はてなキーワード: 警鐘とは
世間が衆議院議員選挙で盛り上がってるとき、VTuber 界隈の片隅で、小さなボヤ騒ぎが起きていた。
「VTuber(配信者) のライブでの リスナー(視聴者) のマナーが悪い」。
子どもや、初めて VTuber を観る新規リスナーが増えた。
ニコニコ動画時代から生配信を観ていた古参リスナーとは異なり、新参の彼らは配信の空気感やマナーを知らず、あまりに自由に無邪気に振る舞ったため、一部の VTuber の配信でトラブルになった。
——鳩行為。
ライブでゲームプレイ配信をしている VTuber などのチャットコメントに、「XXX さんがいま、凄いことしてるぞ!!!」のように彼の配信に直接関係ない、他人のライブ情報を伝えに行く。まるで伝書鳩のように。
よかれと思ってやったその行為。でもそれがゲームの腰を折ってしまう。
鳩があまりに多く群がれば、VTuber はゲームの手を止めての対応を迫られる。ごく稀にそこから突発コラボのようになって盛り上がる事はあるものの、ただゲームを見たいだけの観客は席を立ってしまう。この鳩行為をさせないために、ライブ動画の概要欄にあらかじめ 鳩行為禁止 を指示する VTuber も多い。今回の騒動でも、リスナーの鳩行為の過熱に VTuber が悲鳴をあげていた。
私(増田)と、友だちは、この件について話し合った。「あまりに配信者が可哀想だが、しかし根絶するのは無理だよなぁ…。」盛り上がる議論は、 VTuber が鳴らしていたいくつもの警鐘のうちの別のひとつに差し掛かかる。
この項目もまた、VTuber の概要欄の命令リストでは人気の項目だ。盛り上げるために別の配信者の名前をあげて「XXX さんも誘おうよ」のように話を広げるこの行為。しかしやはり、XXXさんを知らない人にとっては配信の流れから逸れているように見えるし、VTuber は対応を迫られる。無視したら 「XXX さんのこと、実は嫌いなんじゃないか」と勘繰られる怖れがあるからだ。プレッシャーは負担になって、配信者を追いつめた。
私は嘆いた。どうしてこんな当然のことも注意しなきゃいけない? なんで善意で配信してくれてる VTuber がここまで言わなきゃならないのか。すると友だちは思案顔になり… もとい、思案顔のスタンプを送ってきた。
🤔
「ちょっと待てよ。ならアレはどうなんだ? 」
——よう見とる。
VTuberのライブ配信中のチャットコメントに、かの有名配信者が現れた! そんなときリスナーは一斉に叫ぶ。
「「「XXXさんも よう見とる」」」
自分の推しの突然の登場。そんな嬉しいハプニングを、ゲームに熱中して気づかない配信者に教えるためにリスナー達は、我れ先にと、こぞって、このセリフを言う。「よう見とる」の習慣は、私の知る限り VTuber 成立のごく初期から行われていた。いまでは V 界隈に広まって一つの文化になっている。
「でもさ
「『ホニャララさんも よう見とる』って言われるときって、ほとんどが、ホニャララさん当人が話題に出てないときだし、それってさっきの、話題に出てない別の配信者の名前を出さないってルールに反するよな?
「鳩行為禁止と同じで、話題に出てない配信者ルールは V の気を引いてゲーム中断させるのがダメなんだろ
「たとえ善意だろうと
「定着してる文化によるルールの例外は、前もって知っとけ、って言うんならそりゃ悪名高い『半年ROMれ 』の再来だぞ。新規リスナーが離れちまう
「ルールの衝突が起こらないようにするには、有名配信者の方を制限して、V は別の V のコメントに書き込まない、自分の名前が出された時のみ書き込める、ってしてもいいハズだが、それはそれで配信者が可哀想じゃないか? 自分もノリに加わりたいときはサブ垢に切り替えないといけない、って… 新参 VTuber はそんな面倒くさいルールを飲まなきゃいけないのかよ
「『よう見とる』『話題に出てない〜』『VTuber も気軽にコメントできる』… この3つは両立しない… こんな不幸ってありかよ?
「オレは V に負担かけたくない。でも正直『よう見とる』はやめたくない。リスナーのオレらがなんとかしなくちゃいけない。でもやめたくない。他に方法が思いつかない。決めなくちゃならない。わからない。わからない。お前はどうする? お前は、どうするつもりだ? ——…
もともと言論・表現の自由って、自分が考えた思想や意見を表現したり、他人のそれを受け取ったりすることで、人間は全体として向上していくんだ、っていうことから出てきた考え方だよね。特に政治の分野とかではそういう思想・言論・表現の自由がないとヤベーことになっちゃうし、実際に何度もなっちゃったから、やっぱりそういうことは自由にしようねとなったんだよね。
で、何がそういうものを守るのに大切な言論・表現で、何がそうじゃない言論・表現かを決めるのは、その決め方自体が権力にとって有利だから、こういう言論・表現はOKとかNGとかって線引きはなるべくやめて、幅を広くとっとこうね、ということになってるんでしょ。
でも、もっぱら読者の性欲を満たすために描かれてる暴力的・凌辱的なロリエロ漫画とかは、そういう意味での思想や言論はほとんど含んでないし、逆にそういう思想性や言論性を見出したらヤバいわけじゃん。女の子を連れ去って凌辱して主人公たちが満足して終わる漫画表現に思想を読み込んだら、女の子を連れ去っては凌辱して主人公たちが満足して終わる行為をストーリーを通して肯定するものだ、ってなっちゃう可能性が高くて、それは他者危害原則に抵触する扇動行為にあたるわけじゃん。だからこそ作者も、LOとかも、擁護派も、この漫画はそういう行為を実際に肯定するものじゃないよ、あくまで単なるフィクションだよ、と予防線を張るわけでしょ。実際に漫画の手口を真似して犯行した犯罪者が出てきても必死にその関係を否認するわけでしょ。
で、そういう「思想性がない」(と主張する)、フィクションの、専ら性的欲望を喚起するためのポルノグラフィって、理屈から言えば、法律で保護しなきゃいけない根拠も相対的に薄弱になっていくんだよね。そもそも今だって別に「表現の自由は絶対」じゃないし、それぞれの国で定義された価値の低い表現(増田が言ってるわけじゃないよ、法律学に「低価値表現」っていう概念があるんだよ)の一部には自由を認めてないわけだ。名誉毀損とか、わいせつ表現とか、ヘイトスピーチとか、優良誤認とか、医事法違反とか、著作権侵害とか、プライバシー侵害とか、偽証とか、法律で規制されてるNG表現は、今の日本の法律でもいっぱいある。
ちなみに性表現に寛容なイメージがある米国でも、性行為のみを描写したハードコアなわいせつ物は、写真や実写動画だけなくイラスト(二次絵)も言論の自由による保護物に該当しないとされてるし、ミラー・テストというわいせつ性判断の基準では
①平均的な人が、その所属する地域社会等のコミュニティのそのときの基準(contemporary community standards) に照らしてその表現物を見た場合、全体として好色的な興味に訴えていると考えるか。
の3項目で言論・表現の自由の保護に値するかどうかが判断されている。ちなみに米国では「正常で健康的な性的欲求を喚起するだけ」のポルノや性器描写は、ここでいうわいせつ物にあたらず、「裸体、性、または排泄行為に対する恥ずべき、あるいは、病的な興奮に訴えるもの」ということになっている(Brockett v. Spokane Arcades, Inc.)。ようはその社会・時代の文脈のなかで平均的人物像によって「異常な」性行為とみなされるものについては、思想の自由市場での取扱商品にはしませんよ、ということ。日本人にとってアメリカンポルノのストーリー・演出・演技が妙に「健康的」に見えるのは、そうでないと法に抵触するわいせつ表現になるかもしれないリスクがあるからなんだよね。ちなみに児ポはミラーテストに関係なく問答無用で違法。
だから「思想・言論・表現の自由」には「なるべく幅は広くとろう」とは言いつつも、その中身には中核と周縁とすでにNGと決められたものの3つの領域があって、周縁部では、表現の価値と表現のもたらす社会的害悪性との衡量が個別になされたり(わいせつ性の判断)、総じて社会的害悪性が認められたときには新たにNG枠に入れられたりしてる(ヘイトスピーチ法)、というのが実態だと思うんだよね。
で、そういう「NG枠」の側に一部のロリエロ漫画が加わるかもしれないことを、「これまでしっかり守られてきた表現の自由が、これを皮切りになし崩しにされる! 蟻の一穴!」みたいに煽るのは、ちょっと違うんじゃないかな、とも思う。体制が自由を認めた表現だけが許されているって意味では、今までもそうだったんだし、仮にロリエロ漫画が法的に規制されても、その規制の時に使われた理屈を保護法益が異なる表現に対してまで拡げるのは、そう簡単なことじゃない。「グレーからブラックに何かを移動させたら、他の表現もどんどんブラックに動かせるようになるぞ」という警鐘は、そういう現実的状況を踏まえない雑語りに聞こえるし、そもそも「ロリエロ漫画自体が法的な保護を受ける価値がある表現かどうか、そして実際に社会的害悪性をもたらすかどうか」を真正面から議論する自信がないから、「ここを規制したら他の表現の自由も脅かされるぞ!」という論法に頼ってるんじゃないの、って印象もある。
そういう人達が、「表現の自由」が脅かされることへの危機意識を、たとえば愛知トリエンナーレの「表現の不自由展・その後」をめぐるあれこれでも堅持してたのならまだ納得できるんだけど、いま二次元関連で「表現の自由」を強く主張する人達の中には、愛トリの時に「天皇に対する冒涜的表現は、人々が大切にしている価値観に対する攻撃」みたいな理屈で展示中止の抗議活動(威力業務妨害的なやつも含め)を正当化してた人達もいたんで、それについてはやっぱり「あなたがたのいう表現の自由って、結局自分が消費したい表現にだけ適用されるダブスタで、表現を区別するなという自分たち自身も十分セレクティブに振る舞ってるんじゃないの」という印象を持っちゃう。もちろんそのダブスタ批判は、かつて表現の不自由展を擁護していて、いま「非実在児童ポルノ」への規制論を容認してる人にも当てはまることなんだけど、さっきの衡量論にもとづけば、それは完全に対称の関係じゃないとも思うんだよねー。
(「ロリエロ漫画の害悪性の根拠を出さないと保護法益が決められない」というのは、そういうダブスタ系の人達よりもずっと筋が通った理屈だけど、わいせつ物陳列・頒布罪にせよヘイトスピーチ法にせよ、その害悪性の根拠が、国会や法廷の場でしっかりしたエビデンスのかたちで示されたことはないと思う)
皆様、
世の中は第3次AIブームと言われています。しかし、AIについて、しっかり理解している人は意外に少ないのです。ShannonLabはそうした、AIが正しく理解されていないまま、ブームにのってAI、AIと騒ぎ立てられる状況に警鐘を鳴らしてきました。
今後、AIは予測されている以上に、確実にマーケットを広げます。そんななか、ShannonLabは警鐘を鳴らすだけではなく、新しいミッションを掲げていくことにいたしました。
そのミッションとは、「AIを軸にした100のビジネスを立ち上げる」ことです。
それに従い、『シンギュラリティに向けて、AI のために働く社会ではなく、AIが人のために働き、人々が満足できる人生と社会幸福の実現』とビジョン を変更します。 AI ベンチャーから AI ファームへと変貌させていきます。世の中の人に身近に感じてもらえるAIビジネスを、Shannon Labは皆様と一緒にシンギュラリティに向けて一段とビジネスを加速していきます。
近頃の表現の自由を守ろうという界隈やVTuberやオタクの界隈に対して、統一教会を結びつけて論じる話には辟易している。単なる統一教会の危険性を知らせる警鐘に留まらず、もはや誹謗中傷の様相になりデマとレッテル貼りを繰り返している。何よりもVTuberという新しいカルチャーに対して無理解な様には、新しいカルチャーに理解がないのだなと悲しくなってくる。
始まりは、VTuber戸定梨香に対するフェミ議連の差別と偏見に、表現の自由を守ろうという界隈で、おぎの稔が先導して抗議署名を立ち上げた。その抗議署名の賛同団体にある一国民の会が問題視された。
この一国民の会は、減税や規制緩和を目的にしてはいるものの、その代表である渡瀬裕哉がクセモノであった。
渡瀬裕哉は、統一教会がバックにいる『ワシントン・タイムズ』のエグゼクティブ・ディレクターを務めている。
さらに渡瀬裕哉が主催したイベントに、表現の自由を守ろうという界隈で有名な山田太郎が一度参加したこともあった。
このことから、表現の自由を守ろうという界隈の裏には統一教会がいるのではないかと疑惑があがった。
その疑惑の声のまとめもある。
表現の自由戦士、統一教会関係者だった 山田太郎、おぎの稔、音喜多駿ら界隈の著名人が教会関係者主催のイベントに登壇
つまりは統一教会がバックにいるマスメディアで役職にある渡瀬裕哉が主催するイベントに山田太郎が一度とはいえど参加したこと、渡瀬裕哉が代表である一国民の会におぎの稔が関わっていることから、統一教会が表現の自由を守ろうという界隈の裏にいるのではないかと疑惑が持ち上がったのだ。
しかしである、論理的に考えるのであれば、この渡瀬裕哉が統一教会の信者であり、積極的に統一教会に取り込もうとしているのかどうかをまず疑うべきだ。
だが渡瀬裕哉は統一教会のみならず幸福の科学とも積極的に関わっており、いわばビジネスで繋がっているというというのは、上記のまとめの中ですら指摘されている。
統一教会のみならず幸福の科学ともビジネスでつながっていると思しき人物が主催するイベントや団体に関わっていた。
これをもって表現の自由を守ろうという界隈は統一教会に取り込まれていると主張するのは早計だ。さらに言えば今回の件で言えば幸福の科学の関わりに疑惑があがってもよさそうだがそうはなっていない、なぜだろうか。
そうは言えども、このように間接的にでも統一教会が関わることで統一教会の影響力増大になるのだから、警戒心を持って少しでも統一教会と関わる相手とは縁を切るべきだと、山田太郎やおぎの稔、その支援者に対して警鐘を鳴らすべきだ。統一教会の影響を相対化したり矮小化したりする声にも警鐘を鳴らすべきだ。などと言うのならまだしも、統一教会が表現の自由を守ろうという界隈の裏にいる、さらにはVTuber界隈もオタク界隈もその異常性から統一教会に取り込まれているとデマやレッテル貼りが繰り返している人が多く見られる。それも全くの無名じゃない、それなりに名前のある人達が語っている。
https://twitter.com/segawashin/status/1442486624986664963
これがわりと冗談にならなくて背筋が寒くなるの、オタク向けコンテンツの性的規範の妙な保守さかげん(エロとは別腹で恋愛はやけに純愛指向、結婚=ゴールインみたいな妙に古くさい男女観、なんなら運命の人は向こうから勝手にやってくる)と統一協会の教義がやけに相性よく見えるからなんだよなあ。
このnote記事に関しては誇張表現が悪質だ。VTuberとVRChatを意図的に混同した論調は根も葉もないVRChatへの風評加害も心配だ。追記:note記事作者が関係者に謝罪して大幅に書き換えました。事実無根の記事でバーチャル美少女ねむ様に風評被害を与えて申し訳ありませんでした→旧記事名:統一教会系メディアとVtuberがズブな件
Vtuber関係で露呈した統一協会への危機感のなさが予想外で困っている
上記のnote記事を無批判に取り上げ、さらに統一教会の影響を相対化したり矮小化したりする声も散見できるとあるが具体的なソースもなし、一方で2例しかない統一教会系のVTuberへのインタビュー記事を複数あると記載するなど、いささかバイアスがかかりすぎている。
こうした表現の自由を守ろうという界隈やVTuberやオタク界隈に対するデマやレッテル貼りを問題視するのがマトモなリテラシーの持ち主であり、統一教会を危険視する警鐘と同程度にはデマやレッテル貼りにも警鐘を鳴らしていくことも大事だと思います。
実際、上記のnote記事であがった疑惑に対して、当のねこます氏が疑惑を晴らすためのnote記事を投稿、さらにデマやレッテル貼りへの警鐘を鳴らしている。
ねこますが""2018年2月に""Viewpoint様のインタビューを受けた経緯の説明
取材も事実確認もしないまま、読んだ人に誤解を与えるような記事を書くのは、その内容の正誤以前に道徳的に如何なものかと思います。
思うに、最近の表現の自由を守ろうという界隈やVTuberやオタクの界隈に対してデマやレッテル貼りを繰り返すのは、昨今の表現の自由を守ろうという界隈やVTuberやオタクの界隈に対して理解がないからではないか。
https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20210930/1633010640
この文章からVTuberに対して理解がないという事が分かる。近頃のVTuberは3DよりもLive2Dという2Dが主流であるというのもそうだが、なによりもVTuberにとってのアバターやキャラクターに対する理解が足りない。
VTuberにとってアバターとは単なる外見ではない、もう一人の自分であり、そして何より大事なのはキャラクターを単に演じているのではなく、リスナーと共に作っていくものだ。それも厄介リスナーや杞憂民など面倒くさいリスナーも御しながらだ。だからこそ年月を重ねたVTuberが、自身の初配信を見直すと現在のキャラクターと違うことで恥ずかしくなってワーワー騒いでリスナーと共に笑うということが出来る。だからこそVTuberが引退するからといって、アバターを別の人が使い回すということはできない。
VTuberにとって演者とアバターはイコールのものであり、キャラクターは演者一人で作り上げるものではなくリスナーと共に作り上げていくものだ。
だからアバターに隠れてキャラクターを演じるとか個性が出にくいというのは、お門違いの理解にも程がある。
かつて犯罪が起こると、その犯罪者とオタク趣味を結びつけた報道が度々あったものだ。
それは自分たちにとって理解できないオタク趣味を異常なものと結びつけて、理解できない自分を正しいと視野が狭い人々に寄与した。
今、表現の自由を守ろうという界隈やVTuberやオタクの界隈に対して、デマやレッテルを貼る人々は同じことをしているのではないか、
理解できないものにレッテルを貼りデマを振りまき、理解できない自分を正しいと思い込む。まったくリベラルから外れる行いではないか。
統一教会の影響を危険視して、統一教会の影響を相対化したり矮小化したりする声に対して警鐘を鳴らすのも大事ですが、同程度には、表現の自由を守ろうという界隈、そしてVTuber界隈やオタク界隈へのデマやレッテル貼りにも警鐘を鳴らすことがマトモなリテラシーの持ち主だと思います。
統一協会への危機感を語る人たちの説明は、下手すぎるということになるのかもしれません。
「統一協会への危機感を語る人たち」、気持ちは凄くよくわかります。
私も「統一教会」絡みについてはもっと警戒すべきだとおもってます。
ただ、警鐘を鳴らしたいのであれば「統一教会のやばさを知らない人」に対して、そのやばさを説明するべきだと思うんですよ。
でも実際は、「知ってる人向け」に語っていて、知らない人をバカにするような語りばかりが目立ちます。
これ、2015年くらいまでのインターネットならそれでもよかったと思うんですけど、
今って多分これは「限界集落村」のやり方であって、それだとただの愚痴にしかなってないし、
もっと言えば批判してるつもりで、その目的に逆行して敵を作ってしまうだけになりがちなんじゃないかなと。
やばさをよく知ってる人からすると、もうそのやばさって説明不要なものなんですよね。
だから「これだけやばいやばいって言っておけば自分で調べてやばさを実感するだろ」って期待しちゃう。
でも、それは「今の」インターネットユーザーの標準レベルを考えると、期待しすぎなんだと思います。
https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20210930/1633010640
これとか、もう完全に老害の戯言くらいに処理されちゃうんじゃないかな。
YouTubeの人気動画って、本当にわかってる人間からしたら
「え、そこから?そこから説明するのか?」って感じちゃうレベルのところからめちゃくちゃ丁寧に説明するんですよね。
こういう記事もありましたが、「わかってる人」にとってみたら
20分くらいの動画で、「そんなん知ってるわ」って内容しか語られてない、みたいなことが結構あります。
https://togetter.com/li/1781714
そういう意味で情報密度はすごく低いです。活字で情報摂取する人からしたら「効率悪すぎてつらい」っていう感想が出るのはよくわかります。
逆にいうと「死ぬほど丁寧」なんですよね。
文章と違って、テレビと同じようにぼーっと見てるだけで向こうから情報が来てくれることもあり
「特に興味がない人」や「今まで何も知らなかった人」への入り口としては圧倒的に強いなと感じます。
「すごく初歩的なこと」ほど時間をかけて丁寧に説明することが大事だと思うんですが、
「特に興味がない人」や「今まで何も知らなかった人」、勉強したくない人って文章で長々と書かれてたらやる気でないじゃないですか。
だから、この部分ってどんなに頑張ってもブログではカバーしきれない部分があったんだと思います。
でも今はこうやって動画コンテンツという形でその人たちにもリーチできる。
YouTubeがブログよりもはるかに多くのアクセスや反応を得てるの凄くよくわかります。
今まではそのあたり、金儲けにつながるものであれば
「いかがでしたか?」ブログとかアフィリエイターが一生懸命頑張って解説記事を書いてたわけですが
そういうアフィリエイターの人ほど、YouTube動画を有効活用することを考えてる。
タチが悪いのは、YouTubeを見てる層が今のインターネットの主力になってしまっているということ
そもそも話題に興味がなかったので、あんまり政治とか宗教とかみたいなめんどくさい問題に意見を述べることはしなかったのですが
今はこういう人たちが入門コンテンツだけに触れて意見を述べるなんてのが当たり前になってきました。
こうなってくると、この人たちは「自分たちがネットの標準だ」と思ってふるまうようになってきます。
現状において特定の話題について「知ってることを前提で話す」ということ自体がすでに傲慢という扱いになる。
まして「知らないこと」や「自分の意見と違うこと」をけなすような発言をする人間は憎悪の対象にすらなりうる。
「知らないこと」「基礎的な事すらわかってないこと」に対して寛容になりその人たちにもアピールしていかないと、
中途半端に警告を発しても「かえって敵を作る」ことになりかねない……。
こういう状況だと、開きなおって「知ってる人だけ読めばいい」スタイルか「0から丁寧に説明するね」のどちらかでないとやっていけないのかなという気持ちになります。
そりゃもうブログなんかやってられませんわ。
ある程度自分たちが選んだ人たち、「少なくとも話のレベルに差がありすぎなくて、いちから説明しなくても良い相手」にだけ情報を発信できるSNSにこもりたくなります。
マスクはもちろん不織布。一日に一回必ず変えている。
会社でもリモートワーク、ソーシャルディスタンス、衝立などの万全な感染対策を自らが指揮をとって行っていた。
当然一人外食もない。料理が好きなので、家で食べたほうが安心できる。
ところが、一昨日から発熱して、今日検査を受けたら陽性だった。
まさか。
同じく発熱外来にくる若い人たちが大きな咳をするのを横目で見ながら、俺は陰性なんだからうつったらどうするんだ。くらいの気持ちで検査結果を待っていた。
それなのに結果は陽性だった。
ワクチンは11日前に1回目を接種済み。おかげさまで症状は肺炎もなく軽症という判断とのこと。
コンビニだろうとどこかに入るときは絶対にマスクを外さなかったし、この暑い中、屋外でも確実に人が視野にいないときしかマスクを外していない。
コンビニのドアも指は使わず、基本足で開閉をする。出入りの消毒も徹底してきた。
上の階の窓から無音のくしゃみを飛ばされたのなら仕方ないけど、それ以外に考えられない。
それで思いついたのが、先週の日曜日に、大手家電量販店の取り置き商品を受け取りに行ったときのことだ。
特定はされるだろうけど悪戯な風評被害はやめたいのでこのまま伏せて書く。
そのあたりは駐車場料金が高く、買い物ついでではないととてもじゃないけど車でなんか行ける場所ではない。
その時は1万円を超える買い物だったので2時間の駐車サービスがついたのだ。
人とみつにならないように気をつけながら受け取りカウンターで支払いをすませる。
考えた結果、別のフロアにあるカメラコーナーだけを回ることにした。
それも、駐車場から一貫してエレベーターは使わずエスカレーターだ。
ネットで気になっていた現物を、触ることなく一通り眺めて、時間にして10分くらいだろうか。
店員と話をすることもなく、そのままそこをあとにした。
もうこれしかない。
おそらくどこか途中でエアローゾルがマスクに付着してしまったのだろう。
それはほんの僅かな量だったかもしれない。
しかし、その後マスクを交換することなく呼吸を続けたことで、付着したエアローゾルを吸い込んでしまったのではないかという可能性だ。
これなら、コンビニでも同じことが起こり得る。
(屋外を通る分、殺菌は期待できるが。)
しかし、言いたいことは、清潔な不織布マスクを使っていたとしても感染のリスクは十分にあるということだ。
1日に1回の交換頻度を高いと取るか低いと取るかは意見が分かれると思う。
しかし、身近な人間に聞いた限りだと、不織布マスクが半分、そのうち少なくとも1日未満で交換する人は1/10しかいなかった。
1日一回のマスク交換しかしなかった僕を責めてほしいのではない、毎日交換していれば感染を防げると油断している人がいるのであれば、そうではない可能性を考えていただきたい。
今回指摘したいのは、不織布に限らず、マスクに付着したウィルスを吸い続けることでマスクを貫通してしまう危険性だ。
それは不織布に限らず、すべてのマスクにおいて同じだと言える。
しかし、不織布を交換して使っていれば安全ではないということに警鐘を鳴らしたい。
いつ連絡があってこれからどうなるかなんて全くわからないが、一人でも感染しないように感染した人間は知恵を出すべきだと思うし、そうして知恵を出した人間を愚かだという切り捨てるだけの世の中であるべきではない。
そんな状態にも関わらず、医療従事者の人たちは感染者の不安を少しでも取り除こうと丁寧に丁寧に説明をしてくれた。
あとから発熱外来に来る人間は、絵に書いたようなマイルドヤンキーみたいな若者で、こんな人間たちと一緒に感染してしまったことがどうしようもなく悔しかった。
中国、急激な人口減少、史上最大規模のバブル崩壊の兆候…世界的インフレ到来の悪夢
藤 和彦
中国が2020年に実施した国勢調査の結果に世界の注目が集まっている。今年4月に主要データが公表される予定だったが、その公表時期がずれ込んでいるからである。国勢調査は人口動態を把握するために10年に1度のペースで実施され、財政や社会保障など国の根幹にかかわる重要な統計である。中国国家統計局は4月末に「20年の人口は増加した」とだけ述べたが、比較の対象が19年なのか、10年なのか明らかではない。「人口数をかさ上げするための統計的処置を行っているのではないか」という疑惑も浮上している。
中国に人口減少社会が迫っていることも注目を集める大きな要因である。英フィナンシャル・タイムズは4月27日、状況に詳しい複数の関係者の話として「中国の人口が50年ぶりに減少した」と報じた。国連の予測によれば、中国の人口は27年にピークを迎えるとされてきたが、これが7年前倒しになるかたちである。人口数に基づいて教育や治安などの予算が決まる財政の仕組みにより、中国の人口数は実際よりも過大になっているとの指摘がかねてからなされてきた。
国家統計局は「19年に14億人を突破した」としているが、米ウィスコンシン大学の人口問題専門家は、「18年に中国の人口は減少に転じ、20年の人口は12億6000万人にすぎない。あらゆる政策が誤ったデータをもとに策定され、今後の人口政策に不利益をもたらす」と警鐘を鳴らしている(5月3日付日本経済新聞)。
中国の15歳から64歳までの生産年齢人口は13年にピークをつけたが、7年後に総人口のピークを迎えたとすれば、日本の場合よりもペースが格段に速い(日本の生産年齢人口は1992年に、総人口は08年にそれぞれピークを迎えた)。
中国は出生数の増加に向け、いわゆる「一人っ子政策」を16年に廃止したが、その後も出生数は大幅に減少しており、中国人民銀行は4月下旬、人口構造の転換を分析した報告書の中で「産児制限を完全に廃止すべきだ」とする異例の主張を行った。その理由として「高齢化の危機を技術進歩や教育水準の向上で補うことは困難であることは日本の事例が証明している」ことを挙げている。人民銀行は産児制限の撤廃に加えて、出産奨励といった抜本策も主張しており、「若者が都市部に住宅を構えられるよう、住宅価格を抑制すべきである」と強調する。
中国では20年以上にわたって続いた不動産バブルのせいで、都市部の住宅価格は普通の人々の手が届かないほどの高値になってしまった。中国の場合、独身者が賃貸アパートに住むことは許されても、結婚して賃貸アパートに住み続けることは社会的通念ではほとんどありえないとされている(2月16日付「現代ビジネス」)。このため、新婚夫婦はマンションを購入するために多額の住宅ローンを組まざるを得ないが、月収に占める住宅ローンの返済額は5割に達しているという。昨年11月に実施された調査によれば、3分の1が「高い住宅費が2人目の子供を持つことを拒む原因になっている」と回答している。
目先の経済成長のみを重視してきた長年のツケが「少子化」という深刻な現象をもたらしていることに危機感を持った中国政府は、「住宅コスト」の抑制という重い課題に取り組み始めている。
中国の金融監督当局は昨年12月末、「今年1月から銀行の住宅ローンや不動産企業への融資に総量規制を設ける」と発表した。中国でもコロナ禍に苦しむ中小企業を支援するための金融支援を拡大したが、その副作用で投機マネーが不動産市場に流れ込み、大都市を中心にマンション価格が高騰したからである。
しかし、当局の引き締め策は功を奏していないようだ。中国共産党中央政治局は4月30日、住宅市場について「住宅は住むためのものであり、投機のためのものではない。様々な不動産市場での投機防止を行う」と改めて警告を発した。最近の中国では投機筋が銀行融資を不正手段で獲得し、これを元手に不動産を購入する動きが活発化しており、大都市の不動産市場がさらに過熱する様相を呈している(4月16日付ロイター)。
中国も「失われた30年」
出生数の激減がもたらす少子高齢化の急激な進行は、30年にわたって続いてきた中国の高度成長を終焉させ、世界の覇権国となる夢を奪ってしまうことになりかねない。習近平指導部は金融分野での統制権限をようやく手中に収めたとされている(4月28日付日本経済新聞)が、毛沢東が50年前に遭遇した国難(人口減少)に立ち向かうため、長年の懸案であった「バブル潰し」を断行するのではないだろうか。
現在の中国のマクロ経済状況は30年前の日本と酷似しており、史上最大規模のバブルが崩壊すれば、中国も「失われた30年」を経験することになるだろう。しかし、中国の人口減少による悪影響は中国経済だけにとどまらないかもしれない。
誕生間もないバイデン米政権は、供給サイド重視の経済政策(レーガノミクス)から需要重視の経済政策に大きく舵を切っていることから、投資家の間では「新型コロナウイルスのパンデミック」に代わって、「高水準の資産価格、いわゆるバブル崩壊」が最大の懸念材料になってきている(4月30日付ブルームバーグ)。
冷戦後の世界経済は、中国をはじめとする共産圏の安価な労働力のおかげで長年インフレという悪夢に苦しめられることはなかったが、中国の人口減少は「低インフレ時代」が終わることを意味する。そうなれば、中央銀行は今後引き締めモードを余儀なくされ、世界規模のバブルも崩壊してしまうのではないだろうか。