はてなキーワード: 家族愛とは
麻枝准×P.A.WORKSのアニメ企画第三弾だよ?Angel Beats!、Charlotteからなにか大きく変わると思ったのか?
いつもの麻枝准らしい掛け合い、ギャグ、家族愛、友情。代わり映えが無さ過ぎて逆に笑ったわ。
前二作も商業的な数字は良かったど、設定やストーリー面の評価はボロカスだったでしょ(それで体調を崩したのは同情するけど)
それなのに主要スタッフ続投だけでなく、あまつさえ佐倉綾音を再起用での新企画。初めからCharlotteのリベンジに付き合ってみるかくらいの気持ちで見て「あぁやっぱり今回もだめっぽいね」くらいの気持ちで見てればいいのに、本気で批判してる人は逆に何を期待していたのか。二度あることは三度あるっていうだろ。
ただし残り数話で完璧なストーリー展開で奇跡が起こり死んだ人が蘇って誰もが納得のハッピーエンドになる可能性もあるから様子見だけど、いつものごとく1クールじゃうまく消化しきれず尻切れトンボになるパターンだと思うので期待しないでいた方がいいよ。
子供の頃はさ、ソイツともうひとりがスゲー仲良い友達でさ、「今日何喰う?」だけで気が付いたら5時間も話してるような仲でさ、それでも俺はコンプレックス持っててさ。
おれん家は結構貧乏で、高校すら奨学金借りないと行けなかった。まぁそんなんアイツは知ってるし、そんなことで俺らの友情は変わんねーよってさ。マジでその通りでさ。
上京して社会人になってからは、ソイツらとは年に2回連絡する程度でさ、それでも毎回数時間話してたんだけど、東京での俺は抱えたコンプレックスを消化するマシンだったのよ。
自由にできる万単位の金ができて、結構女遊びした。据え膳は全部食ってた。裏切ったし裏切られた。仕事も全力でやった。
そんで海外勤務の話も出てさ、それで今もヨーロッパに住んでるんだけど、さっき数カ月ぶりに地元の友人と話してみてさ、俺は俺のコンプレックスを全部無くせてたことに気付いた。
コンプレックスある時からソイツとはずっと友達だったし、あったままでも変わらないけど、やっと対等になれたなぁって思った。
こいつんちは金あって羨ましいなぁなんて目で見てたトコ、絶対にあったからさ。それも互いに分かっててさ。
自分でちゃんと稼ぐようになってから、やっと俺は胸張ってお前らの親友だと、最高の友達だと言えるようになった気がするよ。
そしたらさ、ソイツは言う訳よ、「俺らは友達とかじゃなくてもはや家族だろ」ってさ。
これは間違いないのだが、俺=新世代=SNS世代の作品鑑賞方法で発見したことがある。
というか別に鬼滅に限った話じゃないのだが、キャッチーだから例としてタイトルを使わせてもらった。
まず前提として、俺は20代後半。インターネット中毒タイプの人間だ。
具体的には2ch、個人の感想サイト、それにまとめサイトだ。年齢を重ねてからはTwitterなんかも始めた。
真面目に、親の顔よりおそらくPCの画面の方を長く見て生きてきた。
「アホが何か言ってる」と思っていただいて結構だが、一応偏差値はそこそこ高かったし、読書感想文では県で賞も取った程度の知力はある。
まず、結論を書こう。
つまり、
「作品に感動したかどうかを決めるのは自分ではなくなった」のだ。
そういう時代が来た。ないしは来る。
要するに、鬼滅という作品を読む・観るなりして、泣く、キャラを好きになる、続きが気になる、技がカッコイイと思う。
これらの感情を、コンテンツを楽しんだ本人ではなく、最早他人が決めているということだ。
作品の評価を自分で決める能力が、「俺=新世代=SNS世代」にはもうないのだ。
「なるほど、水の呼吸というのはカッコいいんだな」「なるほど、煉獄さんの死のシーンは泣けるんだな」「義勇としのぶさんの関係はエモいんだな」
作品を読む前、もしくは後にSNSやサイトの情報を取り入れて、上のような感想を自分の中から「発掘」し「言語化」する。
そして、自分の中の感情というものを整理し、「俺はこう思ったのだ」と認識する。
これが、現代人が作品を鑑賞し、心中で行われている工程である。
「いや流石に作品でよく描かれる、家族の愛とか……そういうのはわかるだろ?」とツッコまれるかもしれない。
それが残念ながら、わからないのだ。最早家族愛は、感情の共感の最小単位ではないのだ。
俺は鬼滅の刃を見て泣いた。煉獄さんの母が出てくるシーンでそれはもう泣いた。
だが、その感情は俺以外の誰かが発露した感情を取り入れて、これは泣けるシーンだと認識したから泣いたのだ。
上の現象、俺だけのことかと思っていた。だが、どうやら違う。現職で小さな子供と触れることが多いのだが、同じことが起きている。
若年期からSNSなどに触れていると、みんなそうなっていくのだ。
(俺はまとめサイトや2ch、俺より若い世代はTwitterやLINE、という違いはあるが)
何故こうなるのか、答えは簡単だ。
俺がどう思ったのかを考える前に、SNSやネットにはわかりやすく言語化された感想が文章や映像になって落ちているからだ。
まあ、俺達の世代だけの話ではない。
「へーこのシーンってこういう意味があったんだ!」とか、「へーこのシーンの演出ってこういう意図だったのか!」
と思ったことはないだろうか。それが極大化しただけの話だ。
監督のインタビューや評論家のテキストを見て、みんなやっていたことだ。
作品に対する解釈の補助というのは、評論家という人間に職がある時点で過去から必要とされていたのは確かだろう。
だが、おそらく今、俺達の上の世代が考えているよりも、ずっと事態は進行している。
つまり、俺にとって「鬼滅の刃」が面白い理由、それは「俺の視界内の人が面白いと言っているから」だ。
「俺はこの作品が好きだから好きな人の意見だけを集める」「俺はこの作品が嫌いだから嫌いな人の意見だけ集める」
新世代は、このエコーチェンバー現象の影響を受けないのではないのか、というのが俺の考えだ。
つまりこういうことだ。
「視界内の人間が好きだと言っているから作品を好きになる」のであり、「視界内の人間が嫌いだと言っているから作品を嫌いになる」
では、今後何が起きるのか、これが一番重要なことだ。心して聞いてほしい。
おそらく、「作品に対してどう思うか」の感情を先導する人間が今後、より重要視される。
まとめサイトでは、匿名掲示板で行われた、作品への感想が打ち込まれているだろう。
おそらく、この流れがもっと明確に商業化され、工業化されていくのではないかと思う。
つまり、
「感情の先導者」が職業的に生まれるのではないか、と俺は考えている。
現在も存在する、評論家やレビュワーといったものではない。もっとプリミティブな感情の先導者だ。
「○○が可愛かった」「○○がかっこよかった」「アレは面白い」「アレはつまらない」といった感情を、これからは代表者が綴り、
俺達は彼らが思うように、思う。
そういう時代が来るのではないだろうかと考えている。
いや、もしかしたら、もうとっくにそういう時代なのかもしれない。
貴方のお子さんが「何か」に対して抱いている感想、それがYoutuberのものではないと思えるだろうか。
つまり、「作品を見て単独で何かを想うこと」が出来る人間が、おそらくは特別な存在になっていく。
ここからは少し話がズレる。
上の話、最早漫画作品だの、アニメ作品だのに限られた話ではなくなってくんじゃないか。
つまり、親子の愛から政治、飯の味、天気……事象に対するあらゆる感情を「発露」し「言語化」するための専門職が設けられるのではないかと思う。
俺達は、おそらく他人を愛する、という感想を、他人を憎む、という感想を、他人に考えてもらう日が来るのだ。
いや、もしかしたらもう来ているのかもしれない。世界はITで繋がった。
情報量は爆発した。
もう、人間の脳が処理できる総量を超えているはずだ。
ならば、本当に人は、自分の感情が自分から発せられたものであると思えるだろうか。
我思う故に我あり。
俺達は最早「我」を投げ捨てながら生きている。
例の壮絶最期でいろんな話が出てきてるんだけど
人間意識が鮮明な頃に「私がボケたら容赦なく安楽死させて」と言ったとしても、はてさて本当に認知症になった時の内心が本当に安楽死を望んでいるかどうか…
いざ本当にそうなった時のことなんて誰にも分からないと思いませんか?
他人には見えない内心が「ごめんなさい、あの時はそう言ったけど、やっぱり死ぬのはイヤです。怖い。助けて。やめて。殺さないで」と叫んでいても、「この人は安楽死を望んでいた」と処理される社会ですよ。
うーん、想像してどうなるんだろ?
だって、嫌だという意思を表情や仕草ですら訴えられない状況でベッドにくくりつけられてるのに
生きたいのか?
ただただベットから虚空を眺めるだけの毎日になんらか価値を見出して
膨大な金銭と、家族の幸せな営みや家族愛すら奪う介護を強いてまで、なお生きたいと願う虚像を設けているが
内心がわからん以上二択で
生きたいと願う人間が例え0.0001%でもいるならその可能性を否定できないから殺すなって
すげぇ残酷だよな
正しさで塗り固められた身震いするほどの悪意
最近、家族愛もののドラマにはまっている。特に、親から子供へ向けられる無償の愛に感動して涙する。
ああ私も、親の気持ちが分かる年齢に成長したのだなと感慨深い。
同時に、広く、人からの愛情に素直に感謝ができるようになった。
疎ましい、余計なお世話だと思っていた、親や先輩や上司からの叱咤激励を、
「愛情だったのだ」と、受け止めることができた。
それに気付いたとき、心に温かいものが広がり、一種の感動経験だった。
その夜は、愛情で温まった心を抱え、ベッドに向かい、満ち足りた気持ちで眠りについた。
久々に、熟睡できた気がする。
朝目がさめ、夢を思い出した。
愕然とした。私は広い意味での愛情というものに気付いて、温かな心で眠りについたはずだ。
それなのに、夢の中では上司のデスクで上司の膝に乗り、耳元で上司に「叱咤激励」されながら、あえいでいた。
頭では、「愛は素晴らしい…私も大人になった…」と感動していても
身体では「上司からの愛情って、下心あるんじゃねーの、グフフ」とよだれを垂らしている。
おりこうさんなフリをしていても、なんと身体は素直なんだ。
こんな状況の私でも良いと言ってくれる人なら結婚してるわ。
何回か告白されたけどこの状況を知ったらどう思うんだろう。
それでもいいと言うなら良いけど。
んな親はさっくり捨てろと言われると思うけど残念ながら半端に家族愛のある私は見捨てるわけにも行かずズルズル。
とはいえ父親はともかく母親は毒親の気質があるので父親が片付いたら捨てたい。
母は捨てられても父が捨てられない、かといって私一人じゃ父の介護を賄えない(時間的・金銭的)。
…という状態だったんだけど、父親がいよいよだめで施設へ(コロナの影響も大いにある)。
母親と過ごす時間が長くなるに連れ、なんでこんなのが母親なんだろうと思うばかり。
けど父親は気がかりだけど衰えと地方でコミュニケーションも取れないし、母親は新興宗教が気持ち悪いし、これを気に家族の縁を切ってもいいよね?
最初のテレビシリーズ放送のとき、スルーしてた。それは主役のヴァイオレットちゃんの格好にある。
メイド服のような(のちに違うと理解するが)衣装で、丁寧語。忠誠的なキャラクター(これも大きな勘違い)。
宣伝時点でオタクの人形のような、そんなイメージを持っていた。
評判を聞き京アニとも知り(絵柄でピンとこなかった)実際見てみると、これが違ったのだ。
まず世界観はファンタジーだった。どこかにあるかもしれない国。
でも魔法もないし、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者も出てこない。
単に作りこまれた、イメージとしては中世ヨーロッパの世界が舞台だ。
ドールというのも、文字が普及しきっていない世界でタイプライターを打つ人を、自動手記人形と呼んだ…という設定のもとでの単語だった。
主人公は元少女兵だ。この辺が本当にファンタジーなのだが、元ってところがポイントだ。今は、ただの郵便局の人。刺客も居ない。
ビジュアルでハガレン並みの義手が出てくるのでこれで戦うのかと思いきや、タイプライターを打つだけだ。
話は1話完結で、入っていきやすい。もちろん、順にみていくと味わい深い主人公の成長が感じられる。
お涙頂戴ともいえる内容かもしれない。人の恋愛や、家族愛、生死がなにかを知り、戦地で自分が何をしたかを理解していく。
そして愛を知っていき、戦地で死闘の中別れ、愛をくれていた「少佐」を思う。
ラブストーリーというと、シリーズ全体を通して言う言葉ではないかもしれない。愛の話だ。
テレビ版で、その話は綺麗に締まって満足感を得ることができるだろう。
しかし、その後の劇場版でテレビシリーズではほんのわずかな短い時間しか見てこなかったのだと、衝撃を受けた。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは劇場版を持って完結する。
劇場版こそがこのタイトルにふさわしい。つまり、映画を見ないとこの作品は語れない。
そんな映画になっている。このクオリティでシリーズものを劇場版にしたこと自体が本当に希少だと感じているし、
今後この映画が基準になるとすれば相当な覚悟を持って、アニメ映画を作らなくてはならなくなる…かもしれない。
見たことが無い人、そしてテレビ版だけを見ていた人。もしくは劇場版が初見になる人。
要するに、見なきゃ損ってことだ。
改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下は護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。
ここにその輝かしい業績を記したい。
WWII以後も熱戦の時代は続き、世界は民族自決、植民地独立、冷戦下での大国介入に伴う戦争を経験してきたが、敗戦で武装解除された日本は関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。
その冷戦下で9条の改正を目指すのが自民党、護憲が革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党は改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線が固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者の戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新で護憲派だった。
ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり現憲法は良いものだから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである。
その為護憲=お花畑、空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦の終結により日本の立場は流動的となった。
そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本は戦争への協力を求められる事になり、世論は右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界観である。多国籍軍は国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。
湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動に自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジアの民主選挙の監視である。
また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である。
先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。
憲法も法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学に接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権の自由主義的な思想的意味が延々とこね回されたりする。
国民主権の主権は元は絶対王政の国家の正統性の為のフィクションであって、統治権、外交権、交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権が思想的に称揚されるばかりだったりする。
例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権は国家に対する対外的権力だ。
統治の問題は主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATOの軍事介入の理由に人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。
コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。
改憲問題でエポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである。
西部は改憲派のテーブルに座り「憲法9条や前文の精神が日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神が浄化され理想的市民や国民が出来ると言う考えだ。
それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。
これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。
それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃんと改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。
当初から戦争の理由は疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISISが勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。
これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線を留保すべきという流れになるのは当然だ。しかも国連の影響を抑える為の政策を米国はしまくった。この為に国連路線を旨としていた日本の国際貢献もイマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である。
改憲の旗艦となった彼は新右翼の学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。
彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。
すると2007年にコバセツは自民党の憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである。
ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いでリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。
例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。
日本会議の中枢に居るような新右翼の学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。
吉田茂は後に吉田ドクトリンは撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本の海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本が重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。
徴兵は海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識が希薄な若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為だから戦争に従事させろというだけだ。
またいつのまにやら立憲主義は否定されて憲法は国民が守るべき事柄になっていった。
コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである。
何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである。機械ばらして直せなくなるガキかよ。
それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである。
つまり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。
これは左翼神学的で実学に接続しないので憲法学者が微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。
そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通の立法プロセスが付いていないのである。
こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺は朝日新聞の捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似のコンテンツとなってしまった、
南スーダンの情勢が悪化し自衛隊がPKO活動をしている地域が危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。
今回は撤収するにしろしないにしろ「国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りでPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法とPKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である。
なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである。現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったから自衛隊と憲法の問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田口閣下が前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。
更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。
だが隠蔽の責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。
つまり自衛隊に後ろから刺されたのである。制服軍人をスーツの政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家は破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。
だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。
しかも自衛隊の活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。
だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民の意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。
ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族は大事とか良い事が書いてある憲法を朗読しましょう」という流れは保護された。
アイドルのような還暦女性にポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子でロリポップを舐め続けることができた。
だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議を国民に投げかける事はしなかった。
2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末に靖国神社を参拝したところ、日米関係は戦後最大の冷え込みとなった。
太平洋地域の戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである。靖国参拝は英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんである。バカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。
因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義の右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタ・ポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。
こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である。
米議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本の憲法を改正させて米国の戦争をサポートさせるというのは共和民主問わず共同認識になっていたのだ。
集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法で合法としてしまったのだから改憲のカードは無くなった事になる。
PKOの歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本が軍事的な国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。
尚、日本は民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権を承認していた。あの虐殺で国民の半分近くを殺しまくったポルポトを国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。
こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。
護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派の憲法学者も全て護憲派に寝返った。
一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。
そんな情況の空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味が判らんかった聖帝閣下は友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達の稲田防衛大臣は制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。
俺=世界。
俺は世界そのもの、というのはラリパッパな妄言のはずだけど、形而上学という考え方をかますと許されるんだから不思議なことだ。
例えば雷鳴。
雷が鳴る音を聴くとき、自然科学としては、雷鳴という「客体」があって、それを俺という「主体」が感じる、という構図になるはずだ。
しかし、と考えてみる。
もしも雷が鳴っているその場所に誰もいなかったら、果たして雷鳴がそこに「ある」と本当に言えるだろうか?
雷が鳴り、それを俺が聴いている、という関係の一方で、俺という存在こそが雷鳴を生じさせていると言えないだろうか?
さらに、もう一段飛躍する。もし、俺こそが雷鳴の原因となるなら、雷鳴と俺を分ける必要は、実はないんじゃないか?
「俺」が「雷鳴」を聴いている、のではない。
ただ「雷が鳴っている」。このとき、俺は俺であるとともに雷鳴そのものだ。
俺にとって、俺以外のすべての人間に自我があるかは証明できない。
周りの人々はすべて俺の作り出した妄想かもしれないし(「水槽の脳」)、もしかしたら、意思のない人形であってもおかしくはない(理屈上、ということで、本当にそうだと思っているわけじゃない)。
「俺」は違う。
他者の場合とは違い、そこに意思があるかどうか証明しようとして失敗するまでもなく、俺は自分に意思があることを理解している。我思う…ってことだ。
そして、そんな俺はなぜか、この時代に日本の男性の体に「生じた」。これが一番わけがわからない。
俺が生まれる前にも宇宙は当然存在していたし(一説には138億年前…)、俺が死んだ後も宇宙は当然続いていくが(こっちは一説には10の100乗年後に「終わる」らしく、厳密に言うと、あらゆる運動がそこで停止するので時間の意味がなくなるらしい)、特別な俺はなぜか、20世紀後半に生まれたいま30過ぎの日本の男性だった。
自分ってものについてラディカルに考えると、要は自分に関するこだわりを強くしていくと、逆説的に、肉体としての自分が何者であるかは価値を失っていく。
俺は別に、10年後にジンバブエの5歳の少女に生まれてもおかしくなかった。
(もしも)自分について俯瞰することさえ可能なら、アマゾンの猿でもよかったのだ。
でも、とにかく俺は日本の俺だった。たぶん理由はないんだろう。にもかかわらず、なぜ? という強烈な驚愕は消え去らない。
俺はこの世界において超超超…と超を100回重ねても足りない究極の特異点だ。
もちろん、俺以外の人たちだって、「彼らの世界」ではそれぞれが唯一無二のポイントになる。
でも俺はそれを、理屈ではなく想像で理解することしかできない。
他者を社会的に尊重することは当然だが、彼らが結局、俺という世界の一部でしかなく、彼らが死のうと俺の世界は終わらないが、俺が死ねば世界そのものが消滅するという事実は、それとはまったく別のことだ(一連のこの辺は、永井均『子どものための〈哲学〉』『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』にくわしい)。
…
そして俺は、ずっと両親との関係で悩んでいる。
こんな観念的で、浮世離れした形而上学に果てしなくぶっ飛ばされたはずなのに、血縁のしがらみに何十年もさいなまれている。
仲が悪いわけじゃない。
ただ俺も、母親も父親も、うまいことお互いへの愛情を示せないでいるフシがある。
愛情がないのではなく、表現できないのだ。なんとなくだけど、バリバリのビジネスマンだった二人が、乳児のときから長いこと俺の横にいられなかった罪悪感みたいなものが原因っぽい気がする。
俺はもう30過ぎなのに…。
そんなの、もういいだろ…と思いながら、呆れている一方で完全に笑えないのは、たぶん俺もどこかで、彼らを許していないんじゃないか、という気がする。
もういいよ、父さん母さん、と言いたい。
というか、何も言わないでただ抱きしめてあげるのが正しい気もする。一度だけじゃなく、会うたびにそうしてやるのが正しい気がする。
そうしたいができない。俺たちの誰かが死ぬまでに、俺はそうしないといけないと感じる。
その一方で、三人でそろって食事しているとき、不意に、「この人たちはなんなんだろうな?」という気持ちになることがある。
話をしていて、特別難しいことをしゃべっているわけじゃなく、単純に俺と、頭の中を覗いてみるわけにいかない他者の間で、ちゃんと「会話」が成り立つことが奇妙でしかたがなくなる。
例えそれが両親であっても、「こいつらはなんなんだ?」 と思う。
俺の言ってることが、相手の言ってることが、お互いに本当にわかってるのかな? と思う。確かめようがない。なんとなくその場では笑って飯を食ってる。
…
形而上学と家族への愛情と、どっちかがどっちかへの反発なんだろうな、と思っている。
本当は家族の一員の息子としてキレイに収まりたいけど恥じらいと恐怖心で叶わないために、極端な哲学に走ってごまかしている。
あるいは、心の相性としては形而上学の世界の方が向いているが、どっぷり漬かるのが怖いせいで、家族に目を向けたくなる時がある。
若いときから、もう面倒だったから、どっちかに決定的に俺を方向付けてほしかった。
ベタベタしすぎるくらいまともな家族愛に包まれるか、SFチックなぐらい高純度な精神体になってしまいたかった。
どっちかになれると思っていたがどっちにもなれない。たぶんどっちにもなれないんだろうな、というのが、最近薄々わかってもきている気がする。