はてなキーワード: 学習指導要領とは
自分はあまり賢くない受験生だが、その自分ですら、民間試験といい、新テストといい、永田町の人たちは就職氷河期ならぬ進学氷河期でも起こそうとしているのか、と疑いたくなるほどの出来である。
自分は英検、GTEC、TEAPと受けたが、かなりレベルに差がある。どれがどれとは明言しないが、こんな簡単なのか、というものからセンター試験より難しいものもある。
そんな差がある中で、どうやって共通の成績を出せるのか。一応、CEFRというものがあるらしいが、能力が変わらない自分一人でも試験ごとにズレが生じた。
能力に差がある人が受ければ、自分の実力以上もしくは以下の成績になってしまうだろう。それを「公平」と呼べるわけがない。
そして、首都圏の人たちはまだいい。自分に合った試験もしくは簡単な試験を選択できる。だが、地方の人たちはどうだろうか。地方の人でも受けやすいように受験会場を近くに設置するとあるが、それはすべての団体が同じような場所に設置してくれるのだろうか?
A地方はGTECしか受けられません。とか、B地方はTEAPだけです、とかになればどう考えても地域格差が出るのは目に見えてる。そうでなくとも、首都圏の生徒のように日帰りで受験する事ができない生徒だってでてくるだろう。少なくとも、地域によって格差が生まれるのは明確だ。
折角、地方創生大臣なんて役職作ったのに地方を忌避させるような事をしてどうする。もはや呆れや怒りを通り越して滑稽としかいいようがない。
そして試験の中身もグローバルとは程遠いものが多い。特にスピーキングはガバガバである。
GTECは機械でスピーキングテストを行うが、各問に与えられる解答時間はかなり短い。何回か考えている間に解答時間を過ぎて解答出来なかった。だが、実際の会話で制限時間などあるだろうか?流石に何時間も黙るというのはダメだろうが、流石に十数秒話さないだけで話を聞かなくなる人などおるまい。重要なのは少し時間がかかってもいいから内容をちゃんと伝えられるかが重要であろう。コミュニケーションとはそういうものではないだろうか。
英検とTEAPは試験官とのテストであるが、当たり外れがひどい。英検は受けてから久しいので忘れてしまったが、TEAPは日本人のおばあちゃんだったが上手い下手の前に声が小さくて聞こえなかった。聞こえなければ会話なんてできるわけない。大きくと何回かお願いしてやっとだ。(というかそもそも、日本人同士で英語能力をテストするのに意味はあるのか。グローバルとは何なのか。)
リスニングはICプレイヤーでなくスピーカーである。スピーカーだと座席位置によって聞こえ方が違うし、だれかが咳をしようものなら、耳に入ってくるのは英語ではなく咳の音である。
これを避けるためにセンターではICプレイヤーを導入したが、民間試験が採用する気配はない。なぜわざわざ劣化させようとするのか。
極めつけは、グローバルな人材育成のための導入だと言っているくせに、英語しか選択肢が無いことだ。グローバル化とは、世界中の人たちとコミュニケーションをとる事ではないのか?
であるとしたら、何故、英語以外の外国語の試験が導入されていないのか?
お偉いさん方は、英語さえ話せれば世界中で会話が可能だと思っているのか。そんな訳ない。
英語以外は学習指導要領外だから採用するわけない、という人がいるかもしれないが、この試験に採用されている英検1級やIELTSはどう見ても、高校の指導要領外のレベルである。英語であれば要領外でも許されるかと言われればNOであろう。なおかつセンターでは外国語は選択できる。
私にはグローバル化云々と語る文部科学省のホームページが胡散臭いものに見えてしょうがない。
どんな商品であれ、実験であれ、試行と修正を繰り返して完成するのは自明だろう。試行を一回行っただけで、精度が完璧になる事は奇跡に近い。
だが、もうプレテストは行わないという。それでどうやって精度を向上させるつもりか。まあ、「1~2年は精度向上の期間」と言っているので、来年整った試験ができるのは望み薄だろう。
内容もこれまた酷い。解いてみたが、ほぼほぼ文章を抜粋しろというものだが、小学校と中学校とやってた「~に当てはまる部分を本文中からn字で抜き出しなさい」を思い出させてくれる出来であった。要するに、思考力などほぼいらない。そして、おそらく言っている事は同じでも、言い回しが特殊だという回答も出てくるだろう。それを対応できるかも問題だ。
おおよそ50万人が受験する試験を20日程度で採点しなくてはいけないので、学生バイトを採用するといっていたが、学生バイトに公平かつ適切な採点をしろというのは無理な話だ。
彼らは素人である。たとえ明確な採点基準があったとしても、それと全く同じ言い回しの解答とはいかないだろう。そういったときに彼らの採点は公平と言えないだろう。
また不正や贔屓も横行するのでは、という心配もある。自分の後輩に受かってほしいと思う先輩もいるし、受験する側も大学生にいい点が取れるように「お願い」するだろう。そうなると、もはや公平云々など言っていられない。
数学は単に数式を書き込むので、採点ミスというものは少ないだろうが、それならなぜセンターのままにしないのか甚だ疑問である。
そして大学入試とは本来、独立行政法人の仕事、すなわち利潤追求を目的としない事業ではないのか。何故、事業を請け負っているはずのベネッセに対策講座などという、あからさまに利潤追求を目的としたものがあるのか。
受験者も大学も得をしない、得をするのは一部の企業だけだ。そんなことは既に分かっている。様々なところから不満や怒りの声、中止を求める声が上がっている。(当然だろうが特に高校から)
どうして、この問題の当事者であるはずの学生の声を政府は聞いてくれない?教育は国の繁栄の最重要課題のひとつではないのか。
大学での教育が重要なのは、ご存じだろう。なのに、なぜさらに実力とは違う部分で門戸を狭めようとするのか。
ここまで長々と書いてきたが、詰まるところ、改善なき改革はやめていただきたい。もし、どうしてもというのなら、きちんとした整備された状態になってから、いつに実施するというのを決めてほしい。受験生は数か月で新しいものに対応できるほど万能ではない。中止すると混乱するなどとおっしゃるが、混乱するのは我々高校生ではない。学生をおざなりにしてきたあなた方だけだ。
最後に、
この日記を書いてて、懐かしい言葉を思い出した。子どもを保育園に入園させられなかったお母さんが放った、「保育園落ちた日本死ね!」という言葉だ。
自分たちの努力ではどうしようもできないほどの壁がある、しかもそれが国民の代表であるはずの行政によるものであると感じている今、あのお母さんの言葉が重く響く。
以前は保育。そして今度は教育。
だれからも「入試落ちた日本死ね!」という言葉が出てこない結末を迎えられる事、そしてこの日記がしがない高校生の戯言で終わる事を祈る。
趣旨はずれるけど、日本の教科書は学習指導要領に沿って書かれていて、複数の大学教員が編集に携わっているから偏りが少なく、簡潔にまとまっている。一方で、アメリカには学習指導要領がなく教科書がとても分厚くなっている。理由は各高校で教科書として採用されるために知識の抜けが無いようにするためだ。
また、フランスでは高校までで歴史を学ぶが、ほとんどが自国の歴史が中心で、世界の歴史については大学以降に学ぶ。
まとめると、学習指導要領に関していえば日本は他国に比べ優れていて、教養として世界史を知りたくなったら、高校の教科書や学習参考書を読めばたいてい解決してしまうということだ。教材のレベルも高い。高校で世界史を学ばなかった人でもあとから学習できる基盤が揃っているのは恵まれている。
http://matome-tarou.ldblog.jp/archives/53726471.html
8: 風吹けば名無し 2019/08/22(木) 08:18:29.16 ID:WWTjJZ4yp
ここで馬鹿にされてるほど悪くは無い
期待値には程遠いけど
10: 風吹けば名無し 2019/08/22(木) 08:18:47.78 ID:SYRQbQM/0
あの頃みんなが期待していた「これくらい打ってくれたらいいなー」という妄想を数字で表したもの、といった使い方をよく見かける。
正しい使い方は「高校生の中田君」がプロ入りした時に打つであろう本塁打数の可能性の平均値だろう。
現在の中田翔や、高卒すぐに交通事故で半身不随になる中田君や初年度に恩師から「翔・・・右足やないか?」と言われて覚醒して60本打つ可能性や
丁度選挙権を得られた歳になった時、10代の子たちも選挙権を得られた年になった。
テレビで取材されるのは10代の子たちの初投票について。初めての選挙権はそんな記事にかき消されたことも記憶に新しい。
大学が隣県であり、どうせ地元に帰るのだから住民票はそのままで良いでしょと家族が言うのだからそれに従って、4年間移さずに過ごしてきた。選挙の為に往復6000円使ってまで投票したいと思わないし、不在者投票しようにも何だかいつも出遅れて投票しそびれてしまう。そもそも不在者投票っていつから出来るの?笑
ネットで調べた記憶があるけど、手続きが非常に面倒な印象を受けた。そういうのもあって、選挙権を得てから1回も投票に行ったことがない。
政治自体は大学の講義で取る程度には興味があるし、ニュースもテレビとか地元の新聞のアカウントをフォローして時々暇つぶし程度で見る。政治そのものは嫌いじゃない。
今日も今日とて、自分が行けなかった(あえて行けなかったと言っておく)選挙速報を見ている。
Twitterでも若者の投票率が低いと騒がれていて、気になってここ10年程の投票率の推移を見た。それを見れば分かることだけど、若者の投票率の低さに関してはほぼ横ばいで「駄目だな若者は」とか言ってる30代とか40代の人たちも若い時は投票していない人の方が多かったのではないかと思ってしまう。(参院選は横ばいだったが、衆院選は投票率の変動が激しいのには何か理由があるのだろうか)
どのみち、地元には戻る予定でいるから来年かそこらへんには初めて投票することが叶うんじゃないだろうか。
そんなに数は多くないだろうけど、自分みたいに政治に参加しようと思ってはいる若者もいるって話。
全然話変わっちゃうけど、震災後から地元のテレビでは被災地の卒業式がメインで取り上げられることが多くなって自分のところの卒業式は露ほどもテレビに取り上げられなくなったなって冒頭の話を書いてて思い出した。それはそれで構わないのだが、卒業式は誰にとっても大事なことなのに、取り上げられるのは被災地だけってのが子ども心にも悲しかったな。中学高校とそんな感じだった卒業式の記事には何の思い入れもない。
せめてちらっとでもどこかの高校が映像に出てたらまた変わってたのかもしれないが、いまさらそんなこと言ったってしょうがないので若者は諦めることにするよ。
我が家は瓦が落ちてきたくらいで(家の中は大変なことになったけど)半壊まではいかなかったから父が知り合いと瓦の修復をしたのを中学生の時に見てた。壊れた瓦の運搬を手伝わされた記憶があるよ。未だに家の壁紙にはヒビが入ってて次大きいの来たら壊れるな~とか能天気に会話に出てくるけど、自分の能天気さは親譲りかもしれない。
選挙の話してたのに思い出話になってしまった。これはこれでまあいっか。
自分たちの代はいろいろと改変の境目に立たされていて(学習指導要領改訂とか奨学金とか諸々)もうちょっと早くやってくれよって思うことも多々あるけど今日も今日とて元気に何とか生きてる。
いやー、引用されてるマシーナリーとも子の記事については、法則分かりやすいでしょ。
要は、客観的な情報になればなるほどフォーマルに、主観的なパッションが乗れば乗るほどカジュアルになる。
「文体が混ざる」という表面的な部分にだけ注目するのではなく、「フォーマルさ」「カジュアルさ」のグラデーションの発現として常体敬体を捉えるべき。
それに私が始めた1年前と違って、現在はバーチャルYouTuber的なライブ配信を可能なスマホアプリも数多くリリースされています。
中でも「REALITY」や「Mirrativ」、「カスタムキャスト」などが人気ですな。これらは既に用意されたアバターをカスタマイズできるし、アプリから直接配信もできるので、絵が描けない人でも、普段スマホしか使ってないPC操作が苦手な人でもバーチャルYouTuberになれちゃう。
ここらへん分かりやすい。
客観情報から、徐々に主観が入って敬体常体の合いの子の「ですな」を経由し、最後には完全に自分のパッションを伝える文章になる。
例えば、3DCGの姿でダンスを踊ってる動画を配信したいんならVR用のトラッカー(さまざまな物体に取り付けることで、VR内でそれらの位置を割り出し、現実の動きとVR内での動きを同期させる端末)を用意しなければならない。費用は60,000~数十万円かかるのでピンキリっすね!
これも同じ法則。
配信にまつわる自分自身の苦労を頭に置いた文章は常体だけど、客観的な入手手段の情報になると敬体に移り変わる。ただ「ピンキリ」と主観がちょっと混じるので「っすね!」で微妙なカジュアル感を加えてる。
敬体常体の使い分けについては、「小学校学習指導要領」にも言及があるようだ。
オリジナルへのリンクが切れてたので孫引きになるが、「ですます調・だである調、敬体と常体の使い分けと正しいルール」にはこうある。
(ア)丁寧な言葉と普通の言葉との違いに気を付けて話し,また,敬体で書かれた文章に慣れること。
「丁寧な言葉と普通の言葉との違い」については、日常の場面に応じて使っている話し言葉を中心にして気付き、先生や家の人、さまざまな学習の場面で出会う人などに対して、具体的な場面で丁寧な言葉遣いで話すことができるように指導することが大切である。「敬体で書かれた文章」については、まず、入学して初めて出会う教科書の敬体の文章に読み慣れるようにし、漸次、自分でも使い慣れるように指導していくようにする。
しかしこういうパッション交じりの記事の場合、その読者は「お客様」であると同時に、「オタク仲間」でもある。
お客様には敬体で語りかけるべきですが、オタク仲間には常体で語りたいよね。
その結果が、こういう文体の使い分けに現れているんじゃないかな。
Webという不特定多数の目を想定した場での文書においては、こういった敬体常体の混ざった文体は合理的で自然なものなのです。
引っかかるか、残念だったな。慣れろ。
東大京大は、才能のある人間をできるだけ漏らさず発掘できればそれでいいのだ。
才能は貧富の差にかかわらず分布していると考えられており、学習指導要領にしたがった公立学校の勉強をしっかりやれば、才能があれば東大京大くらいは普通に受かるようになっている。授業料の無償化くらいのセーフティーネットもある。
雑魚が中高一貫私立などで受験対策をやって合格しても、東大までの人になってしまうが、そういうひとは民間に就職するので、それはどうでもいい。
それによって有利な就職をしたとしても、それは単純な階層の再生産であって、財産の相続とあまり変わりがない。
大学入試までであれば、まさに「学習指導要領」。もしくは文科省と大学教授のお気持ちで、としか言いようがない。
大学以降は、数論と集合論を前提にしないと基礎数論(1の次は2とか)のレベルで「省略しますよ」って同意が必要になる。ただし、○○についての研究、と銘打つ時点で先行研究が同意している全部に同意していることになるから、明言することは稀(というか蛇足)。
これは例えば解析をやるならかなり省略できるが、集合論をやるなら省略できない、みたいな分野ごとの論じる際の暗黙同意みたいになる。
大学入試(ものによっては大学以降も)問いを立てている人たちが基礎集合論、数論に(勝手に)合意しているだけ。でもそのことを生徒に説明することはできないんだよね。それだけで1日どころか年単位の時間が必要になるから。
ちなABC予想の望月論文は(私の理解は及ばないけど)望月氏以外の数学者が省略してる部分に新理論提示してABC予想解決してる(?)と思われるで。
数学で詳しい話を知りたかったら、ちくま学芸文庫の数学関連書籍なんかは、30年くらい前の数学論を安く文庫化再販しててええで。(ちょっと高い気もするけどハードカバーよりは全然安い
論理よりなんか物語的に0と実数の差異について知りたかったらこの本https://www.amazon.co.jp/dp/4150503494とかになるのか?まあSFとして読めば楽しいかも(問題解決にはならないと思うが。
三角形だと底辺×高さ÷2なのに、台形だと上底+下底ってなるのか。
何年の学習指導要領で小中学校を過ごしてきたのだろう。一時期台形の面積がなかった時期があったと記憶している。
(上底+下底)×高さ÷2 = 上底×高さ÷2+下底×高さ÷2
函数 ウィキペディアによれば https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%95%B0_%28%E6%95%B0%E5%AD%A6%29#%E8%A1%A8%E8%A8%98%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
「函」が漢字制限による当用漢字に含まれなかったことから、1950年代以降同音の「関」へと書き換えがすすめられた[6]。この他、「干数」案もあった[7]。学習指導要領に「関数」が登場するのは中学校で1958年、高等学校で1960年であり、それまでは「函数」が用いられている[8]。「関数」表記は 1985 年頃までには日本の初等教育の段階でほぼ定着した[9]。
6. この経緯については、島田茂 (1981)「学校数学での用語と記号」福原満州雄他『数学と日本語』共立出版 ISBN 4-320-01315-8 pp.135-169 に詳しい。
「元素記号やサイン・コサイン・タンジェント、どこで使うの?使ったためしがない」と橋下徹氏が語ったことについて、話題だ。橋下氏は「最低限学ばなきゃいけないこと」以外の例としてこれらを挙げており、「(学ぶかどうかは)選択制でいいと思う」としている。
ソース:https://abematimes.com/posts/5496054
これに対してネット(主にTwitter)では、「あれにも使うしこれにも使う。お前の人生で使ってこなかっただけだろう」と非難轟々。
同氏は同じ場で「勉強のできる人たちは"そういうのも教養だ"というが、今はインターネットで色々なことは調べられる」と語ったそうだが、まずは自分以外の人たちが元素記号や三角関数をどのように使っているのか、インターネットで調べてから発言すべきだったといえる。
まあ、数学の学習指導要領の中でも例えば複素数平面や合同式あたりは入ったり外れたりしているので、そういう意味では「何が学習指導要領として重要か」という議論はあってもいいだろう(氏は複素数平面も合同式も使ったことがないかもしれないが)。
つまり、インターネットでろくに調べもせずに元素記号や三角関数を「いらない教養」として発言してしまったこと自体が橋下氏の失敗であることに他ならないのだが、その辺には目をつむって最大限良い方向に気持ちを汲み取ってあげると、氏は「教養とかいろいろあるけどさ、いろんな子がいるんだしみんなに画一的な教育じゃなくてその子の特性を伸ばせる教育作ろうよ」と言いたかったのだと思う。
そう取れるのは、話の前段で乙武氏が「型破りな子を伸ばせる人材として、今までの教員免許の枠組み以外から教員を一部採用するべきだ」(意訳)と主張しているからだ。
乙武氏は新しい採用方法を取るべき理由について、「(現システムでは)免許を取る人はめちゃくちゃ真面目な人ばかりで、レールの上を歩くような人しか教員になれない」から、型破りな子を伸ばせないとしている。
つまり乙武氏は、教員免許を取る教養がなくても教師として教えることができてもいいんじゃないかと主張している。
その上で、大学で教員免許を取る過程も踏めない人が常勤教師として「型破りな子たち」(学校に何人いるんだ)に義務教育で何を教えるのだろうか。きっと元素記号や三角関数よりも大事な新しい単元があるのだろうから、ぜひ乙武氏には具体的な案を提示してもらいたい。さぞ義務教育期間にやるべき大切なことなんだろう。
そもそも、乙武氏の「教員免許を取るためには、大学で相当な数の授業を取らなければいけない。その時点で、何かにのめり込んだり、旅に行きまくったような人たちは厳しい」という発言自体が、教養を放り投げると未来の職業の選択肢が狭まるという当たり前の事実を映していて香ばしい。
教員へのモチベーションがあるのなら、旅に明け暮れて30代になろうが、その後大学に入って勉学に励めば教員免許は取れる。
強いて問題を挙げるなら、その後の教員採用試験に合格するか、そして職場がイレギュラーな人材を受け入れられるかどうかという方ではないだろうか。
てか、現状でも大学教員に免許はないし、教養を付けた型破りな子は大学で良い先生に巡り会えれば良い方向に伸びるんじゃないんですかね、知らんけど。
図工の「箱でロボットを作る」活動に、無理矢理プログラミング教育を突っ込んだ事例。https://www.embot.jp/
いろいろ貼ったり・色縫ったりして工夫できます。よ~し図工的に配慮したぞ。
プログラミングの教材としてはいいんですよ。LED と サーボモーターを制御するハードとプログラム作成アプリのセット。
これを図工の単元に突っ込んじゃうから、なんだかちがう感じに。
ロボットが既に完成しているプラスチック製だと図工には突っ込めない。理科では機械の制御を突っ込む単元がない。
小学校で必須化されるプログラミング教育は激しく誤解されている。
小学校段階において学習活動としてプログラミングに取り組むねら いは、『プログラミング言語を覚えたり、プログラミングの技能を習得 したりといったことではなく』、論理的思考力を育むとともに、プログ ラムの働きやよさ、情報社会がコンピュータをはじめとする情報技 術によって支えられていることなどに気付き、身近な問題の解決に 主体的に取り組む態度やコンピュータ等を上手に活用してよりよい 社会を築いていこうとする態度などを育むこと、さらに、教科等で学 ぶ知識及び技能等をより確実に身に付けさせることにある。
これが学習指導要領になり、教科書になり、現場に降りてくると……
児童にコンピュータでプログラムを作成させるのはダメ!と忖度されて、アンプラグドな実践花盛り。
改訂第二版の例示では、スクラッチで作った「仮想プラグラミング炊飯器」が登場。ドリル教材なんだけどねぇ。
現場の先生に「プログラマブル○○シミュレーター」を製作しろってのも無理があるしなぁ。
文句があるならお前が作れとか言われそうなので……スクラッチでなんか作るのは無理でしたorz
お子様が大好きなカードでプログラミングして、EXCEED MODEL ZAKU HEAD のモノアイを こいつ動くぞ! にするぞ。
立憲フェス(立憲民主党の党大会)に行ってきたんですが、発表された2年目の活動方針(下記リンク、PDF)で、政策面で全然まったく労働を大きく扱ってなくて、その割には俺たちはやったんだ的に浮かれていて、本当に心の底からがっかりしました。経済界の代弁者である与党に対抗する野党第一党、それも労組が支持基盤の党が、ほぼ労働について政策において触れないというのは、ありえないことだと思います。
https://cdp-japan.jp/files/download/4pgV/vHZ0/QBri/yycr/4pgVvHZ0QBriyycrboOtW2EG.pdf
どうして労働について向き合わないのか。フェスのフィナーレで幹事長が言ってたんですが、民主党が労組臭が強すぎたことへの反省で、労組のお偉いさんを壇上に持ってこないとかの流れがあったようです。なので、あえて外してるっぽいと増田は思いました。
しかしそれをした結果、原発政策やセクシャルマイノリティ、女性政策が目立ち、イデオロギーとアイデンティティ政治にしか見えず、今現在長時間労働を筆頭に、様々な形で労働に苦しめられている大勢の労働者に対する視線が全く感じられず、現役世代に対してこれはあまりにも酷いだろうと増田は感じたフェスでした。
イデオロギーやアイデンティティの政治をするのは悪いとは言わないです。増田自身セクシャルマイノリティですし。でもさ、労働環境を改善をしてみせるって言ってみせてよ……次は長期政権を取る?意気込みは良いけど、そこはちゃんと今の政権と違って労働を良くしててみせるって言ってからでしょう。
枝野幸男の演説のうまさ、カリスマ性で最後に高揚感得られちゃうんですよ。ちょうど1年前、ゼロからの出発というストーリーもあるんですよ。でももう1年経ったんだし浮かれるのはやめてちゃんと労働と向き合ってよ。労働問題に関して詳しい議員さんたくさんいるじゃん。子供向けの政策、「子どもの権利条約」の理念を現実化するコンセプトでめっちゃいいじゃん。それを労働でもやってよ。
はてな的に熱いのは参議院比例の候補者だと思いますし、当初はそっちをしっかり見てこようと思ってたんですが、そんなことよりも労働の改善に力を入れない野党のほうが断然良くないので、ここに書いた次第です。
彼女が候補者に入ったのは、フェスで言及されてた政治参加のジェンダー平等に関する政策の影響ありそうですが。
ブコメ読みました。どうもありがとうございます。
トラバは伸びすぎてまだ全部読めていません。(スレッドたためないのかな?)
行列いらないよという方が意外と多いですね。専門によってずいぶん意見が変わるようです。
抽象代数をめざすので2x2の泥臭い計算練習などいらん、ということですね。
確かに数学を使う応用分野に進む子と数学自体を研究対象にする子では必要な勉強が異なるでしょうね。
数学科のことを考えていませんでした。
最後「高校で線形代数を教えろ」じゃなくて「行列をなくせ」になるのですか?
同じようなことを言っている人が何人かいらっしゃいました。(ゲーム業界?)
私にはちょっとピンとこないのですが、その業界の人たちがそういうのなら何か事情があるのでしょうね。
線形代数は大学で教えるでしょ?というのは確かにそうなのですが、1年生に教える物理の授業内容に影響が出ます。
物理科で1年生に教える科目は主に「力学」「電磁気学」、大学によっては「相対論」の入門を教えていたりするのですが
行列がなくなると座標変換が使えません。行列を使わないで無理やり書き下すこともできますが式の見通しが悪くなりますね。特に相対論。
逆行列を知らない。回転行列を知らない。座標変換のイメージがつかめないという子に対応しなければなりません。
2024年に文系からベクトルがなくなります。(復活した数Cに入ります。数Cは理系科目)
それに対応しておそらく物理基礎はベクトルが使えなくなります。
実は1997年にも似たようなことがありまして
微分方程式が消滅、文系から微積が削除された際に高校物理で数式が扱えなくなりスッカスカになりました。
物理科ではずっと問題視されているのですが現在に至るまで救済されず。
さらに削減が進むということですね。
数学では「データの分析」が大幅に増えました。現在の学習指導要領はこちら
次期学習指導要領(高等学校、数学、情報)について思うこと - とね日記
数学Bに 確率変数と確率分布/二項分布/正規分布/母集団と標本/統計的な推測の考え などが入っています
次期学習指導要領では数学Iに 四分位偏差/分散/標準偏差/相関係数 などが入ります
教科 | 科目 |
---|---|
数学 | 数学I,数学II,数学III,数学A,数学B,数学活用(←new!) |
(1) 数学と人間の活動 数学が人間の活動にかかわってつくられ発展してきたことやその方法を理解するとともに,数学と文化とのかかわりについての認識を深める。
数量や図形に関する概念などと人間の活動や文化とのかかわりについて理解すること
イ 遊びの中の数学
数理的なゲームやパズルなどを通して論理的に考えることのよさを認識し,数学と文化とのかかわりについて理解すること。
社会生活において数学が活用されている場面や身近な事象を数理的に考察するとともに,それらの活動を通して数学の社会的有用性についての認識を深める。
図,表,行列及び離散グラフなどを用いて,事象を数学的に表現し考察すること。
行列残っているじゃん、とおっしゃる方がいましたがこれ残っていると言えます??
少なくとも1年生の過半数が行列を習ってないというのですから実質ないも同然なのでしょう。
次期学習指導要領では廃止して「理数探究(仮称)」が新設予定だそうです
数学ではないのですがはてなー的には気になる話題だと思うので書いておきます。
2003年から数学や国語に並んで「情報」という教科ができました。扱う内容はかなり本格的で
高校で使われているプログラミングの教科書を全部購入して比較 (情報の科学) - Yusuke Ando a.k.a yando
情科306 コーディングはHTML、CSS、VBA。SQLも例が示されている。ドリトルという日本語のタートル言語も。 pic.twitter.com/Cn8O0vPWG3— Yusuke Ando@プログラミング教育 (@yando) 2018年7月29日
「学習指導要領から○○が消えたー。あり得ない。」は、教わった世代のノスタルジーを含むケースが多い。
「ベクトルが消えた!物理が教えられない!」 → 「力の合成くらい物理教師が頑張れ。どうせ微積を使わない高校物理なんか制限だらけだ。」
「行列が消えた!3DCGや機械学習が理解できない!」 → 「大学の線形代数で頑張らせろ。どうせ高校の行列なんてタダの計算練習かパズル。行列式も固有値も教えない程度だ。」
「数学Cがなくなっていた時代がかわいそう」 → 「数学Ⅲ 3単位と数学C 2単位を新しい数学Ⅲ 5単位として教えていただけ。どうせ数学C取ってる奴はほぼ数学Ⅲやってたんだし。」
と個人的には思うのだが、「理工系人材には高校数学の○○が必要だ」というのは高校数学に期待しすぎ。
あとは90%以上の人間が高校まで進学する時代に、共通の教養として必要な内容が高校数学でしょ?
ちなみに新しい学習指導要領でも復活する数学Cまで学習すればベクトルあるよ? 高校物理の力学に間に合わないだけで。
今の学習指導要領で数学Iに統計が入り、箱ひげ図や四分位図が必修だけど、40代以下はこんなのやってないっしょ。
今度はそれらは中学数学に下りていく。統計の検定まで高校数学に入ってくる。
新しい学習指導要領で学ぶ内容は、これら。
数学Ⅰ:① 数と式 ② 図形と計量 ③ 二次関数 ④ データの分析(仮説検定の考え方を含む)
数学A:① 図形の性質 ②場合の数と確率 (期待値を含む) ③数学と人間の活動(整数、ユークリッドの互除法、2進数など)
数学Ⅱ:① いろいろな式 ② 図形と方程式 ③ 指数関数・対数関数 ④ 三角関数 ⑤ 微分・積分の考え
数学B:① 数列 ② 統計的な推測(区間推定及び仮説検定を含む) ③数学と社会生活(散布図に表したデータを一次関数などとみなして処理することも扱う)
数学C:① ベクトル ② 平面上の曲線と複素数平面 ③ 数学的な表現の工夫(工夫された統計グラフや離散グラフや行列などを取り扱う)
ベクトルあるよ?
行列あるよ?
今は、一般受験以外に多様な方法で大学に入学してくる。既習範囲の理解度確認や基礎の定着のために、まともな理工系大学なら昨今は非一般受験組にはe-ラーニングなどで補習や指導をしている。
文系クラスだけれども行列を習ったよという人は年齢40代から50代の人です。
「数Cが消滅しました」と聞いてびっくりする人はたぶん20代~40代の人です。
ベクトルを学ばずに大学生になれる!? ~ 新学習指導案で日本は滅びます - Togetter
ベクトルが高校数学Cに移動するので,カッとなって過去の学習指導要領から線形代数の分野を表にしてみた。 pic.twitter.com/k7VJjPrxvq— ジョゼフ・アンリ (@joseph_henri) 2018年2月16日
大学で教えている人の間で2年程前から話題になっています。1年生を教えている人は頭を抱えています。
あなた方は実験台のような世代で申し訳なく思います。大学によってはまだ混乱しているかもしれませんね。
知らないことが出て来たら「それは習っていません」と教えてあげてください。
とにかく増田に高校数学をやり直せと言っている人たちはおじさんかおばさんです。
気にしなくて良いです。
わたしからはあなたに「理工系の数学入門コース」をお勧めします。
数学を理解することよりも使えるようになることを目標にしたシリーズで
厳密な証明よりも「わかりやすい説明」に偏っていますが増田の目的には十分だと思います。
とりあえず線形代数を読んでみてください。特に前提知識は必要ありません。
読んでみて数学が楽しくなってきたら後ろのページにある教科書リストからいろいろ読んでみてください。
楽しんでね!
ほんとうにそうですよね。
新しく「情報」という科目ができましてコンピュータの使い方やITリテラシー、プログラミング、パワーポイントの使い方etc...を高校で教えるようになったのですが、その一方で数学がごっそり削除されてしまったという。
2024年以降はベクトルが共通科目から消えます。物理をどう教えるのか・・
円周率が3になっても日本は死なないけれども「技術者が行列をしらない」は日本死にますよ。
小学校の教員は全ての教科を指導するし小学校にも当然「体育科」の指導はあります。つまり、小学校においては「全ての先生」が対象。
2内容の取り扱い
(3) 集合,整頓(せいとん),列の増減などの行動の仕方を身に付け,能率的で安全な集団としての行動ができるようにするための指導については,「A体つくり運動」をはじめとして,各学年の各領域(保健を除く。)において適切に行うこと。
特に強調部分を分かりやすく言うと「1年生から6年生まで体育の授業のあらゆる指導の中で、集合、整頓、列の増減などの集団行動ができるように指導しろ」ってことですよ。体育の授業が整列に始まり整列に終わる理由が分かりましたね。ちなみに学習指導要領には法律と同じ強制力があるという判例があります。公務員は法律遵守する。当然ですね。
これは「体育科」の学習指導要領なので、中学、高校では「体育教師」がこの指導の中心になります。各先生方は、真面目にこれに従って仕事をしているだけ。いいでしょうか?
というわけで、
「小学校に体育教師なんていねーよw」→体育はあるし基本全員が指導するので、実質「全員が体育教師」です。
「小学校で集団行動指導なんてみたことねーよw」→あなたが知らないだけです。
「体育教師disかよ」→体育教師が好きだとは言いませんが、教師個人でどうにかなる話ではないと思います(公務員に法律違反しろとは言えない)。
https://togetter.com/li/1229818?page=2
…っていうまとめを読んだけど消化不良。「右でも左でもいいのに」というのは単なる個人の感想で、先生としては統一しなきゃなんだろう。たとえば「周れ右」とかね。これ、学校の先生は間違って無くて、そして「学校というのはそんなもの」ではなくて、そう指導する根拠は学習指導要領「体育」の中の「集団行動」という項目。これってハッキリ言えば戦前からの軍事教練の名残なわけで、一糸乱れず北朝鮮的な「集団行動」をさせることが「体育」の指導内容として定められているわけ。だから、体育教師(体育系の教師)はこれを指導する。
もう少し言えば、現在の体育教師というのはその指導要領に基づいて教育されてきたエリートなわけで、「集団行動=善」としか考えていない。たとえば国体とかそういうイベントがあると数年前から参加する高校では学校の枠を越えた「集団行動の練習」を行い、開会式で一糸乱れぬマスゲームをやることになる。そうしないと、その都道府県の「体育」の指導レベルが低いってことになるので、それこそイノチガケになる。
というわけで、一般の皆様におかれては、そういう指導を改めさせたければ「学習指導要領『体育』の内容を見直せ」と主張するのが最善手と思われます。