はてなキーワード: 大卒とは
昭和時代では社内で大卒男子と高卒女子が知り合って結婚という伝統があったが、現在ではそんなものはごく一部の企業でしかない。某大手企業は社員の嫁要員として派遣で事務社員を雇っているみたいな話も聞くが、ドワンゴの技術チームにはそんな人材は不要である。
経営者から見れば、男子社員はさっさと結婚してくれたほうが安定するし生活も規則正しくなるしで好ましいのである。しかし、タダでさえIT企業の開発チームは男子ばかりだ。そのうえ、ドワンゴの社員と言えば国内IT企業のなかでも激しくオタク系・内気男子が多いことでも知られている(要出典)。社内に一般女子が多少いるくらいでは、なかなか化学反応を起こすのは難しい。だが、ラジオ体操で強制的にコミュニケーションの機会が生まれれば、多少はなにかが起こる可能性がある。
http://anond.hatelabo.jp/20110824143747
そもそも大企業における人事部の仕事とは何か。それは「人事ポートフォリオの管理」です。
企業が大きくなればなるほど、現場単位での採用というのは非効率を伴います。欧米のようにジョブ単位での管理がしっかりなされていれば、それでも「ここの課でこの仕事をする人が1人足りない」という形で標準化でき、HumanResourceはそれを機械的にアナウンスするだけ(そして労働市場もそれを前提に回る)ですが、新卒採用が中心でジョブ対職業能力の関係が標準化されておらず、メンバーシップ外からの調達が難しい日本では「この仕事のためにこの能力を持つ人がほしい」となったときにわざわざそれをひとつずつ探すのは大変な手間がかかります(もっとも最近はネット転職サイトなどのおかげでそのための環境も少しずつ整備されてきていますが)。
よって大企業における人事部には、長期的な視点のもと計画的に人員を育成し、いつどこで欠員や人員需要の変化が発生してもある程度は組織の弾力性が吸収してくれる体制を逆算して作り上げる責任があります。これが“日本における”人事ポートフォリオの管理であり、その逆算の起点こそが新卒採用になるわけです。
このような視点から新卒採用というものを見ると、理想の新卒とは「どのような職場にも適応でき、あらゆる技能を吸収できる」ような人間ということになります。もちろん現実にはそのような人間はいませんから、そこを「コミュニケーション能力」なり「人間力」なり、あるいは元エントリのような減点主義なりで繕ってみるわけですが、もちろんそれが欺瞞であることはおわかりでしょう。そしてこの欺瞞で自分自身までも騙してしまった結果、上記エントリのような無能人事部員が出来上がるというわけです。
(「リーダーシップ」なら、長期的な視点から見ても新卒採用において求めうる要素かなぁと多少は思います。現在のシステムでそれを適切に評価できるかどうかは別として)
このような「人事部中心主義」が「組織の官僚化」以外にどのような帰結を生むかについては、まぁhamachan先生の本でも読んでください。(というか基本的にこのエントリここまでhamachan本の丸写しだし……)
http://anond.hatelabo.jp/20130826033127
こういうベンチャー企業の場合、人事ポートフォリオという概念がそもそも存在しません。そもそもの企業規模が小さいので弾力性を持たせようがないうえに、必要となる職業的能力がコアすぎて新卒採用からゆっくりとやっていては倒産マチガイナシです。ゆえにこの方の感覚は非常に正しいと思います。ただ、企業の規模が今の100倍になったときに同じ感覚ではいられないでしょうね。
http://anond.hatelabo.jp/20130826163155
「中小企業に大卒が増えている」理由は、大卒率の増加だけでなく大企業側のメンバーシップ枠が縮小していることも原因です。このエントリで書いたような原理を理解せずとりあえず大企業の新卒システムを形だけパクってみました、というところが実に多い。少なくとも減点主義は中小企業では明確にアウトです。規模がないのに新卒を採ると結局長期的な育成ができず使い潰すか腐らせるかの2択になりがち(→「すぐ辞める最近の若者」orブラック企業化)です。ただ、上記ベンチャーほど必要となる職業能力がコアでない(=「人間力」で回ってしまう)というところも中小ほど多いのは事実なので、トンデモブラック以外はなんとかなっているのでしょう。
何を行っているのかしら無いけど、松下幸之助さんの入社時の学歴は 小学校中退。 最終学歴も大卒じゃない。
すくなくとも、時代背景が色々あったとはいえ、大学レベルの知識が起業や発明には必要ない。という実例としては十分だと思う。
対して、現代を見るとどうだろうか? 高学歴化はされたが・・・それが社会の役に立っているかというと、実際、そうでもないよね。
大学でアシスタントをしてテストの採点をしやたやつならわかるだろうけど、コピペレポート書いて卒業してるだけ(授業の内容なんて今覚えてるかどうか)なんて奴ザラにいるだろ。
高学歴でもいい人は沢山いるし、低学歴でもいいやつはいる。 逆に高学歴でも低学歴でも、コピペレポートは沢山いるし、おとなになっても他人の手柄を奪うだけのやつなんてザラだろ。
・留年浪人どうでもいい。Fランはほとんど営業に回されるが、そこでエース級の活躍する奴もままいる。早慶でも早々にメンタルでリタイヤしてしまう奴もいる。結果としては、学歴よりも配属部署とそこの上長次第なので、最低限大学さえ出てればOK。
ただし、出世するなら別。Fランでなれるのは本社なら課長まで。地方なら部長まで。
[出来る人よりも失点のない人を]
・これはその通り。試験がペーパー→面接(人事によるもの、各部署から集めた課長によるもの、各部署から集めた部長によるもの、幹部によるものっていう4段階)と何度もある限りどうしても失点が少ない人が残る。
大学での突出した実績や、ペーパーでのダントツの成績、面接での突飛な答えによる一発逆転は、試験の仕組み上起こりにくい。
[コネは案外きく]
・きく。特に社内より他社(資本関係や取引関係のある会社)からのコネはきく。「コネもひとつの能力だ」という理屈から。ただし、コネで入社した人間がコネを生かせない部署に配属されるのがお決まり(客からのコネで入社した人間は、その客に関連する部署には配属されない)。
そこは非常に納得がいかない。「コネという能力」を生かせないと思うんだけど。なんか理由があるのだろうか。
コネが非常に効くのは第二新卒や中途採用。なぜなら、新卒採用よりプロセスが簡略化されてるから、上に書いた「試験の仕組み」に穴があるカタチになるため。
・人事の面接官も、人事以外の部署の面接官も「コンプライアンス上聞いてはいけないこと」の箇条書きが回ってくる。家族関係や宗教関係や政治関係は絶対聞いてはいけない。
今はブラックな面接はネットですぐにバレる。その時責任をとるのは人事なので、人事もピリピリしてる。
[意外と顔は重要]
・顔がいい必要はないが、不快なルックスのやつは落ちる。つまりブサメンでも短髪でおでこ出してジャストサイズのスーツを着てれば問題ない。清潔感大変重要。
当社では顔がいい女子は6割が本社の管理部門に配属されて、2割が本社・地方問わず営業に回され、あとの2割が開発。男子はほとんど営業。
したがって、地方の管理部門の残りカス具合が半端ない(地方の管理部門のイケメンはたいてい営業から異動になってきたやつ)。
あと、30代以下の男性営業のイケメン率が高い。営業のオッサン連中が野武士みたいな連中なのは、20年前くらいを境にして方針が変わったんだと思う。
・育児とか結婚は制度も整ってるが、全然活用されないので、面接で聞いたら大歓迎で対応されるし、マイナスされることもない。聞き方は重要だけどね。
職場でも育児や結婚を悪く言うのはタブーになってる(飲み会で独身の男性社員が「こんな時期に妊娠するなよなー」みたいなこと言っても必ず誰かがたしなめる)
結婚・育児の制度が利用されないのは「女の敵は女だから」というのがもっぱらの説。
・これはその通り。ただし、履歴書にどんな資格を書いたかは、配属後かなりの期間上長が認識しており、業務もまずはそれに応じたものが振られることが多い。
新人に振りたい業務はたくさんあって、現場としては順番に振っていって当たるまで本人の適性を試したいと思ってる。まずどれを振るか、という選択の参考にされるわけだ。
[社交性は重要なはずなのに]
・たまーになんか障害があるのかレベルのコミュ障がコネ無しで入ってくる。すげー声が小さいとか。あと、ここに並べるのも変だけど、吃音の新入社員もいるよ。盲目もいるし。
・だって面接する側にそれを図れる教養がないからね。読書アピールなら冊数とか速度とか教養がない面接官にもわかる指標が必要。
[尊敬する人=親、でも問題ない]
・親でも織田信長でも孫悟空でもルフィでもOK。理由による。あ、いま当社の営業課長の間ではワンピースが流行ってます。
就活戦士のみなさまの何かのお役にたてればいんですが、兎にも角にも就活は業界よりも会社によるし、入社後は会社よりも部署(とそこの上長)によるというのが転職経験ありのオイラの結論です。
http://anond.hatelabo.jp/20130822113352
「首都圏痛勤ナンバーワン路線で、かつ高年収ゾーンでもある田都沿線住民が、
職住近接に否定的」という皮肉な結果が出ている。
田都住民は、
「年収的には、都心のタワーマンションを買える経済力があるにもかかわらず、
『敢えて』痛勤路線である田都沿線を選んでいる」という人種で、
「勤務先が丸の内や港区から、二子玉川ライズとかに近づくことを、有りがたがらない」人種らしい。
また、三浦展氏は
「女性の大卒比率はかなり低い(=短大卒、高卒の専業主婦が多い)」として
・ダンナが丸の内や港区などの「ブランドエリア」に勤務していることをステイタスに感じていて、
・ダンナが「痛勤」していることについては、「大変ね」とも思ってない、
むしろ「ダンナの『家族への自己犠牲』を確認できるモノサシ、象徴」とすら感じている
余裕ってさ、精神的な余裕だよ
取り乱してヒステリックにならないような、な
生まれ、学歴、職歴、言い出したらきりが無いだろ
他人の評価にいちいち動揺してるやつに惹かれるか?
何いってんの?先の増田は、高卒の正社員より、フリーターでもいいから大卒のが良いって言ってんだぞ?
それを意味わからんって言ったわけ。本人は、経済的な物は自分がカバーするから、良くて、
で、そんなことを言い切っちゃう奴が、精神的に余裕があるとは思わんが?
むしろ、世間体なんてきにしないし、そんな取り乱すことないと思うけどな、高卒でちゃんと働いてる様なやつのが。
よっぽど、大卒でまともに働いてない奴のがヒステリックなるだろ、俺は運が無いんだ-とか言って。
他人の評価なんてどうでもいいなら、むしろ高卒で良いだろ。学歴の条件がどうでもいいなら、経済的に安定してたほうが良いのは絶対だ。
何いってんの、ほんと。
まともに仕事してるなら高卒も大卒も同じ、学歴は関係ないとは言わないんだ
余裕ってさ、精神的な余裕だよ
取り乱してヒステリックにならないような、な
生まれ、学歴、職歴、言い出したらきりが無いだろ
他人の評価にいちいち動揺してるやつに惹かれるか?
何か仕事してるんだろ?
余裕があるならそれこそ高卒でまともに仕事してる人のほうが良いと思うけどね?
要するに、家柄とか、育ち、っていう世間体の部分が大きいのか?
例えフリーターでも、家柄良くて大学まで出てれば、夢を探してる(笑)とか、運が悪かった(笑)とか、
ま、俺大卒の男だけどな。
別に正社員でなくてもこっちが稼げばいいからあまり相手が正社員である事は興味がなかった。
ただ、高卒の友人に比べて大卒の友人の方が圧倒的に話が合う場合が多かったから、私は大卒という条件が大きかった。
ニートはさすがに困るけど、別にフリーターでも派遣でも元気で話が合う人ならいいから気にしないだけ。
そりゃあ正社員の人の方が良いけど、そこまでこだわってないって話。
高卒でも話が合う人なら気にしないんだけど、経験上かなり少なかったから自然と重視するようになった。
そういう気持ちで書いた。
カーストにおける生贄は人間だけでなく、地球上の生物は皆平等に存在しているから諦めるしかないねえ。
ただ、大卒の資格を持っていて、正社員で、健康で30歳にまだ届いていないというのは、日本人男性の中ではかなり有利な位置にいると思う。
私は結婚するなら顔や運動神経はどうでもいいし、正社員じゃなくてもいいけど、高学歴の人で健康な人がいいと思っている。
高学歴の人は受験勉強を頑張ったという事実がかっこいいし、高校で習った知識が通じないとがっかりしてしまうから。
アメリカ人やイギリス人は圧倒的に語学について感覚違うと思うよ。
フランス語もイタリア語も方言みたいなもんらしいけど。(だから、ちゃんと教育受けなくてもなんとなく分かるらしい。)
教育としては、大学まで行くような人なら、英語を第一外国語としては勿論、第ニ外国語まで普通に喋れる人が多い。"喋れる"ね。日本の大学の英語とは意味が違う。
それは大学まで行ってる様な人ならほぼ全てのが人がそういうレベル。
それに加え、大学まで行ってなくても近隣の国の言葉はなんとなく喋れる人も多いし、英語なんかは日本の大卒よりはよっぽど喋れる人は多いと思う。
(なんだかんだで外国人に触れる機会は圧倒的に多いので、物おじしないってのも大きい。それに結局必要なのはすごい簡単な言葉であることが多いから。)
一方、アメリカ人やイギリス人は、大卒でも英語以外一切喋れない人は多い。
勿論、外国語を学ぶ余裕はあるわけで、他の言葉を喋れる人がいないわけではないし、日本人で英語喋れる人よりは外国語を喋れるアメリカ人の方が割合が大きいかもしれないけど
それに加え、ゲルマン語系なら方言感覚でも行けるし、フランス語の影響も大きいし、学んでなくても分かる部分が大きすぎるのもあるので、
文法を全く知らなくてもなんとなく理解できてしまう、っていう部分もやはりある。
まあでも、アメリカ人やイギリス人は、英語を喋れない民族を見下している事実はあるよね。
自分たちは他の言語喋れないくせに、英語で少し間違った様な言い回しすると馬鹿にするし。
逆に日本人だと、まず英語を喋れないとどうしようもない部分があって、英語圏じゃなくても、取り敢えず、英語喋れますか?って聞く必要があるし。
そういう意味で、日本語喋れますか?感覚で彼らは英語喋れますか?って聞いてるんだろうから、世界が違いすぎるだろうね。
日本人がそこで英語しゃべる感覚で、英語喋れないッて言われた時に頑張ってしゃべる、程度の感覚なんだろうから、人生イージーすぎる。
横だけど、実質、中で大学別選考が行われてるのは当たり前としても、
選考基準として、"旧帝大以上限定"とかって書いちゃうのは言うのはOKなの?
"大卒"は1つの資格だから問題無いと思うけど、大学別になると差別になるかと(実際選考の際にされてるんだから明らかにしとけよ、ってのはまた別の話として)。
そういうのって書いてある公募って実際あるの?
何も持ってなかったら仕事しちゃ駄目なのか。
こういう事が言える奴は、実際に求職した事ない低レベルの奴しかいねえよ。
そもそも、高学歴が欲しいなら、希望要件に大卒以上だとか難関大学尚良しとか書いてるもんだぞ。
どうせ学歴:不問とかにしてて、且つ経験や資格も不問とかしてるんだろうが、それで低学歴ばかり来るって嘆いてるんじゃ
また、その人を見下したような書き方だが、第三者が見たらどう思うか、考えてないだろ
端的に言えば、他者への配慮がないからレベルが低いって言ってんの。
言ってる事は概ね同意なんだが、書き方がとにかく人を見下してる。そんな会社、高学歴でも敬遠するわ。
増田は初めてか?肩の力抜けよ
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
話題になっているので読んでみたが、いろいろと衝撃だった。
http://anond.hatelabo.jp/20130813213536
それからこれを読んで、ああ、なんか近いなと思った。
この手の話題は、こどもを持った今、ますます考えさせられる。自分がこどもに与えている環境は、一体どういったものなのか。
家庭で話題になること、親のすること、家にあるもの、すべてがこどもに対する環境である。こどもの世界はとても狭く、そこから受ける影響は計り知れない。それを気にしているかいないか、というのはとても重要なことだと、今本当に思う。
私 自身は、超とは言わないがまぁ高学歴一家に産まれた。いつからか知らないが、医者の家系だ。父の兄弟はみんな医者もしくは医者の妻であり、妻たちはたいて い薬剤師だ。母も大卒の高校教員だった(結婚するまでの数年だけ)。父方のいとこたちは当然、みんな医者で、女であれば医者との見合い話が転がり込んでく る。医者にならず医者の妻にもならなかったのは私と兄だけだ。
母方のいとこたちは医者プレッシャーは特にないが、大学を出て一流企業に勤めたり公務員になったりする人から、引きこもりまで様々だが、親の世代はみんな女でも大卒だ。当時にしたら高学歴ファミリーだと思う。
こんな家系に産まれたので、当然私と兄にも医者になれプレッシャーはあった。プレッシャーというより、医者以外の職業をほとんど知らなかった。だから『なり たい』という気持ち以前に「大きくなったらお医者さんになるんだろう」くらいに思っていた。親戚のおじさんおばさんにも「何科がいいのかな? 皮膚科なん て楽って言うわよ」とか「お医者さんの奥さんになるのね」とか、もうそれ以外の選択肢は全くみんな頭の中になかった。
私の産まれた街は田舎 なので、私がこどもだった30年くらい前には自営業以外はほとんどいなかった。そもそも、いまでいうサラリーマン的な人が働く職場はなかった(と思う。少 なくとも当時の私には見えていなかった)。何屋さんのなんとかちゃん、みたいな感じで、家業とその家の人が結びついていた。街中の友人の実家はみんな何か 家業をしているし、ちょっと離れたところはみんな農家だ。たまにお父さんが外国にいて帰ってこない家があったが、それが「商社の駐在員」である、というと は、これっぽっちも知らなかったし、知っていたとしてもきっと「しょうしゃのちゅうざいいん」のしごとが具体的にはわからなかっただろうと思う。お父さんがテキ屋さんで「こようそくしんじゅうたく」に住んでいる友達もいたが、その子と遊ぶなと言われる意味が分からなかった(のでもうしょっちゅう遊んでいた)。
今 大人といわれる年齢になって、いろんな人と出会い、ようやく世界にはいろんな仕事があり、いろんなルートでそうなれる、ということがわかってきたが、こど もの頃の私には「医学部にいって医者になる」「法学部へいって弁護士になる」「薬学部へいって薬剤師になる」「家を継いで○○屋になる」ほかは、あまりピ ンと来なかった。それ以外の世界との接点があまりにも少なかった。
今話題の「低学歴の世界」と同じく、おそらくは「高学歴の世界」の住人だったが、それ以外の世界について知る機会もなければ教えてくれる人もいなかった。
人 生の転機は小学校のとき。父が死んだ。父は開業医だった。残された母は、親業も家事もとことん 苦手だった。家の掃除も出来ないので、父の死後もずっとお手伝いさんがいた。私の世話もお手伝いさんの仕事だった。ゴミの分別も出来ないので、全部まとめ てゴミ袋にいれ、ずっと自宅に清掃業者がゴミをとりにきていた(有料)。道ばたにあるゴミ収集所が無料で使える市のサービスだと知ったのは高校生くらいの ことじゃないかと思う。
それでも私は自分の家は超貧乏だと思っていた。なぜならお金を稼いでくる人が死んでしまったのに、母が無職のままだ からだ。公立の学校もお金がかかっていると思っていた。保険金とか、遺族年金とか、寡婦年金とか、全然知らなかった。学校ではうちが母子家庭だと知った先生に「生活保護を受けたらどうか」と言われて(そのあと「お父さんはなにしてたの」「医者です」「あ、それは失礼した」というやり取りがあった。)そ れを母に言うと、うちは生活保護は受けられない、と言われた。中学から新聞配達のバイトをしようと、新聞屋を回ったが、何処もやらせてくれなかった。高校 に入ってすぐバイトをはじめた。いつも飲食店で働き、食費を浮かせた。そして、父の残したわずかばかりのお金を食い尽くすだけのニート母にものすごい嫌悪 感を抱いていた。あるいは借金もあるかもしれないと思ってびくびくしていたし。家族旅行は父が生きていた頃もお正月に近場の温泉に一泊するくらいだったし(開業医だったので学会などの出張時に代理の先生が頼めるときしか家から離れられなかったらしい)、父が死んでからはそんなことはしたことがない。仲の良い友人たちから家族旅行の話を聞いたり、留学した友人たちを見て、いいなぁ、お金がある家は、と思っていた。
私自身は、高校は田舎なりの公立の進学校に進学したものの(田舎なので公立のほうがレベルが高く、私立は滑り止めという扱 いだった)、大学には行かなかった。家は超貧乏だと信じ込んでいたので、国公立で年間80万円くらい、4年で300万円以上の学費、それに生活費。そんな お金なんてひねり出せないと思っていた。当時は、今だって毎日バイトしたって月に数万円しか稼げないのに、学費生活費を全部自分で稼ぐのは到底無理だと思ってい た。今となればなんと視野が狭かったんだろう、自分でリミットを決めてもったいない、と思うが、当時はそういう風には考えられなかった。母には「医者か弁 護士になるなら投資するがそうでないなら大学へ行く必要はない」と言われた。投資する気はない、と。「あんたはどうせ医者にはなれない」。母はよくそう いっていた。
投資ととらえるととてももっともなのだが、当事者かつ思春期の娘としては、これはとてもやる気を削がれた。彼女はこどもを投資物件ととらえており、さらに医者か弁護士以外は価値のない人間だと言っている。そして娘は投資対象として適切ではない、つまり価値がない。
こ どもが育つ上で一番大切なのは『無償の愛』を感じられるということらしいが、そういえば私に注がれる愛情はいつも有償だったなと、今になって思う。プロセ スをほめられることはなく、絵画で賞をもらっても、賞をもらった絵ではなく賞状をあがめられた。賞状だけ集めていれるファイルはあったが、その肝腎の絵を とっておく仕組みがなかった。学校の成績で上位何番以内に入るといくら、というのもあった。勉強はお金をもらう為のものだった。
こういうのも、環境の一部だ。
私はこういう環境から、自分は価値がない、というメッセージを受け取り続けてきたのだろうと思う。これは自分のこどもには絶対にしたくない。
と、話はずれてきたけれど。
まぁ、そんなわけで、私は高学歴一家の中の落ちこぼれである。ただ、落ちこぼれたと言っても、やはり「低学歴の世界」の話をブログで読むと衝撃だったけど。落ちこぼれたおかげでかどうか、いろんな人たちに会い、いろんな世界を知り、選択肢は沢山あるのだなぁ、というのを今になって感じで来た。高学歴の世界の住人たちとも付き合いがあるけれど、最初から高学歴の世界の住人だったひともいれば、そうでないひともいる。全くの低学歴ででも、高学歴の世界にすっとなじんでいる人もいる。本当にいろんな世界で育って、いろんなルートで、今そうなっている人がたくさんいる。
あのままあの世界にいたら、親戚友人知人は医者だらけで、自分も医者になっていたか医者と結婚していたのだろうと思う。そちらがよかったかどうかと言うと、どうもそうとは思えない。それは高学歴の世界が嫌だというのではなく、あまりにも選択肢が狭いためだ。
こ どもの頃は世界が本当に狭かった。職業は医者弁護士以外にも選択肢がたくさんあったし、医者弁護士になれないからと言って人生終わったわけで はない。高校は基本学区内で一番偏差値の高いところに行かないと行けないと思っていたし、学校の成績で平均値をとると馬鹿だと思っていた。大学はあんな親にお金を出してもらっていくなんて胸くそ悪すぎ る、そもそもそんなお金ないし、と思っていた。でも、本当は高校なんていくらでもあるし、世界には大学まで無料で行ける国も沢山あるんだ。世界は広く、選 択肢はとても多い。
選択肢が沢山あるのだということを、こどものうちにもっと知っていたかったと思う。本当に。高学歴の世界の住人たちのなかにもほかにもきっと他の選択肢を現実的に受け止められなくて、自分の世界に適応できずに苦しんでいる人もいるに違いない。私みたいに落ちこぼれてしまえばあきらめもつくけれど、そう出来ないと自分で命を落としたりする。
高学歴であれ低学歴であれ、選択肢があることを知っているか否かは大きいと思う。こどもにとっては親とその親の作り出す環境がすべてなんだ。私は高学歴の世界の住人じゃなくなっちゃったけど、いろんな選択肢があることは伝えたい。そういうことも含めて、大人たちはもっとその環境に気を配るべきなんだろうな、自戒を込めて。
昨今の事件をきっかけに「低学歴云々」というのをよく目にするようになった。で、それに対して「中卒高卒でもこういう人がいる」とか「一流大卒でもこういう人がいる」ということで、「低学歴」というくくりを批判している人もいるのだが。
「低学歴」って「低知性」をオブラートに包んだ表現じゃ無かったの?そりゃ、高卒でもちゃんとした人はいるし、一流大でもとんでもない人はいるけど、そんなの当たり前じゃん。
「低学歴」を文字通りの意味に取る人が増えてくるようだと、オブラートに包まずに「低知性」と言った方が良いのでは?(「低知力」の方が良いかな?)
「うちら」の世界 — http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
私のいる世界 — http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
「低学歴」って言うな。— http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130810/1376143977
SNS炎上と"低学歴の世界"の構造を分析。 — http://togetter.com/li/545991
ここ最近、「低学歴の世界」というワードを目にする機会が増えました。発端となったブログの内容と、自分の周りで議論されている内容、そして自分が考えていることは方向性が違うのですが、その「低学歴の世界」のあり方や「高学歴の世界」との関係、溝、そしてネーミングそのものが議論の対象になっているので、自分も思うところを書いてみようと思います。
・教養の低さ
・ローカル性
という特徴を持っているとされています。前提として、このような特徴を持ったコミュニティ、世界が現実にあるのだということは、このノートを読んでくださる人々に認識していただきたいと思っています。程度の差はありますが、上記5つの記事に書かれている内容でおおむね合っています。
ネーミングについて
僕自身もその「低学歴の世界」に、身を置いていたとは言わないまでも、通りを挟んで向かい側くらいまで近付いたことがあります。そこで感じたのは、そういう世界に身を置くかどうかは、(親をはじめとする周囲の)学歴という要素はとても大きい、ということです。分かりやすいレッテルを貼っているだけだ、とか、学歴で切り分けるな、とか、上から目線だ、という批判もありますが、現実にそういった世界をのぞき込んでみると、決して外れてはいないな、というのが思うところです。(また、全く次元の違う話ですが、これが例えば「下層の世界」というネーミングだったら、ここまで話題にならなかっただろうと思います。この話題をここまでバズらせてくれたという意味でも、この名前には功績がある、と思うのです。)
「低学歴」という呼び名では、単に「学歴が低い人々の集まり」くらいにしか聞こえないので、本質をとらえきれていない、という批判があります。上記の記事や自分なりの体験をもとに、この「低学歴の世界」の特徴を考えてみたいと思います。
究極のローカル性
この「低学歴の世界」の最大の特徴は、小中学時代に形成された地縁社会がほぼ一生続く、という究極のローカル性です。
低学歴の世界って何と無くわかるんだよ、高卒とか地元の専門、地元のFラン卒業して、中学の時の奴らとつるみ続けて、世界を知らない、それでも彼らは幸せなんですよ。
法律や経済に無関心、それで生きていけるから、ITにも無関心それで生きていけるから、大切なものは地元の友達だけ、地元最高みたいな人が。
本来ならば"低学歴の世界"の人々は親や先生との対立によって自らを止揚させて行き、大人になるが親や先生の能力が低いと止揚ではなく社会からの逃避によって解決を図る。
お互いに逃避した友人と遊び、逃避した同士自らをさらけ出し、自らの文化(culture)を養成していき、自らの常識を育んで行きます。
テレビの世界は全く違う世界の出来事を映す、代官山のお洒落なカフェ、原宿のお洒落な洋服屋さん、六本木の華やかなクラブ、それは"低学歴の世界"から見たら全くの虚像なのです。
彼らが持っている世界は小学校のころから使っていたコンビニ、最近出来たバイクで20分のトウキョウのシミュラークルとしてのイオンモール、それと国道沿いのチェーン店と出身中学・高校くらいなものです。
なぜなら決して地元から離れる事が出来ないから(考えすらしない)、"低学歴の世界"の交遊関係は幼少のころから続いており新しい環境に行くことが出来ない、疎外されるからです。
この記述は、その特徴を痛々しいほど正確に切り出していると思います。"彼ら"はとても世界が狭い。このような世界で、子供達は学区制に従って地元の小中に通い、テストの点数に従って近場の高校に通い、多くはそこで卒業して就職し、一部は地元の専門学校か大学に通い、一部が進学や就職でコミュニティを離れ「外の世界」に出て行く。これらの区分けのうち3つ目と2つ目の一部だけが「低学歴の世界」を(一時的に)脱出し、多数派の1つ目、2つ目の一部が「低学歴の世界」を構成する次世代となります。
ネーミングにも表れている「低学歴(※字義通り)」という特徴は、確かに当たっている、と言えます。彼らは多くが高卒、または地元の専門学校卒で、大卒者は少ない(大卒者は大学に依ったコミュニティを作ってしまうので、関わりが薄い)。それはローカル性と一体のものです。大学入学にはもちろん学力の問題もありますが、そもそも「低学歴の世界」の人は大学に進学することを考慮していない人が多いのです(理由は後述)。地元を出て高い金を払って進学しようと思わない、かといって就職のために県外に出るのも、という人が、地元で職を見つけて大人になっても地元に留まります。必然的に、構成メンバーが「低学歴」寄りになるのです。
しかし注意しなければならないのは、その「低学歴(※)」というのはどちらかといえば「低学歴の世界」が作り出した結果に近いものであって、その世界を成り立たせている要因ではない、ということです。「低学歴の世界」が「高学歴の世界」と断絶してしまっている最大の要因は、その世界の子供が、親世代から「低学歴の世界」を脱出できるような教育を受けられず、「低学歴の世界」が再生産されていく力が強い、ということです。
つまり僕が「低学歴の世界」の大きな要素として挙げたいのは、先程のローカル性に起因することですが、「自分の慣れ親しんだ世界の外に出て行く、子供を送り出す」という意識が、「低学歴の世界」に欠けていることです。だからこそ、自分が通ったことがない「大学」に子供を通わせようとも思わないし、海外に旅行する必要も、就職のために大都会に送り出す必要も感じない。インターネットをはじめとするツールは「世界」の仲間と交流するためだけに使えばいいから、きちんと学ぶ必要はない。
そこから生じる一つの帰結として、「子供を教育し教養をつけさせる」という意識が子育てをする家庭や地域に欠落していることも、この世界が持続する要因となります。自分がかつてそうだったのと同じように、また周囲と同じように、小中学校での教育に関心を払わない(払えない)、大学進学の必要を感じない。この意識の欠落によって、次世代が低学歴(※)を受け継ぐばかりか、「低学歴の世界」そのものが次世代にも再生産されていきます。
自分が暮らしている世界で事足りるのだから、子供もそれで十分だろうと思う、その意識が「低学歴の世界」という閉じたコミュニティを再生産していきます。
ここまできてやっと、学歴そのものは本質的な要因でないことが分かります。たとえば、中/高卒の芸能人なんか山ほどいますが、彼らの多くが「高学歴の世界」の住人である...とは言えないまでも、上記にあるような「低学歴の世界」の住人ではなさそうだ、ということは、感じられるでしょう(彼らの中には「低学歴の世界」出身の人も多いはずですが、容姿や芸能のセンスを武器にその世界を出たのだ、と言えます)。これを読んでいる「高学歴の世界」の皆さんは、将来自分の子供ができたとき、勉強が不得意で、東大や医学部どころか大学進学もおぼつかないくらいだとしたら、どうしますか。それでも必死に教育するでしょうし、学歴は身につけられなくても教養は教え込もうとするのではないでしょうか。「教育を受け(させ)教養をつけ(させ)る」「自分の慣れ親しんだローカルな世界の外に出(させ)る」という態度の有無が本質なのです。
こうした「子供を教育する」「子供を外の世界へ送り出す」意識は、もちろん親の学歴や経済力で生まれる面もあるし、土地や人間関係にも左右されるが、親世代の「『低学歴の世界』の外を見た体験」の有無、これが決定的な差を生みます。たとえ親世代に学歴や教養がなく、「低学歴の世界」に身を置いていても、外の世界を知って子供を送り出そうと思えば、経済大国であり、不十分ながらも支援システムがある日本でなら、可能だからです。「子供を外の世界に送り出す」というプロセスに成功すれば、その家庭はそこで「低学歴の世界」から離脱することになります。
しかし、ここに最大の隔たりがあります。「『低学歴の世界』の外を見た体験」というのは、基本的には学生時代を終えてからは体験することができず(もともと「低学歴の世界」にいる人間は、そのままでは大人になっても「低学歴の世界」に身を置いてしまいます)、非常にチャンスが少ないものです。さらに、「低学歴の世界」に身を置く人間が何らかの要因で「高学歴の世界」との接触しても、次世代ではその世界から脱出してしまいますから、そのコミュニティ全体に影響を与えることはありません。「低学歴の世界」にはその世界しか見えない人だけが残っていきます。こうして、「低学歴の世界」というものが強固な形で生き残っていくのだと考えています。
再度、ネーミングについて
そのような「低学歴の世界」は、上記の「私のいる世界」にあるように、学歴以前の段階であるはずの中学・高校ですでに生まれています。「低学歴(※)」が「低学歴の世界」を作るのではなく、「低学歴の世界」が「低学歴(※)」を作るのですから、本当の意味で適切な命名ではありません。「超ローカルの世界」とでも言い表した方が本質を捉えていると思いますが、これでは意味が容易にわからないので、まだ「低学歴の世界」の方が分かりやすい、ということでしょう。
何が問題なのか
で、問題点ですが、そんなものは存在せず、彼らは自分たちの世界で満足してやっていきます。自分たちの世界に閉じこもっていれば快適、というのは学歴や社会に関係なく、どこにでもあることです。そもそも、こういった「超ローカルの世界」はそれこそ士農工商の時代から存在したわけで、むしろ人間は地縁に従って一生を終えるのがスタンダードな時代もあったわけですから、問題などもとから存在しないのです。
では、なぜ今このように話題になっているかというと、社会全体の形が変化したために、「低学歴の世界」を脱して「中/高学歴の世界」に移り、そこで「カルチャーショック」を受ける人がいる、ということが要因として挙げられるでしょう。もちろんこんな現象は100年前からあったはずですが、そういった「低学歴の世界から脱出した人の体験談」みたいなものがインターネットにどっと表出してきて、話題になっているという側面があるのでしょう。ネットでは「同窓会コピペ」なんてものが流行ったりしていますが、地方で育って高学歴を得た人の視点から見る「同窓会」というのは、まさに「低学歴の世界の再発見」と呼んでいいだろう、と思うのです。
もうひとつの原因は、やはりインターネット技術によって、そういった世界を外から垣間見ることのできる人が増えてきた、ということです。彼らが冷蔵庫に入ったり、商品の肉を咥えたりするなんて現象は、たぶん昔からあったはずです。彼ら「低学歴の世界」の文化ではそういうことは普通であって、問題ないわけですが、それが「外の世界」の常識に合致しないものですから、何て連中だ、と言われて「炎上」する。ただ、上の記事にもありますが、彼らは外の世界に対して無関心ですから、「ちょっとふざけたらバレて怒られた」としか思いません。実際、地元に帰れば「この前○○が商品の肉をかっぱらって食ってたらバレてクビになったらしい」くらいの話は地元の同級生から聞くことができると思います。このように、本来は閉ざされた存在であった「低学歴の世界」が、主に情報通信技術の存在で外に姿を現すようになって驚かれている、というのが昨今の現状ではないか、と思うのです。
どうやって解決(?)するか
先に書いたように、この「世界」はそれ自体問題なく機能しているのですから、果たして何らかの手段をとる必要があるのか、ということから考えなければなりません。こちらから見ておかしいからといって、自分たちが正しいと思う世界観を押しつけるのはただの傲慢でしょう。しかし、そういった「低学歴の世界」もとい「超ローカルの世界」が巨大な世界として存在することが、社会全体にとって不利益であり、その世界を縮小していくことが当人達にとっても全体にとっても有益だと感じられるならば、ゆるやかに解決を目指す必要がありまます。しかし、これは新しい問題ではなく昔から連綿と続いてきた社会形態のひとつに過ぎないので、「低学歴の世界」がなくなる、なんてことはまずありえないでしょう。
どうやって対処するか、ということを考え出すと、まだまだ長くなってしまいそうなので、この辺で終わりにしたいと思います。お疲れさまでした。
まとめ
・「低学歴の世界」は、小中高時代の共同体で一生を過ごす人の集まり、「超ローカルな世界」である
・その世界の住人には、「外の世界に出て行こうという意識」と「教育に対する関心」が不足している
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/12/004216を読んで思い出したことがある。
思い出したから書いているだけで、それ以上でもそれ以下でもないことを先に述べておく。
1950年代生まれの女性がいる。叔母ではないが、記載が面倒なのでここでは叔母ということにしておく。
叔母はそこそこの中学を出て、慶応女子高に行った。当然、高校を出たら慶応大学に行くつもりで。
当時は1学年3クラス150人弱、半分くらいが中等部からの持ち上がりで残り半分が高校受験して入る。いずれにせよ、東京とその近隣から通う女の子ばかりだ。
受験して入ってきた下町のクラスメイトが2年になったときに驚いた
彼女以外の全員がびっくりした。
このクラス、じゃないよ。
たまたま勉強ができたので、中学の担任が異様な熱意を持って彼女とその両親に慶応女子高の入試を薦めた。
なので、彼女は慶応女子高を受けた。通学もそんなに時間がかからないし、悪くないと思ったからだ。
でもそれ以上のことは考えていなかったらしい。
大学なんて、本当に一部の特別な人が行くところで、中学で勉強ができたからといってみんながみんな行く場所ではない・・・彼女の頭の中では、世界はそうなっていたのだ。
「だからなに?」
彼女は女だったから、大学卒業後、就職先で結婚相手を見つけて家を出た。その地域を出た。高学歴の人がたくさん住む地域に、移っていった。
けれど男だったらどうなったのだろう。
就職しても転勤が無ければ、親元から会社に通っていたのだろうか。
近所の飲み屋で幼馴染と顔を合わせたときに、仕事とは別によぉよぉと話をうまく合わせられたのだろうか。
結婚相手は幼馴染から選べたのだろうか。それとも大卒→就職した大企業の仕事ぶりに合わせた相手を選んだのだろうか。
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もう一人、私の友達のことも書いてみる。
関西生まれで、彼はトップクラスの国立大学の工学部から大学院に進み、研究所勤めをしている。
彼の両親は中卒で、兄3人も高校中退。彼だけが勉強の人だった。
仕事の関係で東京で暮らしていたけれど、めったに関西に帰らなかった。
なぜ帰らないのかと尋ねた。
「帰ってもだれとも話が合わないから」
勉強する環境っていうものを親も理解していなかったから、両親が自分のためにテレビを着けるかつけないかでけんかするのがテレビ以上にうるさかった。
兄たちの宿題は小学校のころから全部自分がやっていた。面白いと思うものがあっても、兄弟とも近所の男の子たちとも共有できなかった。
兄たちは好きだ。でも、兄も両親も「会社で働く」ということが分からない。だから「最近どうしてるの」といわれて、返事をしてもまったく会話にならない。
好きだけれど、会話が成り立たないんだ。だから帰りたくないんだ。
なんで高学歴は"運"に恵まれてるの?
姉と兄は、自分と3歳差ぐらい、妹は5歳年下。
で、妹が大学を卒業した。キリもいいので、ここらへんで何故このような状況になったか振り返ってみたい。
まず、僕達の親は、どちらも大卒であり、子どもに対する教育も当然のことながら熱心であった。
姉と兄と妹は大学進学を選択し、僕は就職(とはいっても僕は浪人してからだから既卒就職)の道を選んだ。
そして一人暮らしのために、最初に家から出て行った。姉の顔は、希望に満ちていた
兄も、国立。とても優秀だった。確か、工業系の学部だった気がします。
昔からおもちゃを分解して壊すのが好きなひとだった。だから当然とも言える。
姉と同じように、巣立っていった。笑顔だった。
99%の人は大学に行く、15名ほどが東大に行く、そんな高校。
一度目は落ちてしまった。国立の経営学部だった。経済的な問題で、私立には行く気がなかった。
すると両親は浪人を勧めた。僕も当時はそのとおりだと思った。浪人した。
1浪で、どっかの国公立でも、と思っていた。成績は悪くなかった。
それでも、何故か落ちてしまった。高望みしたわけでもなかった。けど落ちた。
両親は、私立を勧めた。僕は嫌がった。
「大卒者ですら厳しいのに、何で就職なんだ。もう一回浪人しろ」
とは言われても、当時の自分には辛くて仕方なかった。
確かに、そこそこ進学校だし、「大学いけ」というのは間違っていなかったと思う。
上京して、せっせと働いた。スーパー、コンビニ、パチンコ、衛生設備など色んな所で働いた。
プライドなんてかなぐり捨てて働いた。(※それでも飲食店のバイトはしなかった)
22ぐらいの時に、「経理」というモノに興味を持った。
もちろん、税理士とか公認会計士とかも興味はあったけど無理だと思ったのでやめた。
「経理事務」の正社員は意外と早く見つかった。実務なんて全くなかったのに、運が良かったと今でも思う。
このとき22、3ぐらいだった。
同じ時期、上2人の方は卒業していた。正確には、姉の方は1年留年して、卒業した。
兄の方はもうとっくの昔に内定が決まっていた。しかし姉は少し就職に困っている様子だった。
4年の半ばが来ても就職できてなくて、よく知らんがこれはまずいらしい。
姉は、大学でもう1年職探し。
僕は、相も変わらず「経理事務」の仕事を続けていた。性に合っていた。
姉は、1年我慢しても希望の職に就けなかったらしい。いったん、実家に帰った。
両親は愕然としていた。それでも、励ました。そして、大学院に進むことを決めた。
受動的なコトが嫌いなのは、よく知っていた。兄は、今にも仕事を辞めそうに見えた。
僕は、働きながら転職を考えていた。「企画」の仕事につきたいと考えたからだ。
もちろん「経理事務」も性にあっていたが、チャレンジがしたくなったのと面白そうだと思ったのが理由だ。
多くの面接で落とされ…なんてこともなく、これまたすんなりと転職できた。しかもそこそこ大手。平社員だけど。
妹は、家族の不穏な空気を感じつつも、地元の大学に通い出した。
この辺で、僕は25ぐらいになっていた。
姉は、院に進んでもまた就職に困っていた。
結局、中小企業の正社員になった。(※僕はそれでも十分だと思うんだけれども)
兄は、会社にしがみついているようだった。僕の推測なので、はっきりそうとは断言できないけれど。
それでも、給料はいいし賞与も沢山出るし、兄は満足していたかもしれない。
僕は、「企画」の仕事を楽しんでいた。
とはいっても、営業のようなこともしなくちゃいけないし、大変な部分、嫌な部分もあった。
けど、「経理」の経験も活かせて楽しくできていた。
妹は、3人分を見てきているので、就職に余念がない様子だった。大学3年だった。
現在、僕は27になった。
今は楽しそうだ。
僕は、今も「企画」の仕事を続けている。
「課長」とかではないけど、少し平社員からランクアップした。給料も上がった。
多分兄弟の中で一番堅実だ。
というのも、大学行かずに就職した自分の事件が価値観を変えたそうで。
良かったのか悪かったのか、よく分かりませんが。
http://anond.hatelabo.jp/20130809115823
http://d.hatena.ne.jp/potato_gnocchi/20130809/p1
上記のエントリなど、最近学歴の高低や階層に関して語る人が多い。
旬が過ぎないうちに、俺も自分と姉のことを書きたい。
当時は県全体が公立王国と称され、出来のよい者は上位公立高から旧帝大や早慶に進学することができた。
上澄みのそのまた上澄みは中学から近県の一貫校へ進み、難関医学部などを狙っていた。
我が家があったのは高度成長に合わせてベッドタウン化が進み、会社員家庭が多い地域。
お坊ちゃんお嬢ちゃんとはいかないまでも、比較的余裕のある生活をしていた家が多かった。
公立小・中と進学したが、学級崩壊とは無縁だったし、非行やいじめもごく稀だった。
二つ三つ隣の町には不良が多いらしい、なんて話が聞こえてくる程度だった。
そういった土地にあって、うちはちょっとだけ目立つ家だった。父は地元旧帝の大学教員、母は専業主婦だった。
一族には一流企業役員や上級公務員が多く、研究者、医師や弁護士などの専門職も散見される。
子どもながらに自分たちは上の下か、まあ中の上くらいには居るのだろう、との自覚があった。
俺も特に苦労なく、公立トップ高から父の働く旧帝大へ入学した。従兄弟たちもそれぞれに優秀だった。
そんな中、姉一人だけが違っていた。学年の中でも土地柄からは珍しいDQN連中と付き合い、勉強の出来も悪かった。
高校あたりから素行の悪さがさらに目立ち、髪を染め、彼氏を頻繁に取り替えては深夜に帰宅する日が続いた。
隣室からは、姉と父が怒鳴りあう声がしょっちゅう聞こえたものだった。
両親いわく、姉弟で育て方を変えた覚えはないと。
付き合う友人が悪かったのか、本人のもてる性か、姉はとにかくそのように育った。
それでも親の強い勧めもあり、一族の水準からはずっと落ちるレベルだが、
唯一の得意科目を生かした一芸入試で姉は地元の私大に滑り込んだ。
大学の間も姉の奔放な生活は続いた。この時期両親は、なんとかあいつが
就職して大卒の男でも捕まえてくれれば、という話を頻繁にしていた。
そんな3年目、姉の妊娠が発覚した。当時付き合って間もない、左官工の子だ。姉は産みたいと言ったそうだ。
なんのために大学にやったのか、なんてバカな子だ、あのような家と親戚付き合いなどできるものか、
と母がさめざめと泣いていた姿が忘れられない。この頃になると父も叱ることをやめ、
終始むすっとした顔で黙って過ごすことが多く、家の空気は物心ついてから最悪だった。
この出来事以降、俺は全てのデキ婚が許せない。
物事の順番を無視し、家族の気持ちを踏みにじる最低の行為だ。スラムの文化だ。
下層を象徴する行為を我が家で目の当たりにし、俺は恥と怒りを覚えるほかなかった。
話が少々逸れた。結局姉は式も挙げないまま、追い出されるように家を出て行った。
これで子どももろとも下層行きか、気の毒に、愚かな女だ、と思った。それきり姉とは連絡を取らなくなった。
数年後俺は大学院を卒業して、ある大企業の研究部門の職を得た。
ある日久しぶりに帰省してみると、実家には母の姿がなく、父が言うには「姉の家へ手伝いに行ってる」と。
勘当したんじゃなかったのか、と驚いて父に尋ねると、どうやら母が孫の姿を見て思い直したようで、
頻繁に姉のところを訪ねては買い物や料理の仕方から家事全般、保険選びから習い事、小学校区選びの
助言までしているらしい。口を出す代わりに援助もしているよ、あそこは安月給だからね、と父は言った。
姉の子はというと、お利口に育っているとのことだった。
俺も結婚し、実家で姉とお互いの子を見る機会が一度あったが、ごく普通の子だった。
甥っ子を見て、よかったな、お前は助かったのかもしれないよ、と思った。
うちは子(姉)の教育には失敗したが、孫の世代では間に合ったということか。
基本的には高階層・低階層の世界は違っており、固定化しがちだとの論もある。
だが上の階層に生まれたものが、すんなり育って階層を維持するのではない。姉のように下へ落ちようとするものもいる。
そうした場合でも、うちのように階層を戻す力が働きうる、という事例を知って欲しい。
お盆シーズンなので年老いていく親にからめてちょいと書かせてもらう。
自分のスペックは独身20代後半、年収は350万(手取り230万)程度、地方の田舎住み。
非正規雇用をへて、社員登用から正社員になったのが2年前といった状況である。
中小企業ではないが、中途採用、さらには大卒ではないので将来的な大きな年収増は見込めない。
祖母は90代前半、足腰弱って外を出歩くことはないが認知症もない。週に1度デイサービスを利用している。
今現在問題があるというわけではないが10年後、20年後にはやってくる問題だ。
生まれたときから祖母と同居しているのもあり、年寄りとの付き合い方というのにまったく慣れがないわけではないが
それは祖母がつきっきりの介護を必要としなかった幸運でしかない。
祖母は耳が遠いので、同じことを4回ほど大声で言って話が通じるか通じないかという程度の苦労はある。
なぜ、まだ訪れていない問題に焦燥感をもっているのかというと学生時代に研究で老人の福祉関係を少し齧っていたからである。
特に老老介護や認知症の自分の親を介護しなければならないという状況に陥った場合は結構厳しい。
育ててもらった恩やニートのときに親に世話になったので無下にはしたくはない。
結婚の予定はない(する気もない)が、嫁を当てにするやり方も不誠実だと思うし。(父は祖母の世話を母に任せて自分はノータッチな人だったので猶更。)
別居すればいいじゃないかと思う人もいるだろうが、経済状況から実家暮らしをしてる。
そんな自分が至った結論は介護の外注化。将来は介護サービスを利用して乗り切ろうってことだ。
介護には想像以上に金がかかる。ここ3年ほど毎年100万ずつ貯め、現在貯金が300万ほど。
普通なら結婚資金辺りになるんだろうけどこれは介護資金。介護したくないもの。