はてなキーワード: 小作人とは
農業、工業、医療などのあらゆる技術が進歩して人口は増えたよね
教育も高度化して識字率、衛生観念、人権意識などが向上したよね
で?結局、人権意識が向上した結果、先進国は人口が減少し始めたよね
人権意識が向上したはずなのに、戦争も差別も民族浄化も続いてるよね
圧倒的に食い物も美味くなったし、便利になったし文化的になったけど
当時の人たちはその暮らしの中で満足してたわけだよね
1000年前の人たちの幸福度と、今の俺たちの幸福度ってどれくらい差があるのかな
飢餓の心配が圧倒的に低くなったことだけは明確に差があると思うけど、
それ以外はそんなに変わらないんじゃないかって気がしてる
https://anond.hatelabo.jp/20240930202150三四郎はすぐ床へはいった。三四郎は勉強家というよりむしろ※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊家なので、わりあい書物を読まない。その代りある掬すべき情景にあうと、何べんもこれを頭の中で新たにして喜んでいる。そのほうが命に奥行があるような気がする。きょうも、いつもなら、神秘的講義の最中に、ぱっと電燈がつくところなどを繰り返してうれしがるはずだが、母の手紙があるので、まず、それから片づけ始めた。
手紙には新蔵が蜂蜜をくれたから、焼酎を混ぜて、毎晩杯に一杯ずつ飲んでいるとある。新蔵は家の小作人で、毎年冬になると年貢米を二十俵ずつ持ってくる。いたって正直者だが、癇癪が強いので、時々女房を薪でなぐることがある。――三四郎は床の中で新蔵が蜂を飼い出した昔の事まで思い浮かべた。それは五年ほどまえである。裏の椎の木に蜜蜂が二、三百匹ぶら下がっていたのを見つけてすぐ籾漏斗に酒を吹きかけて、ことごとく生捕にした。それからこれを箱へ入れて、出入りのできるような穴をあけて、日当りのいい石の上に据えてやった。すると蜂がだんだんふえてくる。箱が一つでは足りなくなる。二つにする。また足りなくなる。三つにする。というふうにふやしていった結果、今ではなんでも六箱か七箱ある。そのうちの一箱を年に一度ずつ石からおろして蜂のために蜜を切り取るといっていた。毎年夏休みに帰るたびに蜜をあげましょうと言わないことはないが、ついに持ってきたためしがなかった。が、今年は物覚えが急によくなって、年来の約束を履行したものであろう。
平太郎がおやじの石塔を建てたから見にきてくれろと頼みにきたとある。行ってみると、木も草もはえていない庭の赤土のまん中に、御影石でできていたそうである。平太郎はその御影石が自慢なのだと書いてある。山から切り出すのに幾日とかかかって、それから石屋に頼んだら十円取られた。百姓や何かにはわからないが、あなたのとこの若旦那は大学校へはいっているくらいだから、石の善悪はきっとわかる。今度手紙のついでに聞いてみてくれ、そうして十円もかけておやじのためにこしらえてやった石塔をほめてもらってくれと言うんだそうだ。――三四郎はひとりでくすくす笑い出した。千駄木の石門よりよほど激しい。
大学の制服を着た写真をよこせとある。三四郎はいつか撮ってやろうと思いながら、次へ移ると、案のごとく三輪田のお光さんが出てきた。――このあいだお光さんのおっかさんが来て、三四郎さんも近々大学を卒業なさることだが、卒業したら家の娘をもらってくれまいかという相談であった。お光さんは器量もよし気質も優しいし、家に田地もだいぶあるし、その上家と家との今までの関係もあることだから、そうしたら双方ともつごうがよいだろうと書いて、そのあとへ但し書がつけてある。――お光さんもうれしがるだろう。――東京の者は気心が知れないから私はいやじゃ。
三四郎は手紙を巻き返して、封に入れて、枕元へ置いたまま目を眠った。鼠が急に天井であばれだしたが、やがて静まった。
三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の香がする。すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。もっとも帰るに世話はいらない。もどろうとすれば、すぐにもどれる。ただいざとならない以上はもどる気がしない。いわば立退場のようなものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえここに葬ったかと思うと、急にもったいなくなる。そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊して旧歓をあたためる。
第二の世界のうちには、苔のはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。梯子をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の垢で、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵がある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。
第二の世界に動く人の影を見ると、たいてい不精な髭をはやしている。ある者は空を見て歩いている。ある者は俯向いて歩いている。服装は必ずきたない。生計はきっと貧乏である。そうして晏如としている。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸してはばからない。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅をのがれるから幸いである。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。三四郎はこの内の空気をほぼ解しえた所にいる。出れば出られる。しかしせっかく解しかけた趣味を思いきって捨てるのも残念だ。
第三の世界はさんとして春のごとくうごいている。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つシャンパンの杯がある。そうしてすべての上の冠として美しい女性がある。三四郎はその女性の一人に口をきいた。一人を二へん見た。この世界は三四郎にとって最も深厚な世界である。この世界は鼻の先にある。ただ近づき難い。近づき難い点において、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くからこの世界をながめて、不思議に思う。自分がこの世界のどこかへはいらなければ、その世界のどこかに欠陥ができるような気がする。自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。それにもかかわらず、円満の発達をこいねがうべきはずのこの世界がかえってみずからを束縛して、自分が自由に出入すべき通路をふさいでいる。三四郎にはこれが不思議であった。
三四郎は床のなかで、この三つの世界を並べて、互いに比較してみた。次にこの三つの世界をかき混ぜて、そのなかから一つの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねるにこしたことはない。
結果はすこぶる平凡である。けれどもこの結果に到着するまえにいろいろ考えたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しやすい思索家自身からみると、それほど平凡ではなかった。
ただこうすると広い第三の世界を眇たる一個の細君で代表させることになる。美しい女性はたくさんある。美しい女性を翻訳するといろいろになる。――三四郎は広田先生にならって、翻訳という字を使ってみた。――いやしくも人格上の言葉に翻訳のできるかぎりは、その翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を全からしむるために、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にするようなものである。
三四郎は論理をここまで延長してみて、少し広田さんにかぶれたなと思った。実際のところは、これほど痛切に不足を感じていなかったからである。
翌日学校へ出ると講義は例によってつまらないが、室内の空気は依然として俗を離れているので、午後三時までのあいだに、すっかり第二の世界の人となりおおせて、さも偉人のような態度をもって、追分の交番の前まで来ると、ばったり与次郎に出会った。
偉人の態度はこれがためにまったくくずれた。交番の巡査さえ薄笑いをしている。
「なんだ」
「なんだもないものだ。もう少し普通の人間らしく歩くがいい。まるでロマンチック・アイロニーだ」
三四郎にはこの洋語の意味がよくわからなかった。しかたがないから、
「家はあったか」と聞いた。
「その事で今君の所へ行ったんだ――あすいよいよ引っ越す。手伝いに来てくれ」
「どこへ越す」
「西片町十番地への三号。九時までに向こうへ行って掃除をしてね。待っててくれ。あとから行くから。いいか、九時までだぜ。への三号だよ。失敬」
与次郎は急いで行き過ぎた。三四郎も急いで下宿へ帰った。その晩取って返して、図書館でロマンチック・アイロニーという句を調べてみたら、ドイツのシュレーゲルが唱えだした言葉で、なんでも天才というものは、目的も努力もなく、終日ぶらぶらぶらついていなくってはだめだという説だと書いてあった。三四郎はようやく安心して、下宿へ帰って、すぐ寝た。
あくる日は約束だから、天長節にもかかわらず、例刻に起きて、学校へ行くつもりで西片町十番地へはいって、への三号を調べてみると、妙に細い通りの中ほどにある。古い家だ。
玄関の代りに西洋間が一つ突き出していて、それと鉤の手に座敷がある。座敷のうしろが茶の間で、茶の間の向こうが勝手、下女部屋と順に並んでいる。ほかに二階がある。ただし何畳だかわからない。
三四郎は掃除を頼まれたのだが、べつに掃除をする必要もないと認めた。むろんきれいじゃない。しかし何といって、取って捨てべきものも見当らない。しいて捨てれば畳建具ぐらいなものだと考えながら、雨戸だけをあけて、座敷の椽側へ腰をかけて庭をながめていた。
大きな百日紅がある。しかしこれは根が隣にあるので、幹の半分以上が横に杉垣から、こっちの領分をおかしているだけである。大きな桜がある。これはたしかに垣根の中にはえている。その代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊とみえて、いっこう咲いていない。このほかにはなんにもない。気の毒なような庭である。ただ土だけは平らで、肌理が細かではなはだ美しい。三四郎は土を見ていた。じっさい土を見るようにできた庭である。
そのうち高等学校で天長節の式の始まるベルが鳴りだした。三四郎はベルを聞きながら九時がきたんだろうと考えた。何もしないでいても悪いから、桜の枯葉でも掃こうかしらんとようやく気がついた時、また箒がないということを考えだした。また椽側へ腰をかけた。かけて二分もしたかと思うと、庭木戸がすうとあいた。そうして思いもよらぬ池の女が庭の中にあらわれた。
二方は生垣で仕切ってある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎はこの狭い囲いの中に立った池の女を見るやいなや、たちまち悟った。――花は必ず剪って、瓶裏にながむべきものである。
この時三四郎の腰は椽側を離れた。女は折戸を離れた。
「失礼でございますが……」
女はこの句を冒頭に置いて会釈した。腰から上を例のとおり前へ浮かしたが、顔はけっして下げない。会釈しながら、三四郎を見つめている。女の咽喉が正面から見ると長く延びた。同時にその目が三四郎の眸に映った。
二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪えうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。
「はあ、ここです」
女の声と調子に比べると、三四郎の答はすこぶるぶっきらぼうである。三四郎も気がついている。けれどもほかに言いようがなかった。
「まだお移りにならないんでございますか」女の言葉ははっきりしている。普通のようにあとを濁さない。
「まだ来ません。もう来るでしょう」
女はしばしためらった。手に大きな籃をさげている。女の着物は例によって、わからない。ただいつものように光らないだけが目についた。地がなんだかぶつぶつしている。それに縞だか模様だかある。その模様がいかにもでたらめである。
上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つが籃の蓋の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。
「あなたは……」
風が隣へ越した時分、女が三四郎に聞いた。
「掃除に頼まれて来たのです」と言ったが、現に腰をかけてぽかんとしていたところを見られたのだから、三四郎は自分でおかしくなった。すると女も笑いながら、
「じゃ私も少しお待ち申しましょうか」と言った。その言い方が三四郎に許諾を求めるように聞こえたので、三四郎は大いに愉快であった。そこで「ああ」と答えた。三四郎の了見では、「ああ、お待ちなさい」を略したつもりである。女はそれでもまだ立っている。三四郎はしかたがないから、
「あなたは……」と向こうで聞いたようなことをこっちからも聞いた。すると、女は籃を椽の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出して、三四郎にくれた。
名刺には里見美禰子とあった。本郷真砂町だから谷を越すとすぐ向こうである。三四郎がこの名刺をながめているあいだに、女は椽に腰をおろした。
「あなたにはお目にかかりましたな」と名刺を袂へ入れた三四郎が顔をあげた。
「はあ。いつか病院で……」と言って女もこっちを向いた。
「まだある」
「それから池の端で……」と女はすぐ言った。よく覚えている。三四郎はそれで言う事がなくなった。女は最後に、
「いいえ」と答えた。すこぶる簡潔である。二人は桜の枝を見ていた。梢に虫の食ったような葉がわずかばかり残っている。引っ越しの荷物はなかなかやってこない。
「なにか先生に御用なんですか」
三四郎は突然こう聞いた。高い桜の枯枝を余念なくながめていた女は、急に三四郎の方を振りむく。あらびっくりした、ひどいわ、という顔つきであった。しかし答は尋常である。
「私もお手伝いに頼まれました」
三四郎はこの時はじめて気がついて見ると、女の腰をかけている椽に砂がいっぱいたまっている。
「ええ」と左右をながめたぎりである。腰を上げない。しばらく椽を見回した目を、三四郎に移すやいなや、
「掃除はもうなすったんですか」と聞いた。笑っている。三四郎はその笑いのなかに慣れやすいあるものを認めた。
「まだやらんです」
「お手伝いをして、いっしょに始めましょうか」
三四郎はすぐに立った。女は動かない。腰をかけたまま、箒やはたきのありかを聞く。三四郎は、ただてぶらで来たのだから、どこにもない、なんなら通りへ行って買ってこようかと聞くと、それはむだだから、隣で借りるほうがよかろうと言う。三四郎はすぐ隣へ行った。さっそく箒とはたきと、それからバケツと雑巾まで借りて急いで帰ってくると、女は依然としてもとの所へ腰をかけて、高い桜の枝をながめていた。
三四郎は箒を肩へかついで、バケツを右の手へぶら下げて「ええありました」とあたりまえのことを答えた。
女は白足袋のまま砂だらけの椽側へ上がった。歩くと細い足のあとができる。袂から白い前だれを出して帯の上から締めた。その前だれの縁がレースのようにかがってある。掃除をするにはもったいないほどきれいな色である。女は箒を取った。
「いったんはき出しましょう」と言いながら、袖の裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へかついだ。きれいな手が二の腕まで出た。かついだ袂の端からは美しい襦袢の袖が見える。茫然として立っていた三四郎は、突然バケツを鳴らして勝手口へ回った。
美禰子が掃くあとを、三四郎が雑巾をかける。三四郎が畳をたたくあいだに、美禰子が障子をはたく。どうかこうか掃除がひととおり済んだ時は二人ともだいぶ親しくなった。
三四郎がバケツの水を取り換えに台所へ行ったあとで、美禰子がはたきと箒を持って二階へ上がった。
「なんですか」とバケツをさげた三四郎が梯子段の下から言う。女は暗い所に立っている。前だれだけがまっ白だ。三四郎はバケツをさげたまま二、三段上がった。女はじっとしている。三四郎はまた二段上がった。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺ばかりの距離に来た。
「なんですか」
「なんだか暗くってわからないの」
「なぜ」
「なぜでも」
三四郎は追窮する気がなくなった。美禰子のそばをすり抜けて上へ出た。バケツを暗い椽側へ置いて戸をあける。なるほど桟のぐあいがよくわからない。そのうち美禰子も上がってきた。
「まだあからなくって」
美禰子は反対の側へ行った。
「こっちです」
三四郎は黙って、美禰子の方へ近寄った。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、バケツに蹴つまずいた。大きな音がする。ようやくのことで戸を一枚あけると、強い日がまともにさし込んだ。まぼしいくらいである。二人は顔を見合わせて思わず笑い出した。
裏の窓もあける。窓には竹の格子がついている。家主の庭が見える。鶏を飼っている。美禰子は例のごとく掃き出した。三四郎は四つ這いになって、あとから拭き出した。美禰子は箒を両手で持ったまま、三四郎の姿を見て、
「まあ」と言った。
やがて、箒を畳の上へなげ出して、裏の窓の所へ行って、立ったまま外面をながめている。そのうち三四郎も拭き終った。ぬれ雑巾をバケツの中へぼちゃんとたたきこんで、美禰子のそばへ来て並んだ。
「何を見ているんです」
「あててごらんなさい」
「鶏ですか」
「いいえ」
「あの大きな木ですか」
「いいえ」
「じゃ何を見ているんです。ぼくにはわからない」
なるほど白い雲が大きな空を渡っている。空はかぎりなく晴れて、どこまでも青く澄んでいる上を、綿の光ったような濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が激しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地がすいて見えるほどに薄くなる。あるいは吹き散らされながら、塊まって、白く柔かな針を集めたように、ささくれだつ。美禰子はそのかたまりを指さして言った。
「駝鳥の襟巻に似ているでしょう」
三四郎はボーアという言葉を知らなかった。それで知らないと言った。美禰子はまた、
「まあ」と言ったが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた。その時三四郎は、
「うん、あれなら知っとる」と言った。そうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあのくらいに動く以上は、颶風以上の速度でなくてはならないと、このあいだ野々宮さんから聞いたとおりを教えた。美禰子は、
「あらそう」と言いながら三四郎を見たが、
「なぜです」
「なぜでも、雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠くからながめているかいがないじゃありませんか」
「そうですか」
「そうですかって、あなたは雪でもかまわなくって」
「あなたは高い所を見るのが好きのようですな」
「ええ」
美禰子は竹の格子の中から、まだ空をながめている。白い雲はあとから、あとから、飛んで来る。
ところへ遠くから荷車の音が聞こえる。今静かな横町を曲がって、こっちへ近づいて来るのが地響きでよくわかる。三四郎は「来た」と言った。美禰子は「早いのね」と言ったままじっとしている。車の音の動くのが、白い雲の動くのに関係でもあるように耳をすましている。車はおちついた秋の中を容赦なく近づいて来る。やがて門の前へ来てとまった。
三四郎は美禰子を捨てて二階を駆け降りた。三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門をはいるのとが同時同刻であった。
「早いな」と与次郎がまず声をかけた。
「おそいって、荷物を一度に出したんだからしかたがない。それにぼく一人だから。あとは下女と車屋ばかりでどうすることもできない」
「先生は」
二人が話を始めているうちに、車屋が荷物をおろし始めた。下女もはいって来た。台所の方を下女と車屋に頼んで、与次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。書物がたくさんある。並べるのは一仕事だ。
「来ている」
「どこに」
「二階にいる」
「二階に何をしている」
「何をしているか、二階にいる」
「冗談じゃない」
与次郎は本を一冊持ったまま、廊下伝いに梯子段の下まで行って、例のとおりの声で、
「里見さん、里見さん。書物をかたづけるから、ちょっと手伝ってください」と言う。
「ただ今参ります」
箒とはたきを持って、美禰子は静かに降りて来た。
「何をしていたんです」と下から与次郎がせきたてるように聞く。
降りるのを待ちかねて、与次郎は美禰子を西洋間の戸口の所へ連れて来た。車力のおろした書物がいっぱい積んである。三四郎がその中へ、向こうむきにしゃがんで、しきりに何か読み始めている。
「まあたいへんね。これをどうするの」と美禰子が言った時、三四郎はしゃがみながら振り返った。にやにや笑っている。
「たいへんもなにもありゃしない。これを部屋の中へ入れて、片づけるんです。いまに先生も帰って来て手伝うはずだからわけはない。――君、しゃがんで本なんぞ読みだしちゃ困る。あとで借りていってゆっくり読むがいい」と与次郎が小言を言う。
2024/07/14(日) 14:35:08.430 ID:OWua5sajZ
IQ検査でも言語性と区別されて動作性という地頭の指標が用意されてるのに
2024/07/14(日) 14:35:50.356 ID:1Nszv4jYs
守護やろ
2024/07/14(日) 14:36:22.365 ID:8q0PPib72
2024/07/14(日) 14:37:49.838 ID:XoCFHzxmw
2024/07/14(日) 14:38:24.457 ID:DMQJCxzI/
2024/07/14(日) 14:38:40.129 ID:qYJ8NY6jH
2024/07/14(日) 14:39:09.989 ID:hQP.TxNyg
そら朝廷よ
2024/07/14(日) 14:39:14.646 ID:TSlyjP/tM
守護大名やろ
2024/07/14(日) 14:39:50.600 ID:pJYd2SsZR
2024/07/14(日) 14:40:50.366 ID:MuGfAvXGC
2024/07/14(日) 14:41:13.933 ID:jrXqx.rfP
年貢ちょろまかそうとしてるんだろ
西側はロシアに、ウクライナの占領地域を全部返せって言ってるよね?
たとえ占領地域にロシア人が移住したり、ロシア人が土地を所有したとしても、それは武力と盗んだ不正行為だ。だから全部無条件で返せと。
それはとても道理にかなっている。
一方、アフリカでは独立後は白人支配層が出ていくこともおかったが、引き続き侵略した土地を所有していることもあった。例えばレソト王国では今でも国土の3割を数パーセントもいない白人が所有しているね。
ジンバブエも、独立した後でさえ1割以下の白人が土地の半分以上を所有し、黒人先住民は小作人であり続けた。これでは黒人の隷属状態は変わらないし、独立に何の意味がある?
だからムガベ大統領は白人侵略者から農地を奪い返し、黒人小作人に与えた。
しかし白人諸国、特に米英はこれを財産権の侵害、レイシズム、ヘイトクライム、民族浄化だとして糾弾した。
そしてジンバブエのハイパーインフレは白人様に逆らった自業自得だとして、100000000000000ZBD紙幣のゼロの多さに爆笑していた。
じっさいにはこの経済危機はムガベの愚かさのせいではなく西側の経済制裁のせいなのに。
なお、旧イギリス領の香港も同じで、なぜか侵略された領土を取り返した側が悪者にされる。
侵略者と戦うのは正義(ただし侵略された側が白人の場合に限る)
こんなクソ国どもが嫌われるのは当然ですよね??
なお私はロシア人の血を引いているがロシアを庇う意図は一片もない 西側がそれ以上にゲスなだけ
【追記】
当時はソ連で、差別反対イデオロギーが強かったので(もちろんソ連の国益がメインだったが)差別・侵略される黒人を助けようという意思があった
これ「女が頭良くなって仕事なんかするから生意気になって子どもを産まない」みたいに雑に解釈されてるけど、日本においては仕事してる母親のほうが子の数は多いんだから、そういう話ではないんだよ。
女子教育が貧困な社会というのは、女子が早くから働く社会ということ。女性の就労率が低い社会というのは、女性が無料で家事・家業を担っているということ。
女が産まれたら無償の家事労働者or家業従事者が増えるということだから、いくら子ども産んでも親から見て収支はプラスになる。末の子は上の女の子が面倒見るから親の育児負担も少ない。
「児童労働が認められない」「子どもにかかるリソースが高額になった」 要は、子どもの人権が保証される世の中になった結果、多数の子どもを産み育てられるだけの経済力を持っている親が少なくなった、って話のバリエーションでしかないんよね。
だから、その社会においては、経済力がある共稼ぎ家庭のほうが子の数は増えるということになる。
日本では、かつては「長男には家と土地を継がせる代わりに高等教育は受けさせず家業を手伝わせる、できのいい男は都会で稼げるように大学にやる、できの悪い男は中卒高卒、本家の小作人みたいに使うか近所の工場で働かせる、女は出来が良ければ高卒で働かせて家に食費を入れさせ、出来が悪ければ中卒家事手伝い」という育て方で子どもに対して効率的なリソース配分を行っていた。でも、今の社会でそれをやると「毒親」だ。子どもは差別せず、全員に高等教育を与えないといけない。その結果が、女子の高学歴化だ。
たとえ、女から人権をうばって教育を受けさせず職にも付けさせないとしても、子どもに人権が認められている限りは子どもが増えれば増えるほど親は貧乏になる。
だから、一部の多産DV性癖を持つ男以外は貧乏子沢山を望まない。結果子どもは増えない。
あとさ「大学の学費を高くして高卒をあたりまえにすればいい」とか言う意見もあったけど、そしたら、ますます大学に行かせられる財力がある親以外は子どもを生まなくなるよね。今だって、貧乏人が子どもを産むのは子どもに対する虐待ぐらいに言われる自己責任社会なんだし。
むしろ、優秀な子が高卒で働くとむちゃくちゃプレミアムが付く制度にして高卒=金の卵ってことにするほうがまだ確度高いと思うわ。
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。
祖父は田舎じゃ規模のでかい建設会社の創業者で叔父と叔母の婿がそこの社長、父は地方銀行員って感じの家庭で育った。小さな頃から祖父の家に行くとよくヤクザさんが来てた。ヤクザって言っても三次団体の小さな組。祖父が満州から引き揚げて建設会社を起こす前に、土地を失った地主たちのために元の小作人から無理矢理小作料を取り立てる仕事をして稼いでおり、その時からの付き合いらしい。
親分さんと祖父は県会議員や地元選挙区議員の後援会の人、県庁の職員や父の上司の銀行の人を連れてきては両脇から肩を組んで酒を飲ませ、色々困らせていた。
俺が好きだったおじちゃんはそこのヤクザだった。小さな頃はよく祖父や叔父、親分さんにからかわれて泣かされていたんだけど、そのおじちゃんは物静かで「これ食べるかい?」と刺身なんかを食べさせてくれた。話し方とかも子供扱いしてこなかったので好きだった。そのおじちゃんの「親分どうも」という挨拶と独特のおじぎが好きで小さな頃からよく真似していた。祖父や親分さんは笑っていたが、父や母は良い顔をしなかった。大人になってから知ったが賭場開帳や強盗殺人未遂の前科があったそうで、そりゃ両親的には子供が懐くのは嫌だったのだろう。
俺が中学受験のために母と上京するタイミングで組が解散した。親分さんが高齢になったのと、ヤクザへの締め付けが厳しくなり始めたタイミングだった。
それ以来おじちゃんは親分さんから譲ってもらった喫茶店と雀荘をやりながら独りで暮らしていた。奥さんと子供はいるけど何年も会っていなかったらしい。
大学に入った最初の夏休み、帰省した際にその雀荘に地元の友達と行った。アルバイトのお姉さんだけがいて「店長来ないんだよね」と言っていた。心配になってお姉さんとアパートに行くと、そこで亡くなっていた。着替え中に脳梗塞で亡くなったようで、服を脱ぎかけたまま倒れていた。
お通夜とお葬式には行けなかった。両親からダメだと言われたし、その頃は祖父も叔父や父から強く言われてヤクザとの関わりを絶っていたから。葬式のあった夜はとても悲しい気分で過ごした。それから雀荘で両親には内緒でこっそりお別れ会をした。祖父、俺、友達、バイトのお姉さん、元親分さん、元組員さん、おじちゃんの恋人だったスナックのママなどが集まった。それからしばらくして親分さんも祖父も亡くなった。
最近地元の繁華街で覚醒剤を巡る半グレの乱闘騒ぎが起こったそう。祖父が親分さんに「そろそろ引退して解散しろ」と言った際に親分さんが「この辺でシャブ売り出すやつが出てくるぞ」と言っていたが、その通りになったんだなと複雑な気分になった。