。自分のIQが130あると思っているIQ80の人が好みそうな言い回し。
APIよけのために使用される無意味な記号群。俺の発言はとても素晴らしく評価されるべきなんだぞ!という自己顕示欲の象徴。便所の落書きに蛍光塗料や金箔の入ったスプレーを使うようなものである。
はてなーでありフェミニストやウヨクやリベラルなどであるアカウントの総称として使われる。これらがはてな内部に置いて独自進化を遂げたという思い込みに基づいているようだが、実際のところははてなは他所からの借り物で構成されているのでどこかの界隈には普通にコピー元がいる。自分たちが独自進化できる程度の生態系を持っているという思い上がりが現れている。
これは私の持論なんだが、基本的にコミュニティは変なスラングが出てきたら既に末期になっている。
ニコニコ然り2ch然り学生運動然り淫夢界隈然り、数々の歴史においてコミュニティが迷走を始める直前には独自の造語が飛び交うものだ。
はてなーよ。
スラングを捨てよ。
お前たちはこんなところで朽ち果てるような奴らなのか
今朝、会社で先輩に指摘された。
白の不織布のマスクを外してみたら、たしかに蛍光色のピンクで口元あたりとゴムと布の継ぎ目辺りが汚れていた。
「え?何、〇〇くん、ピンクの汗かくの?」と茶化されたものの、心当たりがすぐには浮かばなかった。
何もピンクのものは口にしていないし、朱印や蛍光ペンを触ってもいない。
心たあたりを探っていくと、5分前に自分がしていた行動を思い出した。
目薬である。
サンテPCのピンク色の液体が目からこぼれ、頬を伝い、口元まで流れていたらしい。
理由がわかればなんてことない話だが、目薬するときに気をつけないとなとか、無色の目薬に変えるべきかなとか思った。
汚れが目立たない黒色不織布マスクが浸透すれば楽なのになあ。
相手が変な格好で現れたらこれからデートするのが嫌になる、無難な格好だったら安心してデートしながら人となりを知っていけるってだけの意味だと思うよ。
変な格好と言ってもシャツがしわくちゃすぎるとかサイズが全然合ってないとか全身黒ずくめでなんか怖いとか謎に蛍光色とか、あまりにもあんまりな感じだよ。
増田の言う「男性的な強さかっこよさ」に寄せた服装がどんなのか分かんないけど。
でも増田が歳の割に老け顔だったとして、それで全身無印良品みたいな地味な格好してたら無難でもなんか嫌だろうしなー。おじいちゃんかよ?みたいになりそう。だからって老け顔の人がどんな服なら似合うのか分かんないなー。
私は本当にもやもやしている。発端は例の伊是名夏子さんのこの投稿。
http://blog.livedoor.jp/natirou/archives/52316146.html
バリアフリーは推進されるべきだ。その方向性に異論はない。そしてバリアフリーを訴える目的はよいと思うし、その目的を批判している人はほとんどいない。
でもこの記事を最初に読んだ時、「これは炎上するな」と思った。
私は、きちんとした教育を受けそれなりの大学を出て、結婚もして家族もあるし、収入はそこそこあり持ち家にも住んでいる。
ただ片目があまり見えない。病気というか、発達障碍というか、弱視という視覚障碍がある。ちなみに弱視というのは、眼鏡などで矯正しても視力がでないことをいう。
だが片目だけの視覚障碍なので、私は身体障碍者ではない。健常者だ。もっとも正常な方の目も、近視、乱視がはいって矯正しないと0.5ぐらいなので、そんなに見えるわけではないけれど、視力矯正できるかできないかは全然違う。
もっとも、もしかすると両目がきちんと見える人よりも、遠近感の把握ができなかったり、視野が狭いのかもしれないが、両目見えていた経験がないので、違うのかは全くわからない。
不自由はないといいつつも、ほんの少し、両目が見えたらいいのにと思うことがある。例えばVRゴーグルをかけてみた時などにそう思うことがある。でもそれは総じて大したことではない。
逆に見えなくてよかったと思うこともほとんどないのだけど、ひとつだけ、心からよかったと思うことがある。
私は、健常者の目と、視覚障碍者の目と、2種類の目を持っている。社会を、健常者の目と、視覚障碍者の目と、2種類の目で見ることができる。それは本当によかったと思う。
私は、時々、自分の健常者の目をつぶり、視覚障碍の目だけで街を歩くことがある。特に、今回は、もやもやし続けているので、いろんな場所で何度もそうしている。
通しでやったことはまだないが、眼帯などで健常者の目を隠し、視覚障碍の目だけで自宅から会社まで通勤するのは可能と思う。
なぜ可能と思うかというと、私は、自宅のドアを開けたところから、会社の入り口まで、健常者の目で何度も通勤しているので、途中の、①道路、通路の硬さ、すべりやすさ、段差、②曲がるときの角度、直線で歩くべき距離、③階段のおおよその段数やエスカレーターなどの位置、こういうものを覚えている。
見えないものは、記憶で補いながら歩く。ゆっくり歩けば、弱視の目でも歩くことができる。
そして音は重要だ。自動車が近づいてくる。こういうものは音で判断する。
自転車は、音が小さいから、怖い。電気自動車も、音が小さいから、怖い。
電車の時間も、発着ホームも、だいたい覚えているので、目的の電車に乗ることはできる。ただし、遅延などが発生し、行き先が違う電車が普段とは違う時間にやってきたりすると、困る。
そういう時は駅員さんしか頼りにできなくなるだろう。
本当の視覚障碍者の人は、情報を得るのにとても困るだろうなと思っている。ホームに駅員さんがいれば聞くことができるのだろうけど、いつもいるわけではない。視覚障害者はそうたやすくホームを歩けないので、同じホームに駅員さんがいても、距離が離れていたら聞くのは難しくなる。
少なくとも私は、視覚障碍者の目で歩くとき、普段と違う状況になると状況を把握できず、いらいらする。
私が、視覚障碍者の目で歩くときは、記憶と、耳と、手と、足の裏の感覚と、それ以外の感覚も総動員しながら、歩く。
集中しているので、いきなり肩や腕をつかまれたりすると、とてもびっくりするだろうと思う。怖いと思うかもしれない。
もし皆さんが視覚障碍者に何か情報を伝えたい、手助けしようと思ったら、白杖や身体をいきなり触るのではなく、まずは声をかけてほしい。もし声をかけて手助けを断られたり、声をかけるのを躊躇するなら、見守ってほしい。
私の弱視は、光線の具合で、見えたり見えなかったりすることがある。
広い平坦な場所で、突起に気づかずつまづくぐらいなら笑い話かもしれないが、ホームの端がみえにくくて転落することがあれば、それは生命の問題に直結する。((ホームと線路の彩色、彩度が似ていると、ホームの端がわかりにくい。))
その対策だが、蛍光色で10cmぐらいの幅のラインを描くことで、ホームの端の視認性はかなり上がる。これをCPラインというらしい。
一部、導入されつつあるが、まだまだ普及がすすんでいない。
https://ameblo.jp/milkyht2/entry-12244392124.html
ホームドアは、視覚障碍者のためだけではなく、酔っ払いなど一般の人の転落事故も防止する。ホームドアがあれば死なずにすんだ命は多い。できる限りペースを速めて、設置してほしいと思う。
ネックは、ご存じの通り、多額の費用がかかることだ。
でも、生命にかかわることだから、優先順位は一番高くていいのではないかと思う。
日本視覚障害者団体連合もホームドアの設置を求め続けている。2020年7月の阿佐ヶ谷駅での視覚障碍者の転落死亡事故をうけて、同年9月にも国土交通大臣に要望書を提出している。こういう働きかけは大切だ。政治や企業への働きかけは、絶え間なく行わないといけない。
働きかけを行うべき先は、政治も企業もしかるべき権限をもつ者=責任者であるべきだろう。「なんでホームドアがないんだ!」と現場で駅員さんに怒鳴っても、何も改善しない。
http://nichimou.org/notice/200923-jimu/
歩道や施設などの通路、ホーム上にある点字ブロックは日本発祥のものだ。これはよい発明だと思う。かなり普及しているのも評価したい。
また、2016年に近鉄大阪線河内国分駅ホームから視覚障害者が転落死した事件をうけ、対策として「内方線付き点状ブロック」設置を推進していたが、これはかなり進んだと思う。評価したい。
https://www.sankei.com/affairs/news/161017/afr1610170045-n1.html
でも、「なんでこうなった?」というような謎な点字ブロックも多々ある。そんな役に立たない点字ブロックや、かえって危険を作っている点字ブロックがある。
ホームなどの点字ブロックの配置についてはガイドラインがあるが、まだそれが守られていないことがある。2019年の京成立石駅で視覚障碍者が転落死した事件は、規格外ブロックが問題と指摘された。
https://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=14s53i742ax788in6
ガイドラインに沿っていても、転落事故(死)が起こることがある。視覚障碍者は、目からの情報が少ないため、点字ブロックを認識しつつも、現在地と歩く方向を間違い転落することがある。
点字ブロックはとても有効な設備だが、点字ブロックだけでは転落事故はなくせない。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/437710.html
点字ブロックは、黄色のものが多い。(私も健常者の目で見た時はそう思うが)黄色のブロックは、色がガシャガシャして、うるさく感じないだろうか?
そこで、街並みをおしゃれにするため、点字ブロックを歩道の色と合わせて設置することがある。最近増えた感じがする。
でも弱視者には、これがわかりづらい。
視覚障碍者は全盲の人ばかりではないという認知がもっと広まってほしい。
「視覚障碍者は見えないのだから、点字ブロックは何色でもいいのでは?」と思わないでほしい。
少ない視力を使って点字ブロックの上を歩きながら、足の裏の感覚などで点字ブロックの助けを得て歩く視覚障碍者もいる。
視覚障碍者は、道路交通法によって、白杖を持つこと、または盲導犬をつれることが義務づけられている。(第14条第1項)
また、視覚障碍者でなければ、白杖を持つこと、または盲導犬をつれることを禁止されている。(第14条第2項)
さきほども書いたが、視覚障碍者は全盲の人だけではない。ロービジョンといわれるのだが、若干の視力はあるのだが日常生活に支障がある人がいる。白杖の使い方は、人それぞれだ。
ところで、視覚障碍者が白杖を持つ理由は次の3つとされている。
https://nippokai.jp/wp/formembers/canes/
障害物もなく、路面が確かな場合、ロービジョンの視覚障碍者は、白杖を「視覚障害を持つことを周囲に知らせる」だけに使うことがある。つまり周囲の人に自分の存在を知らせるために、白杖を動かさず抱えることがある。
それを白杖を使っていないと思わないでほしい。白杖で地面を叩いていないからといって、「こいつは視覚障害ではないのでは?」なんて思わないでほしい。
点字ブロックの上や近くで立っていたり、荷物を置いていたりしていないだろうか?
いわゆる歩きスマホはしていないだろうか?
視覚障碍者は、器用にぶつからないようにしたり、避けたりするのが苦手だ。
伊是名夏子さんの投稿とその後の議論、動きなどみて、私がもやもやした理由は主に次の3つになる。
私が、ここに書いた話題は、全部が「視覚障碍者にとってのバリアフリー」問題だ。
伊是名夏子さんの投稿は、さまざまな議論を呼んだが、その議論は、エレベーターとかスロープとか、「車いす利用者にとってのバリアフリー」だけしか議論されていないでは?と感じた。
確かに伊是名夏子さんは自分自身の障碍のため、「車いす利用者にとってのバリアフリー」を問題にしている。それは当然だと思う。
でも、「バリアフリー」を必要としている人は、車いす利用者だけではない。視覚障碍者も、聴覚障碍者も、妊婦や精神障碍者なども、「バリアフリー」を必要としている。
それぞれの障碍やハンディキャップが違えば、「バリアフリー」として求めるものは違う。でもそこまで広く捉えた「バリアフリー」議論はほとんどなかった。
いつでもどこにでも自由に行ける自由はとても大切なことだと思うけど、毎日、命の危険を感じながら鉄道を使う人のことも思い出してほしい。
案の定、伊是名夏子さんの投稿は炎上した。あの投稿を批判的に見る人は、来宮駅を巡るトラブルの作為性を問題にしている。作為性とは、バリアフリーを訴えるために、わざとトラブルを起こしたのではという見方だ。ご本人は否定している。しかし私も実は、作為性はあっただろうと思っている。
現場でのトラブルを、乗車拒否などの強い言葉を使った非難を行い、耳目を集める手法というのは、そのトラブルの作為性を巡って反感を買いやすい。
伊是名夏子さんご本人が、それが戦いだとお考えになることは、批判できない。こうしなければ、耳目を集められないという気持ちも理解できる。
しかし、何かバリアフリーの課題を改善したいと考えた時、この手法が一番効果的となってしまえば、他の障碍者も(少々作為性があろうと)トラブルを起こし、それを声高に訴えないといけなくなってしまうのではないか? 私は、そういう状況が本当のバリアフリー社会とは思えない。
そして、あの手法に反感をもつ人と、支援する人との分断は、更に広がったように思う。
分断されたバリアフリー社会とか、笑えないブラックジョークだ。
伊是名夏子さんの投稿に対しては、私も批判的だし、批判する人の気持ちはわかる。
一方、こういったネットの炎上が生じると、その人の過去の行動を洗い出し、それらも併せて執拗に非難するような行動がよく見られる。晒しと呼ばれる行為だと思う。
確かに、伊是名夏子さんの過去の行動で、「それはよくないな」と思う事例はいくつか見つかった。
しかし、既に法的には時効を迎えたと思われる古い過去を、声高に非難する合理性はないように思う。
話は変わるが、視覚障碍者の投稿を読むと、白杖を持って歩いている時に誰かとぶつかった後、その人から心無い言葉を浴びせられたという投稿がいくつも見つかる。
他の障碍者やハンディキャップを持つ人も、そういう経験をしているのだろうと思う。
そんな心無い言葉を浴びせる人は、たぶんその人の心の中に、障碍者への「偏見」というバリア(障壁)を持っていると思う。
心の中のバリア(障壁)は、目に見えるものではないので、取り除く=バリアフリーを作るのはとても難しいと思う。
インフラは整っているが、人の心の中はバリア(障壁)だらけのバリアフリー社会って、何かのアイロニーだろうか?
今回、伊是名夏子さんの過去の行動を非難した人の心の中に、障碍者に対するバリア(障壁)ができないことを願う。そして本当のバリアフリー社会を作るには、あなたの協力が必要だと訴えたい。
私はまだもやもやしている。