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2020-12-19

鬼滅の刃(14巻まで)を見た

ふつーーーーーーだった。ガロ系だとかマイナー向けとかそういう感想があったから期待してたがそんなことなジャンプ王道漫画だったでござる。

ただ、家族愛とか親、兄弟、お年寄りへの尊敬というテーマがどっさりある感じだから、そういうのが嫌いな人はほんと合わないだろうなー。毒親持ちとかKKOとかヒキニートとか見ると発狂すると思う。

キャラクターも擦れてないから多分作者はお育ちがいい。間違いない。

とくにすごい面白かった感じはなかったからこれが流行っているのはまだこのテーマが受ける人達日本に十分いるってことだよな。ちょっと安心した。

2020-12-10

今更「神様になった日」を批判している方がおかし

麻枝准×P.A.WORKSアニメ企画第三弾だよ?Angel Beats!Charlotteからなにか大きく変わると思ったのか?

いつもの麻枝准らしい掛け合い、ギャグ家族愛友情。代わり映えが無さ過ぎて逆に笑ったわ。

前二作も商業的な数字は良かったど、設定やストーリー面の評価はボロカスだったでしょ(それで体調を崩したのは同情するけど)

それなのに主要スタッフ続投だけでなく、あまつさえ佐倉綾音を再起用での新企画。初めからCharlotteリベンジに付き合ってみるかくらいの気持ちで見て「あぁやっぱり今回もだめっぽいね」くらいの気持ちで見てればいいのに、本気で批判してる人は逆に何を期待していたのか。二度あることは三度あるっていうだろ。

ただし残り数話で完璧ストーリー展開で奇跡が起こり死んだ人が蘇って誰もが納得のハッピーエンドになる可能性もあるから様子見だけど、いつものごとく1クールじゃうまく消化しきれず尻切れトンボになるパターンだと思うので期待しないでいた方がいいよ。

2020-12-08

anond:20201208181805

10年以上前CLANNADだって恋愛から家族愛だし、オタクの間で人気高かったじゃん……

どの時代家族愛王道の人気なんだよ

2020-12-06

anond:20201206001137

最近家族愛とか子持ち否定する声が大きいけど

そうすると結局金とか仕事いくら成功したとか自分時間いか有意義に過ごすとかいそんな価値しか残らなくない?

歳取ったら赤の他人の支えなしに生きてけないジジババ化するのに

2020-12-01

anond:20201201005721

鬼滅の設定を見た時正に羊のうたを思い出していた、それと月姫

まあ兄妹で妖しい関係だったらここまで国民的大ヒットにはならなかっただろうし

純粋家族愛兄弟愛だから色んな人に受けたんだろうなぁって事も分かる…

銀魂流行ってた頃に内容よく知らず銀神が一番エロいシチュエーションだなと思ってたんだが

これも家族愛肯定おじロリ否定派に真っ向拒否されるんだろうか

anond:20201201001940

あんな素敵な家族愛性的な目で見ることなんてできんわ

下劣すぎて無理

恋愛感情なんてなくて良い

2020-11-15

最高の友達

先ほど9時間ぶっ続けで地元友達と話し続けた。幸せ

子供の頃はさ、ソイツともうひとりがスゲー仲良い友達でさ、「今日何喰う?」だけで気が付いたら5時間も話してるような仲でさ、それでも俺はコンプレックス持っててさ。

おれん家は結構貧乏で、高校すら奨学金借りないと行けなかった。まぁそんなんアイツは知ってるし、そんなことで俺らの友情は変わんねーよってさ。マジでその通りでさ。

 

上京して社会人になってからは、ソイツらとは年に2回連絡する程度でさ、それでも毎回数時間話してたんだけど、東京での俺は抱えたコンプレックスを消化するマシンだったのよ。

自由にできる万単位の金ができて、結構女遊びした。据え膳は全部食ってた。裏切ったし裏切られた。仕事も全力でやった。

そんで海外勤務の話も出てさ、それで今もヨーロッパに住んでるんだけど、さっき数カ月ぶりに地元の友人と話してみてさ、俺は俺のコンプレックスを全部無くせてたことに気付いた。

 

コンプレックスある時からソイツとはずっと友達だったし、あったままでも変わらないけど、やっと対等になれたなぁって思った。

こいつんちは金あって羨ましいなぁなんて目で見てたトコ、絶対にあったからさ。それも互いに分かっててさ。

自分ちゃんと稼ぐようになってから、やっと俺は胸張ってお前らの親友だと、最高の友達だと言えるようになった気がするよ。

そしたらさ、ソイツは言う訳よ、「俺らは友達とかじゃなくてもはや家族だろ」ってさ。

俺は家庭ボロボロから家族愛なんて知らなかったけどさ、これが家族なのかね?

次の彼女はアイツらに胸張って紹介できるような子がいいな。やっと人生始まった。

2020-11-04

鬼滅の刃は何故面白いのか=作品感想自分で考える時代は終わった→そして起きること

鬼滅の刃面白い!」

これは間違いないのだが、俺=新世代=SNS世代作品鑑賞方法発見したことがある。

というか別に鬼滅に限った話じゃないのだが、キャッチーから例としてタイトルを使わせてもらった。

俺がこの項目でしたいのは1つの事実確認と、1つの反論だ。

まず前提として、俺は20代後半。インターネット中毒タイプ人間だ。

小学校のころからネットに入り浸ってた。

具体的には2ch個人の感想サイト、それにまとめサイトだ。年齢を重ねてからTwitterなんかも始めた。

真面目に、親の顔よりおそらくPCの画面の方を長く見て生きてきた。

「アホが何か言ってる」と思っていただいて結構だが、一応偏差値はそこそこ高かったし、読書感想文では県で賞も取った程度の知力はある。

まず、結論を書こう。

「もう作品感想自分で考える時代は終わった」

まり

作品に感動したかどうかを決めるのは自分ではなくなった」のだ。

そういう時代が来た。ないしは来る。

要するに、鬼滅という作品を読む・観るなりして、泣く、キャラを好きになる、続きが気になる、技がカッコイイと思う。

これらの感情を、コンテンツを楽しんだ本人ではなく、最早他人が決めているということだ。

作品評価自分で決める能力が、「俺=新世代=SNS世代」にはもうないのだ。

「なるほど、水の呼吸というのはカッコいいんだな」「なるほど、煉獄さんの死のシーンは泣けるんだな」「義勇としのぶさんの関係エモいんだな」

作品を読む前、もしくは後にSNSサイト情報を取り入れて、上のような感想自分の中から「発掘」し「言語化」する。

そして、自分の中の感情というものを整理し、「俺はこう思ったのだ」と認識する。

これが、現代人が作品を鑑賞し、心中で行われている工程である

「いや流石に作品でよく描かれる、家族の愛とか……そういうのはわかるだろ?」とツッコまれるかもしれない。

それが残念ながら、わからないのだ。最早家族愛は、感情共感の最小単位ではないのだ。

今の世代なら、きっと俺の言葉を少なから理解してくれる。

俺は鬼滅の刃を見て泣いた。煉獄さんの母が出てくるシーンでそれはもう泣いた。

だが、その感情は俺以外の誰かが発露した感情を取り入れて、これは泣けるシーンだと認識たから泣いたのだ。

上の現象、俺だけのことかと思っていた。だが、どうやら違う。現職で小さな子供と触れることが多いのだが、同じことが起きている。

若年期からSNSなどに触れていると、みんなそうなっていくのだ。

(俺はまとめサイト2ch、俺より若い世代TwitterLINE、という違いはあるが)

何故こうなるのか、答えは簡単だ。

俺がどう思ったのかを考える前に、SNSネットにはわかりやす言語化された感想文章映像になって落ちているからだ。

自分でどう感じたか、考える必要が俺達の世代にはない。


まあ、俺達の世代だけの話ではない。

「へーこのシーンってこういう意味があったんだ!」とか、「へーこのシーンの演出ってこういう意図だったのか!」

と思ったことはないだろうか。それが極大化しただけの話だ。

監督インタビュー評論家テキストを見て、みんなやっていたことだ。

作品に対する解釈の補助というのは、評論家という人間に職がある時点で過去から必要とされていたのは確かだろう。

だが、おそらく今、俺達の上の世代が考えているよりも、ずっと事態は進行している。

以上が、1つの事実確認だ。

まり、俺にとって「鬼滅の刃」が面白い理由、それは「俺の視界内の人が面白いと言っているから」だ。

序盤の文章に戻る、1つの反論をこれから行う。

「俺はこの作品が好きだから好きな人意見だけを集める」「俺はこの作品が嫌いだから嫌いな人の意見だけ集める」

といったエコーチェーンバー現象というやつへの反論だ。

新世代は、このエコーチェンバー現象の影響を受けないのではないのか、というのが俺の考えだ。

まりこういうことだ。

「視界内の人間が好きだと言っているか作品を好きになる」のであり、「視界内の人間が嫌いだと言っているか作品を嫌いになる」

エコーチェーンバーの逆であるこちらが、正しい順序なのだ

では、今後何が起きるのか、これが一番重要なことだ。心して聞いてほしい。

おそらく、「作品に対してどう思うか」の感情を先導する人間が今後、より重要視される。

今、SNSでは作品感想を呟いている人間がいるだろう。

まとめサイトでは、匿名掲示板で行われた、作品への感想が打ち込まれているだろう。

おそらく、この流れがもっと明確に商業化され、工業化されていくのではないかと思う。

まり

感情の先導者」が職業的に生まれるのではないか、と俺は考えている。

現在存在する、評論家レビュワーといったものではない。もっとプリミティブな感情の先導者だ。

「○○が可愛かった」「○○がかっこよかった」「アレは面白い」「アレはつまらない」といった感情を、これから代表者綴り

俺達は彼らが思うように、思う。

そういう時代が来るのではないだろうかと考えている。

いや、もしかしたら、もうとっくにそういう時代なのかもしれない。

貴方のお子さんが「何か」に対して抱いている感想、それがYoutuberのものではないと思えるだろうか。

まり、「作品を見て単独で何かを想うこと」が出来る人間が、おそらくは特別存在になっていく。

これが俺の未来への予言だ。

追記

ここからは少し話がズレる。

上の話、最早漫画作品だの、アニメ作品だのに限られた話ではなくなってくんじゃないか

まり、親子の愛から政治、飯の味、天気……事象に対するあらゆる感情を「発露」し「言語化」するための専門職が設けられるのではないかと思う。

俺達は、おそらく他人を愛する、という感想を、他人を憎む、という感想を、他人に考えてもらう日が来るのだ。

いや、もしかしたらもう来ているのかもしれない。世界ITで繋がった。

情報量は爆発した。

もう、人間の脳が処理できる総量を超えているはずだ。

ならば、本当に人は、自分感情自分から発せられたものであると思えるだろうか。

我思う故に我あり。

なんて言葉事実だとするなら、

俺達は最早「我」を投げ捨てながら生きている。

まり存在を自ら捨てていくのだろう。

怖いとは思わない。来たのだ。自分を捨て、他人感情というスープと同質化する日が。

2020-10-31

anond:20201031164851

三月ライオンモノローグ祭りだなぁ

もはやポエム

炭治郎が戦う理由も、分かり易いしね

ハガレンにも同じところあるけど、妹を元に戻すため、家族愛

海賊王になるって理由より、身近で共感は得やすいと思う

2020-10-22

話題尊厳死

例の壮絶最期でいろんな話が出てきてるんだけど

安楽死選択肢」とても怖いですよ。

人間意識が鮮明な頃に「私がボケたら容赦なく安楽死させて」と言ったとしても、はてさて本当に認知症になった時の内心が本当に安楽死を望んでいるかどうか…

いざ本当にそうなった時のことなんて誰にも分からないと思いませんか?

他人には見えない内心が「ごめんなさい、あの時はそう言ったけど、やっぱり死ぬのはイヤです。怖い。助けて。やめて。殺さないで」と叫んでいても、「この人は安楽死を望んでいた」と処理される社会ですよ。

みんなちゃん想像して

うーん、想像してどうなるんだろ?

だって、嫌だという意思を表情や仕草ですら訴えられない状況でベッドにくくりつけられてるのに

生きたいのか?

ただただベットから虚空を眺めるだけの毎日になんらか価値見出し

膨大な金銭と、家族幸せな営みや家族愛すら奪う介護を強いてまで、なお生きたいと願う虚像を設けているが

その虚像のために、死にたい人間も殺すなってか

内心がわからん以上二択で

生きたいと願う人間が例え0.0001%でもいるならその可能性を否定できないから殺すなって

すげぇ残酷だよな

正しさで塗り固められた身震いするほどの悪意

2020-10-19

あのマンガ映画流行ったのは保守反動に過ぎない

家族愛と刀と暴力

まさに旧来の保守派が好きそうな話だ。

しかし、家族解体され、暴力市民生活から徹底的に排除されるのが現代

大衆創作上で一時の憧れを抱いているのに過ぎないのではないか

2020-10-17

腐女子言い訳

「私がこの作品二次創作において男×女じゃなくて男×男にハマった理由」を長文語りする人をたまに見かけるが、

性別を超えた親友

・幼馴染で家族愛から

・二人はこういう性格から(作品内では仲良いけど)根底では合わない/真には分かり合えない

とかまあ、その男女が恋愛に至らない理由をつらつらと語る腐女子をたまに見かけるが、

元の作品内の描写に反してることの後ろめたさなのか、わざわざ丁寧に「受け入れられない理由」を語ってくれるんだけど、言い訳しか見えないんだよね

その男CPが好きな身としては貶められているみたいでモヤモヤする

男女CPよりホモのが萌える!!!!でいいじゃんね

2020-10-12

最近家族愛ものドラマはまっている特に、親から子供へ向けられる無償の愛に感動して涙する。

ああ私も、親の気持ちが分かる年齢に成長したのだなと感慨深い。

同時に、広く、人から愛情に素直に感謝ができるようになった。

疎ましい、余計なお世話だと思っていた、親や先輩や上司から叱咤激励を、

愛情だったのだ」と、受け止めることができた。

それに気付いたとき、心に温かいものが広がり、一種の感動経験だった。

その夜は、愛情で温まった心を抱え、ベッドに向かい、満ち足りた気持ちで眠りについた。

久々に、熟睡できた気がする。

朝目がさめ、夢を思い出した。

上司と、職場エッチなことをする夢だった。

愕然とした。私は広い意味での愛情というものに気付いて、温かな心で眠りについたはずだ。

それなのに、夢の中では上司デスク上司の膝に乗り、耳元で上司に「叱咤激励」されながら、あえいでいた。

頭では、「愛は素晴らしい…私も大人になった…」と感動していても

身体では「上司から愛情って、下心あるんじゃねーの、グフフ」とよだれを垂らしている。

おりこうさんなフリをしていても、なんと身体は素直なんだ。

それもまた、ひとつの感動体験だった…。

という話を誰かにしたいのだけど、誰にも話せないからここに書いた。

2020-10-10

実りゆく観た

面白かった

家族愛お話だった

途中で爆笑問題が出たんだけど、会話のテンポがすごく自然面白くて

芸人が演技うまいっていうのも確かになと思った

ステージネタをやるけど全然うけなくてつらい……みたいなシーンはないので、そういうのが苦手な人でも安心です

2020-10-04

ネタばれ🐜】ミッドナイトスワンみてきた

邦画史上最高傑作」は言い過ぎだけど、草彅剛代表作にはなりえる可能性があると思った

ラスト賛否両論あると思う

批判する人はたんにめでたしめでたしで終わるハッピーエンドではなかったこと、トランスジェンダーの抱える問題をある一面しか捉えてないことあたりを批判するのかなと思う

まあでも「ラブストーリー」かといえば半分あたってるし半分は外れてる

ラブはラブでも男女の愛というよりは家族愛

ストーリー上は無駄に思えたことでもラストから逆算するとすべてが必要なことだった

2020-09-30

どこまで親の面倒をみるか

こちとら好きで独身でいるんじゃない。

父親障害者手帳あり・数十年)

母親新興宗教(数十年・父親障害発生より前)

こんな状況の私でも良いと言ってくれる人なら結婚してるわ。

何回か告白されたけどこの状況を知ったらどう思うんだろう。

それでもいいと言うなら良いけど。

んな親はさっくり捨てろと言われると思うけど残念ながら半端に家族愛のある私は見捨てるわけにも行かずズルズル。

とはいえ父親はともかく母親毒親気質があるので父親が片付いたら捨てたい。

というか母親はともかく父親不憫しょうがない。

母は捨てられても父が捨てられない、かといって私一人じゃ父の介護を賄えない(時間的金銭的)。

…という状態だったんだけど、父親がいよいよだめで施設へ(コロナの影響も大いにある)。

母親と過ごす時間が長くなるに連れ、なんでこんなのが母親なんだろうと思うばかり。

正直お金と余裕があれば父親の面倒は見たい

けど父親は気がかりだけど衰えと地方コミュニケーションも取れないし、母親新興宗教気持ち悪いし、これを気に家族の縁を切ってもいいよね?

と、家族に振り回された人生を振り返って思う。

2020-09-29

クソレビューおじさん

Amazon primeなんかでクソみたいな的外れ批判(家族愛もの人間裏切りもっと描けとか)のレビューつけてるおじさん

たいていホーム覗くと、グラドル写真集萌えアニメに⭐︎5つけて褒めちぎってる

なんなんだよ

2020-09-25

ヴァイオレット・エヴァーガーデンを見たことが無い人へ

最初テレビシリーズ放送ときスルーしてた。それは主役のヴァイオレットちゃんの格好にある。

メイド服のような(のちに違うと理解するが)衣装で、丁寧語。忠誠的なキャラクター(これも大きな勘違い)。

そして「ドール」という単語

宣伝時点でオタク人形のような、そんなイメージを持っていた。

評判を聞き京アニとも知り(絵柄でピンとこなかった)実際見てみると、これが違ったのだ。

まず世界観ファンタジーだった。どこかにあるかもしれない国。

でも魔法もないし、宇宙人未来人、異世界人、超能力者も出てこない。

単に作りこまれた、イメージとしては中世ヨーロッパ世界舞台だ。

ドールというのも、文字が普及しきっていない世界タイプライターを打つ人を、自動手記人形と呼んだ…という設定のもとでの単語だった。

主人公元少女兵だ。この辺が本当にファンタジーなのだが、元ってところがポイントだ。今は、ただの郵便局の人。刺客も居ない。

ビジュアルハガレン並みの義手が出てくるのでこれで戦うのかと思いきや、タイプライターを打つだけだ。

話は1話完結で、入っていきやすい。もちろん、順にみていくと味わい深い主人公の成長が感じられる。

お涙頂戴ともいえる内容かもしれない。人の恋愛や、家族愛、生死がなにかを知り、戦地自分が何をしたか理解していく。

戦争孤児のような少女が人の感情の揺れを知っていく。

そして愛を知っていき、戦地死闘の中別れ、愛をくれていた「少佐」を思う。

ラブストーリーというと、シリーズ全体を通して言う言葉ではないかもしれない。愛の話だ。

テレビ版で、その話は綺麗に締まって満足感を得ることができるだろう。

しかし、その後の劇場版テレビシリーズではほんのわずかな短い時間しか見てこなかったのだと、衝撃を受けた。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン劇場版を持って完結する。

劇場版こそがこのタイトルにふさわしい。つまり映画を見ないとこの作品は語れない。

そんな映画になっている。このクオリティシリーズもの劇場版したこと自体が本当に希少だと感じているし、

今後この映画基準になるとすれば相当な覚悟を持って、アニメ映画を作らなくてはならなくなる…かもしれない。

たことが無い人、そしてテレビ版だけを見ていた人。もしくは劇場版初見になる人。

きっとこの映画あなたに何かを残すはずだと、確信している。

要するに、見なきゃ損ってことだ。

2020-09-01

憲法改正論議における安倍晋三の華々しい業績

改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。

ここにその輝かしい業績を記したい。

 

まずは安倍晋三以前の状況から

WWII以後も熱戦の時代は続き、世界民族自決植民地独立冷戦下での大国介入に伴う戦争経験してきたが、敗戦武装解除された日本関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。

その冷戦下で9条改正を目指すのが自民党護憲革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新護憲派だった。

 

ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり憲法は良いものから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである

その為護憲=お花畑空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦終結により日本立場は流動的となった。

そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本戦争への協力を求められる事になり、世論右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界である多国籍軍国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。

 

湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジア民主選挙監視である

また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である

 

先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。

憲法法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権自由主義的な思想意味が延々とこね回されたりする。

国民主権主権は元は絶対王政国家正統性の為のフィクションであって、統治権外交権交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権思想的に称揚されるばかりだったりする。

一言で言うと左翼神学的な評価がされていたのである

 

例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権国家に対する対外的権力だ。

統治問題主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATO軍事介入理由人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。

 

コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。

 

改憲問題エポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである

西部改憲派テーブルに座り「憲法9条や前文の精神日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神浄化され理想的市民国民が出来ると言う考えだ。

それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。

これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。

 

それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃん改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。

当初から戦争理由疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISIS勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。

これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線留保すべきという流れになるのは当然だ。しか国連の影響を抑える為の政策米国しまくった。この為に国連路線を旨としていた日本国際貢献イマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である

 

そこに颯爽と現れたのが我等が安倍晋三閣下であった。

改憲旗艦となった彼は新右翼学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。

彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。

すると2007年にコバセツは自民党憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである

ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。

例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。

日本会議の中枢に居るような新右翼学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。

吉田茂は後に吉田ドクトリン撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。

徴兵海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識希薄若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為から戦争従事させろというだけだ。

 

またいつのまにやら立憲主義否定されて憲法国民が守るべき事柄になっていった。

コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである

何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである機械ばらして直せなくなるガキかよ。

それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである

まり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。

これは左翼神学的で実学接続しないので憲法学者微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。

そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通立法プロセスが付いていないのである

 

こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺朝日新聞捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似コンテンツとなってしまった、

 

安倍閣下の華々しい業績はこれだけではない。

南スーダンPKO日報破棄はその最たるものだ。

南スーダンの情勢が悪化自衛隊PKO活動をしている地域危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。

今回は撤収するにしろしないにしろ国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法PKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である

なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったか自衛隊憲法問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田閣下前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。

 

更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。

だが隠蔽責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。

まり自衛隊に後ろから刺されたのである制服軍人スーツ政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。

だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。

しか自衛隊活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。

だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。

ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族大事とか良い事が書いてある憲法朗読しましょう」という流れは保護された。

アイドルのような還暦女性ポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子ロリポップを舐め続けることができた。

 

安保法制憲法解釈変更問題本来なら改憲問題だ。

だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議国民に投げかける事はしなかった。

この理由時系列を辿ると判る。

2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末靖国神社を参拝したところ、日米関係戦後最大の冷え込みとなった。

太平洋地域戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである靖国参拝英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんであるバカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。

因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。

こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である

議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本憲法改正させて米国戦争サポートさせるというのは共和民主わず共同認識になっていたのだ。

こういう経緯なので改憲論議という手順を踏まずにやったのだ。

集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法合法としてしまったのだから改憲カードは無くなった事になる。

 

カンボジア独裁化に関しても何も言っていない。

PKO歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本軍事的国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。

尚、日本民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権承認していた。あの虐殺国民の半分近くを殺しまくったポルポト国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。

 

こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。

護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派憲法学者も全て護憲派に寝返った。

一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。

そんな情況空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味判らんかった聖帝閣下友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達稲田防衛大臣制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。

統計公文書も無くなった国に護憲の要石を深く打ち込みやがて聖帝閣下も去る。

2020-08-29

俺は形而上学的に世界であり、普通に息子っていう話

俺=世界

俺は世界のもの、というのはラリパッパな妄言のはずだけど、形而上学という考え方をかますと許されるんだから不思議なことだ。

例えば雷鳴。

雷が鳴る音を聴くとき自然科学としては、雷鳴という「客体」があって、それを俺という「主体」が感じる、という構図になるはずだ。

しかし、と考えてみる。

もしも雷が鳴っているその場所に誰もいなかったら、果たして雷鳴がそこに「ある」と本当に言えるだろうか?

雷が鳴り、それを俺が聴いている、という関係の一方で、俺という存在こそが雷鳴を生じさせていると言えないだろうか?

さらに、もう一段飛躍する。もし、俺こそが雷鳴の原因となるなら、雷鳴と俺を分ける必要は、実はないんじゃないか

「俺」が「雷鳴」を聴いている、のではない。

主語はない。主客の区別もない。

ただ「雷が鳴っている」。このとき、俺は俺であるとともに雷鳴そのものだ。

あるいは独我論。もしくは哲学的ゾンビのことを考える。

俺にとって、俺以外のすべての人間自我があるかは証明できない。

周りの人々はすべて俺の作り出した妄想かもしれないし(「水槽の脳」)、もしかしたら、意思のない人形であってもおかしくはない(理屈上、ということで、本当にそうだと思っているわけじゃない)。

「俺」は違う。

他者場合とは違い、そこに意思があるかどうか証明しようとして失敗するまでもなく、俺は自分意思があることを理解している。我思う…ってことだ。

そして、そんな俺はなぜか、この時代日本男性の体に「生じた」。これが一番わけがからない。

俺が生まれる前にも宇宙は当然存在していたし(一説には138億年前…)、俺が死んだ後も宇宙は当然続いていくが(こっちは一説には10100乗年後に「終わる」らしく、厳密に言うと、あらゆる運動がそこで停止するので時間意味がなくなるらしい)、特別な俺はなぜか、20世紀後半に生まれたいま30過ぎの日本男性だった。

自分ってものについてラディカルに考えると、要は自分に関するこだわりを強くしていくと、逆説的に、肉体としての自分が何者であるかは価値を失っていく。

俺は別に10年後にジンバブエの5歳の少女に生まれてもおかしくなかった。

50年前のニューヨークホームレスでもおかしくなかった。

(もしも)自分について俯瞰することさえ可能なら、アマゾンの猿でもよかったのだ。

誰であっても、形而上学的な「俺」の本質は変わらない。

でも、とにかく俺は日本の俺だった。たぶん理由はないんだろう。にもかかわらず、なぜ? という強烈な驚愕は消え去らない。

俺はこの世界において超超超…と超を100回重ねても足りない究極の特異点だ。

もちろん、俺以外の人たちだって、「彼らの世界」ではそれぞれが唯一無二のポイントになる。

でも俺はそれを、理屈ではなく想像理解することしかできない。

他者社会的尊重することは当然だが、彼らが結局、俺という世界の一部でしかなく、彼らが死のうと俺の世界は終わらないが、俺が死ね世界のもの消滅するという事実は、それとはまったく別のことだ(一連のこの辺は、永井均子どものための〈哲学〉』『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』にくわしい)。

そして俺は、ずっと両親との関係で悩んでいる。

こんな観念的で、浮世離れした形而上学に果てしなくぶっ飛ばされたはずなのに、血縁のしがらみに何十年もさいなまれている。

仲が悪いわけじゃない。

ただ俺も、母親父親も、うまいことお互いへの愛情を示せないでいるフシがある。

愛情がないのではなく、表現できないのだ。なんとなくだけど、バリバリビジネスマンだった二人が、乳児ときから長いこと俺の横にいられなかった罪悪感みたいなものが原因っぽい気がする。

俺はもう30過ぎなのに…。

そんなの、もういいだろ…と思いながら、呆れている一方で完全に笑えないのは、たぶん俺もどこかで、彼らを許していないんじゃないか、という気がする。

もういいよ、父さん母さん、と言いたい。

というか、何も言わないでただ抱きしめてあげるのが正しい気もする。一度だけじゃなく、会うたびにそうしてやるのが正しい気がする。

そうしたいができない。俺たちの誰かが死ぬまでに、俺はそうしないといけないと感じる。

その一方で、三人でそろって食事しているとき、不意に、「この人たちはなんなんだろうな?」という気持ちになることがある。

話をしていて、特別難しいことをしゃべっているわけじゃなく、単純に俺と、頭の中を覗いてみるわけにいかない他者の間で、ちゃんと「会話」が成り立つことが奇妙でしかたがなくなる。

例えそれが両親であっても、「こいつらはなんなんだ?」 と思う。

俺の言ってることが、相手の言ってることが、お互いに本当にわかってるのかな? と思う。確かめようがない。なんとなくその場では笑って飯を食ってる。

形而上学家族への愛情と、どっちかがどっちかへの反発なんだろうな、と思っている。

本当は家族の一員の息子としてキレイに収まりたいけど恥じらいと恐怖心で叶わないために、極端な哲学に走ってごまかしている。

あるいは、心の相性としては形而上学世界の方が向いているが、どっぷり漬かるのが怖いせいで、家族に目を向けたくなる時がある。

若いときから、もう面倒だったから、どっちかに決定的に俺を方向付けてほしかった。

ベタベタしすぎるくらいまともな家族愛に包まれるか、SFチックなぐらい高純度な精神体になってしまたかった。

どっちかになれると思っていたがどっちにもなれない。たぶんどっちにもなれないんだろうな、というのが、最近薄々わかってもきている気がする。

2020-08-13

anond:20200813193855

ワイは家族愛映画見ても感慨深くならないやで

anond:20200813021204

関係ないけど俺は異性同士の友情否定派なんだよな、絶対に成立しないと断言するほど根拠のある物ではないけど

異性同士の好意友情と恋心の違いって俗っぽい言い方だとその相手恋人にまでなりたいかで良いんだろうか

もし「好意」という感情友情恋愛感情家族愛とはっきりと区別出来るような物ではないもっと大きな物であるなら

その友情はあるけど恋愛感情はない異性の友達って「恋愛的に好きだと思えるくらい好きではない」ってだけなんじゃないか

まあこれを言うと同性の親友も「幾ら親友と言っても恋愛的に好きだと思えるくらい好きではないだけ」って事になるんだろうけど

お互いに深く思い合ってるけど決して恋愛関係にはならない・なりたくない異性同士の友人関係って世の中どれくらい居るもんかな

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